DQ3 夜明けの果てに君と
荷馬車は、ゆっくりとカザーブを出発した。
車輪が地面を踏むたび、荷台が小さく揺れる。馬の歩みに合わせて荷物がかすかに音を立て、遠ざかっていく村の気配が少しずつ薄れていった。
カエデは揺れに合わせて身体を支えながら、隣に座るアレルの様子をうかがった。
「……痛くない?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
「でも、さっき少し顔をしかめてたよね?」
「道が悪かっただけだ」
「……そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。
いつもなら「絶対無理してるでしょ!」と食い下がっていたかもしれない。
アレルが大丈夫だと言っても、納得できるまで何度も確認していたはずだ。彼が無理をしがちなことは知っているし、少しでも痛みがあるなら休んでほしいと思っている。
けれど今は、彼の顔色をうかがうことしかできなかった。
心配していることを伝えるだけで、彼の負担になってしまうのではないか。そんな考えが、言葉を飲み込ませてしまう。
これ以上、気を遣わせたくない。
自分のせいで彼が無理をすることも、反対に、自分の心配を気にして休み続けることも望んでいない。
だから、彼が大丈夫だと言うなら、それを信じるべきなのだろう。
頭では分かっている。
それなのに、視線は何度も彼の顔へ向かってしまった。
アレルは、そんなカエデを横目で見ていた。
彼女が心配してくれていることは分かる。それなのに、以前のように気軽に話しかけてくることが少なくなった。
何かを言おうとして、途中でやめる。手を伸ばしかけて、引っ込める。
そんな小さな変化が、ずっと気になっていた。
目が合いそうになると、カエデは少しだけ視線を逸らす。何かを尋ねれば、以前よりも慎重に返事をする。
自分の怪我を気にしているのだろう。それは分かる。
けれど、それだけなのだろうか。
何か別の理由があるのだとしたら、自分にはまだ、それを見つけられていなかった。
荷馬車が石を乗り越え、大きく揺れた。
カエデは反射的に手を伸ばしかけたが、アレルの肩に触れる寸前で止めた。
揺れに合わせて、彼の身体がわずかに傾いた。
支えた方がいい。
そう思った瞬間には、もう手が動いていた。けれど、触れる直前になって、またためらってしまう。
もし傷に響いたら。
もし、余計なことをしてしまったら。
考えるより先に身体が動いたはずなのに、最後のところで手が止まる。
「……カエデ」
「なに?」
「疲れたなら、少し寝ていてもいいぞ」
「えっ? 私は大丈夫だよ」
「昨日もほとんど眠っていないだろう」
「……それは」
眠っていないわけではない。
けれど、眠っていても、あのときの光景が頭から離れなかった。
アレルが倒れた瞬間。自分の声が届かなかったこと。助けたくても、手が届かなかったこと。
それを思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
目を閉じれば、何度も同じ場面が浮かんでくる。どうすればよかったのか、何ができたのか。考えても答えは出ないのに、考えることをやめられなかった。
もし、あのとき違う行動を取っていたら。
もし、もっと早く何かに気づいていたら。
そんな仮定を繰り返しても、過ぎたことは変えられない。
それでも、考えずにはいられなかった。
「俺なら大丈夫だ。だから、そんなに気を張らなくていい」
カエデの肩が、ぴくりと揺れた。
まるで、自分の考えていることを見透かされたようだった。
「……気を張ってるつもりは、ないんだけど」
「そうか」
アレルは、それ以上追及しなかった。
無理に聞き出そうとすれば、彼女はきっと、また言葉を選ぶだろう。
何かを抱えているように見える。けれど、話したくないことを無理に聞くつもりはなかった。
ただ、ひとつだけ伝えておきたかった。
「何かあったら、俺にも言ってくれ」
「……うん」
カエデはうなずいたが、すぐに顔を上げることはできなかった。
謝りたいことも、言いたいこともたくさんある。
アレルが傷ついたことが怖かった。自分が何もできなかったことが悔しかった。そして、彼が目を覚ました今も、その気持ちをうまく整理できずにいる。
心配していることも、無事に目を覚ましてくれて嬉しかったことも、本当はもっと素直に伝えたい。
