DQ3 夜明けの果てに君と
アッサラームを出発してから、しばらく時間が経っていた。
街の賑やかな声はすっかり遠ざかり、周囲には乾いた風が吹き抜けている。街道の脇に生えていた草も少なくなり、ところどころに赤茶けた土や岩が顔を出し始めていた。
遠くには、陽炎に揺れる大地が広がっている。日差しを遮るものはほとんどなく、頭上から降り注ぐ太陽の光が、むき出しの岩肌を白く照らしていた。
三人は、イシスへ続く道を歩いていた。
「それにしても、今日は暑いな」
シオンが首元を緩めながらぼやく。
「まだ砂漠に入っていないのにね」
「砂漠に入ったら、もっと暑くなるんだろうな」
アレルが空を見上げた。雲はほとんどなく、青い空がどこまでも広がっている。
「水は十分に用意してある。こまめに休みながら進もう」
「そうだね。無理して倒れたら大変だもん」
「お前もな、カエデ」
「分かってるよ」
カエデは荷物の水筒を確かめる。揺れるたびに、中の水がちゃぷりと小さな音を立てた。
その様子を見ていたシオンが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、お前たちは子供の頃はどんな奴だったんだ?」
「子供の頃?」
カエデが聞き返す。
「ああ。今はこうして旅をしているが、昔からそんな感じだったのかと思ってな」
「どうだろう。私は普通だったと思うけど」
「普通ねえ」
シオンは疑わしそうにカエデを見る。
「何だよ。何かやらかしたことくらいあるだろ?」
「うーん……」
カエデは少し考え込んだ。
「そうだなあ。子供の頃、寝相が悪くて布団から落ちたことはあるよ」
「それくらい普通だろ」
「シオンは?」
「俺か? 別に、特にないな」
「本当に?」
「ああ」
シオンは平然と答えた。
すると、カエデが何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、子供の頃におねしょしたことは?」
「……は?」
シオンの足が一瞬止まった。
隣を歩いていたアレルも、思わずカエデへ視線を向ける。
「何だ、その質問は」
「いや、子供の頃の話だから。そういうこともあるかなって」
「お前、いきなり何を聞いてるんだよ」
「シオンはしたことある?」
「あるわけないだろ」
「本当に?」
「しつこいな!」
シオンは顔をしかめた。
カエデは、今度はアレルへ視線を向ける。
「じゃあ、アレルは?」
「俺に聞くな」
「スライムの模様のとかしてないの?」
「覚えていない」
「それって、スライムおねしょしたことがあるってこと?」
「そういう意味じゃない」
「ふふっ」
カエデが笑う。
シオンも呆れたように息を吐いた。
「お前、よくそんなことを真顔で聞けるな」
「だって、気になるじゃん」
「何が気になるんだよ……」
「二人の子供の頃!」
カエデは悪びれる様子もなく答えた。
アレルは小さく肩をすくめる。
「そんなことを聞いても、何も分からないと思うけどな」
「いいの。こういう話が楽しいんだから」
「そうか」
「それに、シオンって子供の頃から今みたいに生意気だったのかなって」
「おい」
「アレルは、昔から真面目そうだよね」
「だから、どういう意味だよ」
「褒めてるんだよ?」
「そうは聞こえなかったがな」
三人の間に笑いが広がる。
旅の途中で、こうして何でもない話をする時間は意外と貴重だった。
頭上から照りつける日差しも、足元から立ち上る熱気も、決して心地よいものではない。それでも、くだらない話をしている間だけは、暑さも少しばかり紛れるような気がした。
魔物との戦いも、次の目的地も、今は少しだけ忘れていられる。
*
しばらく歩いた頃だった。
前方の岩陰から、小さな影が二つ飛び出してきた。
「魔物だ!」
アレルが剣へ手を伸ばす。
現れたのは、猫のような姿をした魔物だった。身軽そうな身体に、鋭い爪。二体は地面を蹴り、三人を取り囲むように左右へ分かれる。
