DQ3 夜明けの果てに君と
ノエルに案内され、アレルとカエデは彼女の家へ向かった。
エルフの村は、先ほどの騒ぎが嘘のように静けさを取り戻していた。木々の間を抜ける風が葉を揺らし、家々の窓からは淡い光が漏れている。
村人たちは、まだ二人を警戒しているようだった。すれ違うたびに視線を向けられることもあったが、先ほどまでのように露骨に拒絶されることはない。
ノエルはそんな視線を気にする様子もなく、二人の少し前を歩いていた。
「ここが私の家よ。狭いけれど、ゆっくりしていって」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
アレルが礼を述べると、ノエルは柔らかく微笑んだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいわ。アンのことを知りたいんでしょう?」
「はい。できれば、もう少し詳しく聞かせてもらいたいです」
「もちろんよ」
ノエルは扉を開け、二人を家の中へ招き入れた。
室内には、木の家具が整然と並んでいた。窓辺には小さな花瓶が置かれ、淡い色の花が一輪、静かに咲いている。
ノエルは二人に椅子を勧めると、温かい飲み物を用意した。
「どうぞ。少し落ち着いてから話しましょう」
「ありがとうございます」
カエデはカップを両手で包み込んだ。
温かな湯気が頬に触れる。外の空気は少しずつ冷たくなっていたが、室内には穏やかなぬくもりが満ちていた。
ノエルは二人の向かいに腰を下ろすと、窓の外へ視線を向けた。
「アンとは、小さい頃からずっと一緒だったの」
その声は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
「小さい頃のアンは、とても活発な子だったわ。村の中を走り回って、よく大人たちに叱られていたの。王女様なのだから、もう少し落ち着きなさいって」
ノエルは小さく笑った。
「でも、本人はまったく気にしていなかったわね。叱られても、次の日にはまた同じことをしていたもの」
「なんだか、意外です」
カエデが言うと、ノエルはうなずいた。
「でしょう? 今の女王様からは想像できないかもしれないけれど、アンは本当に自由な子だったのよ」
カップを置いたノエルは、少しだけ表情を和らげた。
「それに、村の外へ出るのが好きだった。森の奥を歩いたり、川辺で遊んだり。人間の住む町にも興味があったみたい」
「それで、ノアニールへ行くようになったんですか?」
「ええ。最初は、ただ村の外を見てみたかっただけだと思う。でも、そこで彼と出会ったの」
ノエルの声が、ほんの少しだけ優しくなる。
「アンは、彼のことを本当に大切に思っていたわ」
カエデは黙って耳を傾けた。
「彼と出会ってから、アンはよくノアニールへ出かけるようになった。帰ってくるたびに、彼の話をしてくれたのよ。今日はどんな話をしたとか、何を一緒に見たとか……本当に楽しそうだった」
ノエルは、両手をカップに添えたまま、遠くを見るような目をした。
「彼と一緒にいるときのアンは、王女様ではなかったわ。ただの一人の女の子だった。好きな人の話をして、会えたことを喜んで、次に会える日を待ち遠しそうにしていた」
「……幸せだったんですね」
「ええ。とても」
ノエルは迷いなく答えた。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「ただ、その幸せは長く続かなかった」
窓の外で、風が木々を揺らした。
「この村では、人間とエルフが一緒になることをよく思わない人が多かったの。特に、女王様は二人の関係を認めようとしなかった」
「お母さんだからこそ、余計に厳しかったんでしょうか……」
「そうかもしれないわね。女王様は、アンが村の外へ出ることさえ快く思っていなかった。まして、人間の青年と親しくしているなんて、受け入れられなかったのでしょう」
ノエルは少しうつむいた。
「アンは何度も女王様と口論していたわ。自分の気持ちを分かってほしいと訴えていた。でも、女王様は聞き入れなかった」
「ノエルさんは、そのとき……?」
「私は、アンの話を聞いていたわ」
ノエルは静かに答えた。
「村の人たちが二人を認めないことも、アンが苦しんでいたことも知っていた。だから、せめて私だけは味方でいたかったの」
彼女の指先が、カップの縁をそっとなぞる。
「アンは、私にだけは何でも話してくれた。彼と会えた日のことも、女王様と喧嘩した日のことも。ときには泣きながら、どうして誰も分かってくれないのだろうって……」
ノエルの目が、わずかに伏せられた。
「そんなときでも、彼の話になると笑顔になったわ。いつか村を出て、二人で暮らすんだって。どこへ行くか、どんな家に住むか、そんなことまで楽しそうに話していた」
「二人で、村を出るつもりだったんですね」
「ええ。ある日、アンは私に言ったの。彼と一緒に、この村を出ることにしたって」
ノエルは、少しだけ微笑んだ。
「二人で駆け落ちするつもりだったのよ」
カエデは、思わず息を呑んだ。
アンが村を離れた理由。
それは、単に人間の青年と恋に落ちたからというだけではない。二人で生きていくために、この村を出ることを選んだのだ。
「私は応援したわ。アンが幸せになれるのなら、それが一番だと思ったから」
「……その後、二人とは会えなかったんですか?」
「ええ。二人が村を出てから、一度も」
ノエルは窓の外へ目を向けた。
「でも、きっとどこかで元気に暮らしていると思っているわ。アンは彼と一緒にいることを望んでいた。だから、今頃は二人で穏やかに暮らしているんじゃないかしら」
その声には、確かな願いが込められていた。
ノエルは、二人が幸せに生きていると信じている。
それが、彼女の知るアンの最後の姿なのだ。
カエデは、何も言えなかった。
自分は、この先に待っている真実を知っている。
けれど、それをノエルに伝えることはできない。
彼女の信じている幸せを、今ここで壊すことはできなかった。
「……そうだといいですね」
カエデは、ようやくそれだけを口にした。
「ええ。そう願っているわ」
ノエルは穏やかにうなずいた。
アレルは、二人のやり取りを静かに聞いていた。
「ノエルさん。ひとつ、尋ねてもよろしいですか?」
「何かしら?」
「アンさんが村を出たあと、女王様は彼女を探そうとはしなかったのでしょうか」
ノエルは少し考え込んだ。
「探したと思うわ。けれど、どこへ向かったのかも分からなかったし、手がかりもなかった。女王様も、あれからアンのことをほとんど口にしなくなったの」
「そうですか……」
「今でも、きっと心配していると思う。あの人は、アンのことを大切に思っていたから」
ノエルの言葉に、カエデは女王の姿を思い浮かべた。
娘を失った母親。
けれど、女王はアンが青年に殺され、夢見るルビーを奪われたと信じている。
本当は違う。
アンは、青年とともに命を絶った。そして、夢見るルビーを持ち去ったのも、彼女自身だった。
その真実を知ったとき、女王は何を思うのだろう。
怒りだろうか。悲しみだろうか。
それとも、自分が娘を追い詰めてしまったことへの後悔だろうか。
カエデには、まだ分からなかった。
「今日は、もう遅いわね」
ノエルが窓の外を見て言った。
