DQ3 夜明けの果てに君と
ピラミッドの内部は、静寂に包まれていた。
壁に設置された松明の炎が、石造りの通路をぼんやりと照らしている。長い年月を経た壁には無数の傷が刻まれ、床には細かな砂が薄く積もっていた。
その奥へと続く通路を、男性陣は慎重に進んでいた。
「……ここにも人の気配はないな」
シオンが周囲を見回す。
「いや、待て」
ライザが足を止めた。
通路の先には、広い部屋へと続く石の扉があった。扉の表面には、古代の文字や奇妙な模様が刻まれている。
アレルが扉に手をかけると、重い音を立てながらゆっくりと開いた。
その向こうには、天井の高い広間が広がっていた。
壁際には古びた石棺がいくつも並び、中央には祭壇のような台座が置かれている。長い年月、誰にも触れられていないような場所だった。
「ここは……」
アレルが一歩踏み出した、そのときだった。
広間の奥に、淡い光が浮かび上がった。
「誰だ!」
ライザが大剣を構える。
しかし、その光は魔物のものとは違っていた。
青白い光がゆっくりと形を成していく。
やがて、そこに一人の女性の姿が現れた。
透き通るような身体。淡い衣装をまとい、長い年月を越えてなお穏やかな面影を残した女性だった。
その姿は、まるで月明かりが人の形を取ったかのように、ぼんやりと揺らめいている。
「……幽霊か?」
シオンが短剣に手をかけたまま呟く。
女性は三人を見つめ、静かに口を開いた。
「恐れることはありません。私は、この地に眠る者たちを見守ってきた者……かつて、イシスを治めていた最初の女王です」
「イシスの初代女王……?」
アレルが目を見開く。
女王の霊は、ゆっくりと頷いた。
「このピラミッドは、今やナイルのあくまという魔物に支配されています。あの者は、魔王バラモスの命を受け、この場所に眠る魔法の鍵を守っているのです」
「魔王の手下だと?」
ライザの表情が険しくなる。
「はい。あの者は、ここに葬られた者たちを魔物へと変え、その身体を意のままに操っています」
女王の声は、どこか遠い時代から届いているようだった。
「ミイラ男やくさった死体……。それらは、かつてこの国で生きていた人々なのです」
「……!」
アレルは思わず息を呑んだ。
これまでに戦ってきた魔物たち。
その一体一体が、かつては誰かの家族であり、誰かと同じ時を過ごした人間だったのだ。
「そして、あの魔物はアッサラームやイシスの人々をさらい、このピラミッドの地下へ連れ去っています。捕らえられた人々は、地下に閉じ込められているのです」
「人間をさらって、何をするつもりだ?」
シオンが低い声で尋ねる。
「儀式を行おうとしているようですが、その目的までは分かりません。私は、この場所に縛られた存在。自由に動くことも、すべてを知ることもできないのです」
「文字通り悪魔の所業じゃねぇか……」
シオンが吐き捨てるように言った。
ライザも、手にした大剣の柄を強く握る。
「俺たちが倒していたミイラ男やくさった死体は、人間だったのか……」
先ほどまで戦っていた魔物たちの姿が、脳裏に浮かぶ。
ただの魔物として剣を向けていた相手が、かつては人間だった。
その事実は、三人の胸に重くのしかかった。
アレルは拳を握りしめた。
捕らわれている人々。
そして、別の場所にいるカエデたち。
今もどこかで、仲間たちが危険にさらされているかもしれない。
「俺は……俺たちはナイルのあくまを倒す。だから、この迷宮を突破する方法を知っていたら教えてくれ……!」
いつもの落ち着いた声とは違っていた。
焦りと悔しさを押し殺した、切実な響き。
女王の霊は、そんなアレルを静かに見つめた。
「迷宮の奥へ進むには、四つの印を正しい順に押さなければなりません」
「四つの印?」
「既に訪れているようですね。三階の、四つの印が刻まれた場所。そこにある仕掛けを解けば、奥へ続く扉が開くでしょう」
女王はゆっくりと両手を胸の前で重ねた。
そして、遠い昔に伝えられた言葉を、静かに告げる。
「東の西から……西の東へ……。西の西から……東の東へ……。その順に、四つの印を押しなさい」
三人は互いに顔を見合わせた。
「……どういう意味だ?」
シオンが首を傾げる。
「方角に関係する仕掛けのようだな」
ライザが考え込む。
「ありがとうございます。必ず先へ進んでみせます」
アレルは女王へ頭を下げた。
女王の霊は、穏やかな表情のまま頷いた。
「どうか、この地に再び平穏を……。そして、捕らわれた者たちを救ってください」
その言葉を最後に、青白い光が少しずつ薄れていく。
やがて女性の姿は消え、広間には再び静寂が戻った。
*
三人は女王の言葉を頼りに、さらに奥へと進んだ。
やがて階段を上り、三階へたどり着く。
そこは、これまでの通路とは違って広々としていた。四方の壁には古い装飾が施され、中央には四つのボタンが並んでいる。
床には方角を示すような模様が刻まれていた。
「ここが女王の言っていた場所か」
ライザが周囲を見渡す。
「四つの印……。東の西、西の東……」
シオンはボタンを見つめながら、腕を組んだ。
「まず、東と西をどう考えるかだな」
「三階へ上がったときの正面は、北ということでいいんだよな。」
ライザが言った。
「ということは、俺たちから見て右が東、左が西ということか」
シオンが確認する。
「ああ。間違いない」
ライザは頷いた。
アレルは四つのボタンへ視線を向ける。
「つまり、東の西というのは東側の左のボタンということか」
「そういうことだな」
ライザが答える。
「東側の左、西側の右。西側の左、東側の右……という順番か」
