DQ3 夜明けの果てに君と


 ノアニールへたどり着いた頃には、すでに夜も深まっていた。

 村を囲む森は闇に沈み、木々の枝が風に揺れるたび、葉擦れの音が静かな夜道に響いている。

 アレルは村の入口から奥へと視線を向けた。

 この村で暮らしていた人たちが、何も知らないまま長い時間を過ごしている。

 そう思うと、胸の奥が重くなった。

「女王様から預かったものを使おう」

 アレルの声に、カエデはうなずいた。

「うん。これで、みんな目を覚ましてくれるといいね」

 二人は村の中へ進んだ。

 通りには人の姿がない。家々の戸は閉じられ、店先にも誰もいなかった。夜の静けさが、かえって村の異様さを際立たせている。

 アレルは周囲を確かめてから、めざめのこなを取り出した。

 エルフの女王から託された、大切なものだ。

「使うぞ」

「うん」

 アレルが粉をそっと振りまく。

 夜風に乗って、淡い光を帯びた粉が村の中へ広がっていった。細かな粒子は家々の間を通り抜け、まるで星の欠片が地上へ降り注いだかのように、暗い通りをかすかに照らしていく。

 しばらくすると、家の中から物音が聞こえ始めた。

「……ん?」

「もう朝か……?」

 戸が開き、寝ぼけた様子の村人たちが顔を出す。

 ある者は目をこすり、ある者は大きく伸びをしながら外へ出てきた。長い眠りから目覚めたとは思えないほど、彼らの様子は普段どおりだった。

「いやあ、よく寝たなあ」

「ずいぶんぐっすり眠ってしまったようだ」

「おや、こんな時間に旅人かい?」

 村人の一人が、二人に気づいて声をかけてきた。

「こんばんは。旅の途中で、この村へ立ち寄りました」

 アレルが答える。

「そうかい。こんな夜更けに大変だったろう。ゆっくり休んでいくといい」

「ありがとうございます」

 村人はそれ以上、何も尋ねなかった。

 自分たちが長い間眠り続けていたことも、その間に何が起きていたのかも、誰も気づいていないようだった。

 まるで、いつもの夜を過ごしていただけのように。

 カエデは、通りに出てきた村人たちの姿を見つめた。

 戸口から顔を出す人。家の中で家族と話す人。眠そうにあくびをしながら、再び家へ戻っていく人。

 少しずつ、村に人の気配が戻っていく。

「……よかったね」

「ああ」

 アレルは短く答えた。

 その声には、安堵がにじんでいた。

 村人たちは、自分たちが救われたことさえ知らない。けれど、それでいいのだろう。

 彼らにとって大切なのは、失われた時間を悔やむことではなく、これからも変わらず暮らしていけることなのだから。

 カエデは、村の奥へと視線を向けた。

 アンのことが、頭をよぎる。

 彼女がこの村の人々にどんな想いを抱いていたのか。そして、エルフの里で自分たちが知った真実。

 女王も、里の人々も、これからは少しずつ変わっていくのだろう。

 そうであってほしいと思った。

「少し、ここで見ていこうか」

 アレルが言った。

「うん」

 二人は村の通りから少し離れた場所に立ち、目を覚ました人々の様子を見守った。

 夜の冷たい空気の中、家々から漏れる明かりが少しずつ増えていく。

 誰かの笑い声が聞こえた。

 誰かが家族を呼ぶ声も聞こえる。

 つい先ほどまで、深い静寂に包まれていた村とは思えないほどだった。

「みんな、何事もなかったみたいだね」

 カエデがぽつりとつぶやく。

「ああ。それが一番だろう」

「……そうだね」

 カエデは小さくうなずいた。

 アンのことを思い出すと、胸の奥が少し痛む。

 彼女はもう、この村の人々と同じ場所で暮らすことはできない。けれど、彼女が残した想いは、エルフの里の人々の心に届いたはずだ。

 ノアニールの人々も、こうして再び日常を取り戻していく。

 それぞれの場所で、それぞれの人が、また明日を迎えられる。

 そのことが、今はただ嬉しかった。

「そろそろ宿を探そう。さすがに眠いだろう」

「うん。そうしよう」

 二人は村の通りを歩き、宿屋を探し始めた。

     *

 宿屋の中には、夜遅くにもかかわらず、主人が起きていた。

 カエデがカウンターへ近づくと、主人は顔を上げて二人を迎えた。

「いらっしゃい。旅の人かい?」

「はい。今夜、泊まれる部屋はありますか?」

「もちろん。何人だい?」

「二人で一部屋お願いします」

 カエデは自然に答えた。

 主人は料金を確かめるために帳面へ目を落とし、それから彼女の後ろにいるアレルへ視線を向けた。

 アレルは少し離れたところで、荷物を持ったまま待っている。

「向こうの剣士の男の子は、恋人なのかい?」

