DQ3 夜明けの果てに君と


 ピラミッドの入口をくぐった瞬間、ひんやりとした空気が六人を包み込んだ。

 外の砂漠に満ちていた熱気が嘘のように消え、肌に触れる空気は冷たく、どこか湿り気を帯びている。

 背後から聞こえていた風の音も、入口を越えた途端に遠ざかっていった。

 代わりに響くのは、六人の足音だけだった。

 石床を踏む音が、広い通路の奥へと反響していく。

 壁には古びた壁画が描かれ、ところどころに人の形をした石像が並んでいた。松明の炎が揺れるたび、壁画に描かれた人物の顔や石像の影が、不規則に伸び縮みする。

 天井は高く、通路の奥は暗闇に沈んでいる。

 どこまで続いているのか、目を凝らしても見通せなかった。

「……思っていたより、ずっと不気味ね」

 フレミアが周囲を見回した。

 松明の明かりに照らされた壁画を見上げ、眉を寄せる。描かれた人物たちの表情は風化しているものの、どこかこちらを見つめているようにも感じられた。

「壁の絵も、なんだか気味が悪いわ」

「古い遺跡だからな。何があってもおかしくない」

 先頭を歩くジゼルが答える。

「床にも注意しろ。石の色や並び方が違う場所がある」

「わかった」

 隣を歩くライザは頷き、足元へ視線を落とした。大剣を担ぐ手に力を込め、いつでも動けるように周囲への警戒を怠らない。

 その後ろを歩くカエデは、壁画を見上げていた。

 知っている場所だった。

 何度も画面の中で見たことがある。通路の形も、壁の模様も、ここにあるはずのものも、頭の中には残っている。

 けれど、実際に立ってみるとまるで違った。

 石の冷たさ。空気の重さ。足音がいつまでも消えずに響く感覚。

 そして、暗闇の奥に何かが潜んでいるかもしれないという気配。

 画面越しには感じることのなかった不気味さが、肌にまとわりつくようだった。

「画面で見るのとは全然違う……」

 思わず漏れた言葉に、隣を歩くフレミアが目を向けた。

「何か言った?」

「ううん。思っていたより広いなって」

「そうね。こんな場所、長居したくないわ」

 フレミアは肩をすくめた。

 カエデは、気づかれないように小さく息を吐いた。

 隊列は、先頭にジゼルとライザ。その後ろにカエデとフレミア。最後尾にはシオンとアレルが続いている。

 自然と、カエデはフレミアのすぐそばを歩いていた。

「ひよっこちゃん。そんなにくっつかなくても、私は逃げないわよ?」

 フレミアが横目で見る。

「えっ? あ、ごめん」

「別にいいけど。怖いの?」

「……少しだけ」

「正直ね」

 フレミアは小さく笑った。

「まあ、離れたところを歩かれるよりはいいわ。何かあったらすぐに言いなさい」

「うん。ありがとう」

 フレミアは前を向き直ったものの、カエデとの距離を少しも変えなかった。

 そのやり取りを、後ろからアレルが静かに見ていた。

 カエデが緊張しているのは分かっていた。いつもより歩幅が小さく、周囲を確かめるように視線を動かしている。

 けれど、フレミアがそばにいてくれるなら、今は任せておいてもいいだろう。

 アレルは前方へ視線を戻し、通路の奥を確かめた。

「全員、足元に注意して進もう。異変があれば、すぐに知らせてくれ」

 アレルが声をかける。

「了解だ」

 シオンが短く返した。

     *

 しばらく進むと、通路の先に少し広い場所が現れた。

 壁には古代の文字らしきものが刻まれ、床には細かな砂が積もっている。

 カエデは足を止めた。

「待って」

 その声に、全員が立ち止まる。

「どうした?」

 アレルが尋ねた。

「そこ……なんか怪しい」

 カエデは少し先の床を指さした。

 周囲と比べて、石の色がわずかに違っている。表面には薄く砂が積もり、境目が分かりにくくなっていた。