いつの間にか、空はすっかり暗くなっていた。木々の向こうに見える空には、いくつもの星が瞬いている。
「よかったら、今夜はここに泊まっていって。明日、村の外へ出るのなら、朝のうちに出発した方がいいでしょう」
「よろしいんですか?」
「もちろんよ。アンのことを知りたいと思ってくれているんだもの。私にできることなら、協力したいわ」
「ありがとうございます」
アレルが頭を下げる。
カエデも礼を述べた。
その夜、二人はノエルの家で休むことになった。
*
夜が更けるにつれ、村は静けさに包まれていった。
窓の外では、風が木々の枝を揺らしている。時折、葉の擦れる音が聞こえるだけで、ほかに物音はなかった。
カエデは用意してもらった寝床に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。
ノエルから聞いたアンの話が、頭の中を巡っている。
好きな人と出会い、幸せな時間を過ごしたこと。
村の人々に関係を認めてもらえず、母親とも衝突していたこと。
そして、二人で村を出ると決めたこと。
ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。
その気持ちは、きっと本物だ。
だからこそ、真実を知ったときの彼女を思うと、胸が苦しくなった。
カエデは寝返りを打った。
目を閉じても、なかなか眠れそうにない。
そんなことを考えているうちに、いつしか意識はゆっくりと沈んでいった。
*
夢の中だった。
カエデは、見知らぬ場所に立っていた。
辺りは薄暗く、足元には冷たい石の感触がある。
どこかから水の流れる音が聞こえていた。
振り返っても、来た道は見当たらない。目の前には暗い通路が続いているだけだった。
「……ここ、どこ?」
声を出してみても、返事はない。
そのとき、少し離れた場所に人影が見えた。
女性のようだった。
長い髪が、わずかな風に揺れている。顔は暗がりに隠れていて、はっきりとは見えなかった。
「……あなたは?」
カエデが声をかける。
女性は答えなかった。
ただ、こちらを見ているようだった。
不思議と、恐怖は感じなかった。
けれど、胸の奥がざわつく。
この人は誰なのだろう。
どうして、こんな場所にいるのだろう。
カエデが一歩近づこうとしたとき、女性の声が聞こえた。
「……地底の湖に来て」
「え……?」
短い言葉だった。
女性は、それ以上何も語らない。
「待って! あなたは誰なの? どうして私に……」
問いかけても、答えは返ってこなかった。
女性の姿が、少しずつ暗闇に溶けていく。
「待って!」
カエデが手を伸ばす。
けれど、その指先は何にも触れなかった。
やがて、女性の姿は完全に消えてしまった。
残されたのは、水の流れる音だけだった。
*
「……っ!」
カエデは目を覚ました。
心臓が、いつもより速く鼓動している。
しばらく天井を見つめたまま、呼吸を整えた。
「……夢?」
ゆっくりと身体を起こす。
窓の外は、まだ薄暗かった。夜明けには少し早いようだ。
夢の内容は、妙にはっきりと覚えていた。
暗い通路。
水の音。
そして、あの女性の声。
『地底の湖に来て』
カエデは、膝の上で手を握った。
地底の湖。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中にある記憶が結びついた。
アンのことを知るために、ノエルから話を聞いた。
アンと青年が村を出たこと。
二人がその後、どこへ向かったのかは分からないこと。
そして、夢見るルビーのこと。
ゲームで知っている出来事が、頭の中に浮かび上がる。
もしかして、あの女性は――。
考えかけて、カエデは首を横に振った。
まだ確かなことではない。
けれど、もしそうなら、地底の湖へ行く必要がある。
カエデは寝床から降り、静かに部屋を出た。
*
朝の光が村に差し始めた頃、アレルは家の外で剣の具合を確かめていた。
まだ身体には傷の名残がある。無理をするつもりはなかったが、少しずつ身体を動かしておきたかった。
「アレル」
背後から声が聞こえ、彼は振り返った。
「カエデ? 早いな。眠れなかったのか?」
「ううん。ちゃんと眠れたよ」
カエデはそう答えたものの、表情にはどこか緊張が残っていた。
「少し、話があるの」
「何だ?」
「……地底の湖へ行きたい」
アレルは眉を寄せた。
「地底の湖?」
「うん。そこに行かなきゃいけない気がするの」
「どうしてそう思う?」
「夢を見たの。知らない女の人が出てきて、地底の湖に来てって言った」
アレルは、しばらく彼女を見つめていた。
「夢の中で言われたから、そこへ行きたいということか?」
「……そう」
「カエデ」
アレルの声は、いつもより少しだけ慎重だった。
「夢だけを頼りに行動するのは危険だ。何があるか分からない場所なら、なおさらだ」
「分かってる。でも……」
カエデは言葉を切った。
自分でも、どう説明すればいいのか分からない。
夢に出てきた女性が誰なのか、確信があるわけではない。
けれど、あの言葉を聞いたとき、胸の奥に何かが引っかかった。
地底の湖へ行けば、アンについて何か分かるかもしれない。
そう思えてならなかった。
「お願い。どうしても確かめたいの」
カエデは、アレルの目を見つめた。
その瞳には、迷いと不安が浮かんでいる。それでも、ただの思いつきで言っているわけではないことは伝わってきた。
アレルは小さく息を吐いた。
「……分かった。行ってみよう」
「本当?」
「ああ。ただし、危険があればすぐに引き返す。俺の身体もまだ万全じゃないからな」
「うん。無理はしないでね」
「それはお互いさまだ」
アレルは剣を鞘に収めた。
カエデは、ほっとしたように表情を緩めた。
「ノエルさんには、どう説明しようか」
「地底の湖を調べに行くと伝えればいい。アンのことを知る手がかりがあるかもしれない、と」
「……そうだね」
二人はノエルのもとへ向かった。
*
「地底の湖へ?」
ノエルは、二人の話を聞いて少し驚いたようだった。
「ええ。アンのことを知る手がかりが、そこにあるかもしれないと思っています」
アレルが答える。
「そう……。確かに、あの子がよく出かけていた場所のひとつではあるわ」
「何か、心当たりがあるんですか?」
「いいえ。詳しいことは知らないの。ただ、アンは湖の近くで過ごすのが好きだったみたい」
ノエルは少し考え込んだあと、二人へ向き直った。
「気をつけてね。地底の湖へ続く道は、あまり人が通らないの。魔物も出るはずよ」
「分かりました」
「本当なら私も一緒に行きたいけれど……」
ノエルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「私は村を離れるわけにはいかないの。ごめんなさい」
「いえ。案内していただいただけでも十分です」
アレルが穏やかに答える。
カエデも首を横に振った。
「ノエルさんは、ここで待っていてください。私たちで確かめてきます」
「ありがとう。どうか無事に戻ってきてね」
二人はノエルに礼を述べ、村を後にした。
*
地底の湖へ続く道は、村の外れから森の奥へと伸びていた。
木々の枝が頭上を覆い、朝の光は地面までほとんど届かない。湿った土の匂いが漂い、足元には苔の生えた石が点々と転がっている。
