DQ3 夜明けの果てに君と
さまようよろいの右脚が、わずかに動いた。
「右脚……! アレル、攻撃する前に、そっちの脚が先に動いてる!」
カエデの声が、夕暮れの街道に響く。
アレルは乱れた呼吸を整えながら、正面に立つさまようよろいを見据えた。
何度剣を振るっても、鎧には決定的な傷を与えられなかった。斬り込めば剣を弾かれ、間合いを詰めれば重い一撃で押し返される。攻撃を受け止めるたび、腕には鈍い痛みが走った。
一度は剣を弾き飛ばされ、体勢を崩したところに追撃まで受けている。
剣の腕には自信がある。
これまでにも、さまざまな魔物と戦ってきた。相手の動きを見極め、攻撃をかわし、隙を見つけて反撃する。それがアレルの戦い方だった。
けれど、目の前の魔物は違った。
鎧に覆われた体は頑丈で、多少の攻撃では怯みもしない。こちらが攻め続けても、相手の動きが止まる気配はなかった。
力任せに斬り込むだけでは勝てない。
そのことを、アレルは身をもって思い知らされていた。
彼は剣を握り直す。
手のひらには汗が滲み、指先には力が入りにくくなっていた。それでも、剣を手放すわけにはいかない。
「……分かった。よく見ていてくれ」
「うん!」
さまようよろいが、再び剣を構えた。
重い足音が地面を踏みしめる。
鎧の部品が擦れ合い、金属の冷たい音が夕暮れの空気に響いた。
アレルはすぐには動かなかった。
剣先を相手へ向けたまま、わずかな動きも見逃さないように目を凝らす。
焦ってはいけない。
相手の攻撃を見極める。
それだけに集中した。
やがて、さまようよろいが踏み込んだ。
右脚が前へ出る。
その瞬間、アレルは横へ身をかわした。
風を切る剣が、さっきまで彼の立っていた場所を通り過ぎる。
重い一撃を空振りしたさまようよろいの上半身が、わずかに傾いた。
「今だ!」
カエデの声に背中を押されるように、アレルは踏み込んだ。
狙うのは、攻撃を終えた直後の隙。
大きく振りかぶるのではなく、相手の体勢が戻る前に、鎧の継ぎ目へ剣を叩き込む。
硬い金属音が響いた。
さまようよろいが、ぐらりと体を傾ける。
手応えはあった。
けれど、倒れない。
「まだ動くの!?」
カエデが思わず声を上げた。
さまようよろいは、地面に足を踏み直して体勢を立て直した。剣を持ち上げる動きは、先ほどまでと変わらず重々しい。
その姿に、カエデの胸が再び強張る。
一度攻撃を当てたからといって、勝てるわけではない。
目の前の鎧は、まだ戦う力を残している。
けれど、アレルの目には、もう先ほどとは違うものが映っていた。
右脚が動く。
剣が振り上げられる。
次に何が起きるのか、少しずつ分かるようになっていた。
さまようよろいが再び踏み込む。
アレルは一歩退き、攻撃をかわした。剣が地面を打ち、乾いた土が跳ね上がる。
その隙を逃さず、今度は横から斬り込む。
甲高い音が響き、鎧の体が大きく揺れた。
さまようよろいは、なおも立ち上がろうとする。
しかし、その動きは明らかに鈍くなっていた。
右脚を踏み出すまでに、わずかな遅れが生じている。
アレルは剣を構え直した。
疲労で腕は重い。呼吸も乱れている。足元も、先ほどまでのように軽くは動かない。
それでも、今度は焦らなかった。
相手の動きを待つ。
剣を振るう瞬間を見極める。
カエデの声を思い出す。
右脚が、先に動く。
その小さな癖が、今のアレルにとっては何より確かな手がかりだった。
「これで……終わりだ!」
さまようよろいが、最後の力を振り絞るように踏み込んだ。
右脚が前へ出る。
アレルはその動きを見届け、剣の軌道から身を外した。
重い剣が空を切る。
その一瞬、鎧の体勢が崩れた。
アレルはすれ違いざまに剣を振り抜く。
確かな手応えが、腕に伝わった。
さまようよろいの体が大きく傾く。
踏みとどまろうとした足が地面を滑り、重い音を立ててその場に崩れ落ちた。
しばらくの間、鎧は地面に横たわったままだった。
やがて、握っていた剣から力が抜ける。
もう動かない。
静寂が戻った。
「…………」
アレルは、すぐには剣を下ろさなかった。
相手が本当に動かなくなったことを確かめるため、しばらくその場で様子をうかがう。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……倒せた」
その声には、安堵と疲労が入り混じっていた。
「アレル!」
カエデが駆け寄ってくる。
「大丈夫!? 怪我してない? さっき、すごい勢いで吹き飛ばされてたけど……!」