 アレルがカエデの指さす先へ目を向ける。ジゼルもすぐに足を止め、床の様子を注意深く観察した。

 シオンが前に出る。

「どれどれ」

 腰を落とし、手に持った短い道具で床を軽く叩いた。

 コン、コン。

 少し場所を変えて叩く。

 コン……。

「……下が空洞だ」

 シオンの表情が引き締まった。

「落とし穴か」

「おそらくな。踏めば床が抜ける仕掛けだろう」

 ジゼルが全員を制する。

「そこから下がれ。壁際を確認する」

 ジゼルは慎重に周囲を調べ、床の石の並びを確かめていった。槍の石突きで床を軽く叩きながら、怪しい箇所を一つずつ避けていく。

 やがて、落とし穴を避けて通れる場所を見つける。

「こちらを通れ。足を置く場所を間違えるな」

「助かった。よく気づいたな、カエデ」

 ライザが振り返る。

「たまたまだよ。なんとなく違和感があって」

「その違和感が命を救うこともある。よく見ていたな」

 ジゼルも短く頷いた。

 カエデは少し照れたように笑った。

「シオンが確かめてくれたからだよ。私だけじゃ、落とし穴かどうかまでは分からなかったし」

「まあ、こういう仕掛けを見抜くのは盗賊の得意分野だからな」

 シオンは道具をしまいながら、少し得意げに口元を緩める。

 あまりにもシオンが嬉しそうに言うので、カエデは思わず笑みをこぼした。

「俺もそこだけは信頼している」

 アレルが言うと、シオンは顔を上げた。

「ありがたいお言葉だ」

 アレルの言葉に、シオンは苦笑する。

「仲が良いのねえ、あんたたち」

 フレミアが二人を見比べる。

「どこがだ」

 シオンはすぐに返した。

「このやり取りどっかで見たような……?」

 カエデが首を傾げる。

「それは忘れなさい、カエデ」

 フレミアは笑いながら、カエデの肩を軽く叩いた。

 先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

     *

 落とし穴を越え、再び通路を進み始めた頃だった。

 フレミアが、カエデの髪に目を留めた。

「あら、カエデ」

「何?」

「その髪飾り、とても似合ってるわね。どこで買ったの?」

 カエデは髪に手を添えた。

 赤と金色を組み合わせた、小さな花の髪飾り。

 アッサラームでアレルが選んでくれたものだった。

「これ? アッサラームで買ってもらったんだ」

「買ってもらった?」

 フレミアが興味深そうに尋ねる。

「誰に?」

 カエデは少し後ろを振り返った。

「アレルが選んでくれたの」

「まあ!」

 フレミアは目を丸くし、後方を歩くアレルへ視線を向けた。

「あなたって、ファッションセンスもあるのね。デザイナーにでもなれば?」

「……何の話をしているんだ」

 突然話題にされたアレルは、少し困ったように眉を寄せた。

「いいじゃないか。せっかくだからブランド名でも考えようぜ」

 シオンが面白がるように口を挟む。

「ブランド名?」

 カエデの目が輝いた。

「それ、いいかも!」

「えっ、乗るの?」

 フレミアが笑う。

 カエデは腕を組み、真剣に考え始めた。

「うーん……アリアハン・ファッションとかでいいんじゃない?」

 カエデがあっさりと言った。

「さすがの勇者様も、アリアハンに怒られるだろ」

「……えっ?」

 フレミアの足が止まった。

 先ほどまで楽しそうに笑っていた顔から、すっと表情が消える。彼女はシオンとアレルを交互に見た。

「アレルって勇者なの!?」

「まったく……」

 アレルは小さく息を吐いた。

 カエデは二人のやり取りを見て、思わず吹き出した。

「フレミア、今まで知らなかったの?」

「知らないわよ! ただの旅人だと思っていたもの!」

