DQ3 夜明けの果てに君と
カザーブへ向かう馬車は、深い森の中をゆっくりと進んでいた。
頭上には、空を覆い隠すほど高く伸びた木々が連なっている。
幾重にも重なった枝葉の隙間から、淡い光がこぼれていた。風が吹くたびに葉が擦れ合い、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
道の両側には、苔をまとった岩や、長い年月をかけて地面に根を張った大木が並んでいた。
湿った土の匂い。
雨を吸った樹皮の匂い。
枯れ葉がゆっくりと土へ還っていく、深い森ならではの匂い。
それらが冷たい空気に混じり、馬車の中まで静かに流れ込んでくる。
普段なら、カエデはこうした景色に目を輝かせていたかもしれない。
けれど、今は違った。
彼女の視線は、向かい側に横たわるアレルから離れなかった。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
身体には手当てが施されているものの、意識は戻らないままだった。
「……アレル」
名前を呼んでも、返事はない。
眠っているだけだと、自分に言い聞かせる。
けれど、目を閉じたまま動かない彼を見ていると、どうしてもあのときの光景が蘇ってしまう。
カンダタの攻撃を受け、木箱へ叩きつけられた姿。
血を流しながらも、立ち上がろうとしていた姿。
そして、最後には力尽き、崩れ落ちた姿。
あのときの自分には、何もできなかった。
助けたいと思った。
何とかしたいと願った。
それなのに、できたことといえば、彼の名前を呼び続けることだけだった。
カエデは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
シオンが、向かい側から静かに口を開いた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
「え……?」
「さっきから、ずっとあいつの顔ばかり見ている」
責めるような口調ではなかった。
ただ、事実をそのまま告げているような声だった。
「だって……」
カエデは言葉を探した。
「アレル、全然目を覚まさないから……」
「治療は受けている。今のお前にできることはない」
「……わかってるよ」
わかっている。
そんなことは、自分が一番よくわかっていた。
それでも、目を離すのが怖かった。
ほんの少し視線を逸らした間に、彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
そんなはずはない。
そう思おうとしても、不安は胸の奥に居座ったままだった。
シオンは小さく息を吐いた。
「お前が自分を責めたところで、あいつの傷が治るわけじゃないだろ」
カエデは、はっと顔を上げた。
冷たい言葉だった。
けれど、言い返すことはできなかった。
「……うん」
俯いた彼女の膝に、握りしめた手の影が落ちる。
「私、もっと何かできたんじゃないかなって……ずっと考えちゃうんだ」
声が震えそうになるのを、どうにか堪えた。
「アレルがあんなに傷ついて……それなのに、私は……」
あのとき、もっと早く動けていたら。
もっと違う方法を考えられていたら。
彼が倒れる前に、何かできていたのではないか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
シオンはしばらく黙っていた。
馬車の車輪が、土を踏みしめる音だけが続く。
やがて、彼は視線を窓の外へ向けた。
「……戦いの最中に、何もかも思いどおりにできる人間なんていない」
「……」
「お前はお前にできることをした。それでも、あいつは傷を負った。そういうこともある」
カエデは唇を噛んだ。
それでも、気持ちは簡単には割り切れなかった。
「でも……」
「でも、じゃない」
シオンは短く言った。
「反省するのは勝手だ。次に同じことが起きたとき、どうするか考えるのもな。だが、いつまでも自分を責めていたって、何も変わらない」
厳しい言葉だった。
けれど、その声には、突き放すだけではない何かがあった。
「……お前が倒れたら、今度はあいつが心配することになるぞ」
カエデは目を瞬かせた。
「アレルが……?」
「そうだ。あいつは、自分が傷つくことより、仲間が傷つくことの方を気にするような奴だろ」
シオンはアレルへ目を向けた。
「目を覚ましたとき、お前まで倒れていたらどうする。あいつが余計な心配をするだけだ」
「……そっか」
カエデは小さく息を吐いた。
アレルなら、きっとそうする。
自分が怪我をしていても、こちらのことを気にするに違いない。