シオンが女王の言葉を整理する。
「よし。間違えないように押していこう」
アレルは最初のボタンへ手を伸ばした。
指先が石の表面に触れる。
カチリ。
一つ目の印が押し込まれた。
続けて二つ目、三つ目、そして最後の四つ目。
最後のボタンが沈み込んだ瞬間、広間の奥から重い音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
壁の一部がゆっくりと動き始める。
長い間閉ざされていた石の扉が、砂埃を巻き上げながら左右へ開いていった。
「開いたぞ!」
ライザが声を上げる。
扉の向こうには、さらに奥へと続く暗い通路が伸びていた。
「行こう」
アレルは剣の柄に手を添えた。
三人は顔を見合わせ、ゆっくりと扉の向こうへ足を踏み入れた。
*
通路を抜けた先には、広い石造りの部屋があった。
天井は高く、壁には古代の文字がびっしりと刻まれている。部屋の奥には祭壇のような台座があり、その周囲には奇妙な装飾が施されていた。
そして、その中央に一体の魔物が立っていた。
濃い青色の身体。
手には黄金色の短剣を握り、もう一方の手には赤紫色の鞭が垂れ下がっている。
その姿からは、ただの魔物とは違う禍々しい気配が漂っていた。
三人が足を踏み入れた音に気づき、魔物がゆっくりと振り返る。
「ほう……。ここまでたどり着く者がいるとはな」
低く、不気味な声が部屋に響いた。
「お前がナイルのあくまか」
アレルが剣を構える。
「いかにも。わしがこのピラミッドを支配する者よ」
ナイルのあくまは、手にした鞭をゆっくりと持ち上げた。
「それで、何の用だ? ここまで来たからには、宝でも探しに来たのか?」
「黙れ。街の人々とカエデたちをどこへやった……!」
アレルの声が鋭く響く。
ナイルのあくまは、口元を歪めた。
「誘拐した人間どもなら、地下に閉じ込めておる。儀式のためにな」
「儀式だと……?」
シオンの目が険しくなる。
「そして、貴様らの仲間はこのピラミッドの深淵に閉じ込めた。あそこから生きて戻ることなどできぬ。一生、闇の中で彷徨うがよい!」
「何だと……!」
ライザが大剣を握り直す。
アレルは一歩前へ出た。
「……必ず助け出す。そして、お前を倒す」
その言葉を聞いたナイルのあくまが、愉快そうに笑った。
「できるものなら、やってみるがいい!」
その声と同時に、魔物の背後の闇が揺れた。
床に落ちていた影が、ゆっくりと形を変えていく。
そこから現れたのは、二体の奇妙な魔物だった。
細長く、蛇のようにうねる身体。その中心には、ぎょろりと大きな目玉が一つ浮かんでいる。いくつもの細い身体が絡み合うように動き、眼球だけが三人を見据えていた。
その異質な不気味さに、アレルが息を呑む。
ナイルのあくまは、二体の魔物を従えるように立っていた。
「この目玉に見覚えはないか?」
魔物は、マミーズアイの一体を鞭で指し示す。
「それは、かつて人間だった者たちの目よ。わしの力で、こうして生まれ変わったのだ」
「……何だと?」
ライザの表情が強張る。
「人間の目を使って、こんな魔物を作ったというのか……!」
「そうだ。美しいものではないか。人間など、わしの手にかかればいくらでも使い道がある」
ナイルのあくまが笑う。
その言葉に、アレルの剣を握る手に力がこもった。
「……許せない」
マミーズアイが、蛇のように身体をくねらせながら襲いかかってくる。
「来るぞ!」
シオンが短剣を構えた。
一体がシオンへ向かって飛びかかる。
シオンは身をひねって攻撃をかわし、短剣を振り抜いた。刃が細長い身体を捉え、魔物が大きくよろめく。
「今だ、ライザ!」
「任せろ!」
ライザは両手剣を振り上げ、体勢を崩したマミーズアイへと踏み込んだ。
重い刃が、魔物の身体を叩き切る。
大きな目玉が一度だけ不気味に揺れ、やがてその身体は床へ崩れ落ちた。
「……すまない」
ライザは短く呟き、剣を構え直す。
その言葉には、かつて人間だった者を倒したことへの悔いが滲んでいた。
もう一体のマミーズアイが、アレルへ向かって襲いかかる。
細長い身体が空中で大きくうねり、巨大な目がアレルを捉えた。
「はあっ!」
アレルは地面を蹴り、身体を宙へ躍らせた。
すれ違いざまに剣を振り抜く。
刃がマミーズアイの身体を深く切り裂き、魔物は床へ叩きつけられた。
アレルは着地すると、倒れた魔物を一瞬だけ見つめた。
その目に浮かんでいたのは、勝利の喜びではなかった。
そして、ゆっくりとナイルのあくまへ視線を戻す。
鋭い眼差しが、魔物を射抜いた。
「お前たちは、今までの兵士や旅人とは違うな」
ナイルのあくまは、初めて少しだけ警戒するような表情を見せた。
「だが、それもここまでだ。わし自ら相手をしてやろう」
赤紫色の鞭が、空気を裂くようにしなった。
「わしは魔王バラモス様に仕える者。このピラミッドを守るために遣わされたのだ。貴様らのような人間に、わしを倒せると思うな!」
アレルは剣を構え直した。
「なら、ここで倒すだけだ」
ナイルのあくまが鞭を振り上げる。
こうして、三人とナイルのあくまの戦いが始まった。
*
最初に動いたのは、ナイルのあくまだった。
赤紫色の鞭が、唸りを上げて三人へと襲いかかる。
「くっ!」
アレルは剣で受け止めた。
しかし、鞭は一度弾かれたかと思うと、まるで生き物のように軌道を変え、再びアレルの身体へ迫ってくる。
アレルは身をひねってかわした。
その横を、シオンが低い姿勢で駆け抜ける。
「今だ!」
短剣を構え、ナイルのあくまへ接近する。
だが、魔物は振り返ることもなく、もう一方の手を掲げた。
「バギ!」
