DQ3 夜明けの果てに君と

ノエルに案内され、アレルとカエデは彼女の家へ向かった。

 エルフの村は、先ほどの騒ぎが嘘のように静けさを取り戻していた。木々の間を抜ける風が葉を揺らし、家々の窓からは淡い光が漏れている。

 村人たちは、まだ二人を警戒しているようだった。すれ違うたびに視線を向けられることもあったが、先ほどまでのように露骨に拒絶されることはない。

 ノエルはそんな視線を気にする様子もなく、二人の少し前を歩いていた。

「ここが私の家よ。狭いけれど、ゆっくりしていって」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 アレルが礼を述べると、ノエルは柔らかく微笑んだ。

「そんなにかしこまらなくてもいいわ。アンのことを知りたいんでしょう?」

「はい。できれば、もう少し詳しく聞かせてもらいたいです」

「もちろんよ」

 ノエルは扉を開け、二人を家の中へ招き入れた。

 室内には、木の家具が整然と並んでいた。窓辺には小さな花瓶が置かれ、淡い色の花が一輪、静かに咲いている。

 ノエルは二人に椅子を勧めると、温かい飲み物を用意した。

「どうぞ。少し落ち着いてから話しましょう」

「ありがとうございます」

 カエデはカップを両手で包み込んだ。

 温かな湯気が頬に触れる。外の空気は少しずつ冷たくなっていたが、室内には穏やかなぬくもりが満ちていた。

 ノエルは二人の向かいに腰を下ろすと、窓の外へ視線を向けた。

「アンとは、小さい頃からずっと一緒だったの」

 その声は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。

「小さい頃のアンは、とても活発な子だったわ。村の中を走り回って、よく大人たちに叱られていたの。王女様なのだから、もう少し落ち着きなさいって」

 ノエルは小さく笑った。

「でも、本人はまったく気にしていなかったわね。叱られても、次の日にはまた同じことをしていたもの」

「なんだか、意外です」

 カエデが言うと、ノエルはうなずいた。

「でしょう? 今の女王様からは想像できないかもしれないけれど、アンは本当に自由な子だったのよ」

 カップを置いたノエルは、少しだけ表情を和らげた。

「それに、村の外へ出るのが好きだった。森の奥を歩いたり、川辺で遊んだり。人間の住む町にも興味があったみたい」

「それで、ノアニールへ行くようになったんですか?」

「ええ。最初は、ただ村の外を見てみたかっただけだと思う。でも、そこで彼と出会ったの」

 ノエルの声が、ほんの少しだけ優しくなる。

「アンは、彼のことを本当に大切に思っていたわ」

 カエデは黙って耳を傾けた。

「彼と出会ってから、アンはよくノアニールへ出かけるようになった。帰ってくるたびに、彼の話をしてくれたのよ。今日はどんな話をしたとか、何を一緒に見たとか……本当に楽しそうだった」

