DQ3 夜明けの果てに君と


 老夫婦の馬車を見送った二人は、そのままカザーブの村へと足を踏み入れた。

 朝の穏やかな空気が、二人を包み込む。

「まずは少し休もう。ロマリアからの移動で疲れただろう」

「うん。そうしよう」

 アレルの提案に頷き、二人は村の宿屋へと向かった。

 食事を済ませ、装備を確認する。傷んだ道具を整え、必要な物資を買い足すと、あっという間に時間が過ぎていった。

 窓の外に目を向けると、太陽はすでに高い位置まで昇っている。

「そろそろ出発しようか」

「そうだね。あの……ノアニールまでは、どれくらいかかるの?」

 カエデが尋ねると、アレルは宿屋の主人へ視線を向けた。

「この先のノアニールまで行きたいんだが、歩いてどれくらいかかる?」

「そうだな。休まず歩いても、六時間ほどはかかるだろう。道も途中から山あいに入るから、暗くなる前に着きたいなら早めに出た方がいい」

「六時間か……。分かった。ありがとう」

 宿屋の主人に礼を告げ、二人は荷物を整えた。

「日が暮れる前には着けるといいな」

「うん。急ぎすぎないように気をつけようね」

 二人は宿屋を出ると、村の北へ続く道へと歩き出した。

 カザーブの建物が少しずつ遠ざかっていく。

 これから向かうノアニールは、この先の山あいにある村だ。道のりは決して短くないが、二人は慣れた足取りで進んでいった。

     *

 しばらく歩いた頃だった。

「アレル、上!」

 カエデの声に反応し、アレルが顔を上げる。

 頭上から、鳥のような魔物が急降下してきた。

「デスフラッターか!」

 緑がかった羽毛に覆われた身体。その頭には、まるで飾りのように白いドクロが乗っている。羽ばたくたびに、頭上のしゃれこうべが不気味に揺れた。

 デスフラッターは翼を大きく広げ、鋭い爪を振り下ろす。

 アレルは身をひねって攻撃をかわすと、剣を構え直した。

「速い……!」

 デスフラッターは地面すれすれまで降下したかと思うと、すぐさま上空へ舞い上がる。二人の隙を窺うように旋回し、再び襲いかかってきた。

「アレル、次は右から来る!」

「分かった!」

 アレルはカエデの声に合わせて横へ飛び退く。魔物の爪が空を切った瞬間、剣を振り上げた。

 刃が翼を捉える。

 体勢を崩したデスフラッターが地面へ落ちた。だが、まだ動きを止めない。片翼をばたつかせながら、地面を這うようにアレルへ迫ってくる。

「まだ動くのか……!」

 アレルが剣を構え直す。

 魔物は最後の力を振り絞るように飛びかかった。

 アレルはその攻撃を正面から受け止めず、身体を横へずらす。すれ違いざまに剣を振り抜くと、デスフラッターは地面に崩れ落ち、今度こそ動かなくなった。

「ふう……。空を飛ぶ相手は厄介だな」

「うん。でも、ちゃんと倒せたね」

 二人は周囲を警戒しながら、再び道を進み始めた。

     *

 太陽が傾き始めた頃、今度は道の先から唸り声が聞こえてきた。

 姿を現したのは、獣のような魔物だった。

 生気の感じられない荒れた毛並み。身体のところどころは傷んだように見え、口元から覗く牙だけが夕日の中で白く浮かび上がっている。

「バリイドドッグ……!」

 カエデが思わず声を上げる。

 魔物は二人を見つけると、低い姿勢で地面を蹴った。

「来るぞ!」

 アレルが剣を構える。

 バリイドドッグは鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってきた。アレルは剣で受け止めようとするが、その巨体に押されて足元がよろめく。