けれど、何を言っても、最後にはあのときの自分の無力さに行き着いてしまう。
彼に無事でいてほしい。
もう二度と、目の前で倒れてほしくない。
そう願う気持ちが強くなるほど、今までどおりに接することが難しくなっていた。
隣にいるのに、以前より遠く感じる。
荷馬車の揺れに合わせて肩が触れそうになるたび、彼女はほんのわずかに身体を引いてしまう。
そのたびに、自分の行動が気になった。
離れたいわけではない。
むしろ、近くにいたいと思っている。
それなのに、身体は勝手に距離を取ってしまう。
アレルもまた、どうすれば彼女の心に届くのか、まだ分からずにいた。
彼女が自分を気遣ってくれていることは分かる。けれど、その気遣いの奥にあるものを、まだ確かめることができない。
今は、無理に言葉を重ねるよりも、彼女が自分の気持ちを整理できるのを待つべきなのかもしれない。
そう考えながら、アレルは前を向いた。
荷馬車は、二人を乗せてロマリアへ向かっていった。
*
途中に休憩を挟みつつ、一日ほどかけて荷馬車はロマリアへ到着した。
見慣れた街並みが近づき、荷馬車の速度がゆっくりと落ちていく。人々の話し声や、店先から聞こえる呼び声が、少しずつ耳に届くようになった。
カエデは荷台から街を見渡した。
ロマリアへ戻るのは、金の冠を盗賊たちから取り戻す前以来だ。
あのときは、冠を取り戻すことが何よりも大きな目的だった。無事に取り戻せた今、ようやく王様に返すことができる。
ひとつの仕事が終わる。
けれど、旅はまだ続いていく。
ダルクとボルドに礼を伝え、二人は城へ向かった。
「じゃあ、俺たちは荷を届けてくる。またどこかで会おうな!」
ダルクが手を振る。
「無理はするなよ、兄ちゃん!」
ボルドも声をかけた。
「ありがとうございます。お二人も、お気をつけて」
アレルは頭を下げ、カエデも二人へ手を振った。
荷馬車が再び動き出すのを見送りながら、カエデは小さく頭を下げた。
二人がいなければ、ここまで無事に戻ってくることは難しかったかもしれない。
助けてもらったことへの感謝は、言葉にしてもしきれない。
それでも、いつまでも頼っているわけにはいかない。
これから先、どんな人と出会い、どんな危険に直面するのか分からないのだから。
街の入口を抜け、城門へ近づくと、兵士たちがアレルの姿に気づいた。
「……まさか、金の冠を取り戻されたのですか?」
「ええ。王様にお返ししたいのですが」
「承知しました。こちらへどうぞ」
二人は兵士に案内され、謁見の間へ向かった。
城内を進む間、カエデは落ち着かない気持ちでいた。
王様に冠を返せば、盗賊たちを追うための目的は果たされる。
その先はどうなるのだろう。
アレルは、これからも魔王を倒すために旅を続けるはずだ。自分も、その旅についていく。
けれど、彼が傷ついたことを思い出すと、これまでと同じ気持ちだけではいられなかった。
自分に何ができるのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
カエデは歩きながら、隣にいるアレルをそっと見上げた。
彼はいつもどおり前を向いていた。
身体にはまだ痛みが残っているはずなのに、歩みを止めることはない。無理をしているようには見えなかったが、カエデは気になって仕方がなかった。
それでも、今度はすぐに声をかけることができなかった。
二人はそのまま、謁見の間へと足を進めた。
*
「おお! よくぞ戻った、アレル!」
王様は二人の姿を見るなり、玉座から身を乗り出した。
「金の冠を取り戻したというのは、まことか?」
「はい。こちらが、金の冠です」
アレルは冠を差し出した。
王様はそれを受け取り、細工を確かめると、満足そうにうなずいた。
「間違いない……! まさしく、我が国の金の冠!」
王様は側近へ冠を預け、改めてアレルへ視線を向けた。
「よくぞ取り戻してくれた。そなたたちの働き、まことに見事である!」
「ありがとうございます。ただ、俺ひとりの力で成し遂げたわけではありません。仲間たちの助けがあったからこそ、冠を取り戻すことができました」
王様は、わずかに目を細めた。
「力ある者が、己の力だけを誇るとは限らぬ。だが、そなたは仲間の働きを忘れず、それを当然のこととして口にするのだな」
「当然のことです。俺ひとりではできないこともありますから」
「その当然を、忘れぬ者は決して多くない」
カエデは、そっとアレルを見上げた。
