DQ3 夜明けの果てに君と

城を出ると、ロマリアの街は昼の賑わいに包まれていた。

高い建物の間から差し込む日差しが、石畳を明るく照らしている。通りには買い物をする人々が行き交い、荷物を抱えた商人や、連れ立って歩く旅人の姿も見えた。あちこちから商人の呼び声が響き、店先では品物を並べ直す者や、客と楽しそうに言葉を交わす者がいる。

広場のほうからは、焼きたての料理の香ばしい匂いが漂ってきた。風に乗って運ばれてくるその匂いに、カエデのお腹が小さく反応する。

カエデは人波を避けながら隣を歩くアレルに視線を向けると、アレルは前を見たままある提案を持ちかけた。

「今日はロマリアを見て回らないか」

思いがけない内容に、カエデは足を止めた。

アレルは少しだけ首を傾げる。

「前に、一緒に街を見て回ろうって話しただろ。せっかく戻ってきたんだ。今日くらい、ゆっくりしてもいいと思う」

「あ……うん! そうだったね!」

以前の宿屋での会話を覚えていてくれたことが、素直に嬉しかった。

あのときは、こんなふうに心配事を抱えながら街を歩くことになるなんて、考えてもいなかった。

目の前には、いつもと変わらないロマリアの景色が広がっている。人々はそれぞれの日常を送り、店先には色とりどりの商品が並び、通りには活気のある声が響いていた。

けれど、カエデの心の中には、以前とは違うものが残っている。

何もかも忘れて楽しめるほど、気持ちが晴れたわけではなかった。

「それに、お前も少し気分転換したほうがいいだろ」

「……えっ。私?」

「ほかに誰がいるんだ?」

「いや、そうだけど! 別に私、ずっと落ち込んでるわけじゃ……」

言いかけて、カエデは口をつぐんだ。

アレルは何も言わず、こちらを見ている。

通りを吹き抜けた風が、二人の間を通り抜けた。近くの露店から、店主が客を呼び込む威勢のいい声が聞こえてくる。

「……なんでもないよ」

「そうか」

「そこは何か言ってよ!」

「何を?」

あまりにもいつもどおりの返しに、カエデは思わず顔をしかめた。

アレルは小さく笑うと、再び歩き出す。

「ほら、行くぞ」

「待ってよ!」

カエデは慌ててその背中を追いかけた。

まだ胸の奥には、消えない不安が残っている。

それでも、こうして彼と軽口を交わせることが、少しだけ嬉しかった。

---

広場へ向かうにつれて、人通りはさらに増えていった。

道の両側には小さな露店が並び、色鮮やかな布や、磨き上げられた装飾品、旅に使う道具などが所狭しと置かれている。軒先に吊るされた飾りが風に揺れ、店先で呼び込みをする商人たちの声が重なり合っていた。

どこからか子供たちの笑い声が聞こえ、広場の中央では荷車を引く馬がゆっくりと歩いている。行き交う人々は互いに道を譲り合いながら、それぞれの目的地へ向かっていた。

店先を眺めていたカエデが、ふと立ち止まる。

「わあ、これかわいい!」

目に留まったのは、色鮮やかな布で作られた小さな人形だった。動物を模したものや、剣を持った兵士の人形まで並んでいる。丸みを帯びた動物の人形には一つずつ違った表情があり、兵士の人形には小さな盾や剣まで丁寧に作られていた。

「ねえ、アレル。これ見て!」

「見てるよ」

「この兵士の人形、ちょっとアレルに似てない?」

「……どこが?」

「赤いマント!」

「それだけじゃないか」

「あと、真面目そうなところ?」

「それは褒めてるのか?」

「もちろん!」

即答すると、アレルは呆れたように息を吐いた。

「お前な……」

「えへへ」

カエデは人形をもう一度眺めた。

小さな兵士は、今にも剣を掲げて歩き出しそうな格好をしている。もちろん、アレルとは大きさも顔立ちもまるで違う。それでも、赤いマントをまとっているというだけで、なんとなく彼を思い出してしまった。

そんな自分がおかしくて、カエデは口元を緩める。

久しぶりに、こんなふうに笑った気がした。

けれど、店を離れようとしたとき、横から大勢の人が流れ込んできた。

別の通りからやってきた人々が広場へ向かおうとしているらしい。誰かの呼び声に振り返る者もいれば、買い物袋を抱えて足早に進む者もいる。思っていた以上に人の流れが入り乱れ、カエデは思わず身を引いた。

