DQ3 夜明けの果てに君と
ルイーダの酒場を出てから、カエデは隣を歩く勇者の姿を何度もちらりと見ていた。
赤いマントを夕風になびかせながら、アレルは迷いのない足取りで町の出口へ向かっている。
石造りの建物が並ぶ通り。行き交う人々の声。店先から漂う食べ物の匂い。
見慣れない景色のはずなのに、どこか懐かしい。
昨日までの自分なら、こんな場所を本物として歩く日が来るなんて、夢にも思わなかっただろう。
それなのに、今はそのすべてが現実だった。
風が吹けば頬を撫でるし、石畳を歩けば足の裏に硬さが伝わる。
そして、隣には――。
「カエデ?」
呼ばれて顔を上げる。
アレルが少し先でこちらを振り返っていた。
「どうした?」
「ううん! なんでもない!」
カエデは慌てて首を振り、小走りで彼の隣に並んだ。
「ちょっと、感動してただけ!」
「何に?」
「えっと……旅立ち?」
「……そうか」
「反応薄くない!?」
「いや。感動するようなことかと思って」
「するよ! だって、これから冒険が始まるんだよ!?」
思わず声を弾ませてから、カエデははっと口をつぐんだ。
冒険。
その言葉を、自分が口にしている。
昨日まで、画面の向こう側にあったもの。何度も遊んで、何度も見て、何度も知っているつもりになっていたもの。
それが今、自分の目の前にある。
「……カエデ、歩きながら考え事をするな。転ぶぞ」
「してないよ!?」
「していた」
「うそっ!」
アレルはそれ以上何も言わず、前を向いて歩き始めた。
その横顔を見つめながら、カエデは頬を膨らませる。
――なんか、思ってたより普通の男の子だなあ。
勇者といえば、もっとこう、堂々としていて、いつも自信に満ちていて、何を考えているのかすぐにわかるような人を想像していた。
けれど、実際のアレルは必要なことしか言わないし、時々こちらの反応に困ったような顔をする。
それがなんだか、おかしかった。
そして、少しだけ安心した。
「ねえ、アレル」
「今度はなんだ?」
「今日の予定、もう一回確認してもいい?」
「ああ。まずはレーベという村に向かう。そこで必要なものを揃えて、情報を集める」
レーベ。
カエデは心の中でその名前を繰り返した。
その名前を聞いただけで、脳内に地形や道順が浮かびかける。
けれど、知っていることをそのまま口にするわけにはいかない。
この世界のことを、どうして自分が知っているのか。
アレルに不審に思われたら、説明できない。
「何か気になるのか?」
「ううん! なんだか冒険っぽいなあって!」
「……そうか」
危なかった。
カエデは内心で胸をなで下ろした。
そのとき、アレルがふと足を止めた。
「その前に、装備を見直すぞ」
「装備?」
「お前、その格好でどこまで歩くつもりだ?」
カエデは自分の制服を見下ろした。
ブレザーに、少し短めのスカート。見慣れた制服は、今となってはこの世界でひどく浮いている。
「……どこまででも?」
「無理だ」
即答だった。
「ですよねー……」
「せめて、足を痛めない靴と、荷物を入れる袋くらいは必要だ。ほかにも、旅に使えるものを見ておきたい」
「でも、私、お金ないよ?」
「わかっている」
「わかってるんだ……」
「だから、必要なものから考える」
アレルは淡々と答えた。
その声には責めるような響きはなかった。
カエデが困っていることを、当たり前のように自分たちの問題として考えてくれている。
それが、少しくすぐったかった。
「……ありがと」
「礼を言うほどのことじゃない」
「そういうところだよねえ」
「何がだ?」
「ううん。なんでもない!」
二人は日が暮れる前に、必要なものを揃えることにした。
アレルは自分の装備を点検し、道具屋で薬草などの消耗品を確認する。カエデには歩きやすい靴と、最低限の荷物を入れる袋を用意した。
新品の靴に足を入れたカエデは、店先で何度も足踏みをした。
「おお……! 歩きやすい!」
「今までの靴は、そんなに歩きにくいのか?」
「うん。というか、こういう道を何時間も歩くこと自体、あんまり経験ないから」
「何時間も?」
「えっ」
カエデは固まった。
「……いや、その、学校まで歩くことはあるけど! ほら、こんなに長い距離を歩くのは初めてって意味!」
「学校?」
「あっ」
しまった。
アレルの視線がこちらに向く。
「それがお前のいた世界のものか?」
「う、うん! 学校っていうのはね、同じくらいの年の子たちが集まって、勉強したり、友達と話したりするところなの」
「勉強するための場所か」
「そうそう。私も、そこに通ってたんだ」
「……そうか」
アレルは少し考えるように黙った。
「お前も、そこで友人と過ごしていたんだな」
その言葉に、カエデの笑顔がわずかに揺れた。
友達。
教室。
いつもの帰り道。
当たり前のように交わしていた挨拶や、何気ない会話。
昨日までなら、何ひとつ特別だとは思わなかったものばかりだ。
「……うん」
カエデは、できるだけ明るい声で答えた。
「友達とおしゃべりしたり、授業が面倒だって文句を言ったり。普通の高校生だったよ」
「コウコウセイ?」
「あっ、ええと……学校に通っている年頃の子、ってこと!」
「なるほど」
アレルはそれ以上、深く尋ねなかった。
カエデは少しだけ驚いた。
もっと詳しく聞かれると思ったのだ。どういう世界なのか、どこにあるのか、なぜここに来たのか。
けれど、アレルは必要以上に踏み込んでこなかった。
「……アレルは?」
「何がだ?」
「学校とか、行ってたの?」
「いや。俺は剣の扱い方や、旅に必要なことを教わってきた」
「そっか。じゃあ、勉強っていうより、修行?」
「そうなるな」
「毎日?」
「ああ」
「ええっ、すご……。私だったら三日で音を上げるかも」
「三日も続くなら十分だろう」
「えっ、そういうもの?」
「知らない」
「知らないんかい!」
思わず突っ込むと、アレルは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんの少し口元を緩めた。
笑った。
ほんの一瞬だったけれど、確かに。
カエデは目を輝かせる。
「今、笑った!」
「笑っていない」
「笑ったよね!?」
「気のせいだ」
「絶対笑った!」
「そろそろ行くぞ」
二人の声が、夕暮れの町に溶けていった。
アリアハンの門を抜けた頃には、太陽は地平線に近づいていた。
草原を渡る風が、少し強くなる。
道の脇には背の低い草が生い茂り、その向こうには緩やかな丘が続いている。遠くで鳥の声がした。
カエデは、初めこそ物珍しさに周囲を見回していたものの、次第に歩くことに集中するようになっていた。
――思ったより、疲れる……!