褒められても、彼は得意げな顔をするわけではなかった。ただ、王様の言葉を静かに受け止めている。
自分の功績を大きく見せようとすることも、謙遜しすぎて否定することもない。仲間がいたからこそ成し遂げられたのだと、当たり前のことのように話していた。
その姿を見ていると、カエデは改めて思う。
アレルは、自分一人で何もかもを成し遂げようとしているわけではない。
誰かの力を借りることも、その力に感謝することも、彼にとっては自然なことなのだ。
自分が何もできなかったと思い込んでいることも、彼は同じように考えているのだろうか。
そんな疑問が浮かんだが、今はまだ、尋ねることができなかった。
王様は、しばらくアレルを見つめたあと、口を開いた。
「アレルよ。そなたは、これからも魔王を倒すために旅を続けるのだな?」
「はい。そのつもりです」
「……そなたほどの人物であれば、この国を治める者としても申し分あるまい」
「えっ……!?」
カエデは思わず声を漏らした。
王様の表情は真剣だった。
「どうだ。ロマリアの王になってみる気はないか?」
謁見の間がざわめいた。
王冠を取り戻した功績を認められたとしても、まさか王位を勧められるとは。
カエデは驚きのあまり、隣に立つアレルを見つめた。
彼は一瞬、戸惑ったように王様を見返した。
王になる。
その言葉が持つ意味は、決して軽いものではない。
国を治め、人々の暮らしを守り、国の行く末に責任を負う。王冠を取り戻した功績への褒美として考えたとしても、簡単に受け入れられる申し出ではなかった。
それでも、王様が冗談で言っているわけではないことは、表情を見れば分かった。
アレルは驚いた様子を見せたものの、すぐに言葉を選ぶように間を置いた。
「……お申し出は、ありがたく思います。ですが、俺には果たさなければならない使命があります」
「魔王討伐、か」
「はい。俺は、この命を魔王を倒すために使いたい。王になるつもりはありません」
その声に迷いはなかった。
王になるという選択肢が目の前に差し出されても、アレルは揺らがなかった。
カエデは息を呑んだ。
彼にとって、これはただの冒険ではない。誰かに頼まれたからでも、名声を得たいからでもない。自分がやらなければならないことだから、進んでいるのだ。
王様の申し出を受ければ、これまでの旅とはまったく違う道を歩むこともできたはずだ。
安定した暮らしを手に入れ、人々から敬われ、国を守る立場になる。魔王を倒すという危険な使命から離れることだってできる。
それでも、アレルは自分の進む道を変えようとはしなかった。
カエデには、その決意の強さが眩しく思えた。
同時に、彼が背負っているものの大きさを、改めて感じずにはいられなかった。
王様は、しばらく黙っていた。
アレルの返事を聞き、考えを巡らせているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……そうか。そなたの決意は、よく分かった。己の進む道を見失わぬことも、また大切なことだ」
「ありがとうございます」
「王位を断ったことを、後悔する日が来るかもしれぬ。それでも、そなたはその道を進むのだな?」
「はい。どのような結果になろうとも、自分で決めたことですから」
王様はアレルの言葉を聞き、深くうなずいた。
「ならば、これ以上は引き留めまい。そなたの旅が実を結ぶことを願っておる」
「ありがとうございます」
アレルは深く頭を下げた。
カエデも、ほっと息を吐く。
けれど、これで本当に一件落着なのだろうか。
王冠を返し、王様からの申し出も断った。これでロマリアでの用事は終わったはずだ。
そう思ったところで、王様が再び口を開いた。
「……実は、もうひとつ、そなたに話しておきたいことがある」
王様の表情がわずかに曇った。
「カザーブの北に、ノアニールという村があるのを知っておるな?」
「はい」
アレルが答えた。
カエデは、思わず背筋を伸ばした。
ノアニール。
その名前を聞いた瞬間、頭の中にいくつもの記憶が浮かび上がる。
森に囲まれた村。眠り続ける人々。そして、村に隠された悲しい事情。
けれど、それを知っていることを口にするわけにはいかない。
今ここで事情を説明すれば、どうして知っているのかと疑われるだろう。
自分がこの世界について知っていることは、まだ誰にも明かせない。
たとえ、これから向かう場所で何が起きているのかを知っていたとしても。
「その村と、長い間、連絡が取れておらぬのだ」
