DQ3 夜明けの果てに君と
朝の光が教会の窓から差し込んでいた。
夜の冷たさがまだ床に残る一方で、窓辺には朝のぬくもりが少しずつ広がり始めていた。
カエデは椅子に座ったまま、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……」
身体が痛い。どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
背中を伸ばそうとすると、凝り固まった肩が鈍く痛んだ。首を傾けてみても、すっきりするどころか、かえって身体のあちこちに疲れが残っていることを思い知らされる。
昨夜は、眠るつもりなどなかった。
ただ、少しだけ目を閉じて休もうと思ったのだ。アレルのそばを離れず、何かあればすぐに気づけるように。そう考えていたはずなのに、張り詰めていた気持ちが緩んだのか、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
はっとして、すぐそばの寝台へ視線を向ける。
そこには、昨日と変わらずアレルが横たわっていた。赤い外套は寝台の脇に置かれ、剣も手入れを終えた状態で立てかけられている。
彼の胸は静かに上下していた。
その様子を確かめ、カエデはようやく息を吐いた。
けれど、安心するにはまだ早かった。
アレルは、まだ目を覚ましていなかった。
「……アレル?」
そっと名前を呼ぶ。
返事はない。
声が小さすぎたのかもしれない。そう思い、カエデは少しだけ身を乗り出した。
「アレル……?」
今度も、返事はなかった。
彼のまぶたは閉じられたままで、顔色にも大きな変化は見られない。眠っているだけだと分かっていても、その静けさがかえって不安を募らせた。
あの戦いのあと、彼はずっと眠り続けていた。目の前で倒れ、何度呼びかけても応えてくれなかったことを思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
倒れた瞬間のことは、今でもはっきりと思い出せた。
それまで自分の目の前で戦っていた彼が、突然力を失う。呼んでも、手を伸ばしても、何も返ってこない。
どうすればいいのか分からなかった。
助けなければと思うのに、何をすれば助けられるのかが分からない。目の前で起きていることを受け止めるだけで精いっぱいだった。
そして今も、こうして彼が眠っている姿を見守ることしかできずにいる。
カエデは寝台の端を握りしめた。
「……お願いだから、早く起きてよ」
声に出した途端、喉の奥が詰まった。
そのときだった。
「……ん……」
アレルの指がわずかに動いた。
「……え?」
カエデは息を止めた。
見間違いではないかと、彼の手元をじっと見つめる。しばらくすると、もう一度、指先がかすかに動いた。
彼のまぶたがゆっくりと開き、やがてカエデを捉える。
「……カエデ?」
「……っ、アレル!」
声が震えた。
目を開けてくれただけなのに。自分の名前を呼んでくれただけなのに、胸の奥に張りついていた不安がほどけていく。
「よかった……! 本当によかった……!」
思わず身を乗り出す。抱きついてしまいたいほど嬉しかった。
彼が目を覚ました。その事実が、何よりも嬉しい。
今すぐにでも、その無事を確かめたかった。ちゃんとここにいるのだと、声だけではなく、手で触れて確かめたかった。
けれど、彼の身体に触れようとしたところで、手が止まった。
怪我に響いたらどうしよう。まだ痛むかもしれない。
喜びよりも、そんな心配が先に浮かんでしまった。
伸ばしかけた手が、宙で迷う。
ほんの少し触れるだけなら大丈夫だろうか。それとも、今はまだ、そっとしておいた方がいいのだろうか。
これまでなら、こんなことで悩むことはなかったはずだ。
心配なら心配だと伝え、嬉しければ嬉しいと素直に表していた。けれど、彼が倒れた姿を目にしてから、何をするにも一度考えてしまう。
自分の行動が、彼の負担にならないか。
そんなことばかりが頭をよぎるようになっていた。
アレルは不思議そうに彼女を見つめた。
「……どうした?」
「えっ?」
「ずいぶん驚いているから」
「あ、当たり前でしょ! だって、ずっと目を覚まさなかったんだよ!?」
思わず声を大きくしてしまい、カエデは慌てて口を押さえた。
「……ごめん。大きな声、出しちゃった」
「別に、構わない」
アレルはゆっくりと息を吐き、自分の身体を確かめるように視線を落とした。
寝台の上で指先を動かし、腕に力を入れてみる。身体にはまだ重さが残っていた。意識が戻ったばかりのせいか、頭も少しぼんやりとしている。
そして、起き上がろうとした瞬間、脇腹に痛みが走ったのか顔をしかめる。
「っ……」
「アレル!」
カエデは反射的に手を伸ばしかけたが、またためらってしまった。
彼の身体がわずかに強張ったのを見て、触れるのを躊躇してしまう。支えなければと思う気持ちと、余計な痛みを与えたくないという気持ちが、胸の中でぶつかり合った。
「……まだ、起き上がらない方がいいよ」
「ああ……そうだな」
アレルは無理をせず、枕へ身体を預け直した。
小さく息を吐き、痛みが落ち着くのを待つ。その様子を見ながら、カエデは自分の手を膝の上へ戻した。
今の自分には、何が正しいのか分からない。
心配して手を貸すことさえ、ためらってしまう。
「傷は痛む?」
「少しな」
「少しって……」
もっと詳しく聞きたかった。けれど、矢継ぎ早に尋ねて疲れさせるわけにもいかない。
大丈夫だと言われても、本当に大丈夫なのか分からない。かといって、何度も確認すれば、彼を困らせてしまうかもしれない。
カエデは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……水、持ってくるね」
「ああ。頼む」
カエデは水を注いだコップを差し出した。アレルは上体を少しだけ起こし、何度かに分けて水を飲む。
コップを持つ手には、まだ少し力が入りにくそうだった。カエデは落とさないか気になり、思わず手を添えようとしたが、彼が自分で持てていることに気づくと、そっと手を引いた。
必要なら支えればいい。
そう思う一方で、必要かどうかを確かめることさえ、以前より慎重になってしまっていた。
「……ありがとう」
思いがけない言葉に、カエデは目を瞬かせた。
「……え?」
「水を持ってきてくれただろう」
「あ……ううん。これくらい、別に……」
「それと、剣と外套もありがとう」