「え?」

 カエデは主人の顔を見た。

 主人はからかうような笑みを浮かべている。

「いやあ、二人で旅をしているようだからね。仲がよさそうに見えたもので」

 カエデは一度だけ、アレルの方を振り返った。

 彼は何を話しているのか分からない様子で、こちらを見ている。

 その姿に、カエデは小さく笑った。

「そんなんじゃないですよ」

 特に慌てることもなく、否定する。

 けれど、その声はどこか柔らかく、表情にはほんの少し嬉しそうな色が浮かんでいた。

「そうかい? あんまり自然に二人でいるから、てっきりそうなのかと思ったよ」

「ふふ。違います」

「まあ、そういうことにしておこうかね」

 主人は楽しそうに笑い、部屋の鍵を差し出した。

「二階の奥の部屋だよ。ゆっくり休んでいきな」

「ありがとうございます」

 カエデは鍵を受け取った。

 アレルのところへ戻ると、彼が不思議そうに尋ねる。

「何かあったのか?」

「ううん。部屋が取れたよ」

「そうか。ありがとう」

「じゃあ、行こう」

 二人は階段を上がり、案内された部屋へ向かった。

 部屋の中には寝台が二つ並び、小さな机と椅子が置かれていた。窓の外には夜の村が見える。遠くの家々には、目を覚ました村人たちの明かりがちらほらと灯っていた。

「今日は疲れたな」

 アレルが荷物を置きながら言った。

「うん。いろいろあったもんね」

 カエデは窓辺へ歩み寄り、外を眺めた。

 ノアニールの夜は、もう先ほどまでの静けさとは違っていた。

 家の中から聞こえる話し声。通りを歩く人の足音。誰かが戸を閉める音。

 村に、暮らしの音が戻っている。

 カエデはその様子をしばらく眺めていた。

 アンのことを思い出す。

 彼女も、こうして誰かの隣で過ごしたかったのだろうか。

 大切な人と、何気ない会話を交わしながら、同じ朝を迎え、同じ夜を過ごす。

 そんな当たり前の時間を、どれほど望んでいたのだろう。

 カエデは、そっと窓から離れた。

「……おやすみ、アレル」

「ああ。おやすみ」

 二人はそれぞれの寝台へ向かった。

 長い一日が終わろうとしていた。

     *

 夢を見ていた。

 どこまでも続く、花畑。

 足元には白や淡い桃色の花が咲き、柔らかな風が吹くたび、花びらがゆっくりと揺れている。遠くには緑の丘が広がり、空はどこまでも澄み渡っていた。

 そこには、鳥の声も、人々の話し声もない。

 ただ風が草花を撫でる音だけが、静かに響いていた。

 カエデは、その花畑の中に一人で立っていた。

「……ここは?」

 見覚えのない場所だった。

 けれど、不思議と怖さはない。

 むしろ、懐かしいような、穏やかな気持ちが胸の中に広がっていく。

 そのとき、背後から音が聞こえた。

 さくり。

 草花を踏む、かすかな足音。

 カエデは振り返った。

 そこに、一人の女性が立っていた。

 白いワンピースをまとい、素足で花畑に立っている。透き通るように白い肌。背中には、光を受けて淡く輝く妖精の羽が広がっていた。

 長く美しい赤髪が風に揺れ、花びらとともに柔らかく流れていく。

 その姿は、まるで花畑そのものから生まれたかのように美しかった。

「……アン?」

 カエデが名前を呼ぶと、女性は穏やかに微笑んだ。

「はい。私です」

 その声を聞いた瞬間、カエデは胸がいっぱいになった。

 間違いない。

 目の前にいるのは、アンだった。

 手紙に綴られていた想い。湖の底に残されていた真実。エルフの里で出会った人々の悲しみ。

 それらを思い出すと、自然と目頭が熱くなる。

「アン……会いに来てくれたんだね」

「ええ。どうしても、あなたにお礼を伝えたくて」

 アンは一歩、カエデへ近づいた。

 花を踏まないように、そっと足を運ぶ。その動きは軽やかで、どこか現実の人間とは違う、浮世離れした美しさがあった。

「あなたが、私の手紙を届けてくれたのでしょう?」

「うん。ちゃんと女王様に渡したよ。夢見るルビーも」

「そうですか……」

 アンは目を伏せ、胸の前で両手を重ねた。

「お母様は、手紙を読んでくれたんだね」

「うん。ノエルも、里のみんなも一緒に聞いたよ」

 その言葉に、アンの表情がわずかに揺れた。

「ノエル……」

「ノエルはね、あなたが帰ってくるって信じていたんだよ。あなたが幸せに暮らしているって、ずっと思っていたみたい」

「そう……。あの子らしいですね」

 アンは懐かしむように微笑んだ。

「ノエルには、心配をかけてしまいました。私のことをずっと信じてくれていたのに、何も伝えられなかった」