しばらく進むと、岩壁にぽっかりと開いた洞窟の入口が見えてきた。
「ここか……」
アレルが入口を見上げる。
奥からは、冷たい空気が流れ出していた。
カエデは、洞窟の暗闇を見つめた。
ゲームで知っている場所だ。
けれど、実際に目の前にすると、画面越しに見ていたときとはまるで違う。
岩肌の凹凸も、足元に溜まった水も、洞窟の奥から聞こえるかすかな音も、すべてが現実のものとしてそこにある。
「行こう」
アレルが先に足を踏み入れた。
「うん」
カエデも後に続く。
洞窟の中は、外よりもずっと暗かった。
壁にはところどころ淡い光を放つ鉱石が埋まっているが、それだけでは奥まで見通せない。二人は足元に注意しながら、ゆっくりと進んでいった。
しばらく進んだところで、アレルが足を止めた。
「……何かいる」
カエデも前方へ目を向ける。
通路の先に、黒い影が浮かんでいた。
輪郭は曖昧で、身体の形もはっきりしない。ただ、暗闇の中に黒い塊が漂っているように見えた。
「シャドー……!」
カエデが小さく声を上げる。
その影は、二人に気づいたようにゆっくりと動き始めた。
「知っている魔物か?」
「うん。気をつけて。あやしいかげと同じく動きが読みにくい相手だよ」
「分かった」
アレルは剣を抜いた。
シャドーは音もなく滑るように近づいてくる。
次の瞬間、影の一部が鋭く伸びた。
「っ!」
アレルは身体をひねってかわす。黒い腕のようなものが、彼のすぐ脇を通り抜け、岩壁にぶつかった。
鈍い音が洞窟に響く。
アレルは踏み込んだ。
剣が横薙ぎに走る。
しかし、刃は影の身体をすり抜けたかのように、手応えなく通り抜けてしまった。
「何……?」
「実体がつかみにくいんだよ!」
カエデの声が響く。
シャドーはその隙を逃さなかった。
黒い影が床を這うように広がり、アレルの足元へ迫る。
アレルはすぐに後ろへ跳び、距離を取った。
「厄介だな……!」
影は再び形を変え、今度はカエデの方へ向かってくる。
「カエデ、下がれ!」
アレルが叫ぶ。
カエデは横へ飛び退いた。黒い影が、先ほどまで彼女の立っていた場所を通り抜ける。
その動きは速い。姿を変えるたびに攻撃の形も変わり、正面から捉えるのは難しそうだった。
「アレル、動きをよく見て!」
「ああ!」
アレルは剣を構え直した。
シャドーが再び迫る。
今度は、影が大きく広がった瞬間を狙い、アレルは一歩踏み込んだ。
刃が黒い身体を捉える。
わずかな手応えがあった。
シャドーが不規則に揺れ、後方へ退く。
「効いた!」
カエデが声を上げる。
アレルは間を置かずに追撃した。
剣を振り下ろし、続けて横へ薙ぐ。シャドーは身体を歪めてかわそうとしたが、刃の軌道を完全には避けきれなかった。
黒い影が大きく揺らぐ。
しかし、倒れることはなかった。
シャドーは一度距離を取ると、通路の奥へ向かって滑るように移動し始めた。
「逃げる気か!」
アレルが追おうとする。
「待って!」
カエデが呼び止めた。
「深追いしない方がいいよ。奥に何がいるか分からない」
アレルは足を止め、影が消えていった暗闇を見つめた。
「……そうだな。今は先へ進むことを優先しよう」
二人は剣を構えたまま、しばらく周囲を警戒した。
やがて、気配が完全に遠ざかったことを確かめ、再び歩き始めた。
*
洞窟の奥へ進むにつれて、道は少しずつ広くなっていった。
天井から垂れ下がる鍾乳石の先には、水滴が溜まっている。ぽたり、ぽたりと落ちる音が、静かな通路に響いていた。
足元には浅い水たまりが広がり、歩くたびに小さな波紋が生まれる。
「思ったより広いね……」
カエデがつぶやいた。
「ああ。まだ先があるようだ」
アレルは壁に手を触れながら、周囲を確かめる。
そのとき、少し先の暗がりから、かすかな音が聞こえた。
何かが湿った地面を踏む音。
二人は足を止めた。
岩陰から、いくつものキノコのような姿が現れる。
「マタンゴ……!」
カエデの声がわずかに強張った。
マタンゴたちは、傘の部分を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「今度はキノコか」
「気をつけて。眠りの息を吐いてくるよ!」
「眠りの息……?」
「吸い込まないようにして!」
アレルは剣を構えた。
マタンゴの傘が、不気味に膨らむ。
次の瞬間、白く濁った霧のような息が、こちらへ向かって吐き出された。
「来る!」
アレルは横へ跳び、霧を避ける。
しかし、白い息は地面を這うように広がり、通路の幅いっぱいに漂い始めた。
カエデは息を止めながら、腰に差していた風のブーメランへ手を伸ばした。
「これなら……!」
ブーメランを握り、狙いを定める。
マタンゴの吐き出した眠りの息が、二人のいる場所へ迫っていた。
「アレル、少し下がって!」
カエデはブーメランを投げた。
風を切る音とともに、ブーメランが通路を飛んでいく。
その軌道を追うように、小さな竜巻が生まれた。
渦を巻く風は、白い霧へ真正面からぶつかる。
ふわりと漂っていた眠りの息が、竜巻に巻き込まれ、左右へ大きく散らされていった。
アレルが目を見張る。
ブーメランは弧を描いて飛び、マタンゴの一体へと向かった。小さな竜巻がその傘を揺らし、身体をよろめかせる。
やがてブーメランは、カエデのもとへ戻ってきた。
彼女は両手でそれを受け止める。
「よし!慣れたものね!」
「助かった。あの霧をまともに吸っていたら、危なかったな」
「うん。今のうちに倒そう!」
アレルは一気に踏み込んだ。
眠りの息を吐く前に、マタンゴとの距離を詰める。剣が振り下ろされ、先頭の一体を捉えた。
マタンゴは大きく傘を揺らし、地面へ倒れ込む。
残る個体が、再び傘を膨らませた。
「また来るぞ!」
アレルはすぐに横へ移動する。
カエデはブーメランを構えた。
「今度も散らすよ!」
投げ放たれたブーメランが、再び小さな竜巻を伴って飛ぶ。
眠りの息が広がる直前、風が白い霧を押し返した。
霧が薄くなった瞬間、アレルが踏み込む。
剣の一閃がマタンゴを捉え、続けてもう一体へと振り抜かれた。
残ったマタンゴは、後ずさりながら傘を震わせる。
しかし、次の息を吐くより早く、アレルの剣がその身体を斬り払った。
マタンゴたちは、やがて力を失い、地面へ崩れ落ちた。
洞窟に、再び静けさが戻る。
「……終わったね」
「ああ。助かったよ、カエデ」
「ううん。アレルが攻撃してくれたからだよ」
カエデはブーメランを手元で確かめた。
風の魔法は、思っていた以上に頼りになる。
ただ敵を攻撃するだけではない。こうして危険な息を散らすこともできるのだ。
「そのブーメラン、便利だな」
「うん。まさか、眠りの息まで吹き飛ばせるとは思わなかった」
「これからも頼りにしている」
「任せて」
カエデは、少しだけ表情を明るくした。
先ほどまでの緊張が、ほんの少し和らいだ。
*
さらに奥へ進むと、洞窟の空気が変わり始めた。
それまで続いていた湿った冷気が、少しずつ薄れていく。
足元の道も緩やかに下っていたが、やがて平らになり、前方から淡い光が差し込んでいるのが見えた。
「……あれは?」
カエデが足を止める。
光は、通路の奥から静かに広がっていた。
アレルは剣を構えたまま、慎重に進む。
やがて、二人の目の前に大きな空間が開けた。