 ノエルは、両手をカップに添えたまま、遠くを見るような目をした。

「彼と一緒にいるときのアンは、王女様ではなかったわ。ただの一人の女の子だった。好きな人の話をして、会えたことを喜んで、次に会える日を待ち遠しそうにしていた」

「……幸せだったんですね」

「ええ。とても」

 ノエルは迷いなく答えた。

 けれど、その笑顔はすぐに曇った。

「ただ、その幸せは長く続かなかった」

 窓の外で、風が木々を揺らした。

「この村では、人間とエルフが一緒になることをよく思わない人が多かったの。特に、女王様は二人の関係を認めようとしなかった」

「お母さんだからこそ、余計に厳しかったんでしょうか……」

「そうかもしれないわね。女王様は、アンが村の外へ出ることさえ快く思っていなかった。まして、人間の青年と親しくしているなんて、受け入れられなかったのでしょう」

 ノエルは少しうつむいた。

「アンは何度も女王様と口論していたわ。自分の気持ちを分かってほしいと訴えていた。でも、女王様は聞き入れなかった」

「ノエルさんは、そのとき……?」

「私は、アンの話を聞いていたわ」

 ノエルは静かに答えた。

「村の人たちが二人を認めないことも、アンが苦しんでいたことも知っていた。だから、せめて私だけは味方でいたかったの」

 彼女の指先が、カップの縁をそっとなぞる。

「アンは、私にだけは何でも話してくれた。彼と会えた日のことも、女王様と喧嘩した日のことも。ときには泣きながら、どうして誰も分かってくれないのだろうって……」

 ノエルの目が、わずかに伏せられた。

「そんなときでも、彼の話になると笑顔になったわ。いつか村を出て、二人で暮らすんだって。どこへ行くか、どんな家に住むか、そんなことまで楽しそうに話していた」

「二人で、村を出るつもりだったんですね」

「ええ。ある日、アンは私に言ったの。彼と一緒に、この村を出ることにしたって」

 ノエルは、少しだけ微笑んだ。

「二人で駆け落ちするつもりだったのよ」

 カエデは、思わず息を呑んだ。

 アンが村を離れた理由。

 それは、単に人間の青年と恋に落ちたからというだけではない。二人で生きていくために、この村を出ることを選んだのだ。

「私は応援したわ。アンが幸せになれるのなら、それが一番だと思ったから」

「……その後、二人とは会えなかったんですか?」

「ええ。二人が村を出てから、一度も」

 ノエルは窓の外へ目を向けた。

「でも、きっとどこかで元気に暮らしていると思っているわ。アンは彼と一緒にいることを望んでいた。だから、今頃は二人で穏やかに暮らしているんじゃないかしら」

 その声には、確かな願いが込められていた。

 ノエルは、二人が幸せに生きていると信じている。

 それが、彼女の知るアンの最後の姿なのだ。

 カエデは、何も言えなかった。

 自分は、この先に待っている真実を知っている。

 けれど、それをノエルに伝えることはできない。

 彼女の信じている幸せを、今ここで壊すことはできなかった。

「……そうだといいですね」

 カエデは、ようやくそれだけを口にした。

「ええ。そう願っているわ」

 ノエルは穏やかにうなずいた。

 アレルは、二人のやり取りを静かに聞いていた。

「ノエルさん。ひとつ、尋ねてもよろしいですか?」

「何かしら?」

「アンさんが村を出たあと、女王様は彼女を探そうとはしなかったのでしょうか」

 ノエルは少し考え込んだ。

「探したと思うわ。けれど、どこへ向かったのかも分からなかったし、手がかりもなかった。女王様も、あれからアンのことをほとんど口にしなくなったの」

「そうですか……」

「今でも、きっと心配していると思う。あの人は、アンのことを大切に思っていたから」

 ノエルの言葉に、カエデは女王の姿を思い浮かべた。

 娘を失った母親。

 けれど、女王はアンが青年に殺され、夢見るルビーを奪われたと信じている。

 本当は違う。

 アンは、青年とともに命を絶った。そして、夢見るルビーを持ち去ったのも、彼女自身だった。

 その真実を知ったとき、女王は何を思うのだろう。

 怒りだろうか。悲しみだろうか。