「まあ、普段のアレルを見ていたら、そう思うかもしれないな」

 シオンが楽しそうに笑う。

「お前も余計なことを言うな」

 アレルが呆れたように返す。

「いいじゃない。勇者様がデザイナーだなんて、なかなか面白い話よ」

「デザイナーの話はもう終わりだ」

 アレルはそれ以上取り合わず、前を向いた。

 フレミアはまだ驚きが抜けない様子で、アレルの前を歩いている。そんな彼女を見て、カエデはまた小さく笑った。

 カエデは髪飾りにそっと触れる。

 何気ない会話だった。

 けれど、この髪飾りを選んでくれたときのことを思い出すと、自然と頬が緩んでしまう。

「……大事にしてくれているんだな」

 後ろからアレルの声が聞こえた。

「うん。気に入ってるよ」

 カエデは振り返り、笑顔で答えた。

 アレルは小さく頷いた。

「それならよかった」

     *

 賑やかな会話が終わると、再び静けさが戻ってきた。

 通路は先ほどよりも暗くなり、松明の明かりが届く範囲も狭くなっている。

 壁に刻まれた模様は、ところどころ削れていた。床には砂が薄く積もり、長い間誰も通っていないようにも見える。

 それでも、何かがいる。

 カエデはそう感じていた。

 知っている場所のはずなのに、知らないものが潜んでいるような気がする。

 視線を通路の奥へ向ける。暗闇の中には何も見えない。けれど、そこに何もいないと断言することもできなかった。

 ふと、遠くで小さな音がした。

 カツン。

 石が何かに触れたような音。

 六人は足を止めた。

「……今の音は?」

 ライザが前方を見つめる。

「分からない」

 ジゼルが槍を構えた。

 カエデも周囲を見回す。

 だが、音の出どころは分からなかった。

「風の音ではなさそうだな」

 シオンが低い声で言う。

「この先に何かいるかもしれない。警戒して進もう」

 アレルが剣の柄に手をかけた。

 六人は再び歩き始めた。

 足音をできるだけ立てないようにしながら、少しずつ前へ進んでいく。

 そのときだった。

 後方から、何かが擦れるような音が聞こえた。

 ザリ……。

 ほんのわずかな音だった。

 前を歩くジゼルたちは気づいていない。

 しかし、最後尾にいたシオンとアレルは、同時に足を止めた。

「……今の聞こえたか?」

 シオンが小声で尋ねる。

「ああ」

 アレルは短く答えた。

 ザリ……。

 再び音がする。

 二人はゆっくりと後ろを振り返った。

 暗い通路の中。

 そこに、ぽつんと宝箱が置かれていた。

 先ほどまで、確かになかったはずのものだった。

「……なんだ、あれ」

 シオンが目を細める。

 宝箱は、何事もなかったかのように静かにそこにある。

 金属の留め具が松明の光をかすかに反射していた。周囲には何もなく、まるで最初からそこに置かれていたかのようだった。

「アレル、お前のペットか?」

「俺に宝箱のペットはいない」

 アレルは剣を抜いた。

 その瞬間。

「待って! みんな逃げて!!」

 カエデの叫びが、石造りの通路に響き渡った。

 声が消えるより早く、宝箱の蓋が勢いよく跳ね上がった。

 内側に並んでいたのは、宝物ではない。

 鋭い牙だった。

 箱の奥から大きな口が開き、獲物を見つけた魔物が飛び出してくる。

「魔物か!」

 アレルが剣を構えた。

「ひとくいばこ!!」

 カエデの声が響く。

 宝箱の姿をした魔物は、床を蹴るようにしてアレルへ襲いかかった。

「くっ!」

 アレルは剣を横に構え、迫る牙を受け止める。金属と硬い牙がぶつかり、通路に鋭い音が響いた。

 その勢いは予想以上だった。

 アレルの靴底が石床を滑り、身体がわずかに後ろへ押される。

