DQ3 夜明けの果てに君と

ルイーダの酒場を出てから、カエデは隣を歩く勇者の姿を何度もちらりと見ていた。

赤いマントを夕風になびかせながら、アレルは迷いのない足取りで町の出口へ向かっている。

石造りの建物が並ぶ通り。行き交う人々の声。店先から漂う食べ物の匂い。

見慣れない景色のはずなのに、どこか懐かしい。

昨日までの自分なら、こんな場所を本物として歩く日が来るなんて、夢にも思わなかっただろう。

それなのに、今はそのすべてが現実だった。

風が吹けば頬を撫でるし、石畳を歩けば足の裏に硬さが伝わる。

そして、隣には――。

「カエデ?」

呼ばれて顔を上げる。

アレルが少し先でこちらを振り返っていた。

「どうした?」

「ううん! なんでもない!」

カエデは慌てて首を振り、小走りで彼の隣に並んだ。

「ちょっと、感動してただけ!」

「何に?」

「えっと……旅立ち?」

「……そうか」

「反応薄くない!?」

「いや。感動するようなことかと思って」

「するよ! だって、これから冒険が始まるんだよ!?」

思わず声を弾ませてから、カエデははっと口をつぐんだ。

冒険。

その言葉を、自分が口にしている。

昨日まで、画面の向こう側にあったもの。何度も遊んで、何度も見て、何度も知っているつもりになっていたもの。

それが今、自分の目の前にある。

「……カエデ、歩きながら考え事をするな。転ぶぞ」

「してないよ!?」

「していた」

「うそっ!」

アレルはそれ以上何も言わず、前を向いて歩き始めた。

その横顔を見つめながら、カエデは頬を膨らませる。

――なんか、思ってたより普通の男の子だなあ。

勇者といえば、もっとこう、堂々としていて、いつも自信に満ちていて、何を考えているのかすぐにわかるような人を想像していた。

けれど、実際のアレルは必要なことしか言わないし、時々こちらの反応に困ったような顔をする。

それがなんだか、おかしかった。

そして、少しだけ安心した。

「ねえ、アレル」

「今度はなんだ?」

「今日の予定、もう一回確認してもいい?」

「ああ。まずはレーベという村に向かう。そこで必要なものを揃えて、情報を集める」

レーベ。

カエデは心の中でその名前を繰り返した。

その名前を聞いただけで、脳内に地形や道順が浮かびかける。

けれど、知っていることをそのまま口にするわけにはいかない。

この世界のことを、どうして自分が知っているのか。

アレルに不審に思われたら、説明できない。

「何か気になるのか?」

「ううん! なんだか冒険っぽいなあって!」

「……そうか」

危なかった。

カエデは内心で胸をなで下ろした。

そのとき、アレルがふと足を止めた。

「その前に、装備を見直すぞ」

「装備?」

「お前、その格好でどこまで歩くつもりだ?」

カエデは自分の制服を見下ろした。

ブレザーに、少し短めのスカート。見慣れた制服は、今となってはこの世界でひどく浮いている。

「……どこまででも?」

「無理だ」

即答だった。

「ですよねー……」

「せめて、足を痛めない靴と、荷物を入れる袋くらいは必要だ。ほかにも、旅に使えるものを見ておきたい」

「でも、私、お金ないよ?」

「わかっている」

「わかってるんだ……」

「だから、必要なものから考える」

アレルは淡々と答えた。

その声には責めるような響きはなかった。

カエデが困っていることを、当たり前のように自分たちの問題として考えてくれている。

それが、少しくすぐったかった。

「……ありがと」

「礼を言うほどのことじゃない」

「そういうところだよねえ」

「何がだ?」

「ううん。なんでもない!」

二人は日が暮れる前に、必要なものを揃えることにした。

アレルは自分の装備を点検し、道具屋で薬草などの消耗品を確認する。カエデには歩きやすい靴と、最低限の荷物を入れる袋を用意した。

新品の靴に足を入れたカエデは、店先で何度も足踏みをした。

「おお……! 歩きやすい!」

「今までの靴は、そんなに歩きにくいのか?」

「うん。というか、こういう道を何時間も歩くこと自体、あんまり経験ないから」

「何時間も?」

「えっ」

カエデは固まった。

