DQ3 夜明けの果てに君と

シャンパーニの塔、最上階。

 石造りの広間には、古びた木箱や樽がいくつも積み重なっていた。

 その中央に、大きな斧を肩に担いだ大男が立っている。

 緑色の頭巾に覆われた顔。その丸い目が、広間へ踏み込んできた三人を捉えた。

「へっへっへ……。まさか、ここまで追いかけてくるとはなあ」

 カンダタは、愉快そうに肩を揺らした。

「せっかく手に入れた金の冠だ。そう簡単に渡すわけにはいかねえな!」

「その冠はロマリアの王様のものだ。返してもらうぞ」

 アレルが剣を構える。

 その隣では、シオンが短剣を指先で回していた。

「話し合いで済ませる気はないらしいな」

「最初から、そのつもりだろ」

「違いねえ」

 カンダタが大斧を持ち上げた。

 それに合わせ、三人の子分たちも武器を構える。

 カエデは一歩後ろに下がり、広間を見回した。

 床には木箱の破片や樽が散らばっている。足場は決してよくない。積み重ねられた荷物の陰には、身を隠せそうな場所もあった。

 そして、カンダタたちの背後。

 床の一部に、周囲とはわずかに異なる継ぎ目が見えた。

「……みんな、床に気をつけて!」

 カエデの声に、アレルとシオンが一瞬だけ視線を向ける。

「そこの床、仕掛けがあるかもしれない。踏まない方がいいよ!」

「よく気づいたな」

 シオンは床を一瞥すると、すぐに位置を変えた。

 カンダタは、そんなカエデを見た。

「ほう。お嬢ちゃん、目ざといじゃねえか」

「えっ?」

「ただ後ろで見てるだけじゃねえってことか。いい目をしてるぜ」

 カンダタは斧を握り直した。

「だが、こっから先は危ねえぞ。巻き込まれねえようにしな!」

 乱暴な口調だったが、弱い者をいたぶるような響きはなかった。

 むしろ、これから始まる戦いを前にした警告に近い。

「……うん。気をつける」

 カエデは頷き、二人の動きを見守った。

「行くぞ!」

 アレルが地を蹴った。

 カンダタも同時に動く。

 大斧が、頭上から振り下ろされた。

 アレルは正面から受け止めず、身体を横へ滑らせた。斧の刃が石床をかすめ、足元の破片を跳ね上げる。

 その隙に、アレルの剣がカンダタの脇へ伸びた。

 しかし、カンダタは巨体に似合わぬ速さで身を引いた。刃は鎧をかすめるにとどまり、深くは届かない。

「おっと! なかなかやるじゃねえか!」

 カンダタは斧を横薙ぎに振るった。

 アレルは身を低くしてかわす。

 風圧が髪を揺らし、背後にあった木箱へ斧が叩きつけられた。

 木箱が砕け、板切れが広間に散らばる。

「アレル、足元!」

 カエデの声が飛ぶ。

 アレルは飛び散った破片を踏まないように踏み込み、カンダタの懐へ迫った。

 剣が閃く。

 今度は斧を持つ腕を狙った一撃だった。

 カンダタは柄を立てて受け止める。金属が擦れ、火花が散った。

「力だけじゃねえってわけか!」

「そっちこそ!」

 アレルは鍔迫り合いを長引かせなかった。

 力で競り合えば、体格に勝るカンダタが有利だ。アレルはすぐに剣を引き、相手の力が前へ流れた瞬間に横へ回り込む。

 だが、カンダタも一筋縄ではいかなかった。

 巨体をひねり、斧の柄でアレルの進路を塞ぐ。

 アレルは刃を受け流しながら距離を取った。

 互いに、一歩も譲らない。

 その一方で、シオンは三人の子分を相手にしていた。

 一人が正面から短剣を振り下ろし、もう一人が横から回り込む。残る一人は、カンダタの援護に回れる位置を保っていた。

 シオンは最初の一撃を短剣で受け流し、横から来た相手の腕を弾く。

 正面の子分が体勢を立て直すより早く、シオンは身を翻して距離を取った。

「ちょこまかと!」

 子分が追いすがる。

 シオンは後退しながら、わざと足元の崩れた場所へ相手を誘い込んだ。

 先ほどカエデが指摘した、床の仕掛け。

 子分は足元に注意を払う余裕もなく、シオンへ武器を振りかぶる。

 その足が、床の継ぎ目を踏んだ。

 足場が崩れ、子分の身体が傾く。

「うわっ――!」

 短い叫びとともに、子分の姿が床下へ消えた。

 シオンは落下した場所を一瞥し、短剣を構え直す。

「一人、脱落だな」

 淡々とした声だった。

「てめえ……!」

 残った子分たちが、怒りに任せて襲いかかる。

 シオンはその攻撃を受け流し、狭い通路へと誘導していった。