「アレル!」

 カエデが声を上げる。

「大丈夫だ!」

 アレルは踏みとどまり、ひとくいばこの口を押し返した。

 その横から、シオンが短剣を構えて回り込む。

「ずいぶんと乱暴な出迎えだな!」

 シオンは側面へ刃を振るった。

 しかし、刃が当たった瞬間、硬い感触が手に返ってくる。浅い傷はついたものの、決定打にはならない。

「ちっ、見た目以上に硬い!」

 ひとくいばこは身体をひねり、シオンへ向かって蓋を大きく開いた。

 シオンはすぐに身を引く。牙が目の前をかすめ、箱の縁が石床に叩きつけられた。

 そのとき、前方から別の声が上がった。

「魔物だ!」

 ジゼルが鋭く叫ぶ。

 通路の先に、二体の魔物が姿を現していた。

 腐った肉のような身体を引きずるくさった死体と、その隣で黒い影のように揺らめくあやしいかげ。

 六人の前後を、魔物が挟み込む形になっていた。

「フレミアちゃん! ジゼルさんたちのところに行って!」

 カエデは前方へ目を向けながら叫んだ。

「えっ、でもカエデは!?」

「私は大丈夫! ひとくいばこには呪文が効かないの! だから、前の魔物をお願い!」

 フレミアは一瞬だけ迷うようにカエデを見た。

 しかし、すぐに杖を握り直す。

「……わかったわ! 後で泣き言を言っても知らないからね!」

 任せたよ!と言う頃には、フレミアは身を翻し魔物群れと対峙する二人のもとへ駆け出していた。

 その背中を見送る間もなく、アレルがひとくいばこへ向き直る。

「わかった。シオン、右を頼む。俺は正面を押さえる」

「了解だ。宝箱相手に三人がかりとは、ずいぶん豪華だな」

「油断するな。相手は魔物だ」

「わかってるさ」

 シオンは短く返し、ひとくいばこの右側へ回り込んだ。

 カエデも風のブーメランを手に取る。

 ひとくいばこは、目の前のアレルだけを狙っているわけではなかった。蓋を開閉するたびに身体の向きを変え、近くにいる者へ次々と牙を向けてくる。

 アレルが正面から攻撃を受け止め、シオンが横から隙を狙う。カエデは二人の動きを見ながら、ひとくいばこの注意が逸れた瞬間を狙ってブーメランを投げた。

 風をまとった刃が、魔物の側面をかすめる。

 しかし、ひとくいばこは大きく揺れただけで、すぐにこちらへ向き直った。

「やっぱり、簡単には倒せない……!」

 カエデはブーメランを手元へ戻しながら、魔物の動きを見極めようとする。

 硬い身体。強烈な噛みつき。素早い動き。

 ゲームで知っていた相手でも、実際に目の前で襲いかかってくると、その恐ろしさはまるで違っていた。

 ひとくいばこが再び蓋を大きく開く。

「アレル、左!」

 カエデの声に、アレルはすぐに身体をずらした。

 牙が肩先をかすめる。アレルはそのまま剣を振り下ろしたが、ひとくいばこは硬い蓋を閉じて刃を受け止めた。

 シオンが背後へ回り込み、短剣を突き立てる。

 それでも、魔物は倒れない。

「しぶといな……!」

 シオンが距離を取りながら舌打ちした。

 カエデは二人の間に立ち、ブーメランを構え直す。

 まだ倒せない。

 そのことだけは、はっきりと分かった。

     *

 一方、通路の反対側では、ジゼルたちが二体の魔物と向き合っていた。

 くさった死体が、腐臭を漂わせながらゆっくりと近づいてくる。崩れかけた身体を引きずっているように見えるが、その腕は太く、握り締めた拳には相当な力がこもっていた。

 その隣では、あやしいかげが壁際を滑るように移動している。

 松明の明かりが届かない場所へ入るたび、黒い輪郭が闇に溶けていった。

「まずは前の大きい方を止める!」

 ジゼルが槍を構え、くさった死体の正面へ出た。

「ライザ、右から回り込め。フレミアは後方を警戒してくれ!」

