DQ3 夜明けの果てに君と
洞窟の奥から、二人は来た道を戻っていた。
地底湖を離れてから、ほとんど会話はなかった。
カエデの胸元には、アンが残した手紙が大切にしまわれている。アレルの手には、夢見るルビーがあった。
洞窟の中は相変わらず薄暗く、足元には大小さまざまな岩が転がっている。壁に沿って進むたび、二人の足音が静かに反響した。
あの美しい湖で知った真実は、まだ胸の奥に重く残っていた。
やがて、前方にかすかな光が見え始める。
「あ……出口だね」
カエデが顔を上げた。
「ああ。もう少しだ」
アレルは足元を確かめながら、ゆっくりと進んでいく。
出口に近づくにつれて、外から吹き込む風が頬を撫でた。洞窟の中にこもっていた湿った空気とは違う、森の匂いを含んだ風だった。
二人は最後の岩場を抜け、洞窟の外へ出た。
目の前には、広々とした空が広がっていた。
頭上を覆っていた岩壁がなくなり、陽の光が木々の葉を透かして降り注いでいる。遠くには緑の山並みが連なり、森の向こうから鳥のさえずりが聞こえてきた。
「……ふう」
カエデは思わず大きく息を吸い込んだ。
「やっぱり、外の空気って気持ちいいね」
「そうだな。洞窟の中は少し息が詰まる」
「ずっと暗かったから、外がすごく明るく感じるよ」
カエデは目を細め、木々の間から差し込む光を見上げた。
「なんだか、ずいぶん長く中にいた気がするなあ」
「実際、それなりに歩いたからな」
「そうだけど……。地底湖もすごく綺麗だったし、ちょっと不思議な場所だったね」
「ああ。あんな場所が森の奥にあるとは思わなかった」
「うん。まるで、誰にも見つからないように隠されているみたいだった」
そう言ってから、カエデは少しだけ口を閉じた。
あの湖のほとりに置かれていた手紙。
そこに書かれていたアンの言葉が、再び胸の中によみがえる。
アレルも、彼女が何を思い出したのか察したようだった。
「……戻ろう。女王に手紙を届けないとな」
「うん」
カエデは小さくうなずいた。
目の前には、どこまでも続く森と明るい空が広がっている。
けれど、心の中はまだ晴れなかった。
視界はこんなにも開けているのに、胸の奥には重たいものが残っている。
二人は森の道へ足を踏み入れた。
*
エルフの隠れ里へ戻る道は、来たときと同じように木々に囲まれていた。
木漏れ日が地面に揺れ、風が枝葉を優しく鳴らしている。道端には小さな花が咲き、草の間を小さな生き物が走り抜けていった。
しばらく歩くと、木々の向こうに大きな樹木が見えてくる。
里の中心にそびえる大樹だった。
「あそこまで戻れば、もうすぐだね」
「ああ」
二人は大樹を目指して歩き続けた。
やがて、木々の間からエルフの隠れ里が姿を現す。
里は、以前訪れたときと変わらない様子だった。
大樹の周囲には木造の家々が並び、枝の間に架けられた通路には、エルフたちが行き交っている。陽の光を受けた葉がきらきらと輝き、風が吹くたびに緑の波が広がるようだった。
広場の近くでは、何人かのエルフが水を汲んでいた。別の場所では、若いエルフが籠いっぱいの果物を運び、年長のエルフが庭先の植物に水を与えている。
少し離れた木の根元では、子どもたちが楽しそうに走り回っていた。
「待ってよ!」
「こっちだよ!」
小さな笑い声が、穏やかな風に乗って聞こえてくる。
その光景を見て、カエデは足を緩めた。
アンが暮らしていた里。
彼女も、かつてはこの場所で過ごしていたのだろう。
子どもたちのように広場を走り回ったこともあったかもしれない。家の前で母親と話をしたり、ノエルと一緒に笑い合ったりしたこともあったはずだ。
今、目の前に広がっている日常の中に、アンの姿はない。
けれど、ここには確かに彼女が生きていた時間があった。
「……変わらないね」
カエデが小さくつぶやく。
「何がだ?」
「里の様子。前に来たときと同じだなって」
