DQ3 夜明けの果てに君と

 荷馬車は、ゆっくりとカザーブを出発した。

 車輪が地面を踏むたび、荷台が小さく揺れる。馬の歩みに合わせて荷物がかすかに音を立て、遠ざかっていく村の気配が少しずつ薄れていった。

 カエデは揺れに合わせて身体を支えながら、隣に座るアレルの様子をうかがった。

「……痛くない?」

「大丈夫だ」

「本当に?」

「ああ」

「でも、さっき少し顔をしかめてたよね?」

「道が悪かっただけだ」

「……そっか」

 それ以上、言葉が続かなかった。

 いつもなら「絶対無理してるでしょ!」と食い下がっていたかもしれない。

 アレルが大丈夫だと言っても、納得できるまで何度も確認していたはずだ。彼が無理をしがちなことは知っているし、少しでも痛みがあるなら休んでほしいと思っている。

 けれど今は、彼の顔色をうかがうことしかできなかった。

 心配していることを伝えるだけで、彼の負担になってしまうのではないか。そんな考えが、言葉を飲み込ませてしまう。

 これ以上、気を遣わせたくない。

 自分のせいで彼が無理をすることも、反対に、自分の心配を気にして休み続けることも望んでいない。

 だから、彼が大丈夫だと言うなら、それを信じるべきなのだろう。

 頭では分かっている。

 それなのに、視線は何度も彼の顔へ向かってしまった。

 アレルは、そんなカエデを横目で見ていた。

 彼女が心配してくれていることは分かる。それなのに、以前のように気軽に話しかけてくることが少なくなった。

 何かを言おうとして、途中でやめる。手を伸ばしかけて、引っ込める。

 そんな小さな変化が、ずっと気になっていた。

 目が合いそうになると、カエデは少しだけ視線を逸らす。何かを尋ねれば、以前よりも慎重に返事をする。

 自分の怪我を気にしているのだろう。それは分かる。

 けれど、それだけなのだろうか。

 何か別の理由があるのだとしたら、自分にはまだ、それを見つけられていなかった。

 荷馬車が石を乗り越え、大きく揺れた。

 カエデは反射的に手を伸ばしかけたが、アレルの肩に触れる寸前で止めた。

 揺れに合わせて、彼の身体がわずかに傾いた。

 支えた方がいい。

 そう思った瞬間には、もう手が動いていた。けれど、触れる直前になって、またためらってしまう。

 もし傷に響いたら。

 もし、余計なことをしてしまったら。

 考えるより先に身体が動いたはずなのに、最後のところで手が止まる。

「……カエデ」

「なに?」

「疲れたなら、少し寝ていてもいいぞ」

「えっ? 私は大丈夫だよ」

「昨日もほとんど眠っていないだろう」

「……それは」

 眠っていないわけではない。

 けれど、眠っていても、あのときの光景が頭から離れなかった。

 アレルが倒れた瞬間。自分の声が届かなかったこと。助けたくても、手が届かなかったこと。

 それを思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。

 目を閉じれば、何度も同じ場面が浮かんでくる。どうすればよかったのか、何ができたのか。考えても答えは出ないのに、考えることをやめられなかった。

 もし、あのとき違う行動を取っていたら。

 もし、もっと早く何かに気づいていたら。

 そんな仮定を繰り返しても、過ぎたことは変えられない。

 それでも、考えずにはいられなかった。

「俺なら大丈夫だ。だから、そんなに気を張らなくていい」

 カエデの肩が、ぴくりと揺れた。

 まるで、自分の考えていることを見透かされたようだった。

「……気を張ってるつもりは、ないんだけど」

「そうか」

 アレルは、それ以上追及しなかった。

 無理に聞き出そうとすれば、彼女はきっと、また言葉を選ぶだろう。

 何かを抱えているように見える。けれど、話したくないことを無理に聞くつもりはなかった。

 ただ、ひとつだけ伝えておきたかった。

「何かあったら、俺にも言ってくれ」

「……うん」

 カエデはうなずいたが、すぐに顔を上げることはできなかった。

 謝りたいことも、言いたいこともたくさんある。

 アレルが傷ついたことが怖かった。自分が何もできなかったことが悔しかった。そして、彼が目を覚ました今も、その気持ちをうまく整理できずにいる。

 心配していることも、無事に目を覚ましてくれて嬉しかったことも、本当はもっと素直に伝えたい。

 けれど、何を言っても、最後にはあのときの自分の無力さに行き着いてしまう。

 彼に無事でいてほしい。