「分かった!」

 ライザは大剣を両手で握り、くさった死体の右側へ踏み込んだ。

 その一歩に合わせるように、くさった死体が腕を振り上げる。

「遅い!」

 ライザは身体を低くして攻撃をかわし、そのまま大剣を横へ振り抜いた。

 重い刃が魔物の胴体に食い込む。

 しかし、くさった死体は大きくよろめいただけだった。

「まだ動くか!」

 ライザが大剣を引き戻す。

 くさった死体は倒れるどころか、今度はライザへ向かって両腕を伸ばした。

「近づかせるな!」

 ジゼルが槍を突き出し、魔物の進路を遮る。

 鋭い穂先が肩口を貫き、くさった死体の動きが一瞬止まった。

 その隙にライザが後ろへ下がる。

「助かった!」

「礼は後だ。まだ来るぞ!」

 ジゼルは槍を引き戻し、再び構えた。

 その背後で、フレミアが杖を掲げる。

「こっちも忘れないでよね!」

 あやしいかげが、床を這うようにして三人の背後へ回り込んでいた。

 フレミアが気配に気づいたときには、黒い影がすぐ近くまで迫っている。

「後ろか!」

 ジゼルが振り向こうとする。

「私がやるわ!」

 フレミアは素早く杖を振り、メラの呪文を放った。

 炎が暗い通路を照らし、あやしいかげの輪郭を浮かび上がらせる。

 魔物は炎を避けるように横へ滑ったが、逃げ切ることはできなかった。炎の一部が影をかすめ、黒い身体が大きく揺らぐ。

「そこだ!」

 ライザが声を上げた。

 ジゼルはすぐに槍を構え直し、あやしいかげの逃げ道を塞ぐ。

 だが、魔物は床すれすれを移動し、ジゼルの槍先をかいくぐった。

「ちょこまかと……!」

 フレミアが眉を寄せる。

 あやしいかげは、松明の光が届かない場所へ入り込むと、再び姿を見失わせた。

「無理に追うな!」

 ジゼルが声を張る。

「暗がりに入られれば、こちらが不利になる。明かりの届く場所で迎え撃つ!」

 ジゼルは通路の中央へ移動し、槍を横に構えた。

 ライザもその隣へ並び、フレミアは少し後方へ下がる。

 三人は互いの位置を確かめながら、あやしいかげの動きを待った。

 しばらくして、壁際の暗闇がわずかに揺れた。

「右だ!」

 ライザが叫ぶ。

 あやしいかげが飛び出してくる。

 ジゼルはすぐに槍を突き出した。穂先が影を捉え、魔物の動きを止める。

「今だ、ライザ!」

「任せろ!」

 ライザが大剣を振り上げた。

 重い刃が振り下ろされ、あやしいかげの身体を叩き切る。

 黒い影が床に散るように広がり、そのまま動かなくなった。

「一体!」

 ライザが大剣を構え直す。

 しかし、まだくさった死体が残っている。

 くさった死体は、仲間を倒されたことなど気にする様子もなく、再びジゼルたちへ向かってきた。

 その腕が大きく振り上げられる。

「来るぞ!」

 ジゼルは正面から受け止めず、半歩横へ移動した。

 振り下ろされた拳が石床を叩き、鈍い音が通路に響く。

 床の砂が跳ね上がった。

 その隙を逃さず、ライザが横から踏み込む。

「これで終わりだ!」

 大剣が大きく弧を描いた。

 刃がくさった死体の身体を捉え、魔物は大きく後ろへ吹き飛ばされる。

 壁にぶつかり、ずるりと床へ崩れ落ちた。

 それでも、すぐには動きが止まらない。

「まだだ!」

 ジゼルが槍を構え、倒れた魔物へ一気に踏み込む。

 槍先が身体を貫いた。

 くさった死体は一度大きく痙攣し、やがて完全に動かなくなった。

 通路に静寂が戻る。

「……終わったか」

 ライザが息を吐き、大剣を下ろした。

「二体とも倒した。怪我は?」

 ジゼルが二人を確認する。

「私は平気よ」

 フレミアは杖を持つ手を軽く振った。

「俺も問題ない」

 ライザも頷く。

