DQ3 夜明けの果てに君と

カザーブへ向かう馬車は、深い森の中をゆっくりと進んでいた。

 頭上には、空を覆い隠すほど高く伸びた木々が連なっている。

 幾重にも重なった枝葉の隙間から、淡い光がこぼれていた。風が吹くたびに葉が擦れ合い、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 道の両側には、苔をまとった岩や、長い年月をかけて地面に根を張った大木が並んでいた。

 湿った土の匂い。

 雨を吸った樹皮の匂い。

 枯れ葉がゆっくりと土へ還っていく、深い森ならではの匂い。

 それらが冷たい空気に混じり、馬車の中まで静かに流れ込んでくる。

 普段なら、カエデはこうした景色に目を輝かせていたかもしれない。

 けれど、今は違った。

 彼女の視線は、向かい側に横たわるアレルから離れなかった。

 顔色は悪く、呼吸も浅い。

 身体には手当てが施されているものの、意識は戻らないままだった。

「……アレル」

 名前を呼んでも、返事はない。

 眠っているだけだと、自分に言い聞かせる。

 けれど、目を閉じたまま動かない彼を見ていると、どうしてもあのときの光景が蘇ってしまう。

 カンダタの攻撃を受け、木箱へ叩きつけられた姿。

 血を流しながらも、立ち上がろうとしていた姿。

 そして、最後には力尽き、崩れ落ちた姿。

 あのときの自分には、何もできなかった。

 助けたいと思った。

 何とかしたいと願った。

 それなのに、できたことといえば、彼の名前を呼び続けることだけだった。

 カエデは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。

 シオンが、向かい側から静かに口を開いた。

「……いつまでそうしているつもりだ」

「え……?」

「さっきから、ずっとあいつの顔ばかり見ている」

 責めるような口調ではなかった。

 ただ、事実をそのまま告げているような声だった。

「だって……」

 カエデは言葉を探した。

「アレル、全然目を覚まさないから……」

「治療は受けている。今のお前にできることはない」

「……わかってるよ」

 わかっている。

 そんなことは、自分が一番よくわかっていた。

 それでも、目を離すのが怖かった。

 ほんの少し視線を逸らした間に、彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。

 そんなはずはない。

 そう思おうとしても、不安は胸の奥に居座ったままだった。

 シオンは小さく息を吐いた。

「お前が自分を責めたところで、あいつの傷が治るわけじゃないだろ」

 カエデは、はっと顔を上げた。

 冷たい言葉だった。

 けれど、言い返すことはできなかった。

「……うん」

 俯いた彼女の膝に、握りしめた手の影が落ちる。

「私、もっと何かできたんじゃないかなって……ずっと考えちゃうんだ」

 声が震えそうになるのを、どうにか堪えた。

「アレルがあんなに傷ついて……それなのに、私は……」

 あのとき、もっと早く動けていたら。

 もっと違う方法を考えられていたら。

 彼が倒れる前に、何かできていたのではないか。

 考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。

 シオンはしばらく黙っていた。

 馬車の車輪が、土を踏みしめる音だけが続く。

 やがて、彼は視線を窓の外へ向けた。

「……戦いの最中に、何もかも思いどおりにできる人間なんていない」

「……」

「お前はお前にできることをした。それでも、あいつは傷を負った。そういうこともある」

 カエデは唇を噛んだ。

 それでも、気持ちは簡単には割り切れなかった。

「でも……」

「でも、じゃない」

 シオンは短く言った。

「反省するのは勝手だ。次に同じことが起きたとき、どうするか考えるのもな。だが、いつまでも自分を責めていたって、何も変わらない」

 厳しい言葉だった。

 けれど、その声には、突き放すだけではない何かがあった。

「……お前が倒れたら、今度はあいつが心配することになるぞ」

 カエデは目を瞬かせた。

「アレルが……?」