「キャットフライ……!」
カエデが声を上げた。
「知っているのか?」
「うん。すごく素早いよ。それに、一度に二回攻撃してくることがあるから気をつけて!」
「分かった」
アレルが剣を抜く。
乾いた風が吹き抜け、地面の砂がさらさらと流れていく。その砂を蹴り上げるように、キャットフライの一体が地面を蹴った。
アレルが剣を構えるよりも早く、魔物は懐へ飛び込んでくる。
「速いな!」
アレルは身体をひねって爪をかわした。
しかし、キャットフライの攻撃はそこで終わらなかった。
着地した直後、もう一度身体を翻し、反対側から爪を振るう。
「二回目が来るよ!」
カエデの声に、アレルは一歩後ろへ下がった。
爪が外套の端をかすめる。
「なるほど。確かに素早い」
「こっちも忘れるなよ!」
シオンが横から声を上げる。
もう一体のキャットフライが、彼へ向かって飛びかかっていた。
シオンは身を低くして攻撃をかわし、すれ違いざまにナイフを走らせる。
魔物の身体がわずかに揺らいだ。
だが、キャットフライはすぐに体勢を立て直し、再びシオンへ迫る。
「ちょこまかと……!」
シオンは後ろへ跳び、魔物との距離を取った。
「シオン、左!」
カエデの声に反応し、シオンは横へ身をかわす。
そこへ、アレルの剣が横から迫った。
一体のキャットフライが地面へ叩きつけられる。
「助かった」
「まだ一体いるぞ」
アレルは剣を構え直した。
残ったキャットフライは、二人の間を縫うように動き回る。攻撃の隙を見つけるたびに、素早く飛び込んでは爪を振るってきた。
地面を蹴るたびに砂が舞い、魔物の影が三人の足元を素早く横切る。
正面から追いかけても、簡単には捉えられそうにない。
カエデは風のブーメランを構える。
「今度は私も!」
ブーメランを投げると、小さな竜巻が魔物へ向かって走った。
キャットフライは横へ跳んでかわそうとしたが、風に身体を煽られ、着地の姿勢を崩す。
「今だ!」
シオンが一気に距離を詰める。
ナイフが魔物を捉え、続けてアレルの剣が振り下ろされた。
最後のキャットフライは、その場に倒れ込んだ。
「ふう……。思った以上に素早かったね」
カエデはブーメランを受け止めながら息を吐いた。
「ああ。二度目の攻撃が来るとはな」
「一度避けたと思って油断すると、もう一発飛んでくるわけか」
シオンがナイフをしまう。
「でも、二人ともちゃんと対応できてたよ」
「お前の声があったからな」
アレルが答える。
「うん。カエデの知らせも助かった」
シオンも短く頷いた。
カエデは照れたように笑いかけ、すぐにいつもの表情へ戻った。
「よし、先へ進もう!」
三人は周囲を警戒しながら、再び街道を歩き始めた。
*
それからしばらくして、道の先に大きな岩場が見えてきた。
風に削られた岩がいくつも重なり、その隙間には乾いた砂が溜まっている。岩の表面は日差しを受けて熱を帯び、近くを通るだけでもじりじりとした熱気が伝わってきた。
その陰から、獣のような魔物が姿を現す。
「今度は何だ?」
シオンが目を細めた。
「あばれザル……!」
カエデが名前を口にする。
魔物は三人を見つけると、低く唸りながら地面を蹴った。
「来るぞ!」
アレルが剣を構える。
あばれザルは腕を大きく振り上げ、勢いよく殴りかかってきた。
その巨体に似合う、力任せの攻撃だった。振り下ろされる拳は大きく、風を切る音まで聞こえてくる。
しかし、その動きは大振りだった。
アレルは攻撃の軌道を見極め、難なく横へかわす。
拳が地面を打ち、土埃が舞い上がった。砕けた小石が周囲へ飛び散り、乾いた音を立てて転がっていく。
「隙が大きいな」
アレルはそのまま踏み込み、剣を振り抜く。
刃が魔物を捉えた。
あばれザルは短い唸り声を上げ、その場に倒れ込む。
「一体だけなら、それほどでもないな」
シオンが周囲を見回した。
そのときだった。
ガサッ!