次の瞬間、鋭い風が巻き起こった。
「うわっ!」
シオンの身体が横へ弾き飛ばされる。
「シオン!」
ライザが駆け寄ろうとするが、その足元にも鞭が走った。
大剣で受け止めると、重い衝撃が腕に響く。
「こいつ……!」
ライザは歯を食いしばり、鞭を押し返した。
しかし、ナイルのあくまはその隙を逃さない。
再び鞭を振るう。
今度は正面からではなかった。
背後から、側面から、まるで何本もの鞭が同時に襲いかかってくるように、攻撃が続く。
「どこからでも攻撃してくるのか……!」
アレルは剣を振るい、鞭を弾き返す。
だが、近づこうとするたびにバギが放たれ、身体を押し戻された。
「卑怯な奴だな……!」
シオンが悔しそうに吐き捨てる。
「正面から戦う気もないのか!」
「ふははは! 何を言う。勝つために手段を選ばぬのは当然であろう!」
ナイルのあくまは、楽しむように笑った。
その鞭が再びしなり、ライザの大剣を弾き飛ばしかける。
ライザは両手で柄を握り直し、何とか踏みとどまった。
「くそっ……!」
三人は攻撃の隙を窺うが、思うように近づけない。
鞭を避ければバギが飛んでくる。バギをかわそうとすれば、別の方向から鞭が襲う。
戦うほどに、体力が削られていく。
ライザの呼吸も少しずつ荒くなっていた。
大剣を振るう腕に、疲労が蓄積している。
シオンも短剣を構えたまま、何度も息を整えていた。
アレルは剣を握り直す。
何とかしなければ。
このままでは、三人とも倒されてしまう。
カエデたちは、まだ見つかっていない。
地下には、さらわれた人々が閉じ込められている。
ここで負けるわけにはいかない。
それなのに、目の前の魔物には一撃を与えることすら難しかった。
「どうした? もう終わりか?」
ナイルのあくまが鞭を振るう。
アレルは剣で受け止めたが、衝撃に身体がよろめいた。
その瞬間、別方向から鞭が飛んでくる。
「しまっ……!」
鞭がアレルの身体に巻きついた。
「アレル!」
シオンが叫ぶ。
ナイルのあくまは口元を歪め、鞭を一気に引いた。
「ぐあっ!」
アレルの身体が宙へ浮き、壁へと叩きつけられる。
背中に強い衝撃が走った。
石壁に亀裂が入り、細かな破片が床へ落ちる。
「アレル!」
シオンはすぐに駆け寄り、倒れかけたアレルの身体を支えた。
「しっかりしろ!」
「……ああ」
アレルは何とか身体を起こす。
視界が揺れていた。
壁に打ちつけた背中が痛む。剣を握る手にも、思うように力が入らない。
少し離れた場所では、ライザが大剣を構え直していた。
しかし、その表情にも疲労が浮かんでいる。
「どうする……?」
シオンが低く尋ねた。
アレルは答えられなかった。
どうすればいい。
どうすれば、この状況を変えられる。
そんな考えが頭の中を巡る。
ふと、カエデの顔が浮かんだ。
こんなとき、カエデなら何と言うだろう。
いつも彼女は、誰も気づかなかったことに気づき、思いがけない方法で仲間を助けてきた。
どんな時も、彼女は諦めなかった。
今もどこかで、必死に生きているはずだ。
カエデなら。
カエデなら、こんな状況でも前を向くのだろうか。
そう考えた、その瞬間だった。
「いつまで仲間のことを考えているつもりだ?」
ナイルのあくまが、ゆっくりと近づいてくる。
その鞭が再び持ち上がった。
*
そのとき、ライザが動いた。
ナイルのあくまは、倒れたアレルを見下ろすように近づいている。
鞭を振り上げ、今にもとどめを刺そうとしていた。
「まだ楽しませてくれるよなあ?」
魔物が嘲る。
その瞬間、ライザは足元の砂を蹴った。
「おおおおっ!」
大剣を両手で握り、ナイルのあくまの側面へと踏み込む。
「何っ!?」
魔物が振り向くより早く、ライザの剣が横から叩きつけられた。
重い一撃が身体を捉える。
ナイルのあくまは大きくよろめき、石壁へと吹き飛ばされた。
壁に亀裂が走り、無数の石片が床へ落ちる。
さらに、天井の一部まで崩れ始めた。
石の破片が降り注ぎ、部屋の中に大量の砂埃が舞い上がる。
「ぐっ……!」
ライザは腕で顔を覆った。
視界が一気に白く染まる。
その向こうで、ナイルのあくまがゆっくりと立ち上がった。
「貴様……!」
怒りに顔を歪める魔物を見て、ライザは大剣を構え直した。
「死体にばっかり戦わせて、自分で戦う力はないのか?」
「何だと……?」
「お前は魔王軍の中でも下っ端だろう。だから、こんな真似でしか戦えないんだろう?」
その言葉が、ナイルのあくまの怒りに火をつけた。
「貴様ぁぁぁ!!」
魔物が鞭を大きく振り上げる。
「バギマ!!」
先ほどまでとは比べものにならないほど強烈な風が巻き起こった。
風は部屋全体を飲み込み、石壁を削り、天井の亀裂をさらに広げていく。
「ライザ、伏せろ!」
シオンが叫ぶ。
だが、風の勢いは凄まじかった。
大きな石片が天井から落ち、床へ叩きつけられる。
砂埃が渦を巻き、視界を完全に覆い尽くした。
石の破片が転がる音。
風が唸る音。
仲間の声。
すべてが混ざり合い、部屋の中は混乱に包まれた。
*
「……シオン!」
砂埃の中から、アレルの声が聞こえた。
「こっちだ!」
シオンが返す。
アレルは壁に手をつきながら、何とか立ち上がった。
身体のあちこちが痛む。口の中には砂の味が広がっていた。
視界はまだ悪く、少し離れた場所にいる相手の姿もはっきりとは見えない。
やがて、崩れた石の陰からライザが姿を現した。
「二人とも、無事か!」
「ああ。何とかな」
シオンが答える。
ライザは大剣を握り直した。
「少しだけ、お前にあの悪魔の相手を任せたい!」
ライザはシオンを見た。
「ずいぶん無茶振りだな……」