「でも、手紙を読んで、ノエルも分かってくれたと思う」

「そうだといいのですが」

 風が吹き、二人の間を花びらが通り過ぎていった。

 アンは空を見上げる。

「お母様は……怒っていませんでしたか?」

 その問いに、カエデは少しだけ考えた。

「怒っていたというより、後悔していたと思う。あなたの気持ちを分かってあげられなかったことも、人間のことを決めつけていたことも」

「そうですか……」

「でも、最後にはみんなに話してくれたよ。あなたを想うなら、今までの人間への態度を改めなさいって」

 アンは、驚いたように目を見開いた。

 それから、ゆっくりと笑みを浮かべる。

「あのお母様がそんなことを……」

「うん。きっと、これから少しずつ変わっていくと思う」

「そうですね。そうなってくれたら、嬉しいです」

 アンの表情は穏やかだった。

 悲しみが消えたわけではない。けれど、もうその悲しみに囚われているようには見えなかった。

「ノエルも、最後には笑ってくれたよ。あなたのことを思い出して、泣いてしまったけど」

「ノエル……」

 アンは、そっと胸元に手を当てた。

「私も、あの子に会いたかったです。もう一度、話をしたかった。昔のように、一緒に笑いたかった」

「うん……」

「でも、あなたたちが伝えてくれたから、きっとあの子も前を向けると思います」

 カエデは小さくうなずいた。

「アンのことを忘れないと思う。でも、悲しい思い出だけじゃなくて、楽しかったことも、嬉しかったことも、ちゃんと覚えていてくれるよ」

「……ありがとう」

 アンは微笑んだ。

「あなたは、優しい人ですね」

「そんなことないよ。私はただ、できることをしただけ」

「それでも、あなたが届けてくれたから、私の想いはみんなに届きました」

 アンの言葉は、静かな風のようにカエデの胸へ染み込んでいった。

 カエデは、少しだけ視線を落とす。

「……アンは、あの人のことを大切に思っていたんだね」

 名前を知らない青年。

 手紙には、彼と過ごした時間が綴られていた。

 彼がどんな人だったのか、どんな言葉を交わしたのか。そのすべてを知ることはできない。

 けれど、アンが彼を深く愛していたことだけは、よく分かった。

「はい」

 アンは迷いなく答えた。

「あの人と過ごした時間は、私にとって何よりも大切なものでした」

 その声には、悲しみだけではなく、確かな温かさがあった。

「一緒にいると、何でもない日々が特別に思えました。話をしたり、笑ったり、同じ景色を眺めたり……。そんな時間が、ずっと続いてほしいと思っていました」

 アンは花畑の向こうを見つめた。

「私は、あの人と出会えてよかった。たとえ、あのような結末になってしまったとしても、その気持ちだけは変わりません」

「……そっか」

「あなたにも、大切な人がいるのでしょう?」

 不意に尋ねられ、カエデは少しだけ目を瞬かせた。

「え?」

「一緒に旅をしている、あの剣士の方です」

「あ……アレル?」

「ええ。あなたは、彼のことをとても大切に思っているように見えます」

 カエデは、すぐには答えられなかった。

 アレルの顔が浮かぶ。

 いつも前を向いて歩く姿。危険なときには迷わず仲間を守ろうとする姿。時折、こちらを気遣ってくれる不器用な優しさ。

 そして、カンダタとの戦いで倒れた姿。

 目を覚ましたときの安堵も、まだはっきりと覚えている。

「……うん。大切な人だよ」

 カエデは、少しだけ笑った。

「でも、まだ自分の気持ちをうまく言葉にできないこともあるんだ」

「そうですか」

「アレルと一緒にいると、嬉しいこともあるし、心配になることもある。もっと力になりたいって思うけど、どうすればいいのか分からなくなることもあって……」

 アンは、カエデの話を静かに聞いていた。

「それでも、隣にいたいと思うんだね」

「うん」

 カエデは小さくうなずいた。

「まだ、どうなるかは分からないけど。これからも一緒に旅をしていきたい」

「それなら、きっと大丈夫です」

「え?」

「大切な人と過ごせる時間は、当たり前にあるものではありません。だからこそ、今そばにいることを大切にしてください」

 アンは、穏やかに微笑んだ。

「伝えたいことがあるなら、いつかではなく、伝えられるときに。隣にいたいと思うなら、その気持ちを大切に。後悔しないために、できることをしてあげてください」

 その言葉を聞き、カエデは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 アンは、自分の経験から話しているのだろう。

