DQ3 夜明けの果てに君と
城を出ると、ロマリアの街は昼の賑わいに包まれていた。
高い建物の間から差し込む日差しが、石畳を明るく照らしている。通りには買い物をする人々が行き交い、荷物を抱えた商人や、連れ立って歩く旅人の姿も見えた。あちこちから商人の呼び声が響き、店先では品物を並べ直す者や、客と楽しそうに言葉を交わす者がいる。
広場のほうからは、焼きたての料理の香ばしい匂いが漂ってきた。風に乗って運ばれてくるその匂いに、カエデのお腹が小さく反応する。
カエデは人波を避けながら隣を歩くアレルに視線を向けると、アレルは前を見たままある提案を持ちかけた。
「今日はロマリアを見て回らないか」
思いがけない内容に、カエデは足を止めた。
アレルは少しだけ首を傾げる。
「前に、一緒に街を見て回ろうって話しただろ。せっかく戻ってきたんだ。今日くらい、ゆっくりしてもいいと思う」
「あ……うん! そうだったね!」
以前の宿屋での会話を覚えていてくれたことが、素直に嬉しかった。
あのときは、こんなふうに心配事を抱えながら街を歩くことになるなんて、考えてもいなかった。
目の前には、いつもと変わらないロマリアの景色が広がっている。人々はそれぞれの日常を送り、店先には色とりどりの商品が並び、通りには活気のある声が響いていた。
けれど、カエデの心の中には、以前とは違うものが残っている。
何もかも忘れて楽しめるほど、気持ちが晴れたわけではなかった。
「それに、お前も少し気分転換したほうがいいだろ」
「……えっ。私?」
「ほかに誰がいるんだ?」
「いや、そうだけど! 別に私、ずっと落ち込んでるわけじゃ……」
言いかけて、カエデは口をつぐんだ。
アレルは何も言わず、こちらを見ている。
通りを吹き抜けた風が、二人の間を通り抜けた。近くの露店から、店主が客を呼び込む威勢のいい声が聞こえてくる。
「……なんでもないよ」
「そうか」
「そこは何か言ってよ!」
「何を?」
あまりにもいつもどおりの返しに、カエデは思わず顔をしかめた。
アレルは小さく笑うと、再び歩き出す。
「ほら、行くぞ」
「待ってよ!」
カエデは慌ててその背中を追いかけた。
まだ胸の奥には、消えない不安が残っている。
それでも、こうして彼と軽口を交わせることが、少しだけ嬉しかった。
---
広場へ向かうにつれて、人通りはさらに増えていった。
道の両側には小さな露店が並び、色鮮やかな布や、磨き上げられた装飾品、旅に使う道具などが所狭しと置かれている。軒先に吊るされた飾りが風に揺れ、店先で呼び込みをする商人たちの声が重なり合っていた。
どこからか子供たちの笑い声が聞こえ、広場の中央では荷車を引く馬がゆっくりと歩いている。行き交う人々は互いに道を譲り合いながら、それぞれの目的地へ向かっていた。
店先を眺めていたカエデが、ふと立ち止まる。
「わあ、これかわいい!」
目に留まったのは、色鮮やかな布で作られた小さな人形だった。動物を模したものや、剣を持った兵士の人形まで並んでいる。丸みを帯びた動物の人形には一つずつ違った表情があり、兵士の人形には小さな盾や剣まで丁寧に作られていた。
「ねえ、アレル。これ見て!」
「見てるよ」
「この兵士の人形、ちょっとアレルに似てない?」
「……どこが?」
「赤いマント!」
「それだけじゃないか」
「あと、真面目そうなところ?」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん!」
即答すると、アレルは呆れたように息を吐いた。
「お前な……」
「えへへ」
カエデは人形をもう一度眺めた。
小さな兵士は、今にも剣を掲げて歩き出しそうな格好をしている。もちろん、アレルとは大きさも顔立ちもまるで違う。それでも、赤いマントをまとっているというだけで、なんとなく彼を思い出してしまった。
そんな自分がおかしくて、カエデは口元を緩める。
久しぶりに、こんなふうに笑った気がした。
けれど、店を離れようとしたとき、横から大勢の人が流れ込んできた。
別の通りからやってきた人々が広場へ向かおうとしているらしい。誰かの呼び声に振り返る者もいれば、買い物袋を抱えて足早に進む者もいる。思っていた以上に人の流れが入り乱れ、カエデは思わず身を引いた。
「わっ!」
人波に押され、カエデの体がよろめく。
その手を、アレルがさっと掴んだ。
「危ない」
「ご、ごめん」
「謝ることじゃない。人が多いから、こっちにいろ」
アレルはカエデの手を引き、人通りの少ない場所へと移動した。
店先から少し離れると、先ほどまでの人の波が嘘のように感じられた。すぐそばを通り過ぎる人々の肩が触れ合うこともなくなり、ようやく落ち着いて周囲を見渡せる。
そのまま手を握られていることに気づき、カエデは一瞬だけ彼の横顔を見上げた。
けれど、アレルは周囲の人の流れを確認しているだけで、特に気にした様子はない。
「もう大丈夫かな」
「ああ」
「……じゃあ、そろそろ手を離してもいいんじゃない?」
「またはぐれたいのか?」
「はぐれたくないです!」
即座に答えると、アレルはわずかに口元を緩めた。
「なら、このままでいいだろ」
「……それは、そうだけど」
カエデは小さく呟き、視線を逸らした。
繋がれた手に意識が向いてしまい、さっきまで見ていた人形のことも、周囲の賑やかさも、少しの間だけ頭から抜け落ちる。
通りを渡る人々の声が、どこか遠くに感じられた。
結局、その手はしばらく繋がれたままだった。