「……いや、その、学校まで歩くことはあるけど! ほら、こんなに長い距離を歩くのは初めてって意味!」

「学校?」

「あっ」

しまった。

アレルの視線がこちらに向く。

「それがお前のいた世界のものか?」

「う、うん! 学校っていうのはね、同じくらいの年の子たちが集まって、勉強したり、友達と話したりするところなの」

「勉強するための場所か」

「そうそう。私も、そこに通ってたんだ」

「……そうか」

アレルは少し考えるように黙った。

「お前も、そこで友人と過ごしていたんだな」

その言葉に、カエデの笑顔がわずかに揺れた。

友達。

教室。

いつもの帰り道。

当たり前のように交わしていた挨拶や、何気ない会話。

昨日までなら、何ひとつ特別だとは思わなかったものばかりだ。

「……うん」

カエデは、できるだけ明るい声で答えた。

「友達とおしゃべりしたり、授業が面倒だって文句を言ったり。普通の高校生だったよ」

「コウコウセイ?」

「あっ、ええと……学校に通っている年頃の子、ってこと!」

「なるほど」

アレルはそれ以上、深く尋ねなかった。

カエデは少しだけ驚いた。

もっと詳しく聞かれると思ったのだ。どういう世界なのか、どこにあるのか、なぜここに来たのか。

けれど、アレルは必要以上に踏み込んでこなかった。

「……アレルは?」

「何がだ?」

「学校とか、行ってたの?」

「いや。俺は剣の扱い方や、旅に必要なことを教わってきた」

「そっか。じゃあ、勉強っていうより、修行?」

「そうなるな」

「毎日?」

「ああ」

「ええっ、すご……。私だったら三日で音を上げるかも」

「三日も続くなら十分だろう」

「えっ、そういうもの?」

「知らない」

「知らないんかい!」

思わず突っ込むと、アレルは一瞬だけ目を丸くした。

それから、ほんの少し口元を緩めた。

笑った。

ほんの一瞬だったけれど、確かに。

カエデは目を輝かせる。

「今、笑った!」

「笑っていない」

「笑ったよね!?」

「気のせいだ」

「絶対笑った!」

「そろそろ行くぞ」

二人の声が、夕暮れの町に溶けていった。

アリアハンの門を抜けた頃には、太陽は地平線に近づいていた。

草原を渡る風が、少し強くなる。

道の脇には背の低い草が生い茂り、その向こうには緩やかな丘が続いている。遠くで鳥の声がした。

カエデは、初めこそ物珍しさに周囲を見回していたものの、次第に歩くことに集中するようになっていた。

――思ったより、疲れる……!

舗装された道ばかりではない。

足元の土は柔らかいところもあれば、石がごろごろしているところもある。歩き慣れない靴はさっきよりも重く感じられ、少しずつ足がだるくなってきた。

それでも、弱音を吐くのはまだ早い。

何しろ、隣を歩いているのは勇者アレルなのだ。

自分よりずっと厳しい旅を覚悟している人に、出発してすぐ「疲れた」とは言いにくかった。

「……カエデ」

「な、なに?」

「歩くのが遅くなっている」

「いやー、ほら! 景色がきれいだから、つい見ちゃって!」

「さっきから、ずっと足元を見ているが」

見抜かれていた。

アレルは少し考えてから、歩調を落とした。

「休むか?」

「だ、大丈夫!」

「無理をする必要はない」

「ほんとに大丈夫だって!」

カエデは胸を張った。

その直後、草むらの向こうで何かが動いた。

がさり、と葉が揺れる。

カエデの足が止まった。

「……アレル」

「わかっている」

アレルは腰の剣に手をかけ、カエデを自分の後ろへ下がらせた。

草むらから飛び出してきたのは、青い身体をぷるぷると揺らす、小さな魔物だった。

「……スライム!」

思わず声が漏れる。

見慣れた形。

見慣れた色。

何度も画面の中で見た、あの魔物。

けれど、今目の前にいるスライムは、画面の中のものとは違っていた。

草を踏みしめる音がする。

身体が揺れるたびに、表面に光が走る。

こちらを見上げる丸い目には、はっきりとした敵意があった。

「カエデ、下がっていろ」

アレルが前へ出る。

スライムは身体を低く沈めたかと思うと、弾かれたように飛び出した。

「えっ、速――!」

どんっ!