舗装された道ばかりではない。
足元の土は柔らかいところもあれば、石がごろごろしているところもある。歩き慣れない靴はさっきよりも重く感じられ、少しずつ足がだるくなってきた。
それでも、弱音を吐くのはまだ早い。
何しろ、隣を歩いているのは勇者アレルなのだ。
自分よりずっと厳しい旅を覚悟している人に、出発してすぐ「疲れた」とは言いにくかった。
「……カエデ」
「な、なに?」
「歩くのが遅くなっている」
「いやー、ほら! 景色がきれいだから、つい見ちゃって!」
「さっきから、ずっと足元を見ているが」
見抜かれていた。
アレルは少し考えてから、歩調を落とした。
「休むか?」
「だ、大丈夫!」
「無理をする必要はない」
「ほんとに大丈夫だって!」
カエデは胸を張った。
その直後、草むらの向こうで何かが動いた。
がさり、と葉が揺れる。
カエデの足が止まった。
「……アレル」
「わかっている」
アレルは腰の剣に手をかけ、カエデを自分の後ろへ下がらせた。
草むらから飛び出してきたのは、青い身体をぷるぷると揺らす、小さな魔物だった。
「……スライム!」
思わず声が漏れる。
見慣れた形。
見慣れた色。
何度も画面の中で見た、あの魔物。
けれど、今目の前にいるスライムは、画面の中のものとは違っていた。
草を踏みしめる音がする。
身体が揺れるたびに、表面に光が走る。
こちらを見上げる丸い目には、はっきりとした敵意があった。
「カエデ、下がっていろ」
アレルが前へ出る。
スライムは身体を低く沈めたかと思うと、弾かれたように飛び出した。
「えっ、速――!」
どんっ!
鈍い音が響いた。
アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを受け止める。衝撃に足元の土がわずかにえぐれた。
「……っ!」
一匹だけ。
たった一匹のスライムなのに。
その一撃は、カエデが想像していたよりずっと重かった。
アレルは剣を振り、スライムを押し返す。
地面に弾んだスライムは、すぐさま体勢を立て直した。
「アレル、気をつけて! もう一度、跳んでくる!」
「わかっている!」
スライムが再び跳ねる。
今度は真正面からではない。斜めに軌道を変え、アレルの横へ回り込もうとした。
アレルは素早く身体をひねり、剣を振り抜く。
刃が青い身体を捉えた。
スライムは地面に落ち、何度か小さく震えたあと、やがて動かなくなった。
風の音だけが戻ってくる。
「……終わった、の?」
カエデは恐る恐る尋ねた。
「ああ」
アレルは剣を収め、倒れたスライムを確認した。
それから、こちらを振り返る。
「怪我は?」
「えっ、私? 私は大丈夫!」
「そうか」
アレルの声は、いつもと変わらなかった。
けれど、カエデは気づいてしまった。
彼の手が、ほんの少しだけ強く剣の柄を握っていたことに。
――そっか。
――本当に、戦ってるんだ。
自分が知っている物語と、目の前の現実は同じではない。
知識があれば安全だなんて、そんな保証はどこにもない。
カエデは、ぎゅっと自分の服を握った。
「……ありがとう、アレル」
「礼を言うことじゃない」
「でも、怖かった」
正直な言葉だった。
アレルは少しだけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「……そうだな」
その声は、思いのほか優しかった。
「怖いと思うなら、無理に近づくな。俺の後ろにいればいい」
「……うん」
カエデは頷いた。
けれど、その直後。
「ただし」
アレルが付け加えた。
「危ないときは、俺の言うことを聞け」
「えっ、あ、はい!」
「勝手に飛び出すな。魔物がいたら、まず距離を取れ」
「わ、わかりました……」
「本当にわかっているのか?」
「わかってるってば!」
思わず言い返してから、カエデは少しだけ笑った。
怖かった。
今だって、胸の鼓動はまだ速い。
それでも、アレルが隣にいてくれることが、心強かった。
その後、二人は何度か魔物と遭遇した。
スライムの群れに出くわしたとき、カエデは最初の戦闘を思い出し、思わず身構えた。
けれど、今度は少しだけ落ち着いて周囲を見ることができた。
「アレル、右から来る!」
「見えている!」
アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを切り払う。
もう一匹が背後へ回ろうとした瞬間、カエデが声を上げた。
「後ろ!」
アレルは振り向きざまに一歩踏み込み、攻撃をかわした。
そのまま剣を振るう。
戦いが終わる頃には、カエデの緊張も少しずつ薄れていた。
空は、いつの間にか夕焼けから深い藍色へと変わり始めていた。
「……すごい」
「何がだ?」
「いや、だって……本当に強いんだなって」
「まだまだだ」
「ええっ、これで!?」
アレルは答えず、剣についた汚れを拭った。
「もっと強くならないといけない」
その言葉には、冗談の響きがなかった。
カエデは彼の横顔を見つめた。
バラモスを倒す。
それが、アレルの目指すもの。
けれど、その道のりがどれほど遠いのか、彼自身もわかっているのだろう。
だからこそ、目の前の一戦にも手を抜かない。
「……アレルって、真面目だね」
「そうか?」
「うん。すっごく」
「お前が不真面目なだけじゃないのか」
「ひどっ!?」
今度は、アレルがはっきりと笑った。
カエデは一瞬、言葉を失った。