---
広場の端に差しかかったところで、カエデの足がぴたりと止まった。
「……おいしそう」
視線の先には、鉄板の上で生地を焼いている屋台があった。肉と野菜を包んだ料理らしく、焼き上がるたびに食欲をそそる匂いが漂ってくる。
鉄板の上では、生地がじゅうじゅうと音を立てていた。店主は慣れた手つきで具材を包み込み、焼き色のついた料理を紙に似た包みへと移している。並んでいる客たちも、料理が出来上がるたびに期待に満ちた表情を浮かべていた。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
アレルはカエデの視線を追った。
「食べるか?」
「いいの?」
「そのために立ち止まったんじゃないのか?」
「よし、決まり!」
カエデはさっそく屋台へ向かった。
二人で買った料理を手に、広場の隅にあるベンチへ腰を下ろす。
ベンチの周囲には、買い物の途中で休憩している人や、連れと談笑している旅人の姿があった。少し離れたところでは子供たちが追いかけっこをしていて、時折、楽しそうな声が風に乗って届く。
広場を見渡せば、色とりどりの屋台と、その間を行き交う人々。遠くにはロマリアの建物が連なり、青い空の下で街全体が活気づいている。
カエデは待ちきれない様子で一口かじった。
「んー! おいしい!」
「熱くないか?」
「大丈夫! 外は香ばしいし、中のお肉もおいしいし、野菜との相性も抜群! これは旅人に人気が出るのも分かるよ!」
「まだ一口しか食べてないだろ」
「一口あれば十分です!」
「そうか」
アレルは自分の分を食べながら、呆れたように肩をすくめた。
焼きたての生地は表面がぱりっとしていて、中には肉の旨みと野菜の甘みが詰まっている。噛むたびに温かな香りが広がり、歩き回っていた体に心地よい満足感が染み渡っていった。
カエデはもう一口頬張ると、幸せそうに頬を緩めた。
「……まったく。食べ物の話になると元気だな」
「何か問題でも?」
「いや、別に」
「ならよし!」
胸を張るカエデを見て、アレルは小さく笑った。
カエデも笑い返す。
いつものやり取りだった。
特別なことが起こらなくても、無理に明るく振る舞わなくても、こうして隣にいられる。
それが、今はありがたかった。
食べ終えると、二人は再び街を歩き始めた。
広場を抜けると、通りの景色はまた少し変わった。店先に並ぶ商品を眺めたり、道端に積まれた荷物を避けたりしながら、二人はゆっくりと歩いていく。
軒先から垂れた布が風に揺れ、建物の窓辺には花を飾った鉢が置かれていた。石造りの壁には日の光が柔らかく反射し、通りの向こうからは荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
ときには道を尋ねてきた旅人に場所を教えたり、露店の品物を覗き込んだりした。
特別なことは何もなかった。
けれど、そうして街の中を歩いているうちに、カエデの表情からは朝のこわばりが少しずつ消えていった。
胸の奥に残る不安がなくなったわけではない。
それでも、目の前にあるものを見て、気になった店に立ち寄り、アレルと何気ない会話を交わす。そんな時間が、張り詰めていた気持ちをほんの少しだけ和らげてくれていた。
そんなときだった。
「ねえ、勇者さま!」
前方から、元気な声が飛んできた。
振り返ると、木の剣を手にした少年が、目を輝かせながらアレルのもとへ駆け寄ってきた。
少年の頬は少し赤く、走ってきたせいか息も弾んでいる。手にした木の剣は使い込まれているらしく、柄の部分には細かな傷がいくつもついていた。
「本当にカンダタを倒したんだよね?」
「ああ」
「すごいや! ぼく、大きくなったら兵士になりたいんだ! この国を魔物から守れるようになりたい!」
少年は木の剣を両手で握りしめた。
その瞳には、憧れと期待がまっすぐに宿っていた。街のあちこちで魔物の話を耳にすることもあるのだろう。それでも、少年の口から出てきたのは怖いという言葉ではなく、誰かを守りたいという夢だった。
「だから、勇者さま! 剣の使い方を教えてください!」
アレルは少年の剣に目を落とし、それから周囲を見回した。
広場の近くには人通りが多く、子供たちも行き交っている。ここで剣を振れば、誰かにぶつかってしまうかもしれない。
「ここだと危ないな。あっちで少しだけなら教えられる」
「本当!?」
少年の顔がぱっと輝いた。
広場の隅へ移動すると、アレルは少年に木の剣を構えさせた。
少し開けた場所には、建物の壁に沿って木箱が積まれていた。人の往来からも離れていて、剣を振るにはちょうどよさそうだった。
アレルは少年の立ち方を確かめると、落ち着いた声で説明を始めた。
「まずは足元を安定させろ。腕に力を入れすぎるな。剣を振るときは、体全体を使うんだ」
少年が見よう見まねで剣を振る。
木の剣が空気を切り、軽い音を立てた。けれど、勢い余って上半身が傾き、少年は危うく足をもつれさせた。
「あっ……!」
少年は慌てて踏みとどまった。
「おっと。焦るな。少しずつ覚えていけばいい」
「はい!」
少年は真剣な顔で頷き、もう一度構えた。
今度は、さっきよりも少しだけ足を開いている。アレルの言葉を思い出しながら、慎重に木の剣を振った。
まだ動きはぎこちない。剣を振るたびに肩に力が入り、構え直すのにも時間がかかる。それでも、少年は一度も投げ出そうとしなかった。