カエデの手が止まった。
「……気づいてたの?」
「ああ。目を覚ましたときに見た」
昨夜、アレルは一度目を覚ましていた。
椅子で眠るカエデを起こさないように、手入れされた剣と繕われた外套を見て、再び目を閉じたのだった。
意識がはっきりしていたわけではない。身体を動かすこともできず、周囲の様子を確かめるだけで精いっぱいだった。
それでも、見慣れた剣がきれいに磨かれていることも、外套の傷んだ部分が丁寧に繕われていることも分かった。
誰がやってくれたのか、考えるまでもなかった。
「……そっか。よかった。ちゃんと直せてたみたいで」
「ああ。助かった」
カエデは、直接感謝を伝えてもらえたことが素直に嬉しかった。
自分がしたことを、彼がちゃんと見てくれていた。そのことが、ほんの少しだけ心を軽くしてくれる。
剣を磨き、外套を繕っていた時間。何かしていなければ、彼が倒れたときの光景ばかりを思い出してしまいそうだった。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。汚れを落とし、ほつれを直し、目の前の作業に集中している間だけは、胸の奥にある不安から逃れられた。
それでも、彼が傷ついたことまで、なかったことにはできない。
きれいになった剣を見ても、繕った外套を見ても、あの戦いで彼が負った傷は消えない。
カエデはコップを受け取り、寝台の脇へ置いた。
「……アレル」
「何だ?」
「まだ、無理しないでね。ちゃんと治るまで休んでほしい。お願いだから」
アレルは、彼女の顔を見つめた。
安堵と心配が入り交じった表情。その奥には、まだ消えない何かがあるように見えた。
いつものカエデなら、心配しながらも遠慮なく小言を言ってくる。無茶をしたことを怒り、次は気をつけてほしいと念を押す。
けれど、今は違った。
言葉のひとつひとつを慎重に選び、こちらの様子をうかがっているようだった。
「……分かった。今日は無理をしない」
「……本当?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
その返事に、カエデはようやく小さく笑った。
いつもの調子に近い言葉を交わせた。それだけで、少しだけいつもの二人に戻れたような気がした。
けれど、すぐに視線を落としてしまう。
まだ、謝れていない。
あのとき何もできなかったこと。彼が倒れるのを止められなかったこと。
謝ったところで傷が治るわけではない。それでも、何も言わずにいることもできなかった。
何度も言葉にしようとした。
ごめんね、と。
私がもっと何かできていたら、と。
けれど、その言葉を口にしたら、彼はきっと自分を責めないようにと言ってくれる。気にするなと、優しく返してくれるかもしれない。
それが分かるからこそ、今は言い出せなかった。
彼に慰めてもらうために謝るのではない。自分が抱えている後悔を、彼に受け止めてもらいたいわけでもない。
そう考えるほど、言葉は遠ざかっていった。
「……村長さんに、アレルが目を覚ましたって伝えてくるね」
「ああ。頼む」
カエデは教会を出ていった。
扉が閉まる直前、ほんの少しだけ足が止まった。
振り返って、もう一度彼の顔を見たい。
そう思ったけれど、結局、振り返ることはできなかった。
その背中を、アレルは静かに見送った。
いつもより少しだけ遠く感じる。
けれど、今はまだ、その理由を尋ねるつもりはなかった。
目を覚ましたばかりで、身体も思うようには動かない。彼女も昨夜から気を張り続けていたはずだ。
今は、互いに落ち着く時間が必要なのだろう。
そう考えながらも、アレルの視線はしばらく扉から離れなかった。
*
村長の家を訪ねると、彼は庭先で朝の仕事をしていた。
朝の空気の中、村人たちがそれぞれの仕事に取りかかっている。家の戸を開ける音や、遠くから聞こえる話し声が、いつもの村の朝を形作っていた。
その様子を見て、カエデは少しだけ肩の力を抜いた。
昨日までの出来事が嘘のように、村には普段の生活が戻り始めている。
けれど、自分の中には、まだ昨日のことが残っていた。
「おや、カエデさん。どうしたんだね?」
「おはようございます。アレルが目を覚ましたんです」
「おお、本当か!」
村長の顔がぱっと明るくなった。
「あれほどの怪我だったから、心配していたんだよ」
「はい。まだ痛みはあるみたいですけど、話もできるし……」
カエデは少しだけ笑った。
「……本当によかったです」
「そうか、そうか」
村長は何度もうなずいた。彼もまた、アレルが無事に目を覚ますことを案じていたのだろう。知らせを聞いた表情からは、心から安堵していることが伝わってきた。
アレルの目覚めを喜んでくれる人が、自分たちのほかにもいる。その当たり前のことが、今のカエデにはありがたかった。
自分が心配しているだけではない。彼の無事を願い、目覚めを待っていた人がいる。
そう思うと、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
村長は改めて彼女へ向き直った。
「二人には、本当に感謝している。街道を荒らしていた盗賊たちがいなくなったと聞いて、村の者たちも安心しているんだ」
「……いえ、そんな」
「君も一緒に行動していたのだろう?」
「私は……」
言葉が詰まった。
自分も戦いの場にいた。けれど、アレルが傷ついたとき、自分には何もできなかった。
彼が倒れていく姿を見ていることしかできなかった。
自分がもっと強ければ。何かできることがあれば。
そんな思いが、何度も胸の奥をよぎる。
戦いの最中、できることを探そうとはした。目の前の状況を見て、少しでも役に立てるようにと考えた。
けれど、実際に彼が傷ついたとき、自分の知識も考えも、すぐに役立つものではなかった。
この世界で生きていく以上、知っていることがあるだけでは足りない。
何が起きるか知っていても、目の前で起きたことを止められなければ意味がない。危険を予想できても、それに対応できなければ誰かを守ることはできない。
そんな当たり前のことを、思い知らされた気がした。
「……私は、たいしたことはしていません」
ようやく口にした言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