「そうだな」
アレルも周囲を見渡した。
人々の表情は穏やかで、里には普段どおりの暮らしが続いている。
けれど、二人はもう知っていた。
この里の穏やかな日常の陰で、アンが何を思い、どんな気持ちを抱えていたのか。
そして、彼女が最後に何を願ったのか。
アレルは手に持った夢見るルビーへ目を落とした。
「行こう」
「うん」
二人は大樹へ向かって歩き始めた。
*
大樹の根元にある扉の前には、数人のエルフが立っていた。
二人の姿に気づくと、そのうちの一人が前へ出る。
「あなたたちですか。何の用でしょう」
「女王に会いたい」
アレルが答えると、エルフの表情がわずかに険しくなった。
「以前も申し上げたはずです。里への出入りは認めていますが、人間を二度も女王様にお会いさせるわけにはいきません」
「待ってください。今回は、アンさんについて伝えたいことがあるんです」
カエデが一歩前へ出て説明しようとする。
しかし、エルフは首を横に振った。
「アン様については、すでに十分に調べています。これ以上、あなたたちにお話しすることはありません」
「それは違う」
アレルの声が、静かに響いた。
彼はカエデの前に立つと、エルフたちをまっすぐに見つめた。
「アンさんについて、伝えることがある」
低く抑えられた声だった。
怒鳴っているわけではない。けれど、いつもの穏やかな調子とは違う、強い意志が込められていた。
「女王様に直接伝える」
「だから、私たちに話せばよいと言っているのです」
「ここで済ませるつもりはない」
アレルは一歩も引かなかった。
「アンさん本人に関わる、大事な話だ。女王が知らなければならないことがある」
その言葉に、エルフたちは互いの顔を見合わせた。
アレルの視線は揺らがない。
その場を力ずくで通ろうとしているわけではない。それでも、何としても女王に会うという決意が、態度からはっきりと伝わってきた。
「……本当に、アン様のことなのですね?」
「ああ」
「それほどまでに重要な話だと?」
「そうだ」
短い返答だった。
エルフたちはしばらく迷っていたが、やがて一人が小さく息を吐いた。
「……分かりました。女王様にお取り次ぎします」
そう言って、扉の前から身を引く。
「こちらへ」
アレルは小さくうなずき、カエデとともに大樹の中へ入っていった。
*
大樹の内部は、以前と変わらず静かな空気に包まれていた。
木の壁には柔らかな光が差し込み、枝の隙間から漏れる陽の光が床に淡い模様を描いている。
奥へ進むにつれて、外の喧騒は遠ざかっていった。
やがて、二人は女王のいる広間へ案内された。
女王は玉座に座り、二人の姿を見ると、わずかに眉を寄せた。
「また、あなたたちですか」
その声には、警戒がにじんでいた。
「一度、話は済んだはずです。今度は何の用でしょう」
「渡したいものがある」
アレルはそう言って、手にしていたものを差し出した。
女王の視線が、彼の手元へ向かう。
「……それは」
その輝きを見た瞬間、女王の表情が変わった。
玉座の肘掛けに置いていた手が、ぴくりと動く。
「まさか……夢見るルビー?」
アレルが一歩進み、ルビーを女王へ差し出した。
「これを、アンさんのいた場所で見つけた」
「アンの……?」
女王は立ち上がった。
玉座から身を乗り出すようにして、夢見るルビーを見つめる。
「どうして、これがあなたたちの手に……。いったい、どこで見つけたのですか?」
「森の奥にある洞窟だ。地底湖のほとりに置かれていた」
「地底湖……?」
女王はルビーを受け取ると、両手で包み込むように持った。
その指先が、かすかに震えている。
「これを持っていたということは……」
女王は、はっと顔を上げた。
「アンは無事なのですか?」
その声に、先ほどまでの警戒はなかった。
「アンを見つけたのですか?今、どこにいるのですか?」