 それとも、自分が娘を追い詰めてしまったことへの後悔だろうか。

 カエデには、まだ分からなかった。

「今日は、もう遅いわね」

 ノエルが窓の外を見て言った。

 いつの間にか、空はすっかり暗くなっていた。木々の向こうに見える空には、いくつもの星が瞬いている。

「よかったら、今夜はここに泊まっていって。明日、村の外へ出るのなら、朝のうちに出発した方がいいでしょう」

「よろしいんですか?」

「もちろんよ。アンのことを知りたいと思ってくれているんだもの。私にできることなら、協力したいわ」

「ありがとうございます」

 アレルが頭を下げる。

 カエデも礼を述べた。

 その夜、二人はノエルの家で休むことになった。

     *

 夜が更けるにつれ、村は静けさに包まれていった。

 窓の外では、風が木々の枝を揺らしている。時折、葉の擦れる音が聞こえるだけで、ほかに物音はなかった。

 カエデは用意してもらった寝床に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。

 ノエルから聞いたアンの話が、頭の中を巡っている。

 好きな人と出会い、幸せな時間を過ごしたこと。

 村の人々に関係を認めてもらえず、母親とも衝突していたこと。

 そして、二人で村を出ると決めたこと。

 ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。

 その気持ちは、きっと本物だ。

 だからこそ、真実を知ったときの彼女を思うと、胸が苦しくなった。

 カエデは寝返りを打った。

 目を閉じても、なかなか眠れそうにない。

 そんなことを考えているうちに、いつしか意識はゆっくりと沈んでいった。

     *

 夢の中だった。

 カエデは、見知らぬ場所に立っていた。

 辺りは薄暗く、足元には冷たい石の感触がある。

 どこかから水の流れる音が聞こえていた。

 振り返っても、来た道は見当たらない。目の前には暗い通路が続いているだけだった。

「……ここ、どこ?」

 声を出してみても、返事はない。

 そのとき、少し離れた場所に人影が見えた。

 女性のようだった。

 長い髪が、わずかな風に揺れている。顔は暗がりに隠れていて、はっきりとは見えなかった。

「……あなたは?」

 カエデが声をかける。

 女性は答えなかった。

 ただ、こちらを見ているようだった。

 不思議と、恐怖は感じなかった。

 けれど、胸の奥がざわつく。

 この人は誰なのだろう。

 どうして、こんな場所にいるのだろう。

 カエデが一歩近づこうとしたとき、女性の声が聞こえた。

「……地底の湖に来て」

「え……?」

 短い言葉だった。

 女性は、それ以上何も語らない。

「待って! あなたは誰なの? どうして私に……」

 問いかけても、答えは返ってこなかった。

 女性の姿が、少しずつ暗闇に溶けていく。

「待って!」

 カエデが手を伸ばす。

 けれど、その指先は何にも触れなかった。

 やがて、女性の姿は完全に消えてしまった。

 残されたのは、水の流れる音だけだった。

     *

「……っ!」

 カエデは目を覚ました。

 心臓が、いつもより速く鼓動している。

 しばらく天井を見つめたまま、呼吸を整えた。

「……夢?」

 ゆっくりと身体を起こす。

 窓の外は、まだ薄暗かった。夜明けには少し早いようだ。

 夢の内容は、妙にはっきりと覚えていた。

 暗い通路。

 水の音。

 そして、あの女性の声。

『地底の湖に来て』

 カエデは、膝の上で手を握った。

 地底の湖。

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中にある記憶が結びついた。

 アンのことを知るために、ノエルから話を聞いた。

 アンと青年が村を出たこと。

 二人がその後、どこへ向かったのかは分からないこと。

 そして、夢見るルビーのこと。

 ゲームで知っている出来事が、頭の中に浮かび上がる。

 もしかして、あの女性は――。