「アレル!」

「大丈夫だ!」

 魔物は距離を取ると、再び身構えた。

 次の瞬間、その身体から不気味な気配が広がる。

「ルカナン……! アレル、守備力を下げてくるよ!」

「厄介な呪文だな……!」

 アレルは魔物の攻撃をかわしながら、反撃の機会を窺う。

 バリイドドッグが飛びかかってきた瞬間、アレルは横へ身を投げ出した。魔物の身体が通り過ぎる。

 その隙を逃さず、アレルは剣を振り抜いた。

 魔物の身体が大きく傾き、地面に倒れ込む。

 それでも、バリイドドッグはすぐには動きを止めなかった。低く唸りながら前脚を動かし、もう一度立ち上がろうとする。

 アレルは油断せず、剣を握り直した。

「これで終わりだ!」

 振り下ろされた剣が魔物を捉える。

 バリイドドッグの身体から力が抜け、今度こそ動かなくなった。

 アレルは息を整えながら、剣を下ろした。

「今度は力の強い相手だったね」

「ああ。だが、これで先へ進める」

 空は徐々に赤く染まり、山の向こうには夜の気配が近づいていた。

 二人は歩調を速め、ノアニールを目指した。

     *

 やがて、木々の向こうに小さな村の姿が見えてきた。

「……ノアニールだ」

 アレルが足を止める。

 しかし、村の様子はどこかおかしかった。

 夕暮れを過ぎたとはいえ、家々から明かりはほとんど漏れていない。人の声も、生活の音も聞こえてこなかった。

 村の入口には、誰の姿もない。

 風が吹くたびに、軒先に吊るされた木の看板がかすかに揺れる。その音だけが、静まり返った村に響いていた。

「静かすぎない……?」

 カエデの呟きに、アレルも頷く。

「何かあったのかもしれない。少し調べてみよう」

 二人は村の中へと足を踏み入れた。

 道の両側には家が並んでいる。窓は閉ざされ、扉も固く閉じられていた。夕食の支度をしている家があってもおかしくない時間なのに、煙突から煙が上がっている家もない。

 まるで、村全体の時間が止まってしまったかのようだった。

 最初に訪れた家の扉を叩いてみる。

「すみません。誰かいませんか?」

 返事はない。

 アレルが扉を開けると、室内には人影があった。

 年老いた男が、ベッドの上で横になっている。

「おじいさん?」

 カエデが近づき、そっと声をかけた。

 しかし、男は目を覚まさない。

 呼吸はある。身体も温かい。けれど、どれだけ声をかけても、肩を揺すっても反応がなかった。

「眠っている……のかな?」

「ただ眠っているだけには見えないな」

 アレルは男の様子を確かめたあと、部屋の中を見回した。

 食卓には、食べかけの食事がそのまま残されている。椅子は引かれたまま。床には、落としたらしい食器が転がっていた。

 突然、眠りに落ちたのだろうか。

 別の家も調べてみた。

 そこでも、同じだった。

 大人も、子供も、老人も。村人たちは皆、深い眠りに落ちたまま目を覚まさない。

 ある家では、幼い子供が母親の腕の中で眠っていた。母親もまた、子供を抱いたまま動かない。

 別の家では、扉のすぐそばに男が倒れるように横たわっていた。まるで、外へ出ようとしたところで眠ってしまったかのようだった。

「どうして、みんな……」

 カエデの表情が曇る。

 彼女は知っていた。

 ノアニールを襲った、眠りの呪い。

 けれど、そのことをアレルに話すわけにはいかなかった。

 知っているはずの場所。知っているはずの出来事。

 それなのに、目の前で眠り続ける村人たちの姿は、画面越しに見ていたものとはまるで違う。

 目の前にいる人たちは、誰一人として作り物ではない。

 助けを求める声さえ上げられないまま、深い眠りに閉じ込められている。

「カエデ?」

「……ううん。何でもない」

 そう答えたものの、胸の奥には嫌な予感が広がっていた。

 そのときだった。

 村の奥、建物と建物の隙間に、黒いものが動いた。

「……アレル、あそこ!」

 カエデが指差す。

 闇の中に浮かんでいたのは、人の形をした影だった。

 灰色がかった半透明の身体。輪郭は曖昧で、顔も手足もはっきりとは見えない。そこに何かが立っているということだけは分かるのに、目を凝らすほど、その姿は闇に溶け込んでいく。