女王は二人へ近づいた。
「早く教えてください。あの子は……アンは、無事なのですか?」
カエデは、思わず胸元に手を添えた。
女王の表情には、期待が浮かんでいた。
夢見るルビーが戻ってきた。ならば、アンも見つかったのではないか。もしかしたら、今度こそ娘に会えるのではないか。
そんな希望が、彼女の目に宿っている。
けれど、アレルはすぐには答えなかった。
女王の手の中で、夢見るルビーが淡く光っている。
「……これを読んでほしい」
アレルは静かに告げた。
カエデは胸元から一通の手紙を取り出し、女王へ差し出した。
「アンさんが残したものです」
「……手紙?」
女王は戸惑いながら、それを受け取った。
封を開き、最初の文字に目を落とす。
そこには、見慣れた娘の筆跡があった。
「これは……アンの字……」
女王の声がかすれる。
彼女は手紙を両手で持ち直し、ゆっくりと読み始めた。
最初の数行を目で追ったところで、指先が止まる。
何度か文字を確かめるように視線を動かし、それから再び読み進めた。
やがて、女王の表情から期待が消えていく。
アンが里を離れた理由。
母への謝罪。
ノエルへの感謝。
そして、愛する青年とともに選んだ最期。
手紙に記された言葉を追うたび、女王の顔から血の気が引いていった。
「……そんな」
かすかな声が漏れる。
女王は一度、手紙から目を離した。
けれど、すぐにまた視線を戻す。
読み間違いではないか。何かの間違いではないか。
そう確かめるように、同じ箇所をもう一度読み返す。
しかし、そこに書かれている言葉は変わらなかった。
アンは青年に連れ去られたのではなかった。
青年に騙され、夢見るルビーを奪われたのでもなかった。
二人は、自分たちの意思でともに生きる道を選び、そして最期を迎えたのだ。
女王の手が、わずかに震えた。
「……あの子が」
それ以上、言葉が続かなかった。
カエデは女王の様子を見つめていた。
何か声をかけるべきなのかもしれない。
けれど、今は何を言っても届かないような気がした。
アレルもまた、何も言わずに女王を見守っていた。
しばらくして、女王は手紙を胸元へ寄せた。
その顔には涙はなかった。
ただ、深い後悔と、受け止めきれない現実に押しつぶされそうな表情が浮かんでいた。
「……あなたたちには、もう一つ頼みたいことがあります」
女王は顔を上げた。
「この手紙を、里の者たちにも伝えなければなりません」
*
女王の命を受け、使いのエルフたちは里の広場へ向かった。
しばらくすると、里のあちこちからエルフたちが集まり始める。
水を汲んでいた者も、荷物を運んでいた者も、家の手入れをしていた者も、手を止めて広場へ足を運んだ。
何事が起きたのか分からず、互いに顔を見合わせている。
「女王様が、皆を集めているらしい」
「何かあったのかしら」
「人間たちもいるようだが……」
小さなざわめきが広がる中、ノエルも広場へやってきた。
「いったい、どうしたの?」
近くにいたエルフへ尋ねるが、誰も事情を知らないらしい。
ノエルは不安そうに周囲を見回した。
やがて、広場の中央に女王が姿を現す。
その手には、夢見るルビーと一通の手紙があった。
女王の後ろにはアレルとカエデが立っている。
ノエルは二人の姿を見つけると、少しだけ表情を和らげた。
けれど、女王の様子がいつもと違うことに気づき、すぐに不安そうな顔へ戻る。
「皆、聞きなさい」
女王の声が広場に響いた。
ざわめきが少しずつ静まっていく。
「アンが帰ってきました」
その言葉に、ノエルが息を呑んだ。
「……アン?」
思わず声が漏れる。
周囲のエルフたちも、互いに顔を見合わせた。
しかし、女王のそばにアンの姿はない。
そこにあるのは、夢見るルビーと一通の手紙だけだった。
「アンは、最後に私たちへ言葉を残していました」
女王は手紙を見つめた。