広場から聞こえる人々の話し声や、遠くの屋台から漂う料理の匂い。そんな街の日常の中で、二人の姿だけが少し違った空気をまとっているように、カエデには感じられた。
その姿を、カエデは少し離れたところから見つめていた。
アレルは少年の様子をよく見ながら、短い言葉で一つずつ教えている。
相手がうまくできなくても、急かさない。
失敗しても、できたところを認めて、次にどうすればいいのかを伝えている。
少年もまた、アレルの言葉を聞き逃すまいと、一生懸命に剣を振っていた。
剣が風を切る音が、時折、広場のざわめきの合間に聞こえてくる。
アレルが少年の構えを直すために身をかがめる。その横顔は、戦いのときとは少し違って見えた。
いつもと同じ真剣な表情なのに、そこには目の前の相手を気遣うような落ち着きがある。
「……すごいな」
カエデは小さく呟いた。
勇者だから、強いから。
それだけではないのだろう。
アレルは、自分ができることを惜しまず、目の前の誰かに手を差し伸べる。
そんな彼の姿を見ていると、胸の奥が少し痛んだ。
――カンダタとの戦い。
不意に、あのときの光景が頭をよぎった。
目の前でアレルが崩れ落ちた瞬間。
呼びかけても、すぐには返事がなかった。
どうすればいいのか分からず、ただ彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
あの光景は、今でも鮮明に思い出せる。
怖かった。
また目を覚まさなかったらどうしようと、考えるだけで息が詰まりそうだった。
あのときの空気や、自分の声が震えていた感覚まで、思い出そうとしなくても蘇ってくる。
カエデは知らず知らずのうちに、指先を握り込んでいた。
そして何より、悔しかった。
自分には、知っていることがたくさんある。
この先に何があるのか。どんな魔物が現れるのか。どんな危険が待ち受けているのか。
けれど、知っていることと、実際に誰かを守れることは違った。
アレルが倒れたとき、自分の知識だけでは何もできなかった。
その事実が、ずっと心に引っかかっていた。
少年の木の剣が、もう一度、空気を切る。
少し離れた場所では、買い物袋を抱えた女性が足を止め、微笑ましそうに稽古を眺めていた。少年が剣を振り終えると、アレルが何か短く声をかける。少年は大きく頷き、再び構えた。
その光景を見ながら、カエデはふと考えた。
あの子は、まだ強くない。
剣の振り方も覚えたばかりで、足元だっておぼつかない。
それでも、いつか誰かを守りたいという気持ちを持って、今できることを一生懸命にやっている。
そしてアレルは、その小さな努力を笑わずに、真剣に向き合っている。
だったら、自分はどうだろう。
強くなれないから。
何もできなかったから。
そんな理由で、ずっと同じところに立ち止まっているしかないのだろうか。
もちろん、今すぐ何かを変えられるわけではない。
怖いものは怖いし、戦いになれば、また何もできなくなってしまうかもしれない。
アレルのように剣を振るえるわけでも、目の前の敵に迷わず立ち向かえるわけでもない。
そう考えると、胸の奥が少し重くなる。
けれど、少年は何度失敗しても、もう一度剣を構えていた。
その姿が、なぜか心に残った。
カエデは視線を落とし、石畳の上に伸びた自分の影を見つめた。
自分にできることは、何もないのだろうか。
危険を知っているなら、伝えることはできる。
仲間の様子をよく見て、何かあれば声を上げることだってできるかもしれない。
それだけで、すべてがうまくいくとは限らない。誰かを守れると、今すぐ言い切ることもできない。
それでも。
ほんの少しだけ、考え方を変えてみてもいいのかもしれない。
何もできなかった自分を責め続けるだけではなく、これから何ができるのかを考えてみる。
そんなことを思ったのは、初めてだった。
カエデは、そっと指先に力を込めた。
胸の奥に残る怖さは、消えていない。
カンダタとの戦いを思い出せば、今だって不安になる。これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと思うと、簡単に前向きにはなれなかった。
それでも、少年が一生懸命に剣を振る姿と、その隣で教えているアレルの姿は、なぜか目に焼きついていた。
自分も、少しずつなら。
何かを変えていけるのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、そんな考えが頭に浮かんだこと自体が、カエデにとっては、ほんの少しだけ不思議だった。
「よし、こんなところかな」
アレルの声で、カエデは我に返った。
いつの間にか、少年の稽古は終わっていた。
少年は額の汗を拭いながら、嬉しそうに木の剣を握っている。頬はまだ赤く、息も少し弾んでいたが、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございました! ぼく、もっと練習する!」
「ああ。頑張れよ」
「はい! いつか、ぼくもこの国を守れる兵士になります!」
少年は元気よく頭を下げると、木の剣を抱えて駆けていった。
少し離れたところで待っていたらしい友達が、少年に向かって手を振っている。少年はそちらへ駆け寄り、さっそく今日教わったことを話し始めたようだった。
アレルはその背中を見送り、剣を教えていたときの真剣な表情を少しだけ緩めた。
「……元気な子だったな」
「うん」
カエデは頷いた。
「将来が楽しみだね」