「わっ!」

人波に押され、カエデの体がよろめく。

その手を、アレルがさっと掴んだ。

「危ない」

「ご、ごめん」

「謝ることじゃない。人が多いから、こっちにいろ」

アレルはカエデの手を引き、人通りの少ない場所へと移動した。

店先から少し離れると、先ほどまでの人の波が嘘のように感じられた。すぐそばを通り過ぎる人々の肩が触れ合うこともなくなり、ようやく落ち着いて周囲を見渡せる。

そのまま手を握られていることに気づき、カエデは一瞬だけ彼の横顔を見上げた。

けれど、アレルは周囲の人の流れを確認しているだけで、特に気にした様子はない。

「もう大丈夫かな」

「ああ」

「……じゃあ、そろそろ手を離してもいいんじゃない?」

「またはぐれたいのか?」

「はぐれたくないです!」

即座に答えると、アレルはわずかに口元を緩めた。

「なら、このままでいいだろ」

「……それは、そうだけど」

カエデは小さく呟き、視線を逸らした。

繋がれた手に意識が向いてしまい、さっきまで見ていた人形のことも、周囲の賑やかさも、少しの間だけ頭から抜け落ちる。

通りを渡る人々の声が、どこか遠くに感じられた。

結局、その手はしばらく繋がれたままだった。

---

広場の端に差しかかったところで、カエデの足がぴたりと止まった。

「……おいしそう」

視線の先には、鉄板の上で生地を焼いている屋台があった。肉と野菜を包んだ料理らしく、焼き上がるたびに食欲をそそる匂いが漂ってくる。

鉄板の上では、生地がじゅうじゅうと音を立てていた。店主は慣れた手つきで具材を包み込み、焼き色のついた料理を紙に似た包みへと移している。並んでいる客たちも、料理が出来上がるたびに期待に満ちた表情を浮かべていた。

香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

アレルはカエデの視線を追った。

「食べるか?」

「いいの?」

「そのために立ち止まったんじゃないのか?」

「よし、決まり!」

カエデはさっそく屋台へ向かった。

二人で買った料理を手に、広場の隅にあるベンチへ腰を下ろす。

ベンチの周囲には、買い物の途中で休憩している人や、連れと談笑している旅人の姿があった。少し離れたところでは子供たちが追いかけっこをしていて、時折、楽しそうな声が風に乗って届く。

広場を見渡せば、色とりどりの屋台と、その間を行き交う人々。遠くにはロマリアの建物が連なり、青い空の下で街全体が活気づいている。

カエデは待ちきれない様子で一口かじった。

「んー! おいしい!」

「熱くないか?」

「大丈夫! 外は香ばしいし、中のお肉もおいしいし、野菜との相性も抜群! これは旅人に人気が出るのも分かるよ!」

「まだ一口しか食べてないだろ」

「一口あれば十分です!」

「そうか」

アレルは自分の分を食べながら、呆れたように肩をすくめた。

焼きたての生地は表面がぱりっとしていて、中には肉の旨みと野菜の甘みが詰まっている。噛むたびに温かな香りが広がり、歩き回っていた体に心地よい満足感が染み渡っていった。

カエデはもう一口頬張ると、幸せそうに頬を緩めた。

「……まったく。食べ物の話になると元気だな」

「何か問題でも?」

「いや、別に」

「ならよし!」

胸を張るカエデを見て、アレルは小さく笑った。

カエデも笑い返す。

いつものやり取りだった。

特別なことが起こらなくても、無理に明るく振る舞わなくても、こうして隣にいられる。

それが、今はありがたかった。

食べ終えると、二人は再び街を歩き始めた。

広場を抜けると、通りの景色はまた少し変わった。店先に並ぶ商品を眺めたり、道端に積まれた荷物を避けたりしながら、二人はゆっくりと歩いていく。

軒先から垂れた布が風に揺れ、建物の窓辺には花を飾った鉢が置かれていた。石造りの壁には日の光が柔らかく反射し、通りの向こうからは荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。

