DQ3 夜明けの果てに君と
シャンパーニの塔、最上階。
石造りの広間には、古びた木箱や樽がいくつも積み重なっていた。
その中央に、大きな斧を肩に担いだ大男が立っている。
緑色の頭巾に覆われた顔。その丸い目が、広間へ踏み込んできた三人を捉えた。
「へっへっへ……。まさか、ここまで追いかけてくるとはなあ」
カンダタは、愉快そうに肩を揺らした。
「せっかく手に入れた金の冠だ。そう簡単に渡すわけにはいかねえな!」
「その冠はロマリアの王様のものだ。返してもらうぞ」
アレルが剣を構える。
その隣では、シオンが短剣を指先で回していた。
「話し合いで済ませる気はないらしいな」
「最初から、そのつもりだろ」
「違いねえ」
カンダタが大斧を持ち上げた。
それに合わせ、三人の子分たちも武器を構える。
カエデは一歩後ろに下がり、広間を見回した。
床には木箱の破片や樽が散らばっている。足場は決してよくない。積み重ねられた荷物の陰には、身を隠せそうな場所もあった。
そして、カンダタたちの背後。
床の一部に、周囲とはわずかに異なる継ぎ目が見えた。
「……みんな、床に気をつけて!」
カエデの声に、アレルとシオンが一瞬だけ視線を向ける。
「そこの床、仕掛けがあるかもしれない。踏まない方がいいよ!」
「よく気づいたな」
シオンは床を一瞥すると、すぐに位置を変えた。
カンダタは、そんなカエデを見た。
「ほう。お嬢ちゃん、目ざといじゃねえか」
「えっ?」
「ただ後ろで見てるだけじゃねえってことか。いい目をしてるぜ」
カンダタは斧を握り直した。
「だが、こっから先は危ねえぞ。巻き込まれねえようにしな!」
乱暴な口調だったが、弱い者をいたぶるような響きはなかった。
むしろ、これから始まる戦いを前にした警告に近い。
「……うん。気をつける」
カエデは頷き、二人の動きを見守った。
「行くぞ!」
アレルが地を蹴った。
カンダタも同時に動く。
大斧が、頭上から振り下ろされた。
アレルは正面から受け止めず、身体を横へ滑らせた。斧の刃が石床をかすめ、足元の破片を跳ね上げる。
その隙に、アレルの剣がカンダタの脇へ伸びた。
しかし、カンダタは巨体に似合わぬ速さで身を引いた。刃は鎧をかすめるにとどまり、深くは届かない。
「おっと! なかなかやるじゃねえか!」
カンダタは斧を横薙ぎに振るった。
アレルは身を低くしてかわす。
風圧が髪を揺らし、背後にあった木箱へ斧が叩きつけられた。
木箱が砕け、板切れが広間に散らばる。
「アレル、足元!」
カエデの声が飛ぶ。
アレルは飛び散った破片を踏まないように踏み込み、カンダタの懐へ迫った。
剣が閃く。
今度は斧を持つ腕を狙った一撃だった。
カンダタは柄を立てて受け止める。金属が擦れ、火花が散った。
「力だけじゃねえってわけか!」
「そっちこそ!」
アレルは鍔迫り合いを長引かせなかった。
力で競り合えば、体格に勝るカンダタが有利だ。アレルはすぐに剣を引き、相手の力が前へ流れた瞬間に横へ回り込む。
だが、カンダタも一筋縄ではいかなかった。
巨体をひねり、斧の柄でアレルの進路を塞ぐ。
アレルは刃を受け流しながら距離を取った。
互いに、一歩も譲らない。
その一方で、シオンは三人の子分を相手にしていた。
一人が正面から短剣を振り下ろし、もう一人が横から回り込む。残る一人は、カンダタの援護に回れる位置を保っていた。
シオンは最初の一撃を短剣で受け流し、横から来た相手の腕を弾く。
正面の子分が体勢を立て直すより早く、シオンは身を翻して距離を取った。
「ちょこまかと!」
子分が追いすがる。
シオンは後退しながら、わざと足元の崩れた場所へ相手を誘い込んだ。
先ほどカエデが指摘した、床の仕掛け。
子分は足元に注意を払う余裕もなく、シオンへ武器を振りかぶる。
その足が、床の継ぎ目を踏んだ。
足場が崩れ、子分の身体が傾く。
「うわっ――!」
短い叫びとともに、子分の姿が床下へ消えた。
シオンは落下した場所を一瞥し、短剣を構え直す。
「一人、脱落だな」
淡々とした声だった。
「てめえ……!」
残った子分たちが、怒りに任せて襲いかかる。
シオンはその攻撃を受け流し、狭い通路へと誘導していった。
力で押し切るのではなく、相手の動きを利用して一人ずつ崩す。
その戦い方は、カンダタの豪快な攻撃とは対照的だった。
* * *
アレルは、再びカンダタと向き合っていた。
大斧が、唸りを上げる。
アレルは後ろへ跳んだ。
背後には、崩れかけた木箱が積み上がっている。
逃げ場を塞ぐつもりか。
カエデがそう考えた瞬間、アレルは後退するのをやめた。
砕けた木箱の残骸に足を掛け、身体を高く跳ね上げる。
「おおっ!?」
カンダタが顔を上げた。
アレルは空中で身体をひねり、斜め上から剣を振り下ろす。
カンダタは反射的に斧を引き上げた。
剣と斧が激突する。
衝撃でカンダタの巨体がわずかに沈んだ。
アレルはそのまま着地し、休む間もなく間合いを詰める。
斧を振り上げるより早く、剣先がカンダタの胸元へ迫った。
しかし、カンダタは身をひねって刃をかわす。
剣が肩口を浅く切り裂いた。
「ぐっ……!」
カンダタの丸い目が、わずかに細くなる。