「これから、その手紙を読み上げます。皆、よく聞きなさい」
女王が目配せをすると、そばに控えていた使いの一人が前へ出た。
使いは手紙を受け取り、両手で広げる。
広場に集まったエルフたちが、静かにその様子を見つめていた。
「……アン様からの手紙です」
使いは一度、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと読み始める。
アンが里を離れたこと。
母である女王への謝罪。
ノエルへの感謝。
里の人々への言葉。
使いの声は、最初こそ落ち着いていた。
けれど、読み進めるにつれて、少しずつ重みを増していく。
アンは、母を嫌っていたわけではなかった。
里を憎んでいたわけでもなかった。
ただ、自分の愛する人とともに生きたかった。
そして、二人は誰にも知られない場所で、最期を迎えた。
その真実が読み上げられたとき、広場から音が消えた。
ノエルは、使いの声を聞きながら、じっと前を見つめていた。
以前、アンが自分に話してくれたことが、次々と思い出される。
青年と過ごした時間。
彼のことを語るときの、幸せそうな顔。
二人で里を出ると決めたときの、少し不安そうで、それでも嬉しそうだった表情。
いつか、どこか遠くで幸せに暮らしている。
そう信じていた。
けれど、手紙に書かれていたのは、ノエルが思い描いていた未来とは違うものだった。
使いは最後の一行まで読み終えると、静かに手紙を閉じた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
子どもたちの声も聞こえない。
広場を吹き抜ける風が、木々の葉を揺らす音だけが響いていた。
そこにいたエルフたちは、誰もが何かを考えているようだった。
アンが人間の青年を愛したとき、どんな言葉をかけただろう。
人間との関係を快く思わず、彼女を遠ざけたことはなかっただろうか。
里のしきたりや考え方を理由に、彼女の気持ちを理解しようとしなかったのではないか。
アンが里を離れるまで、誰も本当の意味で彼女の声を聞こうとしていなかったのではないか。
女王は、集まった者たちを見渡した。
その表情には、深い悔恨が刻まれていた。
「……私たちは、何をしていたのでしょう」
静かな声だった。
けれど、その言葉は広場にいる全員へ向けられていた。
「アンが何を望んでいたのか。誰を愛し、どんな未来を願っていたのか。私たちは、それを知ろうとしていたのでしょうか」
女王は一度、手元の夢見るルビーへ目を落とした。
「人間だからという理由だけで、あの子の想いを認めなかった。私自身も、里の考え方を守ることばかりを優先していました」
その声に、わずかな震えが混じる。
「それが、あの子をどれほど追い詰めたのか……今になって、ようやく思い知らされました」
女王は顔を上げた。
「皆、聞きなさい!」
今度の声は、広場の隅まで届くほど強かった。
「アンを想うというのなら、今までの人間への態度を改めなさい!」
エルフたちの肩が、わずかに揺れる。
「人間だからと遠ざけ、理解しようともせず、拒絶する。それがどれほど残酷なことだったのか、私たちは考えなければなりません!」
女王の声が、広場に響き渡った。
「あの子が最後に残したのは、謝罪と感謝でした。それなのに、私たちはあの子の想いを知ろうともせず、ただ自分たちの考えを押しつけていたのです!」
女王は一度、息を整えた。
「私は、母としても、この里を治める者としても、過ちを犯しました。アンを失ったことを、ただ悲しんで終わらせるつもりはありません」
その目は、広場に集まった者たちをまっすぐに見つめていた。
「アンを想うのなら、これからの私たちの行いで示しなさい。人間を拒むのではなく、相手を知り、理解しようとすること。相手の想いに耳を傾けること。それを、今から始めるのです」
誰も反論しなかった。