ときには道を尋ねてきた旅人に場所を教えたり、露店の品物を覗き込んだりした。

特別なことは何もなかった。

けれど、そうして街の中を歩いているうちに、カエデの表情からは朝のこわばりが少しずつ消えていった。

胸の奥に残る不安がなくなったわけではない。

それでも、目の前にあるものを見て、気になった店に立ち寄り、アレルと何気ない会話を交わす。そんな時間が、張り詰めていた気持ちをほんの少しだけ和らげてくれていた。

そんなときだった。

「ねえ、勇者さま!」

前方から、元気な声が飛んできた。

振り返ると、木の剣を手にした少年が、目を輝かせながらアレルのもとへ駆け寄ってきた。

少年の頬は少し赤く、走ってきたせいか息も弾んでいる。手にした木の剣は使い込まれているらしく、柄の部分には細かな傷がいくつもついていた。

「本当にカンダタを倒したんだよね?」

「ああ」

「すごいや! ぼく、大きくなったら兵士になりたいんだ! この国を魔物から守れるようになりたい!」

少年は木の剣を両手で握りしめた。

その瞳には、憧れと期待がまっすぐに宿っていた。街のあちこちで魔物の話を耳にすることもあるのだろう。それでも、少年の口から出てきたのは怖いという言葉ではなく、誰かを守りたいという夢だった。

「だから、勇者さま! 剣の使い方を教えてください!」

アレルは少年の剣に目を落とし、それから周囲を見回した。

広場の近くには人通りが多く、子供たちも行き交っている。ここで剣を振れば、誰かにぶつかってしまうかもしれない。

「ここだと危ないな。あっちで少しだけなら教えられる」

「本当!?」

少年の顔がぱっと輝いた。

広場の隅へ移動すると、アレルは少年に木の剣を構えさせた。

少し開けた場所には、建物の壁に沿って木箱が積まれていた。人の往来からも離れていて、剣を振るにはちょうどよさそうだった。

アレルは少年の立ち方を確かめると、落ち着いた声で説明を始めた。

「まずは足元を安定させろ。腕に力を入れすぎるな。剣を振るときは、体全体を使うんだ」

少年が見よう見まねで剣を振る。

木の剣が空気を切り、軽い音を立てた。けれど、勢い余って上半身が傾き、少年は危うく足をもつれさせた。

「あっ……!」

少年は慌てて踏みとどまった。

「おっと。焦るな。少しずつ覚えていけばいい」

「はい!」

少年は真剣な顔で頷き、もう一度構えた。

今度は、さっきよりも少しだけ足を開いている。アレルの言葉を思い出しながら、慎重に木の剣を振った。

まだ動きはぎこちない。剣を振るたびに肩に力が入り、構え直すのにも時間がかかる。それでも、少年は一度も投げ出そうとしなかった。

広場から聞こえる人々の話し声や、遠くの屋台から漂う料理の匂い。そんな街の日常の中で、二人の姿だけが少し違った空気をまとっているように、カエデには感じられた。

その姿を、カエデは少し離れたところから見つめていた。

アレルは少年の様子をよく見ながら、短い言葉で一つずつ教えている。

相手がうまくできなくても、急かさない。

失敗しても、できたところを認めて、次にどうすればいいのかを伝えている。

少年もまた、アレルの言葉を聞き逃すまいと、一生懸命に剣を振っていた。

剣が風を切る音が、時折、広場のざわめきの合間に聞こえてくる。

アレルが少年の構えを直すために身をかがめる。その横顔は、戦いのときとは少し違って見えた。

いつもと同じ真剣な表情なのに、そこには目の前の相手を気遣うような落ち着きがある。

「……すごいな」

カエデは小さく呟いた。

勇者だから、強いから。

それだけではないのだろう。

アレルは、自分ができることを惜しまず、目の前の誰かに手を差し伸べる。

そんな彼の姿を見ていると、胸の奥が少し痛んだ。

――カンダタとの戦い。

不意に、あのときの光景が頭をよぎった。

目の前でアレルが崩れ落ちた瞬間。

呼びかけても、すぐには返事がなかった。

どうすればいいのか分からず、ただ彼の名前を呼ぶことしかできなかった。

あの光景は、今でも鮮明に思い出せる。

怖かった。

また目を覚まさなかったらどうしようと、考えるだけで息が詰まりそうだった。

あのときの空気や、自分の声が震えていた感覚まで、思い出そうとしなくても蘇ってくる。

カエデは知らず知らずのうちに、指先を握り込んでいた。

そして何より、悔しかった。

自分には、知っていることがたくさんある。

この先に何があるのか。どんな魔物が現れるのか。どんな危険が待ち受けているのか。

けれど、知っていることと、実際に誰かを守れることは違った。

アレルが倒れたとき、自分の知識だけでは何もできなかった。

その事実が、ずっと心に引っかかっていた。

少年の木の剣が、もう一度、空気を切る。

少し離れた場所では、買い物袋を抱えた女性が足を止め、微笑ましそうに稽古を眺めていた。少年が剣を振り終えると、アレルが何か短く声をかける。少年は大きく頷き、再び構えた。

