DQ3 夜明けの果てに君と
ナイルの悪魔が崩れ落ちてから、しばらくの間、誰も動くことができなかった。
広間には、先ほどまで響いていた激しい雷鳴の余韻が残っている。
壁や床には黒く焦げた跡がいくつも刻まれ、石造りの柱には細かな亀裂が走っていた。天井から落ちた砂埃が、松明の明かりを受けながら、ゆっくりと空気の中を漂っている。
焦げた石の匂いと、焼けつくような熱気。
つい先ほどまで、ここでは凄まじい戦いが繰り広げられていた。
広間の隅には、砕けた石片が散らばっている。床に刻まれた焦げ跡は、まるで何本もの稲妻が走り抜けたかのように、複雑な形を描いていた。
その中心に、ナイルの悪魔が倒れている。
もう、動かない。
アレルは剣を手にしたまま、倒れたナイルの悪魔を見つめていた。
ようやく、終わった。
そう思っても、すぐには実感が湧かなかった。
握っていた剣の柄から、少しずつ力が抜けていく。肩で息をしながら、アレルはゆっくりと周囲を見渡した。
全身に残る疲労と、まだ身体の奥に残っている魔力の余韻。先ほどまで張り詰めていた神経が、戦いの終わりとともに少しずつ緩んでいく。
それでも、まだ気を抜くことはできなかった。
カエデたちの姿がない。
彼女たちが無事なのか。それを確かめるまでは、本当の意味で安心することなどできなかった。
「……すごいもんを見たな」
先に沈黙を破ったのは、シオンだった。
彼は短剣を手にしたまま、アレルの横顔を見ている。
普段のアレルなら、どれほど危険な状況でも冷静さを失わない。仲間が慌てているときでさえ、落ち着いて周囲を見渡し、的確に判断を下す。
だが、先ほどの彼は違った。
目の前の敵を倒すことだけに集中し、これまで見たことのないほど強い感情を露わにしていた。
カエデたちを助けるためなら、どんなことをしてでもナイルの悪魔を倒す。
そんな強い意志が、彼の表情から伝わってきた。
シオンは、あのときのアレルの姿がまだ頭から離れなかった。
雷が広間を覆い尽くした瞬間。強烈な光の中で、アレルが一歩も退かずに敵を見据えていた姿。
あれは単なる怒りや焦りだけではなかった。仲間を失いたくないという思いが、彼の中で強い力になっていたように見えた。
一方、ライザは少し離れた場所で腕を組み、静かに二人を見守っていた。
大剣を肩に担いだまま、広間の壁や床に残る焦げ跡を眺めている。その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
彼もまた、先ほどの戦いを思い返していた。
あの状況で、あれほどの力を引き出したアレル。そして、その力を最後まで敵に向け続けた姿。
驚きはあった。だが、それ以上に、仲間を救おうとするアレルの意志が強く印象に残っていた。
やがて三人は、広間の中央へと集まった。
「二人ともありがとう……」
アレルが、シオンとライザを見て言った。
まだ呼吸は完全には整っていない。額には汗が浮かび、頬には砂埃が付着している。剣を握る手にも、戦いの余韻が残っていた。
アレルは二人の顔を順番に見た。
自分だけの力では、あの魔物を倒せなかった。二人が最後まで戦いを支えてくれたからこそ、あの一撃を放つ機会を得られたのだ。
「俺一人では、あいつを倒せなかった」
「……ああ」
シオンは短く返事をすると、アレルの肩を軽く叩いた。
普段なら、こんなことをわざわざする男ではない。
それでも今は、言葉を重ねる必要はなかった。
シオンの手はすぐに離れたが、その仕草には、戦いを共にした仲間としての確かな労いが込められていた。
ライザも腕を組んだまま、静かに頷く。
アレルは二人の様子を見て、ほんの少し表情を和らげた。
それから、自分の手のひらへ視線を落とす。
先ほどまで、全身から溢れるような力が流れ込んでいた。
指先から腕へ、そして身体の奥へ。今まで経験したことのないほど強い力が、一気に満ちていくような感覚だった。
その余韻は、今もまだ手のひらに残っている。
あの瞬間、確かに自分の中にあった力。それがどうして引き出されたのか、まだ完全には分からない。
「これがライデイン……」
「ライデイン?」
シオンが聞き返した。
「ああ。さっき放った雷の呪文だ」
「……あの雷は呪文だったのか」