「やるじゃねえか、小僧!」
「まだ終わってない!」
アレルは踏み込んだ。
カンダタが斧を振るう。アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜ける。
大斧が空を切った。
アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜く。
カンダタは斧の柄で受け止めたが、衝撃で足元がわずかに揺れた。
「くそっ、素早いな!」
カンダタは一歩後ろへ下がり、斧を握り直した。
カエデは息を詰めて二人を見つめた。
カンダタの攻撃は、一撃一撃が重い。まともに受ければ、剣ごと押し潰されかねない。
対するアレルは、動きの速さと剣技でその力をいなしていた。
けれど、少しずつ追い詰められているのも確かだった。
カンダタの斧が、再び唸る。
アレルは身をひねってかわし、斧の内側へ踏み込んだ。
剣が閃く。
しかし、今度は横から子分が飛び込んできた。
「親分、こっちだ!」
アレルは咄嗟に剣の軌道を変え、その攻撃を弾く。
ほんの一瞬、意識が逸れた。
その隙を、カンダタは見逃さなかった。
大斧が大きく振り上げられる。
「アレル、危ない!」
カエデの声が飛ぶ。
アレルは子分を退け、振り返ろうとした。
だが、間に合わなかった。
カンダタの一撃が、アレルの構えを真正面から打ち崩した。
防御に回した剣が弾かれ、衝撃が腕から肩、そして全身へと突き抜ける。
アレルの身体が横へ吹き飛ばされた。
背中から積み上げられた木箱へ叩きつけられ、木箱が次々と崩れ落ちる。
砕けた板が肩や背中を打ち、破片が石床へ散らばった。
アレルはそのまま床へ落ちた。
肺から空気が押し出され、息を吸おうとしても、胸の奥に鋭い痛みが走る。
握っていた剣が、指先から滑り落ちた。
「アレル……?」
カエデの声が、かすれた。
アレルは剣を拾おうと手を伸ばした。
しかし、腕に力が入らない。
何とか上半身を起こしても、膝が震え、身体を支えきれなかった。
その姿を、カンダタが見下ろしていた。
「へっ……。さっきまでの勢いはどこへ行った?」
大斧を握り直す。
「まだ終わりじゃねえぞ!」
「待って!」
カエデが叫ぶ。
だが、カンダタは止まらなかった。
アレルが剣を握り直すより早く、カンダタは大斧を高く振り上げた。
渾身の力を込めた一撃。
防御の姿勢を取ることさえ難しいアレルに、逃げ場はほとんどなかった。
アレルは咄嗟に剣を持ち上げた。
しかし、その腕は震えていた。
斧の重さを受け止められる状態ではない。
衝撃が身体を貫き、アレルは再び石床へ崩れ落ちた。
剣が手から離れ、少し離れた場所へ滑っていく。
息ができない。
胸の奥が焼けるように痛む。
身体を起こそうとしても、腕が言うことを聞かなかった。
唇の端から、赤いものが一筋こぼれた。
「アレル!」
血相を変えてこちら側に駆け寄ってきたカエデを、シオンが止める。
「来るな!!!」
鈍い銀色の短剣が閃く。
子分の武器を弾き、その懐へ踏み込むと、足を払って体勢を崩した。
だが、もう一人の子分が横から襲いかかる。
シオンは身をひねってかわしたものの、刃が腕をかすめた。
彼の表情がわずかに険しくなる。
戦況は、明らかに傾き始めていた。
アレルは床に片膝をついたまま、剣へ手を伸ばしていた。
指先が、柄に触れる。
だが、握る力が戻らない。
身体を起こそうとするたび、胸に激痛が走った。
それでも、彼は剣を手放そうとしなかった。
「……まだ、だ」
かすかな声だった。
カンダタは斧を構え直す。
「おいおい、まだ立つ気か?」
大斧の刃が、再びアレルへ向けられる。
カエデの視界が滲んだ。
アレルは、いつも前を向いている。
危険なときも、苦しいときも、自分が先に立って仲間を守ろうとする。
けれど、今は違う。
立ち上がることさえ、苦しそうだった。
「……アレル」
小さく名前を呼ぶ。
涙が滲み、視界がぼやけた。
泣いている場合じゃない。
自分にできることを探さなければ。
そう思うのに、目の前で傷ついた彼の姿から目を離せなかった。
シオンも、子分たちを押さえきれなくなっていた。
短剣で攻撃を弾きながらも、傷ついた腕の動きが鈍る。相手の一人を退けた直後、もう一人が死角から迫った。
カエデは警告の声を上げようとした。
だが、声が喉に詰まった。
アレルは、剣を握ったまま動けない。
シオンも、すぐに援護へ回れる状況ではない。
カンダタは斧を振り上げ、アレルへ最後の一撃を放とうとしていた。
もう、間に合わない。
そう思った瞬間だった。
「おいおい、そいつは少々やりすぎじゃないかねえ!」
広間の入り口から、声が響いた。
カンダタが振り向く。
そこには、木箱を抱えたダルクが立っていた。
「ダルク!?」
カエデが驚きの声を上げる。
「よお、嬢ちゃん! ……って、こりゃあ、ずいぶん派手にやられてるじゃないか!」
ダルクは状況を一目見て、すぐに走り出した。
「おらよっ!」
抱えていた木箱を、カンダタへ向けて投げつける。
「なにっ!?」
カンダタは咄嗟に斧を振るい、木箱を叩き落とした。
木片が散る。
その一瞬、斧の軌道が逸れた。