「そうか。あれだけやる気があるなら、ちゃんと練習を続ければ上達するだろうな」
アレルはそう言って、カエデのほうを向いた。
「さて、そろそろ戻るか。もう夕方だ」
「えっ、もうそんな時間?」
空を見上げると、太陽は建物の向こうへ沈みかけていた。
昼間は高い位置にあった日差しも、今は斜めに差し込んでいる。石造りの建物には橙色の光が当たり、通りには長い影が伸び始めていた。
広場を行き交う人々の数も、少しずつ減っている。屋台では片付けを始める店主の姿が見られ、買い物を終えた人々が荷物を抱えて家路についていた。
昼間はあんなに賑やかだった広場も、少しずつ落ち着き始めている。
「本当だ……。いろいろ見て回ってたら、あっという間だったね」
「お前があちこち寄り道するからな」
「アレルだって、途中でお店見てたじゃん!」
「見ただけだろ」
「私は買っただけです!」
「それを寄り道って言うんだよ」
「うっ……!」
言い返せなくなったカエデを見て、アレルは小さく笑った。
「ほら、帰るぞ」
「はーい」
カエデは彼の隣に並んだ。
---
宿屋へ向かう道は、夕日に染まっていた。
昼間の喧騒が少しずつ遠ざかり、窓からは夕食の支度をする音が聞こえてくる。どこかの家からは、煮込み料理のような温かな匂いが漂ってきた。
通りを行き交う人々も、家へ帰る者が増えていた。店先では商品を片付ける音がし、窓辺には明かりを灯す家もある。昼間は明るく賑やかだった街が、少しずつ夜を迎える準備を始めていた。
二人の足音が、石畳の上に静かに響く。
先ほどまで聞こえていた商人たちの呼び声は遠くなり、代わりに、家族を呼ぶ声や食器の触れ合う音が耳に届く。夕暮れの空は橙色から薄紫色へと移り変わり、建物の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。
カエデは歩きながら、今日出会った少年のことを思い返していた。
あの子は、これから何度も剣を振るのだろう。
うまくいかない日もあるはずだ。思うように強くなれず、悔しい思いをすることもあるかもしれない。
それでも、あの子は自分の夢に向かって進んでいく。
自分も、そうありたいと思った。
けれど、どうすればいいのかは、まだよくわからない。
自分にできることを増やしたいと思っても、何から始めればいいのか、すぐには答えが出てこなかった。
戦いの場で、恐怖を感じずに動けるようになるのだろうか。
仲間の役に立てるようになるのだろうか。
そんなことを考えると、また胸の奥が不安でいっぱいになりそうになる。
カエデはそっと息を吐いた。
まだ不安は残っている。
カンダタとの戦いでアレルが倒れた光景を、忘れることはできない。
これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと考えると、今でも怖い。
けれど、少年が木の剣を握りしめていた姿を思い出す。
うまくできなくても、何度も構え直していた姿。
その隣で、アレルが焦らずに教えていた姿。
今日見た光景が、胸の中に静かに残っていた。
自分も、何かできるようになるのだろうか。
今はまだ、わからない。
ただ、何もできなかったあのときのことを、後悔するだけではなく、これからのことを少しだけ考えてみたい。
そんな気持ちが、胸の奥に浮かんでいた。
「……よし」
小さく呟く。
「何だ?」
隣のアレルがこちらを見た。
「ううん、何でもない!」
カエデは笑って首を振った。
「ただ、明日からも頑張ろうって思っただけ!」
口にしてみると、少しだけ照れくさかった。
何をどう頑張るのか、自分でもまだはっきりしていない。具体的な目標があるわけでも、急に強くなれると思っているわけでもなかった。
それでも、今日一日を過ごす中で、何かがほんの少し変わったような気がしていた。
「そうか」
アレルはそれ以上、何も聞かなかった。
夕暮れの光を受けながら、二人は再び歩き出す。
カエデは隣を歩くアレルをちらりと見た。
彼はいつもどおりの様子で、前を向いて歩いている。今日、少年に剣を教えていたときと同じ人とは思えないほど、今は自然体だった。
その横顔を見ていると、カエデはまた、先ほどの光景を思い出した。
けれど、今度はすぐに目を逸らさなかった。
まだ、自分に何ができるのかはわからない。
怖さが消えたわけでも、何かを乗り越えたわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ、今までとは違うことを考えてみた。
今は、それだけでよかった。
やがて、二人は宿屋へとたどり着いた。
夕暮れのロマリアを振り返ると、通りにはぽつぽつと明かりが灯り始めていた。昼間の賑わいは少しずつ夜の静けさに溶け込み、街は穏やかな表情へと変わっている。
カエデはその景色をしばらく眺めた。
今日一日で、すべてが解決したわけではない。
明日になれば、また不安になるかもしれない。旅の途中で怖い思いをすることも、思うように動けず落ち込むこともあるだろう。
それでも、今日見たものは、きっとすぐには忘れない。
少年の一生懸命な姿も、アレルの教える横顔も、夕暮れの街を歩きながら考えたことも。
まだ名前をつけるほど、はっきりとした気持ちではない。
それでも、明日へ進むための気持ちは、自分の中にちゃんと生まれていた。