岩場の向こうから、別の影が飛び出してくる。
「まだいるよ!」
カエデが叫ぶ。
現れたのは、二体のあばれザルだった。
先ほど倒した個体と同じように、二体は大きな腕を振り回しながら近づいてくる。
「二体か。さっきより面倒だな」
シオンがナイフを構えた。
一体がアレルへ向かって突進する。
もう一体は少し離れた場所で足を止め、両腕を大きく引いた。
身体に力がこもっていく。
地面を踏みしめる足に力が入り、肩や腕の筋肉が盛り上がった。あばれザルは低く唸りながら、全身の力を一点に集めているようだった。
「……あれ?」
カエデは、その動きを見て息を呑んだ。
あばれザルの腕が、さらに大きく膨らんで見える。全身に力を溜め込み、今にも何かを叩きつけようとしている。
その姿に、カンダタとの戦いが重なった。
力を溜めた一撃が、どれほど危険なものなのか。あのとき目にした光景が、一瞬で脳裏によみがえる。
「アレル、離れて!!」
カエデの声が荒野に響く。
アレルはすぐに反応した。
攻撃を仕掛けてきた一体から距離を取り、力を溜めている個体の正面から横へ飛び退く。
次の瞬間。
あばれザルの拳が、荒野の地面に叩きつけられた。
轟音とともに土砂が跳ね上がる。
拳の落ちた場所は大きく陥没し、周囲の地面までひび割れていた。砕けた石が飛び散り、砂埃が辺りを覆う。
衝撃で近くの小石が跳ね、少し離れた場所まで転がっていった。
「……まじかよ」
シオンが思わず呟いた。
カエデも目を見開いたまま、陥没した地面を見つめていた。
あれをまともに受けていたら、ただでは済まなかっただろう。
しかし、アレルは違った。
砂埃の向こうで、彼はすでに剣を構え直していた。
「なるほど。力を溜めてから叩きつけるのか」
落ち着いた声だった。
「威力は相当なものだ。正面から受けるのは避けた方がいい」
「お前、よくそんな冷静でいられるな……」
シオンが呆れたように言う。
「驚いている暇はない」
アレルはあばれザルから目を離さない。
「溜めている間は動きが止まるから、そこを狙う。」
「分かった。俺が一体を引きつける」
シオンが横へ走る。
「カエデ、もう一体の動きを見ていてくれ!」
「うん!」
カエデは風のブーメランを構え、二体の動きを追った。
あばれザルの一体が、再び両腕を振り上げる。
「また溜めてる!」
アレルはその動きを見て、すぐに距離を取った。
拳が地面を叩く。
その瞬間、シオンが横から回り込み、魔物の脇腹へナイフを突き立てた。
あばれザルが体勢を崩す。
アレルはその隙を逃さず、剣を振り下ろした。
魔物は地面へ倒れ、動かなくなる。
「一体!」
シオンが声を上げた。
残る一体は、怒ったように唸りながらカエデの方へ向かってくる。
「こっちに来た!」
カエデは後ろへ下がりながら、風のブーメランを投げた。
小さな竜巻があばれザルの足元を巻き上げる。
砂が渦を巻き、魔物の脚にまとわりついた。身体がわずかによろめく。
「アレル!」
「ああ!」
アレルが一気に踏み込む。
あばれザルは拳を振り上げたが、力を溜める前にアレルの剣が腕を捉えた。
続けてシオンが背後へ回り込み、ナイフで追撃する。
最後にアレルの一撃が魔物を斬り伏せた。
あばれザルは大きく身体を揺らし、その場に崩れ落ちた。
「……終わったな」
アレルは剣を下ろした。
「はあ……。あんな力、まともに受けてたら危なかったよ」
カエデは陥没した地面を振り返る。
「あの威力は反則だろ。あれで殴られたら、骨が何本あっても足りねえな」
シオンも肩を回した。
「でも、アレルは全然慌ててなかったね」
「攻撃を見ていれば、避けられる」
「それが簡単にできるなら苦労しないんだよ」
シオンが呆れたように返す。
アレルは小さく笑った。
*
再び歩き始めた三人は、先ほどの戦闘でできた陥没跡のことを話していた。
背後では、砂埃が少しずつ風に流されていく。あばれザルの拳が叩きつけられた場所には、まだ深い窪みが残っていた。
「それにしても、すごい穴だったね」
「穴というより、ちょっとした落とし穴だな」
シオンが答える。
「もしあそこに足を踏み入れたら、抜け出すのが大変そう」
「なら、あばれザルに畑を耕してもらえばいいんじゃないか?」
シオンが冗談めかして言った。
「畑?」
「あれだけの力があるんだ。土を掘り返すくらい簡単だろ」
「でも、畑ごと壊しちゃいそうだよ」
カエデが笑う。
「確かに。種を植える前に、畑がなくなりそうだな」
アレルも話に加わった。
「じゃあ、あばれザルには何をしてもらえばいいかな?」
「岩を運ばせるとか?」