鈍い音が響いた。

アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを受け止める。衝撃に足元の土がわずかにえぐれた。

「……っ!」

一匹だけ。

たった一匹のスライムなのに。

その一撃は、カエデが想像していたよりずっと重かった。

アレルは剣を振り、スライムを押し返す。

地面に弾んだスライムは、すぐさま体勢を立て直した。

「アレル、気をつけて! もう一度、跳んでくる!」

「わかっている!」

スライムが再び跳ねる。

今度は真正面からではない。斜めに軌道を変え、アレルの横へ回り込もうとした。

アレルは素早く身体をひねり、剣を振り抜く。

刃が青い身体を捉えた。

スライムは地面に落ち、何度か小さく震えたあと、やがて動かなくなった。

風の音だけが戻ってくる。

「……終わった、の?」

カエデは恐る恐る尋ねた。

「ああ」

アレルは剣を収め、倒れたスライムを確認した。

それから、こちらを振り返る。

「怪我は?」

「えっ、私? 私は大丈夫!」

「そうか」

アレルの声は、いつもと変わらなかった。

けれど、カエデは気づいてしまった。

彼の手が、ほんの少しだけ強く剣の柄を握っていたことに。

――そっか。

――本当に、戦ってるんだ。

自分が知っている物語と、目の前の現実は同じではない。

知識があれば安全だなんて、そんな保証はどこにもない。

カエデは、ぎゅっと自分の服を握った。

「……ありがとう、アレル」

「礼を言うことじゃない」

「でも、怖かった」

正直な言葉だった。

アレルは少しだけ目を見開き、それから静かに頷いた。

「……そうだな」

その声は、思いのほか優しかった。

「怖いと思うなら、無理に近づくな。俺の後ろにいればいい」

「……うん」

カエデは頷いた。

けれど、その直後。

「ただし」

アレルが付け加えた。

「危ないときは、俺の言うことを聞け」

「えっ、あ、はい!」

「勝手に飛び出すな。魔物がいたら、まず距離を取れ」

「わ、わかりました……」

「本当にわかっているのか?」

「わかってるってば!」

思わず言い返してから、カエデは少しだけ笑った。

怖かった。

今だって、胸の鼓動はまだ速い。

それでも、アレルが隣にいてくれることが、心強かった。

その後、二人は何度か魔物と遭遇した。

スライムの群れに出くわしたとき、カエデは最初の戦闘を思い出し、思わず身構えた。

けれど、今度は少しだけ落ち着いて周囲を見ることができた。

「アレル、右から来る!」

「見えている!」

アレルは剣を構え、飛び込んできたスライムを切り払う。

もう一匹が背後へ回ろうとした瞬間、カエデが声を上げた。

「後ろ!」

アレルは振り向きざまに一歩踏み込み、攻撃をかわした。

そのまま剣を振るう。

戦いが終わる頃には、カエデの緊張も少しずつ薄れていた。

空は、いつの間にか夕焼けから深い藍色へと変わり始めていた。

「……すごい」

「何がだ?」

「いや、だって……本当に強いんだなって」

「まだまだだ」

「ええっ、これで!?」

アレルは答えず、剣についた汚れを拭った。

「もっと強くならないといけない」

その言葉には、冗談の響きがなかった。

カエデは彼の横顔を見つめた。

バラモスを倒す。

それが、アレルの目指すもの。

けれど、その道のりがどれほど遠いのか、彼自身もわかっているのだろう。

だからこそ、目の前の一戦にも手を抜かない。

「……アレルって、真面目だね」

「そうか?」

「うん。すっごく」

「お前が不真面目なだけじゃないのか」

「ひどっ!?」

今度は、アレルがはっきりと笑った。

カエデは一瞬、言葉を失った。

そして、すぐに指を突きつける。

「やっぱり笑った!」

「……もういいだろう」

「よくないよ! 今度は絶対に見逃さないからね!」

「何を見逃さないんだ……」

呆れたような声。

けれど、その表情はさっきよりも柔らかかった。

カエデは、それだけで少し嬉しくなった。

やがて、辺りはすっかり暗くなった。

空には星が瞬き始め、遠くの草原には夜の気配が満ちている。

そのとき、道の向こうに小さな村の明かりが見えた。

木々の間から屋根が覗き、家々の窓にはぽつぽつと灯りがともっている。

その景色を見た瞬間、カエデの顔がぱっと明るくなった。

「……あっ!」

「レーベだ」

アレルが答えるより早く、カエデは声を上げた。

「レーベだああ……!」

「……知っていたのか?」

「えっ!? あ、いや! さっき聞いたから! ほら、今日の目的地!」

「……そうか」

危ない。

また、口が滑るところだった。

カエデは慌てて咳払いをした。

「そ、それより! 早く行こうよ!」

「ああ」

歩き出したアレルの背中を追いかける。

足は痛いし、肩も重い。

けれど、村の明かりが見えた途端、身体の奥に残っていた力が少しだけ戻ってきた。

あと少し。

あと少し歩けば、休める。

そう思った瞬間だった。

「……カエデ」

「なに……?」

「足元」

「へ?」

次の一歩で、カエデのつま先が小さな石に引っかかった。