 ジゼルは一度だけ二人の顔を確かめると、すぐに通路の奥へ目を向けた。

「まだ安心するな。向こうで戦闘が続いている」

 遠くから、金属がぶつかる音が聞こえていた。

「カエデたちのところね」

 フレミアの表情が引き締まる。

「急ぎましょう!」

 三人は武器を構え直し、音のする方へ駆け出した。

     *

 ひとくいばこは、まだ倒れていなかった。

 アレルが正面から剣を振るい、シオンが側面へ回り込む。カエデも風のブーメランを投げ続けていたが、魔物の動きは衰える様子がない。

 むしろ、攻撃を重ねるたびに、ひとくいばこは大きく身体を揺らしながら反撃してくる。

「くっ……!」

 アレルは噛みつきを剣で受け止め、押し返す。

 ひとくいばこの蓋が閉じるたび、鋭い牙が目の前をかすめた。

 シオンも何度か攻撃を仕掛けていたが、硬い身体に阻まれ、決定的な傷を与えられずにいた。

カエデは何か突破口がないかと、戦闘を分析しながら必死に頭を回転させる。

 すると、ひとくいばこが突然、身体の向きを変えた。

 今までアレルとシオンへ向けていた口を、カエデの方へ向ける。

「え……?」

 カエデが反応するより早く、箱の蓋が大きく開いた。

 その奥に、先ほどまでとは違う不気味な光が宿る。

 カエデの背筋に冷たいものが走った。

「まさか……!」

 ひとくいばこが呪文を唱え始める。

 ザキ。

 その名前が頭に浮かんだ瞬間、カエデの身体が強張った。

 ゲームなら知っている。

 ザキは即死呪文だ。

 唱えられたら、あとは祈るしかない。

 逃げることも、受け止めることもできない。自分にできることなど何もない。

 頭では分かっているのに、身体が動かなかった。

「カエデ!!」

 アレルの声が響いた。

 いつもの落ち着いた声ではなかった。

 アレルは剣を構えたまま、カエデへ向かって駆け出そうとする。ひとくいばこの前を遮ろうと、身体ごと踏み込んだ。

 しかし、間に合わない。

 カエデの目の前で、魔物の口が不気味に光った。

 その瞬間、頭の中にいくつもの光景が浮かんだ。

 元の世界で過ごしていた学校生活。

 何気ない日常。友達と笑い合った時間。

 突然この世界にやってきて、何も分からず途方に暮れていた自分。

 初めてアレルと出会った日のこと。

 ロマリアの美しい街並み。カンダタとの戦い。

 夢の中で出会ったアン。

 焚き火を囲んでシオンと話した夜。

 そして、アッサラームでアレルが選んでくれた赤と金色の小さな花の髪飾り。

 ひとつひとつの記憶が、目の前を流れていく。

 帰りたいと思ったこともあった。

 この世界で生きていくことが怖くなった日もあった。

 それでも、ここで出会った人たちと過ごした時間は、確かに自分の中に残っている。

 カエデは、震える指を胸元へ伸ばした。

 けれど、呪文は止まらない。

 ひとくいばこの口から、死の呪文が放たれた。

 カエデは身を固くし、目を閉じた。

 次の瞬間。

 胸元で、硬いものが砕ける音がした。

 身につけていたいのちのいしが、強い光を放つ。

 光はカエデの身体を包み込み、ザキの力を弾き返した。

 石に細かな亀裂が走る。

 そして、ぱきん、と乾いた音を立てて砕け散った。

 カエデの身体から力が抜けかける。

 けれど、倒れることはなかった。

 命は、つながった。

 その一瞬の隙を、シオンは見逃さなかった。

 ザキが放たれる直前から、シオンはひとくいばこの視界の外へ回り込んでいた。

 魔物の意識がカエデへ向いた今、その背後には大きな隙が生まれている。

「もらった!」

 シオンは短剣を握り直し、全身の力を刃へ込めた。

 ひとくいばこの背後へ踏み込み、渾身の一撃を叩き込む。

かいしんのいちげき!