アレルへ振り下ろされるはずだった一撃が、石床を深く削る。
「今のうちに!」
ダルクが叫んだ。
だが、アレルはすぐには立ち上がれなかった。カエデは、床に片膝をついた彼を涙ぐみながら固唾を呑んで見つめる。
立ってほしい。
でも、これ以上傷ついてほしくない。
そんな矛盾した思いが胸の中でぶつかり合う。
目の奥が熱くなった。
「……アレル」
声が震えた。
涙をこらえようとした。
けれど、もう無理だった。
目の前で、彼が倒れている。
いつも頼もしく、自分たちを守ってくれる彼が、今は剣を握ることさえ苦しそうにしている。
自分は、何もできない。
その事実が、胸を締めつけた。
アレルが、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にいたのは、涙を浮かべたカエデだった。
彼女は何かを言おうとしていた。
けれど、声にならない。
ただ、今にも泣き出しそうな顔で、アレルを見つめていた。
アレルは一瞬だけ、その顔を見つめた。
そして、視線を落とす。
床に落ちた剣の柄を、強く握り直した。
震える腕に力を込める。
膝が軋むように痛んだ。
それでも、片足を床につける。
ゆっくりと、身体を起こしていく。
「……アレル?」
カエデが息を呑んだ。
アレルは立ち上がった。
その姿は、先ほどまでのように軽やかではなかった。肩は大きく上下し、呼吸も乱れている。
それでも、剣を構える姿勢には揺らぎがなかった。
カンダタの丸い目が、アレルを捉える。
「おいおい……まだやる気か?」
「……ああ」
アレルは剣先を向けた。
「まだ、終わってない」
声は低く、静かだった。
カエデは唇を噛んだ。
立ち上がってほしいと思った。
でも、こんな傷を負ったまま戦ってほしくなかった。
それでも――剣を構え直したアレルの姿から、目を離すことができなかった。
ダルクは懐から小さな袋を取り出した。
「商人だって、商売道具だけで戦うわけじゃないんでね!」
袋の口を開き、中身を広間へ振りまく。
淡い香りを放つ花びらが、空中を舞った。
ゆめみの花……!
カエデが心の中で叫ぶ。
花びらを浴びた子分の一人が、ふらりと足元を揺らした。
「な、なんだ……急に、眠……」
そのまま床へ倒れ込む。
もう一人も、武器を取り落として膝をついた。
「くそ……何を……」
言い終える前に、深い眠りへと落ちていく。
「よし、これで少しは静かになったな!」
ダルクは息をつき、すぐにシオンへ目を向けた。
「おい、兄ちゃん! そっちも片づいたぞ!」
「助かる」
シオンは短く答え、眠った子分たちを確認してから短剣を収めた。
そして、アレルとカンダタへ視線を戻す。
アレルは、まだ剣を構えていた。
傷ついた身体は限界に近い。
それでも、目の前の相手から視線を逸らさなかった。
「……来い」
アレルが告げた。
カンダタは斧を握り直す。
「上等だ!」
大斧が唸りを上げた。
今度は、先ほどよりも大きく振りかぶっている。
アレルは動かなかった。
刃が迫る。
その瞬間、身体をわずかに傾けた。
斧の軌道が頬のすぐそばを通り過ぎる。
アレルは後ろへ逃げず、斧の内側へ踏み込んだ。
「なっ……!」
カンダタが反応するより早く、剣が斧の柄を打つ。
握りがわずかに乱れた。
アレルはその隙を逃さず、相手の懐へ滑り込む。
斧を振り回すには近すぎる距離。
カンダタは柄を引き戻そうとしたが、アレルの剣がその動きを阻んだ。
肩口へ一撃。
続いて、脇腹を狙う鋭い突き。
カンダタは巨体をひねってかわすものの、今度は足元を狙われ、体勢を崩しかけた。
「くっ……!」
大斧が横薙ぎに振るわれる。
アレルは低く身をかがめ、砕けた木箱の破片を蹴って横へ移動した。
斧が空を切る。
アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜いた。
刃がカンダタの腕を捉える。
大斧を握る手が、一瞬だけ緩んだ。
「ぐおっ……!」
カンダタは後退した。
アレルは追いすがる。
呼吸は乱れている。足取りにも、わずかなふらつきがある。
それなのに、剣の軌道だけは少しも鈍っていなかった。
カンダタが力任せに斧を振り下ろす。
アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜けた。
背後の樽が斧の一撃で砕け、木片が飛び散る。
アレルはそれを避けながら、相手の懐へ戻った。
剣が閃く。
カンダタの肩が揺れ、巨体が一歩後ろへ下がる。
「こいつ……!」
カンダタは斧を大きく振りかぶる。
最後の力を込めたような一撃だった。
アレルは逃げなかった。
刃が振り下ろされる直前、相手の腕の動きを見極める。
そして、紙一重で斧の軌道を外れた。
大斧が石床を打ち、深い傷を刻む。
その瞬間、アレルは踏み込んだ。
剣が、カンダタの喉元へ突きつけられる。
広間が静まり返った。
カンダタは動かなかった。
アレルの剣先が、わずかに揺れている。
傷ついた身体は、もう限界に近かった。
それでも、剣は確かにカンダタを捉えていた。
「……そこまでだ」
アレルが告げた。