村長は彼女の顔を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「そうかね。だが、君たちが危険を顧みずに動いてくれたことを、村の者たちは忘れないよ。アレル君にも、どうかよろしく伝えておくれ」
「……はい」
責められているわけではない。何かを求められているわけでもない。
村長は、ただ感謝を伝えてくれているだけだった。
それでも、素直に感謝を受け取ることができなかった。
自分がしたことを認めてもらうには、まだ何かが足りないような気がした。
彼が目を覚ましたからといって、あのとき何もできなかった自分が変わるわけではない。
教会へ戻る道すがら、カエデは自分の手を見つめた。
彼が傷つく前に、何かできていたら。
彼が倒れそうになったとき、何かできていたら。
この手で、もっと何かできたはずなのに。
そんな思いばかりが、頭から離れなかった。
*
教会へ戻ると、アレルは寝台の上で休んでいた。
カエデが扉を開けた音に気づき、彼が顔を向ける。
「……アレル?」
「ん?」
「村長さん、すごく喜んでたよ。盗賊たちがいなくなったことも、みんな安心してるって」
「そうか」
「うん……」
会話が途切れた。
以前なら、こんな沈黙を気にすることはなかった。カエデが何かを話し、アレルが短く返す。ときには冗談を言い合い、くだらないことで笑うこともあった。
何を話すか、いちいち考える必要などなかった。
思いついたことを口にすれば、アレルはそれを聞いてくれた。彼の返事が短くても、そこに冷たさを感じることはなかった。
けれど今は、言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなってしまう。
心配していると伝えれば、彼を困らせてしまう気がした。謝れば、また自分のことばかり考えてしまう。
何も言わなければ、距離が開いてしまうような気がする。
どれを選んでも、うまくいかないように思えた。
カエデは膝の上で指を組んだ。
アレルは、そんな彼女を見ていた。
何か話したそうにしているのに、結局、言葉を飲み込んでしまう。自分が何か言えば、彼女は少しだけ安心したように笑う。けれど、その笑顔はすぐに消えてしまう。
いつもと違う。
そのことだけは、はっきりと分かった。
けれど、どう声をかければいいのか、アレルにも分からなかった。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「えっ、でも、まだ怪我が……」
「教会の前までだ。少し身体を動かしたい」
「……分かった。私も一緒に行く」
アレルはゆっくりと起き上がった。立ち上がるときには一瞬、顔をしかめた。
傷の痛みが完全に引いたわけではない。身体を動かすたびに、脇腹に鈍い痛みが走る。
それでも、ずっと寝台に横になっていると、かえって身体が重くなるような気がした。
カエデはすぐそばに立ち、いつでも支えられるように手を伸ばしかける。
けれど、また途中でためらってしまった。
触れてもいいのだろうか。支えた方がいいのだろうか。
そんなことまで考えてしまう自分が、少し嫌だった。
以前なら、彼がふらつけば何も考えずに腕を貸していたはずだ。心配だから手を伸ばす。それだけでよかった。
今は、手を伸ばすことひとつにも理由を探してしまう。
アレルは何も言わず、彼女が隣に来るのを待った。
急かすこともなければ、無理に手を取ることもない。ただ、彼女がどうするかを静かに待っていた。
カエデは迷った末に、彼のすぐ隣へ立った。
もし彼がよろめいたら、今度こそ支えよう。
そう心に決めたものの、手はまだ、彼の腕に届かない位置にあった。
教会の外では、村人たちがいつもどおりに働き、子どもたちが元気に走り回っていた。
誰かが荷物を運び、誰かが家の前を掃除している。子どもたちの笑い声が聞こえ、通りを歩く人々が挨拶を交わしていた。
盗賊たちに脅かされていた街道も、少しずつ安心して通れるようになるだろう。
自分たちが関わった出来事が、こうして誰かの生活につながっている。
それは、本来なら喜ばしいことのはずだった。
「……いい朝だな」
アレルが空を見上げた。
「うん」
カエデも空を見上げる。
雲の切れ間から、穏やかな光が差し込んでいた。
ほんの少し前まで、彼が目を覚まさないかもしれないと思っていた。それなのに、今は隣でこうして歩いている。
それだけで十分なはずなのに、カエデは彼の横顔を見ることができなかった。
視線を向ければ、目が合ってしまうかもしれない。
そうしたら、今までどおりに笑えるだろうか。
何事もなかったように話せるだろうか。
自分でも分からなかった。
隣にいることが嬉しい。その気持ちに嘘はない。
けれど同時に、隣にいる自分が、彼にとって本当に必要なのか分からなくなっていた。
アレルは、何も言わなかった。
ただ、ときおり歩調を緩め、彼女が隣にいることを確かめるように視線を向けていた。
*
教会の前で休んでいると、荷馬車の音が近づいてきた。
車輪が道を踏む音に続いて、馬の蹄が地面を打つ音が聞こえてくる。
「おっ、二人とも! もう起きてたのか!」
声の主はダルクだった。その隣では、ボルドが馬の手綱を握っている。
「ダルクさん、ボルドさん。おはようございます」
アレルが頭を下げた。
「兄ちゃん、歩けるようになったのか?」
「ええ。まだ少し痛みますが、動くことはできます」
「そうか! そいつはよかった!」
ボルドは安堵したように笑った。
「昨日は本当に心配したんだぞ。あんな怪我で倒れたときは、どうなることかと思った」
「ご心配をおかけしました」
「いやいや、謝ることじゃねえよ。無事に目を覚ましたなら、それで十分だ」
ダルクもうなずいた。
二人の表情には、心配していた相手が無事だと分かった安堵が浮かんでいた。
道中、彼らは何度も一緒に行動してきた。危険な場面を乗り越え、互いに助け合ってきたからこそ、アレルが倒れたときの衝撃も大きかったのだろう。
アレルは二人の言葉を受け止め、改めて頭を下げた。
「それでな、俺たちはこれからロマリアへ戻るんだ。商売の用事が溜まっていてな」
「そうだったんですね」
カエデは少し寂しそうに笑った。
道中、二人には何度も助けてもらった。魔物に襲われたときも、アレルが麻痺したときも、彼らがいなければ、もっと危険なことになっていたかもしれない。
旅の途中で出会った人たちが、ここまで自分たちを支えてくれた。
これからはまた、自分たちだけで進んでいくことになる。
そう考えると、感謝と寂しさが入り交じった気持ちになった。