「大丈夫だ。少し打っただけだよ」
「少しって……!」
言いかけたカエデは、アレルの顔を見て口をつぐんだ。
額には汗が浮かび、呼吸もまだ落ち着いていない。剣を握る手には、わずかな震えが残っていた。
立ってはいる。
けれど、決して余裕のある状態ではなかった。
カエデは彼の腕や肩に目を向け、目立った傷がないか確かめる。
「本当に痛いところない?」
「大丈夫。心配しなくていい」
「でも……」
「それより、さっきは助かった。君が気づいてくれなかったら、あの攻撃を避けられなかった」
アレルは、さまようよろいが倒れた場所へ視線を向けた。
「右脚が先に動くなんて、全然気づかなかったよ」
「私も、最初から分かってたわけじゃないよ。何度も同じ動きをしてる気がして、よく見てたら……」
カエデはそこで言葉を止めた。
自分の声が、少し震えていることに気づいたからだ。
アレルは彼女の顔を見た。
「カエデ?」
「……よかった」
彼女は小さくつぶやいた。
「ん?」
「なんでもない!」
慌てて顔を背ける。
けれど、胸の奥に残る恐怖は、そう簡単には消えてくれなかった。
剣を弾き飛ばされ、アレルが倒れかけた瞬間。
魔物の剣が振り下ろされるのを見たとき。
自分が駆け寄らなければ、どうなっていたのだろう。
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
ゲームの知識があっても、現実の戦いは違う。
画面の中なら、戦闘が終われば仲間の体力を回復させることができる。危なくなれば逃げることも、次の戦いに備えて準備することもできる。
けれど、ここでは違う。
目の前で誰かが傷つく。
一歩間違えれば、命を落とす。
それは画面越しに見ていたときとは、まるで違う恐ろしさだった。
まして、アレルが倒れるところなんて。
もう二度と見たくなかった。
*
日が沈むころ、二人は街道から少し離れた場所に野営地を決めた。
周囲を見渡しやすく、身を隠せる木立も近くにある。地面も比較的平らで、夜を過ごすには悪くない場所だった。
夕暮れの名残が空の端にわずかに残っている。
草原を渡る風は、昼間よりも冷たくなっていた。
アレルは荷物を下ろすと、まず周囲を確かめた。
魔物の気配はない。
少し離れた場所に足跡らしきものはあったが、今すぐ危険が迫っている様子ではなかった。
「今日はここで休もう。明日になれば、カザーブまで行けるはずだ」
「……うん」
カエデの返事は、どこか頼りなかった。
アレルが振り返る。
「疲れたか?」
「そりゃあ、疲れたけど……」
カエデは自分の荷物を抱えたまま、落ち着かない様子で辺りを見回した。
木々の間に、夕闇がゆっくりと広がっていく。
昼間は気にならなかった草むらの影も、暗くなるにつれて形が分からなくなっていた。
遠くから、魔物の鳴き声が聞こえた。
カエデの肩がびくりと跳ねる。
「……カエデ?」
「なんでもない。大丈夫」
そう言いながらも、彼女はアレルの近くから離れようとしなかった。
アレルは少し考えた。
今日の戦いで、彼女も疲れているはずだ。魔物の攻撃を目の前で見て、何度も声を上げていた。自分が思っている以上に、恐ろしい思いをさせてしまったのかもしれない。
それでも、無理に聞き出すことはしなかった。
彼女が話したくなったら、聞けばいい。
アレルは周囲の確認を終えると、食事の支度を始めた。
二人で簡単な食事を済ませ、使った道具を片づける。
夜風が強くなる前に荷物をまとめ、休めるように準備を整えた。
あとは眠るだけだった。
けれど、カエデはなかなか横になろうとしなかった。
膝を抱えて座り込み、火の残りをじっと見つめている。
小さな炎が、風に揺れていた。
「眠らないのか?」
アレルが声をかける。
「……うん」
「明日も歩くことになる。少しでも休んでおいたほうがいい」
「分かってるんだけど……」
カエデは言葉を切った。
言ってしまえば、きっと困らせる。
自分でも、子どもじみたことを言っているのは分かっていた。
旅に出た以上、危険な夜があることくらい分かっていたはずだ。魔物と戦うことも、野宿をすることも、覚悟していた。
それなのに。
ひとりで目を閉じるのが怖かった。
目を閉じると、夕方の光景が浮かんでくる。
アレルの剣が弾かれた瞬間。
体勢を崩し、魔物の攻撃を受けた瞬間。
自分が間に合わなかったら。
もし、あのまま倒れていたら。
