DQ3 夜明けの果てに君と
ナジミの塔の扉をくぐった瞬間、ひやりとした空気が二人を包んだ。
石造りの壁には細かなひびが走り、薄暗い通路の奥には、上階へ続く階段が見える。窓から差し込む光はわずかで、足元には乾いた埃が積もっていた。
外から見たときよりも、塔の内部はずっと広く、入り組んでいるように感じられた。
アレルは剣の柄に手を添え、周囲を見回した。
「……まずは、階段を探そう。何がいるかわからない。気をつけて進むぞ」
「うん」
カエデも声を潜めた。
見覚えのある場所。
けれど、記憶の中にある景色と、目の前の景色は違っていた。
壁の冷たさも、足音の反響も、薄暗い通路の奥から漂う湿った空気も、すべてが現実だった。
画面の中なら、敵が現れる場所も、次に進む道もわかっていた。
しかし、今は違う。
自分の知識がどこまで通用するのか。それさえ、確かではなかった。
「カエデ」
アレルが振り返る。
「敵を見つけても、無理に近づくな。何か気づいたことがあれば、すぐに教えてくれ」
「……わかった」
カエデは頷いた。
剣を振るうことはできない。呪文も使えない。
それでも、何もできないと決めつけるのは、まだ早い。
二人は足音を抑えながら、通路の奥へ進んだ。
* * *
最初の角を曲がったところで、カエデが足を止めた。
「……待って」
アレルがすぐに振り返る。
「どうした?」
「前に何かいる」
通路の向こうで、ひらひらと羽ばたく影が動いた。
蝶のような羽。その中央には、人の顔を思わせる不気味な模様が浮かんでいる。
じんめんちょう。
カエデは、その姿を見た瞬間に名前が浮かんだ。
「……じんめんちょう」
「知っているのか?」
「えっ……あ、ううん。見た目がそんな感じだから……!」
アレルは一瞬だけ彼女を見たが、それ以上は聞かなかった。
じんめんちょうが二人に気づき、羽を震わせる。
「来るぞ!」
アレルが剣を抜いた。
じんめんちょうは床すれすれまで降下したかと思うと、急に上昇し、アレルの頭上をすり抜けた。
剣が空を切る。
「くっ……!」
じんめんちょうは距離を取り、再び羽ばたいた。
その羽から、淡い光が広がっていく。
「アレル、気をつけて! 目を惑わす呪文かもしれない!」
アレルはすぐに身構えた。
じんめんちょうの動きを見失わないよう、剣先を向けたまま距離を保つ。
だが、光のせいで相手の動きがつかみにくい。
じんめんちょうが横へ回り込んだ。
「右!」
カエデの声が響く。
アレルは反射的に体をひねり、横薙ぎに剣を振った。
刃が羽を捉える。
じんめんちょうは床に落ち、羽をばたつかせた。アレルは間を置かずにとどめを刺した。
モンスターの姿が光の粒となって消える。
アレルは剣を構えたまま、しばらく周囲を警戒した。
ほかに敵の気配はない。
ようやく剣を下ろすと、カエデへ目を向けた。
「……さっきの光、よく気づいたな」
「羽が光ったから。何か仕掛けてくると思って」
「そうか」
短く答えたアレルは、再び通路へ視線を戻した。
「先へ進もう」
「うん」
カエデは頷き、後ろについていった。
役に立てた。
けれど、まだ安心はできない。塔の中には、ほかにもモンスターがいるはずだ。
* * *
通路を抜けた先に、小さな部屋があった。
壁際には古びた宝箱が置かれている。
「宝箱だ」
アレルは周囲を確認してから、慎重に近づいた。
その姿を見たカエデの頭に、宝箱の中身が浮かんだ。
――ブーメラン。
何度も見た。何度も手に入れた。
その記憶が、あまりにも自然に口からこぼれた。
「待って! それ、中身はブーメランだから!」
アレルの手が止まった。
「…………何?」
「…………あ」
カエデは固まった。
アレルはゆっくりと振り返る。
「……まだ開けていないぞ」
「う、うん」
「中身を見たわけでもない」
「……そうだね」
「なのに、どうしてわかる?」
まっすぐな問いだった。
カエデは目を泳がせた。
「えっと……予感?」
「予感」
「そう! なんとなく、そう思ったの!」
アレルは黙ってカエデを見つめた。
「……開けてみよう」
彼は宝箱の前に戻り、蓋を開けた。
中には、本当にブーメランが入っていた。
アレルはそれを取り出し、手の中で確かめる。
それから、カエデへ視線を戻した。
「……当たったな」
「そ、そうだね!」
「偶然か?」
「偶然だよ!」
返事が早すぎた。
アレルは何か言いたげな顔をしたものの、結局、それ以上は追及しなかった。
「武器として使えそうだ。持っていこう」
「うん……」
カエデは小さく頷いた。
――危なかった。
知っているからといって、何でも口にしていいわけではない。
これからは気をつけなければ。