シオンは苦笑する。
「俺はお前たち二人を守ってみせる。だから信じてくれ」
その声には、迷いがなかった。
シオンは一瞬だけライザの顔を見つめた。
「……長くはもたないからな」
「それで十分だ」
ライザは短く答えると、アレルの腕を取り、崩れた石壁の陰へと連れていった。
そこは、ナイルのあくまから直接姿が見えにくい場所だった。
「ライザ、何をするつもりだ?」
アレルが尋ねる。
ライザはすぐには答えなかった。
アレルの前に立ち、真剣な眼差しで彼を見つめる。
「……アレル。お前に話しておきたいことがある」
「何だ?」
「勇者だけが使える、特別な呪文があるんだ」
アレルは目を見開いた。
「勇者だけが……?」
「ああ。俺も詳しいことを知っているわけじゃない。ただ、その呪文の存在を知ったばかりなんだ」
ライザは少しだけ視線を逸らした。
「すまない、会話が聞こえてしまったんだ……」
アレルは何も答えなかった。
ただ、静かにうつむく。
仲間を奪われた。
自分の力ではナイルのあくまに太刀打ちできず、ここまで追い詰められている。
勇者でありながら、仲間を守ることもできない。
自分は本当に、勇者の器なのだろうか。
そんな思いが、胸の奥に重く沈んでいた。
ライザはアレルの表情を見つめ、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「その呪文の名は……ライデインだ」
「ライデイン……」
アレルが小さく呟く。
「……俺は魔法をほとんど使ってこなかった。その呪文も今初めて知った。正直使えるかどうか分からない……」
ライザは一度息をついた。
「昔、フレミアが言っていた。魔法は経験だけじゃない。強い感情が大切なんだと」
アレルは顔を上げた。
ライザは、まっすぐに彼の目を見つめる。
「お前が何を考えているのか、俺には分からない。今日会ったばかりだからな。だが……お前があの魔物を倒し、仲間を助けたいと思っていることは分かる。俺も同じだ」
遠くから、鞭が石を叩く音が聞こえた。
シオンが必死にナイルのあくまを引きつけている。
ライザはその音に目を向けた。
「俺はシオンを助けに行く。あいつも長くは持たないだろうからな」
そう言って、ライザはアレルの肩に手を置いた。
「頼んだぞ」
そして、瓦礫の陰から飛び出していった。
アレルは一人、崩れた石壁の陰に残された。
遠くでは、シオンが鞭をかわし、ライザが再び大剣を振るう音が響いている。
ナイルのあくまの笑い声が、部屋の中に不気味に広がった。
アレルは自分の手を見つめた。
剣を握る手。
何度も戦い、何度も傷つきながら、それでも旅を続けてきた手だった。
父さんが果たせなかった使命を継ぎ、魔王バラモスを倒す。
そのために、ここまで旅を続けてきた。
こんなところで終わるわけにはいかない。
ナイルのあくまを倒す。
捕らわれた人々を助け出す。
そして、カエデを見つけ出す。
必ず。
アレルは拳を強く握りしめた。
*
「ぐああっ!」
凄まじい風が、シオンとライザを襲った。
ナイルのあくまが杖を掲げ、再びバギマを放ったのだ。
渦巻く風が二人の身体を包み込み、石床から一気に吹き飛ばす。
「シオン!」
ライザが叫ぶ。
だが、声は風にかき消された。
二人は崩れた石の破片を巻き込みながら、部屋の奥へと叩きつけられた。
「ぐっ……!」
シオンは床を転がり、手にしていた短剣を落としかける。
何とか指を動かし、短剣を握り直した。
ライザも大剣を支えにして身体を起こそうとする。
しかし、腕に力が入らない。
「……くそっ」
膝が震え、再び床へと崩れ落ちた。
二人とも、もう立ち上がることさえ難しかった。
ナイルのあくまは、ゆっくりと二人へ近づいてくる。
赤紫色の鞭が床を擦り、乾いた音を立てた。
「ほう……。先ほど殺り損ねた剣士は、仲間を置いて逃げ出したのか?」
シオンは顔を上げた。
「……ふざけるな。あいつが逃げるわけないだろ」
「ほざけ。貴様らも、もう終わりだ」
ナイルのあくまは、二人を見下ろした。
「このまま命を奪い、ミイラへと変えてやろう。そうすれば、永遠にこの迷宮から出ることはできぬ。貴様らも、わしの忠実な兵士となるのだ!」
シオンは短剣を握りしめた。
だが、身体は動かない。
ライザも大剣へ手を伸ばそうとするが、指先にわずかな力が入るだけだった。
ナイルのあくまが、二人へ手を伸ばす。
そのときだった。
「……お前がな」
ライザが、かすれた声で言った。
「何……?」
ナイルのあくまが怪訝そうに振り返る。
その瞬間。
凄まじい雷鳴が、ピラミッドの内部を揺るがした。
青白い閃光が部屋を満たし、一本の巨大な雷撃となってナイルのあくまへと突き刺さった。
魔物の身体が大きく反り返る。
全身を雷に貫かれ、赤紫色の鞭が床へ落ちた。
その短剣も手から滑り落ち、石床に乾いた音を立てる。
雷撃は一瞬で消えた。
しかし、その威力は凄まじかった。
ナイルのあくまの身体から煙が立ち上り、青い肌には無数の亀裂が走っている。
魔物はよろめきながら、何とかその場に立っていた。
「ば……馬鹿な……」
身体が崩れ始める。
腕が、肩が、胴体が。
まるで長い年月を経た石像が風化するように、ナイルのあくまの身体が少しずつ崩れ落ちていった。
最後の力を振り絞り、魔物は顔を上げる。
その目に映ったのは、雷を放ったアレルの姿だった。
「その呪文……! まさかお前が……!」
ナイルのあくまは、驚愕に目を見開く。
「バラモス様……!!」
その言葉を最後に、魔物の身体は完全に崩れ落ちた。