カンダタはしばらく剣先を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……参った、参った!」
大斧を床へ置き、両手を上げる。
「金の冠は返すから許してくれよ! な!」
アレルは剣を下ろさない。
「二度と、こんな真似はするな」
「わかった、わかったって!」
カンダタは肩をすくめた。
カエデは、ようやく詰めていた息を吐いた。
終わった。
そう思った瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。
「こいつらも連れて帰れよ。こんな場所に置いていくわけにはいかないだろう?」
ダルクはいまだ眠り続けている2人の子分に指を指す。
「……へいへい。わかってるよ」
カンダタは仕方ねぇなと小言を呟くと、アレルの剣先から距離を取り眠っている子分たちを肩に担いだ。
やがて、金の冠がアレルへ投げ渡される。
「ほらよ。約束どおり返すぜ」
アレルは冠を受け取ったが、緑色の覆面から目を離さない。
「この恩は忘れねえ!」
カンダタはそう言い残すと外へ勢いよく飛び降り、夜の闇へと姿を消した。
「……行ったな」
シオンが短剣を収めた。
ダルクも、ようやく肩の力を抜いた。
「いやあ、間に合ってよかった。あの大男、ずいぶんな力だったな」
誰も答えなかった。
カエデは、アレルを見ていた。
彼は剣を鞘に収めようとしていた。
けれど、その手が止まる。
指先から力が抜け、剣の柄を握ることができなくなっていた。
「……アレル?」
アレルの身体が、ぐらりと傾いた。
カエデが駆け出す。
「アレル!」
間に合わなかった。
アレルはその場に崩れ落ちた。
剣が石床に落ち、乾いた音を立てる。
同時に、手にしていた金の冠も指先から滑り落ち、石床を転がった。
カエデは膝をつき、倒れた彼の身体を支えた。
「アレル、ねえ、アレル!」
返事がない。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
衣服の下から滲み出た血が、じわじわと広がっていた。
「そんな……」
さっきまで、あれほど強く立っていたのに。
カンダタを圧倒し、最後まで剣を手放さなかったのに。
その彼が、今は目を閉じたまま、動かない。
「アレル……お願い、目を開けて……」
カエデの声が震えた。
涙が、頬を伝って落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
シオンがすぐにそばへ膝をつく。
傷の状態を確認した彼の表情が、険しくなった。
「……深いな。早く手当てしないと危ない」
「俺が荷物を持つ! 外に馬車を用意してあるんだ!」
ダルクが立ち上がった。
「急ごう。ここで休ませている場合じゃない!」
カエデは何度も頷いた。
震える手で、アレルの傷口を押さえる。
自分にできることは、それくらいしかなかった。
戦いの最中、彼がどれほど苦しかったのか。
立ち上がったとき、どれほど無理をしていたのか。
カエデには、今になってようやく実感できた。
それでも、あのときのアレルは強かった。
誰よりも強く、まっすぐで。
だからこそ、こんなふうに倒れてしまった姿を見るのが、たまらなくつらかった。
シオンは床に転がった金の冠を拾い上げ、表面についた埃を軽く払った。
それから、アレルを支えるカエデへ声をかける。
「冠は俺が持っていく。お前はあいつを見ていろ」
カエデはアレルの身体を支えたまま、小さく頷いた。
* * *
塔の外へ出ると、月明かりの下ボルドが馬車のそばで待っていた。
「おう! 無事だったか!」
彼は三人の姿を見て笑顔を浮かべたが、すぐにアレルの様子に気づいた。
「おい、その怪我は……!」
「説明は後だ! すぐにカザーブへ戻るぞ!」
シオンが短く告げる。
ボルドの表情が引き締まった。
「わかった。早く乗せろ!」
ダルクとシオンが協力し、アレルを慎重に馬車へ運び込む。
カエデは彼の頭が揺れないように支えながら隣へ乗り込む。すると、目の前に金の冠が差し出された。
「これ、頼む」
シオンは自分の手から金の冠が離れると、カエデの隣に腰を下ろした。
「さすがにこれは勇者様の手柄だな。」
ロマリアの国宝。
アレルが命懸けで取り戻した戦果をそっと膝の上に置き、再び彼へ向き直る。
しばらく見つめていると、ロマリア王の勇気と無謀は違うという言葉が脳裏に蘇った。
……この戦いは、どっちだったんだろうか。
「アレル」
呼びかけても、返事はない。
カエデは彼の手をそっと握った。
温もりは、まだ確かに残っている。
それでも、不安は消えなかった。
馬車の荷台が揺れ、ボルドが手綱を握り直す。
「出すぞ!」
馬車が動き始めた。
カエデはアレルの手を握ったまま、うつむいた。
もっと何かできたのではないか。
あのとき、彼が傷つくのを防げたのではないか。
そんな思いが、胸の中で渦巻いていた。
けれど、今はそれを口にしない。
自分の後悔を話したところで、彼の傷が軽くなるわけではないから。
カエデは握った手に、そっと力を込めた。
「……お願いだから、無事でいて」
その声は、馬車の車輪が石畳を進む音にかき消されていった。
シャンパーニの塔での戦いは終わった。