シオンは、広間の床に残る焦げ跡を見渡した。
黒く焼けた石床には、雷が通った跡がいくつも残っている。あれほどの雷を、一人の人間が呪文で生み出したというのか。
その光景を思い返すだけでも、身体の奥に緊張が戻ってくるようだった。
「そうだ。俺にも、あんな力が使えるとは思わなかった」
アレルは自分の手を見つめたまま答えた。
「今までとはまるで違う感覚だった。あのときは、どうしてもみんなを助けなければと思って……」
そこまで言って、アレルは一度言葉を切った。
自分でも、あの瞬間に何が起きたのか、すべてを理解できているわけではない。
ただ、いくつもの条件が重なったことで、普段よりもはるかに強い力を引き出すことができたのだろう。
「まるで、体の奥に眠っていた力を一気に引き出したようだったな」
ライザが口を開いた。
「俺は魔法使いじゃないが、フレミアと旅をしているからな。魔力の変化くらいは分かる。あの瞬間のお前からは、今まで感じたことのないほどの力が放たれていた」
「そうか……」
「ただし、あれほどの力を何度も使えるとは思わない方がいい。相当な負担がかかっているはずだ」
ライザの言葉に、アレルは小さく頷いた。
「分かっている。あれは、最後の手段にしておくよ」
「そうしてくれ」
シオンは腕を組み、改めて先ほどの光景を思い返す。
「俺はてっきり、あのバケモノに神様の天罰が下ったのかと思ったぜ」
「そんな大げさなものじゃない」
アレルが苦笑する。
「いや、あれは十分に大げさだったと思うがな」
シオンはそう言うと、いったんアレルから視線を外した。
そして、何かを思いついたように再び振り返る。
「これからアレルを怒らせると、ライデインが降ってくるんだな」
「お前な……」
アレルが呆れたように眉を寄せる。
「こわいこわい」
シオンはわざとらしく両手を上げた。
その様子に、ライザがとうとう声を上げて笑った。
アレルもつられるように笑う。
張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
いつもの三人らしい雰囲気が戻ってきたようだった。
それでも、アレルの表情にはまだわずかな緊張が残っている。
笑い合っていても、彼の意識はどこか別の場所へ向いていた。
カエデたちを探さなければならない。
その思いが、頭から離れなかった。
ふと、アレルはナイルの悪魔が倒れていた場所へ目を向けた。
そこには、ひとつの鍵が落ちている。
「……あれは」
近づいて拾い上げると、手のひらにずっしりとした重みが伝わった。
金属の表面には細かな装飾が施され、古びてはいるものの、まだ十分に使えそうだった。
松明の光を受け、鍵の表面に刻まれた模様が鈍く輝く。
「魔法の鍵だ」
アレルは鍵を握りしめた。
これがあれば、ピラミッドの中にある扉も開けられるかもしれない。
だが、今はそれよりも優先すべきことがあった。
「カエデたちを探そう」
「ああ。そろそろ合流しないとな」
シオンが頷く。
「よし。先へ進もう」
ライザも剣を持ち直した。
三人は広間を出て、通路へと向かった。
*
広間を出た瞬間、アレルたちは足を止めた。
「……あれ?」
シオンが周囲を見回す。
先ほどまで薄暗かった通路に、明かりが灯っていた。
壁際に並ぶ松明が、奥まで続く道を照らしている。炎は風もないのに小さく揺れ、石壁に刻まれた古代の模様を橙色に浮かび上がらせていた。
床に積もっていた砂も、松明の光を受けて淡く輝いている。
まるで、長い間眠っていた場所が目を覚ましたかのようだった。
先ほどまで通路を覆っていた重苦しい気配も、少しずつ薄れているように感じられる。
「どういうことだ……?」
シオンが眉を寄せる。
そのとき、通路の奥から淡い光が漂ってきた。
三人は思わず足を止める。
光はゆっくりと近づき、やがて人の姿を形作った。
そこに現れたのは、気品ある衣装を身にまとった女性だった。
身体は半透明で、足元は淡い光に包まれている。
「あ……」
アレルは、その姿を見て目を見開いた。
「以前の……」
シオンも思い出したように女性を見つめる。
かつて、このピラミッドで出会った初代イシスの女王だった。
以前に会ったときと変わらない、穏やかで気品のある佇まい。けれど、その身体は以前よりもいっそう淡く、今にも光の中へ溶けてしまいそうだった。