王様は続けた。
「以前は商人や旅人が行き来しておった。だが、ある時期から村の者がロマリアへ訪れることもなくなり、こちらから使いを出しても返事が戻ってこない」
「……何かあったのでしょうか?」
「それが分からぬのだ。魔物の被害に遭ったのか、それとも別の問題が起きているのか。確かなことは何も分からぬ」
カエデはそっと手を握りしめた。
知っている。この先で何が起きているのか。
けれど、今ここで話すことはできない。
目の前にいる王様も、隣にいるアレルも、まだ事情を知らない。
自分だけが知っていることを、どこまで伝えていいのか。その判断は、今も難しかった。
すべてを話せば、彼らを助けられることもあるかもしれない。
けれど、なぜ知っているのかという疑問が生まれる。自分が知っていることの出どころを説明できなければ、かえって不信感を抱かせてしまうだろう。
だからこそ、今は黙っているしかなかった。
「本来なら、誰かに様子を見に行ってもらいたいところなのだが……」
王様はアレルを見た。
「そなたたちには魔王討伐という大きな使命がある。これ以上、旅を止めるわけにはいかぬ。ノアニールのことは、こちらでも何とか方法を考えてみる」
謁見の間に沈黙が流れた。
王様の言葉は、アレルの使命を気遣ったものだった。
魔王を倒すために旅をしている者に、別の問題まで背負わせるわけにはいかない。そう考えているのだろう。
けれど、アレルはすぐには答えなかった。
魔王を倒す。それが自分の使命だ。
けれど、どこかで困っている人々がいるかもしれない。助けを待っている人がいるかもしれない。
それを知りながら、何もせずに通り過ぎることができるだろうか。
自分の目的を果たすために、目の前の問題から目を逸らす。
それは、本当に自分が進みたい道なのだろうか。
アレルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……王様」
「何だ?」
「ノアニールへ向かいます」
迷いのない声だった。
王様は、わずかに目を見開いた。
「本当に、よいのか?」
「はい。今困っている人たちがいるかもしれないのなら、放っておくことはできません。」
王様はしばらく彼を見つめ、やがて深くうなずいた。
「……ありがとう、アレル。そなたのような者が旅をしていることを、心強く思う」
「いえ。俺がそうしたいだけです」
アレルは静かに頭を下げた。
「だが、無理をするでないぞ。魔王を倒すという使命も、ノアニールの人々を助けるという決意も、どちらも大切なものだ。そなた自身が倒れてしまっては、果たせるものも果たせなくなる」
「……はい。気をつけます」
王様の言葉に、カエデは思わず隣のアレルを見た。
怪我をしたばかりの彼に、無理をしてほしくない。
今はまだ、身体を休める必要があるはずだ。
けれど、アレルがノアニールへ向かうと決めた理由も、カエデには分かる気がした。
困っている人がいるかもしれない。
助けを待っている人がいるかもしれない。
その可能性を知りながら、何もせずに通り過ぎることはできない。
それが、アレルという人なのだ。
カエデは、その横顔を見つめていた。
王になる誘いを断ったときも。ノアニールへ向かうと決めたときも。アレルは、自分の進む道を自分で選んでいた。
その姿が眩しかった。
そして同時に、少しだけ苦しかった。
自分は、彼のように迷わず決めることができるだろうか。
彼が傷つくと分かっていても、何もできずに見ていることしかできなかった自分が。
今の自分には、何ができるのだろう。
知っていることを伝えるだけでは足りない。心配するだけでも足りない。
彼の隣を歩きたいのなら、ただついていくだけではなく、自分にできることを探さなければならない。
カエデは胸の奥に残る思いを押し込み、顔を上げた。
アレルがノアニールへ向かうと決めたのなら、自分もその隣を歩く。
それは、改めて口にするまでもないことだった。
カエデは、そっとアレルの横に立った。
彼は一度だけ彼女を見た。何かを確かめるような視線だったが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
カエデも何も言わず、小さくうなずいた。
まだ、すべてが元通りになったわけではない。
胸の奥にある罪悪感も、彼との距離も、簡単には埋まらないだろう。
それでも、次に進むことはできる。
隣を歩くことは、できる。