金の冠も、取り戻した。
それなのに、カエデの胸には、晴れない思いが残っていた。
石造りの広間には、古びた木箱や樽がいくつも積み重なっていた。
その中央に、大きな斧を肩に担いだ大男が立っている。
緑色の頭巾に覆われた顔。その丸い目が、広間へ踏み込んできた三人を捉えた。
「へっへっへ……。まさか、ここまで追いかけてくるとはなあ」
カンダタは、愉快そうに肩を揺らした。
「せっかく手に入れた金の冠だ。そう簡単に渡すわけにはいかねえな!」
「その冠はロマリアの王様のものだ。返してもらうぞ」
アレルが剣を構える。
その隣では、シオンが短剣を指先で回していた。
「話し合いで済ませる気はないらしいな」
「最初から、そのつもりだろ」
「違いねえ」
カンダタが大斧を持ち上げた。
それに合わせ、三人の子分たちも武器を構える。
カエデは一歩後ろに下がり、広間を見回した。
床には木箱の破片や樽が散らばっている。足場は決してよくない。積み重ねられた荷物の陰には、身を隠せそうな場所もあった。
そして、カンダタたちの背後。
床の一部に、周囲とはわずかに異なる継ぎ目が見えた。
「……みんな、床に気をつけて!」
カエデの声に、アレルとシオンが一瞬だけ視線を向ける。
「そこの床、仕掛けがあるかもしれない。踏まない方がいいよ!」
「よく気づいたな」
シオンは床を一瞥すると、すぐに位置を変えた。
カンダタは、そんなカエデを見た。
「ほう。お嬢ちゃん、目ざといじゃねえか」
「えっ?」
「ただ後ろで見てるだけじゃねえってことか。いい目をしてるぜ」
カンダタは斧を握り直した。
「だが、こっから先は危ねえぞ。巻き込まれねえようにしな!」
乱暴な口調だったが、弱い者をいたぶるような響きはなかった。
むしろ、これから始まる戦いを前にした警告に近い。
「……うん。気をつける」
カエデは頷き、二人の動きを見守った。
「行くぞ!」
アレルが地を蹴った。
カンダタも同時に動く。
大斧が、頭上から振り下ろされた。
アレルは正面から受け止めず、身体を横へ滑らせた。斧の刃が石床をかすめ、足元の破片を跳ね上げる。
その隙に、アレルの剣がカンダタの脇へ伸びた。
しかし、カンダタは巨体に似合わぬ速さで身を引いた。刃は鎧をかすめるにとどまり、深くは届かない。
「おっと! なかなかやるじゃねえか!」
カンダタは斧を横薙ぎに振るった。
アレルは身を低くしてかわす。
風圧が髪を揺らし、背後にあった木箱へ斧が叩きつけられた。
木箱が砕け、板切れが広間に散らばる。
「アレル、足元!」
カエデの声が飛ぶ。
アレルは飛び散った破片を踏まないように踏み込み、カンダタの懐へ迫った。
剣が閃く。
今度は斧を持つ腕を狙った一撃だった。
カンダタは柄を立てて受け止める。金属が擦れ、火花が散った。
「力だけじゃねえってわけか!」
「そっちこそ!」
アレルは鍔迫り合いを長引かせなかった。
力で競り合えば、体格に勝るカンダタが有利だ。アレルはすぐに剣を引き、相手の力が前へ流れた瞬間に横へ回り込む。
だが、カンダタも一筋縄ではいかなかった。
巨体をひねり、斧の柄でアレルの進路を塞ぐ。
アレルは刃を受け流しながら距離を取った。
互いに、一歩も譲らない。
その一方で、シオンは三人の子分を相手にしていた。
一人が正面から短剣を振り下ろし、もう一人が横から回り込む。残る一人は、カンダタの援護に回れる位置を保っていた。
シオンは最初の一撃を短剣で受け流し、横から来た相手の腕を弾く。
正面の子分が体勢を立て直すより早く、シオンは身を翻して距離を取った。
「ちょこまかと!」
子分が追いすがる。
シオンは後退しながら、わざと足元の崩れた場所へ相手を誘い込んだ。
先ほどカエデが指摘した、床の仕掛け。
子分は足元に注意を払う余裕もなく、シオンへ武器を振りかぶる。
その足が、床の継ぎ目を踏んだ。
足場が崩れ、子分の身体が傾く。
「うわっ――!」
短い叫びとともに、子分の姿が床下へ消えた。
シオンは落下した場所を一瞥し、短剣を構え直す。
「一人、脱落だな」
淡々とした声だった。
「てめえ……!」
残った子分たちが、怒りに任せて襲いかかる。
シオンはその攻撃を受け流し、狭い通路へと誘導していった。
力で押し切るのではなく、相手の動きを利用して一人ずつ崩す。
その戦い方は、カンダタの豪快な攻撃とは対照的だった。
* * *
アレルは、再びカンダタと向き合っていた。
大斧が、唸りを上げる。
アレルは後ろへ跳んだ。
背後には、崩れかけた木箱が積み上がっている。
逃げ場を塞ぐつもりか。
カエデがそう考えた瞬間、アレルは後退するのをやめた。
砕けた木箱の残骸に足を掛け、身体を高く跳ね上げる。
「おおっ!?」
カンダタが顔を上げた。
アレルは空中で身体をひねり、斜め上から剣を振り下ろす。
カンダタは反射的に斧を引き上げた。
剣と斧が激突する。
衝撃でカンダタの巨体がわずかに沈んだ。
アレルはそのまま着地し、休む間もなく間合いを詰める。
斧を振り上げるより早く、剣先がカンダタの胸元へ迫った。
しかし、カンダタは身をひねって刃をかわす。
剣が肩口を浅く切り裂いた。
「ぐっ……!」