そう考えていると、アレルがブーメランを差し出してきた。
「使ってみるか?」
「えっ、いいの?」
「使えるなら役に立つだろう。無理だと思ったらやめればいい」
カエデは少し迷ってから、ブーメランを受け取った。
「……やってみる」
戦えない自分でも、これなら何かできるかもしれない。
そう思ったのだ。
ただし、投げた武器がどこへ飛んでいくのかまでは、まだ想像できていなかった。
* * *
さらに先へ進むと、床の上を何かが滑るように動いていた。
青緑色の体。表面に浮かぶ不気味な泡。
バブルスライムだった。
「……アレル、待って!」
カエデはすぐに声を掛けた。
アレルが足を止める。
「あいつには触らないで!」
「毒か?」
「うん! 体に毒があるはず。剣で攻撃するなら、体液が飛んでこないように気をつけて!」
アレルは短く頷き、剣を構えた。
バブルスライムが跳ねる。
アレルは正面から斬りつけようとせず、相手の動きを見ながら横へ移動した。
バブルスライムは床を滑り、足元へ回り込もうとする。
「左に来る!」
カエデが叫んだ。
アレルはすぐに位置を変え、バブルスライムの進路を外した。
次の瞬間、剣が閃く。
一撃を受けたバブルスライムが大きく揺らいだ。さらにアレルが斬りつけると、その姿は光となって消えた。
アレルは剣を下ろさず、床や周囲に体液が残っていないか確かめた。
それから、カエデを振り返る。
「毒を持っていると、よくわかったな」
「……見た目が、いかにも危なそうだったから」
「見た目だけで、そこまで判断できるものか?」
カエデは一瞬、言葉に詰まった。
「……旅をしていると、危なそうなものには気をつけた方がいいでしょ?」
「それはそうだな」
アレルはそれ以上聞かず、通路の先を見た。
「先へ行こう」
カエデは息を吐いた。
また、怪しまれた。
けれど、今は説明できない。
自分にできるのは、知っていることを少しずつ役立てながら、秘密を守ることだけだった。
* * *
上階へ向かう階段を見つけた二人は、周囲を警戒しながら上っていった。
階段の先には、狭い通路が続いている。
その奥から、杖が石床を打つ音が聞こえた。
こつ、こつ、と一定の間隔で響く。
アレルは足を止め、剣を握り直した。
「……誰かいる」
通路の向こうから、まほうつかいが姿を現した。
杖を持ったモンスターは二人を見ると、すぐに身構えた。
「アレル、呪文に気をつけて!」
カエデの声と同時に、まほうつかいが杖を掲げる。
赤い光が集まり、火の玉が放たれた。
アレルは横へ跳び、炎をかわした。
火の玉が石壁にぶつかり、乾いた音とともに散る。
「……メラか!」
アレルは距離を詰めようとしたが、まほうつかいは再び杖を構えた。
「杖を上げたら、また来るよ!」
カエデはその動きを見逃さなかった。
まほうつかいが杖を掲げる。
「今!」
アレルは一気に踏み込んだ。
火の玉が放たれる直前、剣の間合いへ入り込む。
「はあっ!」
剣がまほうつかいを捉えた。
相手がよろめいた隙に、アレルはさらに一撃を加える。
まほうつかいは力尽き、光となって消えた。
アレルは剣を構えたまま、しばらく周囲を見回した。
敵の気配がないことを確かめてから、ようやく剣を下ろす。
「……杖を上げる動きか」
「うん。呪文を使う前に、動きに特徴があったから」
「次に同じ相手と戦うときも、役に立ちそうだな」
アレルはそれだけ言うと、再び歩き始めた。
カエデも後に続く。
長く話している余裕はない。
塔の中では、いつ何が襲ってくるかわからないのだから。
* * *
さらに階段を上り、細い通路を抜けた先に、小さな部屋があった。
そこには、一人の老人が座っていた。
二人の足音に気づくと、老人はゆっくりと顔を上げた。
「……おや。ようやく来たか」
アレルは警戒を解かず、老人の前で足を止めた。
「あなたが、この塔にいるという方ですか?」
「そうじゃ。わしに何か用かな?」
「盗賊の鍵を探しています。ここにあると聞いて来ました」
老人はアレルをじっと見つめた。
「なるほど……。おぬしが、あの勇者か」
「……俺を知っているんですか?」
「旅人の噂くらい、耳に入るものじゃよ」
老人は穏やかに笑った。
「バラモスを倒すために旅をしているそうじゃな」
「……はい」
アレルは背筋を伸ばした。
「必ず、バラモスを倒します」
老人はしばらく彼を見つめていたが、やがて懐から小さな鍵を取り出した。
「ならば、これを持っていくがよい。とうぞくのかぎじゃ」
アレルは鍵を受け取った。
「……ありがとうございます」
「この鍵があれば、今まで開けられなかった扉も開けられるじゃろう。旅を続けるなら、役に立つはずじゃ」