「それも岩ごと砕きそうだ」
「じゃあ、薪割り!」
「木まで折りそうだな」
「……何をさせても駄目じゃない!」
カエデが思わず笑い声を上げる。
シオンも肩を揺らした。
「まあ、魔物だからな。働かせる前に襲ってくるだろ」
「それはそうだけどさ」
くだらない話をしながら、三人は荒野を進んでいった。
太陽は少しずつ西へ傾き始めていた。岩の影が長く伸び、昼間の強い日差しも、わずかに和らいでいる。
それでも、地面に残った熱はまだ消えていなかった。
*
日が傾き、周囲が少しずつ暗くなり始めた頃だった。
前方の道に、金属の擦れる音が響いた。
カエデが顔を上げる。
暗がりの向こうに、鎧をまとった魔物が立っていた。夕日の残光を受けた金属の表面が、鈍く光っている。
「さまようよろいか」
アレルが剣を抜く。
その背後には、いくつもの小さな影が浮かんでいた。
「ホイミスライムもいるな」
シオンは目を細めた。
ホイミスライムたちは、さまようよろいの周囲をふわふわと漂っている。柔らかな身体を上下させながら、まるで鎧を取り囲むように動いていた。
「豪華なバックダンサーだな」
「確かに。これなら、さっさと片づけられそうだ」
アレルも落ち着いた様子で剣を構えた。
しかし、カエデだけは表情を曇らせていた。
「……待って」
「どうした?」
「この組み合わせ、ちょっと厄介かもしれない」
カエデはホイミスライムたちを見つめる。
彼らは一体一体なら、さほど強くない。攻撃を当てれば倒すこともできる。
けれど、問題はその先だった。
さまようよろいに攻撃を加えると、ホイミスライムたちは互いに回復し合う。こちらが鎧へ攻撃を続ける間にも、回復によって傷が塞がれてしまう。
そのうえ、さまようよろい自身は攻撃を止めない。
ホイミスライムを倒そうとしても、鎧が邪魔をする。鎧を攻撃すれば、ホイミスライムが回復する。
終わりの見えない戦いになる。
「……どうしたらいいんだろう」
カエデが呟く。
アレルは一度、敵の配置を見渡した。
「まずは、動きを見てみよう」
「そうだな」
シオンもナイフを構える。
三人が距離を詰めると、さまようよろいが剣を振り上げた。
金属が軋む音とともに、鎧の剣が空を切る。
アレルは攻撃を受け流し、反撃に出る。
剣が鎧に当たった。
その直後だった。
ホイミスライムたちが一斉に動き始める。
淡い光が鎧の周囲に集まり、傷ついた部分が少しずつ元へ戻っていった。
「やっぱり……!」
カエデが声を上げる。
シオンは一体のホイミスライムへナイフを投げた。魔物は地面へ落ち、そのまま動かなくなる。
だが、残りのホイミスライムがすぐに回復を始めた。
「こいつら、互いに回復してやがるのか」
シオンが眉を寄せる。
その間にも、さまようよろいがアレルへ剣を振り下ろした。
アレルは身をひねってかわす。
「厄介だな。倒しても回復される」
「このままじゃ、いつまで経っても終わらないよ!」
カエデが叫ぶ。
シオンは一度、敵から距離を取った。
ホイミスライムたちの動き。さまようよろいの攻撃。回復が行われるタイミング。
それらを短い時間で見極めようとしていた。
夕暮れの光はすでに薄れ、岩場の影が地面を覆い始めている。魔物たちの輪郭が暗がりに沈み、ホイミスライムの淡い光だけが、周囲に浮かび上がっていた。
「……鎧を先に倒すしかないな」
「でも、回復されるよ?」
「だから、一撃で仕留める」
シオンはナイフを握り直した。
「アレル、お前はそのまま鎧を引きつけてくれ。俺が動くまで、できるだけ攻撃を受け流してくれ」
「ああ。分かった」
「カエデは、俺が動いたら風のブーメランを投げろ。ホイミスライムたちの気を逸らしてくれ」
「分かった!」
シオンは一度だけ息を吐いた。
「……頼むよ、神様」
その声は、いつもの軽口とは違っていた。
ナイフを構え、視線を鋭くする。
さまようよろいが、再びアレルへ向かって剣を振るう。
アレルはその攻撃を受け流し、すぐに距離を取った。
鎧の視線が、アレルを追う。
その瞬間、シオンが地面を蹴った。
身を低くし、砂を巻き上げながら一直線に駆ける。
「今だ!」
カエデは風のブーメランを投げた。
ブーメランが空を切り、小さな竜巻が生まれる。
風はホイミスライムたちの間を駆け抜け、彼らの身体を大きく揺らした。
回復の光が途切れる。
その一瞬を、シオンは逃さなかった。
さまようよろいの懐へ滑り込む。
ナイフが閃いた。
シオンの動きは、まるで影のようだった。
鎧の剣が振り下ろされるより早く、その急所へ刃が届く。
アサシンアタック!