カンダタの丸い目が、わずかに細くなる。
「やるじゃねえか、小僧!」
「まだ終わってない!」
アレルは踏み込んだ。
カンダタが斧を振るう。アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜ける。
大斧が空を切った。
アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜く。
カンダタは斧の柄で受け止めたが、衝撃で足元がわずかに揺れた。
「くそっ、素早いな!」
カンダタは一歩後ろへ下がり、斧を握り直した。
カエデは息を詰めて二人を見つめた。
カンダタの攻撃は、一撃一撃が重い。まともに受ければ、剣ごと押し潰されかねない。
対するアレルは、動きの速さと剣技でその力をいなしていた。
けれど、少しずつ追い詰められているのも確かだった。
カンダタの斧が、再び唸る。
アレルは身をひねってかわし、斧の内側へ踏み込んだ。
剣が閃く。
しかし、今度は横から子分が飛び込んできた。
「親分、こっちだ!」
アレルは咄嗟に剣の軌道を変え、その攻撃を弾く。
ほんの一瞬、意識が逸れた。
その隙を、カンダタは見逃さなかった。
大斧が大きく振り上げられる。
「アレル、危ない!」
カエデの声が飛ぶ。
アレルは子分を退け、振り返ろうとした。
だが、間に合わなかった。
カンダタの一撃が、アレルの構えを真正面から打ち崩した。
防御に回した剣が弾かれ、衝撃が腕から肩、そして全身へと突き抜ける。
アレルの身体が横へ吹き飛ばされた。
背中から積み上げられた木箱へ叩きつけられ、木箱が次々と崩れ落ちる。
砕けた板が肩や背中を打ち、破片が石床へ散らばった。
アレルはそのまま床へ落ちた。
肺から空気が押し出され、息を吸おうとしても、胸の奥に鋭い痛みが走る。
握っていた剣が、指先から滑り落ちた。
「アレル……?」
カエデの声が、かすれた。
アレルは剣を拾おうと手を伸ばした。
しかし、腕に力が入らない。
何とか上半身を起こしても、膝が震え、身体を支えきれなかった。
その姿を、カンダタが見下ろしていた。
「へっ……。さっきまでの勢いはどこへ行った?」
大斧を握り直す。
「まだ終わりじゃねえぞ!」
「待って!」
カエデが叫ぶ。
だが、カンダタは止まらなかった。
アレルが剣を握り直すより早く、カンダタは大斧を高く振り上げた。
渾身の力を込めた一撃。
防御の姿勢を取ることさえ難しいアレルに、逃げ場はほとんどなかった。
アレルは咄嗟に剣を持ち上げた。
しかし、その腕は震えていた。
斧の重さを受け止められる状態ではない。
衝撃が身体を貫き、アレルは再び石床へ崩れ落ちた。
剣が手から離れ、少し離れた場所へ滑っていく。
息ができない。
胸の奥が焼けるように痛む。
身体を起こそうとしても、腕が言うことを聞かなかった。
唇の端から、赤いものが一筋こぼれた。
「アレル!」
血相を変えてこちら側に駆け寄ってきたカエデを、シオンが止める。
「来るな!!!」
鈍い銀色の短剣が閃く。
子分の武器を弾き、その懐へ踏み込むと、足を払って体勢を崩した。
だが、もう一人の子分が横から襲いかかる。
シオンは身をひねってかわしたものの、刃が腕をかすめた。
彼の表情がわずかに険しくなる。
戦況は、明らかに傾き始めていた。
アレルは床に片膝をついたまま、剣へ手を伸ばしていた。
指先が、柄に触れる。
だが、握る力が戻らない。
身体を起こそうとするたび、胸に激痛が走った。
それでも、彼は剣を手放そうとしなかった。
「……まだ、だ」
かすかな声だった。
カンダタは斧を構え直す。
「おいおい、まだ立つ気か?」
大斧の刃が、再びアレルへ向けられる。
カエデの視界が滲んだ。
アレルは、いつも前を向いている。
危険なときも、苦しいときも、自分が先に立って仲間を守ろうとする。
けれど、今は違う。
立ち上がることさえ、苦しそうだった。
「……アレル」
小さく名前を呼ぶ。
涙が滲み、視界がぼやけた。
泣いている場合じゃない。
自分にできることを探さなければ。
そう思うのに、目の前で傷ついた彼の姿から目を離せなかった。
シオンも、子分たちを押さえきれなくなっていた。
短剣で攻撃を弾きながらも、傷ついた腕の動きが鈍る。相手の一人を退けた直後、もう一人が死角から迫った。
カエデは警告の声を上げようとした。
だが、声が喉に詰まった。
アレルは、剣を握ったまま動けない。
シオンも、すぐに援護へ回れる状況ではない。
カンダタは斧を振り上げ、アレルへ最後の一撃を放とうとしていた。
もう、間に合わない。
そう思った瞬間だった。
「おいおい、そいつは少々やりすぎじゃないかねえ!」
広間の入り口から、声が響いた。
カンダタが振り向く。
そこには、木箱を抱えたダルクが立っていた。
「ダルク!?」
カエデが驚きの声を上げる。
「よお、嬢ちゃん! ……って、こりゃあ、ずいぶん派手にやられてるじゃないか!」
ダルクは状況を一目見て、すぐに走り出した。
「おらよっ!」
抱えていた木箱を、カンダタへ向けて投げつける。
「なにっ!?」
カンダタは咄嗟に斧を振るい、木箱を叩き落とした。
木片が散る。