今は、それでよかった。
車輪が地面を踏むたび、荷台が小さく揺れる。馬の歩みに合わせて荷物がかすかに音を立て、遠ざかっていく村の気配が少しずつ薄れていった。
カエデは揺れに合わせて身体を支えながら、隣に座るアレルの様子をうかがった。
「……痛くない?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
「でも、さっき少し顔をしかめてたよね?」
「道が悪かっただけだ」
「……そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。
いつもなら「絶対無理してるでしょ!」と食い下がっていたかもしれない。
アレルが大丈夫だと言っても、納得できるまで何度も確認していたはずだ。彼が無理をしがちなことは知っているし、少しでも痛みがあるなら休んでほしいと思っている。
けれど今は、彼の顔色をうかがうことしかできなかった。
心配していることを伝えるだけで、彼の負担になってしまうのではないか。そんな考えが、言葉を飲み込ませてしまう。
これ以上、気を遣わせたくない。
自分のせいで彼が無理をすることも、反対に、自分の心配を気にして休み続けることも望んでいない。
だから、彼が大丈夫だと言うなら、それを信じるべきなのだろう。
頭では分かっている。
それなのに、視線は何度も彼の顔へ向かってしまった。
アレルは、そんなカエデを横目で見ていた。
彼女が心配してくれていることは分かる。それなのに、以前のように気軽に話しかけてくることが少なくなった。
何かを言おうとして、途中でやめる。手を伸ばしかけて、引っ込める。
そんな小さな変化が、ずっと気になっていた。
目が合いそうになると、カエデは少しだけ視線を逸らす。何かを尋ねれば、以前よりも慎重に返事をする。
自分の怪我を気にしているのだろう。それは分かる。
けれど、それだけなのだろうか。
何か別の理由があるのだとしたら、自分にはまだ、それを見つけられていなかった。
荷馬車が石を乗り越え、大きく揺れた。
カエデは反射的に手を伸ばしかけたが、アレルの肩に触れる寸前で止めた。
揺れに合わせて、彼の身体がわずかに傾いた。
支えた方がいい。
そう思った瞬間には、もう手が動いていた。けれど、触れる直前になって、またためらってしまう。
もし傷に響いたら。
もし、余計なことをしてしまったら。
考えるより先に身体が動いたはずなのに、最後のところで手が止まる。
「……カエデ」
「なに?」
「疲れたなら、少し寝ていてもいいぞ」
「えっ? 私は大丈夫だよ」
「昨日もほとんど眠っていないだろう」
「……それは」
眠っていないわけではない。
けれど、眠っていても、あのときの光景が頭から離れなかった。
アレルが倒れた瞬間。自分の声が届かなかったこと。助けたくても、手が届かなかったこと。
それを思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
目を閉じれば、何度も同じ場面が浮かんでくる。どうすればよかったのか、何ができたのか。考えても答えは出ないのに、考えることをやめられなかった。
もし、あのとき違う行動を取っていたら。
もし、もっと早く何かに気づいていたら。
そんな仮定を繰り返しても、過ぎたことは変えられない。
それでも、考えずにはいられなかった。
「俺なら大丈夫だ。だから、そんなに気を張らなくていい」
カエデの肩が、ぴくりと揺れた。
まるで、自分の考えていることを見透かされたようだった。
「……気を張ってるつもりは、ないんだけど」
「そうか」
アレルは、それ以上追及しなかった。
無理に聞き出そうとすれば、彼女はきっと、また言葉を選ぶだろう。
何かを抱えているように見える。けれど、話したくないことを無理に聞くつもりはなかった。
ただ、ひとつだけ伝えておきたかった。
「何かあったら、俺にも言ってくれ」
「……うん」
カエデはうなずいたが、すぐに顔を上げることはできなかった。
謝りたいことも、言いたいこともたくさんある。
アレルが傷ついたことが怖かった。自分が何もできなかったことが悔しかった。そして、彼が目を覚ました今も、その気持ちをうまく整理できずにいる。
心配していることも、無事に目を覚ましてくれて嬉しかったことも、本当はもっと素直に伝えたい。
けれど、何を言っても、最後にはあのときの自分の無力さに行き着いてしまう。