今だって、もし目を覚ましたら、真っ先に自分の心配をするかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……ありがとう、シオン」
「礼を言われるようなことはしていない」
「ううん。言ってくれてよかった」
シオンは返事をしなかった。
ただ、窓の外を流れていく森を眺めていた。
深い緑の向こうに、古い木々が立ち並んでいる。
長い年月を生きてきた木々は、風に枝を揺らしながら、何も語らずそこに立っていた。
シオンの横顔にも、いつものような無愛想さが戻っていた。
けれど、その目には一瞬だけ、遠い過去を見つめるような色が浮かんでいた。
カエデはそれに気づいたものの、何も尋ねなかった。
誰にだって、簡単には話せないことがある。
今の自分がそうであるように。
* * *
「もうすぐカザーブだ!」
御者台から、ボルドの声が聞こえてきた。
カエデは何時間かぶりに窓の外へ目を向けると、もう辺りは日の出を迎えていた。
やがて、馬車は森の奥にある村へとたどり着いた。
カザーブ。
木々の間に、木造の家々が見え始める。
石造りの道はなく、踏み固められた土の道が村の中を通っていた。家の壁には木の板が使われ、屋根の上には、森から運ばれてきた落ち葉が風に揺れている。
村の周囲には、まだ深い森が広がっていた。
見上げれば、木々の枝葉が空を覆っている。
けれど、その隙間から差し込む光は柔らかく、地面に小さな模様を描いていた。
人の暮らしと森の息遣いが、自然に溶け合っている。
カエデは、馬車の窓からその景色を眺めた。
普段なら、もっとゆっくり歩いてみたいと思っただろう。
森の中を通る道を探し、木々の間に何があるのか確かめてみたかったかもしれない。
けれど、今はただ、アレルを休ませられる場所が欲しかった。
村の通りへ馬車が入ると、道を歩いていた村人たちが顔を上げた。
「あれ、ダルクたちの馬車じゃないか?」
「本当だ。今日はずいぶん急いでいるな」
いつもなら、荷馬車を止めて村人と挨拶を交わす二人だった。
しかし、今日のダルクとボルドには、いつもの余裕がなかった。
馬車を止めることなく、まっすぐに村の奥へと進んでいく。
「なんだなんだ? 何かあったのか?」
村人たちの視線が、馬車の中へと向けられた。
そこで、横たわるアレルの姿が見えた。
「おい、あの人……怪我をしているぞ」
「大丈夫なのか?」
ざわめきが広がる。
ダルクは村人たちの声に気づいたものの、足を止めなかった。
「悪い、あとで説明する! 今は急いでいるんだ!」
ボルドも手綱を握り直し、馬車を先へ進めた。
カエデは窓の外の人々を見つめながら、胸の前で手を握りしめた。
早く、アレルを休ませなければ。
馬車が教会の前で止まる。
待っていた人々の手を借りながら、アレルは慎重に中へ運ばれていった。
「こちらへ。すぐに手当てをします」
教会の人が声をかける。
カエデはその後を追った。
* * *
教会の中は、外よりもひんやりとしていた。
木の床は長い年月を経て深い色に変わり、壁には薬草の束が吊るされている。
乾燥した葉の匂いと、清潔な布の匂い。
開いた窓からは森の風が入り込み、湿った土の香りを運んできた。
遠くで鳥が鳴いている。
木々の梢が風に揺れ、葉擦れの音がかすかに聞こえた。
森は、いつもと変わらずそこにあった。
けれど、カエデには、その穏やかさが少しだけ遠く感じられた。
アレルは寝台に横たえられ、傷の状態を確かめられていた。
カエデはそばで見守りながら、何度も彼の顔を確かめる。
「……大丈夫、ですよね?」
思わず、治療をしている人に尋ねてしまった。
「今は安静にすることが何より大切です。傷は深いですが、適切な手当てを受けています。しばらくは目を覚まさないかもしれませんが、焦らずに待ちましょう」
「……はい」
カエデは頷いた。
今は、待つしかない。
そうわかっていても、胸の奥の不安は消えてくれなかった。
やがて治療が終わり、アレルは静かな寝息を立てるようになった。
その呼吸を聞いて、カエデはようやく椅子に腰を下ろした。
「……よかった」
声に出してみる。
けれど、その言葉は自分を安心させるには、まだ小さすぎた。
* * *
教会の外では、ダルクとボルドが村人たちに事情を説明していた。
アレルが深い傷を負っていること。
シャンパーニの塔で、盗賊たちと戦ったこと。
そして、今は教会で治療を受けていること。
村人たちは心配そうに頷き、二人を気遣う言葉をかけた。
その話がひと段落したころ、シオンは村長の家を訪ねていた。
「ロマリアとカザーブの間で、旅人を襲っていた盗賊たちのことだ」
シオンは、村長の前で淡々と報告した。
「連中はもう、この辺りにはいない。しばらくは街道も通りやすくなるはずだ」
「本当かね?」