「魔物か……!」

 アレルが剣を抜く。

 影はゆらりと揺れた。

 次の瞬間、周囲の闇が濃くなったように感じられた。

「気をつけて、アレル! あやしいかげだよ!」

 影が動く。

 地面を滑るように迫ってきたそれを、アレルは剣で迎え撃った。

 しかし、刃が触れた瞬間、影の身体が煙のように揺らいだ。

「手応えがない……?」

 影はすぐさま後方へ退く。

 その身体から、黒い靄のようなものが広がった。

「アレル、離れて!」

 カエデの声とほぼ同時に、影の周囲に赤い光が走る。

 次の瞬間、炎の呪文が闇を切り裂いた。

「ベギラマ……!」

 燃え上がる炎が二人の足元をなめるように広がり、地面を赤く照らす。

「くっ……!」

 アレルはカエデの腕を引き、攻撃の範囲から飛び退いた。

 炎が消えたあとも、熱気だけがその場に残っていた。

 影は一体ではなかった。

 建物の陰から、もう一体が姿を現す。

「二体か……!」

 アレルは剣を握り直した。

 しかし、暗闇の中では敵の位置を正確に捉えられない。目の前にいたはずの影が、次の瞬間には別の場所にいる。

 影は地面に落ちた染みのように広がり、壁を這うように移動したかと思うと、再び人の形を取った。

「どこから来るか分からない……!」

「アレル、後ろ!」

 振り返ったアレルの視界に、影が迫る。

 剣を振るう。だが、刃は黒い身体の輪郭をかすめただけだった。

 影が揺らぎ、その身体から白い靄が噴き出す。

「マヌーサ……!」

 カエデが叫んだ。

 途端に視界が歪む。

 建物の輪郭がぼやけ、目の前にいるはずの影が二つにも三つにも見えた。

「くっ……どれが本物だ……!」

「アレル、無理に振らないで! よく見て!」

 カエデも目を凝らすが、影の位置を捉えきれない。

 そのとき、背後から冷気が押し寄せた。

「ヒャド……じゃない!これは…」

ヒャダルコ!