女王は三人の姿を認めると、穏やかに微笑んだ。
「またお会いしましたね」
その声は、長い年月を越えて届いてくるような、不思議な響きを帯びていた。
「あなた方が、あの者を倒してくださったのですね」
女王はゆっくりと広間の方へ目を向けた。
「このピラミッドに囚われていた魂たちも、ようやく解放されました。長きにわたる苦しみから、ようやく……」
彼女の表情には、深い安堵が浮かんでいた。
長い間、この場所に縛られていた魂たち。自分と同じように、自由を奪われ、安らかな眠りにつくことさえ許されなかった者たち。
その苦しみが、ようやく終わったのだ。
「これで私たちは安らかに眠り続けられます。ありがとう……」
女王は三人に向かって、静かに頭を下げた。
アレルたちも、自然と姿勢を正す。
「いえ。俺たちは、できることをしただけです」
アレルが答える。
女王は優しく目を細めた。
その身体は、次第に淡い光を帯び始めていた。
「どうか、この先もお気をつけて……」
最後にそう告げると、彼女の姿は小さな光の粒となり、松明の明かりに溶け込むように消えていった。
三人は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
光の粒が消えたあとも、女王が立っていた場所には、かすかな温もりが残っているようだった。
「……ようやく、安らかに眠れるんだな」
シオンが小さく呟く。
「ああ」
アレルは頷いた。
先ほどまで感じていた不気味な気配は、もうない。
長い間、このピラミッドを覆っていた何かが、ようやく取り払われたのだろう。
そのときだった。
「……っ!」
アレルが突然、右手を握りしめた。
指先に、鋭い痺れが走る。
手のひらから手首にかけて、細かな針で刺されているような感覚が広がっていった。
「アレル?」
シオンが振り返る。
「どうした?」
「いや……手が」
アレルは左手で右手首を押さえた。
試しに指を動かそうとするが、思うように力が入らない。
剣の柄を握ろうとしても、指先がうまく動かなかった。
「さっきのライデインの反動か?」
ライザが尋ねる。
「……おそらくな。これほど痺れるとは思わなかった」
「剣は持てるか?」
シオンが確認する。
アレルはもう一度、柄を握ろうとした。
しかし、指先に力が入らず、剣をしっかりと握ることができない。
「今は無理だ」
「だったら、俺たちが前を歩く」
シオンは迷わず答えた。
「そうだな。ここからは俺たちに任せておけ」
ライザもアレルの隣に立つ。
「すまない」
「気にするな。さっきはお前が俺たちを助けたんだ。今度は俺たちの番だろ」
シオンはそう言って、先へ進み始めた。
ライザもその隣につく。
アレルは二人の後ろを歩きながら、痺れの残る手をそっと握った。
指先を動かすたびに、鈍い痺れが手首から腕へと広がる。剣を握れないことに、わずかな不安もあった。
先ほどのライデインは、確かに強大な力だった。
けれど、その代償も小さくはない。
今後、同じような力を使うことがあれば、十分に注意しなければならないだろう。
三人は慎重に通路を進んでいった。
松明の炎が壁に映る三人の影を揺らしている。
先ほどまで聞こえていた魔物のうなり声も、爪が石床を引っかく音も、もう聞こえない。
どこまでも続く通路には、三人の足音だけが静かに響いていた。
途中、魔物の姿は一度も見かけなかった。
気配さえ感じられない。
先ほどまであれほど不気味だったピラミッドが、今は静かな遺跡へと戻っているようだった。
*
しばらく歩いた頃だった。
通路の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。
タッ、タッ、タッ――。
こちらへ向かって、かなりの速さで近づいてくる。
「……誰かいるな」
シオンが足を止めた。
アレルとライザも、すぐに前方へ目を向ける。
足音は次第に大きくなり、やがて人の声まで聞こえてきた。
「ちょっと待ってよ、そんなに急がなくてもいいでしょう!?」
聞き覚えのある声だった。
その直後、通路の角から飛び出してきたのは、フレミアだった。
彼女は走りながら、なぜか楽しそうに笑っている。
「もう、ジゼル! 速すぎるってば!」