彼に無事でいてほしい。
もう二度と、目の前で倒れてほしくない。
そう願う気持ちが強くなるほど、今までどおりに接することが難しくなっていた。
隣にいるのに、以前より遠く感じる。
荷馬車の揺れに合わせて肩が触れそうになるたび、彼女はほんのわずかに身体を引いてしまう。
そのたびに、自分の行動が気になった。
離れたいわけではない。
むしろ、近くにいたいと思っている。
それなのに、身体は勝手に距離を取ってしまう。
アレルもまた、どうすれば彼女の心に届くのか、まだ分からずにいた。
彼女が自分を気遣ってくれていることは分かる。けれど、その気遣いの奥にあるものを、まだ確かめることができない。
今は、無理に言葉を重ねるよりも、彼女が自分の気持ちを整理できるのを待つべきなのかもしれない。
そう考えながら、アレルは前を向いた。
荷馬車は、二人を乗せてロマリアへ向かっていった。
*
途中に休憩を挟みつつ、一日ほどかけて荷馬車はロマリアへ到着した。
見慣れた街並みが近づき、荷馬車の速度がゆっくりと落ちていく。人々の話し声や、店先から聞こえる呼び声が、少しずつ耳に届くようになった。
カエデは荷台から街を見渡した。
ロマリアへ戻るのは、金の冠を盗賊たちから取り戻す前以来だ。
あのときは、冠を取り戻すことが何よりも大きな目的だった。無事に取り戻せた今、ようやく王様に返すことができる。
ひとつの仕事が終わる。
けれど、旅はまだ続いていく。
ダルクとボルドに礼を伝え、二人は城へ向かった。
「じゃあ、俺たちは荷を届けてくる。またどこかで会おうな!」
ダルクが手を振る。
「無理はするなよ、兄ちゃん!」
ボルドも声をかけた。
「ありがとうございます。お二人も、お気をつけて」
アレルは頭を下げ、カエデも二人へ手を振った。
荷馬車が再び動き出すのを見送りながら、カエデは小さく頭を下げた。
二人がいなければ、ここまで無事に戻ってくることは難しかったかもしれない。
助けてもらったことへの感謝は、言葉にしてもしきれない。
それでも、いつまでも頼っているわけにはいかない。
これから先、どんな人と出会い、どんな危険に直面するのか分からないのだから。
街の入口を抜け、城門へ近づくと、兵士たちがアレルの姿に気づいた。
「……まさか、金の冠を取り戻されたのですか?」
「ええ。王様にお返ししたいのですが」
「承知しました。こちらへどうぞ」
二人は兵士に案内され、謁見の間へ向かった。
城内を進む間、カエデは落ち着かない気持ちでいた。
王様に冠を返せば、盗賊たちを追うための目的は果たされる。
その先はどうなるのだろう。
アレルは、これからも魔王を倒すために旅を続けるはずだ。自分も、その旅についていく。
けれど、彼が傷ついたことを思い出すと、これまでと同じ気持ちだけではいられなかった。
自分に何ができるのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
カエデは歩きながら、隣にいるアレルをそっと見上げた。
彼はいつもどおり前を向いていた。
身体にはまだ痛みが残っているはずなのに、歩みを止めることはない。無理をしているようには見えなかったが、カエデは気になって仕方がなかった。
それでも、今度はすぐに声をかけることができなかった。
二人はそのまま、謁見の間へと足を進めた。
*
「おお! よくぞ戻った、アレル!」
王様は二人の姿を見るなり、玉座から身を乗り出した。
「金の冠を取り戻したというのは、まことか?」
「はい。こちらが、金の冠です」
アレルは冠を差し出した。
王様はそれを受け取り、細工を確かめると、満足そうにうなずいた。
「間違いない……! まさしく、我が国の金の冠!」
王様は側近へ冠を預け、改めてアレルへ視線を向けた。
「よくぞ取り戻してくれた。そなたたちの働き、まことに見事である!」
「ありがとうございます。ただ、俺ひとりの力で成し遂げたわけではありません。仲間たちの助けがあったからこそ、冠を取り戻すことができました」
王様は、わずかに目を細めた。
「力ある者が、己の力だけを誇るとは限らぬ。だが、そなたは仲間の働きを忘れず、それを当然のこととして口にするのだな」
「当然のことです。俺ひとりではできないこともありますから」
「その当然を、忘れぬ者は決して多くない」
カエデは、そっとアレルを見上げた。
褒められても、彼は得意げな顔をするわけではなかった。ただ、王様の言葉を静かに受け止めている。