 地面が白く凍りつき、足元から冷たさが這い上がってくる。

 アレルは咄嗟に跳び退いた。だが、凍った地面に足を取られ、体勢が崩れる。

「アレル!」

 カエデが駆け寄ろうとした瞬間、もう一体の影が黒い口のようなものを開いた。

 低い唸り声。

 次の瞬間、火の息が吐き出された。

「危ない!」

 アレルはカエデの前に身体を滑り込ませ、剣を構える。

 炎が二人のすぐ横を通り過ぎ、背後の壁を赤く照らした。

 熱風が頬を焼くように吹きつける。

 影は呪文だけではなく、息までも使う。

 しかも、その攻撃は暗闇の中から突然飛んでくる。

「このままじゃ……!」

 カエデは周囲を見回した。

 影の動きは速い。呪文で視界や足元を乱し、炎の息で距離を取らせる。まともに戦えば、こちらが不利だった。

「アレル、右の影を!」

「ああ!」

 アレルは一体に狙いを定め、剣を振るう。

 今度は刃が影を捉えた。

 黒い身体が大きく揺らぎ、地面へと崩れ落ちる。

 しかし、残る一体は違った。

 こちらの攻撃が届く前に、影は後方へと滑るように移動する。

「待て!」

 アレルが追おうとした瞬間、影の身体が薄く広がった。

 まるで地面に染み込むように、その姿が消えていく。

「逃がさない!」

 アレルが踏み出す。

「追わないで!」

 カエデが呼び止めた。

「まだ何か仕掛けてくるかもしれない。今は無理に追わない方がいいよ!」

 アレルは剣を構えたまま、暗闇を見つめた。

 逃げた影がどこへ向かったのか、まるで分からない。

 しばらくしても、再び姿を現すことはなかった。

「……分かった」

 剣を収めたアレルは、倒した魔物の方へ視線を向ける。

「それにしても、今の魔物は厄介だったな」

「うん……。普通の魔物とは違う感じがした」

 カエデは、影が消えた暗闇を見つめていた。

 逃げた一体。

 その姿は、もうどこにも見えない。

 けれど、本当にいなくなったのだろうか。

 そんな疑念が、胸の奥に残っていた。

     *

 夜はすっかり更けていた。

 村人たちは相変わらず眠ったまま。村の中に宿屋があったとしても、今の状況では安心して休めそうになかった。

 家々の扉は閉ざされ、窓の向こうには人影が横たわっている。

 誰も起きてこない。

 誰も助けを求めない。

 ただ、村全体が深い眠りに沈んでいる。

「今夜はここで休もう。村の外よりは、建物の近くの方が風も避けられる」

「そうだね……」

 二人は村の広場に近い場所を選び、焚き火を起こした。

 ぱち、ぱち、と薪が弾ける音だけが静かな村に響く。

 火の明かりが周囲の建物を照らす。壁に伸びた二人の影が、炎の揺らぎに合わせてゆっくりと形を変えていた。

 カエデはその影を見つめ、思わず視線を逸らした。

 先ほどの魔物の姿が頭から離れない。

 あの影は、どこへ消えたのだろう。

 村のどこかに潜んでいるのだろうか。

 それとも、もうこの近くに戻ってきているのだろうか。

 アレルは剣を手の届くところに置き、壁にもたれて目を閉じた。

「少し眠る。カエデも休んでくれ」

「うん。アレルもね」

 昼から歩き続け、何度も戦闘をこなした疲れは大きかった。

 アレルはほどなくして眠りについた。

 カエデも焚き火のそばで膝を抱え、静かに目を閉じる。

 けれど、なかなか眠ることはできなかった。

 ノアニールの村人たち。

 あやしいかげ。

 そして、逃げていった一体。

 考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。

 焚き火の向こうで、何かが動いた気がした。

 カエデは目を開ける。

 建物の壁に映る影が、炎に揺られて形を変えている。

 ただそれだけのことなのに、胸の鼓動が速くなった。

 そのとき。

 ―。

 なにかの気配がした。

 カエデは息を止めた。

 焚き火の向こう。暗闇に沈んだ建物の陰で、何かが動いた気がした。

 最初は風の音かと思った。

 カエデは息を潜め、暗闇を見つめた。

 そこに、灰色がかった影が浮かび上がる。

「……っ!」

 あやしいかげだった。

 先ほど逃げた、あの魔物。

 影はゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 その進路の先には、眠っているアレルがいた。

 声を出すことはできなかった。

 影に気づかれれば、すぐに襲いかかってくるかもしれない。

 カエデはそっと立ち上がり、焚き火へ手を伸ばした。

 燃え残った枝を一本掴む。

 先端には、まだ赤い火が残っていた。

 カエデはそれを両手で握り、影の前へ突き出した。

「……来ないで」

 小さく、震える声。

 火の明かりに照らされた影は、ぐにゃりと形を歪ませた。

 その動きが一瞬止まる。

 カエデはその隙に、アレルの肩へ手を伸ばした。

「お願い起きて……!」

 しかし、アレルはすぐには目を覚まさない。

 影が再び動き始めた。

 火を避けるように横へ滑り、カエデの側面へ回り込もうとする。

「だめ……!」

 カエデは燃えた枝を振った。

 火の粉が散り、影が一度後退する。

 その瞬間、影の身体が大きく膨らんだ。

「え……?」

 次の瞬間、黒い腕のようなものが闇の中から伸びてきた。

 カエデは身を引こうとした。

 けれど、間に合わなかった。

「あっ!」

 鋭い衝撃が腕を襲う。

 握っていた枝が地面へ落ち、火の粉が散った。

 カエデはよろめきながらも、必死にアレルの方へ手を伸ばす。

「アレル……! 起きて……!」

 影が再び迫る。

 カエデは痛む腕を押さえながら、焚き火のそばに残った薪を蹴り上げた。

 火が大きく跳ね、影の輪郭を照らす。

 その光の中で、影の形が不自然に歪んだ。

「カエデ!」

 ようやく目を覚ましたアレルが、彼女の姿を見て飛び起きた。

 地面に落ちた枝。散らばった火の粉。そして、腕を押さえて立つカエデ。

 その向こうに、灰色の影がいた。

「そいつは……!」

「アレル、逃げたあやしいかげ……!」

 アレルはすぐに剣を掴んだ。

 影が動く。

 今度は、アレルへ向かって一直線に飛び込んできた。

「させるか!」

 アレルの剣が夜の闇を切り裂く。

 刃が影を捉え、灰色の身体が大きく弾き飛ばされた。

 しかし、魔物はまだ倒れていない。

 地面に広がった輪郭が、再び人の形を取り戻していく。

 アレルはカエデを背に庇い、剣を構えた。

「カエデ、怪我は!?」

「大丈夫……! それより、気をつけて! こいつ、さっきと同じように呪文もブレスも使ってくる!」

「分かった。下がっていてくれ」

 焚き火が揺れる。

 黒い影が、ゆっくりと二人の前で立ち上がった。

 次の瞬間、影の身体から赤い光が漏れた。

「また来る……!」

 カエデが叫ぶ。

 影の周囲に炎が走り、夜の闇を赤く染めた。

ベギラマ!