アレルは鍵を確かめ、しっかりとしまった。
「大切に使います」
「うむ。気をつけて行くのじゃぞ」
二人は老人に頭を下げ、部屋を出た。
塔の上までたどり着き、ようやく目的の鍵を手に入れた。
だが、まだ終わりではない。
アレルは来た道を振り返り、階段の先を確かめた。
「……戻ろう。下にも、鍵で開けられる扉があるかもしれない」
「うん」
カエデは頷いた。
彼女は知っている。
この鍵で開けられる扉があることも、その先に何が待っているのかも。
けれど、今度は口にしなかった。
* * *
帰り道は、行きよりも静かだった。
アレルが先を歩き、カエデは少し距離を取って後に続く。
塔の中では、わずかな物音も聞き逃せない。
階段を下り、薄暗い通路を曲がった、そのときだった。
「……アレル、前!」
カエデの声に、アレルが顔を上げる。
通路の先に、まほうつかいが立っていた。
杖の先が、かすかに赤く光っている。
先ほどの戦闘が脳裏をよぎり、カエデは思わず身構えた。
「またメラを――」
言い終える前に、まほうつかいが杖を掲げた。
しかし。
アレルは、すでに動いていた。
床を蹴る音が、狭い通路に鋭く響く。
まほうつかいが呪文を唱え始めるよりも早く、アレルは一気に間合いを詰めた。
杖が振り下ろされる。
その動きを見切ったように、アレルの体がわずかに傾いた。
杖の先が空を切る。
次の瞬間、剣が閃いた。
一撃。
まほうつかいが体勢を崩すより早く、アレルは踏み込み、もう一度剣を振るった。
まほうつかいの杖が石床に落ちた。
モンスターは呪文を放つことすらできず、その場に崩れ、光となって消えていった。
静寂が戻る。
アレルは剣を一度振り、刃についた埃を払うと、鞘へ収めた。
あまりにも鮮やかな決着だった。
カエデは、すぐには言葉が出なかった。
先ほどは、呪文の動きを見極めながら戦っていた。
けれど今は違う。
相手が何をしようとするのか、どの瞬間に踏み込めばいいのか。
まるで、すべてを見通していたかのようだった。
「……今の、呪文を使わせなかったの?」
思わず尋ねると、アレルは不思議そうに振り返った。
「使わせたら面倒だからな」
それだけだった。
アレルにとっては、当然の判断だったらしい。
「杖を上げる前から、動きに癖があった。構え直す瞬間に隙ができる。そこへ入っただけだ」
カエデは、彼の言葉を頭の中で繰り返した。
見ただけで、そこまでわかるのだろうか。
もちろん、アレルがここまで強くなるまでに、積み重ねてきた努力があるのだろう。
剣の握り方も、足の運びも、迷いのない判断も、一朝一夕で身につくものではない。
それでも――。
今の一連の動きは、ただ鍛錬を重ねただけでは説明しきれないほど、鮮やかだった。
生まれ持った才能。
戦いの中で相手の動きを見抜き、一瞬の隙を逃さない、天才的な剣の才。
それが、アレルにはある。
カエデは思わず、彼の剣を見つめた。
「……すごいね」
口にしたのは、それだけだった。
アレルは少しだけ目を瞬かせたが、すぐに通路の先へ視線を戻した。
「まだ先がある。油断するなよ」
「……うん」
短い言葉で、張り詰めた空気が戻ってくる。
カエデは気を引き締め直し、アレルの後を追った。
* * *
階段を下り、とうぞくのかぎで開けられる扉を確かめた二人は、ようやく塔の出口へたどり着いた。
アレルが扉を押し開ける。
その瞬間――。
まぶしい光が、二人の目に飛び込んできた。
「……っ!」
カエデは思わず目を細めた。
塔の中では、ずっと薄暗い景色しか見ていなかった。
それが今は、頭上いっぱいに青空が広がっている。
木々の葉が風に揺れ、枝の間から差し込む陽光が地面に模様を落としていた。
森を渡る風が頬を撫でる。
湿った石の匂いも、埃っぽい空気も、もう感じない。
カエデは入口から数歩進み、その場で大きく息を吸い込んだ。
「……はあーっ!」
胸の奥にたまっていた息を、ようやく吐き出す。
「外だ……!」
思わずこぼれた声に、アレルも足を止めた。
彼もまた、肩の力を抜き、空を見上げていた。
「……やっと出られたな」
「あの中、思ったより息が詰まるね。ずっと暗いし、音も響くし……」
「狭い場所で敵に囲まれると、逃げ道も限られるからな」
アレルは森の奥へ目を向けた。
「……それでも、目的は果たせた」
そう言って、腰の袋に手を当てる。
とうぞくのかぎ。
塔の中で何度も危険に遭いながら、ようやく手に入れたものだ。
カエデも、つられて塔を振り返った。
あの薄暗い通路。石の階段。いつ敵が現れるかわからない緊張感。
ようやく、そこから抜け出したのだ。
「……なんだか、外の空気ってこんなにおいしかったんだね」
「ずっと吸っていただろ」