「……本当にありがとうございました。二人がいてくれて、すごく心強かったです」
「ははっ、そんなにかしこまらなくてもいいさ! 俺たちだって、あんたたちに助けられたんだ。お互いさまだよ」
「そうそう。旅は持ちつ持たれつだからな」
ボルドは笑い、アレルへ尋ねた。
「それで、あんたたちはどうするんだ?」
「本当なら、ロマリアへ戻らなければなりません。金の冠を取り戻したので、王様に返しに行くつもりです」
「なるほどな。だったら、ちょうどいい! 俺たちと一緒に来るか? 怪我人を歩かせるわけにもいかないだろう」
「ですが、荷物もありますし……」
「荷物ならどうにでもなるさ。人を乗せるくらい、たいしたことじゃねえ」
ダルクも気軽に言った。
アレルは一瞬迷ったものの、まだ脇腹に痛みが残っているのも事実だった。
無理をして歩き、傷を悪化させるわけにはいかない。ここで休むこともできるが、王冠を返すという目的がある以上、ロマリアへ戻る方が都合もよかった。
何より、二人の申し出はありがたかった。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「よし、決まりだ!」
ボルドが満足そうにうなずいた。
カエデもほっと表情を和らげる。
これなら、アレルに無理をさせずに済む。
そう思ったとき、ふと、自分が彼の怪我ばかり気にしていることに気づいた。
痛みはないか。歩けるのか。疲れていないか。
頭に浮かぶのは、そんなことばかりだった。
もちろん、彼の身体を心配するのは当然だ。大きな怪我を負ったばかりなのだから、無理をしてほしくない。
それでも、心配することしかできない自分が、また少し嫌になった。
彼の役に立ちたい。
その気持ちは変わらないのに、今の自分にできることは、彼の体調を気遣うことくらいしか思いつかなかった。
カエデは小さく息を吐き、荷馬車へ目を向けた。
せめて今は、彼が少しでも楽に移動できるようにしよう。
そう考えて、揺れの少ない場所がないか、荷台の様子を確かめ始めた。
*
荷馬車の準備をしていると、シオンが歩いてきた。
「……ずいぶん早い出発だな。お前たち、もうロマリアへ戻るのか?」
「ああ。王冠を返しに行く」
アレルが答える。
「そうか。俺は別の用事がある。アッサラームへ向かうつもりだ」
「アッサラーム?」
カエデは思わず聞き返した。
「ああ。少し、調べたいことがあってな」
シオンはそれ以上、詳しく話さなかった。
彼の声はいつもどおり淡々としていた。どこへ向かうのか、何を調べるのか。必要以上のことを話すつもりはないらしい。
まだ出会って間もない相手だ。最初は厳しいことばかり言われたし、アレルとも顔を合わせるたびに言い合いになっていた。
それでも、塔では一緒に戦った。アレルが倒れたときも、シオンは彼を見捨てなかった。
ぶっきらぼうで、何を考えているのか分かりにくい人だけれど、冷たいだけの人ではない。
そう思うようになっていた。
シオンの言葉は厳しいことが多かった。カエデに対しても、簡単に心を許してくれたわけではない。
けれど、一緒に行動する中で、彼なりに周囲を見ていることが分かってきた。口では何も言わなくても、危険なときには手を貸す。必要なことは、きちんとやる。
そうした姿を知ったからこそ、最初に抱いていた印象は、少しずつ変わっていた。
だからだろうか。別れるのだと聞いた途端、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
「……また会える?」
気づけば、そう尋ねていた。
口にしてから、カエデは少しだけ驚いた。
別れを惜しむような言葉を、自分から口にするとは思っていなかった。
シオンは一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「さあな。縁があれば会うだろ」
そっけない返事だった。
約束でもなければ、再会を期待させる言葉でもない。ただ、可能性を否定もしなかった。
「……うん。そうだね」
カエデは小さく笑った。
それで十分だった。
また会えると約束してほしかったわけではない。ただ、もう二度と会えないかもしれないと思うと、少し寂しかったのだ。
シオンらしい返事に、かえって気持ちが落ち着いた。
別々の道を進むことになっても、これまで一緒に過ごした時間がなくなるわけではない。
またどこかで会えたら、そのときは今より少しだけ、気軽に話せるかもしれない。
シオンはアレルへ視線を移す。
「怪我人なんだから、無茶するなよ」
「お前に言われるまでもない」
「そうかい。なら、安心だな」
「……お前な」
アレルが眉を寄せ、シオンは肩をすくめた。
いつものやり取りだった。
顔を合わせれば言い合いになり、どちらも簡単には引かない。それでも、そこには相手の実力を認めているからこその遠慮のなさもあった。
カエデは二人の様子を見ながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
アレルが目を覚ましてから、心の中にはずっと重たいものが残っていた。けれど、こうした何気ないやり取りを見ていると、少しだけ気持ちが和らぐ。
以前と同じように話している二人を見ていると、自分もいつか、以前のように振る舞えるようになるのだろうかと思った。
「気をつけろよ、アレル」
いつもより少しだけ真面目な声だった。
「ああ。お前もな」
「言われなくても分かってる」
シオンは踵を返した。
「じゃあな」
「うん。またね、シオン!」
カエデが手を振ると、シオンは振り返らず、片手を軽く上げて応えた。
その仕草は、最後まで彼らしいものだった。
やがて、その姿は村の通りに紛れて見えなくなった。
「……行っちゃったね」
「ああ」
「また会えるといいな」
「縁があれば会うんだろう」
「……うん」
シオンの言葉をそのまま繰り返し、カエデは小さく笑った。
今度会ったときは、もう少し普通に話せるだろうか。
最初のころのように、何を言えばいいのか分からず戸惑うこともなくなるだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は荷馬車へ乗り込んだ。
足を掛け、荷台へ上がる。座る場所を確かめてから、カエデは一度だけ、シオンが去っていった通りへ目を向けた。
もう姿は見えなかった。
それでも、彼が旅のどこかで無事に過ごしていることを願いながら、カエデは前を向いた。