「そうだ。あいつは、自分が傷つくことより、仲間が傷つくことの方を気にするような奴だろ」

 シオンはアレルへ目を向けた。

「目を覚ましたとき、お前まで倒れていたらどうする。あいつが余計な心配をするだけだ」

「……そっか」

 カエデは小さく息を吐いた。

 アレルなら、きっとそうする。

 自分が怪我をしていても、こちらのことを気にするに違いない。

 今だって、もし目を覚ましたら、真っ先に自分の心配をするかもしれない。

 そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「……ありがとう、シオン」

「礼を言われるようなことはしていない」

「ううん。言ってくれてよかった」

 シオンは返事をしなかった。

 ただ、窓の外を流れていく森を眺めていた。

 深い緑の向こうに、古い木々が立ち並んでいる。

 長い年月を生きてきた木々は、風に枝を揺らしながら、何も語らずそこに立っていた。

 シオンの横顔にも、いつものような無愛想さが戻っていた。

 けれど、その目には一瞬だけ、遠い過去を見つめるような色が浮かんでいた。

 カエデはそれに気づいたものの、何も尋ねなかった。

 誰にだって、簡単には話せないことがある。

 今の自分がそうであるように。

     * * *

「もうすぐカザーブだ!」

 御者台から、ボルドの声が聞こえてきた。

 カエデは何時間かぶりに窓の外へ目を向けると、もう辺りは日の出を迎えていた。

 やがて、馬車は森の奥にある村へとたどり着いた。

 カザーブ。

 木々の間に、木造の家々が見え始める。

 石造りの道はなく、踏み固められた土の道が村の中を通っていた。家の壁には木の板が使われ、屋根の上には、森から運ばれてきた落ち葉が風に揺れている。

 村の周囲には、まだ深い森が広がっていた。

 見上げれば、木々の枝葉が空を覆っている。

 けれど、その隙間から差し込む光は柔らかく、地面に小さな模様を描いていた。

 人の暮らしと森の息遣いが、自然に溶け合っている。

 カエデは、馬車の窓からその景色を眺めた。

 普段なら、もっとゆっくり歩いてみたいと思っただろう。

 森の中を通る道を探し、木々の間に何があるのか確かめてみたかったかもしれない。

 けれど、今はただ、アレルを休ませられる場所が欲しかった。

 村の通りへ馬車が入ると、道を歩いていた村人たちが顔を上げた。

「あれ、ダルクたちの馬車じゃないか?」

「本当だ。今日はずいぶん急いでいるな」

 いつもなら、荷馬車を止めて村人と挨拶を交わす二人だった。

 しかし、今日のダルクとボルドには、いつもの余裕がなかった。

 馬車を止めることなく、まっすぐに村の奥へと進んでいく。

「なんだなんだ? 何かあったのか?」

 村人たちの視線が、馬車の中へと向けられた。

 そこで、横たわるアレルの姿が見えた。

「おい、あの人……怪我をしているぞ」

「大丈夫なのか?」

 ざわめきが広がる。

 ダルクは村人たちの声に気づいたものの、足を止めなかった。

「悪い、あとで説明する! 今は急いでいるんだ!」

 ボルドも手綱を握り直し、馬車を先へ進めた。

 カエデは窓の外の人々を見つめながら、胸の前で手を握りしめた。

 早く、アレルを休ませなければ。

 馬車が教会の前で止まる。

 待っていた人々の手を借りながら、アレルは慎重に中へ運ばれていった。

「こちらへ。すぐに手当てをします」

 教会の人が声をかける。

 カエデはその後を追った。

     * * *

 教会の中は、外よりもひんやりとしていた。

 木の床は長い年月を経て深い色に変わり、壁には薬草の束が吊るされている。

 乾燥した葉の匂いと、清潔な布の匂い。

 開いた窓からは森の風が入り込み、湿った土の香りを運んできた。

 遠くで鳥が鳴いている。

 木々の梢が風に揺れ、葉擦れの音がかすかに聞こえた。

 森は、いつもと変わらずそこにあった。

 けれど、カエデには、その穏やかさが少しだけ遠く感じられた。

 アレルは寝台に横たえられ、傷の状態を確かめられていた。

 カエデはそばで見守りながら、何度も彼の顔を確かめる。

「……大丈夫、ですよね?」