その後ろから、顔に包帯をぐるぐると巻いたジゼルが現れた。
「これでは前が見えない!」
包帯の隙間からわずかに覗く目を頼りに、彼女は両手を前へ伸ばしながら走っている。
さらにその後ろから、カエデが追いかけてきた。
「こんな速いミイラ男とか最強すぎる……」
息を切らしながら、カエデがぼそりと呟く。
「それを言うならミイラ女じゃない?」
フレミアが笑いながら振り返った。
「もう、どっちでもいいよ!」
カエデはそう言い返しながら、前を走る二人についていく。
やがて、三人は通路の向こうに立っている人影に気づいた。
「あれ……?」
フレミアが目を凝らす。
そして、目の前にいる三人の姿を認めた瞬間、ぱっと表情を変えた。
「え!? あんたたち何してたの!? 探したんだから!」
フレミアは足を止めた。
その後ろで、ジゼルも立ち止まる。
「それは……こっちのセリフだ」
ライザはフレミアを見つめ、呆れたように返した。
「え? 何よ、その顔」
フレミアはライザの表情を不思議そうに眺めた。
「変なの」
そう言って、彼女は顔を逸らした。
ジゼルは顔を覆っていた包帯に手をかけた。
「お前たち……!」
そして、包帯を自分でほどき始める。
「無事だったのか!」
露わになった顔には、いつもの落ち着いた表情が戻っていた。
「いや、自分で取れるのかよ」
シオンが思わず突っ込む。
「当然だ。巻いたのも自分だからな」
「……自分で巻いたのか?」
「そうだ」
シオンが困惑しながら問うと、ジゼルは何事もなかったかのように包帯をまとめた。
その様子を見て、フレミアがまた笑い出す。
「だって、カエデがずっと笑ってくれるんだもの。途中から私まで楽しくなっちゃって!」
「えっ、私のせいなの!?」
「ふふ。おかげで退屈しなかったわ」
ジゼルはわずかに口元を緩めた。
どうやら、二人を楽しませるために、わざと包帯を巻いてふざけていたらしい。
シオンは呆れたように息を吐き、ライザはそんなジゼルを見て小さく笑った。
アレルも、ようやく緊張の解けた表情を見せた。
そして、その視線がカエデへと向く。
彼女がそこにいる。
立っている。自分の足で歩き、いつものように話している。
その姿を認めた瞬間、アレルの胸の奥で、張り詰めていた何かが大きく揺れた。
「……カエデ」
カエデもアレルに気づき、顔を上げた。
「あっ、アレル――」
呼びかけようとした、そのときだった。
アレルはすでに彼女のそばまで歩み寄っていた。
彼の足取りは、先ほどまでよりも少しだけ速くなっていた。周囲の仲間たちの声も、今は遠くに聞こえる。
目の前にいるカエデの姿を、確かめるように見つめる。
髪は少し乱れ、頬には砂埃が残っている。衣服にも汚れがついていた。
けれど、顔色は悪くない。
自分の名前を呼ぼうとしてくれた声も、いつもと変わらなかった。
それでも、アレルの胸から不安が完全に消えることはなかった。
彼は、痺れの残る手をそっと伸ばす。
指先は思うように動かなかったが、カエデの頭に触れるくらいなら、なんとかできた。
ぽん、と優しく頭を撫でる。
「……!」
突然のことに、カエデは驚いて一歩後ろへ下がった。
「どっ、どうしたの?」
アレルは彼女の顔をじっと見つめた。
その目には、安堵と心配が入り混じっている。
「怪我はないか?」
「え?」
「魔物と戦ったのか? どこか痛むところは?」
その声には、心配が滲んでいた。
ただ無事を確かめたい。それだけのはずなのに、問いかける声には、抑えきれない焦りが残っていた。
カエデは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ミイラ男と鬼ごっこしてただけだよ」
「鬼ごっこ?」
「うん。追いかけられて、ずっと逃げ回ってたの」
「……そうか」
アレルはカエデの顔や腕を確かめるように見た。
目立った怪我はない。
衣服に多少の汚れはあるものの、血が滲んでいる様子もなかった。
髪には砂埃が絡み、頬にも薄く汚れがついている。それでも、彼女の表情にはいつもの明るさが戻っていた。
それを確かめて、ようやく肩の力が抜けた。
「よかった……」
アレルは小さく息を吐く。
その一言を口にするまでに、どれほど気を張っていたのか。本人でさえ、うまく説明できないほどだった。