夜の冷たさがまだ床に残る一方で、窓辺には朝のぬくもりが少しずつ広がり始めていた。
カエデは椅子に座ったまま、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……」
身体が痛い。どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
背中を伸ばそうとすると、凝り固まった肩が鈍く痛んだ。首を傾けてみても、すっきりするどころか、かえって身体のあちこちに疲れが残っていることを思い知らされる。
昨夜は、眠るつもりなどなかった。
ただ、少しだけ目を閉じて休もうと思ったのだ。アレルのそばを離れず、何かあればすぐに気づけるように。そう考えていたはずなのに、張り詰めていた気持ちが緩んだのか、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
はっとして、すぐそばの寝台へ視線を向ける。
そこには、昨日と変わらずアレルが横たわっていた。赤い外套は寝台の脇に置かれ、剣も手入れを終えた状態で立てかけられている。
彼の胸は静かに上下していた。
その様子を確かめ、カエデはようやく息を吐いた。
けれど、安心するにはまだ早かった。
アレルは、まだ目を覚ましていなかった。
「……アレル?」
そっと名前を呼ぶ。
返事はない。
声が小さすぎたのかもしれない。そう思い、カエデは少しだけ身を乗り出した。
「アレル……?」
今度も、返事はなかった。
彼のまぶたは閉じられたままで、顔色にも大きな変化は見られない。眠っているだけだと分かっていても、その静けさがかえって不安を募らせた。
あの戦いのあと、彼はずっと眠り続けていた。目の前で倒れ、何度呼びかけても応えてくれなかったことを思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
倒れた瞬間のことは、今でもはっきりと思い出せた。
それまで自分の目の前で戦っていた彼が、突然力を失う。呼んでも、手を伸ばしても、何も返ってこない。
どうすればいいのか分からなかった。
助けなければと思うのに、何をすれば助けられるのかが分からない。目の前で起きていることを受け止めるだけで精いっぱいだった。
そして今も、こうして彼が眠っている姿を見守ることしかできずにいる。
カエデは寝台の端を握りしめた。
「……お願いだから、早く起きてよ」
声に出した途端、喉の奥が詰まった。
そのときだった。
「……ん……」
アレルの指がわずかに動いた。
「……え?」
カエデは息を止めた。
見間違いではないかと、彼の手元をじっと見つめる。しばらくすると、もう一度、指先がかすかに動いた。
彼のまぶたがゆっくりと開き、やがてカエデを捉える。
「……カエデ?」
「……っ、アレル!」
声が震えた。
目を開けてくれただけなのに。自分の名前を呼んでくれただけなのに、胸の奥に張りついていた不安がほどけていく。
「よかった……! 本当によかった……!」
思わず身を乗り出す。抱きついてしまいたいほど嬉しかった。
彼が目を覚ました。その事実が、何よりも嬉しい。
今すぐにでも、その無事を確かめたかった。ちゃんとここにいるのだと、声だけではなく、手で触れて確かめたかった。
けれど、彼の身体に触れようとしたところで、手が止まった。
怪我に響いたらどうしよう。まだ痛むかもしれない。
喜びよりも、そんな心配が先に浮かんでしまった。
伸ばしかけた手が、宙で迷う。
ほんの少し触れるだけなら大丈夫だろうか。それとも、今はまだ、そっとしておいた方がいいのだろうか。
これまでなら、こんなことで悩むことはなかったはずだ。
心配なら心配だと伝え、嬉しければ嬉しいと素直に表していた。けれど、彼が倒れた姿を目にしてから、何をするにも一度考えてしまう。
自分の行動が、彼の負担にならないか。
そんなことばかりが頭をよぎるようになっていた。
アレルは不思議そうに彼女を見つめた。
「……どうした?」
「えっ?」
「ずいぶん驚いているから」
「あ、当たり前でしょ! だって、ずっと目を覚まさなかったんだよ!?」
思わず声を大きくしてしまい、カエデは慌てて口を押さえた。
「……ごめん。大きな声、出しちゃった」
「別に、構わない」
アレルはゆっくりと息を吐き、自分の身体を確かめるように視線を落とした。
寝台の上で指先を動かし、腕に力を入れてみる。身体にはまだ重さが残っていた。意識が戻ったばかりのせいか、頭も少しぼんやりとしている。
そして、起き上がろうとした瞬間、脇腹に痛みが走ったのか顔をしかめる。
「っ……」
「アレル!」
カエデは反射的に手を伸ばしかけたが、またためらってしまった。
彼の身体がわずかに強張ったのを見て、触れるのを躊躇してしまう。支えなければと思う気持ちと、余計な痛みを与えたくないという気持ちが、胸の中でぶつかり合った。
「……まだ、起き上がらない方がいいよ」
「ああ……そうだな」
アレルは無理をせず、枕へ身体を預け直した。
小さく息を吐き、痛みが落ち着くのを待つ。その様子を見ながら、カエデは自分の手を膝の上へ戻した。
今の自分には、何が正しいのか分からない。
心配して手を貸すことさえ、ためらってしまう。
「傷は痛む?」
「少しな」
「少しって……」
もっと詳しく聞きたかった。けれど、矢継ぎ早に尋ねて疲れさせるわけにもいかない。
大丈夫だと言われても、本当に大丈夫なのか分からない。かといって、何度も確認すれば、彼を困らせてしまうかもしれない。
カエデは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……水、持ってくるね」
「ああ。頼む」
カエデは水を注いだコップを差し出した。アレルは上体を少しだけ起こし、何度かに分けて水を飲む。
コップを持つ手には、まだ少し力が入りにくそうだった。カエデは落とさないか気になり、思わず手を添えようとしたが、彼が自分で持てていることに気づくと、そっと手を引いた。
必要なら支えればいい。
そう思う一方で、必要かどうかを確かめることさえ、以前より慎重になってしまっていた。
「……ありがとう」
思いがけない言葉に、カエデは目を瞬かせた。
「……え?」
「水を持ってきてくれただろう」
「あ……ううん。これくらい、別に……」
「それと、剣と外套もありがとう」
カエデの手が止まった。