 もっと一緒にいたかった。もっと話をしたかった。伝えられなかったことも、きっとあったはずだ。

 それでも、彼女は自分の愛を後悔しているわけではない。

 大切な人と過ごした時間を、今も大切に抱いている。

「……ありがとう、アン」

「いいえ。こちらこそ、ありがとう」

 アンは、カエデの手をそっと取った。

 その手は温かく、柔らかかった。

「あなたのおかげで、ようやくみんなに想いを伝えることができました。ノエルにも、女王様にも。私が大切にしていた人たちに」

 アンの羽が、淡い光を帯び始める。

 花畑を吹き抜ける風が、少しずつ強くなっていった。

 花びらが舞い上がり、二人の周囲をゆっくりと巡る。

「アン……?」

 カエデが呼びかけると、アンは少しだけ寂しそうに、それでも幸せそうに微笑んだ。

「もう、行かなければなりません」

「どこへ……?」

「私も、ようやくあの人のところへ行けます」

 アンは空を見上げた。

 その瞳には、もう迷いはなかった。

「……やっと、私もあの人のところへ行ける」

 その声は、風に溶けるように優しかった。

 カエデは何も言えず、ただ彼女を見つめた。

 アンの姿が、少しずつ光に包まれていく。

「カエデさん」

「うん……」

「どうか、あなたも大切な人と幸せに」

 アンは最後にもう一度、穏やかな笑顔を見せた。

 そして、舞い上がる花びらの向こうへ、静かに姿を消していった。

 花畑には、再び風の音だけが残った。

 カエデは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 もう、アンの姿はどこにもない。

 けれど、不思議と寂しさだけではなかった。

 彼女は、ようやく大切な人のもとへ行けたのだ。

 そう思うと、胸の奥に温かなものが広がっていく。

 カエデは、そっと目を閉じた。

 どうか、二人が今度こそ穏やかな時間を過ごせますように。

 そう願いながら。

「……ん……」

 カエデは、ゆっくりと目を開けた。

 見慣れた宿屋の天井が目に入る。

 窓の外はまだ薄暗く、朝が訪れるには少し早い時間のようだった。

 夢だったのだろうか。

 花畑の景色も、アンの声も、手の温もりも、あまりにもはっきりと覚えている。

 カエデは、そっと頬に手を触れた。

 指先が濡れる。

「……あれ?」

 頬を伝った涙が、枕に小さな染みを作っていた。

 自分でも気づかないうちに、泣いていたらしい。

 カエデは目元を拭い、静かに息を吐いた。

 アンは、もう大丈夫なのだろう。

 あの人のもとへ行けると、最後には笑っていた。

「……よかったね」

 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。

 隣の寝台では、アレルがまだ眠っていた。

 カエデは彼の寝顔をしばらく見つめた。

 アンの言葉が、胸の中に残っている。

 大切な人と過ごせる時間は、当たり前にあるものではない。

 だからこそ、今そばにいることを大切にする。

 カエデは、そっと布団をかけ直した。

 そして、もう一度目を閉じた。

 今度は、穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。

     *

 翌朝。

 宿屋の窓から、明るい陽射しが差し込んでいた。

 ノアニールの朝は、穏やかに始まっていた。

 小鳥のさえずりが屋根の上から聞こえ、通りでは人々の話し声が響いている。家々の窓が次々と開かれ、朝の風が村の中を通り抜けていった。