そして、すぐに指を突きつける。
「やっぱり笑った!」
「……もういいだろう」
「よくないよ! 今度は絶対に見逃さないからね!」
「何を見逃さないんだ……」
呆れたような声。
けれど、その表情はさっきよりも柔らかかった。
カエデは、それだけで少し嬉しくなった。
やがて、辺りはすっかり暗くなった。
空には星が瞬き始め、遠くの草原には夜の気配が満ちている。
そのとき、道の向こうに小さな村の明かりが見えた。
木々の間から屋根が覗き、家々の窓にはぽつぽつと灯りがともっている。
その景色を見た瞬間、カエデの顔がぱっと明るくなった。
「……あっ!」
「レーベだ」
アレルが答えるより早く、カエデは声を上げた。
「レーベだああ……!」
「……知っていたのか?」
「えっ!? あ、いや! さっき聞いたから! ほら、今日の目的地!」
「……そうか」
危ない。
また、口が滑るところだった。
カエデは慌てて咳払いをした。
「そ、それより! 早く行こうよ!」
「ああ」
歩き出したアレルの背中を追いかける。
足は痛いし、肩も重い。
けれど、村の明かりが見えた途端、身体の奥に残っていた力が少しだけ戻ってきた。
あと少し。
あと少し歩けば、休める。
そう思った瞬間だった。
「……カエデ」
「なに……?」
「足元」
「へ?」
次の一歩で、カエデのつま先が小さな石に引っかかった。
「あっ――!」
身体が前へ傾く。
転ぶ、と思った瞬間、腕を掴まれた。
アレルだった。
「……大丈夫か?」
「…………」
カエデは、掴まれた腕を見つめた。
それから、彼の顔を見上げる。
「……ありがとう」
「気をつけろ」
「はい……」
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
けれど、手を離すときのアレルの動きはあまりにも自然で、まるでそれが当たり前のことみたいだった。
カエデは、少しだけ頬を緩めた。
――この人と一緒なら。
――なんとか、頑張れるかもしれない。
そんな気がした。
レーベの村に着いた頃には、空はすっかり夜に包まれていた。
村の入り口をくぐると、家々の窓から温かな明かりが漏れている。どこかの家から食事の匂いが漂い、通りを歩く人々の声が聞こえてきた。
昼間とは違う、静かで穏やかな村の風景。
その光景を目にした途端、カエデは心の底から安堵した。
「……つ、着いた……!」
「着いたな」
「着いたよ……! レーベだよ……!」
「さっきも聞いた」
「だって……! だって……!」
言葉が続かない。
疲れた。
とにかく、疲れた。
歩き続けた足は棒のようで、肩も腰も重い。最初のうちは楽しかった道のりも、最後の方は一歩進むたびに心の中で「あと何歩……?」と数えていたくらいだ。
アレルは、そんなカエデの様子を見て小さく息をついた。
「まずは宿を探そう」
「……天使……」
「何?」
「なんでもないです……」
今はもう、冗談を言う気力さえ残っていなかった。
二人は村の中を進み、宿屋を見つけると中へ入った。
扉を開けると、温かな空気と、木の床の匂いが迎えてくれる。
カウンターの向こうにいた主人が、二人に気づいて顔を上げた。
「いらっしゃい。旅の方かい?」
「ああ。一晩、泊まりたい」
アレルが答える。
主人は二人を見比べ、にこりと笑った。
「お二人で一部屋かな?」
「はい!」
カエデが即答した。
「……え?」
アレルが振り返る。
「カエデ?」
「なに?」
「……一部屋?」
「うん!」
カエデは何の疑問も抱いていない顔で頷いた。
「だって、別々に部屋を取るより安く済むでしょ?」
「いや、それは……」
アレルは珍しく言葉に詰まった。
「……お前、それでいいのか?」
「え? うん。何か問題ある?」
「問題というか……」
アレルは困ったように視線を逸らしたので、カエデは首を傾げる。
「……もしかして、嫌だった?」
「そうじゃない!」
思ったより大きな声が出た。
主人が、カウンターの向こうでぴくりと眉を上げる。
アレルははっとして声を落とした。
「……そうじゃない。お前が、それでいいのかと聞いているんだ」
「うん。私はいいよ」
カエデはきょとんとした。
そして、少し考えてから、にっこり笑った。
「だって、アレルのこと信頼してるもの」
「…………」
アレルが、完全に固まった。
カエデはそんな彼を不思議そうに見つめる。
「……アレル?」
「……いいから、宿の手続きをするぞ」
アレルは主人に向き直り、宿泊の手続きを始めた。
その耳が、ほんのり赤くなっていることには気づかないふりをしておいた。
主人は二人を交互に見ながら、微笑ましそうに目を細めた。
「仲良しなんですねえ」
「えっ?」
カエデが顔を上げる。
「い、いやいや! そういうんじゃなくて!」
「……仲良し?」
アレルまで、なぜか聞き返した。
主人は楽しそうに笑う。
「はいはい。お若いお二人ですからねえ」
「ち、違いますってば!」
カエデが慌てて手を振る。
「私たち、今日会ったばっかりなんです!」
「今日?」
主人は目を丸くしたあと、ますます楽しそうな顔になった。
「まあまあ。それでそんなに信頼し合っているなんて、素敵じゃないですか」
「だから、そういう意味じゃ……!」
カエデは言いかけて、ふと隣を見ると、アレルは何も言わず、料金を支払っていた。
けれど、顔をこちらに向けようとはしない。
――もしかして、照れてる?