記憶にある技に、カエデの目が見開かれる。
そして、短い衝撃音が響いた。
さまようよろいの身体が大きく揺れる。
次の瞬間、鎧は力を失い、地面へ崩れ落ちた。
「やった!」
カエデが声を上げる。
「まだだ!」
シオンが叫ぶ。
残ったホイミスライムたちが、今度は三人へ向かって動き始めた。
しかし、もう回復する相手はいない。
「ここからは俺がやる」
アレルは剣を構え直した。
ホイミスライムが一体、彼の前へ飛び込んでくる。
アレルは身体を横へ流し、すれ違いざまに剣を振るった。
一体が地面へ落ちる。
続けて、もう一体が背後から迫った。
アレルは振り返ることなく一歩踏み込み、攻撃をかわしてから剣を返す。
その動きに無駄はなかった。
残ったホイミスライムたちも、次々とアレルの剣に倒れていく。
最後の一体が消えると、ようやく周囲に静けさが戻った。
「……終わったな」
アレルは剣を下ろした。
「ふう……。危なかったね」
カエデが息を吐く。
「ああ。あのまま鎧を攻撃し続けていたら、きりがなかっただろうな」
シオンはナイフをしまった。
「でも、よく一撃で決められたね」
「外したら終わりだったけどな」
「それでも決めたじゃない」
カエデが言うと、シオンは少しだけ口元を緩めた。
「お前のブーメランがなかったら、回復を止められなかった。助かったよ」
「うん。シオンもありがとう」
アレルも頷いた。
「いい判断だった」
「お前に褒められると、調子が狂うからやめろ」
「何だ、それは」
三人の間に、小さな笑いが広がった。
頭上には、いつの間にか夜の色が広がっていた。
昼間の熱を含んだ風が、今度は冷たさを帯びて吹き抜けていく。遠くの岩山は黒い影となり、空には一番星が静かに瞬き始めていた。
*
夜が深まる前に、三人は砂漠へ差しかかる手前の開けた場所を見つけた。
周囲には大きな岩がいくつかあり、風を避けるにはちょうどよさそうだった。
地面には細かな砂が広がり、岩の隙間には乾いた草がわずかに残っている。遠くには砂漠の広がりが見え、昼間の熱を帯びた大地から、まだかすかに熱気が立ち上っていた。
「今夜はここで休もう」
アレルが言う。
「そうだね。明日からはいよいよ砂漠だし」
カエデは荷物を下ろした。
三人で薪を集め、火を起こす。乾いた枝が燃え始めると、周囲に柔らかな明かりが広がった。
火が安定すると、三人は簡単な食事を済ませた。
食事のあと、アレルは少し離れた場所で剣の手入れを始めた。布で刃についた汚れを拭い、光にかざして傷がないか確かめている。
焚き火のそばには、シオンとカエデが残っていた。
ぱちぱちと薪が弾ける音が、夜の静けさに響いていた。
火の粉が小さく舞い上がり、風に流されて暗闇へ消えていく。岩の向こうからは、砂を撫でるような風の音が聞こえていた。
「……なあ、カエデ」
シオンが火を見つめたまま口を開いた。
「何?」
「お前、どこの出身なんだ?」
カエデは、少しだけ目を瞬かせた。
「私?」
「ああ。前から気になっていたんだ。お前の話を聞いていると、時々、こっちの人間とは違うようなことを言うからな」
「……そうだね」
カエデは膝の上で手を組んだ。
今まで、話したことがなかった。
自分がこの世界の人間ではないこと。
別の世界から突然やってきて、帰る方法も分からないこと。
とくに、最近は考える暇も余裕もなかった。
アレル以外には、ずっと隠してきた。
少し離れた場所で、アレルが剣を拭う手を止めた。
こちらを見ているわけではない。けれど、カエデの声が聞こえたのか、ほんの一瞬だけ視線がこちらへ向いた。
カエデはそれに気づきながらも、シオンへ向き直った。
今なら話せるような気がした。
「私は……この世界とは違う世界から来たんだ」
シオンは、火を見つめたまま聞いている。
「違う世界?」
「うん。私が元々いた世界には、魔物なんていなかった。剣を持って戦うこともないし、魔王もいない。……普通に暮らしていたんだ」
「そうか」