 店先では、主人たちが商品を並べ始めている。家の前を掃除する人もいれば、籠を手に畑へ向かう人もいた。

 子どもたちは、朝から元気いっぱいに通りを駆け回っている。

 昨日の夜、深い眠りから目覚めたばかりとは思えないほど、村にはいつもの生活が戻っていた。

 カエデは身支度を整え、荷物をまとめた。

 アレルも剣と外套を確かめ、出発の準備を終えている。

「準備はできたか?」

「うん。大丈夫だよ」

 二人は部屋を出て、階段を下りた。

 宿屋の主人に鍵を返し、礼を伝えて外へ出る。

 朝の光が、二人を迎えた。

「わあ……」

 カエデは思わず足を止めた。

 夜の間は暗くてよく見えなかった村の景色が、朝の光の中ではっきりと浮かび上がっている。

 緑に囲まれた家々。花の咲く庭先。村の中央へ続く石畳の道。

 木々の隙間から差し込む光が、通りに柔らかな影を落としていた。

「いい朝だね」

「ああ。昨日の夜とはずいぶん違うな」

「うん。みんな、すっかり元気そう」

 カエデは、通りを歩く村人たちを見つめた。

 その表情には、昨夜の夢の余韻が残っていた。

「……実はね、昨日の夜、アンが夢に出てきたんだ」

 アレルが彼女へ視線を向ける。

「アンが?」

「うん。花畑にいてね。私に、ありがとうって言ってたよ」

 カエデは、穏やかに微笑んだ。

「女王様やノエル、里のみんなに想いが届いて、安心したみたいだった」

「そうか……」

 アレルは、少しだけ目を伏せた。

「アンも、ようやく安心できたんだろうな」

「うん。最後は笑ってたよ」

「それなら、よかった」

 それ以上、二人は多くを語らなかった。

 言葉にしなくても、アンが穏やかな気持ちで旅立てたことが伝わっていた。

 カエデは朝の空を見上げた。

 昨日まで胸の奥に残っていた重さが、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。

 二人は村の中央へ向かって歩き始めた。

     *

村の中央には、小さな広場があった。

 朝の光が広場を照らし、近くの井戸では村人が水を汲んでいる。荷物を運ぶ人や、家族と話しながら歩く人の姿もあった。

 その片隅に、一人の老人が腰掛けていた。

 老人は通りを行き交う人々を眺めていたが、二人の姿に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

「おや……旅の方かね?」

「はい。少しの間、この村に滞在していました」

 アレルが答える。

「そうかい。ところで……」

 老人はアレルの顔をじっと見つめた。

 何かを確かめるように、目元や輪郭を眺めている。

「お前さん、若い頃のオルテガによく似ているな」

「……え?」

 アレルの表情が変わった。

 カエデも思わず老人へ視線を向ける。

「父さんのことを知っているんですか!」

 アレルは、思わず一歩前へ出た。

 普段の落ち着いた声とは違う。驚きと期待が入り交じり、言葉が少し早くなっていた。

 老人は、懐かしそうに目を細めた。

「もちろん知っておるとも。あの男は、昔この村に長く滞在しておったからな」

「この村に……?」

「ああ。旅の途中、しばらくノアニールで過ごしていたんじゃ。あの頃は、まだ若かったが、ずいぶん立派な男だったよ」

 老人は遠くを見るように目を細めた。

「初めて会ったときから、ただ者ではないと分かった。背筋が伸びていて、目には強い意志が宿っていた。どんな相手を前にしても怯まず、困っている者がいれば迷わず手を差し伸べる。まさに勇者と呼ぶにふさわしい男だった」