「……わあ……」
カエデの口から、思わず声が漏れた。
そこには、広大な地底の湖が広がっていた。
天井は遥か高く、見上げてもその全貌を捉えることができない。岩壁には青白く光る結晶がいくつも埋まり、その光が水面に映り込んでいる。
静かな水面には、星空のような光が散りばめられていた。
天井から落ちる水滴が、湖面に小さな波紋を作る。
その波紋が広がるたび、結晶の光が揺れ、まるで無数の星が水の中で瞬いているようだった。
洞窟の奥から聞こえていた不気味な音は、もう聞こえない。
風もほとんどなく、空気は穏やかだった。
ただ、水の音だけが静かに響いている。
「……綺麗だな」
アレルが、ぽつりとつぶやいた。
「うん……」
カエデは湖を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ここへ来るまでの道は、暗くて、不気味で、何が待ち受けているか分からなかった。
けれど、この場所は違う。
静かで、澄んでいて、どこか神聖な雰囲気さえ感じられる。
まるで、外の世界から切り離された場所のようだった。
カエデはゆっくりと湖の岸辺へ近づいた。
足元には細かな砂利が広がり、水際には透明な水が静かに寄せている。
水面を覗き込むと、結晶の光が揺れながら映り込んでいた。
「こんな場所があったんだね……」
「ああ。人がほとんど訪れないのも分かる気がする」
アレルも湖を見渡した。
「騒がしい場所ではないな。ここにいると、時間が止まっているように感じる」
「……うん」
カエデは、小さくうなずいた。
この場所で、アンと青年は最期を迎えた。
そう思うと、胸の奥が締めつけられる。
けれど、目の前に広がる湖は、悲しみを拒むような場所ではなかった。
ただ静かに、そこにある。
誰かの思いを受け止めるように、何も語らずに。
「カエデ?」
「……もう少し、奥へ行ってみよう」
「ああ」
二人は湖岸に沿って歩き始めた。
しばらく進むと、岩壁のそばに小さな台座が置かれているのが見えた。
周囲の岩とは違い、そこだけは人の手で整えられたようだった。
台座の上には、何かが置かれている。
「……あれは?」
アレルが近づく。
台座の上には、一通の手紙と、赤く透き通った宝石があった。
カエデは息を呑んだ。
「夢見るルビー……」
思わず口にした名前に、アレルが彼女を見る。
「知っているのか?」
「……うん。たぶん、これだと思う」
カエデは宝石へ目を向けた。
赤い輝きは、湖に映る結晶の光を受けて、静かにきらめいている。
アレルは慎重に手紙を手に取った。
紙は古びていたが、丁寧に折りたたまれている。表には、短く名前が記されていた。
――アン。
「手紙……」
カエデの声がかすれた。
アレルは封を開き、折りたたまれた紙を広げた。
そこには、少し震えた筆跡で、いくつもの言葉が綴られていた。
『この手紙を、誰かが見つけてくれることがあるのなら。
どうか、私たちのことを知ってほしい。
私と彼は、二人で生きていくことを願っていました。
けれど、この村では私たちの気持ちは受け入れられず、どれだけ願っても、二人で暮らすことはできませんでした。
それでも、彼と一緒にいることが、私にとって何よりの幸せでした。
だから、私たちはこの場所へ来ました。
これから先も、二人で生きていくことができないのなら、せめて最期だけは一緒にいたい。
そう決めたのです。
私たちは、この湖で命を絶ちます。
この選択が正しかったのか、私には分かりません。
ただ、彼と離れて生きることだけは、どうしても考えられませんでした。
お母様。
私は、あなたにたくさん心配をかけました。
言うことを聞かず、何度も困らせてしまったことを謝ります。
それでも、私のことを大切に思ってくれていたことは分かっていました。
本当は、もっと素直に話せばよかった。
最後まで、分かり合えなかったことが心残りです。
ノエル。
あなたは、いつも私の味方でいてくれました。
誰にも言えないことを聞いてくれて、泣いているときにはそばにいてくれました。
あなたがいてくれたから、私は何度も笑うことができました。
ありがとう。
何も告げずにいなくなることを許してください。
里のみんなにも、謝りたいと思います。
私は、この里が嫌いだったわけではありません。
ここで過ごした日々も、みんなと笑い合った時間も、忘れたくありません。
ただ、私たちの気持ちを受け入れてもらえなかったことが、悲しかったのです。
そして、夢見るルビーを持ち出したことも謝ります。
この宝石を持っていくことが、どれほど大きな問題になるのかは分かっていました。
それでも、私はこれを持っていくことにしました。
どうか、許してください。
お母様。
ノエル。
里のみんな。
今まで、本当にありがとう。
私たちのことを、どうか忘れないでください。
アン』
読み終えたアレルは、しばらく手紙を見つめたまま動かなかった。
カエデも、何も言えなかった。
手紙に書かれていたのは、アン自身の言葉だった。
愛した人とともに生きることを願い、それが叶わないと知り、二人で死ぬことを選んだ。
女王が信じていた話とは、まるで違う。
青年が宝石を奪い、アンを殺したわけではなかった。
アンは自分の意思で、彼とともにこの湖へ来たのだ。
「……そんなことが」
アレルの声は、ひどく小さかった。
彼は手紙から目を離し、湖の水面へ視線を向ける。
そこには、何も変わらない静かな景色が広がっていた。
カエデは、台座の上に置かれた夢見るルビーを見つめた。
ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。
女王は、青年がアンを殺したのだと信じている。
けれど、ここに残された手紙には、誰かを恨む言葉も、誰かを責める言葉もなかった。
ただ、謝罪と感謝が綴られていた。
アンは、母親のことを大切に思っていた。
ノエルへの感謝も忘れていなかった。
村の人々への思いも、完全に捨て去ったわけではなかった。
それでも、二人で生きる道を選べなかった。
そして、二人で死ぬことを選んだ。
「……カエデ」
アレルが静かに呼んだ。
「うん……」
「これを、持って帰ろう」
彼は手紙を丁寧に折りたたんだ。
「夢見るルビーもだ。女王様に渡さなければならない」
「……そうだね」
カエデはうなずいた。
アレルはアンの手紙をカエデに渡すと、夢見るルビーを手に取った。
赤い宝石が、彼の掌の中で淡く光る。
二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
湖面には、変わらず結晶の光が揺れている。
水滴が落ちる音が、静かに響いた。
ここで何があったのか。
アンがどんな思いで、この場所へ来たのか。
そのすべてを知ることはできない。
ただ、彼女が最後に残した言葉だけは、確かにここにあった。
カエデは湖を見つめた。
アンの魂は、まだこの場所にいるのだろうか。
夢の中で聞いた声は、何を伝えたかったのだろう。
答えは分からない。
けれど、手紙と夢見るルビーを持ち帰れば、少なくとも一つの真実を伝えることができる。
ノエルにも、女王にも。
それが、今の自分たちにできることだった。
アレルは、湖へ向けて静かに頭を下げた。
カエデも、それにならう。