石床に残ったのは、黒く焼け焦げた欠片と、静かに漂う煙だけだった。
壁に設置された松明の炎が、石造りの通路をぼんやりと照らしている。長い年月を経た壁には無数の傷が刻まれ、床には細かな砂が薄く積もっていた。
その奥へと続く通路を、男性陣は慎重に進んでいた。
「……ここにも人の気配はないな」
シオンが周囲を見回す。
「いや、待て」
ライザが足を止めた。
通路の先には、広い部屋へと続く石の扉があった。扉の表面には、古代の文字や奇妙な模様が刻まれている。
アレルが扉に手をかけると、重い音を立てながらゆっくりと開いた。
その向こうには、天井の高い広間が広がっていた。
壁際には古びた石棺がいくつも並び、中央には祭壇のような台座が置かれている。長い年月、誰にも触れられていないような場所だった。
「ここは……」
アレルが一歩踏み出した、そのときだった。
広間の奥に、淡い光が浮かび上がった。
「誰だ!」
ライザが大剣を構える。
しかし、その光は魔物のものとは違っていた。
青白い光がゆっくりと形を成していく。
やがて、そこに一人の女性の姿が現れた。
透き通るような身体。淡い衣装をまとい、長い年月を越えてなお穏やかな面影を残した女性だった。
その姿は、まるで月明かりが人の形を取ったかのように、ぼんやりと揺らめいている。
「……幽霊か?」
シオンが短剣に手をかけたまま呟く。
女性は三人を見つめ、静かに口を開いた。
「恐れることはありません。私は、この地に眠る者たちを見守ってきた者……かつて、イシスを治めていた最初の女王です」
「イシスの初代女王……?」
アレルが目を見開く。
女王の霊は、ゆっくりと頷いた。
「このピラミッドは、今やナイルのあくまという魔物に支配されています。あの者は、魔王バラモスの命を受け、この場所に眠る魔法の鍵を守っているのです」
「魔王の手下だと?」
ライザの表情が険しくなる。
「はい。あの者は、ここに葬られた者たちを魔物へと変え、その身体を意のままに操っています」
女王の声は、どこか遠い時代から届いているようだった。
「ミイラ男やくさった死体……。それらは、かつてこの国で生きていた人々なのです」
「……!」
アレルは思わず息を呑んだ。
これまでに戦ってきた魔物たち。
その一体一体が、かつては誰かの家族であり、誰かと同じ時を過ごした人間だったのだ。
「そして、あの魔物はアッサラームやイシスの人々をさらい、このピラミッドの地下へ連れ去っています。捕らえられた人々は、地下に閉じ込められているのです」
「人間をさらって、何をするつもりだ?」
シオンが低い声で尋ねる。
「儀式を行おうとしているようですが、その目的までは分かりません。私は、この場所に縛られた存在。自由に動くことも、すべてを知ることもできないのです」
「文字通り悪魔の所業じゃねぇか……」
シオンが吐き捨てるように言った。
ライザも、手にした大剣の柄を強く握る。
「俺たちが倒していたミイラ男やくさった死体は、人間だったのか……」
先ほどまで戦っていた魔物たちの姿が、脳裏に浮かぶ。
ただの魔物として剣を向けていた相手が、かつては人間だった。
その事実は、三人の胸に重くのしかかった。
アレルは拳を握りしめた。
捕らわれている人々。
そして、別の場所にいるカエデたち。
今もどこかで、仲間たちが危険にさらされているかもしれない。
「俺は……俺たちはナイルのあくまを倒す。だから、この迷宮を突破する方法を知っていたら教えてくれ……!」
いつもの落ち着いた声とは違っていた。
焦りと悔しさを押し殺した、切実な響き。
女王の霊は、そんなアレルを静かに見つめた。
「迷宮の奥へ進むには、四つの印を正しい順に押さなければなりません」
「四つの印?」
「既に訪れているようですね。三階の、四つの印が刻まれた場所。そこにある仕掛けを解けば、奥へ続く扉が開くでしょう」
女王はゆっくりと両手を胸の前で重ねた。
そして、遠い昔に伝えられた言葉を、静かに告げる。
「東の西から……西の東へ……。西の西から……東の東へ……。その順に、四つの印を押しなさい」
三人は互いに顔を見合わせた。
「……どういう意味だ?」
シオンが首を傾げる。
「方角に関係する仕掛けのようだな」
ライザが考え込む。
「ありがとうございます。必ず先へ進んでみせます」
アレルは女王へ頭を下げた。
女王の霊は、穏やかな表情のまま頷いた。
「どうか、この地に再び平穏を……。そして、捕らわれた者たちを救ってください」
その言葉を最後に、青白い光が少しずつ薄れていく。
やがて女性の姿は消え、広間には再び静寂が戻った。
*
三人は女王の言葉を頼りに、さらに奥へと進んだ。
やがて階段を上り、三階へたどり着く。
そこは、これまでの通路とは違って広々としていた。四方の壁には古い装飾が施され、中央には四つのボタンが並んでいる。
床には方角を示すような模様が刻まれていた。
「ここが女王の言っていた場所か」
ライザが周囲を見渡す。
「四つの印……。東の西、西の東……」
シオンはボタンを見つめながら、腕を組んだ。
「まず、東と西をどう考えるかだな」
「三階へ上がったときの正面は、北ということでいいんだよな。」
ライザが言った。
「ということは、俺たちから見て右が東、左が西ということか」
シオンが確認する。
「ああ。間違いない」
ライザは頷いた。
アレルは四つのボタンへ視線を向ける。
「つまり、東の西というのは東側の左のボタンということか」
「そういうことだな」
ライザが答える。
「東側の左、西側の右。西側の左、東側の右……という順番か」
シオンが女王の言葉を整理する。