彼女たちの姿が見えなくなったとき、頭の中が一瞬真っ白になった。
すぐ後ろを歩いていたはずだった。
声も足音も聞こえていたはずなのに、振り返ったときには誰もいなかった。
何が起きたのか分からない。どこにいるのかも分からない。
ただ、カエデがいないという事実だけが、胸の奥に重くのしかかっていた。
再び彼女を見つけられなかったら。
もし、もう二度と声を聞けなかったら。
そんな考えが頭をよぎるたび、アレルはそれを振り払うように歩き続けていた。
「俺が見失ったせいで、危険な目に遭わせてしまった。すまない」
アレルは視線を落とし、静かに謝った。
「そんなことないよ」
カエデはすぐに首を横に振った。
「アレルはいつも私を守ってくれてるよ」
その言葉に、アレルは何も返さなかった。
カエデは続ける。
「私だって、前よりは強くなったんだよ。今回はアレルと離れちゃったけど、それでもちゃんと生きてここまで来られたんだから」
そう言って、少しだけ胸を張る。
「もちろん、フレミアちゃんやジゼルさんが一緒にいてくれたからだけど……」
カエデはアレルの顔を見上げた。
彼に心配をかけたくない。自分だって、少しずつ強くなっているのだと伝えたかった。
以前なら、アレルがいなければ何もできなかったかもしれない。けれど今は違う。自分で考え、仲間と協力して、危険な場所から逃げることもできた。
それを分かってほしかった。
「だから、大丈――」
「ダメだ。」
アレルは、カエデの言葉を遮るように言った。
その声は強かった。
けれど、怒っているわけではない。
先ほどの戦いで、彼女を失うかもしれないと思った恐怖が、まだ胸の奥に残っているのだろう。
アレルの手が、カエデの頭に触れたまま止まっていた。
指先にはまだ痺れが残っている。それでも、彼はその手をすぐには離さなかった。
もう少しだけ、こうして彼女がここにいることを確かめていたかった。
カエデは、アレルの表情を見つめた。
彼がどれほど心配していたのか、今なら分かる。
普段のアレルは、危険な状況でも冷静で、感情を大きく表に出すことは少ない。
けれど今の彼は違った。
いつもの落ち着いた表情の奥に、まだ消えきらない不安が見える。
それ以上、強がる必要はなかった。
「うん……わかった」
カエデは小さく頷いた。
そして、アレルを安心させるように微笑む。
アレルも、ほんの少しだけ表情を和らげた。
言葉を交わしたあとも、二人の間には短い沈黙が残った。
けれど、それは気まずいものではなかった。
互いの無事を確かめ、ようやく同じ場所に立てた。そのことを静かに受け止めるための時間だった。
その様子を少し離れた場所から見ていたフレミアが、にやりと笑う。
「盛り上がってるところ悪いけど、まだ助けてないわよー」
その声に、カエデははっとして周囲を見回した。
いつの間にか、シオンたち四人は先へ歩き始めている。
「おい、俺たちのことは気にするな」
シオンが振り返らずに言った。
「またな」
ライザも軽く手を上げる。
ジゼルは一度だけこちらを振り返り、静かに頷いた。
「えっ、ちょっと待って!」
カエデは慌ててアレルを見る。
「行こう、アレル!」
「ああ」
二人は急いで四人の後を追い始めた。
ところが、少し歩いたところで、カエデはアレルの様子に違和感を覚えた。
いつもより歩き方がぎこちない。
腕も、あまり動かしていないように見える。
「……アレル?」
「ん?」
「どうかしたの?」
「いや、あとで説明する」
「あとで?」
「今は少し、両手が使えないだけだ」
アレルは何でもないことのように答えた。
しかし、その言い方がかえって怪しかった。
「だめ!! 今話しなさい!!」
カエデがぴしゃりと言う。
アレルは一瞬、言葉に詰まった。
「……ラリホーで眠らされたときに、寝違えて手が痺れたんだ」
「絶対違う!! なんで寝違えて腕が痺れるの!? 普通は首とか肩でしょ!」
カエデは思わず声を張り上げた。
アレルは彼女の勢いに少し目を丸くしたあと、とうとう笑ってしまった。
「……ははっ」
「笑いごとじゃないよ!」
「いや、どう説明したものかと思って」
「ちゃんと説明してよ!」
アレルは笑みを残したまま、痺れの残る手を少しだけ持ち上げた。