 もう二度と、目の前で倒れてほしくない。

 そう願う気持ちが強くなるほど、今までどおりに接することが難しくなっていた。

 隣にいるのに、以前より遠く感じる。

 荷馬車の揺れに合わせて肩が触れそうになるたび、彼女はほんのわずかに身体を引いてしまう。

 そのたびに、自分の行動が気になった。

 離れたいわけではない。

 むしろ、近くにいたいと思っている。

 それなのに、身体は勝手に距離を取ってしまう。

 アレルもまた、どうすれば彼女の心に届くのか、まだ分からずにいた。

 彼女が自分を気遣ってくれていることは分かる。けれど、その気遣いの奥にあるものを、まだ確かめることができない。

 今は、無理に言葉を重ねるよりも、彼女が自分の気持ちを整理できるのを待つべきなのかもしれない。

 そう考えながら、アレルは前を向いた。

 荷馬車は、二人を乗せてロマリアへ向かっていった。

     *

 途中に休憩を挟みつつ、一日ほどかけて荷馬車はロマリアへ到着した。

 見慣れた街並みが近づき、荷馬車の速度がゆっくりと落ちていく。人々の話し声や、店先から聞こえる呼び声が、少しずつ耳に届くようになった。

 カエデは荷台から街を見渡した。

 ロマリアへ戻るのは、金の冠を盗賊たちから取り戻す前以来だ。

 あのときは、冠を取り戻すことが何よりも大きな目的だった。無事に取り戻せた今、ようやく王様に返すことができる。

 ひとつの仕事が終わる。

 けれど、旅はまだ続いていく。

 ダルクとボルドに礼を伝え、二人は城へ向かった。

「じゃあ、俺たちは荷を届けてくる。またどこかで会おうな!」

 ダルクが手を振る。

「無理はするなよ、兄ちゃん!」

 ボルドも声をかけた。

「ありがとうございます。お二人も、お気をつけて」

 アレルは頭を下げ、カエデも二人へ手を振った。

 荷馬車が再び動き出すのを見送りながら、カエデは小さく頭を下げた。

 二人がいなければ、ここまで無事に戻ってくることは難しかったかもしれない。

 助けてもらったことへの感謝は、言葉にしてもしきれない。

 それでも、いつまでも頼っているわけにはいかない。

 これから先、どんな人と出会い、どんな危険に直面するのか分からないのだから。

 街の入口を抜け、城門へ近づくと、兵士たちがアレルの姿に気づいた。

「……まさか、金の冠を取り戻されたのですか?」

「ええ。王様にお返ししたいのですが」

「承知しました。こちらへどうぞ」

 二人は兵士に案内され、謁見の間へ向かった。

 城内を進む間、カエデは落ち着かない気持ちでいた。

 王様に冠を返せば、盗賊たちを追うための目的は果たされる。

 その先はどうなるのだろう。

 アレルは、これからも魔王を倒すために旅を続けるはずだ。自分も、その旅についていく。

 けれど、彼が傷ついたことを思い出すと、これまでと同じ気持ちだけではいられなかった。

 自分に何ができるのか。

 その答えは、まだ見つかっていない。

 カエデは歩きながら、隣にいるアレルをそっと見上げた。

 彼はいつもどおり前を向いていた。

 身体にはまだ痛みが残っているはずなのに、歩みを止めることはない。無理をしているようには見えなかったが、カエデは気になって仕方がなかった。

 それでも、今度はすぐに声をかけることができなかった。

 二人はそのまま、謁見の間へと足を進めた。

     *

「おお! よくぞ戻った、アレル!」

 王様は二人の姿を見るなり、玉座から身を乗り出した。

「金の冠を取り戻したというのは、まことか?」

「はい。こちらが、金の冠です」

 アレルは冠を差し出した。

 王様はそれを受け取り、細工を確かめると、満足そうにうなずいた。

「間違いない……! まさしく、我が国の金の冠!」

 王様は側近へ冠を預け、改めてアレルへ視線を向けた。

「よくぞ取り戻してくれた。そなたたちの働き、まことに見事である!」

「ありがとうございます。ただ、俺ひとりの力で成し遂げたわけではありません。仲間たちの助けがあったからこそ、冠を取り戻すことができました」

 王様は、わずかに目を細めた。

「力ある者が、己の力だけを誇るとは限らぬ。だが、そなたは仲間の働きを忘れず、それを当然のこととして口にするのだな」

「当然のことです。俺ひとりではできないこともありますから」

「その当然を、忘れぬ者は決して多くない」

 カエデは、そっとアレルを見上げた。

 褒められても、彼は得意げな顔をするわけではなかった。ただ、王様の言葉を静かに受け止めている。