村長は驚いたように目を見開いた。
「ああ。少なくとも、俺たちが確認した範囲ではな」
「それはありがたい。近頃は旅人も商人も被害に遭っていて、村としても困っていたんだ」
村長は安堵したように息を吐いた。
「知らせてくれてありがとう。これで少しは安心できる」
「礼はいらない。必要な報告をしただけだ」
シオンは短く答えた。
村長はそんな彼を見つめ、それ以上は無理に礼を重ねなかった。
「それより、仲間が怪我をしている。教会にいるはずだ」
「そうか……。村の者にも、できる限り手を貸すよう伝えておこう」
シオンは軽く頷き、村長の家を後にした。
* * *
どれほど時間が経っただろう。
窓の外では、森の色が少しずつ変わっていた。
昼の明るさを帯びていた葉は、夕暮れの光を受けて深い緑から鈍い金色へと変わり、木々の間には長い影が伸びている。
風が吹くたび、枝葉が擦れ合った。
カエデは寝台のそばに座り、アレルの顔を見つめていた。
眠っている彼の表情は、普段よりもずっと幼く見えた。
いつもは前を向き、迷わず歩いていく。
危険なときには仲間を守り、困っている人を見れば手を差し伸べる。
そんな彼が、今は何も言わず、ただ静かに眠っている。
「……アレル」
カエデはそっと呼びかけた。
「早く、目を覚ましてよ……」
返事はない。
わかっている。
眠っている相手に、何度呼びかけても意味はない。
それでも、声に出さずにはいられなかった。
「私、まだ……ちゃんと謝ってないんだから」
あのとき、もっと何かできたはずだと思っていた。
けれど、シオンの言葉も頭から離れなかった。
自分を責めているだけでは、何も変わらない。
だったら、今の自分にできることをしよう。
目を覚ましたとき、少しでも楽になっているように。
そう思い、カエデは寝台の脇に置かれた荷物へ目を向けた。
アレルの剣が、鞘に収められたまま置かれている。
戦いのあと、刃には汚れが残っていた。
カエデは剣をそっと持ち上げた。
「……これくらいなら、私にもできるよね」
誰に言うでもなく呟く。
剣を抜き、刃の状態を確かめる。
大きな損傷はないようだったが、細かな汚れが残っていた。
カエデは布を手に取り、刃を傷つけないよう、慎重に汚れを拭き取っていく。
金属の冷たさが指先に伝わった。
布を動かすたび、かすかな音が静かな室内に響く。
アレルは、この剣を使って戦っていた。
カンダタの攻撃を受けても、何度倒れかけても、最後まで手放さなかった。
そして、最後には力尽きてしまった。
カエデは一度手を止め、寝台へ視線を向けた。
「……もう、あんな無茶しないでよ」
小さく呟く。
もちろん、アレルに聞こえるはずはない。
それでも、言わずにはいられなかった。
刃を丁寧に拭き終え、カエデは剣を鞘へ戻した。
次に目に入ったのは、アレルの外套だった。
戦いの際に傷んだ部分があり、布の端がほつれている。
「……これも、直しておこう」
カエデは針と糸を借り、ほつれた部分を整え始めた。
針を通すたび、指先に小さな緊張が走る。
慣れない作業ではなかったが、誰かの服を直すとなると、いつもより慎重になった。
目を覚ましたとき、アレルが困らないように。
また旅に出るとき、少しでも役に立つように。
そんなことを考えながら、ひと針ずつ縫い進める。
窓の外では、森が夜へと姿を変え始めていた。
木々の間に残っていた光が薄れ、遠くの梢が黒い影になっていく。
夜の冷気が窓から入り込み、カエデの頬を撫でた。
彼女は肩を小さく震わせたが、作業をやめなかった。
やがて、外套のほつれが少しずつ塞がっていく。
「……よし」
ようやく形が整ったころには、カエデの目にも疲れが滲んでいた。
慣れない看病。
張り詰めた気持ち。
そして、アレルが目を覚まさないことへの不安。
それらが重なり、身体はとうに限界を迎えていた。
それでも、もう少しだけ。
もう少しだけ、そばにいたかった。
カエデは針と糸を片づけ、手入れを終えた剣を寝台のそばへ置いた。
そして、椅子に座り直す。
「……アレル。明日になったら、起きてね」
囁くように言って、彼の顔を見つめた。
「約束、だからね……」
そんな約束を、眠っている彼ができるはずもない。
それでも、カエデは小さく笑った。
やがて、まぶたが重くなる。
眠ってはいけないと思った。
目を覚ました瞬間を、見逃したくなかった。
けれど、張り詰めていた気持ちは、少しずつほどけていく。
窓の外から、森の音が聞こえていた。
風が梢を揺らす音。
枝から落ちた雫が、土へ吸い込まれていく音。
遠くで鳴く、夜の鳥の声。
森は深く、静かに息づいていた。
その穏やかな音に包まれるように、カエデはいつの間にか眠りに落ちていた。
手元には、縫いかけの糸が残っている。