「よし。間違えないように押していこう」
アレルは最初のボタンへ手を伸ばした。
指先が石の表面に触れる。
カチリ。
一つ目の印が押し込まれた。
続けて二つ目、三つ目、そして最後の四つ目。
最後のボタンが沈み込んだ瞬間、広間の奥から重い音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
壁の一部がゆっくりと動き始める。
長い間閉ざされていた石の扉が、砂埃を巻き上げながら左右へ開いていった。
「開いたぞ!」
ライザが声を上げる。
扉の向こうには、さらに奥へと続く暗い通路が伸びていた。
「行こう」
アレルは剣の柄に手を添えた。
三人は顔を見合わせ、ゆっくりと扉の向こうへ足を踏み入れた。
*
通路を抜けた先には、広い石造りの部屋があった。
天井は高く、壁には古代の文字がびっしりと刻まれている。部屋の奥には祭壇のような台座があり、その周囲には奇妙な装飾が施されていた。
そして、その中央に一体の魔物が立っていた。
濃い青色の身体。
手には黄金色の短剣を握り、もう一方の手には赤紫色の鞭が垂れ下がっている。
その姿からは、ただの魔物とは違う禍々しい気配が漂っていた。
三人が足を踏み入れた音に気づき、魔物がゆっくりと振り返る。
「ほう……。ここまでたどり着く者がいるとはな」
低く、不気味な声が部屋に響いた。
「お前がナイルのあくまか」
アレルが剣を構える。
「いかにも。わしがこのピラミッドを支配する者よ」
ナイルのあくまは、手にした鞭をゆっくりと持ち上げた。
「それで、何の用だ? ここまで来たからには、宝でも探しに来たのか?」
「黙れ。街の人々とカエデたちをどこへやった……!」
アレルの声が鋭く響く。
ナイルのあくまは、口元を歪めた。
「誘拐した人間どもなら、地下に閉じ込めておる。儀式のためにな」
「儀式だと……?」
シオンの目が険しくなる。
「そして、貴様らの仲間はこのピラミッドの深淵に閉じ込めた。あそこから生きて戻ることなどできぬ。一生、闇の中で彷徨うがよい!」
「何だと……!」
ライザが大剣を握り直す。
アレルは一歩前へ出た。
「……必ず助け出す。そして、お前を倒す」
その言葉を聞いたナイルのあくまが、愉快そうに笑った。
「できるものなら、やってみるがいい!」
その声と同時に、魔物の背後の闇が揺れた。
床に落ちていた影が、ゆっくりと形を変えていく。
そこから現れたのは、二体の奇妙な魔物だった。
細長く、蛇のようにうねる身体。その中心には、ぎょろりと大きな目玉が一つ浮かんでいる。いくつもの細い身体が絡み合うように動き、眼球だけが三人を見据えていた。
その異質な不気味さに、アレルが息を呑む。
ナイルのあくまは、二体の魔物を従えるように立っていた。
「この目玉に見覚えはないか?」
魔物は、マミーズアイの一体を鞭で指し示す。
「それは、かつて人間だった者たちの目よ。わしの力で、こうして生まれ変わったのだ」
「……何だと?」
ライザの表情が強張る。
「人間の目を使って、こんな魔物を作ったというのか……!」
「そうだ。美しいものではないか。人間など、わしの手にかかればいくらでも使い道がある」
ナイルのあくまが笑う。
その言葉に、アレルの剣を握る手に力がこもった。
「……許せない」
マミーズアイが、蛇のように身体をくねらせながら襲いかかってくる。
「来るぞ!」
シオンが短剣を構えた。
一体がシオンへ向かって飛びかかる。
シオンは身をひねって攻撃をかわし、短剣を振り抜いた。刃が細長い身体を捉え、魔物が大きくよろめく。
「今だ、ライザ!」
「任せろ!」
ライザは両手剣を振り上げ、体勢を崩したマミーズアイへと踏み込んだ。
重い刃が、魔物の身体を叩き切る。
大きな目玉が一度だけ不気味に揺れ、やがてその身体は床へ崩れ落ちた。
「……すまない」
ライザは短く呟き、剣を構え直す。
その言葉には、かつて人間だった者を倒したことへの悔いが滲んでいた。
もう一体のマミーズアイが、アレルへ向かって襲いかかる。
細長い身体が空中で大きくうねり、巨大な目がアレルを捉えた。
「はあっ!」
アレルは地面を蹴り、身体を宙へ躍らせた。
すれ違いざまに剣を振り抜く。
刃がマミーズアイの身体を深く切り裂き、魔物は床へ叩きつけられた。
アレルは着地すると、倒れた魔物を一瞬だけ見つめた。
その目に浮かんでいたのは、勝利の喜びではなかった。
そして、ゆっくりとナイルのあくまへ視線を戻す。
鋭い眼差しが、魔物を射抜いた。
「お前たちは、今までの兵士や旅人とは違うな」
ナイルのあくまは、初めて少しだけ警戒するような表情を見せた。
「だが、それもここまでだ。わし自ら相手をしてやろう」
赤紫色の鞭が、空気を裂くようにしなった。
「わしは魔王バラモス様に仕える者。このピラミッドを守るために遣わされたのだ。貴様らのような人間に、わしを倒せると思うな!」
アレルは剣を構え直した。
「なら、ここで倒すだけだ」
ナイルのあくまが鞭を振り上げる。
こうして、三人とナイルのあくまの戦いが始まった。
*
最初に動いたのは、ナイルのあくまだった。
赤紫色の鞭が、唸りを上げて三人へと襲いかかる。
「くっ!」
アレルは剣で受け止めた。
しかし、鞭は一度弾かれたかと思うと、まるで生き物のように軌道を変え、再びアレルの身体へ迫ってくる。
アレルは身をひねってかわした。
その横を、シオンが低い姿勢で駆け抜ける。
「今だ!」
短剣を構え、ナイルのあくまへ接近する。
だが、魔物は振り返ることもなく、もう一方の手を掲げた。
「バギ!」
次の瞬間、鋭い風が巻き起こった。