「そうなんだけど、そういうことじゃなくて!」
カエデが思わず言い返すと、アレルはわずかに首を傾げた。
「……そうか」
真面目な返事に、カエデは小さく笑った。
張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
そのとき、風が森を抜け、木々の葉を一斉に揺らした。
さわさわと、柔らかな音が広がる。
カエデはもう一度、空を見上げた。
閉ざされた石の天井ではなく、どこまでも続く青。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる気がした。
「……戻ろう。レーベまで、もう少しだ」
アレルの声に、カエデは頷いた。
「うん!」
二人は森の道を歩き始めた。
塔を出たからといって、旅の危険がなくなったわけではない。
それでも、今だけは。
外の光と風を感じながら、次の一歩を踏み出すことができた。
* * *
森を抜ける途中、カエデは手の中のブーメランを見下ろした。
「……ねえ、アレル」
「何だ?」
「これ、ちょっとだけ練習してみてもいい?」
アレルは足を止めた。
「……ここでか?」
「うん。周りには誰もいないし!」
「……本当に周りを確認したんだな?」
「したよ!」
アレルは少し考えたあと、短く頷いた。
「……一回だけだぞ。危ないと思ったら、すぐにやめろ」
「わかった!」
カエデはブーメランを構えた。
「それっ!」
ブーメランは勢いよく飛び出した。
しかし、狙いよりも右へ飛び、近くの岩に当たって軌道が変わる。
「……あれ?」
くるりと弧を描き、戻ってくる先には――。
「……ん?」
振り向いたアレルがいた。
「えっ」
カエデの顔が青ざめる。
「アレル、危ないっ!」
「は!?」
ブーメランが、アレルの顔のすぐ横をかすめた。
アレルは反射的に身を屈める。
ブーメランは背後の地面に落ち、乾いた音を立てた。
…………。
「……カエデ」
「……はい」
「周りを確認したんじゃなかったのか?」
「確認したよ! 投げる前は誰もいなかったの!」
「俺はいたけどな」
「ご、ごめんなさい……!」
アレルは深く息を吐き、地面に落ちたブーメランを拾い上げた。
「……これは、しばらく俺が預かる」
「ええっ!?」
「駄目だ」
「まだ一回しか投げてないのに!」
「その一回で俺に当たりかけたんだぞ」
「……はい」
カエデはしょんぼりと肩を落とした。
アレルはブーメランをしまい、歩き出した。
「練習するなら、もっと広い場所でだ」
「……わかりました」
二人は再びレーベへ向かった。
塔の中での緊張が嘘のような出来事だったが、アレルは最後まで周囲への警戒を怠らなかった。
カエデも、今度ばかりは余計なことを言わず、黙ってその後をついていった。
* * *
レーベへ戻るころには、日が傾き始めていた。
村の奥にある鍵の掛かった扉の前で、アレルはとうぞくのかぎを取り出した。
カチャリ。
扉が開く。
中には、一人の老人が待っていた。
「……おお。来たか」
老人はアレルを見ると、ゆっくりと頷いた。
「あなたが、ここで待っていた方ですか?」
「そうじゃ。おぬしが来るのを待っておった」
「……俺を?」
「バラモスを倒すために旅をしておるのだろう?」
アレルは真剣な表情で頷いた。
「……はい。俺は必ず、バラモスを倒します」
老人は、その決意を確かめるように彼を見つめ、やがて小さな玉を取り出す。
「ならば、これを持っていくがよい。」
アレルは差し出された物を両手で受け取り、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「これを持って、はるか東にあるいざないの洞窟を抜けた先へ向かいなさい」
「はい」
アレルは、まほうのたまを荷物にしまった。
とうぞくのかぎ。
そして、まほうのたま。
旅を続けるために必要なものが、少しずつ集まっていく。
老人の家を出ると、アレルは次の目的地を考えるように、村の外へ続く道を見た。
「……これで、次へ進めるな」
「うん」
カエデは短く答えた。
知っているはずの出来事が、目の前で起きている。
それでも、すべてが記憶どおりに進むとは限らない。
この世界で生きていくためには、知識だけに頼るのではなく、自分の目で見て、考え、行動しなければならない。
カエデは、アレルの隣で静かに拳を握った。
剣も、呪文も使えない。
それでも、自分にできることはある。
敵の動きを見抜くこと。
危険を予測すること。
そして、必要なときに声を上げること。
それが、今の自分にできる戦い方だった。
「……行こう、カエデ」
アレルの声に、カエデは顔を上げる。