寝台のそばには、手入れされた剣が置かれていた。
* * *
どれほど眠っていたのだろう。
アレルは、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れない木の天井だった。
「……ここは……」
声を出そうとすると、喉がひどく乾いていることに気づいた。
身体を動かそうとして、すぐに顔をしかめる。
全身が重い。
脇腹や肩には鈍い痛みが残り、少し動かしただけでも傷が疼いた。
「……っ」
アレルは息を整え、しばらく天井を見つめていた。
やがて、記憶が少しずつ戻ってくる。
シャンパーニの塔。
カンダタとの戦い。
重い一撃を受け、身体が動かなくなったこと。
そして――。
「……カエデ!」
思わず身体を起こしかけた。
途端に傷が痛み、アレルは寝台へ沈み込む。
「っ、く……!」
その物音に、すぐそばから小さな声がした。
「……ん……」
アレルは顔を向けた。
そこには、椅子に座ったまま眠るカエデがいた。
身体を少し傾け、寝台の縁に寄りかかるような姿勢になっている。
疲れ切っているのだろう。
眉間には、ほんのわずかに皺が寄っていた。
その手元には、針と糸。
そして、近くには手入れされた剣と、繕われた外套が置かれていた。
「……これは……」
アレルは目を瞬かせた。
剣の刃には、もう汚れが残っていない。
外套のほつれも、丁寧に縫い直されていた。
カエデが、自分のためにしてくれたのだろう。
自分が眠っている間、ずっとそばにいてくれたのだ。
アレルは、眠るカエデを見つめた。
「……まったく」
呆れたように呟いたつもりだった。
けれど、その声は思っていたよりもずっと柔らかかった。
こんなところで眠ってしまうなんて。
疲れているなら、自分の身体を休めればいいのに。
そう思う一方で、彼女がここにいてくれたことに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そのとき、不意に、別の光景が蘇った。
薄暗い塔の最上階。
倒れた自分を見つめていた、カエデの顔。
頬を伝う涙。
必死に自分の名前を呼ぶ声。
あのとき、意識が遠のいていく中で、確かに見た。
彼女は、泣いていた。
自分が倒れたことを、あんなにも悲しんでいた。
「……」
アレルは言葉を失った。
仲間が傷つけば、心配するのは当然だ。
カエデが自分を気にかけてくれていることも、わかっていた。
けれど、あの涙を思い出すと、胸の奥が妙に締めつけられた。
自分のために、あんな顔をさせてしまった。
そう思うと、何かをしてやりたい気持ちが込み上げてくる。
アレルは、そっと手を伸ばした。
カエデの頭に触れようとする。
乱れた髪を整えてやろうとしたのか。
それとも、泣かせてしまったことを詫びる代わりに、労ってやりたかったのか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ、彼女の頭に触れようとしていた。
あと少しで、指先が髪に届く。
その瞬間。
「……っ」
アレルは、はっと手を止めた。
カエデは眠っている。
起こすつもりもないのに、こんなことをする必要はない。
そもそも、どうして頭を撫でようなどと思ったのだろう。
アレルは戸惑いながら、ゆっくりと手を引っ込めた。
「……何をしてるんだ、俺は」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
カエデは目を覚まさない。
ただ、疲れ切った顔で、静かな寝息を立てている。
アレルは彼女を見つめたまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、風が森の梢を揺らしていた。
枝葉が擦れ合う音が、夜の静けさに溶けていく。
湿った土と木々の匂いが、窓からそっと流れ込んでいた。
森は、何も知らないまま、深い夜の中で息づいている。
その静けさの中で、アレルはもう一度、眠るカエデへ目を向けた。
「……ありがとう」
今度は、声に出していた。
眠っている彼女には届かない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
アレルは身体の痛みに耐えながら、少しだけ姿勢を整えた。
カエデを起こさないよう、静かに息を吐く。
明日、目を覚ました彼女に何と言えばいいのだろう。
剣の手入れも、服の補修も、礼を言わなければならない。
それから、あのとき泣いていたことも。
聞きたいことは、いくつもあった。
けれど、今はまだ、何も言わずにいよう。
カエデが安心して眠っていられるように。
アレルは、彼女を見守りながら、そっと目を閉じた。