広場に集まったエルフたちは、静かにうつむいていた。
中には、両手を強く握りしめている者もいる。
誰かが声を上げて女王を責めることも、自分には関係ないと背を向けることもなかった。
それぞれが、アンの手紙に書かれた言葉を受け止めようとしていた。
女王は、しばらくその様子を見つめていた。
やがて、アレルとカエデへ向き直る。
「あなたたちには、感謝しています」
「いや。俺たちは、アンさんの残したものを届けただけだ」
アレルが静かに答えた。
「それでもです。あなたたちが真実を見つけ、ここへ持ち帰ってくれなければ、私たちは何も知らないままだったでしょう」
女王は夢見るルビーを大切そうに両手で包んだ。
「……この子の人生を、無駄にはしません」
それから、近くに控えていたエルフへ目を向ける。
「めざめのこなを持ってきなさい」
「かしこまりました」
使いのエルフが奥へ下がり、しばらくして小さな袋を持って戻ってきた。
女王はそれを受け取ると、アレルへ差し出す。
「これを、あなたたちに託します」
「これは?」
「めざめのこなです。ノアニールの人々を、長い眠りから目覚めさせるために使ってください」
カエデが思わず女王の顔を見上げると、女王は少しだけ目を伏せた。
「アンが愛した青年の故郷です。あの子が最後まで気にかけていた場所でもあります。これ以上、あの村の人々を眠らせたままにしておくわけにはいきません」
アレルは袋を受け取った。
「分かった。必ず届ける」
「お願いします」
女王は深く頭を下げた。
「どうか、ノアニールの人々を救ってください。そして……アンが残した想いを、これからの私たちが忘れないようにします」
アレルは静かにうなずいた。
カエデも、女王へ向かって小さく頭を下げる。
アンの物語は、もう戻らない過去のものになった。
けれど、彼女が残したものは今もこうして人々の心に届いている。
それを無駄にしないためにも、二人は次へ進まなければならなかった。
*
広場を離れた二人は、里の出口へ向かって歩いていた。
先ほどまでの重苦しい空気は、すぐに消えるものではない。
それでも、広場に集まっていたエルフたちは、少しずつ日常へ戻ろうとしていた。
ある者は家へ戻り、ある者は近くにいた仲間と静かに話し始める。誰もが、先ほどの出来事を胸に抱えたまま、それぞれの場所へ戻っていった。
カエデは、広場の端に立つノエルの姿を見つけた。
ノエルは二人に気づくと、こちらへ歩いてくる。
「アレルさん、カエデさん!」
「ノエルさん」
カエデが振り向く。
ノエルは二人の前まで来ると、少しだけ息を整えた。
「もう、出発するんですか?」
「ああ。ノアニールへ向かうつもりだ」
アレルが答える。
「そうですか……」
ノエルは一度うつむき、それから顔を上げた。
「お二人に、どうしてもお礼を言いたくて」
「お礼?」
「はい」
ノエルは、二人を見つめた。
「アンのことを、見つけてくれてありがとう。あの子が残した手紙を、みんなに届けてくれてありがとう」
その声は穏やかだった。
「これで、あの二人も報われると思います」
ノエルは、少しだけ笑った。
「ずっと、どこかで幸せに暮らしていると思っていました。いつか二人で帰ってきて、また昔みたいに話せる日が来るんじゃないかって……そんなことを考えていたんです」
カエデは、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「でも、あの手紙を読んで、ようやく分かりました。アンがどんな気持ちで里を出たのか。何を望んでいたのか。あの子は、最後まで自分の大切な人と一緒にいたかったんですね」
ノエルは視線を落とした。
「私、あの子がその話をしてくれるたびに、嬉しかったんです。いつもは強がっているのに、その人のことを話すときだけは、すごく幸せそうな顔をしていて」