「ある日、突然この世界に来ちゃったの。どうしてなのかも分からないし、帰る方法も分からない。気づいたら、知らない場所にいた」
カエデは、焚き火の向こうを見つめた。
炎の向こうには、夜の荒野が広がっている。
「最初は何が起きたのか分からなかった。怖かったし、どうしたらいいのかも分からなかった。でも、アレルと出会って、一緒に旅をするようになったんだ」
「……ああ」
シオンは、短く答えた。
それだけだった。
驚いた様子もなければ、疑うような表情もない。
カエデは思わず彼の顔を覗き込んだ。
「……驚かないの?」
「何に?」
「いや、だって……別の世界から来たんだよ? 変だと思わない? 警戒したりしないの?」
「別に」
シオンはようやくカエデへ視線を向けた。
「お前がどこから来たとしても、今ここにいることは変わらないだろ」
「それは、そうだけど……」
「それに、今まで一緒に旅をしてきた。お前がどんな奴なのかは、少しは分かっているつもりだ」
シオンは再び火へ視線を戻した。
「わざわざ疑う理由もない」
カエデは、しばらく彼の横顔を見つめていた。
もっと驚かれると思っていた。
信じてもらえないかもしれないとも思っていた。
けれど、シオンはいつもと変わらなかった。
「……ありがとう」
「気にするな」
少しの沈黙が流れた。
薪が崩れ、火の中で乾いた音を立てる。赤い光が二人の顔を照らし、風が吹くたびに、その明るさがわずかに揺れた。
やがて、彼は火にくべた枝を見つめながら、ぽつりと口を開く。
「……それより、俺からも話しておきたいことがある」
「何?」
「カザーブで、お前に言ったことだ」
カエデは、すぐに何のことか分かった。
あのときのシオンの言葉。
戦えないカエデを連れていくのは危険ではないか。大切な足手まといがいて、魔王を倒せるのか。
あの言葉は、今でも覚えている。
「……ああ」
「俺は、お前のことを何も知らなかった。戦えるかどうかだけで判断して、勝手に足手まといだと決めつけた」
シオンの声は、いつもより低かった。
「お前がどうしてアレルと旅をしているのか、何を考えているのか、知ろうともしなかった」
「シオン……」
「戦いとは無縁の世界で暮らしていたんだろ。そんなお前に、あんなことを言った」
彼は一度、言葉を切った。
焚き火の明かりが、シオンの横顔に濃い影を落としている。
「悪かった。俺が間違っていた」
カエデは、すぐには答えなかった。
あのときは悔しかった。
自分には戦う力がないことを分かっていたからこそ、何も知らないシオンに一方的に決めつけられたことが悲しかった。
それでも、自分にできることを探しながら旅を続けてきた。
今では、風のブーメランを使って戦うこともできる。
少しずつではあるけれど、自分なりに前へ進んでいるつもりだった。
「……あのときは、正直すごく悔しかったよ」
「ああ」
「でも、今はもう気にしてない。シオンがそうやって謝ってくれたから」
「そうか」
「それに、今は一緒に戦ってる仲間だもんね」
カエデは小さく笑った。
シオンは少しだけ目を伏せた。
「……そうだな」
その返事のあと、シオンはしばらく黙っていた。
焚き火の向こうで、アレルが剣を鞘に収める音がした。
彼は二人の会話を邪魔しないようにしているのか、すぐにはこちらへ来なかった。ただ、カエデがシオンと向き合っている様子を一度確かめると、近くの荷物を整え始めた。
火の粉が、夜空へ小さく舞い上がる。
しばらく黙っていたシオンは、やがて再び口を開いた。
「俺の故郷は、サマンオサだ」
「サマンオサ……?」
カエデの声が、わずかに揺れた。
知っている。
その名前も、そこにある問題も。
ゲームの中で何度も訪れた場所。けれど、今はその知識を口にすることができない。
「そうだ。今は、まともな国とは言えない」
シオンは淡々と続けた。
「国は圧政に支配されている。俺は、妹と一緒に国を出ようとした。だが、追っ手に見つかってな……」
そこで、シオンの言葉が止まった。
焚き火の中で、薪がひとつ崩れる。
赤く燃えていた枝の表面が割れ、小さな火の粉が散った。