高い建物の間から差し込む日差しが、石畳を明るく照らしている。通りには買い物をする人々が行き交い、荷物を抱えた商人や、連れ立って歩く旅人の姿も見えた。あちこちから商人の呼び声が響き、店先では品物を並べ直す者や、客と楽しそうに言葉を交わす者がいる。
広場のほうからは、焼きたての料理の香ばしい匂いが漂ってきた。風に乗って運ばれてくるその匂いに、カエデのお腹が小さく反応する。
カエデは人波を避けながら隣を歩くアレルに視線を向けると、アレルは前を見たままある提案を持ちかけた。
「今日はロマリアを見て回らないか」
思いがけない内容に、カエデは足を止めた。
アレルは少しだけ首を傾げる。
「前に、一緒に街を見て回ろうって話しただろ。せっかく戻ってきたんだ。今日くらい、ゆっくりしてもいいと思う」
「あ……うん! そうだったね!」
以前の宿屋での会話を覚えていてくれたことが、素直に嬉しかった。
あのときは、こんなふうに心配事を抱えながら街を歩くことになるなんて、考えてもいなかった。
目の前には、いつもと変わらないロマリアの景色が広がっている。人々はそれぞれの日常を送り、店先には色とりどりの商品が並び、通りには活気のある声が響いていた。
けれど、カエデの心の中には、以前とは違うものが残っている。
何もかも忘れて楽しめるほど、気持ちが晴れたわけではなかった。
「それに、お前も少し気分転換したほうがいいだろ」
「……えっ。私?」
「ほかに誰がいるんだ?」
「いや、そうだけど! 別に私、ずっと落ち込んでるわけじゃ……」
言いかけて、カエデは口をつぐんだ。
アレルは何も言わず、こちらを見ている。
通りを吹き抜けた風が、二人の間を通り抜けた。近くの露店から、店主が客を呼び込む威勢のいい声が聞こえてくる。
「……なんでもないよ」
「そうか」
「そこは何か言ってよ!」
「何を?」
あまりにもいつもどおりの返しに、カエデは思わず顔をしかめた。
アレルは小さく笑うと、再び歩き出す。
「ほら、行くぞ」
「待ってよ!」
カエデは慌ててその背中を追いかけた。
まだ胸の奥には、消えない不安が残っている。
それでも、こうして彼と軽口を交わせることが、少しだけ嬉しかった。
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広場へ向かうにつれて、人通りはさらに増えていった。
道の両側には小さな露店が並び、色鮮やかな布や、磨き上げられた装飾品、旅に使う道具などが所狭しと置かれている。軒先に吊るされた飾りが風に揺れ、店先で呼び込みをする商人たちの声が重なり合っていた。
どこからか子供たちの笑い声が聞こえ、広場の中央では荷車を引く馬がゆっくりと歩いている。行き交う人々は互いに道を譲り合いながら、それぞれの目的地へ向かっていた。
店先を眺めていたカエデが、ふと立ち止まる。
「わあ、これかわいい!」
目に留まったのは、色鮮やかな布で作られた小さな人形だった。動物を模したものや、剣を持った兵士の人形まで並んでいる。丸みを帯びた動物の人形には一つずつ違った表情があり、兵士の人形には小さな盾や剣まで丁寧に作られていた。
「ねえ、アレル。これ見て!」
「見てるよ」
「この兵士の人形、ちょっとアレルに似てない?」
「……どこが?」
「赤いマント!」
「それだけじゃないか」
「あと、真面目そうなところ?」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん!」
即答すると、アレルは呆れたように息を吐いた。
「お前な……」
「えへへ」
カエデは人形をもう一度眺めた。
小さな兵士は、今にも剣を掲げて歩き出しそうな格好をしている。もちろん、アレルとは大きさも顔立ちもまるで違う。それでも、赤いマントをまとっているというだけで、なんとなく彼を思い出してしまった。
そんな自分がおかしくて、カエデは口元を緩める。
久しぶりに、こんなふうに笑った気がした。
けれど、店を離れようとしたとき、横から大勢の人が流れ込んできた。
別の通りからやってきた人々が広場へ向かおうとしているらしい。誰かの呼び声に振り返る者もいれば、買い物袋を抱えて足早に進む者もいる。思っていた以上に人の流れが入り乱れ、カエデは思わず身を引いた。
「わっ!」
人波に押され、カエデの体がよろめく。
その手を、アレルがさっと掴んだ。
「危ない」
「ご、ごめん」
「謝ることじゃない。人が多いから、こっちにいろ」
アレルはカエデの手を引き、人通りの少ない場所へと移動した。
店先から少し離れると、先ほどまでの人の波が嘘のように感じられた。すぐそばを通り過ぎる人々の肩が触れ合うこともなくなり、ようやく落ち着いて周囲を見渡せる。
そのまま手を握られていることに気づき、カエデは一瞬だけ彼の横顔を見上げた。
けれど、アレルは周囲の人の流れを確認しているだけで、特に気にした様子はない。
「もう大丈夫かな」
「ああ」
「……じゃあ、そろそろ手を離してもいいんじゃない?」
「またはぐれたいのか?」
「はぐれたくないです!」
即座に答えると、アレルはわずかに口元を緩めた。
「なら、このままでいいだろ」
「……それは、そうだけど」
カエデは小さく呟き、視線を逸らした。
繋がれた手に意識が向いてしまい、さっきまで見ていた人形のことも、周囲の賑やかさも、少しの間だけ頭から抜け落ちる。
通りを渡る人々の声が、どこか遠くに感じられた。
結局、その手はしばらく繋がれたままだった。