「うわっ!」
シオンの身体が横へ弾き飛ばされる。
「シオン!」
ライザが駆け寄ろうとするが、その足元にも鞭が走った。
大剣で受け止めると、重い衝撃が腕に響く。
「こいつ……!」
ライザは歯を食いしばり、鞭を押し返した。
しかし、ナイルのあくまはその隙を逃さない。
再び鞭を振るう。
今度は正面からではなかった。
背後から、側面から、まるで何本もの鞭が同時に襲いかかってくるように、攻撃が続く。
「どこからでも攻撃してくるのか……!」
アレルは剣を振るい、鞭を弾き返す。
だが、近づこうとするたびにバギが放たれ、身体を押し戻された。
「卑怯な奴だな……!」
シオンが悔しそうに吐き捨てる。
「正面から戦う気もないのか!」
「ふははは! 何を言う。勝つために手段を選ばぬのは当然であろう!」
ナイルのあくまは、楽しむように笑った。
その鞭が再びしなり、ライザの大剣を弾き飛ばしかける。
ライザは両手で柄を握り直し、何とか踏みとどまった。
「くそっ……!」
三人は攻撃の隙を窺うが、思うように近づけない。
鞭を避ければバギが飛んでくる。バギをかわそうとすれば、別の方向から鞭が襲う。
戦うほどに、体力が削られていく。
ライザの呼吸も少しずつ荒くなっていた。
大剣を振るう腕に、疲労が蓄積している。
シオンも短剣を構えたまま、何度も息を整えていた。
アレルは剣を握り直す。
何とかしなければ。
このままでは、三人とも倒されてしまう。
カエデたちは、まだ見つかっていない。
地下には、さらわれた人々が閉じ込められている。
ここで負けるわけにはいかない。
それなのに、目の前の魔物には一撃を与えることすら難しかった。
「どうした? もう終わりか?」
ナイルのあくまが鞭を振るう。
アレルは剣で受け止めたが、衝撃に身体がよろめいた。
その瞬間、別方向から鞭が飛んでくる。
「しまっ……!」
鞭がアレルの身体に巻きついた。
「アレル!」
シオンが叫ぶ。
ナイルのあくまは口元を歪め、鞭を一気に引いた。
「ぐあっ!」
アレルの身体が宙へ浮き、壁へと叩きつけられる。
背中に強い衝撃が走った。
石壁に亀裂が入り、細かな破片が床へ落ちる。
「アレル!」
シオンはすぐに駆け寄り、倒れかけたアレルの身体を支えた。
「しっかりしろ!」
「……ああ」
アレルは何とか身体を起こす。
視界が揺れていた。
壁に打ちつけた背中が痛む。剣を握る手にも、思うように力が入らない。
少し離れた場所では、ライザが大剣を構え直していた。
しかし、その表情にも疲労が浮かんでいる。
「どうする……?」
シオンが低く尋ねた。
アレルは答えられなかった。
どうすればいい。
どうすれば、この状況を変えられる。
そんな考えが頭の中を巡る。
ふと、カエデの顔が浮かんだ。
こんなとき、カエデなら何と言うだろう。
いつも彼女は、誰も気づかなかったことに気づき、思いがけない方法で仲間を助けてきた。
どんな時も、彼女は諦めなかった。
今もどこかで、必死に生きているはずだ。
カエデなら。
カエデなら、こんな状況でも前を向くのだろうか。
そう考えた、その瞬間だった。
「いつまで仲間のことを考えているつもりだ?」
ナイルのあくまが、ゆっくりと近づいてくる。
その鞭が再び持ち上がった。
*
そのとき、ライザが動いた。
ナイルのあくまは、倒れたアレルを見下ろすように近づいている。
鞭を振り上げ、今にもとどめを刺そうとしていた。
「まだ楽しませてくれるよなあ?」
魔物が嘲る。
その瞬間、ライザは足元の砂を蹴った。
「おおおおっ!」
大剣を両手で握り、ナイルのあくまの側面へと踏み込む。
「何っ!?」
魔物が振り向くより早く、ライザの剣が横から叩きつけられた。
重い一撃が身体を捉える。
ナイルのあくまは大きくよろめき、石壁へと吹き飛ばされた。
壁に亀裂が走り、無数の石片が床へ落ちる。
さらに、天井の一部まで崩れ始めた。
石の破片が降り注ぎ、部屋の中に大量の砂埃が舞い上がる。
「ぐっ……!」
ライザは腕で顔を覆った。
視界が一気に白く染まる。
その向こうで、ナイルのあくまがゆっくりと立ち上がった。
「貴様……!」
怒りに顔を歪める魔物を見て、ライザは大剣を構え直した。
「死体にばっかり戦わせて、自分で戦う力はないのか?」
「何だと……?」
「お前は魔王軍の中でも下っ端だろう。だから、こんな真似でしか戦えないんだろう?」
その言葉が、ナイルのあくまの怒りに火をつけた。
「貴様ぁぁぁ!!」
魔物が鞭を大きく振り上げる。
「バギマ!!」
先ほどまでとは比べものにならないほど強烈な風が巻き起こった。
風は部屋全体を飲み込み、石壁を削り、天井の亀裂をさらに広げていく。
「ライザ、伏せろ!」
シオンが叫ぶ。
だが、風の勢いは凄まじかった。
大きな石片が天井から落ち、床へ叩きつけられる。
砂埃が渦を巻き、視界を完全に覆い尽くした。
石の破片が転がる音。
風が唸る音。
仲間の声。
すべてが混ざり合い、部屋の中は混乱に包まれた。
*
「……シオン!」
砂埃の中から、アレルの声が聞こえた。
「こっちだ!」
シオンが返す。
アレルは壁に手をつきながら、何とか立ち上がった。
身体のあちこちが痛む。口の中には砂の味が広がっていた。
視界はまだ悪く、少し離れた場所にいる相手の姿もはっきりとは見えない。
やがて、崩れた石の陰からライザが姿を現した。
「二人とも、無事か!」
「ああ。何とかな」
シオンが答える。
ライザは大剣を握り直した。
「少しだけ、お前にあの悪魔の相手を任せたい!」
ライザはシオンを見た。
「ずいぶん無茶振りだな……」
シオンは苦笑する。