「……気づいてたの?」
「ああ。目を覚ましたときに見た」
昨夜、アレルは一度目を覚ましていた。
椅子で眠るカエデを起こさないように、手入れされた剣と繕われた外套を見て、再び目を閉じたのだった。
意識がはっきりしていたわけではない。身体を動かすこともできず、周囲の様子を確かめるだけで精いっぱいだった。
それでも、見慣れた剣がきれいに磨かれていることも、外套の傷んだ部分が丁寧に繕われていることも分かった。
誰がやってくれたのか、考えるまでもなかった。
「……そっか。よかった。ちゃんと直せてたみたいで」
「ああ。助かった」
カエデは、直接感謝を伝えてもらえたことが素直に嬉しかった。
自分がしたことを、彼がちゃんと見てくれていた。そのことが、ほんの少しだけ心を軽くしてくれる。
剣を磨き、外套を繕っていた時間。何かしていなければ、彼が倒れたときの光景ばかりを思い出してしまいそうだった。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。汚れを落とし、ほつれを直し、目の前の作業に集中している間だけは、胸の奥にある不安から逃れられた。
それでも、彼が傷ついたことまで、なかったことにはできない。
きれいになった剣を見ても、繕った外套を見ても、あの戦いで彼が負った傷は消えない。
カエデはコップを受け取り、寝台の脇へ置いた。
「……アレル」
「何だ?」
「まだ、無理しないでね。ちゃんと治るまで休んでほしい。お願いだから」
アレルは、彼女の顔を見つめた。
安堵と心配が入り交じった表情。その奥には、まだ消えない何かがあるように見えた。
いつものカエデなら、心配しながらも遠慮なく小言を言ってくる。無茶をしたことを怒り、次は気をつけてほしいと念を押す。
けれど、今は違った。
言葉のひとつひとつを慎重に選び、こちらの様子をうかがっているようだった。
「……分かった。今日は無理をしない」
「……本当?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
その返事に、カエデはようやく小さく笑った。
いつもの調子に近い言葉を交わせた。それだけで、少しだけいつもの二人に戻れたような気がした。
けれど、すぐに視線を落としてしまう。
まだ、謝れていない。
あのとき何もできなかったこと。彼が倒れるのを止められなかったこと。
謝ったところで傷が治るわけではない。それでも、何も言わずにいることもできなかった。
何度も言葉にしようとした。
ごめんね、と。
私がもっと何かできていたら、と。
けれど、その言葉を口にしたら、彼はきっと自分を責めないようにと言ってくれる。気にするなと、優しく返してくれるかもしれない。
それが分かるからこそ、今は言い出せなかった。
彼に慰めてもらうために謝るのではない。自分が抱えている後悔を、彼に受け止めてもらいたいわけでもない。
そう考えるほど、言葉は遠ざかっていった。
「……村長さんに、アレルが目を覚ましたって伝えてくるね」
「ああ。頼む」
カエデは教会を出ていった。
扉が閉まる直前、ほんの少しだけ足が止まった。
振り返って、もう一度彼の顔を見たい。
そう思ったけれど、結局、振り返ることはできなかった。
その背中を、アレルは静かに見送った。
いつもより少しだけ遠く感じる。
けれど、今はまだ、その理由を尋ねるつもりはなかった。
目を覚ましたばかりで、身体も思うようには動かない。彼女も昨夜から気を張り続けていたはずだ。
今は、互いに落ち着く時間が必要なのだろう。
そう考えながらも、アレルの視線はしばらく扉から離れなかった。
*
村長の家を訪ねると、彼は庭先で朝の仕事をしていた。
朝の空気の中、村人たちがそれぞれの仕事に取りかかっている。家の戸を開ける音や、遠くから聞こえる話し声が、いつもの村の朝を形作っていた。
その様子を見て、カエデは少しだけ肩の力を抜いた。
昨日までの出来事が嘘のように、村には普段の生活が戻り始めている。
けれど、自分の中には、まだ昨日のことが残っていた。
「おや、カエデさん。どうしたんだね?」
「おはようございます。アレルが目を覚ましたんです」
「おお、本当か!」
村長の顔がぱっと明るくなった。
「あれほどの怪我だったから、心配していたんだよ」
「はい。まだ痛みはあるみたいですけど、話もできるし……」
カエデは少しだけ笑った。
「……本当によかったです」
「そうか、そうか」
村長は何度もうなずいた。彼もまた、アレルが無事に目を覚ますことを案じていたのだろう。知らせを聞いた表情からは、心から安堵していることが伝わってきた。
アレルの目覚めを喜んでくれる人が、自分たちのほかにもいる。その当たり前のことが、今のカエデにはありがたかった。
自分が心配しているだけではない。彼の無事を願い、目覚めを待っていた人がいる。
そう思うと、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
村長は改めて彼女へ向き直った。
「二人には、本当に感謝している。街道を荒らしていた盗賊たちがいなくなったと聞いて、村の者たちも安心しているんだ」
「……いえ、そんな」
「君も一緒に行動していたのだろう?」
「私は……」
言葉が詰まった。
自分も戦いの場にいた。けれど、アレルが傷ついたとき、自分には何もできなかった。
彼が倒れていく姿を見ていることしかできなかった。
自分がもっと強ければ。何かできることがあれば。
そんな思いが、何度も胸の奥をよぎる。
戦いの最中、できることを探そうとはした。目の前の状況を見て、少しでも役に立てるようにと考えた。
けれど、実際に彼が傷ついたとき、自分の知識も考えも、すぐに役立つものではなかった。
この世界で生きていく以上、知っていることがあるだけでは足りない。
何が起きるか知っていても、目の前で起きたことを止められなければ意味がない。危険を予想できても、それに対応できなければ誰かを守ることはできない。
そんな当たり前のことを、思い知らされた気がした。
「……私は、たいしたことはしていません」
ようやく口にした言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
村長は彼女の顔を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「そうかね。だが、君たちが危険を顧みずに動いてくれたことを、村の者たちは忘れないよ。アレル君にも、どうかよろしく伝えておくれ」