そう思った途端、カエデの胸が妙に弾んだ。
「……カエデ。部屋に行くぞ」
「あっ、うん!」
アレルの声に、カエデは慌てて後を追った。
主人の楽しそうな笑い声を背中に聞きながら。
案内された部屋は、思っていたよりもずっと落ち着いた場所だった。
木の壁に、小さな窓。部屋の隅には荷物を置ける棚があり、二つのベッドが並んでいる。
窓の外からは、村の人々の話し声がかすかに聞こえた。
「……はああああ……」
部屋に入った途端、カエデは大きく息を吐いた。
「つ、着いた……。本当に、着いた……」
「そんなに疲れたのか?」
「疲れたよお……!」
カエデは荷物を置くと、その場にしゃがみ込んだ。
「もう足が動かない……。明日、筋肉痛で歩けなくなってたらどうしよう……」
「筋肉痛?」
「えっと、たくさん歩いたあとに、筋肉が痛くなること!」
「……そうか」
アレルは少し考えてから、荷物を棚に置いた。
「明日は、今日よりもゆっくり進もう」
「……いいの?」
「ああ。お前の歩ける速さに合わせる」
その言葉に、カエデは顔を上げた。
「でも、アレルの旅なのに……」
「お前も一緒に来るんだろう」
「……うん」
「なら、二人で進める速さを考える。それだけだ」
あまりにも当たり前のように言うものだから、カエデは返事に困った。
自分は、彼の足手まといになるかもしれない。
戦うこともできないし、魔法だって使えない。
それなのに、アレルは置いていこうとしない。
「……アレルって、優しいね」
「そうか?」
「うん」
「……そういうことを、簡単に言うな」
「えっ?」
アレルは荷物を整理するふりをして、顔を背けた。
カエデはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「……ふふっ」
「何だ?」
「ううん。なんでもない!」
きっと、まだ知らないことがたくさんある。
アレルのことも。
この世界のことも。
自分がこれからどうなっていくのかも。
それでも、今夜だけは。
知らない世界で、ひとりきりではなかった。
そのことが、カエデには嬉しかった。
* * *
夜。
宿屋の灯りが落ち着き、廊下から聞こえていた足音も、いつしか途絶えていた。
カエデはベッドの上に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。
隣のベッドでは、アレルが明日の支度を終え、剣を手の届くところへ置いている。
「……ねえ、アレル」
「何だ?」
「アレルって、すぐ眠れるタイプ?」
「……急に何だ」
「いや、私、疲れてるのに、なんか逆に目が冴えちゃって」
本当は、違った。
疲れている。
身体はとっくに休みたがっている。
それなのに、目を閉じると、別の景色が浮かんでしまう。
自分の部屋。
いつもの机。
学校の教室。
友達の声。
何も変わらないと思っていた、昨日までの日常。
「……カエデ?」
「……ううん。なんでもない」
カエデは毛布を胸元まで引き上げた。
「アレルはさ。怖くないの?」
「何がだ?」
「旅。知らない場所に行って、魔物と戦って……。いつ何が起きるかわからないでしょ?」
アレルは少し黙った。
やがて、静かな声で答えた。
「怖くないわけじゃない」
カエデは目を瞬かせた。
「……そうなの?」
「ああ。危険なこともあるし、失敗することもある。俺が判断を間違えれば、誰かが傷つくかもしれない」
「…………」
「それでも、進まなければならないときがある」
その声は、落ち着いていた。
無理に強がっているようには聞こえなかった。
怖さを知ったうえで、それでも進む。
それが、アレルなのだろう。
「……そっか」
カエデは、そっと笑った。
「じゃあ、私も頑張らなきゃね」
「無理はするな」
「うん。でも、できることはしたい」
「……そうか」
アレルは、それ以上何も言わなかった。
けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。
カエデは目を閉じた。
――どうしたら、帰れるんだろう。
ふと、そんな考えが胸の奥から浮かび上がる。
自分は、どうしてここに来てしまったのだろう。
元の世界へ戻る方法はあるのだろうか。
もし、帰れなかったら?
もう二度と、家族にも、友達にも会えなかったら?