言葉はなかった。
ただ、二人の前には、どこまでも静かな湖が広がっていた。
エルフの村は、先ほどの騒ぎが嘘のように静けさを取り戻していた。木々の間を抜ける風が葉を揺らし、家々の窓からは淡い光が漏れている。
村人たちは、まだ二人を警戒しているようだった。すれ違うたびに視線を向けられることもあったが、先ほどまでのように露骨に拒絶されることはない。
ノエルはそんな視線を気にする様子もなく、二人の少し前を歩いていた。
「ここが私の家よ。狭いけれど、ゆっくりしていって」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
アレルが礼を述べると、ノエルは柔らかく微笑んだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいわ。アンのことを知りたいんでしょう?」
「はい。できれば、もう少し詳しく聞かせてもらいたいです」
「もちろんよ」
ノエルは扉を開け、二人を家の中へ招き入れた。
室内には、木の家具が整然と並んでいた。窓辺には小さな花瓶が置かれ、淡い色の花が一輪、静かに咲いている。
ノエルは二人に椅子を勧めると、温かい飲み物を用意した。
「どうぞ。少し落ち着いてから話しましょう」
「ありがとうございます」
カエデはカップを両手で包み込んだ。
温かな湯気が頬に触れる。外の空気は少しずつ冷たくなっていたが、室内には穏やかなぬくもりが満ちていた。
ノエルは二人の向かいに腰を下ろすと、窓の外へ視線を向けた。
「アンとは、小さい頃からずっと一緒だったの」
その声は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
「小さい頃のアンは、とても活発な子だったわ。村の中を走り回って、よく大人たちに叱られていたの。王女様なのだから、もう少し落ち着きなさいって」
ノエルは小さく笑った。
「でも、本人はまったく気にしていなかったわね。叱られても、次の日にはまた同じことをしていたもの」
「なんだか、意外です」
カエデが言うと、ノエルはうなずいた。
「でしょう? 今の女王様からは想像できないかもしれないけれど、アンは本当に自由な子だったのよ」
カップを置いたノエルは、少しだけ表情を和らげた。
「それに、村の外へ出るのが好きだった。森の奥を歩いたり、川辺で遊んだり。人間の住む町にも興味があったみたい」
「それで、ノアニールへ行くようになったんですか?」
「ええ。最初は、ただ村の外を見てみたかっただけだと思う。でも、そこで彼と出会ったの」
ノエルの声が、ほんの少しだけ優しくなる。
「アンは、彼のことを本当に大切に思っていたわ」
カエデは黙って耳を傾けた。
「彼と出会ってから、アンはよくノアニールへ出かけるようになった。帰ってくるたびに、彼の話をしてくれたのよ。今日はどんな話をしたとか、何を一緒に見たとか……本当に楽しそうだった」
ノエルは、両手をカップに添えたまま、遠くを見るような目をした。
「彼と一緒にいるときのアンは、王女様ではなかったわ。ただの一人の女の子だった。好きな人の話をして、会えたことを喜んで、次に会える日を待ち遠しそうにしていた」
「……幸せだったんですね」
「ええ。とても」
ノエルは迷いなく答えた。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「ただ、その幸せは長く続かなかった」
窓の外で、風が木々を揺らした。
「この村では、人間とエルフが一緒になることをよく思わない人が多かったの。特に、女王様は二人の関係を認めようとしなかった」
「お母さんだからこそ、余計に厳しかったんでしょうか……」
「そうかもしれないわね。女王様は、アンが村の外へ出ることさえ快く思っていなかった。まして、人間の青年と親しくしているなんて、受け入れられなかったのでしょう」
ノエルは少しうつむいた。
「アンは何度も女王様と口論していたわ。自分の気持ちを分かってほしいと訴えていた。でも、女王様は聞き入れなかった」
「ノエルさんは、そのとき……?」
「私は、アンの話を聞いていたわ」
ノエルは静かに答えた。
「村の人たちが二人を認めないことも、アンが苦しんでいたことも知っていた。だから、せめて私だけは味方でいたかったの」
彼女の指先が、カップの縁をそっとなぞる。
「アンは、私にだけは何でも話してくれた。彼と会えた日のことも、女王様と喧嘩した日のことも。ときには泣きながら、どうして誰も分かってくれないのだろうって……」
ノエルの目が、わずかに伏せられた。
「そんなときでも、彼の話になると笑顔になったわ。いつか村を出て、二人で暮らすんだって。どこへ行くか、どんな家に住むか、そんなことまで楽しそうに話していた」
「二人で、村を出るつもりだったんですね」
「ええ。ある日、アンは私に言ったの。彼と一緒に、この村を出ることにしたって」
ノエルは、少しだけ微笑んだ。
「二人で駆け落ちするつもりだったのよ」
カエデは、思わず息を呑んだ。
アンが村を離れた理由。
それは、単に人間の青年と恋に落ちたからというだけではない。二人で生きていくために、この村を出ることを選んだのだ。
「私は応援したわ。アンが幸せになれるのなら、それが一番だと思ったから」
「……その後、二人とは会えなかったんですか?」
「ええ。二人が村を出てから、一度も」
ノエルは窓の外へ目を向けた。
「でも、きっとどこかで元気に暮らしていると思っているわ。アンは彼と一緒にいることを望んでいた。だから、今頃は二人で穏やかに暮らしているんじゃないかしら」
その声には、確かな願いが込められていた。
ノエルは、二人が幸せに生きていると信じている。
それが、彼女の知るアンの最後の姿なのだ。
カエデは、何も言えなかった。
自分は、この先に待っている真実を知っている。
けれど、それをノエルに伝えることはできない。
彼女の信じている幸せを、今ここで壊すことはできなかった。
「……そうだといいですね」
カエデは、ようやくそれだけを口にした。
「ええ。そう願っているわ」
ノエルは穏やかにうなずいた。
アレルは、二人のやり取りを静かに聞いていた。
「ノエルさん。ひとつ、尋ねてもよろしいですか?」
「何かしら?」
「アンさんが村を出たあと、女王様は彼女を探そうとはしなかったのでしょうか」
ノエルは少し考え込んだ。
「探したと思うわ。けれど、どこへ向かったのかも分からなかったし、手がかりもなかった。女王様も、あれからアンのことをほとんど口にしなくなったの」
「そうですか……」
「今でも、きっと心配していると思う。あの人は、アンのことを大切に思っていたから」
ノエルの言葉に、カエデは女王の姿を思い浮かべた。
娘を失った母親。
けれど、女王はアンが青年に殺され、夢見るルビーを奪われたと信じている。
本当は違う。
アンは、青年とともに命を絶った。そして、夢見るルビーを持ち去ったのも、彼女自身だった。
その真実を知ったとき、女王は何を思うのだろう。
怒りだろうか。悲しみだろうか。
それとも、自分が娘を追い詰めてしまったことへの後悔だろうか。
カエデには、まだ分からなかった。
「今日は、もう遅いわね」
ノエルが窓の外を見て言った。