窓の外では、森の風が静かに吹き続けていた。
頭上には、空を覆い隠すほど高く伸びた木々が連なっている。
幾重にも重なった枝葉の隙間から、淡い光がこぼれていた。風が吹くたびに葉が擦れ合い、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
道の両側には、苔をまとった岩や、長い年月をかけて地面に根を張った大木が並んでいた。
湿った土の匂い。
雨を吸った樹皮の匂い。
枯れ葉がゆっくりと土へ還っていく、深い森ならではの匂い。
それらが冷たい空気に混じり、馬車の中まで静かに流れ込んでくる。
普段なら、カエデはこうした景色に目を輝かせていたかもしれない。
けれど、今は違った。
彼女の視線は、向かい側に横たわるアレルから離れなかった。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
身体には手当てが施されているものの、意識は戻らないままだった。
「……アレル」
名前を呼んでも、返事はない。
眠っているだけだと、自分に言い聞かせる。
けれど、目を閉じたまま動かない彼を見ていると、どうしてもあのときの光景が蘇ってしまう。
カンダタの攻撃を受け、木箱へ叩きつけられた姿。
血を流しながらも、立ち上がろうとしていた姿。
そして、最後には力尽き、崩れ落ちた姿。
あのときの自分には、何もできなかった。
助けたいと思った。
何とかしたいと願った。
それなのに、できたことといえば、彼の名前を呼び続けることだけだった。
カエデは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
シオンが、向かい側から静かに口を開いた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
「え……?」
「さっきから、ずっとあいつの顔ばかり見ている」
責めるような口調ではなかった。
ただ、事実をそのまま告げているような声だった。
「だって……」
カエデは言葉を探した。
「アレル、全然目を覚まさないから……」
「治療は受けている。今のお前にできることはない」
「……わかってるよ」
わかっている。
そんなことは、自分が一番よくわかっていた。
それでも、目を離すのが怖かった。
ほんの少し視線を逸らした間に、彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
そんなはずはない。
そう思おうとしても、不安は胸の奥に居座ったままだった。
シオンは小さく息を吐いた。
「お前が自分を責めたところで、あいつの傷が治るわけじゃないだろ」
カエデは、はっと顔を上げた。
冷たい言葉だった。
けれど、言い返すことはできなかった。
「……うん」
俯いた彼女の膝に、握りしめた手の影が落ちる。
「私、もっと何かできたんじゃないかなって……ずっと考えちゃうんだ」
声が震えそうになるのを、どうにか堪えた。
「アレルがあんなに傷ついて……それなのに、私は……」
あのとき、もっと早く動けていたら。
もっと違う方法を考えられていたら。
彼が倒れる前に、何かできていたのではないか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
シオンはしばらく黙っていた。
馬車の車輪が、土を踏みしめる音だけが続く。
やがて、彼は視線を窓の外へ向けた。
「……戦いの最中に、何もかも思いどおりにできる人間なんていない」
「……」
「お前はお前にできることをした。それでも、あいつは傷を負った。そういうこともある」
カエデは唇を噛んだ。
それでも、気持ちは簡単には割り切れなかった。
「でも……」
「でも、じゃない」
シオンは短く言った。
「反省するのは勝手だ。次に同じことが起きたとき、どうするか考えるのもな。だが、いつまでも自分を責めていたって、何も変わらない」
厳しい言葉だった。
けれど、その声には、突き放すだけではない何かがあった。
「……お前が倒れたら、今度はあいつが心配することになるぞ」
カエデは目を瞬かせた。
「アレルが……?」
「そうだ。あいつは、自分が傷つくことより、仲間が傷つくことの方を気にするような奴だろ」
シオンはアレルへ目を向けた。
「目を覚ましたとき、お前まで倒れていたらどうする。あいつが余計な心配をするだけだ」
「……そっか」
カエデは小さく息を吐いた。
アレルなら、きっとそうする。
自分が怪我をしていても、こちらのことを気にするに違いない。
今だって、もし目を覚ましたら、真っ先に自分の心配をするかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……ありがとう、シオン」