「…………」
喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
ついさっきまで、旅が楽しみだと思っていた。
知らない世界を歩いて、魔物と戦って、勇者と一緒に冒険する。
そんな状況に、どこか浮かれていたのかもしれない。
でも、本当は。
怖い。
寂しい。
帰りたい。
家族の声が聞きたい。
いつもの部屋で眠りたい。
そんな気持ちが、胸の奥から溢れてくる。
……アレルは、もう眠ってしまったのだろうか。
カエデはそっと寝返りを打ち、毛布を握りしめた。
アレルは優しかった。
村の人たちも、怖い人ばかりではなかった。
旅だって、きっと楽しいことがたくさんある。
それなのに、どうして。
「……帰りたいな……」
ぽつりと呟いた言葉は、夜の静けさに溶けていった。
まぶたが重い。
今日一日歩き続けた身体は、もう限界だった。
頭の中で、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
明日は、何時に起きるんだろう。
レーベでは、何をするんだろう。
ナジミの塔って、どんなところだったっけ。
考えがまとまらない。
やがて、カエデの呼吸はゆっくりと深くなっていった。
握りしめていた毛布から、少しずつ力が抜ける。
カエデは、寂しさを抱えたまま、旅の疲れに身を委ねるように眠りへ落ちていった。
窓の外では、レーベの夜風が静かに木々を揺らしていた。
赤いマントを夕風になびかせながら、アレルは迷いのない足取りで町の出口へ向かっている。
石造りの建物が並ぶ通り。行き交う人々の声。店先から漂う食べ物の匂い。
見慣れない景色のはずなのに、どこか懐かしい。
昨日までの自分なら、こんな場所を本物として歩く日が来るなんて、夢にも思わなかっただろう。
それなのに、今はそのすべてが現実だった。
風が吹けば頬を撫でるし、石畳を歩けば足の裏に硬さが伝わる。
そして、隣には――。
「カエデ?」
呼ばれて顔を上げる。
アレルが少し先でこちらを振り返っていた。
「どうした?」
「ううん! なんでもない!」
カエデは慌てて首を振り、小走りで彼の隣に並んだ。
「ちょっと、感動してただけ!」
「何に?」
「えっと……旅立ち?」
「……そうか」
「反応薄くない!?」
「いや。感動するようなことかと思って」
「するよ! だって、これから冒険が始まるんだよ!?」
思わず声を弾ませてから、カエデははっと口をつぐんだ。
冒険。
その言葉を、自分が口にしている。
昨日まで、画面の向こう側にあったもの。何度も遊んで、何度も見て、何度も知っているつもりになっていたもの。
それが今、自分の目の前にある。
「……カエデ、歩きながら考え事をするな。転ぶぞ」
「してないよ!?」
「していた」
「うそっ!」
アレルはそれ以上何も言わず、前を向いて歩き始めた。
その横顔を見つめながら、カエデは頬を膨らませる。
――なんか、思ってたより普通の男の子だなあ。
勇者といえば、もっとこう、堂々としていて、いつも自信に満ちていて、何を考えているのかすぐにわかるような人を想像していた。
けれど、実際のアレルは必要なことしか言わないし、時々こちらの反応に困ったような顔をする。
それがなんだか、おかしかった。
そして、少しだけ安心した。
「ねえ、アレル」
「今度はなんだ?」
「今日の予定、もう一回確認してもいい?」
「ああ。まずはレーベという村に向かう。そこで必要なものを揃えて、情報を集める」
レーベ。
カエデは心の中でその名前を繰り返した。
その名前を聞いただけで、脳内に地形や道順が浮かびかける。
けれど、知っていることをそのまま口にするわけにはいかない。
この世界のことを、どうして自分が知っているのか。
アレルに不審に思われたら、説明できない。
「何か気になるのか?」
「ううん! なんだか冒険っぽいなあって!」
「……そうか」
危なかった。
カエデは内心で胸をなで下ろした。
そのとき、アレルがふと足を止めた。
「その前に、装備を見直すぞ」
「装備?」
「お前、その格好でどこまで歩くつもりだ?」
カエデは自分の制服を見下ろした。
ブレザーに、少し短めのスカート。見慣れた制服は、今となってはこの世界でひどく浮いている。
「……どこまででも?」
「無理だ」
即答だった。
「ですよねー……」
「せめて、足を痛めない靴と、荷物を入れる袋くらいは必要だ。ほかにも、旅に使えるものを見ておきたい」
「でも、私、お金ないよ?」
「わかっている」
「わかってるんだ……」
「だから、必要なものから考える」
アレルは淡々と答えた。
その声には責めるような響きはなかった。
カエデが困っていることを、当たり前のように自分たちの問題として考えてくれている。
それが、少しくすぐったかった。
「……ありがと」
「礼を言うほどのことじゃない」
「そういうところだよねえ」
「何がだ?」
「ううん。なんでもない!」
二人は日が暮れる前に、必要なものを揃えることにした。
アレルは自分の装備を点検し、道具屋で薬草などの消耗品を確認する。カエデには歩きやすい靴と、最低限の荷物を入れる袋を用意した。
新品の靴に足を入れたカエデは、店先で何度も足踏みをした。
「おお……! 歩きやすい!」
「今までの靴は、そんなに歩きにくいのか?」
「うん。というか、こういう道を何時間も歩くこと自体、あんまり経験ないから」
「何時間も?」
「えっ」
カエデは固まった。
「……いや、その、学校まで歩くことはあるけど! ほら、こんなに長い距離を歩くのは初めてって意味!」
「学校?」
「あっ」
しまった。
アレルの視線がこちらに向く。
「それがお前のいた世界のものか?」
「う、うん! 学校っていうのはね、同じくらいの年の子たちが集まって、勉強したり、友達と話したりするところなの」
「勉強するための場所か」
「そうそう。私も、そこに通ってたんだ」
「……そうか」
アレルは少し考えるように黙った。
「お前も、そこで友人と過ごしていたんだな」
その言葉に、カエデの笑顔がわずかに揺れた。
友達。
教室。
いつもの帰り道。
当たり前のように交わしていた挨拶や、何気ない会話。
昨日までなら、何ひとつ特別だとは思わなかったものばかりだ。
「……うん」
カエデは、できるだけ明るい声で答えた。
「友達とおしゃべりしたり、授業が面倒だって文句を言ったり。普通の高校生だったよ」
「コウコウセイ?」
「あっ、ええと……学校に通っている年頃の子、ってこと!」
「なるほど」
アレルはそれ以上、深く尋ねなかった。
カエデは少しだけ驚いた。
もっと詳しく聞かれると思ったのだ。どういう世界なのか、どこにあるのか、なぜここに来たのか。
けれど、アレルは必要以上に踏み込んでこなかった。
「……アレルは?」
「何がだ?」
「学校とか、行ってたの?」
「いや。俺は剣の扱い方や、旅に必要なことを教わってきた」
「そっか。じゃあ、勉強っていうより、修行?」
「そうなるな」
「毎日?」
「ああ」
「ええっ、すご……。私だったら三日で音を上げるかも」
「三日も続くなら十分だろう」
「えっ、そういうもの?」
「知らない」
「知らないんかい!」
思わず突っ込むと、アレルは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんの少し口元を緩めた。
笑った。
ほんの一瞬だったけれど、確かに。
カエデは目を輝かせる。
「今、笑った!」
「笑っていない」
「笑ったよね!?」
「気のせいだ」
「絶対笑った!」
「そろそろ行くぞ」
二人の声が、夕暮れの町に溶けていった。
アリアハンの門を抜けた頃には、太陽は地平線に近づいていた。
草原を渡る風が、少し強くなる。
道の脇には背の低い草が生い茂り、その向こうには緩やかな丘が続いている。遠くで鳥の声がした。
カエデは、初めこそ物珍しさに周囲を見回していたものの、次第に歩くことに集中するようになっていた。
――思ったより、疲れる……!