 考えかけて、カエデは首を横に振った。

 まだ確かなことではない。

 けれど、もしそうなら、地底の湖へ行く必要がある。

 カエデは寝床から降り、静かに部屋を出た。

     *

 朝の光が村に差し始めた頃、アレルは家の外で剣の具合を確かめていた。

 まだ身体には傷の名残がある。無理をするつもりはなかったが、少しずつ身体を動かしておきたかった。

「アレル」

 背後から声が聞こえ、彼は振り返った。

「カエデ? 早いな。眠れなかったのか?」

「ううん。ちゃんと眠れたよ」

 カエデはそう答えたものの、表情にはどこか緊張が残っていた。

「少し、話があるの」

「何だ?」

「……地底の湖へ行きたい」

 アレルは眉を寄せた。

「地底の湖?」

「うん。そこに行かなきゃいけない気がするの」

「どうしてそう思う?」

「夢を見たの。知らない女の人が出てきて、地底の湖に来てって言った」

 アレルは、しばらく彼女を見つめていた。

「夢の中で言われたから、そこへ行きたいということか?」

「……そう」

「カエデ」

 アレルの声は、いつもより少しだけ慎重だった。

「夢だけを頼りに行動するのは危険だ。何があるか分からない場所なら、なおさらだ」

「分かってる。でも……」

 カエデは言葉を切った。

 自分でも、どう説明すればいいのか分からない。

 夢に出てきた女性が誰なのか、確信があるわけではない。

 けれど、あの言葉を聞いたとき、胸の奥に何かが引っかかった。

 地底の湖へ行けば、アンについて何か分かるかもしれない。

 そう思えてならなかった。

「お願い。どうしても確かめたいの」

 カエデは、アレルの目を見つめた。

 その瞳には、迷いと不安が浮かんでいる。それでも、ただの思いつきで言っているわけではないことは伝わってきた。

 アレルは小さく息を吐いた。

「……分かった。行ってみよう」

「本当?」

「ああ。ただし、危険があればすぐに引き返す。俺の身体もまだ万全じゃないからな」

「うん。無理はしないでね」

「それはお互いさまだ」

 アレルは剣を鞘に収めた。

 カエデは、ほっとしたように表情を緩めた。

「ノエルさんには、どう説明しようか」

「地底の湖を調べに行くと伝えればいい。アンのことを知る手がかりがあるかもしれない、と」

「……そうだね」

 二人はノエルのもとへ向かった。

     *

「地底の湖へ?」

 ノエルは、二人の話を聞いて少し驚いたようだった。

「ええ。アンのことを知る手がかりが、そこにあるかもしれないと思っています」

 アレルが答える。

「そう……。確かに、あの子がよく出かけていた場所のひとつではあるわ」

「何か、心当たりがあるんですか?」

「いいえ。詳しいことは知らないの。ただ、アンは湖の近くで過ごすのが好きだったみたい」

 ノエルは少し考え込んだあと、二人へ向き直った。

「気をつけてね。地底の湖へ続く道は、あまり人が通らないの。魔物も出るはずよ」

「分かりました」

「本当なら私も一緒に行きたいけれど……」

 ノエルは申し訳なさそうに目を伏せた。

「私は村を離れるわけにはいかないの。ごめんなさい」

「いえ。案内していただいただけでも十分です」

 アレルが穏やかに答える。

 カエデも首を横に振った。

「ノエルさんは、ここで待っていてください。私たちで確かめてきます」

「ありがとう。どうか無事に戻ってきてね」

 二人はノエルに礼を述べ、村を後にした。

     *

 地底の湖へ続く道は、村の外れから森の奥へと伸びていた。

 木々の枝が頭上を覆い、朝の光は地面までほとんど届かない。湿った土の匂いが漂い、足元には苔の生えた石が点々と転がっている。

 しばらく進むと、岩壁にぽっかりと開いた洞窟の入口が見えてきた。

「ここか……」

 アレルが入口を見上げる。

 奥からは、冷たい空気が流れ出していた。

 カエデは、洞窟の暗闇を見つめた。

 ゲームで知っている場所だ。

 けれど、実際に目の前にすると、画面越しに見ていたときとはまるで違う。