その一瞬、斧の軌道が逸れた。
アレルへ振り下ろされるはずだった一撃が、石床を深く削る。
「今のうちに!」
ダルクが叫んだ。
だが、アレルはすぐには立ち上がれなかった。カエデは、床に片膝をついた彼を涙ぐみながら固唾を呑んで見つめる。
立ってほしい。
でも、これ以上傷ついてほしくない。
そんな矛盾した思いが胸の中でぶつかり合う。
目の奥が熱くなった。
「……アレル」
声が震えた。
涙をこらえようとした。
けれど、もう無理だった。
目の前で、彼が倒れている。
いつも頼もしく、自分たちを守ってくれる彼が、今は剣を握ることさえ苦しそうにしている。
自分は、何もできない。
その事実が、胸を締めつけた。
アレルが、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にいたのは、涙を浮かべたカエデだった。
彼女は何かを言おうとしていた。
けれど、声にならない。
ただ、今にも泣き出しそうな顔で、アレルを見つめていた。
アレルは一瞬だけ、その顔を見つめた。
そして、視線を落とす。
床に落ちた剣の柄を、強く握り直した。
震える腕に力を込める。
膝が軋むように痛んだ。
それでも、片足を床につける。
ゆっくりと、身体を起こしていく。
「……アレル?」
カエデが息を呑んだ。
アレルは立ち上がった。
その姿は、先ほどまでのように軽やかではなかった。肩は大きく上下し、呼吸も乱れている。
それでも、剣を構える姿勢には揺らぎがなかった。
カンダタの丸い目が、アレルを捉える。
「おいおい……まだやる気か?」
「……ああ」
アレルは剣先を向けた。
「まだ、終わってない」
声は低く、静かだった。
カエデは唇を噛んだ。
立ち上がってほしいと思った。
でも、こんな傷を負ったまま戦ってほしくなかった。
それでも――剣を構え直したアレルの姿から、目を離すことができなかった。
ダルクは懐から小さな袋を取り出した。
「商人だって、商売道具だけで戦うわけじゃないんでね!」
袋の口を開き、中身を広間へ振りまく。
淡い香りを放つ花びらが、空中を舞った。
ゆめみの花……!
カエデが心の中で叫ぶ。
花びらを浴びた子分の一人が、ふらりと足元を揺らした。
「な、なんだ……急に、眠……」
そのまま床へ倒れ込む。
もう一人も、武器を取り落として膝をついた。
「くそ……何を……」
言い終える前に、深い眠りへと落ちていく。
「よし、これで少しは静かになったな!」
ダルクは息をつき、すぐにシオンへ目を向けた。
「おい、兄ちゃん! そっちも片づいたぞ!」
「助かる」
シオンは短く答え、眠った子分たちを確認してから短剣を収めた。
そして、アレルとカンダタへ視線を戻す。
アレルは、まだ剣を構えていた。
傷ついた身体は限界に近い。
それでも、目の前の相手から視線を逸らさなかった。
「……来い」
アレルが告げた。
カンダタは斧を握り直す。
「上等だ!」
大斧が唸りを上げた。
今度は、先ほどよりも大きく振りかぶっている。
アレルは動かなかった。
刃が迫る。
その瞬間、身体をわずかに傾けた。
斧の軌道が頬のすぐそばを通り過ぎる。
アレルは後ろへ逃げず、斧の内側へ踏み込んだ。
「なっ……!」
カンダタが反応するより早く、剣が斧の柄を打つ。
握りがわずかに乱れた。
アレルはその隙を逃さず、相手の懐へ滑り込む。
斧を振り回すには近すぎる距離。
カンダタは柄を引き戻そうとしたが、アレルの剣がその動きを阻んだ。
肩口へ一撃。
続いて、脇腹を狙う鋭い突き。
カンダタは巨体をひねってかわすものの、今度は足元を狙われ、体勢を崩しかけた。
「くっ……!」
大斧が横薙ぎに振るわれる。
アレルは低く身をかがめ、砕けた木箱の破片を蹴って横へ移動した。
斧が空を切る。
アレルは振り返る動きに合わせて剣を振り抜いた。
刃がカンダタの腕を捉える。
大斧を握る手が、一瞬だけ緩んだ。
「ぐおっ……!」
カンダタは後退した。
アレルは追いすがる。
呼吸は乱れている。足取りにも、わずかなふらつきがある。
それなのに、剣の軌道だけは少しも鈍っていなかった。
カンダタが力任せに斧を振り下ろす。
アレルは刃を受け流し、その勢いを利用して横へ抜けた。
背後の樽が斧の一撃で砕け、木片が飛び散る。
アレルはそれを避けながら、相手の懐へ戻った。
剣が閃く。
カンダタの肩が揺れ、巨体が一歩後ろへ下がる。
「こいつ……!」
カンダタは斧を大きく振りかぶる。
最後の力を込めたような一撃だった。
アレルは逃げなかった。
刃が振り下ろされる直前、相手の腕の動きを見極める。
そして、紙一重で斧の軌道を外れた。
大斧が石床を打ち、深い傷を刻む。
その瞬間、アレルは踏み込んだ。
剣が、カンダタの喉元へ突きつけられる。
広間が静まり返った。
カンダタは動かなかった。
アレルの剣先が、わずかに揺れている。
傷ついた身体は、もう限界に近かった。
それでも、剣は確かにカンダタを捉えていた。
「……そこまでだ」
アレルが告げた。
カンダタはしばらく剣先を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……参った、参った!」