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広場の端に差しかかったところで、カエデの足がぴたりと止まった。
「……おいしそう」
視線の先には、鉄板の上で生地を焼いている屋台があった。肉と野菜を包んだ料理らしく、焼き上がるたびに食欲をそそる匂いが漂ってくる。
鉄板の上では、生地がじゅうじゅうと音を立てていた。店主は慣れた手つきで具材を包み込み、焼き色のついた料理を紙に似た包みへと移している。並んでいる客たちも、料理が出来上がるたびに期待に満ちた表情を浮かべていた。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
アレルはカエデの視線を追った。
「食べるか?」
「いいの?」
「そのために立ち止まったんじゃないのか?」
「よし、決まり!」
カエデはさっそく屋台へ向かった。
二人で買った料理を手に、広場の隅にあるベンチへ腰を下ろす。
ベンチの周囲には、買い物の途中で休憩している人や、連れと談笑している旅人の姿があった。少し離れたところでは子供たちが追いかけっこをしていて、時折、楽しそうな声が風に乗って届く。
広場を見渡せば、色とりどりの屋台と、その間を行き交う人々。遠くにはロマリアの建物が連なり、青い空の下で街全体が活気づいている。
カエデは待ちきれない様子で一口かじった。
「んー! おいしい!」
「熱くないか?」
「大丈夫! 外は香ばしいし、中のお肉もおいしいし、野菜との相性も抜群! これは旅人に人気が出るのも分かるよ!」
「まだ一口しか食べてないだろ」
「一口あれば十分です!」
「そうか」
アレルは自分の分を食べながら、呆れたように肩をすくめた。
焼きたての生地は表面がぱりっとしていて、中には肉の旨みと野菜の甘みが詰まっている。噛むたびに温かな香りが広がり、歩き回っていた体に心地よい満足感が染み渡っていった。
カエデはもう一口頬張ると、幸せそうに頬を緩めた。
「……まったく。食べ物の話になると元気だな」
「何か問題でも?」
「いや、別に」
「ならよし!」
胸を張るカエデを見て、アレルは小さく笑った。
カエデも笑い返す。
いつものやり取りだった。
特別なことが起こらなくても、無理に明るく振る舞わなくても、こうして隣にいられる。
それが、今はありがたかった。
食べ終えると、二人は再び街を歩き始めた。
広場を抜けると、通りの景色はまた少し変わった。店先に並ぶ商品を眺めたり、道端に積まれた荷物を避けたりしながら、二人はゆっくりと歩いていく。
軒先から垂れた布が風に揺れ、建物の窓辺には花を飾った鉢が置かれていた。石造りの壁には日の光が柔らかく反射し、通りの向こうからは荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
ときには道を尋ねてきた旅人に場所を教えたり、露店の品物を覗き込んだりした。
特別なことは何もなかった。
けれど、そうして街の中を歩いているうちに、カエデの表情からは朝のこわばりが少しずつ消えていった。
胸の奥に残る不安がなくなったわけではない。
それでも、目の前にあるものを見て、気になった店に立ち寄り、アレルと何気ない会話を交わす。そんな時間が、張り詰めていた気持ちをほんの少しだけ和らげてくれていた。
そんなときだった。
「ねえ、勇者さま!」
前方から、元気な声が飛んできた。
振り返ると、木の剣を手にした少年が、目を輝かせながらアレルのもとへ駆け寄ってきた。
少年の頬は少し赤く、走ってきたせいか息も弾んでいる。手にした木の剣は使い込まれているらしく、柄の部分には細かな傷がいくつもついていた。
「本当にカンダタを倒したんだよね?」
「ああ」
「すごいや! ぼく、大きくなったら兵士になりたいんだ! この国を魔物から守れるようになりたい!」
少年は木の剣を両手で握りしめた。
その瞳には、憧れと期待がまっすぐに宿っていた。街のあちこちで魔物の話を耳にすることもあるのだろう。それでも、少年の口から出てきたのは怖いという言葉ではなく、誰かを守りたいという夢だった。
「だから、勇者さま! 剣の使い方を教えてください!」
アレルは少年の剣に目を落とし、それから周囲を見回した。
広場の近くには人通りが多く、子供たちも行き交っている。ここで剣を振れば、誰かにぶつかってしまうかもしれない。
「ここだと危ないな。あっちで少しだけなら教えられる」
「本当!?」
少年の顔がぱっと輝いた。
広場の隅へ移動すると、アレルは少年に木の剣を構えさせた。
少し開けた場所には、建物の壁に沿って木箱が積まれていた。人の往来からも離れていて、剣を振るにはちょうどよさそうだった。
アレルは少年の立ち方を確かめると、落ち着いた声で説明を始めた。
「まずは足元を安定させろ。腕に力を入れすぎるな。剣を振るときは、体全体を使うんだ」
少年が見よう見まねで剣を振る。
木の剣が空気を切り、軽い音を立てた。けれど、勢い余って上半身が傾き、少年は危うく足をもつれさせた。
「あっ……!」
少年は慌てて踏みとどまった。
「おっと。焦るな。少しずつ覚えていけばいい」
「はい!」
少年は真剣な顔で頷き、もう一度構えた。
今度は、さっきよりも少しだけ足を開いている。アレルの言葉を思い出しながら、慎重に木の剣を振った。
まだ動きはぎこちない。剣を振るたびに肩に力が入り、構え直すのにも時間がかかる。それでも、少年は一度も投げ出そうとしなかった。