考えれば考えるほど、胸の奥が冷たくなっていく。
カエデは膝の上で手を握った。
「……アレル」
「どうした?」
「その……」
一度口を開きかけて、また閉じる。
アレルは急かさず、彼女の言葉を待っていた。
「今日、近くで寝てもいい?」
アレルが目を瞬かせる。
「近く?」
「ひとりだと、ちょっと……怖くて」
声が小さくなった。
「魔物が怖いのもあるけど……今日の戦いを思い出しちゃって。目を閉じると、アレルが倒れそうになったところが浮かんでくるんだ」
口に出した途端、胸に押し込めていたものが、少しだけあふれた。
「アレルでも、あんなふうになるんだって思ったら……なんか、急に怖くなっちゃって」
自分でも、何を言っているのだろうと思った。
アレルだって人間だ。
どれだけ剣の腕が立っていても、傷つくことはある。戦いに負けることだってあるかもしれない。
そんなことは分かっていたはずなのに。
実際に目の当たりにすると、思っていた以上に怖かった。
「ごめん! 変なこと言ってるよね。分かってる、旅なんだから、いつ魔物が出るか分からないし、私だって覚悟して――」
「いいよ」
カエデの言葉を、アレルが静かに遮った。
「……え?」
「ここで一緒に休めばいい」
アレルは、ごく自然にそう答えた。
「怖いなら、無理にひとりで寝る必要はないだろう?」
カエデは、しばらく彼の顔を見つめた。
「……いいの?」
「もちろん」
「本当に?」
「本当に」
その返事に、ようやくカエデの肩から少しだけ力が抜けた。
「……ありがとう」
二人は火のそばに寝床を整えた。
カエデはアレルのすぐ隣に横になる。最初は遠慮がちに距離を取っていたものの、夜風が吹くたびに、少しずつ彼のほうへ寄っていった。
やがて、彼女の肩がアレルの腕に触れる。
「……ごめん、ちょっとだけ」
「気にしなくていい」
アレルはそう答え、外套を広げて二人の体に掛けた。
カエデはその端を握りしめる。
近くに人の気配がある。
すぐ隣から、落ち着いた呼吸が聞こえる。
それだけで、さっきまで胸を締めつけていた恐怖が、少しずつ遠のいていった。
「……アレル」
「うん?」
「明日も、ちゃんと起きてね」
「……どういう意味だ?」
「えっと……なんでもない!」
カエデは顔を伏せた。
「おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
しばらくすると、カエデの呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
緊張が解けたせいだろう。
あれほど眠るのを怖がっていたのに、一度安心すると、疲れが一気に押し寄せてきたらしい。
カエデは外套を握ったまま、眠りに落ちていた。
*
アレルは、すぐには眠れなかった。
隣で眠るカエデを起こさないように、身じろぎするのも控えていた。
火は小さくなり、周囲はすっかり暗くなっている。
時折、風が木々を揺らす音が聞こえた。
そのたびに、カエデの髪がわずかに揺れる。
アレルは、今日の戦いを思い返していた。
さまようよろい。
何度も剣を振るった。
隙を探し、攻撃をかわし、勝機を見つけようとした。
けれど、相手の動きが読めないまま戦い続けていたら、どうなっていたか。
自分の剣の腕には自信がある。
それは今も変わらない。
だが、どれほど腕が立とうと、すべての魔物に初めから勝てるわけではない。相手の強さを見誤れば、どれだけ剣を振るえても危険に陥る。
今日の自分が、まさにそうだった。
何度攻撃しても、鎧にはほとんど傷を与えられなかった。
相手の動きを見極めようとしても、次の攻撃に対応するだけで精一杯だった。
逃げることならできたかもしれない。
しかし、あの魔物を倒しきることは――カエデが弱点に気づいてくれなければ、きっとできなかった。
右脚。
攻撃の前に、必ず踏み出す脚。
自分では見抜けなかった小さな癖を、カエデは見つけた。
アレルは、隣で眠る彼女に目を向ける。
カエデは剣を振るえない。
魔法も使えない。
戦いの中でできることは限られている。
それでも、彼女にしかできないことがある。
魔物の動きを見て、何かに気づくこと。
自分では見落としてしまうものを、別の角度から見つけること。
今日の戦いで、それを改めて知った。
けれど、アレルの胸に残っているのは、戦いのことだけではなかった。
昼間、彼が危険に陥ったとき。
カエデは逃げなかった。
怖かったはずだ。