 炎の帯が二人へ向かって押し寄せる。

「カエデ!」

 アレルは彼女の腕を掴み、強く引き寄せた。

 カエデの身体がアレルの胸元へ引き戻される。直後、炎が二人のすぐ目の前を通り過ぎ、背後の地面を焼いた。

 熱風が吹き抜ける。

「危なかった……!」

「アレル、ありがとう……!」

「礼は後だ。まだ来るぞ!」

 影は炎の向こうで揺れていた。

 次の瞬間、周囲に白い靄が広がる。

「マヌーサ……!」

 カエデの視界が歪んだ。

 焚き火の明かりが幾重にも重なり、アレルの姿さえぼやけていく。

「アレル、目を閉じて!」

 カエデは声を張り上げた。

 アレルは一瞬だけ目を伏せ、剣を構え直す。

 だが、影の姿はどこにも見えない。

 音もなく移動する気配だけが、すぐ近くにある。

 ――ひゅう。

 冷たい風が頬を撫でた。

「上……!」

 カエデが叫ぶ。

 アレルが顔を上げた瞬間、頭上から氷の粒が降り注いだ。

またヒャダルコ……!

 地面が一気に凍りつく。

 アレルは後ろへ跳び退こうとしたが、足元が滑り、膝をつきかけた。

 影はその隙を逃さない。

 地面すれすれまで身体を広げ、アレルの足元へ迫る。

「させるか!」

 アレルは剣を地面すれすれに振り抜いた。

 刃が影をかすめる。

 魔物は一度後退したものの、すぐに身体を膨らませた。

 低い唸り声が響く。

「火の息……!」

 炎が吐き出された。

 アレルは剣を構え、カエデを背後へ押しやる。

 熱風が二人を包み、焚き火の薪が大きく弾けた。

「アレル、右!」

 アレルは反射的に身体をひねった。

 炎の向こうから伸びてきた影の一部が、剣の刃にぶつかる。

 重い衝撃が腕に伝わった。

「くっ……!」

 アレルの足が地面を滑る。

 カエデは痛む腕を押さえながら、必死に影の動きを追った。

 視界はまだ完全には戻らない。焚き火の明かりが揺れるたび、影の輪郭がいくつにも分かれて見える。

 それでも、魔物の攻撃にはわずかな癖があった。

 呪文を放つ直前、身体の中心に光が集まる。

 火の息を吐くときには、輪郭が大きく膨らむ。

「アレル! 光が集まったら呪文が来る! 身体が膨らんだら、息を吐くよ!」

「分かった!」

 アレルは影の動きを見極めようと、剣を構えたままじりじりと距離を詰める。

 影が揺れた。

 身体の中心に、再び赤い光が集まる。

「来るぞ!」

 アレルは横へ飛び退いた。

 ベギラマの炎が、先ほどまで彼が立っていた場所を焼く。

 その直後、アレルは炎の途切れた瞬間を狙って踏み込んだ。

 剣が影を捉える。

 しかし、刃は深く入り込むことなく、黒い身体を揺らしただけだった。

 影は地面へ広がり、アレルの足元をすり抜けようとする。

「逃がすか!」

 アレルは身体を低くし、剣を横へ薙いだ。

 刃が影の輪郭を切り裂く。

 魔物は大きく震え、地面に崩れ落ちた。

 だが、まだ消えない。

 灰色の身体が何度も波打ち、再び人の形を取ろうとする。

「まだ……!」

 アレルは息を荒くしながら剣を構え直した。

 影が最後の力を振り絞るように、アレルへ向かって飛びかかる。

 アレルは真正面から受け止めた。

 剣を握る腕に力を込め、迫る影を押し返す。

「これで……終わりだ!」

 剣が振り抜かれた。

 灰色の身体が大きく裂け、黒い靄となって夜の中へ散っていく。

 今度こそ、影は形を保てなくなった。

 残されたのは、何もない地面だけだった。

 しばらくの間、二人はその場から動けなかった。

 焚き火の薪が崩れ、ぱちりと小さな音を立てる。

「……倒せた、のかな」

 カエデが小さく呟く。

「ああ。今度こそ倒したはずだ」

 アレルは剣を下ろした。

 それでも、周囲への警戒を解くことはなかった。

 カエデは痛む腕を押さえたまま、ゆっくりと息を吐く。