いつの間にか、空はすっかり暗くなっていた。木々の向こうに見える空には、いくつもの星が瞬いている。
「よかったら、今夜はここに泊まっていって。明日、村の外へ出るのなら、朝のうちに出発した方がいいでしょう」
「よろしいんですか?」
「もちろんよ。アンのことを知りたいと思ってくれているんだもの。私にできることなら、協力したいわ」
「ありがとうございます」
アレルが頭を下げる。
カエデも礼を述べた。
その夜、二人はノエルの家で休むことになった。
*
夜が更けるにつれ、村は静けさに包まれていった。
窓の外では、風が木々の枝を揺らしている。時折、葉の擦れる音が聞こえるだけで、ほかに物音はなかった。
カエデは用意してもらった寝床に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。
ノエルから聞いたアンの話が、頭の中を巡っている。
好きな人と出会い、幸せな時間を過ごしたこと。
村の人々に関係を認めてもらえず、母親とも衝突していたこと。
そして、二人で村を出ると決めたこと。
ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。
その気持ちは、きっと本物だ。
だからこそ、真実を知ったときの彼女を思うと、胸が苦しくなった。
カエデは寝返りを打った。
目を閉じても、なかなか眠れそうにない。
そんなことを考えているうちに、いつしか意識はゆっくりと沈んでいった。
*
夢の中だった。
カエデは、見知らぬ場所に立っていた。
辺りは薄暗く、足元には冷たい石の感触がある。
どこかから水の流れる音が聞こえていた。
振り返っても、来た道は見当たらない。目の前には暗い通路が続いているだけだった。
「……ここ、どこ?」
声を出してみても、返事はない。
そのとき、少し離れた場所に人影が見えた。
女性のようだった。
長い髪が、わずかな風に揺れている。顔は暗がりに隠れていて、はっきりとは見えなかった。
「……あなたは?」
カエデが声をかける。
女性は答えなかった。
ただ、こちらを見ているようだった。
不思議と、恐怖は感じなかった。
けれど、胸の奥がざわつく。
この人は誰なのだろう。
どうして、こんな場所にいるのだろう。
カエデが一歩近づこうとしたとき、女性の声が聞こえた。
「……地底の湖に来て」
「え……?」
短い言葉だった。
女性は、それ以上何も語らない。
「待って! あなたは誰なの? どうして私に……」
問いかけても、答えは返ってこなかった。
女性の姿が、少しずつ暗闇に溶けていく。
「待って!」
カエデが手を伸ばす。
けれど、その指先は何にも触れなかった。
やがて、女性の姿は完全に消えてしまった。
残されたのは、水の流れる音だけだった。
*
「……っ!」
カエデは目を覚ました。
心臓が、いつもより速く鼓動している。
しばらく天井を見つめたまま、呼吸を整えた。
「……夢?」
ゆっくりと身体を起こす。
窓の外は、まだ薄暗かった。夜明けには少し早いようだ。
夢の内容は、妙にはっきりと覚えていた。
暗い通路。
水の音。
そして、あの女性の声。
『地底の湖に来て』
カエデは、膝の上で手を握った。
地底の湖。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中にある記憶が結びついた。
アンのことを知るために、ノエルから話を聞いた。
アンと青年が村を出たこと。
二人がその後、どこへ向かったのかは分からないこと。
そして、夢見るルビーのこと。
ゲームで知っている出来事が、頭の中に浮かび上がる。
もしかして、あの女性は――。
考えかけて、カエデは首を横に振った。
まだ確かなことではない。
けれど、もしそうなら、地底の湖へ行く必要がある。
カエデは寝床から降り、静かに部屋を出た。
*
朝の光が村に差し始めた頃、アレルは家の外で剣の具合を確かめていた。
まだ身体には傷の名残がある。無理をするつもりはなかったが、少しずつ身体を動かしておきたかった。
「アレル」
背後から声が聞こえ、彼は振り返った。
「カエデ? 早いな。眠れなかったのか?」
「ううん。ちゃんと眠れたよ」
カエデはそう答えたものの、表情にはどこか緊張が残っていた。
「少し、話があるの」
「何だ?」
「……地底の湖へ行きたい」
アレルは眉を寄せた。
「地底の湖?」
「うん。そこに行かなきゃいけない気がするの」
「どうしてそう思う?」
「夢を見たの。知らない女の人が出てきて、地底の湖に来てって言った」
アレルは、しばらく彼女を見つめていた。
「夢の中で言われたから、そこへ行きたいということか?」
「……そう」
「カエデ」
アレルの声は、いつもより少しだけ慎重だった。
「夢だけを頼りに行動するのは危険だ。何があるか分からない場所なら、なおさらだ」
「分かってる。でも……」
カエデは言葉を切った。
自分でも、どう説明すればいいのか分からない。
夢に出てきた女性が誰なのか、確信があるわけではない。
けれど、あの言葉を聞いたとき、胸の奥に何かが引っかかった。
地底の湖へ行けば、アンについて何か分かるかもしれない。
そう思えてならなかった。
「お願い。どうしても確かめたいの」
カエデは、アレルの目を見つめた。
その瞳には、迷いと不安が浮かんでいる。それでも、ただの思いつきで言っているわけではないことは伝わってきた。
アレルは小さく息を吐いた。
「……分かった。行ってみよう」
「本当?」
「ああ。ただし、危険があればすぐに引き返す。俺の身体もまだ万全じゃないからな」
「うん。無理はしないでね」
「それはお互いさまだ」
アレルは剣を鞘に収めた。
カエデは、ほっとしたように表情を緩めた。
「ノエルさんには、どう説明しようか」
「地底の湖を調べに行くと伝えればいい。アンのことを知る手がかりがあるかもしれない、と」
「……そうだね」
二人はノエルのもとへ向かった。
*
「地底の湖へ?」
ノエルは、二人の話を聞いて少し驚いたようだった。
「ええ。アンのことを知る手がかりが、そこにあるかもしれないと思っています」
アレルが答える。
「そう……。確かに、あの子がよく出かけていた場所のひとつではあるわ」
「何か、心当たりがあるんですか?」
「いいえ。詳しいことは知らないの。ただ、アンは湖の近くで過ごすのが好きだったみたい」
ノエルは少し考え込んだあと、二人へ向き直った。
「気をつけてね。地底の湖へ続く道は、あまり人が通らないの。魔物も出るはずよ」
「分かりました」
「本当なら私も一緒に行きたいけれど……」
ノエルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「私は村を離れるわけにはいかないの。ごめんなさい」
「いえ。案内していただいただけでも十分です」
アレルが穏やかに答える。
カエデも首を横に振った。
「ノエルさんは、ここで待っていてください。私たちで確かめてきます」
「ありがとう。どうか無事に戻ってきてね」
二人はノエルに礼を述べ、村を後にした。
*
地底の湖へ続く道は、村の外れから森の奥へと伸びていた。
木々の枝が頭上を覆い、朝の光は地面までほとんど届かない。湿った土の匂いが漂い、足元には苔の生えた石が点々と転がっている。