 鋭い刃が硬い身体を捉えた。

 ひとくいばこが大きく揺れ、蓋が不規則に開閉する。

「今だ、アレル!」

 シオンが叫ぶ。

 アレルはすぐに反応した。

 カエデの方へ向けていた視線を、ひとくいばこへ戻す。

 その顔には、まだ焦りが残っていた。

 けれど、今は目の前の魔物を倒さなければならない。

 アレルは剣を握り直し、ひとくいばこの正面へ踏み込む。

「カエデ!」

 通路の向こうから、フレミアの声が響いた。

 ジゼル、ライザ、フレミアの三人が駆けつけてくる。

 彼女たちは、まずカエデの姿を確かめた。

 フレミアはカエデの胸元に目を留める。そこには、砕けた石の欠片がわずかに残っていた。

「それ……」

 フレミアが何かを言いかける。

 しかし、今は尋ねている場合ではなかった。

 ひとくいばこはシオンの一撃で体勢を崩しているものの、まだ倒れていない。蓋を何度も開閉しながら、周囲へ牙を向けていた。

「加勢する!」

 ライザが大剣を構える。

「待て。正面から突っ込むな!」

 ジゼルが制する。

 アレルはひとくいばこの動きを見極めていた。

 魔物の身体が大きく傾く。

 シオンの攻撃で重心が崩れ、蓋が開いたまま不安定に揺れている。

「ライザ、右へ!」

 アレルが声を張った。

 ライザはすぐに指示に従い、通路の右側へ移動する。

 アレルは剣を構え、ひとくいばこの正面へ踏み込んだ。

「はあっ!」

 下から上へ、鋭く剣を振り抜く。

 刃がひとくいばこの底を捉え、魔物の身体が大きく宙へ浮き上がった。

「今だ!」

 アレルの声に、ライザが大剣を握り直す。

 宙に浮いたひとくいばこは、逃げることも体勢を立て直すこともできない。

「これで終わりだ!」

 ライザは足を踏み込み、全身の力を込めて大剣を振り下ろす。

 重い刃がひとくいばこの身体を捉えた。

 鈍い衝撃音が通路に響き、魔物は大きく吹き飛ばされる。

 石床に叩きつけられたひとくいばこは、蓋を一度だけ大きく開いた。

 その口が、何かを噛みつこうとするように動く。

 けれど、もう力は残っていなかった。

 やがて、魔物の身体から力が抜け、完全に動かなくなる。

 長い通路に、静寂が戻った。

 誰もすぐには口を開かなかった。

 松明の炎が揺れ、壁に映る六人の影がゆっくりと動いている。

 アレルは剣を下ろすと、すぐにカエデのもとへ歩み寄った。

「カエデ!」

 呼びかけながら、彼女の顔を覗き込む。

「怪我はないか?」

「うん。大丈夫だよ」

 カエデは頷いた。

 けれど、アレルはすぐには離れなかった。彼女の顔を確かめるように見つめてから、ようやく小さく息を吐く。

「……よかった」

 その声には、まだ隠しきれない緊張が残っていた。

 カエデはいのちのいしを閉まっていた胸元に視線を落とした。

 即死呪文、ザキから自分の命を守ってくれた石は、もうそこにはない。役目を終えて砕け散ったのだ。

「ねえ、アレル。覚えてる……?」

「何を?」

「ノアニールに行くために、ロマリアからカザーブへ戻ったときの馬車。相席になった老夫婦のこと」

「ああ。もちろん覚えている」

 アレルはすぐに答えた。

「あの二人がくれた命の石が、私を守ってくれたんだよ」

 カエデは胸元に手を添え、少しだけ笑った。

「まさか、こんなところで助けてもらうことになるなんて思わなかった」

 アレルは彼女の言葉を聞き、胸元へ向けていた視線をカエデの顔へ戻した。

 そして、そっと彼女の肩に手を置く。

「よかった……本当に……」

 絞り出すような声だった。

 その手には、まだわずかに力がこもっている。

 カエデは肩に置かれた手を感じながら、アレルを見上げた。

 彼がどれほど心配していたのか、今になってようやく伝わってくるようだった。

「あらあら」

 少し離れたところから、フレミアの声がした。

 彼女は二人を見比べ、口元に笑みを浮かべている。

「ずいぶん心配していたのねえ」

「フレミア」

 アレルが少し困ったように名前を呼ぶ。

「何よ。本当のことでしょう?」

 フレミアは楽しそうに肩をすくめた。

「まあ、無理もないか。目の前で仲間がザキを唱えられたらね。」

「俺ですら一瞬、肝が冷えたからな」

 シオンが短剣をしまいながら口を挟んだ。

「何にせよ、命の石が残っていてよかったな」

「うん。本当に……」

 シオンに返事をすると、カエデは砕けた石の欠片があった場所をもう一度そっと見つめた。

 ライザが一同を見回し、静かに口を開く。

「何より、全員無事でよかった。誰か一人でも欠けていたら、笑ってはいられなかったからな」

「ああ。今回は運にも助けられた」

 アレルはそう答え、ようやくカエデの肩から手を離した。

 ジゼルは周囲の通路へ目を向け、槍を握り直す。

「この先は、今まで以上に慎重に進むぞ。ひとくいばこのように、見た目だけでは判断できない魔物がいる。警戒を怠るな」

「分かった」

 アレルが頷く。

「俺も気をつけるよ」

 シオンも短く答えた。

 カエデは自分の心臓の鼓動を確かめるようにもう一度だけ胸元に手を添えたあと、顔を上げた。

「うん。みんなで気をつけて進もう」

 六人は互いの顔を確かめるように見回し、それぞれ頷いた。

 まだ、ピラミッドの探索は始まったばかりだった。

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