 岩肌の凹凸も、足元に溜まった水も、洞窟の奥から聞こえるかすかな音も、すべてが現実のものとしてそこにある。

「行こう」

 アレルが先に足を踏み入れた。

「うん」

 カエデも後に続く。

 洞窟の中は、外よりもずっと暗かった。

 壁にはところどころ淡い光を放つ鉱石が埋まっているが、それだけでは奥まで見通せない。二人は足元に注意しながら、ゆっくりと進んでいった。

 しばらく進んだところで、アレルが足を止めた。

「……何かいる」

 カエデも前方へ目を向ける。

 通路の先に、黒い影が浮かんでいた。

 輪郭は曖昧で、身体の形もはっきりしない。ただ、暗闇の中に黒い塊が漂っているように見えた。

「シャドー……!」

 カエデが小さく声を上げる。

 その影は、二人に気づいたようにゆっくりと動き始めた。

「知っている魔物か?」

「うん。気をつけて。あやしいかげと同じく動きが読みにくい相手だよ」

「分かった」

 アレルは剣を抜いた。

 シャドーは音もなく滑るように近づいてくる。

 次の瞬間、影の一部が鋭く伸びた。

「っ!」

 アレルは身体をひねってかわす。黒い腕のようなものが、彼のすぐ脇を通り抜け、岩壁にぶつかった。

 鈍い音が洞窟に響く。

 アレルは踏み込んだ。

 剣が横薙ぎに走る。

 しかし、刃は影の身体をすり抜けたかのように、手応えなく通り抜けてしまった。

「何……?」

「実体がつかみにくいんだよ!」

 カエデの声が響く。

 シャドーはその隙を逃さなかった。

 黒い影が床を這うように広がり、アレルの足元へ迫る。

 アレルはすぐに後ろへ跳び、距離を取った。

「厄介だな……!」

 影は再び形を変え、今度はカエデの方へ向かってくる。

「カエデ、下がれ!」

 アレルが叫ぶ。

 カエデは横へ飛び退いた。黒い影が、先ほどまで彼女の立っていた場所を通り抜ける。

 その動きは速い。姿を変えるたびに攻撃の形も変わり、正面から捉えるのは難しそうだった。

「アレル、動きをよく見て!」

「ああ!」

 アレルは剣を構え直した。

 シャドーが再び迫る。

 今度は、影が大きく広がった瞬間を狙い、アレルは一歩踏み込んだ。

 刃が黒い身体を捉える。

 わずかな手応えがあった。

 シャドーが不規則に揺れ、後方へ退く。

「効いた!」

 カエデが声を上げる。

 アレルは間を置かずに追撃した。

 剣を振り下ろし、続けて横へ薙ぐ。シャドーは身体を歪めてかわそうとしたが、刃の軌道を完全には避けきれなかった。

 黒い影が大きく揺らぐ。

 しかし、倒れることはなかった。

 シャドーは一度距離を取ると、通路の奥へ向かって滑るように移動し始めた。

「逃げる気か!」

 アレルが追おうとする。

「待って!」

 カエデが呼び止めた。

「深追いしない方がいいよ。奥に何がいるか分からない」

 アレルは足を止め、影が消えていった暗闇を見つめた。

「……そうだな。今は先へ進むことを優先しよう」

 二人は剣を構えたまま、しばらく周囲を警戒した。

 やがて、気配が完全に遠ざかったことを確かめ、再び歩き始めた。

     *

 洞窟の奥へ進むにつれて、道は少しずつ広くなっていった。

 天井から垂れ下がる鍾乳石の先には、水滴が溜まっている。ぽたり、ぽたりと落ちる音が、静かな通路に響いていた。

 足元には浅い水たまりが広がり、歩くたびに小さな波紋が生まれる。

「思ったより広いね……」

 カエデがつぶやいた。

「ああ。まだ先があるようだ」

 アレルは壁に手を触れながら、周囲を確かめる。

 そのとき、少し先の暗がりから、かすかな音が聞こえた。

 何かが湿った地面を踏む音。

 二人は足を止めた。

 岩陰から、いくつものキノコのような姿が現れる。

「マタンゴ……!」

 カエデの声がわずかに強張った。

 マタンゴたちは、傘の部分を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

「今度はキノコか」

「気をつけて。眠りの息を吐いてくるよ!」

「眠りの息……?」

「吸い込まないようにして!」

 アレルは剣を構えた。

 マタンゴの傘が、不気味に膨らむ。