「……はい」
責められているわけではない。何かを求められているわけでもない。
村長は、ただ感謝を伝えてくれているだけだった。
それでも、素直に感謝を受け取ることができなかった。
自分がしたことを認めてもらうには、まだ何かが足りないような気がした。
彼が目を覚ましたからといって、あのとき何もできなかった自分が変わるわけではない。
教会へ戻る道すがら、カエデは自分の手を見つめた。
彼が傷つく前に、何かできていたら。
彼が倒れそうになったとき、何かできていたら。
この手で、もっと何かできたはずなのに。
そんな思いばかりが、頭から離れなかった。
*
教会へ戻ると、アレルは寝台の上で休んでいた。
カエデが扉を開けた音に気づき、彼が顔を向ける。
「……アレル?」
「ん?」
「村長さん、すごく喜んでたよ。盗賊たちがいなくなったことも、みんな安心してるって」
「そうか」
「うん……」
会話が途切れた。
以前なら、こんな沈黙を気にすることはなかった。カエデが何かを話し、アレルが短く返す。ときには冗談を言い合い、くだらないことで笑うこともあった。
何を話すか、いちいち考える必要などなかった。
思いついたことを口にすれば、アレルはそれを聞いてくれた。彼の返事が短くても、そこに冷たさを感じることはなかった。
けれど今は、言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなってしまう。
心配していると伝えれば、彼を困らせてしまう気がした。謝れば、また自分のことばかり考えてしまう。
何も言わなければ、距離が開いてしまうような気がする。
どれを選んでも、うまくいかないように思えた。
カエデは膝の上で指を組んだ。
アレルは、そんな彼女を見ていた。
何か話したそうにしているのに、結局、言葉を飲み込んでしまう。自分が何か言えば、彼女は少しだけ安心したように笑う。けれど、その笑顔はすぐに消えてしまう。
いつもと違う。
そのことだけは、はっきりと分かった。
けれど、どう声をかければいいのか、アレルにも分からなかった。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「えっ、でも、まだ怪我が……」
「教会の前までだ。少し身体を動かしたい」
「……分かった。私も一緒に行く」
アレルはゆっくりと起き上がった。立ち上がるときには一瞬、顔をしかめた。
傷の痛みが完全に引いたわけではない。身体を動かすたびに、脇腹に鈍い痛みが走る。
それでも、ずっと寝台に横になっていると、かえって身体が重くなるような気がした。
カエデはすぐそばに立ち、いつでも支えられるように手を伸ばしかける。
けれど、また途中でためらってしまった。
触れてもいいのだろうか。支えた方がいいのだろうか。
そんなことまで考えてしまう自分が、少し嫌だった。
以前なら、彼がふらつけば何も考えずに腕を貸していたはずだ。心配だから手を伸ばす。それだけでよかった。
今は、手を伸ばすことひとつにも理由を探してしまう。
アレルは何も言わず、彼女が隣に来るのを待った。
急かすこともなければ、無理に手を取ることもない。ただ、彼女がどうするかを静かに待っていた。
カエデは迷った末に、彼のすぐ隣へ立った。
もし彼がよろめいたら、今度こそ支えよう。
そう心に決めたものの、手はまだ、彼の腕に届かない位置にあった。
教会の外では、村人たちがいつもどおりに働き、子どもたちが元気に走り回っていた。
誰かが荷物を運び、誰かが家の前を掃除している。子どもたちの笑い声が聞こえ、通りを歩く人々が挨拶を交わしていた。
盗賊たちに脅かされていた街道も、少しずつ安心して通れるようになるだろう。
自分たちが関わった出来事が、こうして誰かの生活につながっている。
それは、本来なら喜ばしいことのはずだった。
「……いい朝だな」
アレルが空を見上げた。
「うん」
カエデも空を見上げる。
雲の切れ間から、穏やかな光が差し込んでいた。
ほんの少し前まで、彼が目を覚まさないかもしれないと思っていた。それなのに、今は隣でこうして歩いている。
それだけで十分なはずなのに、カエデは彼の横顔を見ることができなかった。
視線を向ければ、目が合ってしまうかもしれない。
そうしたら、今までどおりに笑えるだろうか。
何事もなかったように話せるだろうか。
自分でも分からなかった。
隣にいることが嬉しい。その気持ちに嘘はない。
けれど同時に、隣にいる自分が、彼にとって本当に必要なのか分からなくなっていた。
アレルは、何も言わなかった。
ただ、ときおり歩調を緩め、彼女が隣にいることを確かめるように視線を向けていた。
*
教会の前で休んでいると、荷馬車の音が近づいてきた。
車輪が道を踏む音に続いて、馬の蹄が地面を打つ音が聞こえてくる。
「おっ、二人とも! もう起きてたのか!」
声の主はダルクだった。その隣では、ボルドが馬の手綱を握っている。
「ダルクさん、ボルドさん。おはようございます」
アレルが頭を下げた。
「兄ちゃん、歩けるようになったのか?」
「ええ。まだ少し痛みますが、動くことはできます」
「そうか! そいつはよかった!」
ボルドは安堵したように笑った。
「昨日は本当に心配したんだぞ。あんな怪我で倒れたときは、どうなることかと思った」
「ご心配をおかけしました」
「いやいや、謝ることじゃねえよ。無事に目を覚ましたなら、それで十分だ」
ダルクもうなずいた。
二人の表情には、心配していた相手が無事だと分かった安堵が浮かんでいた。
道中、彼らは何度も一緒に行動してきた。危険な場面を乗り越え、互いに助け合ってきたからこそ、アレルが倒れたときの衝撃も大きかったのだろう。
アレルは二人の言葉を受け止め、改めて頭を下げた。
「それでな、俺たちはこれからロマリアへ戻るんだ。商売の用事が溜まっていてな」
「そうだったんですね」
カエデは少し寂しそうに笑った。
道中、二人には何度も助けてもらった。魔物に襲われたときも、アレルが麻痺したときも、彼らがいなければ、もっと危険なことになっていたかもしれない。
旅の途中で出会った人たちが、ここまで自分たちを支えてくれた。
これからはまた、自分たちだけで進んでいくことになる。
そう考えると、感謝と寂しさが入り交じった気持ちになった。