 力で押し切るのではなく、相手の動きを利用して一人ずつ崩す。

 その戦い方は、カンダタの豪快な攻撃とは対照的だった。

     * * *

 アレルは、再びカンダタと向き合っていた。

 大斧が、唸りを上げる。

 アレルは後ろへ跳んだ。

 背後には、崩れかけた木箱が積み上がっている。

 逃げ場を塞ぐつもりか。

 カエデがそう考えた瞬間、アレルは後退するのをやめた。

 砕けた木箱の残骸に足を掛け、身体を高く跳ね上げる。

「おおっ!?」

 カンダタが顔を上げた。

 アレルは空中で身体をひねり、斜め上から剣を振り下ろす。

 カンダタは反射的に斧を引き上げた。

 剣と斧が激突する。

 衝撃でカンダタの巨体がわずかに沈んだ。

 アレルはそのまま着地し、休む間もなく間合いを詰める。

 斧を振り上げるより早く、剣先がカンダタの胸元へ迫った。

 しかし、カンダタは身をひねって刃をかわす。

 剣が肩口を浅く切り裂いた。

「ぐっ……!」

 カンダタの丸い目が、わずかに細くなる。

「やるじゃねえか、小僧!」

「まだ終わってない!」

 アレルは踏み込んだ。

 カンダタが斧を振るう。アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜ける。

 大斧が空を切った。

 アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜く。

 カンダタは斧の柄で受け止めたが、衝撃で足元がわずかに揺れた。

「くそっ、素早いな!」

 カンダタは一歩後ろへ下がり、斧を握り直した。

 カエデは息を詰めて二人を見つめた。

 カンダタの攻撃は、一撃一撃が重い。まともに受ければ、剣ごと押し潰されかねない。

 対するアレルは、動きの速さと剣技でその力をいなしていた。

 けれど、少しずつ追い詰められているのも確かだった。

 カンダタの斧が、再び唸る。

 アレルは身をひねってかわし、斧の内側へ踏み込んだ。

 剣が閃く。

 しかし、今度は横から子分が飛び込んできた。

「親分、こっちだ!」

 アレルは咄嗟に剣の軌道を変え、その攻撃を弾く。

 ほんの一瞬、意識が逸れた。

 その隙を、カンダタは見逃さなかった。

 大斧が大きく振り上げられる。

「アレル、危ない!」

 カエデの声が飛ぶ。

 アレルは子分を退け、振り返ろうとした。

 だが、間に合わなかった。

 カンダタの一撃が、アレルの構えを真正面から打ち崩した。

 防御に回した剣が弾かれ、衝撃が腕から肩、そして全身へと突き抜ける。

 アレルの身体が横へ吹き飛ばされた。

 背中から積み上げられた木箱へ叩きつけられ、木箱が次々と崩れ落ちる。

 砕けた板が肩や背中を打ち、破片が石床へ散らばった。

 アレルはそのまま床へ落ちた。

 肺から空気が押し出され、息を吸おうとしても、胸の奥に鋭い痛みが走る。

 握っていた剣が、指先から滑り落ちた。

「アレル……?」

 カエデの声が、かすれた。

 アレルは剣を拾おうと手を伸ばした。

 しかし、腕に力が入らない。

 何とか上半身を起こしても、膝が震え、身体を支えきれなかった。

 その姿を、カンダタが見下ろしていた。

「へっ……。さっきまでの勢いはどこへ行った?」

 大斧を握り直す。

「まだ終わりじゃねえぞ!」

「待って!」

 カエデが叫ぶ。

 だが、カンダタは止まらなかった。

 アレルが剣を握り直すより早く、カンダタは大斧を高く振り上げた。

 渾身の力を込めた一撃。

 防御の姿勢を取ることさえ難しいアレルに、逃げ場はほとんどなかった。

 アレルは咄嗟に剣を持ち上げた。

 しかし、その腕は震えていた。

 斧の重さを受け止められる状態ではない。

 衝撃が身体を貫き、アレルは再び石床へ崩れ落ちた。

 剣が手から離れ、少し離れた場所へ滑っていく。

 息ができない。

 胸の奥が焼けるように痛む。

 身体を起こそうとしても、腕が言うことを聞かなかった。

 唇の端から、赤いものが一筋こぼれた。

「アレル!」

 血相を変えてこちら側に駆け寄ってきたカエデを、シオンが止める。

「来るな!!!」

 鈍い銀色の短剣が閃く。

 子分の武器を弾き、その懐へ踏み込むと、足を払って体勢を崩した。

 だが、もう一人の子分が横から襲いかかる。