 次の瞬間、白く濁った霧のような息が、こちらへ向かって吐き出された。

「来る!」

 アレルは横へ跳び、霧を避ける。

 しかし、白い息は地面を這うように広がり、通路の幅いっぱいに漂い始めた。

 カエデは息を止めながら、腰に差していた風のブーメランへ手を伸ばした。

「これなら……!」

 ブーメランを握り、狙いを定める。

 マタンゴの吐き出した眠りの息が、二人のいる場所へ迫っていた。

「アレル、少し下がって!」

 カエデはブーメランを投げた。

 風を切る音とともに、ブーメランが通路を飛んでいく。

 その軌道を追うように、小さな竜巻が生まれた。

 渦を巻く風は、白い霧へ真正面からぶつかる。

 ふわりと漂っていた眠りの息が、竜巻に巻き込まれ、左右へ大きく散らされていった。

 アレルが目を見張る。

 ブーメランは弧を描いて飛び、マタンゴの一体へと向かった。小さな竜巻がその傘を揺らし、身体をよろめかせる。

 やがてブーメランは、カエデのもとへ戻ってきた。

 彼女は両手でそれを受け止める。

「よし!慣れたものね!」

「助かった。あの霧をまともに吸っていたら、危なかったな」

「うん。今のうちに倒そう!」

 アレルは一気に踏み込んだ。

 眠りの息を吐く前に、マタンゴとの距離を詰める。剣が振り下ろされ、先頭の一体を捉えた。

 マタンゴは大きく傘を揺らし、地面へ倒れ込む。

 残る個体が、再び傘を膨らませた。

「また来るぞ!」

 アレルはすぐに横へ移動する。

 カエデはブーメランを構えた。

「今度も散らすよ!」

 投げ放たれたブーメランが、再び小さな竜巻を伴って飛ぶ。

 眠りの息が広がる直前、風が白い霧を押し返した。

 霧が薄くなった瞬間、アレルが踏み込む。

 剣の一閃がマタンゴを捉え、続けてもう一体へと振り抜かれた。

 残ったマタンゴは、後ずさりながら傘を震わせる。

 しかし、次の息を吐くより早く、アレルの剣がその身体を斬り払った。

 マタンゴたちは、やがて力を失い、地面へ崩れ落ちた。

 洞窟に、再び静けさが戻る。

「……終わったね」

「ああ。助かったよ、カエデ」

「ううん。アレルが攻撃してくれたからだよ」

 カエデはブーメランを手元で確かめた。

 風の魔法は、思っていた以上に頼りになる。

 ただ敵を攻撃するだけではない。こうして危険な息を散らすこともできるのだ。

「そのブーメラン、便利だな」

「うん。まさか、眠りの息まで吹き飛ばせるとは思わなかった」

「これからも頼りにしている」

「任せて」

 カエデは、少しだけ表情を明るくした。

 先ほどまでの緊張が、ほんの少し和らいだ。

     *

 さらに奥へ進むと、洞窟の空気が変わり始めた。

 それまで続いていた湿った冷気が、少しずつ薄れていく。

 足元の道も緩やかに下っていたが、やがて平らになり、前方から淡い光が差し込んでいるのが見えた。

「……あれは?」

 カエデが足を止める。

 光は、通路の奥から静かに広がっていた。

 アレルは剣を構えたまま、慎重に進む。

 やがて、二人の目の前に大きな空間が開けた。

「……わあ……」

 カエデの口から、思わず声が漏れた。

 そこには、広大な地底の湖が広がっていた。

 天井は遥か高く、見上げてもその全貌を捉えることができない。岩壁には青白く光る結晶がいくつも埋まり、その光が水面に映り込んでいる。

 静かな水面には、星空のような光が散りばめられていた。

 天井から落ちる水滴が、湖面に小さな波紋を作る。

 その波紋が広がるたび、結晶の光が揺れ、まるで無数の星が水の中で瞬いているようだった。

 洞窟の奥から聞こえていた不気味な音は、もう聞こえない。

 風もほとんどなく、空気は穏やかだった。

 ただ、水の音だけが静かに響いている。

「……綺麗だな」

 アレルが、ぽつりとつぶやいた。

「うん……」

 カエデは湖を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 ここへ来るまでの道は、暗くて、不気味で、何が待ち受けているか分からなかった。