 思わず、治療をしている人に尋ねてしまった。

「今は安静にすることが何より大切です。傷は深いですが、適切な手当てを受けています。しばらくは目を覚まさないかもしれませんが、焦らずに待ちましょう」

「……はい」

 カエデは頷いた。

 今は、待つしかない。

 そうわかっていても、胸の奥の不安は消えてくれなかった。

 やがて治療が終わり、アレルは静かな寝息を立てるようになった。

 その呼吸を聞いて、カエデはようやく椅子に腰を下ろした。

「……よかった」

 声に出してみる。

 けれど、その言葉は自分を安心させるには、まだ小さすぎた。

     * * *

 教会の外では、ダルクとボルドが村人たちに事情を説明していた。

 アレルが深い傷を負っていること。

 シャンパーニの塔で、盗賊たちと戦ったこと。

 そして、今は教会で治療を受けていること。

 村人たちは心配そうに頷き、二人を気遣う言葉をかけた。

 その話がひと段落したころ、シオンは村長の家を訪ねていた。

「ロマリアとカザーブの間で、旅人を襲っていた盗賊たちのことだ」

 シオンは、村長の前で淡々と報告した。

「連中はもう、この辺りにはいない。しばらくは街道も通りやすくなるはずだ」

「本当かね?」

 村長は驚いたように目を見開いた。

「ああ。少なくとも、俺たちが確認した範囲ではな」

「それはありがたい。近頃は旅人も商人も被害に遭っていて、村としても困っていたんだ」

 村長は安堵したように息を吐いた。

「知らせてくれてありがとう。これで少しは安心できる」

「礼はいらない。必要な報告をしただけだ」

 シオンは短く答えた。

 村長はそんな彼を見つめ、それ以上は無理に礼を重ねなかった。

「それより、仲間が怪我をしている。教会にいるはずだ」

「そうか……。村の者にも、できる限り手を貸すよう伝えておこう」

 シオンは軽く頷き、村長の家を後にした。

     * * *

 どれほど時間が経っただろう。

 窓の外では、森の色が少しずつ変わっていた。

 昼の明るさを帯びていた葉は、夕暮れの光を受けて深い緑から鈍い金色へと変わり、木々の間には長い影が伸びている。

 風が吹くたび、枝葉が擦れ合った。

 カエデは寝台のそばに座り、アレルの顔を見つめていた。

 眠っている彼の表情は、普段よりもずっと幼く見えた。

 いつもは前を向き、迷わず歩いていく。

 危険なときには仲間を守り、困っている人を見れば手を差し伸べる。

 そんな彼が、今は何も言わず、ただ静かに眠っている。

「……アレル」

 カエデはそっと呼びかけた。

「早く、目を覚ましてよ……」

 返事はない。

 わかっている。

 眠っている相手に、何度呼びかけても意味はない。

 それでも、声に出さずにはいられなかった。

「私、まだ……ちゃんと謝ってないんだから」

 あのとき、もっと何かできたはずだと思っていた。

 けれど、シオンの言葉も頭から離れなかった。

 自分を責めているだけでは、何も変わらない。

 だったら、今の自分にできることをしよう。

 目を覚ましたとき、少しでも楽になっているように。

 そう思い、カエデは寝台の脇に置かれた荷物へ目を向けた。

 アレルの剣が、鞘に収められたまま置かれている。

 戦いのあと、刃には汚れが残っていた。

 カエデは剣をそっと持ち上げた。

「……これくらいなら、私にもできるよね」

 誰に言うでもなく呟く。

 剣を抜き、刃の状態を確かめる。

 大きな損傷はないようだったが、細かな汚れが残っていた。

 カエデは布を手に取り、刃を傷つけないよう、慎重に汚れを拭き取っていく。

 金属の冷たさが指先に伝わった。

 布を動かすたび、かすかな音が静かな室内に響く。

 アレルは、この剣を使って戦っていた。

 カンダタの攻撃を受けても、何度倒れかけても、最後まで手放さなかった。

 そして、最後には力尽きてしまった。

 カエデは一度手を止め、寝台へ視線を向けた。

「……もう、あんな無茶しないでよ」

 小さく呟く。

 もちろん、アレルに聞こえるはずはない。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 刃を丁寧に拭き終え、カエデは剣を鞘へ戻した。