「実は――」
その先を話そうとしたところで、前を歩くシオンの声が聞こえた。
「おい、置いていくぞ!」
「今行く」
アレルは返事をして、カエデとともに歩みを速めた。
詳しい話は、もう少し先ですることになりそうだった。
*
一方、先を歩く四人は、少しずつ歩調を落としていた。
後ろの二人が追いつくのを待ちながら、シオンが口を開く。
「それにしても、あの魔物のせいで、ずいぶん面倒なことになっていたな」
「その、ナイルの悪魔ってやつのこと?」
フレミアが尋ねる。
「ああ。あいつが、このピラミッドを支配していた」
シオンは歩きながら、これまでに分かったことを説明し始めた。
「ナイルの悪魔は、魔王バラモスの配下だった。ピラミッドに眠る人々を利用して、魔物を生み出していたんだ」
「眠る人々を……?」
ジゼルが眉を寄せる。
「棺に入れられていた人間たちだ。眠っている間に、あいつの力で魔物へと変えられていたらしい」
フレミアの表情が曇る。
「じゃあ、ピラミッドの中にいた魔物たちは……」
「元は人間だった可能性が高い」
シオンは短く答えた。
ジゼルは、しばらく何も言わなかった。
このピラミッドには、長い間、多くの人間が調査に訪れていた。
その中には、自分の部下たちもいる。
彼らもまた、ナイルの悪魔の手にかかっていたのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に冷たいものが広がった。
部下たちは、今どこにいるのだろう。
無事なのか。それとも、すでに魔物へと変えられてしまったのか。
まだ確かなことは何も分からない。
「アッサラームとイシスで起きていた失踪事件も、あいつの仕業だ」
シオンは続けた。
「夜のうちに人々をさらい、ピラミッドの地下へ閉じ込めていた。そこで眠らせ、魔物に変えていたんだろう」
「そんな……」
フレミアは唇を結んだ。
「それじゃあ、さらわれた人たちは、まだ地下にいるの?」
「ああ。ナイルの悪魔を倒したことで、あいつらを縛っていた力も消えているはずだ」
ジゼルは足を止めた。
「一刻も早く救出せねば……!」
その表情からは、先ほどのふざけた様子はすっかり消えていた。
仲間を失ったかもしれないという不安と、まだ助けられるかもしれないという希望。その二つが、彼女の胸の中でせめぎ合っているようだった。
「一度外に出るぞ! 地下への階段はピラミッドの外にある。そこから地下へ向かう!」
ライザが頷いた。
「そういうことか。なら、急いだ方がいいな」
「私も行くわ。まだ地下に残っている人がいるんでしょう?」
フレミアも迷わず答える。
ジゼルは三人を見渡し、深く頷いた。
「ありがとう。私の部下たちも、まだ戻ってきていない。無事でいてくれればいいが……」
その声には、心配と焦りが滲んでいた。
いつも冷静なジゼルの表情にも、わずかな不安が浮かんでいる。
「きっと大丈夫だ」
ライザが静かに言う。
「今は、一人でも多くの人を助けよう」
ジゼルは短く頷いた。
少し歩いたところで、フレミアがふと疑問を口にする。
「そういえば、ピラミッドの中が急に明るくなったのはどうして?」
「俺たちがナイルの悪魔を倒したからだろう」
ライザが答えた。
「えっ?」
「俺とアレルとシオンの三人で、あいつを倒した。あの魔物がいなくなったことで、ピラミッドを覆っていた力が消えたんだと思う」
「あなたたち三人で……?」
フレミアは驚いたように目を見開いた。
「そうだ」
ライザは簡潔に答えた。
「そっか……。やるじゃない!」
フレミアは、ぱっと笑顔を見せた。
「アレルもシオンも、もちろんライザも! 無事でよかったわ」
「俺たちだけじゃない。お前たちも無事でよかった」
ライザはそう返した。
ジゼルも二人へ向き直る。
「シオン、ライザ。ありがとう。あなたたちがナイルの悪魔を倒してくれなければ、この事件は終わらなかった」
「礼を言うなら、全員で戻ってからにしてくれ」
シオンが肩をすくめた。
「まだ救出が残っているんだろ」
「……そうだな」
ジゼルは頷き、再び前を向いた。
*
やがて、通路の先に大きな出口が見えてきた。
外から差し込む光が、石床の上に細長く伸びている。
出口に近づくにつれ、砂漠の風の音が少しずつ大きくなっていった。外の空気が、石造りの通路の奥まで流れ込んでくる。