「礼を言われるようなことはしていない」
「ううん。言ってくれてよかった」
シオンは返事をしなかった。
ただ、窓の外を流れていく森を眺めていた。
深い緑の向こうに、古い木々が立ち並んでいる。
長い年月を生きてきた木々は、風に枝を揺らしながら、何も語らずそこに立っていた。
シオンの横顔にも、いつものような無愛想さが戻っていた。
けれど、その目には一瞬だけ、遠い過去を見つめるような色が浮かんでいた。
カエデはそれに気づいたものの、何も尋ねなかった。
誰にだって、簡単には話せないことがある。
今の自分がそうであるように。
* * *
「もうすぐカザーブだ!」
御者台から、ボルドの声が聞こえてきた。
カエデは何時間かぶりに窓の外へ目を向けると、もう辺りは日の出を迎えていた。
やがて、馬車は森の奥にある村へとたどり着いた。
カザーブ。
木々の間に、木造の家々が見え始める。
石造りの道はなく、踏み固められた土の道が村の中を通っていた。家の壁には木の板が使われ、屋根の上には、森から運ばれてきた落ち葉が風に揺れている。
村の周囲には、まだ深い森が広がっていた。
見上げれば、木々の枝葉が空を覆っている。
けれど、その隙間から差し込む光は柔らかく、地面に小さな模様を描いていた。
人の暮らしと森の息遣いが、自然に溶け合っている。
カエデは、馬車の窓からその景色を眺めた。
普段なら、もっとゆっくり歩いてみたいと思っただろう。
森の中を通る道を探し、木々の間に何があるのか確かめてみたかったかもしれない。
けれど、今はただ、アレルを休ませられる場所が欲しかった。
村の通りへ馬車が入ると、道を歩いていた村人たちが顔を上げた。
「あれ、ダルクたちの馬車じゃないか?」
「本当だ。今日はずいぶん急いでいるな」
いつもなら、荷馬車を止めて村人と挨拶を交わす二人だった。
しかし、今日のダルクとボルドには、いつもの余裕がなかった。
馬車を止めることなく、まっすぐに村の奥へと進んでいく。
「なんだなんだ? 何かあったのか?」
村人たちの視線が、馬車の中へと向けられた。
そこで、横たわるアレルの姿が見えた。
「おい、あの人……怪我をしているぞ」
「大丈夫なのか?」
ざわめきが広がる。
ダルクは村人たちの声に気づいたものの、足を止めなかった。
「悪い、あとで説明する! 今は急いでいるんだ!」
ボルドも手綱を握り直し、馬車を先へ進めた。
カエデは窓の外の人々を見つめながら、胸の前で手を握りしめた。
早く、アレルを休ませなければ。
馬車が教会の前で止まる。
待っていた人々の手を借りながら、アレルは慎重に中へ運ばれていった。
「こちらへ。すぐに手当てをします」
教会の人が声をかける。
カエデはその後を追った。
* * *
教会の中は、外よりもひんやりとしていた。
木の床は長い年月を経て深い色に変わり、壁には薬草の束が吊るされている。
乾燥した葉の匂いと、清潔な布の匂い。
開いた窓からは森の風が入り込み、湿った土の香りを運んできた。
遠くで鳥が鳴いている。
木々の梢が風に揺れ、葉擦れの音がかすかに聞こえた。
森は、いつもと変わらずそこにあった。
けれど、カエデには、その穏やかさが少しだけ遠く感じられた。
アレルは寝台に横たえられ、傷の状態を確かめられていた。
カエデはそばで見守りながら、何度も彼の顔を確かめる。
「……大丈夫、ですよね?」
思わず、治療をしている人に尋ねてしまった。
「今は安静にすることが何より大切です。傷は深いですが、適切な手当てを受けています。しばらくは目を覚まさないかもしれませんが、焦らずに待ちましょう」
「……はい」
カエデは頷いた。
今は、待つしかない。
そうわかっていても、胸の奥の不安は消えてくれなかった。
やがて治療が終わり、アレルは静かな寝息を立てるようになった。
その呼吸を聞いて、カエデはようやく椅子に腰を下ろした。
「……よかった」
声に出してみる。
けれど、その言葉は自分を安心させるには、まだ小さすぎた。
* * *
教会の外では、ダルクとボルドが村人たちに事情を説明していた。
アレルが深い傷を負っていること。
シャンパーニの塔で、盗賊たちと戦ったこと。
そして、今は教会で治療を受けていること。
村人たちは心配そうに頷き、二人を気遣う言葉をかけた。
その話がひと段落したころ、シオンは村長の家を訪ねていた。
「ロマリアとカザーブの間で、旅人を襲っていた盗賊たちのことだ」
シオンは、村長の前で淡々と報告した。
「連中はもう、この辺りにはいない。しばらくは街道も通りやすくなるはずだ」
「本当かね?」
村長は驚いたように目を見開いた。