夜に染まり出した村を、二人は歩き出した。
石造りの壁には細かなひびが走り、薄暗い通路の奥には、上階へ続く階段が見える。窓から差し込む光はわずかで、足元には乾いた埃が積もっていた。
外から見たときよりも、塔の内部はずっと広く、入り組んでいるように感じられた。
アレルは剣の柄に手を添え、周囲を見回した。
「……まずは、階段を探そう。何がいるかわからない。気をつけて進むぞ」
「うん」
カエデも声を潜めた。
見覚えのある場所。
けれど、記憶の中にある景色と、目の前の景色は違っていた。
壁の冷たさも、足音の反響も、薄暗い通路の奥から漂う湿った空気も、すべてが現実だった。
画面の中なら、敵が現れる場所も、次に進む道もわかっていた。
しかし、今は違う。
自分の知識がどこまで通用するのか。それさえ、確かではなかった。
「カエデ」
アレルが振り返る。
「敵を見つけても、無理に近づくな。何か気づいたことがあれば、すぐに教えてくれ」
「……わかった」
カエデは頷いた。
剣を振るうことはできない。呪文も使えない。
それでも、何もできないと決めつけるのは、まだ早い。
二人は足音を抑えながら、通路の奥へ進んだ。
* * *
最初の角を曲がったところで、カエデが足を止めた。
「……待って」
アレルがすぐに振り返る。
「どうした?」
「前に何かいる」
通路の向こうで、ひらひらと羽ばたく影が動いた。
蝶のような羽。その中央には、人の顔を思わせる不気味な模様が浮かんでいる。
じんめんちょう。
カエデは、その姿を見た瞬間に名前が浮かんだ。
「……じんめんちょう」
「知っているのか?」
「えっ……あ、ううん。見た目がそんな感じだから……!」
アレルは一瞬だけ彼女を見たが、それ以上は聞かなかった。
じんめんちょうが二人に気づき、羽を震わせる。
「来るぞ!」
アレルが剣を抜いた。
じんめんちょうは床すれすれまで降下したかと思うと、急に上昇し、アレルの頭上をすり抜けた。
剣が空を切る。
「くっ……!」
じんめんちょうは距離を取り、再び羽ばたいた。
その羽から、淡い光が広がっていく。
「アレル、気をつけて! 目を惑わす呪文かもしれない!」
アレルはすぐに身構えた。
じんめんちょうの動きを見失わないよう、剣先を向けたまま距離を保つ。
だが、光のせいで相手の動きがつかみにくい。
じんめんちょうが横へ回り込んだ。
「右!」
カエデの声が響く。
アレルは反射的に体をひねり、横薙ぎに剣を振った。
刃が羽を捉える。
じんめんちょうは床に落ち、羽をばたつかせた。アレルは間を置かずにとどめを刺した。
モンスターの姿が光の粒となって消える。
アレルは剣を構えたまま、しばらく周囲を警戒した。
ほかに敵の気配はない。
ようやく剣を下ろすと、カエデへ目を向けた。
「……さっきの光、よく気づいたな」
「羽が光ったから。何か仕掛けてくると思って」
「そうか」
短く答えたアレルは、再び通路へ視線を戻した。
「先へ進もう」
「うん」
カエデは頷き、後ろについていった。
役に立てた。
けれど、まだ安心はできない。塔の中には、ほかにもモンスターがいるはずだ。
* * *
通路を抜けた先に、小さな部屋があった。
壁際には古びた宝箱が置かれている。
「宝箱だ」
アレルは周囲を確認してから、慎重に近づいた。
その姿を見たカエデの頭に、宝箱の中身が浮かんだ。
――ブーメラン。
何度も見た。何度も手に入れた。
その記憶が、あまりにも自然に口からこぼれた。
「待って! それ、中身はブーメランだから!」
アレルの手が止まった。
「…………何?」
「…………あ」
カエデは固まった。
アレルはゆっくりと振り返る。
「……まだ開けていないぞ」
「う、うん」
「中身を見たわけでもない」
「……そうだね」
「なのに、どうしてわかる?」
まっすぐな問いだった。
カエデは目を泳がせた。
「えっと……予感?」
「予感」
「そう! なんとなく、そう思ったの!」
アレルは黙ってカエデを見つめた。
「……開けてみよう」
彼は宝箱の前に戻り、蓋を開けた。
中には、本当にブーメランが入っていた。
アレルはそれを取り出し、手の中で確かめる。
それから、カエデへ視線を戻した。
「……当たったな」
「そ、そうだね!」
「偶然か?」
「偶然だよ!」
返事が早すぎた。
アレルは何か言いたげな顔をしたものの、結局、それ以上は追及しなかった。
「武器として使えそうだ。持っていこう」
「うん……」
カエデは小さく頷いた。
――危なかった。
知っているからといって、何でも口にしていいわけではない。
これからは気をつけなければ。
そう考えていると、アレルがブーメランを差し出してきた。