その光景を見ながら、カエデはふと考えた。

あの子は、まだ強くない。

剣の振り方も覚えたばかりで、足元だっておぼつかない。

それでも、いつか誰かを守りたいという気持ちを持って、今できることを一生懸命にやっている。

そしてアレルは、その小さな努力を笑わずに、真剣に向き合っている。

だったら、自分はどうだろう。

強くなれないから。

何もできなかったから。

そんな理由で、ずっと同じところに立ち止まっているしかないのだろうか。

もちろん、今すぐ何かを変えられるわけではない。

怖いものは怖いし、戦いになれば、また何もできなくなってしまうかもしれない。

アレルのように剣を振るえるわけでも、目の前の敵に迷わず立ち向かえるわけでもない。

そう考えると、胸の奥が少し重くなる。

けれど、少年は何度失敗しても、もう一度剣を構えていた。

その姿が、なぜか心に残った。

カエデは視線を落とし、石畳の上に伸びた自分の影を見つめた。

自分にできることは、何もないのだろうか。

危険を知っているなら、伝えることはできる。

仲間の様子をよく見て、何かあれば声を上げることだってできるかもしれない。

それだけで、すべてがうまくいくとは限らない。誰かを守れると、今すぐ言い切ることもできない。

それでも。

ほんの少しだけ、考え方を変えてみてもいいのかもしれない。

何もできなかった自分を責め続けるだけではなく、これから何ができるのかを考えてみる。

そんなことを思ったのは、初めてだった。

カエデは、そっと指先に力を込めた。

胸の奥に残る怖さは、消えていない。

カンダタとの戦いを思い出せば、今だって不安になる。これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと思うと、簡単に前向きにはなれなかった。

それでも、少年が一生懸命に剣を振る姿と、その隣で教えているアレルの姿は、なぜか目に焼きついていた。

自分も、少しずつなら。

何かを変えていけるのだろうか。

答えは出なかった。

ただ、そんな考えが頭に浮かんだこと自体が、カエデにとっては、ほんの少しだけ不思議だった。

「よし、こんなところかな」

アレルの声で、カエデは我に返った。

いつの間にか、少年の稽古は終わっていた。

少年は額の汗を拭いながら、嬉しそうに木の剣を握っている。頬はまだ赤く、息も少し弾んでいたが、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