自分の功績を大きく見せようとすることも、謙遜しすぎて否定することもない。仲間がいたからこそ成し遂げられたのだと、当たり前のことのように話していた。
その姿を見ていると、カエデは改めて思う。
アレルは、自分一人で何もかもを成し遂げようとしているわけではない。
誰かの力を借りることも、その力に感謝することも、彼にとっては自然なことなのだ。
自分が何もできなかったと思い込んでいることも、彼は同じように考えているのだろうか。
そんな疑問が浮かんだが、今はまだ、尋ねることができなかった。
王様は、しばらくアレルを見つめたあと、口を開いた。
「アレルよ。そなたは、これからも魔王を倒すために旅を続けるのだな?」
「はい。そのつもりです」
「……そなたほどの人物であれば、この国を治める者としても申し分あるまい」
「えっ……!?」
カエデは思わず声を漏らした。
王様の表情は真剣だった。
「どうだ。ロマリアの王になってみる気はないか?」
謁見の間がざわめいた。
王冠を取り戻した功績を認められたとしても、まさか王位を勧められるとは。
カエデは驚きのあまり、隣に立つアレルを見つめた。
彼は一瞬、戸惑ったように王様を見返した。
王になる。
その言葉が持つ意味は、決して軽いものではない。
国を治め、人々の暮らしを守り、国の行く末に責任を負う。王冠を取り戻した功績への褒美として考えたとしても、簡単に受け入れられる申し出ではなかった。
それでも、王様が冗談で言っているわけではないことは、表情を見れば分かった。
アレルは驚いた様子を見せたものの、すぐに言葉を選ぶように間を置いた。
「……お申し出は、ありがたく思います。ですが、俺には果たさなければならない使命があります」
「魔王討伐、か」
「はい。俺は、この命を魔王を倒すために使いたい。王になるつもりはありません」
その声に迷いはなかった。
王になるという選択肢が目の前に差し出されても、アレルは揺らがなかった。
カエデは息を呑んだ。
彼にとって、これはただの冒険ではない。誰かに頼まれたからでも、名声を得たいからでもない。自分がやらなければならないことだから、進んでいるのだ。
王様の申し出を受ければ、これまでの旅とはまったく違う道を歩むこともできたはずだ。
安定した暮らしを手に入れ、人々から敬われ、国を守る立場になる。魔王を倒すという危険な使命から離れることだってできる。
それでも、アレルは自分の進む道を変えようとはしなかった。
カエデには、その決意の強さが眩しく思えた。
同時に、彼が背負っているものの大きさを、改めて感じずにはいられなかった。
王様は、しばらく黙っていた。
アレルの返事を聞き、考えを巡らせているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……そうか。そなたの決意は、よく分かった。己の進む道を見失わぬことも、また大切なことだ」
「ありがとうございます」
「王位を断ったことを、後悔する日が来るかもしれぬ。それでも、そなたはその道を進むのだな?」
「はい。どのような結果になろうとも、自分で決めたことですから」
王様はアレルの言葉を聞き、深くうなずいた。
「ならば、これ以上は引き留めまい。そなたの旅が実を結ぶことを願っておる」
「ありがとうございます」
アレルは深く頭を下げた。
カエデも、ほっと息を吐く。
けれど、これで本当に一件落着なのだろうか。
王冠を返し、王様からの申し出も断った。これでロマリアでの用事は終わったはずだ。
そう思ったところで、王様が再び口を開いた。
「……実は、もうひとつ、そなたに話しておきたいことがある」
王様の表情がわずかに曇った。
「カザーブの北に、ノアニールという村があるのを知っておるな?」
「はい」
アレルが答えた。
カエデは、思わず背筋を伸ばした。
ノアニール。
その名前を聞いた瞬間、頭の中にいくつもの記憶が浮かび上がる。
森に囲まれた村。眠り続ける人々。そして、村に隠された悲しい事情。
けれど、それを知っていることを口にするわけにはいかない。
今ここで事情を説明すれば、どうして知っているのかと疑われるだろう。
自分がこの世界について知っていることは、まだ誰にも明かせない。
たとえ、これから向かう場所で何が起きているのかを知っていたとしても。
「その村と、長い間、連絡が取れておらぬのだ」
王様は続けた。