舗装された道ばかりではない。
足元の土は柔らかいところもあれば、石がごろごろしているところもある。歩き慣れない靴はさっきよりも重く感じられ、少しずつ足がだるくなってきた。
それでも、弱音を吐くのはまだ早い。
何しろ、隣を歩いているのは勇者アレルなのだ。
自分よりずっと厳しい旅を覚悟している人に、出発してすぐ「疲れた」とは言いにくかった。
「……カエデ」
「な、なに?」
「歩くのが遅くなっている」
「いやー、ほら! 景色がきれいだから、つい見ちゃって!」
「さっきから、ずっと足元を見ているが」
見抜かれていた。
アレルは少し考えてから、歩調を落とした。
「休むか?」
「だ、大丈夫!」
「無理をする必要はない」
「ほんとに大丈夫だって!」
カエデは胸を張った。
その直後、草むらの向こうで何かが動いた。
がさり、と葉が揺れる。
カエデの足が止まった。
「……アレル」
「わかっている」
アレルは腰の剣に手をかけ、カエデを自分の後ろへ下がらせた。
草むらから飛び出してきたのは、青い身体をぷるぷると揺らす、小さな魔物だった。
「……スライム!」
思わず声が漏れる。
見慣れた形。
見慣れた色。
何度も画面の中で見た、あの魔物。
けれど、今目の前にいるスライムは、画面の中のものとは違っていた。
草を踏みしめる音がする。
身体が揺れるたびに、表面に光が走る。
こちらを見上げる丸い目には、はっきりとした敵意があった。
「カエデ、下がっていろ」
アレルが前へ出る。
スライムは身体を低く沈めたかと思うと、弾かれたように飛び出した。
「えっ、速――!」
どんっ!
鈍い音が響いた。
アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを受け止める。衝撃に足元の土がわずかにえぐれた。
「……っ!」
一匹だけ。
たった一匹のスライムなのに。
その一撃は、カエデが想像していたよりずっと重かった。
アレルは剣を振り、スライムを押し返す。
地面に弾んだスライムは、すぐさま体勢を立て直した。
「アレル、気をつけて! もう一度、跳んでくる!」
「わかっている!」
スライムが再び跳ねる。
今度は真正面からではない。斜めに軌道を変え、アレルの横へ回り込もうとした。
アレルは素早く身体をひねり、剣を振り抜く。
刃が青い身体を捉えた。
スライムは地面に落ち、何度か小さく震えたあと、やがて動かなくなった。
風の音だけが戻ってくる。
「……終わった、の?」
カエデは恐る恐る尋ねた。
「ああ」
アレルは剣を収め、倒れたスライムを確認した。
それから、こちらを振り返る。
「怪我は?」
「えっ、私? 私は大丈夫!」
「そうか」
アレルの声は、いつもと変わらなかった。
けれど、カエデは気づいてしまった。
彼の手が、ほんの少しだけ強く剣の柄を握っていたことに。
――そっか。
――本当に、戦ってるんだ。
自分が知っている物語と、目の前の現実は同じではない。
知識があれば安全だなんて、そんな保証はどこにもない。
カエデは、ぎゅっと自分の服を握った。
「……ありがとう、アレル」
「礼を言うことじゃない」
「でも、怖かった」
正直な言葉だった。
アレルは少しだけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「……そうだな」
その声は、思いのほか優しかった。
「怖いと思うなら、無理に近づくな。俺の後ろにいればいい」
「……うん」
カエデは頷いた。
けれど、その直後。
「ただし」
アレルが付け加えた。
「危ないときは、俺の言うことを聞け」
「えっ、あ、はい!」
「勝手に飛び出すな。魔物がいたら、まず距離を取れ」
「わ、わかりました……」
「本当にわかっているのか?」
「わかってるってば!」
思わず言い返してから、カエデは少しだけ笑った。
怖かった。
今だって、胸の鼓動はまだ速い。
それでも、アレルが隣にいてくれることが、心強かった。
その後、二人は何度か魔物と遭遇した。
スライムの群れに出くわしたとき、カエデは最初の戦闘を思い出し、思わず身構えた。
けれど、今度は少しだけ落ち着いて周囲を見ることができた。
「アレル、右から来る!」
「見えている!」
アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを切り払う。
もう一匹が背後へ回ろうとした瞬間、カエデが声を上げた。
「後ろ!」
アレルは振り向きざまに一歩踏み込み、攻撃をかわした。
そのまま剣を振るう。
戦いが終わる頃には、カエデの緊張も少しずつ薄れていた。
空は、いつの間にか夕焼けから深い藍色へと変わり始めていた。
「……すごい」
「何がだ?」
「いや、だって……本当に強いんだなって」
「まだまだだ」
「ええっ、これで!?」
アレルは答えず、剣についた汚れを拭った。
「もっと強くならないといけない」
その言葉には、冗談の響きがなかった。
カエデは彼の横顔を見つめた。
バラモスを倒す。
それが、アレルの目指すもの。
けれど、その道のりがどれほど遠いのか、彼自身もわかっているのだろう。
だからこそ、目の前の一戦にも手を抜かない。
「……アレルって、真面目だね」
「そうか?」
「うん。すっごく」
「お前が不真面目なだけじゃないのか」
「ひどっ!?」
今度は、アレルがはっきりと笑った。
カエデは一瞬、言葉を失った。