「ありがとうございました! ぼく、もっと練習する!」

「ああ。頑張れよ」

「はい! いつか、ぼくもこの国を守れる兵士になります!」

少年は元気よく頭を下げると、木の剣を抱えて駆けていった。

少し離れたところで待っていたらしい友達が、少年に向かって手を振っている。少年はそちらへ駆け寄り、さっそく今日教わったことを話し始めたようだった。

アレルはその背中を見送り、剣を教えていたときの真剣な表情を少しだけ緩めた。

「……元気な子だったな」

「うん」

カエデは頷いた。

「将来が楽しみだね」

「そうか。あれだけやる気があるなら、ちゃんと練習を続ければ上達するだろうな」

アレルはそう言って、カエデのほうを向いた。

「さて、そろそろ戻るか。もう夕方だ」

「えっ、もうそんな時間?」

空を見上げると、太陽は建物の向こうへ沈みかけていた。

昼間は高い位置にあった日差しも、今は斜めに差し込んでいる。石造りの建物には橙色の光が当たり、通りには長い影が伸び始めていた。

広場を行き交う人々の数も、少しずつ減っている。屋台では片付けを始める店主の姿が見られ、買い物を終えた人々が荷物を抱えて家路についていた。

昼間はあんなに賑やかだった広場も、少しずつ落ち着き始めている。

「本当だ……。いろいろ見て回ってたら、あっという間だったね」

「お前があちこち寄り道するからな」

「アレルだって、途中でお店見てたじゃん!」

「見ただけだろ」

「私は買っただけです!」

「それを寄り道って言うんだよ」

「うっ……!」

言い返せなくなったカエデを見て、アレルは小さく笑った。

「ほら、帰るぞ」

「はーい」

カエデは彼の隣に並んだ。

---

宿屋へ向かう道は、夕日に染まっていた。

昼間の喧騒が少しずつ遠ざかり、窓からは夕食の支度をする音が聞こえてくる。どこかの家からは、煮込み料理のような温かな匂いが漂ってきた。

通りを行き交う人々も、家へ帰る者が増えていた。店先では商品を片付ける音がし、窓辺には明かりを灯す家もある。昼間は明るく賑やかだった街が、少しずつ夜を迎える準備を始めていた。

二人の足音が、石畳の上に静かに響く。

先ほどまで聞こえていた商人たちの呼び声は遠くなり、代わりに、家族を呼ぶ声や食器の触れ合う音が耳に届く。夕暮れの空は橙色から薄紫色へと移り変わり、建物の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。

カエデは歩きながら、今日出会った少年のことを思い返していた。

あの子は、これから何度も剣を振るのだろう。

うまくいかない日もあるはずだ。思うように強くなれず、悔しい思いをすることもあるかもしれない。

それでも、あの子は自分の夢に向かって進んでいく。

自分も、そうありたいと思った。

けれど、どうすればいいのかは、まだよくわからない。

自分にできることを増やしたいと思っても、何から始めればいいのか、すぐには答えが出てこなかった。

戦いの場で、恐怖を感じずに動けるようになるのだろうか。

仲間の役に立てるようになるのだろうか。

そんなことを考えると、また胸の奥が不安でいっぱいになりそうになる。

カエデはそっと息を吐いた。

まだ不安は残っている。

カンダタとの戦いでアレルが倒れた光景を、忘れることはできない。

これから先、また同じようなことが起こるかもしれないと考えると、今でも怖い。

けれど、少年が木の剣を握りしめていた姿を思い出す。

うまくできなくても、何度も構え直していた姿。

その隣で、アレルが焦らずに教えていた姿。

今日見た光景が、胸の中に静かに残っていた。

自分も、何かできるようになるのだろうか。

今はまだ、わからない。

ただ、何もできなかったあのときのことを、後悔するだけではなく、これからのことを少しだけ考えてみたい。

そんな気持ちが、胸の奥に浮かんでいた。

「……よし」

小さく呟く。

「何だ?」

隣のアレルがこちらを見た。

「ううん、何でもない!」

カエデは笑って首を振った。

「ただ、明日からも頑張ろうって思っただけ!」

口にしてみると、少しだけ照れくさかった。

何をどう頑張るのか、自分でもまだはっきりしていない。具体的な目標があるわけでも、急に強くなれると思っているわけでもなかった。

それでも、今日一日を過ごす中で、何かがほんの少し変わったような気がしていた。

「そうか」

アレルはそれ以上、何も聞かなかった。

夕暮れの光を受けながら、二人は再び歩き出す。

カエデは隣を歩くアレルをちらりと見た。

彼はいつもどおりの様子で、前を向いて歩いている。今日、少年に剣を教えていたときと同じ人とは思えないほど、今は自然体だった。

その横顔を見ていると、カエデはまた、先ほどの光景を思い出した。

けれど、今度はすぐに目を逸らさなかった。

まだ、自分に何ができるのかはわからない。

怖さが消えたわけでも、何かを乗り越えたわけでもない。

ただ、ほんの少しだけ、今までとは違うことを考えてみた。

今は、それだけでよかった。

やがて、二人は宿屋へとたどり着いた。

夕暮れのロマリアを振り返ると、通りにはぽつぽつと明かりが灯り始めていた。昼間の賑わいは少しずつ夜の静けさに溶け込み、街は穏やかな表情へと変わっている。

カエデはその景色をしばらく眺めた。

今日一日で、すべてが解決したわけではない。

明日になれば、また不安になるかもしれない。旅の途中で怖い思いをすることも、思うように動けず落ち込むこともあるだろう。

それでも、今日見たものは、きっとすぐには忘れない。

少年の一生懸命な姿も、アレルの教える横顔も、夕暮れの街を歩きながら考えたことも。

まだ名前をつけるほど、はっきりとした気持ちではない。

それでも、明日へ進むための気持ちは、自分の中にちゃんと生まれていた。
17/40ページ
スキ