「以前は商人や旅人が行き来しておった。だが、ある時期から村の者がロマリアへ訪れることもなくなり、こちらから使いを出しても返事が戻ってこない」
「……何かあったのでしょうか?」
「それが分からぬのだ。魔物の被害に遭ったのか、それとも別の問題が起きているのか。確かなことは何も分からぬ」
カエデはそっと手を握りしめた。
知っている。この先で何が起きているのか。
けれど、今ここで話すことはできない。
目の前にいる王様も、隣にいるアレルも、まだ事情を知らない。
自分だけが知っていることを、どこまで伝えていいのか。その判断は、今も難しかった。
すべてを話せば、彼らを助けられることもあるかもしれない。
けれど、なぜ知っているのかという疑問が生まれる。自分が知っていることの出どころを説明できなければ、かえって不信感を抱かせてしまうだろう。
だからこそ、今は黙っているしかなかった。
「本来なら、誰かに様子を見に行ってもらいたいところなのだが……」
王様はアレルを見た。
「そなたたちには魔王討伐という大きな使命がある。これ以上、旅を止めるわけにはいかぬ。ノアニールのことは、こちらでも何とか方法を考えてみる」
謁見の間に沈黙が流れた。
王様の言葉は、アレルの使命を気遣ったものだった。
魔王を倒すために旅をしている者に、別の問題まで背負わせるわけにはいかない。そう考えているのだろう。
けれど、アレルはすぐには答えなかった。
魔王を倒す。それが自分の使命だ。
けれど、どこかで困っている人々がいるかもしれない。助けを待っている人がいるかもしれない。
それを知りながら、何もせずに通り過ぎることができるだろうか。
自分の目的を果たすために、目の前の問題から目を逸らす。
それは、本当に自分が進みたい道なのだろうか。
アレルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……王様」
「何だ?」
「ノアニールへ向かいます」
迷いのない声だった。
王様は、わずかに目を見開いた。
「本当に、よいのか?」
「はい。今困っている人たちがいるかもしれないのなら、放っておくことはできません。」
王様はしばらく彼を見つめ、やがて深くうなずいた。
「……ありがとう、アレル。そなたのような者が旅をしていることを、心強く思う」
「いえ。俺がそうしたいだけです」
アレルは静かに頭を下げた。
「だが、無理をするでないぞ。魔王を倒すという使命も、ノアニールの人々を助けるという決意も、どちらも大切なものだ。そなた自身が倒れてしまっては、果たせるものも果たせなくなる」
「……はい。気をつけます」
王様の言葉に、カエデは思わず隣のアレルを見た。
怪我をしたばかりの彼に、無理をしてほしくない。
今はまだ、身体を休める必要があるはずだ。
けれど、アレルがノアニールへ向かうと決めた理由も、カエデには分かる気がした。
困っている人がいるかもしれない。
助けを待っている人がいるかもしれない。
その可能性を知りながら、何もせずに通り過ぎることはできない。
それが、アレルという人なのだ。
カエデは、その横顔を見つめていた。
王になる誘いを断ったときも。ノアニールへ向かうと決めたときも。アレルは、自分の進む道を自分で選んでいた。
その姿が眩しかった。
そして同時に、少しだけ苦しかった。
自分は、彼のように迷わず決めることができるだろうか。
彼が傷つくと分かっていても、何もできずに見ていることしかできなかった自分が。
今の自分には、何ができるのだろう。
知っていることを伝えるだけでは足りない。心配するだけでも足りない。
彼の隣を歩きたいのなら、ただついていくだけではなく、自分にできることを探さなければならない。
カエデは胸の奥に残る思いを押し込み、顔を上げた。
アレルがノアニールへ向かうと決めたのなら、自分もその隣を歩く。
それは、改めて口にするまでもないことだった。
カエデは、そっとアレルの横に立った。
彼は一度だけ彼女を見た。何かを確かめるような視線だったが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
カエデも何も言わず、小さくうなずいた。
まだ、すべてが元通りになったわけではない。
胸の奥にある罪悪感も、彼との距離も、簡単には埋まらないだろう。
それでも、次に進むことはできる。
隣を歩くことは、できる。
今は、それでよかった。