 アレルは、老人の言葉を一つも聞き逃すまいと、真剣な表情で耳を傾けていた。

「魔物が村の近くに現れたときも、オルテガは一人で立ち向かってくれた。あの強さは、今でも忘れられん。何匹もの魔物が襲いかかってきても、誰も近づけないほどの力を持っていたよ」

「……そうだったんですね」

 アレルは、静かにうなずいた。

 父がこの村で過ごしていた。

 自分の知らない場所で、父がどんなふうに旅をしていたのか。誰と出会い、どんな人々に記憶されているのか。

 それを知ることができるのは、何よりも嬉しいことだった。

「それに、あの男はよく息子の話をしておった」

「息子……?」

「ああ。アリアハンに置いてきた幼い息子のことじゃ。旅に出てからも、ずっと気にかけておったよ」

 老人は、懐かしそうに笑った。

「元気にしているだろうか。大きくなったら、どんな男になるだろうか。そんなことを、時折話しておった」

 アレルは、わずかに目を見開いた。

 父が自分のことを話していた。

 旅の途中でも、遠く離れた場所にいても、自分のことを忘れずにいてくれた。

 その事実が、胸の奥に静かに広がっていく。

「……父さんが、そんなことを」

「そうじゃ。あの男は、強さだけではなく、家族を想う心も持っていた。お前さんのことを話すときは、いつも少し表情が柔らかくなっておったよ」

 老人はアレルの顔を見つめた。

「ところで……オルテガは元気にしておるのかね?」

 その問いに、アレルの表情がわずかに曇った。

 先ほどまで浮かんでいた喜びが、静かに引いていく。

 アレルは一度だけ息を吸い、老人の目を見つめた。

「……父は、その旅の道中で亡くなりました」

「何と……」

 老人の顔から笑みが消えた。

「そうか……。あのオルテガが……」

「はい。俺が旅に出る前に、父の訃報を知りました」

 アレルは、拳をそっと握った。

「父は、魔王を倒すために旅をしていました。俺は、その父の無念を晴らすために、使命を継いでいます」

 その声には、静かな決意が込められていた。

「そうか……。お前さんが、あの男の後を継いだのか」

「はい」

 アレルはうなずいた。

「ですが、それだけではありません」

 老人は、黙って続きを待った。

「父の意志を継ぐことは、俺にとって大切なことです。父が果たせなかったことを、俺が成し遂げたいと思っています」

 アレルは、まっすぐに老人を見つめた。

「でも、今は俺自身がバラモスを倒したいと思っています。父のためだけではなく、この世界で苦しんでいる人たちを救いたい。だから、自分の意志で旅を続けているんです」

 言葉を終えたアレルの表情には、迷いがなかった。

 父から受け継いだ使命。

 そして、自分自身が選んだ道。

 その二つを、彼は確かに胸に抱いていた。

 カエデは、隣でアレルの横顔を見つめていた。

 彼が父親の話をするとき、いつもとは少し違う表情をすることを知っている。

 父のことを知る人に出会えた喜び。父が自分を想っていたと知った嬉しさ。そして、もう会うことができないという寂しさ。

 それらが、彼の中で静かに重なっているように見えた。

 老人はしばらくアレルを見つめていた。

 やがて、ゆっくりとうなずく。

「そうか……。お前さんは、オルテガの息子であると同時に、お前さん自身の道を歩んでおるんじゃな」

「はい」

 老人は柔らかな笑みを浮かべた。

「立派になったものだ。あの男が聞いたら、きっと喜ぶだろう」

 その言葉に、アレルは少しだけ目を伏せた。

「……ありがとうございます」

 老人は、遠い記憶をたどるように視線を上げた。広場を吹き抜ける朝風が、白い髭をかすかに揺らす。

「そういえば、オルテガはこの村を発つとき、アッサラームへ向かうと言っておったな」

「アッサラーム……?」

 アレルは聞き返し、父の名前に続いて聞かされた地名を、確かめるように口の中で繰り返す。

「ああ。何でも、旅を続けるために必要なものを探していると言っておった。確か、まほうのかぎを手に入れたいと話していたはずじゃ」

 老人はゆっくりとうなずいた。皺の刻まれた顔には、当時のオルテガとの会話を懐かしむような穏やかな笑みが浮かんでいる。

「まほうのかぎ……」

 アレルはその言葉を繰り返した。

 父が探していたもの。それがどんなものなのか、なぜ必要としていたのか。聞きたいことが次々と浮かんでくる。