「……本当にありがとうございました。二人がいてくれて、すごく心強かったです」
「ははっ、そんなにかしこまらなくてもいいさ! 俺たちだって、あんたたちに助けられたんだ。お互いさまだよ」
「そうそう。旅は持ちつ持たれつだからな」
ボルドは笑い、アレルへ尋ねた。
「それで、あんたたちはどうするんだ?」
「本当なら、ロマリアへ戻らなければなりません。金の冠を取り戻したので、王様に返しに行くつもりです」
「なるほどな。だったら、ちょうどいい! 俺たちと一緒に来るか? 怪我人を歩かせるわけにもいかないだろう」
「ですが、荷物もありますし……」
「荷物ならどうにでもなるさ。人を乗せるくらい、たいしたことじゃねえ」
ダルクも気軽に言った。
アレルは一瞬迷ったものの、まだ脇腹に痛みが残っているのも事実だった。
無理をして歩き、傷を悪化させるわけにはいかない。ここで休むこともできるが、王冠を返すという目的がある以上、ロマリアへ戻る方が都合もよかった。
何より、二人の申し出はありがたかった。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「よし、決まりだ!」
ボルドが満足そうにうなずいた。
カエデもほっと表情を和らげる。
これなら、アレルに無理をさせずに済む。
そう思ったとき、ふと、自分が彼の怪我ばかり気にしていることに気づいた。
痛みはないか。歩けるのか。疲れていないか。
頭に浮かぶのは、そんなことばかりだった。
もちろん、彼の身体を心配するのは当然だ。大きな怪我を負ったばかりなのだから、無理をしてほしくない。
それでも、心配することしかできない自分が、また少し嫌になった。
彼の役に立ちたい。
その気持ちは変わらないのに、今の自分にできることは、彼の体調を気遣うことくらいしか思いつかなかった。
カエデは小さく息を吐き、荷馬車へ目を向けた。
せめて今は、彼が少しでも楽に移動できるようにしよう。
そう考えて、揺れの少ない場所がないか、荷台の様子を確かめ始めた。
*
荷馬車の準備をしていると、シオンが歩いてきた。
「……ずいぶん早い出発だな。お前たち、もうロマリアへ戻るのか?」
「ああ。王冠を返しに行く」
アレルが答える。
「そうか。俺は別の用事がある。アッサラームへ向かうつもりだ」
「アッサラーム?」
カエデは思わず聞き返した。
「ああ。少し、調べたいことがあってな」
シオンはそれ以上、詳しく話さなかった。
彼の声はいつもどおり淡々としていた。どこへ向かうのか、何を調べるのか。必要以上のことを話すつもりはないらしい。
まだ出会って間もない相手だ。最初は厳しいことばかり言われたし、アレルとも顔を合わせるたびに言い合いになっていた。
それでも、塔では一緒に戦った。アレルが倒れたときも、シオンは彼を見捨てなかった。
ぶっきらぼうで、何を考えているのか分かりにくい人だけれど、冷たいだけの人ではない。
そう思うようになっていた。
シオンの言葉は厳しいことが多かった。カエデに対しても、簡単に心を許してくれたわけではない。
けれど、一緒に行動する中で、彼なりに周囲を見ていることが分かってきた。口では何も言わなくても、危険なときには手を貸す。必要なことは、きちんとやる。
そうした姿を知ったからこそ、最初に抱いていた印象は、少しずつ変わっていた。
だからだろうか。別れるのだと聞いた途端、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
「……また会える?」
気づけば、そう尋ねていた。
口にしてから、カエデは少しだけ驚いた。
別れを惜しむような言葉を、自分から口にするとは思っていなかった。
シオンは一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「さあな。縁があれば会うだろ」
そっけない返事だった。
約束でもなければ、再会を期待させる言葉でもない。ただ、可能性を否定もしなかった。
「……うん。そうだね」
カエデは小さく笑った。
それで十分だった。
また会えると約束してほしかったわけではない。ただ、もう二度と会えないかもしれないと思うと、少し寂しかったのだ。
シオンらしい返事に、かえって気持ちが落ち着いた。
別々の道を進むことになっても、これまで一緒に過ごした時間がなくなるわけではない。
またどこかで会えたら、そのときは今より少しだけ、気軽に話せるかもしれない。
シオンはアレルへ視線を移す。
「怪我人なんだから、無茶するなよ」
「お前に言われるまでもない」
「そうかい。なら、安心だな」
「……お前な」
アレルが眉を寄せ、シオンは肩をすくめた。
いつものやり取りだった。
顔を合わせれば言い合いになり、どちらも簡単には引かない。それでも、そこには相手の実力を認めているからこその遠慮のなさもあった。
カエデは二人の様子を見ながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
アレルが目を覚ましてから、心の中にはずっと重たいものが残っていた。けれど、こうした何気ないやり取りを見ていると、少しだけ気持ちが和らぐ。
以前と同じように話している二人を見ていると、自分もいつか、以前のように振る舞えるようになるのだろうかと思った。
「気をつけろよ、アレル」
いつもより少しだけ真面目な声だった。
「ああ。お前もな」
「言われなくても分かってる」
シオンは踵を返した。
「じゃあな」
「うん。またね、シオン!」
カエデが手を振ると、シオンは振り返らず、片手を軽く上げて応えた。
その仕草は、最後まで彼らしいものだった。
やがて、その姿は村の通りに紛れて見えなくなった。
「……行っちゃったね」
「ああ」
「また会えるといいな」
「縁があれば会うんだろう」
「……うん」
シオンの言葉をそのまま繰り返し、カエデは小さく笑った。
今度会ったときは、もう少し普通に話せるだろうか。
最初のころのように、何を言えばいいのか分からず戸惑うこともなくなるだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は荷馬車へ乗り込んだ。
足を掛け、荷台へ上がる。座る場所を確かめてから、カエデは一度だけ、シオンが去っていった通りへ目を向けた。
もう姿は見えなかった。
それでも、彼が旅のどこかで無事に過ごしていることを願いながら、カエデは前を向いた。