「使ってみるか?」
「えっ、いいの?」
「使えるなら役に立つだろう。無理だと思ったらやめればいい」
カエデは少し迷ってから、ブーメランを受け取った。
「……やってみる」
戦えない自分でも、これなら何かできるかもしれない。
そう思ったのだ。
ただし、投げた武器がどこへ飛んでいくのかまでは、まだ想像できていなかった。
* * *
さらに先へ進むと、床の上を何かが滑るように動いていた。
青緑色の体。表面に浮かぶ不気味な泡。
バブルスライムだった。
「……アレル、待って!」
カエデはすぐに声を掛けた。
アレルが足を止める。
「あいつには触らないで!」
「毒か?」
「うん! 体に毒があるはず。剣で攻撃するなら、体液が飛んでこないように気をつけて!」
アレルは短く頷き、剣を構えた。
バブルスライムが跳ねる。
アレルは正面から斬りつけようとせず、相手の動きを見ながら横へ移動した。
バブルスライムは床を滑り、足元へ回り込もうとする。
「左に来る!」
カエデが叫んだ。
アレルはすぐに位置を変え、バブルスライムの進路を外した。
次の瞬間、剣が閃く。
一撃を受けたバブルスライムが大きく揺らいだ。さらにアレルが斬りつけると、その姿は光となって消えた。
アレルは剣を下ろさず、床や周囲に体液が残っていないか確かめた。
それから、カエデを振り返る。
「毒を持っていると、よくわかったな」
「……見た目が、いかにも危なそうだったから」
「見た目だけで、そこまで判断できるものか?」
カエデは一瞬、言葉に詰まった。
「……旅をしていると、危なそうなものには気をつけた方がいいでしょ?」
「それはそうだな」
アレルはそれ以上聞かず、通路の先を見た。
「先へ行こう」
カエデは息を吐いた。
また、怪しまれた。
けれど、今は説明できない。
自分にできるのは、知っていることを少しずつ役立てながら、秘密を守ることだけだった。
* * *
上階へ向かう階段を見つけた二人は、周囲を警戒しながら上っていった。
階段の先には、狭い通路が続いている。
その奥から、杖が石床を打つ音が聞こえた。
こつ、こつ、と一定の間隔で響く。
アレルは足を止め、剣を握り直した。
「……誰かいる」
通路の向こうから、まほうつかいが姿を現した。
杖を持ったモンスターは二人を見ると、すぐに身構えた。
「アレル、呪文に気をつけて!」
カエデの声と同時に、まほうつかいが杖を掲げる。
赤い光が集まり、火の玉が放たれた。
アレルは横へ跳び、炎をかわした。
火の玉が石壁にぶつかり、乾いた音とともに散る。
「……メラか!」
アレルは距離を詰めようとしたが、まほうつかいは再び杖を構えた。
「杖を上げたら、また来るよ!」
カエデはその動きを見逃さなかった。
まほうつかいが杖を掲げる。
「今!」
アレルは一気に踏み込んだ。
火の玉が放たれる直前、剣の間合いへ入り込む。
「はあっ!」
剣がまほうつかいを捉えた。
相手がよろめいた隙に、アレルはさらに一撃を加える。
まほうつかいは力尽き、光となって消えた。
アレルは剣を構えたまま、しばらく周囲を見回した。
敵の気配がないことを確かめてから、ようやく剣を下ろす。
「……杖を上げる動きか」
「うん。呪文を使う前に、動きに特徴があったから」
「次に同じ相手と戦うときも、役に立ちそうだな」
アレルはそれだけ言うと、再び歩き始めた。
カエデも後に続く。
長く話している余裕はない。
塔の中では、いつ何が襲ってくるかわからないのだから。
* * *
さらに階段を上り、細い通路を抜けた先に、小さな部屋があった。
そこには、一人の老人が座っていた。
二人の足音に気づくと、老人はゆっくりと顔を上げた。
「……おや。ようやく来たか」
アレルは警戒を解かず、老人の前で足を止めた。
「あなたが、この塔にいるという方ですか?」
「そうじゃ。わしに何か用かな?」
「盗賊の鍵を探しています。ここにあると聞いて来ました」
老人はアレルをじっと見つめた。
「なるほど……。おぬしが、あの勇者か」
「……俺を知っているんですか?」
「旅人の噂くらい、耳に入るものじゃよ」
老人は穏やかに笑った。
「バラモスを倒すために旅をしているそうじゃな」
「……はい」
アレルは背筋を伸ばした。
「必ず、バラモスを倒します」
老人はしばらく彼を見つめていたが、やがて懐から小さな鍵を取り出した。
「ならば、これを持っていくがよい。とうぞくのかぎじゃ」
アレルは鍵を受け取った。
「……ありがとうございます」
「この鍵があれば、今まで開けられなかった扉も開けられるじゃろう。旅を続けるなら、役に立つはずじゃ」
アレルは鍵を確かめ、しっかりとしまった。
「大切に使います」