 自分の功績を大きく見せようとすることも、謙遜しすぎて否定することもない。仲間がいたからこそ成し遂げられたのだと、当たり前のことのように話していた。

 その姿を見ていると、カエデは改めて思う。

 アレルは、自分一人で何もかもを成し遂げようとしているわけではない。

 誰かの力を借りることも、その力に感謝することも、彼にとっては自然なことなのだ。

 自分が何もできなかったと思い込んでいることも、彼は同じように考えているのだろうか。

 そんな疑問が浮かんだが、今はまだ、尋ねることができなかった。

 王様は、しばらくアレルを見つめたあと、口を開いた。

「アレルよ。そなたは、これからも魔王を倒すために旅を続けるのだな?」

「はい。そのつもりです」

「……そなたほどの人物であれば、この国を治める者としても申し分あるまい」

「えっ……!?」

 カエデは思わず声を漏らした。

 王様の表情は真剣だった。

「どうだ。ロマリアの王になってみる気はないか?」

 謁見の間がざわめいた。

 王冠を取り戻した功績を認められたとしても、まさか王位を勧められるとは。

 カエデは驚きのあまり、隣に立つアレルを見つめた。

 彼は一瞬、戸惑ったように王様を見返した。

 王になる。

 その言葉が持つ意味は、決して軽いものではない。

 国を治め、人々の暮らしを守り、国の行く末に責任を負う。王冠を取り戻した功績への褒美として考えたとしても、簡単に受け入れられる申し出ではなかった。

 それでも、王様が冗談で言っているわけではないことは、表情を見れば分かった。

 アレルは驚いた様子を見せたものの、すぐに言葉を選ぶように間を置いた。

「……お申し出は、ありがたく思います。ですが、俺には果たさなければならない使命があります」

「魔王討伐、か」

「はい。俺は、この命を魔王を倒すために使いたい。王になるつもりはありません」

 その声に迷いはなかった。

 王になるという選択肢が目の前に差し出されても、アレルは揺らがなかった。

 カエデは息を呑んだ。

 彼にとって、これはただの冒険ではない。誰かに頼まれたからでも、名声を得たいからでもない。自分がやらなければならないことだから、進んでいるのだ。

 王様の申し出を受ければ、これまでの旅とはまったく違う道を歩むこともできたはずだ。

 安定した暮らしを手に入れ、人々から敬われ、国を守る立場になる。魔王を倒すという危険な使命から離れることだってできる。

 それでも、アレルは自分の進む道を変えようとはしなかった。

 カエデには、その決意の強さが眩しく思えた。

 同時に、彼が背負っているものの大きさを、改めて感じずにはいられなかった。

 王様は、しばらく黙っていた。

 アレルの返事を聞き、考えを巡らせているようだった。

 やがて、ゆっくりと口を開く。

「……そうか。そなたの決意は、よく分かった。己の進む道を見失わぬことも、また大切なことだ」

「ありがとうございます」

「王位を断ったことを、後悔する日が来るかもしれぬ。それでも、そなたはその道を進むのだな?」

「はい。どのような結果になろうとも、自分で決めたことですから」

 王様はアレルの言葉を聞き、深くうなずいた。

「ならば、これ以上は引き留めまい。そなたの旅が実を結ぶことを願っておる」

「ありがとうございます」

 アレルは深く頭を下げた。

 カエデも、ほっと息を吐く。

 けれど、これで本当に一件落着なのだろうか。

 王冠を返し、王様からの申し出も断った。これでロマリアでの用事は終わったはずだ。

 そう思ったところで、王様が再び口を開いた。

「……実は、もうひとつ、そなたに話しておきたいことがある」

 王様の表情がわずかに曇った。

「カザーブの北に、ノアニールという村があるのを知っておるな?」

「はい」

 アレルが答えた。

 カエデは、思わず背筋を伸ばした。

 ノアニール。

 その名前を聞いた瞬間、頭の中にいくつもの記憶が浮かび上がる。

 森に囲まれた村。眠り続ける人々。そして、村に隠された悲しい事情。

 けれど、それを知っていることを口にするわけにはいかない。

 今ここで事情を説明すれば、どうして知っているのかと疑われるだろう。

 自分がこの世界について知っていることは、まだ誰にも明かせない。

 たとえ、これから向かう場所で何が起きているのかを知っていたとしても。

「その村と、長い間、連絡が取れておらぬのだ」

 王様は続けた。

「以前は商人や旅人が行き来しておった。だが、ある時期から村の者がロマリアへ訪れることもなくなり、こちらから使いを出しても返事が戻ってこない」