「カエデ。腕を見せてくれ」

「え……?」

「怪我をしているだろう」

 アレルは彼女のそばへ寄り、傷の具合を確かめた。

 腕には、影に打たれた痕が残っている。深い傷ではないものの、皮膚は赤く腫れ、少し血も滲んでいた。

「ごめん。気づくのが遅れた」

「そんなことないよ。アレルが起きてくれたから、助かったんだよ」

「それでも、カエデを一人で戦わせてしまった」

 アレルの表情には、悔しさが滲んでいた。

 カエデは小さく首を振る。

「アレルはずっと戦って疲れてたんだもん。眠っていて当然だよ」

「だが……」

「もう大丈夫。少し痛むけど、動かせるから」

 そう言って笑おうとしたものの、腕を動かした瞬間に顔が歪んだ。

 アレルはそれ以上何も言わず、傷の手当てを始めた。

 布を巻き、きつくなりすぎないように整える。

「無理はしないでくれ。痛みが強くなったらすぐに言うんだ」

「うん。ありがとう」

 手当てが終わると、アレルは焚き火のそばへ戻った。

 先ほどまでの静けさが戻っている。

 けれど、カエデにはもう、先ほどと同じ夜には思えなかった。

 ノアニールの家々には、今も眠り続ける村人たちがいる。

 そして、村を覆う不気味な静寂は、何も変わっていない。

 あやしいかげを倒したからといって、この村の恐ろしさが消えたわけではなかった。

「カエデ、もう少し休もう。今度は俺が起きている」

「でも、アレルも疲れてるでしょ?」

「その怪我もある。少し様子を見てから休むよ」

「……分かった」

 アレルは剣を手の届く場所に置き、焚き火の向こうへ視線を向けた。

 カエデもその隣に腰を下ろす。

 やがて、夜の冷たい空気が二人の間を通り抜けていった。

     *

 どれほど時間が経っただろう。

 アレルはカエデの様子を確かめたあと、再び壁にもたれて目を閉じた。

 疲労は限界に近かったのだろう。ほどなくして、その呼吸は静かに落ち着いていった。

 カエデはすぐには眠らなかった。

 焚き火の周囲を見回す。

 建物の陰。村の奥へ続く道。閉ざされた家々の窓。

 どこにも動くものはない。

 それでも、目を離すことはできなかった。

 先ほどの影は、確かに倒した。

 けれど、ノアニールにはまだ何かが潜んでいるような気がしてならない。

 カエデは膝を抱え、焚き火のそばで目を閉じた。

 しばらくして、浅い眠りに落ちる。

 けれど、長くは続かなかった。

 ふと目を覚ます。

 まず周囲を見回し、村の奥に何もいないことを確かめる。

 次に、隣で眠るアレルへ視線を向けた。

 呼吸は落ち着いている。

 剣も、手の届く場所にある。

 大丈夫。

 そう自分に言い聞かせ、再び目を閉じる。

 しかし、またしばらくすると目が覚めた。

 今度は焚き火の向こうだけでなく、背後の建物の陰まで確かめる。

 何もいない。

 それでも、安心はできなかった。

 カエデは何度も目を覚ました。

 眠りに落ちては、周囲を確認する。

 村の様子を確かめ、アレルが無事に眠っていることを確かめる。

 その繰り返しだった。

 腕の傷はまだ痛む。

 身体も疲れている。

 それでも、眠っているアレルの姿を見ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

(次も、ちゃんと気づけるようにしなきゃ……)

 カエデは焚き火の向こうを見つめた。

 静まり返ったノアニールの村。

 眠り続ける人々。

 そして、夜の闇。

 この村で何が起きているのか。

 その答えは、まだ見つかっていない。

 カエデはアレルのそばで、再び目を閉じた。

 ノアニールの夜は、まだ明けない。
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