「ああ。少なくとも、俺たちが確認した範囲ではな」
「それはありがたい。近頃は旅人も商人も被害に遭っていて、村としても困っていたんだ」
村長は安堵したように息を吐いた。
「知らせてくれてありがとう。これで少しは安心できる」
「礼はいらない。必要な報告をしただけだ」
シオンは短く答えた。
村長はそんな彼を見つめ、それ以上は無理に礼を重ねなかった。
「それより、仲間が怪我をしている。教会にいるはずだ」
「そうか……。村の者にも、できる限り手を貸すよう伝えておこう」
シオンは軽く頷き、村長の家を後にした。
* * *
どれほど時間が経っただろう。
窓の外では、森の色が少しずつ変わっていた。
昼の明るさを帯びていた葉は、夕暮れの光を受けて深い緑から鈍い金色へと変わり、木々の間には長い影が伸びている。
風が吹くたび、枝葉が擦れ合った。
カエデは寝台のそばに座り、アレルの顔を見つめていた。
眠っている彼の表情は、普段よりもずっと幼く見えた。
いつもは前を向き、迷わず歩いていく。
危険なときには仲間を守り、困っている人を見れば手を差し伸べる。
そんな彼が、今は何も言わず、ただ静かに眠っている。
「……アレル」
カエデはそっと呼びかけた。
「早く、目を覚ましてよ……」
返事はない。
わかっている。
眠っている相手に、何度呼びかけても意味はない。
それでも、声に出さずにはいられなかった。
「私、まだ……ちゃんと謝ってないんだから」
あのとき、もっと何かできたはずだと思っていた。
けれど、シオンの言葉も頭から離れなかった。
自分を責めているだけでは、何も変わらない。
だったら、今の自分にできることをしよう。
目を覚ましたとき、少しでも楽になっているように。
そう思い、カエデは寝台の脇に置かれた荷物へ目を向けた。
アレルの剣が、鞘に収められたまま置かれている。
戦いのあと、刃には汚れが残っていた。
カエデは剣をそっと持ち上げた。
「……これくらいなら、私にもできるよね」
誰に言うでもなく呟く。
剣を抜き、刃の状態を確かめる。
大きな損傷はないようだったが、細かな汚れが残っていた。
カエデは布を手に取り、刃を傷つけないよう、慎重に汚れを拭き取っていく。
金属の冷たさが指先に伝わった。
布を動かすたび、かすかな音が静かな室内に響く。
アレルは、この剣を使って戦っていた。
カンダタの攻撃を受けても、何度倒れかけても、最後まで手放さなかった。
そして、最後には力尽きてしまった。
カエデは一度手を止め、寝台へ視線を向けた。
「……もう、あんな無茶しないでよ」
小さく呟く。
もちろん、アレルに聞こえるはずはない。
それでも、言わずにはいられなかった。
刃を丁寧に拭き終え、カエデは剣を鞘へ戻した。
次に目に入ったのは、アレルの外套だった。
戦いの際に傷んだ部分があり、布の端がほつれている。
「……これも、直しておこう」
カエデは針と糸を借り、ほつれた部分を整え始めた。
針を通すたび、指先に小さな緊張が走る。
慣れない作業ではなかったが、誰かの服を直すとなると、いつもより慎重になった。
目を覚ましたとき、アレルが困らないように。
また旅に出るとき、少しでも役に立つように。
そんなことを考えながら、ひと針ずつ縫い進める。
窓の外では、森が夜へと姿を変え始めていた。
木々の間に残っていた光が薄れ、遠くの梢が黒い影になっていく。
夜の冷気が窓から入り込み、カエデの頬を撫でた。
彼女は肩を小さく震わせたが、作業をやめなかった。
やがて、外套のほつれが少しずつ塞がっていく。
「……よし」
ようやく形が整ったころには、カエデの目にも疲れが滲んでいた。
慣れない看病。
張り詰めた気持ち。
そして、アレルが目を覚まさないことへの不安。
それらが重なり、身体はとうに限界を迎えていた。
それでも、もう少しだけ。
もう少しだけ、そばにいたかった。
カエデは針と糸を片づけ、手入れを終えた剣を寝台のそばへ置いた。
そして、椅子に座り直す。
「……アレル。明日になったら、起きてね」
囁くように言って、彼の顔を見つめた。
「約束、だからね……」
そんな約束を、眠っている彼ができるはずもない。
それでも、カエデは小さく笑った。
やがて、まぶたが重くなる。
眠ってはいけないと思った。
目を覚ました瞬間を、見逃したくなかった。
けれど、張り詰めていた気持ちは、少しずつほどけていく。
窓の外から、森の音が聞こえていた。
風が梢を揺らす音。
枝から落ちた雫が、土へ吸い込まれていく音。
遠くで鳴く、夜の鳥の声。
森は深く、静かに息づいていた。
その穏やかな音に包まれるように、カエデはいつの間にか眠りに落ちていた。
手元には、縫いかけの糸が残っている。
寝台のそばには、手入れされた剣が置かれていた。