「……何かあったのでしょうか?」

「それが分からぬのだ。魔物の被害に遭ったのか、それとも別の問題が起きているのか。確かなことは何も分からぬ」

 カエデはそっと手を握りしめた。

 知っている。この先で何が起きているのか。

 けれど、今ここで話すことはできない。

 目の前にいる王様も、隣にいるアレルも、まだ事情を知らない。

 自分だけが知っていることを、どこまで伝えていいのか。その判断は、今も難しかった。

 すべてを話せば、彼らを助けられることもあるかもしれない。

 けれど、なぜ知っているのかという疑問が生まれる。自分が知っていることの出どころを説明できなければ、かえって不信感を抱かせてしまうだろう。

 だからこそ、今は黙っているしかなかった。

「本来なら、誰かに様子を見に行ってもらいたいところなのだが……」

 王様はアレルを見た。

「そなたたちには魔王討伐という大きな使命がある。これ以上、旅を止めるわけにはいかぬ。ノアニールのことは、こちらでも何とか方法を考えてみる」

 謁見の間に沈黙が流れた。

 王様の言葉は、アレルの使命を気遣ったものだった。

 魔王を倒すために旅をしている者に、別の問題まで背負わせるわけにはいかない。そう考えているのだろう。

 けれど、アレルはすぐには答えなかった。

 魔王を倒す。それが自分の使命だ。

 けれど、どこかで困っている人々がいるかもしれない。助けを待っている人がいるかもしれない。

 それを知りながら、何もせずに通り過ぎることができるだろうか。

 自分の目的を果たすために、目の前の問題から目を逸らす。

 それは、本当に自分が進みたい道なのだろうか。

 アレルは、ゆっくりと顔を上げた。

「……王様」

「何だ?」

「ノアニールへ向かいます」

 迷いのない声だった。

 王様は、わずかに目を見開いた。

「本当に、よいのか?」

「はい。今困っている人たちがいるかもしれないのなら、放っておくことはできません。」

 王様はしばらく彼を見つめ、やがて深くうなずいた。

「……ありがとう、アレル。そなたのような者が旅をしていることを、心強く思う」

「いえ。俺がそうしたいだけです」

 アレルは静かに頭を下げた。

「だが、無理をするでないぞ。魔王を倒すという使命も、ノアニールの人々を助けるという決意も、どちらも大切なものだ。そなた自身が倒れてしまっては、果たせるものも果たせなくなる」

「……はい。気をつけます」

 王様の言葉に、カエデは思わず隣のアレルを見た。

 怪我をしたばかりの彼に、無理をしてほしくない。

 今はまだ、身体を休める必要があるはずだ。

 けれど、アレルがノアニールへ向かうと決めた理由も、カエデには分かる気がした。

 困っている人がいるかもしれない。

 助けを待っている人がいるかもしれない。

 その可能性を知りながら、何もせずに通り過ぎることはできない。

 それが、アレルという人なのだ。

 カエデは、その横顔を見つめていた。

 王になる誘いを断ったときも。ノアニールへ向かうと決めたときも。アレルは、自分の進む道を自分で選んでいた。

 その姿が眩しかった。

 そして同時に、少しだけ苦しかった。

 自分は、彼のように迷わず決めることができるだろうか。

 彼が傷つくと分かっていても、何もできずに見ていることしかできなかった自分が。

 今の自分には、何ができるのだろう。

 知っていることを伝えるだけでは足りない。心配するだけでも足りない。

 彼の隣を歩きたいのなら、ただついていくだけではなく、自分にできることを探さなければならない。

 カエデは胸の奥に残る思いを押し込み、顔を上げた。

 アレルがノアニールへ向かうと決めたのなら、自分もその隣を歩く。

 それは、改めて口にするまでもないことだった。

 カエデは、そっとアレルの横に立った。

 彼は一度だけ彼女を見た。何かを確かめるような視線だったが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。

 カエデも何も言わず、小さくうなずいた。

 まだ、すべてが元通りになったわけではない。

 胸の奥にある罪悪感も、彼との距離も、簡単には埋まらないだろう。

 それでも、次に進むことはできる。

 隣を歩くことは、できる。

 今は、それでよかった。
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