 シオンは身をひねってかわしたものの、刃が腕をかすめた。

 彼の表情がわずかに険しくなる。

 戦況は、明らかに傾き始めていた。

 アレルは床に片膝をついたまま、剣へ手を伸ばしていた。

 指先が、柄に触れる。

 だが、握る力が戻らない。

 身体を起こそうとするたび、胸に激痛が走った。

 それでも、彼は剣を手放そうとしなかった。

「……まだ、だ」

 かすかな声だった。

 カンダタは斧を構え直す。

「おいおい、まだ立つ気か?」

 大斧の刃が、再びアレルへ向けられる。

 カエデの視界が滲んだ。

 アレルは、いつも前を向いている。

 危険なときも、苦しいときも、自分が先に立って仲間を守ろうとする。

 けれど、今は違う。

 立ち上がることさえ、苦しそうだった。

「……アレル」

 小さく名前を呼ぶ。

 涙が滲み、視界がぼやけた。

 泣いている場合じゃない。

 自分にできることを探さなければ。

 そう思うのに、目の前で傷ついた彼の姿から目を離せなかった。

 シオンも、子分たちを押さえきれなくなっていた。

 短剣で攻撃を弾きながらも、傷ついた腕の動きが鈍る。相手の一人を退けた直後、もう一人が死角から迫った。

 カエデは警告の声を上げようとした。

 だが、声が喉に詰まった。

 アレルは、剣を握ったまま動けない。

 シオンも、すぐに援護へ回れる状況ではない。

 カンダタは斧を振り上げ、アレルへ最後の一撃を放とうとしていた。

 もう、間に合わない。

 そう思った瞬間だった。

「おいおい、そいつは少々やりすぎじゃないかねえ!」

 広間の入り口から、声が響いた。

 カンダタが振り向く。

 そこには、木箱を抱えたダルクが立っていた。

「ダルク!?」

 カエデが驚きの声を上げる。

「よお、嬢ちゃん! ……って、こりゃあ、ずいぶん派手にやられてるじゃないか!」

 ダルクは状況を一目見て、すぐに走り出した。

「おらよっ!」

 抱えていた木箱を、カンダタへ向けて投げつける。

「なにっ!?」

 カンダタは咄嗟に斧を振るい、木箱を叩き落とした。

 木片が散る。

 その一瞬、斧の軌道が逸れた。

 アレルへ振り下ろされるはずだった一撃が、石床を深く削る。

「今のうちに!」

 ダルクが叫んだ。

 だが、アレルはすぐには立ち上がれなかった。カエデは、床に片膝をついた彼を涙ぐみながら固唾を呑んで見つめる。

 立ってほしい。

 でも、これ以上傷ついてほしくない。

 そんな矛盾した思いが胸の中でぶつかり合う。

 目の奥が熱くなった。

「……アレル」

 声が震えた。

 涙をこらえようとした。

 けれど、もう無理だった。

 目の前で、彼が倒れている。

 いつも頼もしく、自分たちを守ってくれる彼が、今は剣を握ることさえ苦しそうにしている。

 自分は、何もできない。

 その事実が、胸を締めつけた。

 アレルが、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先にいたのは、涙を浮かべたカエデだった。

 彼女は何かを言おうとしていた。

 けれど、声にならない。

 ただ、今にも泣き出しそうな顔で、アレルを見つめていた。

 アレルは一瞬だけ、その顔を見つめた。

 そして、視線を落とす。

 床に落ちた剣の柄を、強く握り直した。

 震える腕に力を込める。

 膝が軋むように痛んだ。

 それでも、片足を床につける。

 ゆっくりと、身体を起こしていく。

「……アレル?」

 カエデが息を呑んだ。

 アレルは立ち上がった。

 その姿は、先ほどまでのように軽やかではなかった。肩は大きく上下し、呼吸も乱れている。

 それでも、剣を構える姿勢には揺らぎがなかった。

 カンダタの丸い目が、アレルを捉える。

「おいおい……まだやる気か?」

「……ああ」

 アレルは剣先を向けた。

「まだ、終わってない」

 声は低く、静かだった。

 カエデは唇を噛んだ。

 立ち上がってほしいと思った。

 でも、こんな傷を負ったまま戦ってほしくなかった。

 それでも――剣を構え直したアレルの姿から、目を離すことができなかった。

 ダルクは懐から小さな袋を取り出した。

「商人だって、商売道具だけで戦うわけじゃないんでね!」

 袋の口を開き、中身を広間へ振りまく。

 淡い香りを放つ花びらが、空中を舞った。

ゆめみの花……!