広場から聞こえる人々の話し声や、遠くの屋台から漂う料理の匂い。そんな街の日常の中で、二人の姿だけが少し違った空気をまとっているように、カエデには感じられた。
その姿を、カエデは少し離れたところから見つめていた。
アレルは少年の様子をよく見ながら、短い言葉で一つずつ教えている。
相手がうまくできなくても、急かさない。
失敗しても、できたところを認めて、次にどうすればいいのかを伝えている。
少年もまた、アレルの言葉を聞き逃すまいと、一生懸命に剣を振っていた。
剣が風を切る音が、時折、広場のざわめきの合間に聞こえてくる。
アレルが少年の構えを直すために身をかがめる。その横顔は、戦いのときとは少し違って見えた。
いつもと同じ真剣な表情なのに、そこには目の前の相手を気遣うような落ち着きがある。
「……すごいな」
カエデは小さく呟いた。
勇者だから、強いから。
それだけではないのだろう。
アレルは、自分ができることを惜しまず、目の前の誰かに手を差し伸べる。
そんな彼の姿を見ていると、胸の奥が少し痛んだ。
――カンダタとの戦い。
不意に、あのときの光景が頭をよぎった。
目の前でアレルが崩れ落ちた瞬間。
呼びかけても、すぐには返事がなかった。
どうすればいいのか分からず、ただ彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
あの光景は、今でも鮮明に思い出せる。
怖かった。
また目を覚まさなかったらどうしようと、考えるだけで息が詰まりそうだった。
あのときの空気や、自分の声が震えていた感覚まで、思い出そうとしなくても蘇ってくる。
カエデは知らず知らずのうちに、指先を握り込んでいた。
そして何より、悔しかった。
自分には、知っていることがたくさんある。
この先に何があるのか。どんな魔物が現れるのか。どんな危険が待ち受けているのか。
けれど、知っていることと、実際に誰かを守れることは違った。
アレルが倒れたとき、自分の知識だけでは何もできなかった。
その事実が、ずっと心に引っかかっていた。
少年の木の剣が、もう一度、空気を切る。
少し離れた場所では、買い物袋を抱えた女性が足を止め、微笑ましそうに稽古を眺めていた。少年が剣を振り終えると、アレルが何か短く声をかける。少年は大きく頷き、再び構えた。
その光景を見ながら、カエデはふと考えた。
あの子は、まだ強くない。
剣の振り方も覚えたばかりで、足元だっておぼつかない。
それでも、いつか誰かを守りたいという気持ちを持って、今できることを一生懸命にやっている。
そしてアレルは、その小さな努力を笑わずに、真剣に向き合っている。
だったら、自分はどうだろう。
強くなれないから。
何もできなかったから。
そんな理由で、ずっと同じところに立ち止まっているしかないのだろうか。
もちろん、今すぐ何かを変えられるわけではない。
怖いものは怖いし、戦いになれば、また何もできなくなってしまうかもしれない。
アレルのように剣を振るえるわけでも、目の前の敵に迷わず立ち向かえるわけでもない。
そう考えると、胸の奥が少し重くなる。
けれど、少年は何度失敗しても、もう一度剣を構えていた。
その姿が、なぜか心に残った。
カエデは視線を落とし、石畳の上に伸びた自分の影を見つめた。
自分にできることは、何もないのだろうか。
危険を知っているなら、伝えることはできる。
仲間の様子をよく見て、何かあれば声を上げることだってできるかもしれない。
それだけで、すべてがうまくいくとは限らない。誰かを守れると、今すぐ言い切ることもできない。
それでも。
ほんの少しだけ、考え方を変えてみてもいいのかもしれない。
何もできなかった自分を責め続けるだけではなく、これから何ができるのかを考えてみる。
そんなことを思ったのは、初めてだった。
カエデは、そっと指先に力を込めた。
胸の奥に残る怖さは、消えていない。
カンダタとの戦いを思い出せば、今だって不安になる。これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと思うと、簡単に前向きにはなれなかった。
それでも、少年が一生懸命に剣を振る姿と、その隣で教えているアレルの姿は、なぜか目に焼きついていた。
自分も、少しずつなら。
何かを変えていけるのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、そんな考えが頭に浮かんだこと自体が、カエデにとっては、ほんの少しだけ不思議だった。
「よし、こんなところかな」
アレルの声で、カエデは我に返った。
いつの間にか、少年の稽古は終わっていた。
少年は額の汗を拭いながら、嬉しそうに木の剣を握っている。頬はまだ赤く、息も少し弾んでいたが、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございました! ぼく、もっと練習する!」
「ああ。頑張れよ」
「はい! いつか、ぼくもこの国を守れる兵士になります!」
少年は元気よく頭を下げると、木の剣を抱えて駆けていった。
少し離れたところで待っていたらしい友達が、少年に向かって手を振っている。少年はそちらへ駆け寄り、さっそく今日教わったことを話し始めたようだった。
アレルはその背中を見送り、剣を教えていたときの真剣な表情を少しだけ緩めた。
「……元気な子だったな」
「うん」
カエデは頷いた。
「将来が楽しみだね」