その口元に、懐かしむような笑みが浮かぶ。
「里を出ると決めたときも、少し不安そうにしていました。でも、どこか嬉しそうで……。きっと、これから先のことを考えていたんでしょうね」
ノエルは小さく息を吸った。
「私だけは、二人のことを応援していたかった。あの子が好きになった人なら、きっと素敵な人なんだろうって思っていたんです」
「……そうだったんだね」
カエデがそっと答える。
「はい。だから、二人が幸せに暮らしていると思っていたかったんです」
ノエルの声が、少しずつ震え始めた。
「いつか、どこかで元気にしているって……。あの子なら、きっと笑っているって……」
彼女は唇を噛んだ。
「でも、本当は……もう、帰ってこないんですね」
それまで何とか保っていた笑顔が、ゆっくりと崩れていく。
「もう、会えないんですね……」
声が途切れた。
ノエルは両手で顔を覆った。
「……アン」
小さな呼び声が、震えながらこぼれる。
「どうして……。どうして、何も言ってくれなかったの……」
涙が、指の隙間からこぼれ落ちた。
ずっと信じていた。
アンはどこかで生きている。青年と一緒に、幸せに暮らしている。
そう思うことで、離れてしまった寂しさを紛らわせていた。
けれど、もうその希望を抱き続けることはできない。
ノエルの肩が小さく震える。
カエデは、そっと彼女のそばへ近づいた。
「ノエルさん……」
声をかけると、ノエルは顔を上げた。
涙で濡れた目が、カエデを見つめる。
カエデは何も言わず、両腕を広げた。
ノエルは一瞬だけためらったあと、その胸に顔を埋めた。
「うっ……ああ……!」
堪えていたものが、一気にあふれ出す。
カエデはノエルの背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
「謝らなくていいよ」
「私、ずっと……二人が幸せに暮らしているって、信じていたのに……」
「うん……」
「アンは、もう……」
「うん。分かってるよ」
カエデは、彼女の背中をゆっくりと撫でた。
何か気の利いた言葉をかけることはできない。
アンを失った悲しみを消すことも、ノエルの心をすぐに慰めることもできない。
それでも、今はそばにいたかった。
ノエルはカエデの服を握りしめ、しばらく泣き続けた。
アレルは二人の様子を静かに見守っていた。
無理に声をかけることはしない。
今は、ノエルが悲しみを吐き出せる時間を大切にするべきだと思った。
やがて、ノエルの泣き声が少しずつ落ち着いていく。
彼女はカエデの肩から顔を離し、涙で濡れた頬を手の甲で拭った。
「……ごめんなさい。こんなところで泣いてしまって」
「いいんだよ」
カエデは優しく笑った。
「無理に我慢しなくていいからね」
「ありがとう、カエデさん」
ノエルはもう一度、目元を拭った。
まだ涙は残っていたが、その表情には少しずつ穏やかさが戻ってきていた。
「お二人には、本当に感謝しています」
「俺たちは、アンさんの手紙を届けただけだ」
アレルが言う。
「それでも、私たちにとっては大切なことです。あの子が残した言葉を、これからも忘れずにいたいと思います」
ノエルは二人を見つめた。
そして、今度は少しだけ明るい笑顔を浮かべる。
「また遊びに来てくださいね」
「え?」
「今度は、もっとゆっくりしていってください。みんなでおもてなししますから!」
その言葉には、先ほどまでの悲しみとは違う温かさがあった。
何もかもが元どおりになったわけではない。
アンが戻ってくることもない。
けれど、ノエルはこれからもこの里で暮らしていく。アンが残した想いを胸に、少しずつ前へ進もうとしているのだろう。
「うん。ありがとう、ノエルさん。また来るね」
カエデが答える。
「ああ。そのときは、世話になる」
アレルも静かにうなずいた。
「はい。約束ですよ」