大斧を床へ置き、両手を上げる。
「金の冠は返すから許してくれよ! な!」
アレルは剣を下ろさない。
「二度と、こんな真似はするな」
「わかった、わかったって!」
カンダタは肩をすくめた。
カエデは、ようやく詰めていた息を吐いた。
終わった。
そう思った瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。
「こいつらも連れて帰れよ。こんな場所に置いていくわけにはいかないだろう?」
ダルクはいまだ眠り続けている2人の子分に指を指す。
「……へいへい。わかってるよ」
カンダタは仕方ねぇなと小言を呟くと、アレルの剣先から距離を取り眠っている子分たちを肩に担いだ。
やがて、金の冠がアレルへ投げ渡される。
「ほらよ。約束どおり返すぜ」
アレルは冠を受け取ったが、緑色の覆面から目を離さない。
「この恩は忘れねえ!」
カンダタはそう言い残すと外へ勢いよく飛び降り、夜の闇へと姿を消した。
「……行ったな」
シオンが短剣を収めた。
ダルクも、ようやく肩の力を抜いた。
「いやあ、間に合ってよかった。あの大男、ずいぶんな力だったな」
誰も答えなかった。
カエデは、アレルを見ていた。
彼は剣を鞘に収めようとしていた。
けれど、その手が止まる。
指先から力が抜け、剣の柄を握ることができなくなっていた。
「……アレル?」
アレルの身体が、ぐらりと傾いた。
カエデが駆け出す。
「アレル!」
間に合わなかった。
アレルはその場に崩れ落ちた。
剣が石床に落ち、乾いた音を立てる。
同時に、手にしていた金の冠も指先から滑り落ち、石床を転がった。
カエデは膝をつき、倒れた彼の身体を支えた。
「アレル、ねえ、アレル!」
返事がない。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
衣服の下から滲み出た血が、じわじわと広がっていた。
「そんな……」
さっきまで、あれほど強く立っていたのに。
カンダタを圧倒し、最後まで剣を手放さなかったのに。
その彼が、今は目を閉じたまま、動かない。
「アレル……お願い、目を開けて……」
カエデの声が震えた。
涙が、頬を伝って落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
シオンがすぐにそばへ膝をつく。
傷の状態を確認した彼の表情が、険しくなった。
「……深いな。早く手当てしないと危ない」
「俺が荷物を持つ! 外に馬車を用意してあるんだ!」
ダルクが立ち上がった。
「急ごう。ここで休ませている場合じゃない!」
カエデは何度も頷いた。
震える手で、アレルの傷口を押さえる。
自分にできることは、それくらいしかなかった。
戦いの最中、彼がどれほど苦しかったのか。
立ち上がったとき、どれほど無理をしていたのか。
カエデには、今になってようやく実感できた。
それでも、あのときのアレルは強かった。
誰よりも強く、まっすぐで。
だからこそ、こんなふうに倒れてしまった姿を見るのが、たまらなくつらかった。
シオンは床に転がった金の冠を拾い上げ、表面についた埃を軽く払った。
それから、アレルを支えるカエデへ声をかける。
「冠は俺が持っていく。お前はあいつを見ていろ」
カエデはアレルの身体を支えたまま、小さく頷いた。
* * *
塔の外へ出ると、月明かりの下ボルドが馬車のそばで待っていた。
「おう! 無事だったか!」
彼は三人の姿を見て笑顔を浮かべたが、すぐにアレルの様子に気づいた。
「おい、その怪我は……!」
「説明は後だ! すぐにカザーブへ戻るぞ!」
シオンが短く告げる。
ボルドの表情が引き締まった。
「わかった。早く乗せろ!」
ダルクとシオンが協力し、アレルを慎重に馬車へ運び込む。
カエデは彼の頭が揺れないように支えながら隣へ乗り込む。すると、目の前に金の冠が差し出された。
「これ、頼む」
シオンは自分の手から金の冠が離れると、カエデの隣に腰を下ろした。
「さすがにこれは勇者様の手柄だな。」
ロマリアの国宝。
アレルが命懸けで取り戻した戦果をそっと膝の上に置き、再び彼へ向き直る。
しばらく見つめていると、ロマリア王の勇気と無謀は違うという言葉が脳裏に蘇った。
……この戦いは、どっちだったんだろうか。
「アレル」
呼びかけても、返事はない。
カエデは彼の手をそっと握った。
温もりは、まだ確かに残っている。
それでも、不安は消えなかった。
馬車の荷台が揺れ、ボルドが手綱を握り直す。
「出すぞ!」
馬車が動き始めた。
カエデはアレルの手を握ったまま、うつむいた。
もっと何かできたのではないか。
あのとき、彼が傷つくのを防げたのではないか。
そんな思いが、胸の中で渦巻いていた。
けれど、今はそれを口にしない。
自分の後悔を話したところで、彼の傷が軽くなるわけではないから。
カエデは握った手に、そっと力を込めた。
「……お願いだから、無事でいて」
その声は、馬車の車輪が石畳を進む音にかき消されていった。
シャンパーニの塔での戦いは終わった。
金の冠も、取り戻した。
それなのに、カエデの胸には、晴れない思いが残っていた。