 次に目に入ったのは、アレルの外套だった。

 戦いの際に傷んだ部分があり、布の端がほつれている。

「……これも、直しておこう」

 カエデは針と糸を借り、ほつれた部分を整え始めた。

 針を通すたび、指先に小さな緊張が走る。

 慣れない作業ではなかったが、誰かの服を直すとなると、いつもより慎重になった。

 目を覚ましたとき、アレルが困らないように。

 また旅に出るとき、少しでも役に立つように。

 そんなことを考えながら、ひと針ずつ縫い進める。

 窓の外では、森が夜へと姿を変え始めていた。

 木々の間に残っていた光が薄れ、遠くの梢が黒い影になっていく。

 夜の冷気が窓から入り込み、カエデの頬を撫でた。

 彼女は肩を小さく震わせたが、作業をやめなかった。

 やがて、外套のほつれが少しずつ塞がっていく。

「……よし」

 ようやく形が整ったころには、カエデの目にも疲れが滲んでいた。

 慣れない看病。

 張り詰めた気持ち。

 そして、アレルが目を覚まさないことへの不安。

 それらが重なり、身体はとうに限界を迎えていた。

 それでも、もう少しだけ。

 もう少しだけ、そばにいたかった。

 カエデは針と糸を片づけ、手入れを終えた剣を寝台のそばへ置いた。

 そして、椅子に座り直す。

「……アレル。明日になったら、起きてね」

 囁くように言って、彼の顔を見つめた。

「約束、だからね……」

 そんな約束を、眠っている彼ができるはずもない。

 それでも、カエデは小さく笑った。

 やがて、まぶたが重くなる。

 眠ってはいけないと思った。

 目を覚ました瞬間を、見逃したくなかった。

 けれど、張り詰めていた気持ちは、少しずつほどけていく。

 窓の外から、森の音が聞こえていた。

 風が梢を揺らす音。

 枝から落ちた雫が、土へ吸い込まれていく音。

 遠くで鳴く、夜の鳥の声。

 森は深く、静かに息づいていた。

 その穏やかな音に包まれるように、カエデはいつの間にか眠りに落ちていた。

 手元には、縫いかけの糸が残っている。

 寝台のそばには、手入れされた剣が置かれていた。

     * * *

 どれほど眠っていたのだろう。

 アレルは、ゆっくりと目を開けた。

 最初に見えたのは、見慣れない木の天井だった。

「……ここは……」

 声を出そうとすると、喉がひどく乾いていることに気づいた。

 身体を動かそうとして、すぐに顔をしかめる。

 全身が重い。

 脇腹や肩には鈍い痛みが残り、少し動かしただけでも傷が疼いた。

「……っ」

 アレルは息を整え、しばらく天井を見つめていた。

 やがて、記憶が少しずつ戻ってくる。

 シャンパーニの塔。

 カンダタとの戦い。

 重い一撃を受け、身体が動かなくなったこと。

 そして――。

「……カエデ!」

 思わず身体を起こしかけた。

 途端に傷が痛み、アレルは寝台へ沈み込む。

「っ、く……!」

 その物音に、すぐそばから小さな声がした。

「……ん……」

 アレルは顔を向けた。

 そこには、椅子に座ったまま眠るカエデがいた。

 身体を少し傾け、寝台の縁に寄りかかるような姿勢になっている。

 疲れ切っているのだろう。

 眉間には、ほんのわずかに皺が寄っていた。

 その手元には、針と糸。

 そして、近くには手入れされた剣と、繕われた外套が置かれていた。

「……これは……」

 アレルは目を瞬かせた。

 剣の刃には、もう汚れが残っていない。

 外套のほつれも、丁寧に縫い直されていた。

 カエデが、自分のためにしてくれたのだろう。

 自分が眠っている間、ずっとそばにいてくれたのだ。

 アレルは、眠るカエデを見つめた。

「……まったく」

 呆れたように呟いたつもりだった。

 けれど、その声は思っていたよりもずっと柔らかかった。

 こんなところで眠ってしまうなんて。

 疲れているなら、自分の身体を休めればいいのに。

 そう思う一方で、彼女がここにいてくれたことに、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 そのとき、不意に、別の光景が蘇った。

 薄暗い塔の最上階。

 倒れた自分を見つめていた、カエデの顔。

 頬を伝う涙。

 必死に自分の名前を呼ぶ声。

 あのとき、意識が遠のいていく中で、確かに見た。

 彼女は、泣いていた。

 自分が倒れたことを、あんなにも悲しんでいた。

「……」

 アレルは言葉を失った。

 仲間が傷つけば、心配するのは当然だ。

 カエデが自分を気にかけてくれていることも、わかっていた。

 けれど、あの涙を思い出すと、胸の奥が妙に締めつけられた。

 自分のために、あんな顔をさせてしまった。

 そう思うと、何かをしてやりたい気持ちが込み上げてくる。

 アレルは、そっと手を伸ばした。

 カエデの頭に触れようとする。

 乱れた髪を整えてやろうとしたのか。

 それとも、泣かせてしまったことを詫びる代わりに、労ってやりたかったのか。

 自分でも、よくわからなかった。

 ただ、彼女の頭に触れようとしていた。

 あと少しで、指先が髪に届く。

 その瞬間。

「……っ」

 アレルは、はっと手を止めた。

 カエデは眠っている。

 起こすつもりもないのに、こんなことをする必要はない。

 そもそも、どうして頭を撫でようなどと思ったのだろう。

 アレルは戸惑いながら、ゆっくりと手を引っ込めた。

「……何をしてるんだ、俺は」

 誰にも聞こえないほど小さな声だった。

 カエデは目を覚まさない。

 ただ、疲れ切った顔で、静かな寝息を立てている。

 アレルは彼女を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 窓の外では、風が森の梢を揺らしていた。

 枝葉が擦れ合う音が、夜の静けさに溶けていく。

 湿った土と木々の匂いが、窓からそっと流れ込んでいた。

 森は、何も知らないまま、深い夜の中で息づいている。

 その静けさの中で、アレルはもう一度、眠るカエデへ目を向けた。

「……ありがとう」

 今度は、声に出していた。

 眠っている彼女には届かない。

 それでも、伝えずにはいられなかった。

 アレルは身体の痛みに耐えながら、少しだけ姿勢を整えた。

 カエデを起こさないよう、静かに息を吐く。

 明日、目を覚ました彼女に何と言えばいいのだろう。

 剣の手入れも、服の補修も、礼を言わなければならない。

 それから、あのとき泣いていたことも。

 聞きたいことは、いくつもあった。

 けれど、今はまだ、何も言わずにいよう。

 カエデが安心して眠っていられるように。

 アレルは、彼女を見守りながら、そっと目を閉じた。

 窓の外では、森の風が静かに吹き続けていた。
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