しばらく進むと、岩壁にぽっかりと開いた洞窟の入口が見えてきた。
「ここか……」
アレルが入口を見上げる。
奥からは、冷たい空気が流れ出していた。
カエデは、洞窟の暗闇を見つめた。
ゲームで知っている場所だ。
けれど、実際に目の前にすると、画面越しに見ていたときとはまるで違う。
岩肌の凹凸も、足元に溜まった水も、洞窟の奥から聞こえるかすかな音も、すべてが現実のものとしてそこにある。
「行こう」
アレルが先に足を踏み入れた。
「うん」
カエデも後に続く。
洞窟の中は、外よりもずっと暗かった。
壁にはところどころ淡い光を放つ鉱石が埋まっているが、それだけでは奥まで見通せない。二人は足元に注意しながら、ゆっくりと進んでいった。
しばらく進んだところで、アレルが足を止めた。
「……何かいる」
カエデも前方へ目を向ける。
通路の先に、黒い影が浮かんでいた。
輪郭は曖昧で、身体の形もはっきりしない。ただ、暗闇の中に黒い塊が漂っているように見えた。
「シャドー……!」
カエデが小さく声を上げる。
その影は、二人に気づいたようにゆっくりと動き始めた。
「知っている魔物か?」
「うん。気をつけて。あやしいかげと同じく動きが読みにくい相手だよ」
「分かった」
アレルは剣を抜いた。
シャドーは音もなく滑るように近づいてくる。
次の瞬間、影の一部が鋭く伸びた。
「っ!」
アレルは身体をひねってかわす。黒い腕のようなものが、彼のすぐ脇を通り抜け、岩壁にぶつかった。
鈍い音が洞窟に響く。
アレルは踏み込んだ。
剣が横薙ぎに走る。
しかし、刃は影の身体をすり抜けたかのように、手応えなく通り抜けてしまった。
「何……?」
「実体がつかみにくいんだよ!」
カエデの声が響く。
シャドーはその隙を逃さなかった。
黒い影が床を這うように広がり、アレルの足元へ迫る。
アレルはすぐに後ろへ跳び、距離を取った。
「厄介だな……!」
影は再び形を変え、今度はカエデの方へ向かってくる。
「カエデ、下がれ!」
アレルが叫ぶ。
カエデは横へ飛び退いた。黒い影が、先ほどまで彼女の立っていた場所を通り抜ける。
その動きは速い。姿を変えるたびに攻撃の形も変わり、正面から捉えるのは難しそうだった。
「アレル、動きをよく見て!」
「ああ!」
アレルは剣を構え直した。
シャドーが再び迫る。
今度は、影が大きく広がった瞬間を狙い、アレルは一歩踏み込んだ。
刃が黒い身体を捉える。
わずかな手応えがあった。
シャドーが不規則に揺れ、後方へ退く。
「効いた!」
カエデが声を上げる。
アレルは間を置かずに追撃した。
剣を振り下ろし、続けて横へ薙ぐ。シャドーは身体を歪めてかわそうとしたが、刃の軌道を完全には避けきれなかった。
黒い影が大きく揺らぐ。
しかし、倒れることはなかった。
シャドーは一度距離を取ると、通路の奥へ向かって滑るように移動し始めた。
「逃げる気か!」
アレルが追おうとする。
「待って!」
カエデが呼び止めた。
「深追いしない方がいいよ。奥に何がいるか分からない」
アレルは足を止め、影が消えていった暗闇を見つめた。
「……そうだな。今は先へ進むことを優先しよう」
二人は剣を構えたまま、しばらく周囲を警戒した。
やがて、気配が完全に遠ざかったことを確かめ、再び歩き始めた。
*
洞窟の奥へ進むにつれて、道は少しずつ広くなっていった。
天井から垂れ下がる鍾乳石の先には、水滴が溜まっている。ぽたり、ぽたりと落ちる音が、静かな通路に響いていた。
足元には浅い水たまりが広がり、歩くたびに小さな波紋が生まれる。
「思ったより広いね……」
カエデがつぶやいた。
「ああ。まだ先があるようだ」
アレルは壁に手を触れながら、周囲を確かめる。
そのとき、少し先の暗がりから、かすかな音が聞こえた。
何かが湿った地面を踏む音。
二人は足を止めた。
岩陰から、いくつものキノコのような姿が現れる。
「マタンゴ……!」
カエデの声がわずかに強張った。
マタンゴたちは、傘の部分を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「今度はキノコか」
「気をつけて。眠りの息を吐いてくるよ!」
「眠りの息……?」
「吸い込まないようにして!」
アレルは剣を構えた。
マタンゴの傘が、不気味に膨らむ。
次の瞬間、白く濁った霧のような息が、こちらへ向かって吐き出された。
「来る!」
アレルは横へ跳び、霧を避ける。
しかし、白い息は地面を這うように広がり、通路の幅いっぱいに漂い始めた。
カエデは息を止めながら、腰に差していた風のブーメランへ手を伸ばした。
「これなら……!」
ブーメランを握り、狙いを定める。
マタンゴの吐き出した眠りの息が、二人のいる場所へ迫っていた。
「アレル、少し下がって!」
カエデはブーメランを投げた。
風を切る音とともに、ブーメランが通路を飛んでいく。
その軌道を追うように、小さな竜巻が生まれた。
渦を巻く風は、白い霧へ真正面からぶつかる。
ふわりと漂っていた眠りの息が、竜巻に巻き込まれ、左右へ大きく散らされていった。
アレルが目を見張る。
ブーメランは弧を描いて飛び、マタンゴの一体へと向かった。小さな竜巻がその傘を揺らし、身体をよろめかせる。
やがてブーメランは、カエデのもとへ戻ってきた。
彼女は両手でそれを受け止める。
「よし!慣れたものね!」
「助かった。あの霧をまともに吸っていたら、危なかったな」
「うん。今のうちに倒そう!」
アレルは一気に踏み込んだ。
眠りの息を吐く前に、マタンゴとの距離を詰める。剣が振り下ろされ、先頭の一体を捉えた。
マタンゴは大きく傘を揺らし、地面へ倒れ込む。
残る個体が、再び傘を膨らませた。
「また来るぞ!」
アレルはすぐに横へ移動する。
カエデはブーメランを構えた。
「今度も散らすよ!」
投げ放たれたブーメランが、再び小さな竜巻を伴って飛ぶ。
眠りの息が広がる直前、風が白い霧を押し返した。
霧が薄くなった瞬間、アレルが踏み込む。
剣の一閃がマタンゴを捉え、続けてもう一体へと振り抜かれた。
残ったマタンゴは、後ずさりながら傘を震わせる。
しかし、次の息を吐くより早く、アレルの剣がその身体を斬り払った。
マタンゴたちは、やがて力を失い、地面へ崩れ落ちた。
洞窟に、再び静けさが戻る。
「……終わったね」
「ああ。助かったよ、カエデ」
「ううん。アレルが攻撃してくれたからだよ」
カエデはブーメランを手元で確かめた。
風の魔法は、思っていた以上に頼りになる。
ただ敵を攻撃するだけではない。こうして危険な息を散らすこともできるのだ。
「そのブーメラン、便利だな」
「うん。まさか、眠りの息まで吹き飛ばせるとは思わなかった」
「これからも頼りにしている」
「任せて」
カエデは、少しだけ表情を明るくした。
先ほどまでの緊張が、ほんの少し和らいだ。
*
さらに奥へ進むと、洞窟の空気が変わり始めた。
それまで続いていた湿った冷気が、少しずつ薄れていく。
足元の道も緩やかに下っていたが、やがて平らになり、前方から淡い光が差し込んでいるのが見えた。
「……あれは?」
カエデが足を止める。
光は、通路の奥から静かに広がっていた。
アレルは剣を構えたまま、慎重に進む。
やがて、二人の目の前に大きな空間が開けた。
「……わあ……」