 カエデが心の中で叫ぶ。

 花びらを浴びた子分の一人が、ふらりと足元を揺らした。

「な、なんだ……急に、眠……」

 そのまま床へ倒れ込む。

 もう一人も、武器を取り落として膝をついた。

「くそ……何を……」

 言い終える前に、深い眠りへと落ちていく。

「よし、これで少しは静かになったな!」

 ダルクは息をつき、すぐにシオンへ目を向けた。

「おい、兄ちゃん! そっちも片づいたぞ!」

「助かる」

 シオンは短く答え、眠った子分たちを確認してから短剣を収めた。

 そして、アレルとカンダタへ視線を戻す。

 アレルは、まだ剣を構えていた。

 傷ついた身体は限界に近い。

 それでも、目の前の相手から視線を逸らさなかった。

「……来い」

 アレルが告げた。

 カンダタは斧を握り直す。

「上等だ!」

 大斧が唸りを上げた。

 今度は、先ほどよりも大きく振りかぶっている。

 アレルは動かなかった。

 刃が迫る。

 その瞬間、身体をわずかに傾けた。

 斧の軌道が頬のすぐそばを通り過ぎる。

 アレルは後ろへ逃げず、斧の内側へ踏み込んだ。

「なっ……!」

 カンダタが反応するより早く、剣が斧の柄を打つ。

 握りがわずかに乱れた。

 アレルはその隙を逃さず、相手の懐へ滑り込む。

 斧を振り回すには近すぎる距離。

 カンダタは柄を引き戻そうとしたが、アレルの剣がその動きを阻んだ。

 肩口へ一撃。

 続いて、脇腹を狙う鋭い突き。

 カンダタは巨体をひねってかわすものの、今度は足元を狙われ、体勢を崩しかけた。

「くっ……!」

 大斧が横薙ぎに振るわれる。

 アレルは低く身をかがめ、砕けた木箱の破片を蹴って横へ移動した。

 斧が空を切る。

 アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜いた。

 刃がカンダタの腕を捉える。

 大斧を握る手が、一瞬だけ緩んだ。

「ぐおっ……!」

 カンダタは後退した。

 アレルは追いすがる。

 呼吸は乱れている。足取りにも、わずかなふらつきがある。

 それなのに、剣の軌道だけは少しも鈍っていなかった。

 カンダタが力任せに斧を振り下ろす。

 アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜けた。

 背後の樽が斧の一撃で砕け、木片が飛び散る。

 アレルはそれを避けながら、相手の懐へ戻った。

 剣が閃く。

 カンダタの肩が揺れ、巨体が一歩後ろへ下がる。

「こいつ……!」

 カンダタは斧を大きく振りかぶる。

 最後の力を込めたような一撃だった。

 アレルは逃げなかった。

 刃が振り下ろされる直前、相手の腕の動きを見極める。

 そして、紙一重で斧の軌道を外れた。

 大斧が石床を打ち、深い傷を刻む。

 その瞬間、アレルは踏み込んだ。

 剣が、カンダタの喉元へ突きつけられる。

 広間が静まり返った。

 カンダタは動かなかった。

 アレルの剣先が、わずかに揺れている。

 傷ついた身体は、もう限界に近かった。

 それでも、剣は確かにカンダタを捉えていた。

「……そこまでだ」

 アレルが告げた。

 カンダタはしばらく剣先を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。

「……参った、参った!」

 大斧を床へ置き、両手を上げる。

「金の冠は返すから許してくれよ! な!」

 アレルは剣を下ろさない。

「二度と、こんな真似はするな」

「わかった、わかったって!」

 カンダタは肩をすくめた。

 カエデは、ようやく詰めていた息を吐いた。

 終わった。

 そう思った瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。

「こいつらも連れて帰れよ。こんな場所に置いていくわけにはいかないだろう?」

 ダルクはいまだ眠り続けている2人の子分に指を指す。

「……へいへい。わかってるよ」

 カンダタは仕方ねぇなと小言を呟くと、アレルの剣先から距離を取り眠っている子分たちを肩に担いだ。

 やがて、金の冠がアレルへ投げ渡される。

「ほらよ。約束どおり返すぜ」

 アレルは冠を受け取ったが、緑色の覆面から目を離さない。

「この恩は忘れねえ!」