「うむ。気をつけて行くのじゃぞ」
二人は老人に頭を下げ、部屋を出た。
塔の上までたどり着き、ようやく目的の鍵を手に入れた。
だが、まだ終わりではない。
アレルは来た道を振り返り、階段の先を確かめた。
「……戻ろう。下にも、鍵で開けられる扉があるかもしれない」
「うん」
カエデは頷いた。
彼女は知っている。
この鍵で開けられる扉があることも、その先に何が待っているのかも。
けれど、今度は口にしなかった。
* * *
帰り道は、行きよりも静かだった。
アレルが先を歩き、カエデは少し距離を取って後に続く。
塔の中では、わずかな物音も聞き逃せない。
階段を下り、薄暗い通路を曲がった、そのときだった。
「……アレル、前!」
カエデの声に、アレルが顔を上げる。
通路の先に、まほうつかいが立っていた。
杖の先が、かすかに赤く光っている。
先ほどの戦闘が脳裏をよぎり、カエデは思わず身構えた。
「またメラを――」
言い終える前に、まほうつかいが杖を掲げた。
しかし。
アレルは、すでに動いていた。
床を蹴る音が、狭い通路に鋭く響く。
まほうつかいが呪文を唱え始めるよりも早く、アレルは一気に間合いを詰めた。
杖が振り下ろされる。
その動きを見切ったように、アレルの体がわずかに傾いた。
杖の先が空を切る。
次の瞬間、剣が閃いた。
一撃。
まほうつかいが体勢を崩すより早く、アレルは踏み込み、もう一度剣を振るった。
まほうつかいの杖が石床に落ちた。
モンスターは呪文を放つことすらできず、その場に崩れ、光となって消えていった。
静寂が戻る。
アレルは剣を一度振り、刃についた埃を払うと、鞘へ収めた。
あまりにも鮮やかな決着だった。
カエデは、すぐには言葉が出なかった。
先ほどは、呪文の動きを見極めながら戦っていた。
けれど今は違う。
相手が何をしようとするのか、どの瞬間に踏み込めばいいのか。
まるで、すべてを見通していたかのようだった。
「……今の、呪文を使わせなかったの?」
思わず尋ねると、アレルは不思議そうに振り返った。
「使わせたら面倒だからな」
それだけだった。
アレルにとっては、当然の判断だったらしい。
「杖を上げる前から、動きに癖があった。構え直す瞬間に隙ができる。そこへ入っただけだ」
カエデは、彼の言葉を頭の中で繰り返した。
見ただけで、そこまでわかるのだろうか。
もちろん、アレルがここまで強くなるまでに、積み重ねてきた努力があるのだろう。
剣の握り方も、足の運びも、迷いのない判断も、一朝一夕で身につくものではない。
それでも――。
今の一連の動きは、ただ鍛錬を重ねただけでは説明しきれないほど、鮮やかだった。
生まれ持った才能。
戦いの中で相手の動きを見抜き、一瞬の隙を逃さない、天才的な剣の才。
それが、アレルにはある。
カエデは思わず、彼の剣を見つめた。
「……すごいね」
口にしたのは、それだけだった。
アレルは少しだけ目を瞬かせたが、すぐに通路の先へ視線を戻した。
「まだ先がある。油断するなよ」
「……うん」
短い言葉で、張り詰めた空気が戻ってくる。
カエデは気を引き締め直し、アレルの後を追った。
* * *
階段を下り、とうぞくのかぎで開けられる扉を確かめた二人は、ようやく塔の出口へたどり着いた。
アレルが扉を押し開ける。
その瞬間――。
まぶしい光が、二人の目に飛び込んできた。
「……っ!」
カエデは思わず目を細めた。
塔の中では、ずっと薄暗い景色しか見ていなかった。
それが今は、頭上いっぱいに青空が広がっている。
木々の葉が風に揺れ、枝の間から差し込む陽光が地面に模様を落としていた。
森を渡る風が頬を撫でる。
湿った石の匂いも、埃っぽい空気も、もう感じない。
カエデは入口から数歩進み、その場で大きく息を吸い込んだ。
「……はあーっ!」
胸の奥にたまっていた息を、ようやく吐き出す。
「外だ……!」
思わずこぼれた声に、アレルも足を止めた。
彼もまた、肩の力を抜き、空を見上げていた。
「……やっと出られたな」
「あの中、思ったより息が詰まるね。ずっと暗いし、音も響くし……」
「狭い場所で敵に囲まれると、逃げ道も限られるからな」
アレルは森の奥へ目を向けた。
「……それでも、目的は果たせた」
そう言って、腰の袋に手を当てる。
とうぞくのかぎ。
塔の中で何度も危険に遭いながら、ようやく手に入れたものだ。
カエデも、つられて塔を振り返った。
あの薄暗い通路。石の階段。いつ敵が現れるかわからない緊張感。
ようやく、そこから抜け出したのだ。
「……なんだか、外の空気ってこんなにおいしかったんだね」
「ずっと吸っていただろ」
「そうなんだけど、そういうことじゃなくて!」