カエデの口から、思わず声が漏れた。
そこには、広大な地底の湖が広がっていた。
天井は遥か高く、見上げてもその全貌を捉えることができない。岩壁には青白く光る結晶がいくつも埋まり、その光が水面に映り込んでいる。
静かな水面には、星空のような光が散りばめられていた。
天井から落ちる水滴が、湖面に小さな波紋を作る。
その波紋が広がるたび、結晶の光が揺れ、まるで無数の星が水の中で瞬いているようだった。
洞窟の奥から聞こえていた不気味な音は、もう聞こえない。
風もほとんどなく、空気は穏やかだった。
ただ、水の音だけが静かに響いている。
「……綺麗だな」
アレルが、ぽつりとつぶやいた。
「うん……」
カエデは湖を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ここへ来るまでの道は、暗くて、不気味で、何が待ち受けているか分からなかった。
けれど、この場所は違う。
静かで、澄んでいて、どこか神聖な雰囲気さえ感じられる。
まるで、外の世界から切り離された場所のようだった。
カエデはゆっくりと湖の岸辺へ近づいた。
足元には細かな砂利が広がり、水際には透明な水が静かに寄せている。
水面を覗き込むと、結晶の光が揺れながら映り込んでいた。
「こんな場所があったんだね……」
「ああ。人がほとんど訪れないのも分かる気がする」
アレルも湖を見渡した。
「騒がしい場所ではないな。ここにいると、時間が止まっているように感じる」
「……うん」
カエデは、小さくうなずいた。
この場所で、アンと青年は最期を迎えた。
そう思うと、胸の奥が締めつけられる。
けれど、目の前に広がる湖は、悲しみを拒むような場所ではなかった。
ただ静かに、そこにある。
誰かの思いを受け止めるように、何も語らずに。
「カエデ?」
「……もう少し、奥へ行ってみよう」
「ああ」
二人は湖岸に沿って歩き始めた。
しばらく進むと、岩壁のそばに小さな台座が置かれているのが見えた。
周囲の岩とは違い、そこだけは人の手で整えられたようだった。
台座の上には、何かが置かれている。
「……あれは?」
アレルが近づく。
台座の上には、一通の手紙と、赤く透き通った宝石があった。
カエデは息を呑んだ。
「夢見るルビー……」
思わず口にした名前に、アレルが彼女を見る。
「知っているのか?」
「……うん。たぶん、これだと思う」
カエデは宝石へ目を向けた。
赤い輝きは、湖に映る結晶の光を受けて、静かにきらめいている。
アレルは慎重に手紙を手に取った。
紙は古びていたが、丁寧に折りたたまれている。表には、短く名前が記されていた。
――アン。
「手紙……」
カエデの声がかすれた。
アレルは封を開き、折りたたまれた紙を広げた。
そこには、少し震えた筆跡で、いくつもの言葉が綴られていた。
『この手紙を、誰かが見つけてくれることがあるのなら。
どうか、私たちのことを知ってほしい。
私と彼は、二人で生きていくことを願っていました。
けれど、この村では私たちの気持ちは受け入れられず、どれだけ願っても、二人で暮らすことはできませんでした。
それでも、彼と一緒にいることが、私にとって何よりの幸せでした。
だから、私たちはこの場所へ来ました。
これから先も、二人で生きていくことができないのなら、せめて最期だけは一緒にいたい。
そう決めたのです。
私たちは、この湖で命を絶ちます。
この選択が正しかったのか、私には分かりません。
ただ、彼と離れて生きることだけは、どうしても考えられませんでした。
お母様。
私は、あなたにたくさん心配をかけました。
言うことを聞かず、何度も困らせてしまったことを謝ります。
それでも、私のことを大切に思ってくれていたことは分かっていました。
本当は、もっと素直に話せばよかった。
最後まで、分かり合えなかったことが心残りです。
ノエル。
あなたは、いつも私の味方でいてくれました。
誰にも言えないことを聞いてくれて、泣いているときにはそばにいてくれました。
あなたがいてくれたから、私は何度も笑うことができました。
ありがとう。
何も告げずにいなくなることを許してください。
里のみんなにも、謝りたいと思います。
私は、この里が嫌いだったわけではありません。
ここで過ごした日々も、みんなと笑い合った時間も、忘れたくありません。
ただ、私たちの気持ちを受け入れてもらえなかったことが、悲しかったのです。
そして、夢見るルビーを持ち出したことも謝ります。
この宝石を持っていくことが、どれほど大きな問題になるのかは分かっていました。
それでも、私はこれを持っていくことにしました。
どうか、許してください。
お母様。
ノエル。
里のみんな。
今まで、本当にありがとう。
私たちのことを、どうか忘れないでください。
アン』
読み終えたアレルは、しばらく手紙を見つめたまま動かなかった。
カエデも、何も言えなかった。
手紙に書かれていたのは、アン自身の言葉だった。
愛した人とともに生きることを願い、それが叶わないと知り、二人で死ぬことを選んだ。
女王が信じていた話とは、まるで違う。
青年が宝石を奪い、アンを殺したわけではなかった。
アンは自分の意思で、彼とともにこの湖へ来たのだ。
「……そんなことが」
アレルの声は、ひどく小さかった。
彼は手紙から目を離し、湖の水面へ視線を向ける。
そこには、何も変わらない静かな景色が広がっていた。
カエデは、台座の上に置かれた夢見るルビーを見つめた。
ノエルは、二人がどこかで幸せに暮らしていると信じている。
女王は、青年がアンを殺したのだと信じている。
けれど、ここに残された手紙には、誰かを恨む言葉も、誰かを責める言葉もなかった。
ただ、謝罪と感謝が綴られていた。
アンは、母親のことを大切に思っていた。
ノエルへの感謝も忘れていなかった。
村の人々への思いも、完全に捨て去ったわけではなかった。
それでも、二人で生きる道を選べなかった。
そして、二人で死ぬことを選んだ。
「……カエデ」
アレルが静かに呼んだ。
「うん……」
「これを、持って帰ろう」
彼は手紙を丁寧に折りたたんだ。
「夢見るルビーもだ。女王様に渡さなければならない」
「……そうだね」
カエデはうなずいた。
アレルはアンの手紙をカエデに渡すと、夢見るルビーを手に取った。
赤い宝石が、彼の掌の中で淡く光る。
二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
湖面には、変わらず結晶の光が揺れている。
水滴が落ちる音が、静かに響いた。
ここで何があったのか。
アンがどんな思いで、この場所へ来たのか。
そのすべてを知ることはできない。
ただ、彼女が最後に残した言葉だけは、確かにここにあった。
カエデは湖を見つめた。
アンの魂は、まだこの場所にいるのだろうか。
夢の中で聞いた声は、何を伝えたかったのだろう。
答えは分からない。
けれど、手紙と夢見るルビーを持ち帰れば、少なくとも一つの真実を伝えることができる。
ノエルにも、女王にも。
それが、今の自分たちにできることだった。
アレルは、湖へ向けて静かに頭を下げた。
カエデも、それにならう。
言葉はなかった。
ただ、二人の前には、どこまでも静かな湖が広がっていた。