そして、すぐに指を突きつける。
「やっぱり笑った!」
「……もういいだろう」
「よくないよ! 今度は絶対に見逃さないからね!」
「何を見逃さないんだ……」
呆れたような声。
けれど、その表情はさっきよりも柔らかかった。
カエデは、それだけで少し嬉しくなった。
やがて、辺りはすっかり暗くなった。
空には星が瞬き始め、遠くの草原には夜の気配が満ちている。
そのとき、道の向こうに小さな村の明かりが見えた。
木々の間から屋根が覗き、家々の窓にはぽつぽつと灯りがともっている。
その景色を見た瞬間、カエデの顔がぱっと明るくなった。
「……あっ!」
「レーベだ」
アレルが答えるより早く、カエデは声を上げた。
「レーベだああ……!」
「……知っていたのか?」
「えっ!? あ、いや! さっき聞いたから! ほら、今日の目的地!」
「……そうか」
危ない。
また、口が滑るところだった。
カエデは慌てて咳払いをした。
「そ、それより! 早く行こうよ!」
「ああ」
歩き出したアレルの背中を追いかける。
足は痛いし、肩も重い。
けれど、村の明かりが見えた途端、身体の奥に残っていた力が少しだけ戻ってきた。
あと少し。
あと少し歩けば、休める。
そう思った瞬間だった。
「……カエデ」
「なに……?」
「足元」
「へ?」
次の一歩で、カエデのつま先が小さな石に引っかかった。
「あっ――!」
身体が前へ傾く。
転ぶ、と思った瞬間、腕を掴まれた。
アレルだった。
「……大丈夫か?」
「…………」
カエデは、掴まれた腕を見つめた。
それから、彼の顔を見上げる。
「……ありがとう」
「気をつけろ」
「はい……」
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
けれど、手を離すときのアレルの動きはあまりにも自然で、まるでそれが当たり前のことみたいだった。
カエデは、少しだけ頬を緩めた。
――この人と一緒なら。
――なんとか、頑張れるかもしれない。
そんな気がした。
レーベの村に着いた頃には、空はすっかり夜に包まれていた。
村の入り口をくぐると、家々の窓から温かな明かりが漏れている。どこかの家から食事の匂いが漂い、通りを歩く人々の声が聞こえてきた。
昼間とは違う、静かで穏やかな村の風景。
その光景を目にした途端、カエデは心の底から安堵した。
「……つ、着いた……!」
「着いたな」
「着いたよ……! レーベだよ……!」
「さっきも聞いた」
「だって……! だって……!」
言葉が続かない。
疲れた。
とにかく、疲れた。
歩き続けた足は棒のようで、肩も腰も重い。最初のうちは楽しかった道のりも、最後の方は一歩進むたびに心の中で「あと何歩……?」と数えていたくらいだ。
アレルは、そんなカエデの様子を見て小さく息をついた。
「まずは宿を探そう」
「……天使……」
「何?」
「なんでもないです……」
今はもう、冗談を言う気力さえ残っていなかった。
二人は村の中を進み、宿屋を見つけると中へ入った。
扉を開けると、温かな空気と、木の床の匂いが迎えてくれる。
カウンターの向こうにいた主人が、二人に気づいて顔を上げた。
「いらっしゃい。旅の方かい?」
「ああ。一晩、泊まりたい」
アレルが答える。
主人は二人を見比べ、にこりと笑った。
「お二人で一部屋かな?」
「はい!」
カエデが即答した。
「……え?」
アレルが振り返る。
「カエデ?」
「なに?」
「……一部屋?」
「うん!」
カエデは何の疑問も抱いていない顔で頷いた。
「だって、別々に部屋を取るより安く済むでしょ?」
「いや、それは……」
アレルは珍しく言葉に詰まった。
「……お前、それでいいのか?」
「え? うん。何か問題ある?」
「問題というか……」
アレルは困ったように視線を逸らしたので、カエデは首を傾げる。
「……もしかして、嫌だった?」
「そうじゃない!」
思ったより大きな声が出た。
主人が、カウンターの向こうでぴくりと眉を上げる。
アレルははっとして声を落とした。
「……そうじゃない。お前が、それでいいのかと聞いているんだ」
「うん。私はいいよ」
カエデはきょとんとした。
そして、少し考えてから、にっこり笑った。
「だって、アレルのこと信頼してるもの」
「…………」
アレルが、完全に固まった。
カエデはそんな彼を不思議そうに見つめる。
「……アレル?」
「……いいから、宿の手続きをするぞ」
アレルは主人に向き直り、宿泊の手続きを始めた。
その耳が、ほんのり赤くなっていることには気づかないふりをしておいた。
主人は二人を交互に見ながら、微笑ましそうに目を細めた。
「仲良しなんですねえ」
「えっ?」
カエデが顔を上げる。
「い、いやいや! そういうんじゃなくて!」
「……仲良し?」
アレルまで、なぜか聞き返した。
主人は楽しそうに笑う。
「はいはい。お若いお二人ですからねえ」
「ち、違いますってば!」
カエデが慌てて手を振る。
「私たち、今日会ったばっかりなんです!」
「今日?」
主人は目を丸くしたあと、ますます楽しそうな顔になった。
「まあまあ。それでそんなに信頼し合っているなんて、素敵じゃないですか」
「だから、そういう意味じゃ……!」
カエデは言いかけて、ふと隣を見ると、アレルは何も言わず、料金を支払っていた。
けれど、顔をこちらに向けようとはしない。
――もしかして、照れてる?