四人はその光へ向かって歩き、ついにピラミッドの外へと出た。
「……ああ」
ジゼルが、思わず空を見上げる。
そこには、朝日が昇り始めた砂漠の景色が広がっていた。
夜の間は暗闇に沈んでいた砂丘が、東の空から差し込む光を受けて、少しずつ黄金色に染まっていく。
遠くの岩山は朝靄の向こうにぼんやりと浮かび、砂丘の稜線には淡い光が差していた。夜の冷たさを残した砂の表面が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
冷たい夜風は弱まり、代わりに柔らかな朝の風が頬を撫でた。
閉ざされた石造りの通路に長くいたせいか、外の空気は驚くほど新鮮に感じられる。
フレミアは大きく息を吸い込んだ。
「はあ……! やっと外に出られた!」
彼女は両腕を広げ、朝の空気を全身で受け止める。
「一生ここで暮らすのかと思ったわ」
「世界一巨大な墓付きのマイホームか……」
シオンがぼそりと呟いた。
「そんなところに住みたくないわよ!」
フレミアがすぐに言い返す。
ライザは二人のやり取りを聞きながら、砂漠の向こうを見つめていた。
「出られたな……」
その言葉には、安堵が滲んでいた。
ジゼルも空を見上げ、しばらく朝日を眺めていた。
長い間、失踪事件に悩まされてきた。
何人もの兵士や旅人がピラミッドへ向かい、帰ってこなかった。
その原因が、ようやく明らかになったのだ。
まだ救出しなければならない人々は残っている。
それでも、ひとつの大きな脅威を取り除くことができた。
「……必ず、みんなを助け出そう」
ジゼルは静かに呟いた。
「ああ」
ライザが頷く。
「当然だろ」
シオンも短く答えた。
そのとき、後方から足音が聞こえてきた。
「みんな!」
カエデの声だった。
振り返ると、アレルとカエデがピラミッドの出口から姿を現した。
「お待たせ!」
カエデは少し息を切らしながら、仲間たちのもとへ駆け寄ってくる。
頬にはまだ砂埃が残り、髪も少し乱れていた。それでも、朝日を浴びた顔には、無事に仲間と合流できた安堵が浮かんでいる。
「無事に出られたんだね!」
「当たり前だろ」
シオンが答える。
「それはこっちの台詞よ。ずいぶん遅かったじゃない」
フレミアが笑う。
「ごめんね。ちょっと話してたの」
カエデはそう言って、アレルの隣に並んだ。
アレルも仲間たちを見渡す。
シオン、ライザ、フレミア、ジゼル。
誰一人欠けていない。
その姿を確かめると、アレルは静かに息を吐いた。
自分たちだけでなく、彼らも無事だった。
それぞれ別の場所で戦い、危険を乗り越えて、こうして再び同じ場所に立っている。
「みんな、無事でよかった」
「それはこちらの台詞だ」
ライザが笑う。
「まったく。心配させないでよね」
フレミアは背伸びをし、ライザの肩に手を置く。
ジゼルは六人を順番に見渡し、最後にピラミッドへ視線を向けた。
「ここからは、地下に閉じ込められている人々の救出に向かう。その後に城へ戻り、兵士たちと合流しよう」
「分かった」
アレルが答える。
「地下への階段は、このピラミッドの外にあるんだね?」
カエデが確認する。
「ああ。建物の外側に地下へ続く入口がある。そこから中へ降りられる」
ジゼルが答えた。
「なら、すぐに向かおう。まだ助けを待っている人たちがいる」
ライザの言葉に、全員が頷く。
朝日が、六人の姿を明るく照らしていた。
長い夜を越え、ようやく全員が地上へ戻ってきた。
砂漠の空には、夜の名残を残した月がまだ薄く浮かんでいる。けれど東の空はすでに明るく、砂丘の向こうから昇る太陽が、広大な大地を少しずつ照らし始めていた。
まだ、すべてが終わったわけではない。
地下には助けを待つ人々がいる。
けれど、今度は六人で力を合わせて救い出すことができる。
それぞれが違う場所で戦い、違う危機を乗り越えてきた。
それでも、こうして再び同じ場所に立っている。
「行こう。みんなを助けに」
アレルの言葉に、五人が頷いた。
六人はピラミッドの外壁に沿って、地下へ続く階段の入口を目指して歩き始めた。
朝の砂を踏む足音が、静かな砂漠に重なっていく。
ピラミッドに閉ざされていた長い夜は、ようやく明けようとしていた。