* * *
どれほど眠っていたのだろう。
アレルは、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れない木の天井だった。
「……ここは……」
声を出そうとすると、喉がひどく乾いていることに気づいた。
身体を動かそうとして、すぐに顔をしかめる。
全身が重い。
脇腹や肩には鈍い痛みが残り、少し動かしただけでも傷が疼いた。
「……っ」
アレルは息を整え、しばらく天井を見つめていた。
やがて、記憶が少しずつ戻ってくる。
シャンパーニの塔。
カンダタとの戦い。
重い一撃を受け、身体が動かなくなったこと。
そして――。
「……カエデ!」
思わず身体を起こしかけた。
途端に傷が痛み、アレルは寝台へ沈み込む。
「っ、く……!」
その物音に、すぐそばから小さな声がした。
「……ん……」
アレルは顔を向けた。
そこには、椅子に座ったまま眠るカエデがいた。
身体を少し傾け、寝台の縁に寄りかかるような姿勢になっている。
疲れ切っているのだろう。
眉間には、ほんのわずかに皺が寄っていた。
その手元には、針と糸。
そして、近くには手入れされた剣と、繕われた外套が置かれていた。
「……これは……」
アレルは目を瞬かせた。
剣の刃には、もう汚れが残っていない。
外套のほつれも、丁寧に縫い直されていた。
カエデが、自分のためにしてくれたのだろう。
自分が眠っている間、ずっとそばにいてくれたのだ。
アレルは、眠るカエデを見つめた。
「……まったく」
呆れたように呟いたつもりだった。
けれど、その声は思っていたよりもずっと柔らかかった。
こんなところで眠ってしまうなんて。
疲れているなら、自分の身体を休めればいいのに。
そう思う一方で、彼女がここにいてくれたことに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そのとき、不意に、別の光景が蘇った。
薄暗い塔の最上階。
倒れた自分を見つめていた、カエデの顔。
頬を伝う涙。
必死に自分の名前を呼ぶ声。
あのとき、意識が遠のいていく中で、確かに見た。
彼女は、泣いていた。
自分が倒れたことを、あんなにも悲しんでいた。
「……」
アレルは言葉を失った。
仲間が傷つけば、心配するのは当然だ。
カエデが自分を気にかけてくれていることも、わかっていた。
けれど、あの涙を思い出すと、胸の奥が妙に締めつけられた。
自分のために、あんな顔をさせてしまった。
そう思うと、何かをしてやりたい気持ちが込み上げてくる。
アレルは、そっと手を伸ばした。
カエデの頭に触れようとする。
乱れた髪を整えてやろうとしたのか。
それとも、泣かせてしまったことを詫びる代わりに、労ってやりたかったのか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ、彼女の頭に触れようとしていた。
あと少しで、指先が髪に届く。
その瞬間。
「……っ」
アレルは、はっと手を止めた。
カエデは眠っている。
起こすつもりもないのに、こんなことをする必要はない。
そもそも、どうして頭を撫でようなどと思ったのだろう。
アレルは戸惑いながら、ゆっくりと手を引っ込めた。
「……何をしてるんだ、俺は」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
カエデは目を覚まさない。
ただ、疲れ切った顔で、静かな寝息を立てている。
アレルは彼女を見つめたまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、風が森の梢を揺らしていた。
枝葉が擦れ合う音が、夜の静けさに溶けていく。
湿った土と木々の匂いが、窓からそっと流れ込んでいた。
森は、何も知らないまま、深い夜の中で息づいている。
その静けさの中で、アレルはもう一度、眠るカエデへ目を向けた。
「……ありがとう」
今度は、声に出していた。
眠っている彼女には届かない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
アレルは身体の痛みに耐えながら、少しだけ姿勢を整えた。
カエデを起こさないよう、静かに息を吐く。
明日、目を覚ました彼女に何と言えばいいのだろう。
剣の手入れも、服の補修も、礼を言わなければならない。
それから、あのとき泣いていたことも。
聞きたいことは、いくつもあった。
けれど、今はまだ、何も言わずにいよう。
カエデが安心して眠っていられるように。
アレルは、彼女を見守りながら、そっと目を閉じた。
窓の外では、森の風が静かに吹き続けていた。