そう思った途端、カエデの胸が妙に弾んだ。
「……カエデ。部屋に行くぞ」
「あっ、うん!」
アレルの声に、カエデは慌てて後を追った。
主人の楽しそうな笑い声を背中に聞きながら。
案内された部屋は、思っていたよりもずっと落ち着いた場所だった。
木の壁に、小さな窓。部屋の隅には荷物を置ける棚があり、二つのベッドが並んでいる。
窓の外からは、村の人々の話し声がかすかに聞こえた。
「……はああああ……」
部屋に入った途端、カエデは大きく息を吐いた。
「つ、着いた……。本当に、着いた……」
「そんなに疲れたのか?」
「疲れたよお……!」
カエデは荷物を置くと、その場にしゃがみ込んだ。
「もう足が動かない……。明日、筋肉痛で歩けなくなってたらどうしよう……」
「筋肉痛?」
「えっと、たくさん歩いたあとに、筋肉が痛くなること!」
「……そうか」
アレルは少し考えてから、荷物を棚に置いた。
「明日は、今日よりもゆっくり進もう」
「……いいの?」
「ああ。お前の歩ける速さに合わせる」
その言葉に、カエデは顔を上げた。
「でも、アレルの旅なのに……」
「お前も一緒に来るんだろう」
「……うん」
「なら、二人で進める速さを考える。それだけだ」
あまりにも当たり前のように言うものだから、カエデは返事に困った。
自分は、彼の足手まといになるかもしれない。
戦うこともできないし、魔法だって使えない。
それなのに、アレルは置いていこうとしない。
「……アレルって、優しいね」
「そうか?」
「うん」
「……そういうことを、簡単に言うな」
「えっ?」
アレルは荷物を整理するふりをして、顔を背けた。
カエデはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「……ふふっ」
「何だ?」
「ううん。なんでもない!」
きっと、まだ知らないことがたくさんある。
アレルのことも。
この世界のことも。
自分がこれからどうなっていくのかも。
それでも、今夜だけは。
知らない世界で、ひとりきりではなかった。
そのことが、カエデには嬉しかった。
* * *
夜。
宿屋の灯りが落ち着き、廊下から聞こえていた足音も、いつしか途絶えていた。
カエデはベッドの上に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。
隣のベッドでは、アレルが明日の支度を終え、剣を手の届くところへ置いている。
「……ねえ、アレル」
「何だ?」
「アレルって、すぐ眠れるタイプ?」
「……急に何だ」
「いや、私、疲れてるのに、なんか逆に目が冴えちゃって」
本当は、違った。
疲れている。
身体はとっくに休みたがっている。
それなのに、目を閉じると、別の景色が浮かんでしまう。
自分の部屋。
いつもの机。
学校の教室。
友達の声。
何も変わらないと思っていた、昨日までの日常。
「……カエデ?」
「……ううん。なんでもない」
カエデは毛布を胸元まで引き上げた。
「アレルはさ。怖くないの?」
「何がだ?」
「旅。知らない場所に行って、魔物と戦って……。いつ何が起きるかわからないでしょ?」
アレルは少し黙った。
やがて、静かな声で答えた。
「怖くないわけじゃない」
カエデは目を瞬かせた。
「……そうなの?」
「ああ。危険なこともあるし、失敗することもある。俺が判断を間違えれば、誰かが傷つくかもしれない」
「…………」
「それでも、進まなければならないときがある」
その声は、落ち着いていた。
無理に強がっているようには聞こえなかった。
怖さを知ったうえで、それでも進む。
それが、アレルなのだろう。
「……そっか」
カエデは、そっと笑った。
「じゃあ、私も頑張らなきゃね」
「無理はするな」
「うん。でも、できることはしたい」
「……そうか」
アレルは、それ以上何も言わなかった。
けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。
カエデは目を閉じた。
――どうしたら、帰れるんだろう。
ふと、そんな考えが胸の奥から浮かび上がる。
自分は、どうしてここに来てしまったのだろう。
元の世界へ戻る方法はあるのだろうか。
もし、帰れなかったら?
もう二度と、家族にも、友達にも会えなかったら?
「…………」
喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
ついさっきまで、旅が楽しみだと思っていた。
知らない世界を歩いて、魔物と戦って、勇者と一緒に冒険する。
そんな状況に、どこか浮かれていたのかもしれない。
でも、本当は。
怖い。
寂しい。
帰りたい。
家族の声が聞きたい。
いつもの部屋で眠りたい。
そんな気持ちが、胸の奥から溢れてくる。
……アレルは、もう眠ってしまったのだろうか。
カエデはそっと寝返りを打ち、毛布を握りしめた。
アレルは優しかった。
村の人たちも、怖い人ばかりではなかった。
旅だって、きっと楽しいことがたくさんある。
それなのに、どうして。
「……帰りたいな……」
ぽつりと呟いた言葉は、夜の静けさに溶けていった。
まぶたが重い。
今日一日歩き続けた身体は、もう限界だった。
頭の中で、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
明日は、何時に起きるんだろう。
レーベでは、何をするんだろう。
ナジミの塔って、どんなところだったっけ。
考えがまとまらない。
やがて、カエデの呼吸はゆっくりと深くなっていった。
握りしめていた毛布から、少しずつ力が抜ける。
カエデは、寂しさを抱えたまま、旅の疲れに身を委ねるように眠りへ落ちていった。
窓の外では、レーベの夜風が静かに木々を揺らしていた。