 その隣で、カエデの瞳がほんの一瞬だけ輝いた。

 まほうのかぎ。その名前には聞き覚えがある。ゲームでも、冒険の行く先を大きく広げてくれる重要な道具だった。

 思いがけないところで耳にした名前に、胸が弾む。けれど、すぐに自分の反応を思い出し、カエデはそっと表情を引き締めた。

 知っていることを悟られてはいけない。

「カエデ?」

 アレルが不思議そうに顔を向ける。

「えっ? あ、ううん。何でもないよ」

 カエデは小さく首を振り、何事もなかったように笑った。

 アレルは少しだけ彼女を見つめたものの、すぐに老人へと視線を戻した。

「ところで、旅はまだ続くのだろう?」

「はい。これからロマリアへ戻り、ノアニールで起きていたことを王様に報告するつもりです」

「そうか。ならば、気をつけて行くんじゃぞ」

「ありがとうございます」

「お前さんたちの旅に、よい風が吹くことを願っておるよ」

 老人は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、二人が村の出口へ向かうまで、広場の片隅から見送ってくれた。

     *

 村の入口へ向かう道には、朝の光が降り注いでいた。

 家々からは人々の話し声が聞こえ、通りには仕事へ向かう村人たちの姿がある。

 昨日の夜、目覚めたばかりの村とは思えないほど、ノアニールは穏やかな日常を取り戻していた。

 カエデは、歩きながら村を振り返った。

「……よかったね。みんな、元気そうで」

「ああ。これなら、もう心配はいらないだろう」

「うん」

 カエデは小さく笑った。

 アンのことも、オルテガのことも、この村で過ごした時間も。

 ここには、さまざまな人の想いが残されていた。

 悲しい出来事もあった。

 けれど、今こうして人々が笑い、暮らしている姿を見ると、それだけで救われる気がした。

 アレルは村の入口で一度立ち止まり、振り返った。

 先ほどの老人の言葉が、まだ胸に残っている。

 父がこの村に滞在していたこと。

 旅の途中でも、自分のことを気にかけていたこと。

 自分の知らない父の姿を、またひとつ知ることができた。

「……父さんも、この景色を見ていたんだな」

 アレルがぽつりとつぶやく。

 カエデは、彼の横顔を見た。

「そうだね。きっと、ここでいろんな人と話したんだろうね」

「ああ」

「お父さんがどんなふうに旅をしていたのか、少し分かった気がする?」

「……そうだな」

 アレルは、もう一度村を見渡した。

「俺の知らない父さんの姿を、知ることができた」

 その声には、寂しさと、わずかな温かさが混じっていた。

「それだけでも、ここへ来た意味はあったと思う」

「うん」

 カエデは、静かにうなずいた。

 やがてアレルは前を向いた。

「行こう。ロマリアへ戻らないとな」

「うん!」

 二人は並んで歩き出した。

 ノアニールの村が、少しずつ遠ざかっていく。

 長く続いたロマリア、カザーブ、そしてノアニールでの旅も、これで一区切りとなる。

 カンダタとの戦い。仲間との出会いと別れ。アレルが傷ついたこと。カエデが抱えた後悔。エルフと人間の物語。そして、オルテガの足跡。

 この地方で過ごした時間は、決して短いものではなかった。

 楽しいことばかりではなかったし、悲しい出来事もあった。

 それでも、出会った人々や交わした言葉は、二人の中に確かに残っている。

 カエデは、隣を歩くアレルを見上げた。

 自分にできることも、これから見つけていかなければならない。

 そして、これからも一緒に歩いていく。

 そう思うと、自然と前を向くことができた。

「次はロマリアだね」

「ああ。報告を済ませたら、また先へ進もう」

「うん。今度はどんな場所に行くんだろう」

「さあな。行ってみれば分かるだろ」

「ふふ、そうだね」

 二人の声が、朝の風に乗って遠ざかっていく。

 ノアニールの村は、もう見えなくなり始めていた。

 それでも、ここで出会った人々の想いは、二人の旅の中に残り続けるだろう。

 新しい道の先には、まだ知らない景色と出会いが待っている。

 アレルとカエデは、それぞれの想いを胸に、ロマリアへ向かって歩き続けた。
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