「そうか。あれだけやる気があるなら、ちゃんと練習を続ければ上達するだろうな」
アレルはそう言って、カエデのほうを向いた。
「さて、そろそろ戻るか。もう夕方だ」
「えっ、もうそんな時間?」
空を見上げると、太陽は建物の向こうへ沈みかけていた。
昼間は高い位置にあった日差しも、今は斜めに差し込んでいる。石造りの建物には橙色の光が当たり、通りには長い影が伸び始めていた。
広場を行き交う人々の数も、少しずつ減っている。屋台では片付けを始める店主の姿が見られ、買い物を終えた人々が荷物を抱えて家路についていた。
昼間はあんなに賑やかだった広場も、少しずつ落ち着き始めている。
「本当だ……。いろいろ見て回ってたら、あっという間だったね」
「お前があちこち寄り道するからな」
「アレルだって、途中でお店見てたじゃん!」
「見ただけだろ」
「私は買っただけです!」
「それを寄り道って言うんだよ」
「うっ……!」
言い返せなくなったカエデを見て、アレルは小さく笑った。
「ほら、帰るぞ」
「はーい」
カエデは彼の隣に並んだ。
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宿屋へ向かう道は、夕日に染まっていた。
昼間の喧騒が少しずつ遠ざかり、窓からは夕食の支度をする音が聞こえてくる。どこかの家からは、煮込み料理のような温かな匂いが漂ってきた。
通りを行き交う人々も、家へ帰る者が増えていた。店先では商品を片付ける音がし、窓辺には明かりを灯す家もある。昼間は明るく賑やかだった街が、少しずつ夜を迎える準備を始めていた。
二人の足音が、石畳の上に静かに響く。
先ほどまで聞こえていた商人たちの呼び声は遠くなり、代わりに、家族を呼ぶ声や食器の触れ合う音が耳に届く。夕暮れの空は橙色から薄紫色へと移り変わり、建物の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。
カエデは歩きながら、今日出会った少年のことを思い返していた。
あの子は、これから何度も剣を振るのだろう。
うまくいかない日もあるはずだ。思うように強くなれず、悔しい思いをすることもあるかもしれない。
それでも、あの子は自分の夢に向かって進んでいく。
自分も、そうありたいと思った。
けれど、どうすればいいのかは、まだよくわからない。
自分にできることを増やしたいと思っても、何から始めればいいのか、すぐには答えが出てこなかった。
戦いの場で、恐怖を感じずに動けるようになるのだろうか。
仲間の役に立てるようになるのだろうか。
そんなことを考えると、また胸の奥が不安でいっぱいになりそうになる。
カエデはそっと息を吐いた。
まだ不安は残っている。
カンダタとの戦いでアレルが倒れた光景を、忘れることはできない。
これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと考えると、今でも怖い。
けれど、少年が木の剣を握りしめていた姿を思い出す。
うまくできなくても、何度も構え直していた姿。
その隣で、アレルが焦らずに教えていた姿。
今日見た光景が、胸の中に静かに残っていた。
自分も、何かできるようになるのだろうか。
今はまだ、わからない。
ただ、何もできなかったあのときのことを、後悔するだけではなく、これからのことを少しだけ考えてみたい。
そんな気持ちが、胸の奥に浮かんでいた。
「……よし」
小さく呟く。
「何だ?」
隣のアレルがこちらを見た。
「ううん、何でもない!」
カエデは笑って首を振った。
「ただ、明日からも頑張ろうって思っただけ!」
口にしてみると、少しだけ照れくさかった。
何をどう頑張るのか、自分でもまだはっきりしていない。具体的な目標があるわけでも、急に強くなれると思っているわけでもなかった。
それでも、今日一日を過ごす中で、何かがほんの少し変わったような気がしていた。
「そうか」
アレルはそれ以上、何も聞かなかった。
夕暮れの光を受けながら、二人は再び歩き出す。
カエデは隣を歩くアレルをちらりと見た。
彼はいつもどおりの様子で、前を向いて歩いている。今日、少年に剣を教えていたときと同じ人とは思えないほど、今は自然体だった。
その横顔を見ていると、カエデはまた、先ほどの光景を思い出した。
けれど、今度はすぐに目を逸らさなかった。
まだ、自分に何ができるのかはわからない。
怖さが消えたわけでも、何かを乗り越えたわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ、今までとは違うことを考えてみた。
今は、それだけでよかった。
やがて、二人は宿屋へとたどり着いた。
夕暮れのロマリアを振り返ると、通りにはぽつぽつと明かりが灯り始めていた。昼間の賑わいは少しずつ夜の静けさに溶け込み、街は穏やかな表情へと変わっている。
カエデはその景色をしばらく眺めた。
今日一日で、すべてが解決したわけではない。
明日になれば、また不安になるかもしれない。旅の途中で怖い思いをすることも、思うように動けず落ち込むこともあるだろう。
それでも、今日見たものは、きっとすぐには忘れない。
少年の一生懸命な姿も、アレルの教える横顔も、夕暮れの街を歩きながら考えたことも。
まだ名前をつけるほど、はっきりとした気持ちではない。
それでも、明日へ進むための気持ちは、自分の中にちゃんと生まれていた。