カエデが思わず言い返すと、アレルはわずかに首を傾げた。
「……そうか」
真面目な返事に、カエデは小さく笑った。
張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
そのとき、風が森を抜け、木々の葉を一斉に揺らした。
さわさわと、柔らかな音が広がる。
カエデはもう一度、空を見上げた。
閉ざされた石の天井ではなく、どこまでも続く青。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる気がした。
「……戻ろう。レーベまで、もう少しだ」
アレルの声に、カエデは頷いた。
「うん!」
二人は森の道を歩き始めた。
塔を出たからといって、旅の危険がなくなったわけではない。
それでも、今だけは。
外の光と風を感じながら、次の一歩を踏み出すことができた。
* * *
森を抜ける途中、カエデは手の中のブーメランを見下ろした。
「……ねえ、アレル」
「何だ?」
「これ、ちょっとだけ練習してみてもいい?」
アレルは足を止めた。
「……ここでか?」
「うん。周りには誰もいないし!」
「……本当に周りを確認したんだな?」
「したよ!」
アレルは少し考えたあと、短く頷いた。
「……一回だけだぞ。危ないと思ったら、すぐにやめろ」
「わかった!」
カエデはブーメランを構えた。
「それっ!」
ブーメランは勢いよく飛び出した。
しかし、狙いよりも右へ飛び、近くの岩に当たって軌道が変わる。
「……あれ?」
くるりと弧を描き、戻ってくる先には――。
「……ん?」
振り向いたアレルがいた。
「えっ」
カエデの顔が青ざめる。
「アレル、危ないっ!」
「は!?」
ブーメランが、アレルの顔のすぐ横をかすめた。
アレルは反射的に身を屈める。
ブーメランは背後の地面に落ち、乾いた音を立てた。
…………。
「……カエデ」
「……はい」
「周りを確認したんじゃなかったのか?」
「確認したよ! 投げる前は誰もいなかったの!」
「俺はいたけどな」
「ご、ごめんなさい……!」
アレルは深く息を吐き、地面に落ちたブーメランを拾い上げた。
「……これは、しばらく俺が預かる」
「ええっ!?」
「駄目だ」
「まだ一回しか投げてないのに!」
「その一回で俺に当たりかけたんだぞ」
「……はい」
カエデはしょんぼりと肩を落とした。
アレルはブーメランをしまい、歩き出した。
「練習するなら、もっと広い場所でだ」
「……わかりました」
二人は再びレーベへ向かった。
塔の中での緊張が嘘のような出来事だったが、アレルは最後まで周囲への警戒を怠らなかった。
カエデも、今度ばかりは余計なことを言わず、黙ってその後をついていった。
* * *
レーベへ戻るころには、日が傾き始めていた。
村の奥にある鍵の掛かった扉の前で、アレルはとうぞくのかぎを取り出した。
カチャリ。
扉が開く。
中には、一人の老人が待っていた。
「……おお。来たか」
老人はアレルを見ると、ゆっくりと頷いた。
「あなたが、ここで待っていた方ですか?」
「そうじゃ。おぬしが来るのを待っておった」
「……俺を?」
「バラモスを倒すために旅をしておるのだろう?」
アレルは真剣な表情で頷いた。
「……はい。俺は必ず、バラモスを倒します」
老人は、その決意を確かめるように彼を見つめ、やがて小さな玉を取り出す。
「ならば、これを持っていくがよい。」
アレルは差し出された物を両手で受け取り、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「これを持って、はるか東にあるいざないの洞窟を抜けた先へ向かいなさい」
「はい」
アレルは、まほうのたまを荷物にしまった。
とうぞくのかぎ。
そして、まほうのたま。
旅を続けるために必要なものが、少しずつ集まっていく。
老人の家を出ると、アレルは次の目的地を考えるように、村の外へ続く道を見た。
「……これで、次へ進めるな」
「うん」
カエデは短く答えた。
知っているはずの出来事が、目の前で起きている。
それでも、すべてが記憶どおりに進むとは限らない。
この世界で生きていくためには、知識だけに頼るのではなく、自分の目で見て、考え、行動しなければならない。
カエデは、アレルの隣で静かに拳を握った。
剣も、呪文も使えない。
それでも、自分にできることはある。
敵の動きを見抜くこと。
危険を予測すること。
そして、必要なときに声を上げること。
それが、今の自分にできる戦い方だった。
「……行こう、カエデ」
アレルの声に、カエデは顔を上げる。
夜に染まり出した村を、二人は歩き出した。