「妹は、そこで命を落とした」
カエデは息を呑んだ。
「……そんな」
「俺は、あいつを守れなかった」
シオンの視線は、炎の中に向けられたままだった。
その横顔からは、普段の軽口を叩くときの余裕が消えている。
「目の前にいたのに、何もできなかった。連れて逃げようとしたのは俺だ。それなのに、結局……」
握られた拳に、わずかに力がこもる。
シオンはそれ以上、言葉を続けなかった。
風が吹き抜け、焚き火の炎が一瞬大きく揺れる。
カエデは何か言おうとしたが、すぐには言葉が見つからなかった。
安易に慰めることはできない。
大丈夫だとか、もう忘れていいとか、そんな言葉で済ませていい話ではなかった。
少し離れた場所では、アレルがこちらへ目を向けていた。
カエデの表情を見て、何かあったのだと察したのかもしれない。けれど、彼は何も尋ねず、静かに視線を戻した。
「……今は、故郷に戻れないんだね」
カエデは、ようやくそれだけを口にした。
「ああ」
シオンは小さく息を吐いた。
「だから、各地を回って仕事を受けている。人探しや魔物討伐、困っている奴を助ける仕事だ。盗賊として依頼をこなして、その報酬で暮らしている」
「それで、アッサラームやイシスにも用事があったんだね」
「ああ。そういうことだ」
「金の冠を取り戻そうとしたのも?」
「人助けの仕事の一つだ。報酬も出るし、困っている奴を放っておく理由もなかった」
シオンは小さく息を吐いた。
「いつか、サマンオサを救えるくらいの力を身につけたいと思っている。今の俺には、まだ何もできない。だから、旅を続けているんだ」
カエデは、火を見つめた。
サマンオサ。
そこでは、これから先、彼が故郷を取り戻すために立ち向かうことになる出来事が待っている。
どうすれば救えるのかも、何をすればいいのかも、カエデは知っている。
けれど、それを今ここで話すことはできない。
なぜ知っているのかを説明することもできないし、まだ訪れていない場所のことを不用意に語るわけにもいかなかった。
「……そうだったんだね」
カエデは、それだけを口にした。
シオンは彼女の顔を見た。
「何だよ。もっと聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「ううん。話してくれてありがとう」
「別に、大した話じゃない」
「そんなことないよ」
カエデは、シオンをまっすぐに見つめた。
「シオンがどうして旅をしているのか、少し分かった気がして、嬉しい。」
シオンは返事をしなかった。
ただ、焚き火へ視線を戻す。
「……そうか」
その声は、いつもより少しだけ穏やかだった。
カエデは、それ以上何も尋ねなかった。
炎の揺らめきを見つめながら、シオンが自分から話してくれたことを静かに受け止める。
やがて、シオンの強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていった。
*
「おい、アレル!」
シオンが少し離れた場所にいるアレルへ声をかけた。
「何だ?」
「こっちに来いよ」
「俺はここでいい」
「いいから来いって」
アレルは手入れしていた剣を置き、少し不思議そうに二人のもとへ近づいてきた。
「何の話だ?」
「お前だけ仲間外れにするのも悪いと思ってな」
「最初から呼べばよかっただろ」
「そう言うなよ」
シオンはアレルが腰を下ろせるように場所を空けた。
アレルはカエデの隣に座る。
「何かあったのか?」
「ちょっと話をしていただけだよ」
カエデが答える。
「そうか」
アレルはカエデの顔を一度見た。
いつもと変わらないように笑ってはいるが、少しだけ表情が沈んでいるようにも見える。
気にはなったが、シオンが自分から話を始めるのを待つことにした。
「お前も、自分のことを少しは話したらどうだ?」
シオンがアレルを見る。
「俺の?」
「そうだ。お前はいつも自分の話をしないからな」
「話す必要がないだけだ」
「相変わらずだな」