ノエルは笑顔で手を振った。
二人も手を振り返し、里の出口へ向かって歩き始める。
振り返ると、ノエルはまだそこに立っていた。
涙の跡が残る顔で、それでも笑って二人を見送っている。
カエデは、もう一度だけ小さく手を振った。
*
エルフの隠れ里を離れ、二人は森の道を歩いていた。
大樹の姿が木々の向こうへ隠れていく。
背後からは、風に揺れる葉の音が聞こえていた。
しばらくの間、二人は何も話さなかった。
やがて、カエデがぽつりと口を開く。
「……アンさん、幸せだったのかな」
アレルは少しだけ視線を向けた。
「少なくとも、手紙には幸せだった時間が書かれていた」
「うん。ノエルさんに話していたときも、きっとすごく嬉しかったんだろうね」
カエデは、アンが青年と過ごした時間を思い浮かべた。
誰にも理解されなくても、二人でいるときだけは笑えたのかもしれない。
どんな話をしたのだろう。
どんな景色を見て、どんな時間を過ごしたのだろう。
手紙には書かれていないことも、きっとたくさんあったはずだ。
「……どうして、あんな結末になっちゃったんだろう」
「二人だけの問題じゃなかったんだろうな」
アレルは前を向いたまま答えた。
「アンも、青年も、周りの人たちも、それぞれ大切にしているものがあった。けれど、それを分かり合うことができなかったんだと思う」
「……そっか」
カエデは少しうつむいた。
「誰かを大切に思う気持ちがあっても、それだけじゃ足りないこともあるんだね」
「そうかもしれない」
アレルは、歩く速度を少しだけ緩めた。
「相手のことを大切に思うなら、相手が何を考えているのか、何を望んでいるのかを知ろうとすることも必要なんだろう」
「女王様も、アンさんのことを大切に思っていたんだよね」
「ああ」
「でも、その気持ちがうまく伝わらなかった」
「……そうだな」
カエデは、女王の姿を思い出した。
手紙を読み、言葉を失った女王。
広場に集まったエルフたちへ、これまでの人間への態度を改めるよう叫んだ女王。
娘を失った悲しみだけではなく、自分が何をしてきたのかを突きつけられたような表情だった。
「女王様も、これから変わっていくのかな」
「変わろうとしていた。あとは、あの人たち次第だろう」
「うん……」
カエデは小さくうなずいた。
「アンさんたちが生きていたら、今の里を見てどう思ったんだろうね」
アレルは、すぐには答えなかった。
木々の隙間から差し込む光を見つめ、しばらく考える。
「……どうだろうな」
やがて、静かに口を開いた。
「でも、あの二人が望んでいたことが、少しでもこの先につながればいいと思う」
「この先に……」
「ああ。人間とエルフが、互いを知ろうとするようになれば、同じことを繰り返さずに済むかもしれない」
カエデは、ゆっくりと顔を上げた。
アンと青年が生きていた時間は、もう戻らない。
二人が選んだ結末を変えることもできない。
けれど、二人が残した手紙は、女王やノエル、そして里の人々の心に届いた。
これから先、里の人々が少しずつ変わっていくのなら。
アンが願ったことの一部は、未来へつながっていくのかもしれない。
「……そうだね」
カエデは小さく笑った。
「二人が生きていた証が、これからも残っていくといいな」
「ああ」
二人は再び歩き始めた。
森の向こうには、まだ訪れていない場所がある。
ノアニールでは、長い眠りについた人々が目覚める日を待っている。
アレルは、女王から託されためざめのこなを確かめるように手で押さえた。
「……行こう、カエデ」
「うん」
カエデはアレルの隣に並んだ。
背後には、少しずつ変わろうとしているエルフの隠れ里がある。
そして前方には、まだ目覚めることのない人々が待つノアニールがある。
アンと青年が生きた証を胸に、二人は次の目的地へと歩き出した。
その足取りは、静かだった。
けれど、迷いはなかった。