自分が傷つくかもしれない。巻き込まれるかもしれない。
それでも、彼女は声を上げてくれた。
そして今、こうして隣で眠っている。
――どうして、ここまでしてくれるんだろう。
アレルは、ふと旅立ちの日のことを思い出した。
*
ルイーダの酒場。
旅立ちを前に、アレルは仲間を探していた。
ひとりで魔王を倒すことが、どれほど無謀なことか。
それは彼自身にも分かっていた。
だからこそ、力を貸してくれる者を求めた。
酒場には、さまざまな冒険者が集まっていた。
腕に覚えのある戦士。
魔法を使いこなす者。
旅慣れた者や、各地を巡ってきた者。
彼らの中には、魔王の存在を知っている者もいた。
アレルは一人ひとりに声をかけた。
魔王を倒すために旅立つこと。
その旅に力を貸してほしいこと。
自分には仲間が必要だということ。
しかし、魔王討伐の旅だと伝えると、誰もが難しい顔をした。
危険な魔物が待ち受けている。
いつ命を落とすか分からない。
故郷へ帰れなくなるかもしれない。
そんな旅に、自分の命を懸けられる者は、簡単には見つからなかった。
「悪いが、俺には守らなきゃならない家族がいるんだ」
「魔王討伐か……。力にはなりたいが、今の俺では足手まといになる」
「すまない。別の目的があってな」
断られるたび、アレルは相手を責めなかった。
当然だと思った。
自分だって、誰かに同じことを頼まれたら、すぐには答えられなかったかもしれない。
命を懸けるということは、それほど簡単なことではない。
それでも、誰も仲間になってくれなかったとき。
酒場を出る背中に、ひとりきりの旅が現実としてのしかかってきた。
賑やかな酒場の声が、少し遠くに感じられた。
自分だけが、別の場所に立っているような気がした。
それでも行くしかない。
魔王を倒すと決めたのだから。
誰も一緒に来てくれないのなら、ひとりで進むしかない。
そう思っていた。
――そのときは、本当にひとりで旅をするつもりだった。
*
アレルは、もう一度カエデを見た。
彼女は、旅の始まりからずっと一緒に歩いてきた。
初めての土地に戸惑いながらも、前へ進んだ。
知らない魔物に驚き、怖がりながらも、必要なことを見つけようとした。
ときには、彼には分からないことを知っているような顔をする。
その知識について、まだ聞けていないことも多い。
けれど、無理に尋ねるつもりはなかった。
いつか彼女が話してくれるなら、そのときに聞けばいい。
そして今日、自分が追い詰められたときも、最後まで戦いを見ていた。
彼女がいなければ、さまようよろいには勝てなかった。
それだけではない。
彼女が隣にいることを、いつの間にか当たり前のように感じ始めていた。
道を歩くとき。
知らない町に着いたとき。
食事をするとき。
危険な魔物が現れたとき。
何かあるたびに、カエデが何を言うのか、どう動くのかを自然と気にしている。
ひとりだった頃には、なかったことだ。
仲間というのは、ただ戦力を増やすためにいるのではないのかもしれない。
自分では気づけないものに気づいてくれる。
自分が立ち止まりそうになったとき、隣で一緒に進んでくれる。
そして、自分が倒れそうになったときには、心配してくれる。
当たり前のようでいて、決して当たり前ではないこと。
アレルは、ようやくその意味を少しだけ理解した気がした。
「……ありがとう、カエデ」
小さくつぶやく。
もちろん、眠っている彼女に声が届くことはない。
それでも、言わずにはいられなかった。
アレルは外套がずれないよう、そっと端を整えた。
カエデの手は、まだ外套の端を握っている。
その手を見て、アレルはほんの少しだけ表情を緩めた。
彼女は今日、自分が倒れるところを見て怖い思いをしたと言っていた。
明日も、明後日も、同じような危険が待ち受けているかもしれない。
だからこそ、自分ももっと強くならなければならない。
剣の腕だけではない。
相手の強さを見極めること。
無理をしないこと。
そして、隣にいる仲間を危険にさらさないこと。
魔王を倒すまでの道のりは、きっと長い。
これから先、今日のような戦いが何度もあるだろう。
けれど。
今は、隣に仲間がいる。
ひとりで進もうとしていた旅に、いつの間にか誰かの存在が加わっていた。
そのことを、アレルは静かに胸へ刻み込んだ。
夜はまだ深い。
焚き火の残り火が、小さく揺れていた。
やがてアレルも、ゆっくりと目を閉じる。
明日になれば、また歩き出す。
二人で、次の町を目指して。