「俺はお前たち二人を守ってみせる。だから信じてくれ」
その声には、迷いがなかった。
シオンは一瞬だけライザの顔を見つめた。
「……長くはもたないからな」
「それで十分だ」
ライザは短く答えると、アレルの腕を取り、崩れた石壁の陰へと連れていった。
そこは、ナイルのあくまから直接姿が見えにくい場所だった。
「ライザ、何をするつもりだ?」
アレルが尋ねる。
ライザはすぐには答えなかった。
アレルの前に立ち、真剣な眼差しで彼を見つめる。
「……アレル。お前に話しておきたいことがある」
「何だ?」
「勇者だけが使える、特別な呪文があるんだ」
アレルは目を見開いた。
「勇者だけが……?」
「ああ。俺も詳しいことを知っているわけじゃない。ただ、その呪文の存在を知ったばかりなんだ」
ライザは少しだけ視線を逸らした。
「すまない、会話が聞こえてしまったんだ……」
アレルは何も答えなかった。
ただ、静かにうつむく。
仲間を奪われた。
自分の力ではナイルのあくまに太刀打ちできず、ここまで追い詰められている。
勇者でありながら、仲間を守ることもできない。
自分は本当に、勇者の器なのだろうか。
そんな思いが、胸の奥に重く沈んでいた。
ライザはアレルの表情を見つめ、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「その呪文の名は……ライデインだ」
「ライデイン……」
アレルが小さく呟く。
「……俺は魔法をほとんど使ってこなかった。その呪文も今初めて知った。正直使えるかどうか分からない……」
ライザは一度息をついた。
「昔、フレミアが言っていた。魔法は経験だけじゃない。強い感情が大切なんだと」
アレルは顔を上げた。
ライザは、まっすぐに彼の目を見つめる。
「お前が何を考えているのか、俺には分からない。今日会ったばかりだからな。だが……お前があの魔物を倒し、仲間を助けたいと思っていることは分かる。俺も同じだ」
遠くから、鞭が石を叩く音が聞こえた。
シオンが必死にナイルのあくまを引きつけている。
ライザはその音に目を向けた。
「俺はシオンを助けに行く。あいつも長くは持たないだろうからな」
そう言って、ライザはアレルの肩に手を置いた。
「頼んだぞ」
そして、瓦礫の陰から飛び出していった。
アレルは一人、崩れた石壁の陰に残された。
遠くでは、シオンが鞭をかわし、ライザが再び大剣を振るう音が響いている。
ナイルのあくまの笑い声が、部屋の中に不気味に広がった。
アレルは自分の手を見つめた。
剣を握る手。
何度も戦い、何度も傷つきながら、それでも旅を続けてきた手だった。
父さんが果たせなかった使命を継ぎ、魔王バラモスを倒す。
そのために、ここまで旅を続けてきた。
こんなところで終わるわけにはいかない。
ナイルのあくまを倒す。
捕らわれた人々を助け出す。
そして、カエデを見つけ出す。
必ず。
アレルは拳を強く握りしめた。
*
「ぐああっ!」
凄まじい風が、シオンとライザを襲った。
ナイルのあくまが杖を掲げ、再びバギマを放ったのだ。
渦巻く風が二人の身体を包み込み、石床から一気に吹き飛ばす。
「シオン!」
ライザが叫ぶ。
だが、声は風にかき消された。
二人は崩れた石の破片を巻き込みながら、部屋の奥へと叩きつけられた。
「ぐっ……!」
シオンは床を転がり、手にしていた短剣を落としかける。
何とか指を動かし、短剣を握り直した。
ライザも大剣を支えにして身体を起こそうとする。
しかし、腕に力が入らない。
「……くそっ」
膝が震え、再び床へと崩れ落ちた。
二人とも、もう立ち上がることさえ難しかった。
ナイルのあくまは、ゆっくりと二人へ近づいてくる。
赤紫色の鞭が床を擦り、乾いた音を立てた。
「ほう……。先ほど殺り損ねた剣士は、仲間を置いて逃げ出したのか?」
シオンは顔を上げた。
「……ふざけるな。あいつが逃げるわけないだろ」
「ほざけ。貴様らも、もう終わりだ」
ナイルのあくまは、二人を見下ろした。
「このまま命を奪い、ミイラへと変えてやろう。そうすれば、永遠にこの迷宮から出ることはできぬ。貴様らも、わしの忠実な兵士となるのだ!」
シオンは短剣を握りしめた。
だが、身体は動かない。
ライザも大剣へ手を伸ばそうとするが、指先にわずかな力が入るだけだった。
ナイルのあくまが、二人へ手を伸ばす。
そのときだった。
「……お前がな」
ライザが、かすれた声で言った。
「何……?」
ナイルのあくまが怪訝そうに振り返る。
その瞬間。
凄まじい雷鳴が、ピラミッドの内部を揺るがした。
青白い閃光が部屋を満たし、一本の巨大な雷撃となってナイルのあくまへと突き刺さった。
魔物の身体が大きく反り返る。
全身を雷に貫かれ、赤紫色の鞭が床へ落ちた。
その短剣も手から滑り落ち、石床に乾いた音を立てる。
雷撃は一瞬で消えた。
しかし、その威力は凄まじかった。
ナイルのあくまの身体から煙が立ち上り、青い肌には無数の亀裂が走っている。
魔物はよろめきながら、何とかその場に立っていた。
「ば……馬鹿な……」
身体が崩れ始める。
腕が、肩が、胴体が。
まるで長い年月を経た石像が風化するように、ナイルのあくまの身体が少しずつ崩れ落ちていった。
最後の力を振り絞り、魔物は顔を上げる。
その目に映ったのは、雷を放ったアレルの姿だった。
「その呪文……! まさかお前が……!」
ナイルのあくまは、驚愕に目を見開く。
「バラモス様……!!」
その言葉を最後に、魔物の身体は完全に崩れ落ちた。
石床に残ったのは、黒く焼け焦げた欠片と、静かに漂う煙だけだった。