 けれど、この場所は違う。

 静かで、澄んでいて、どこか神聖な雰囲気さえ感じられる。

 まるで、外の世界から切り離された場所のようだった。

 カエデはゆっくりと湖の岸辺へ近づいた。

 足元には細かな砂利が広がり、水際には透明な水が静かに寄せている。

 水面を覗き込むと、結晶の光が揺れながら映り込んでいた。

「こんな場所があったんだね……」

「ああ。人がほとんど訪れないのも分かる気がする」

 アレルも湖を見渡した。

「騒がしい場所ではないな。ここにいると、時間が止まっているように感じる」

「……うん」

 カエデは、小さくうなずいた。

 この場所で、アンと青年は最期を迎えた。

 そう思うと、胸の奥が締めつけられる。

 けれど、目の前に広がる湖は、悲しみを拒むような場所ではなかった。

 ただ静かに、そこにある。

 誰かの思いを受け止めるように、何も語らずに。

「カエデ?」

「……もう少し、奥へ行ってみよう」

「ああ」

 二人は湖岸に沿って歩き始めた。

 しばらく進むと、岩壁のそばに小さな台座が置かれているのが見えた。

 周囲の岩とは違い、そこだけは人の手で整えられたようだった。

 台座の上には、何かが置かれている。

「……あれは?」

 アレルが近づく。

 台座の上には、一通の手紙と、赤く透き通った宝石があった。

 カエデは息を呑んだ。

「夢見るルビー……」

 思わず口にした名前に、アレルが彼女を見る。

「知っているのか?」

「……うん。たぶん、これだと思う」

 カエデは宝石へ目を向けた。

 赤い輝きは、湖に映る結晶の光を受けて、静かにきらめいている。

 アレルは慎重に手紙を手に取った。

 紙は古びていたが、丁寧に折りたたまれている。表には、短く名前が記されていた。

 ――アン。

「手紙……」

 カエデの声がかすれた。

 アレルは封を開き、折りたたまれた紙を広げた。

 そこには、少し震えた筆跡で、いくつもの言葉が綴られていた。

『この手紙を、誰かが見つけてくれることがあるのなら。

 どうか、私たちのことを知ってほしい。

 私と彼は、二人で生きていくことを願っていました。

 けれど、この村では私たちの気持ちは受け入れられず、どれだけ願っても、二人で暮らすことはできませんでした。

 それでも、彼と一緒にいることが、私にとって何よりの幸せでした。

 だから、私たちはこの場所へ来ました。

 これから先も、二人で生きていくことができないのなら、せめて最期だけは一緒にいたい。

 そう決めたのです。

 私たちは、この湖で命を絶ちます。

 この選択が正しかったのか、私には分かりません。

 ただ、彼と離れて生きることだけは、どうしても考えられませんでした。

 お母様。

 私は、あなたにたくさん心配をかけました。

 言うことを聞かず、何度も困らせてしまったことを謝ります。

 それでも、私のことを大切に思ってくれていたことは分かっていました。

 本当は、もっと素直に話せばよかった。

 最後まで、分かり合えなかったことが心残りです。

 ノエル。

 あなたは、いつも私の味方でいてくれました。

 誰にも言えないことを聞いてくれて、泣いているときにはそばにいてくれました。

 あなたがいてくれたから、私は何度も笑うことができました。

 ありがとう。

 何も告げずにいなくなることを許してください。

 里のみんなにも、謝りたいと思います。

 私は、この里が嫌いだったわけではありません。

 ここで過ごした日々も、みんなと笑い合った時間も、忘れたくありません。

 ただ、私たちの気持ちを受け入れてもらえなかったことが、悲しかったのです。

 そして、夢見るルビーを持ち出したことも謝ります。

 この宝石を持っていくことが、どれほど大きな問題になるのかは分かっていました。

 それでも、私はこれを持っていくことにしました。

 どうか、許してください。

 お母様。

 ノエル。

 里のみんな。

 今まで、本当にありがとう。

 私たちのことを、どうか忘れないでください。

 アン』

 読み終えたアレルは、しばらく手紙を見つめたまま動かなかった。

 カエデも、何も言えなかった。

 手紙に書かれていたのは、アン自身の言葉だった。

 愛した人とともに生きることを願い、それが叶わないと知り、二人で死ぬことを選んだ。

 女王が信じていた話とは、まるで違う。

 青年が宝石を奪い、アンを殺したわけではなかった。

 アンは自分の意思で、彼とともにこの湖へ来たのだ。

「……そんなことが」

 アレルの声は、ひどく小さかった。

 彼は手紙から目を離し、湖の水面へ視線を向ける。

 そこには、何も変わらない静かな景色が広がっていた。

 カエデは、台座の上に置かれた夢見るルビーを見つめた。

 ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。

 女王は、青年がアンを殺したのだと信じている。

 けれど、ここに残された手紙には、誰かを恨む言葉も、誰かを責める言葉もなかった。

 ただ、謝罪と感謝が綴られていた。

 アンは、母親のことを大切に思っていた。

 ノエルへの感謝も忘れていなかった。

 村の人々への思いも、完全に捨て去ったわけではなかった。

 それでも、二人で生きる道を選べなかった。

 そして、二人で死ぬことを選んだ。

「……カエデ」

 アレルが静かに呼んだ。

「うん……」

「これを、持って帰ろう」

 彼は手紙を丁寧に折りたたんだ。

「夢見るルビーもだ。女王様に渡さなければならない」

「……そうだね」

 カエデはうなずいた。

 アレルはアンの手紙をカエデに渡すと、夢見るルビーを手に取った。

 赤い宝石が、彼の掌の中で淡く光る。

 二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 湖面には、変わらず結晶の光が揺れている。

 水滴が落ちる音が、静かに響いた。

 ここで何があったのか。

 アンがどんな思いで、この場所へ来たのか。

 そのすべてを知ることはできない。

 ただ、彼女が最後に残した言葉だけは、確かにここにあった。

 カエデは湖を見つめた。

 アンの魂は、まだこの場所にいるのだろうか。

 夢の中で聞いた声は、何を伝えたかったのだろう。

 答えは分からない。

 けれど、手紙と夢見るルビーを持ち帰れば、少なくとも一つの真実を伝えることができる。

 ノエルにも、女王にも。

 それが、今の自分たちにできることだった。

 アレルは、湖へ向けて静かに頭を下げた。

 カエデも、それにならう。

 言葉はなかった。

 ただ、二人の前には、どこまでも静かな湖が広がっていた。
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