 カンダタはそう言い残すと外へ勢いよく飛び降り、夜の闇へと姿を消した。

「……行ったな」

 シオンが短剣を収めた。

 ダルクも、ようやく肩の力を抜いた。

「いやあ、間に合ってよかった。あの大男、ずいぶんな力だったな」

 誰も答えなかった。

 カエデは、アレルを見ていた。

 彼は剣を鞘に収めようとしていた。

 けれど、その手が止まる。

 指先から力が抜け、剣の柄を握ることができなくなっていた。

「……アレル?」

 アレルの身体が、ぐらりと傾いた。

 カエデが駆け出す。

「アレル!」

 間に合わなかった。

 アレルはその場に崩れ落ちた。

 剣が石床に落ち、乾いた音を立てる。

 同時に、手にしていた金の冠も指先から滑り落ち、石床を転がった。

 カエデは膝をつき、倒れた彼の身体を支えた。

「アレル、ねえ、アレル!」

 返事がない。

 顔色は悪く、呼吸も浅い。

 衣服の下から滲み出た血が、じわじわと広がっていた。

「そんな……」

 さっきまで、あれほど強く立っていたのに。

 カンダタを圧倒し、最後まで剣を手放さなかったのに。

 その彼が、今は目を閉じたまま、動かない。

「アレル……お願い、目を開けて……」

 カエデの声が震えた。

 涙が、頬を伝って落ちた。

「おい、しっかりしろ!」

 シオンがすぐにそばへ膝をつく。

 傷の状態を確認した彼の表情が、険しくなった。

「……深いな。早く手当てしないと危ない」

「俺が荷物を持つ! 外に馬車を用意してあるんだ!」

 ダルクが立ち上がった。

「急ごう。ここで休ませている場合じゃない!」

 カエデは何度も頷いた。

 震える手で、アレルの傷口を押さえる。

 自分にできることは、それくらいしかなかった。

 戦いの最中、彼がどれほど苦しかったのか。

 立ち上がったとき、どれほど無理をしていたのか。

 カエデには、今になってようやく実感できた。

 それでも、あのときのアレルは強かった。

 誰よりも強く、まっすぐで。

 だからこそ、こんなふうに倒れてしまった姿を見るのが、たまらなくつらかった。

 シオンは床に転がった金の冠を拾い上げ、表面についた埃を軽く払った。

 それから、アレルを支えるカエデへ声をかける。

「冠は俺が持っていく。お前はあいつを見ていろ」

 カエデはアレルの身体を支えたまま、小さく頷いた。

     * * *

 塔の外へ出ると、月明かりの下ボルドが馬車のそばで待っていた。

「おう! 無事だったか!」

 彼は三人の姿を見て笑顔を浮かべたが、すぐにアレルの様子に気づいた。

「おい、その怪我は……!」

「説明は後だ! すぐにカザーブへ戻るぞ!」

 シオンが短く告げる。

 ボルドの表情が引き締まった。

「わかった。早く乗せろ!」

 ダルクとシオンが協力し、アレルを慎重に馬車へ運び込む。

 カエデは彼の頭が揺れないように支えながら隣へ乗り込む。すると、目の前に金の冠が差し出された。

「これ、頼む」

シオンは自分の手から金の冠が離れると、カエデの隣に腰を下ろした。

「さすがにこれは勇者様の手柄だな。」

ロマリアの国宝。

アレルが命懸けで取り戻した戦果をそっと膝の上に置き、再び彼へ向き直る。

しばらく見つめていると、ロマリア王の勇気と無謀は違うという言葉が脳裏に蘇った。

……この戦いは、どっちだったんだろうか。

「アレル」

 呼びかけても、返事はない。

 カエデは彼の手をそっと握った。

 温もりは、まだ確かに残っている。

 それでも、不安は消えなかった。

 馬車の荷台が揺れ、ボルドが手綱を握り直す。

「出すぞ!」

 馬車が動き始めた。

 カエデはアレルの手を握ったまま、うつむいた。

 もっと何かできたのではないか。

 あのとき、彼が傷つくのを防げたのではないか。

 そんな思いが、胸の中で渦巻いていた。

 けれど、今はそれを口にしない。

 自分の後悔を話したところで、彼の傷が軽くなるわけではないから。

 カエデは握った手に、そっと力を込めた。

「……お願いだから、無事でいて」

 その声は、馬車の車輪が石畳を進む音にかき消されていった。

 シャンパーニの塔での戦いは終わった。

 金の冠も、取り戻した。

 それなのに、カエデの胸には、晴れない思いが残っていた。
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