シオンは呆れたように笑った。
焚き火の炎が、三人の間で揺れている。
少し離れた場所では、夜風が岩肌を撫で、砂を運ぶ音が絶えず聞こえていた。
「お前はどうして魔王を倒そうとしているんだ?」
「それは……」
アレルは少しだけ火を見つめた。
「父さんが果たせなかった使命だからだ」
「オルテガか」
「ああ。父さんは魔王を倒すために旅をしていた。俺は、その意志を継いでいる」
「それだけか?」
シオンの問いに、アレルは首を横に振った。
「それだけじゃない。今は俺自身が魔王を倒したいと思っている。そのために、自分で決めて旅を続けているんだ」
アレルの声は静かだった。
けれど、その言葉には揺るぎない意志があった。
父の果たせなかった使命を継ぐこと。それは、旅を始めたときから変わらない思いだ。
しかし、今のアレルにとって、魔王を倒すことは父オルテガのためだけではない。
旅の中で出会った人々。助けを求める声。魔物の脅威に苦しむ人々の姿。
そうしたものを目にしてきたからこそ、今は自分自身の意志として、魔王を倒したいと考えている。
シオンは、しばらくアレルを見つめていた。
やがて、焚き火へ視線を戻す。
「そうか」
短い返事だった。
その声には、アレルの言葉を受け止めた静かな響きがあった。
シオンは膝の上で手を組み、炎の向こうを見つめた。
「俺は、自分の手で必ず故郷を救ってみせる」
はっきりとした声だった。
誰かに聞かせるための大げさな宣言ではない。
自分自身に言い聞かせるように、けれど決して揺らがない決意を込めた言葉だった。
カエデは、シオンの横顔を見つめた。
普段の軽口を叩くときとは違う表情だった。
彼の視線は炎の向こう、夜の荒野のさらに先へ向けられているように見える。
アレルは、そんなシオンを静かに見ていた。
「……そうか」
それ以上、余計な言葉は続けなかった。
シオンの故郷を救うという決意を、簡単に励ましたり、軽々しく約束したりすることはしない。ただ、その言葉を正面から受け止めていた。
やがて、アレルが口を開く。
「いつか、お前の故郷を救えるといいな」
「いつかじゃない。必ずだ」
シオンは短く返した。
「そうだな」
アレルは小さくうなずいた。
カエデは二人の様子を見つめていた。
アレルは魔王を倒すために。
シオンは故郷を救うために。
二人は、それぞれ違う目的を胸に旅を続けている。
その道の先に何が待っているのか、今はまだ分からない。
それでも、二人とも自分で選んだ道を進もうとしていた。
「……二人とも、無理はしないでね」
カエデが言うと、アレルとシオンが同時にこちらを向いた。
「分かっている」
「はいはい」
「本当に分かってる?」
「分かってるって」
シオンが答える。
アレルも小さく頷いた。
カエデは二人を見比べ、少しだけ笑った。
「なら、いいけど」
焚き火の薪が、ぱちりと音を立てた。
夜の荒野には、冷たい風が吹いている。
その向こうには、広大な砂漠が広がっていた。昼間の熱を失った砂地は、月明かりを受けて淡く青白く見える。遠くの岩山は夜の闇に溶け込み、星だけが静かに瞬いていた。
「明日は早く出よう。砂漠に入る前に、もう一度水の残りを確認しておきたい」
アレルが言う。
「そうだな。暑くなる前に進めるだけ進んでおきたい」
シオンも頷いた。
「うん。私も準備しておくね」
三人は火を囲んだまま、しばらく明日の道のりについて話していた。
それぞれの目的は違う。
けれど、今は同じ火を囲み、同じ道を進んでいる。
やがて焚き火の炎が小さくなり、夜の静けさが戻ってきた。
アレルは剣を手の届く場所に置き、横になる。
シオンも少し離れた場所で休む準備を始めた。
カエデは最後にもう一度、砂漠の方角を見つめた。
明日からは、これまでとは違う厳しい道が待っている。
強い日差しと乾いた風。水の残りを気にしながら進まなければならない、長い砂漠の旅。
それでも、三人なら進んでいける。
カエデはそう思い、静かに目を閉じた。
夜の荒野に、焚き火の小さな明かりが揺れていた。