「あっ――!」

身体が前へ傾く。

転ぶ、と思った瞬間、腕を掴まれた。

アレルだった。

「……大丈夫か?」

「…………」

カエデは、掴まれた腕を見つめた。

それから、彼の顔を見上げる。

「……ありがとう」

「気をつけろ」

「はい……」

恥ずかしい。

本当に恥ずかしい。

けれど、手を離すときのアレルの動きはあまりにも自然で、まるでそれが当たり前のことみたいだった。

カエデは、少しだけ頬を緩めた。

――この人と一緒なら。

――なんとか、頑張れるかもしれない。

そんな気がした。

レーベの村に着いた頃には、空はすっかり夜に包まれていた。

村の入り口をくぐると、家々の窓から温かな明かりが漏れている。どこかの家から食事の匂いが漂い、通りを歩く人々の声が聞こえてきた。

昼間とは違う、静かで穏やかな村の風景。

その光景を目にした途端、カエデは心の底から安堵した。

「……つ、着いた……!」

「着いたな」

「着いたよ……! レーベだよ……!」

「さっきも聞いた」

「だって……! だって……!」

言葉が続かない。

疲れた。

とにかく、疲れた。

歩き続けた足は棒のようで、肩も腰も重い。最初のうちは楽しかった道のりも、最後の方は一歩進むたびに心の中で「あと何歩……?」と数えていたくらいだ。

アレルは、そんなカエデの様子を見て小さく息をついた。

「まずは宿を探そう」

「……天使……」

「何?」

「なんでもないです……」

今はもう、冗談を言う気力さえ残っていなかった。

二人は村の中を進み、宿屋を見つけると中へ入った。

扉を開けると、温かな空気と、木の床の匂いが迎えてくれる。

カウンターの向こうにいた主人が、二人に気づいて顔を上げた。

「いらっしゃい。旅の方かい?」

「ああ。一晩、泊まりたい」

アレルが答える。

主人は二人を見比べ、にこりと笑った。

「お二人で一部屋かな?」

「はい!」

カエデが即答した。

「……え?」

アレルが振り返る。

「カエデ?」

「なに?」

「……一部屋?」

「うん!」

カエデは何の疑問も抱いていない顔で頷いた。

「だって、別々に部屋を取るより安く済むでしょ?」

「いや、それは……」

アレルは珍しく言葉に詰まった。

「……お前、それでいいのか?」

「え? うん。何か問題ある?」

「問題というか……」

アレルは困ったように視線を逸らしたので、カエデは首を傾げる。

「……もしかして、嫌だった?」

「そうじゃない!」

思ったより大きな声が出た。

主人が、カウンターの向こうでぴくりと眉を上げる。

アレルははっとして声を落とした。

「……そうじゃない。お前が、それでいいのかと聞いているんだ」

「うん。私はいいよ」

カエデはきょとんとした。

そして、少し考えてから、にっこり笑った。

「だって、アレルのこと信頼してるもの」

「…………」

アレルが、完全に固まった。

カエデはそんな彼を不思議そうに見つめる。

「……アレル?」

「……いいから、宿の手続きをするぞ」

アレルは主人に向き直り、宿泊の手続きを始めた。

その耳が、ほんのり赤くなっていることには気づかないふりをしておいた。

主人は二人を交互に見ながら、微笑ましそうに目を細めた。

「仲良しなんですねえ」

「えっ?」

カエデが顔を上げる。

「い、いやいや! そういうんじゃなくて!」

「……仲良し?」

アレルまで、なぜか聞き返した。

主人は楽しそうに笑う。

「はいはい。お若いお二人ですからねえ」

「ち、違いますってば!」

カエデが慌てて手を振る。

「私たち、今日会ったばっかりなんです!」

「今日?」

主人は目を丸くしたあと、ますます楽しそうな顔になった。

「まあまあ。それでそんなに信頼し合っているなんて、素敵じゃないですか」

「だから、そういう意味じゃ……!」

カエデは言いかけて、ふと隣を見ると、アレルは何も言わず、料金を支払っていた。

けれど、顔をこちらに向けようとはしない。

――もしかして、照れてる?

そう思った途端、カエデの胸が妙に弾んだ。

「……カエデ。部屋に行くぞ」

「あっ、うん!」

アレルの声に、カエデは慌てて後を追った。

主人の楽しそうな笑い声を背中に聞きながら。

案内された部屋は、思っていたよりもずっと落ち着いた場所だった。

木の壁に、小さな窓。部屋の隅には荷物を置ける棚があり、二つのベッドが並んでいる。

窓の外からは、村の人々の話し声がかすかに聞こえた。

「……はああああ……」

部屋に入った途端、カエデは大きく息を吐いた。

「つ、着いた……。本当に、着いた……」

「そんなに疲れたのか?」

「疲れたよお……!」

カエデは荷物を置くと、その場にしゃがみ込んだ。

「もう足が動かない……。明日、筋肉痛で歩けなくなってたらどうしよう……」

「筋肉痛?」

「えっと、たくさん歩いたあとに、筋肉が痛くなること!」

「……そうか」

アレルは少し考えてから、荷物を棚に置いた。

「明日は、今日よりもゆっくり進もう」

「……いいの?」

「ああ。お前の歩ける速さに合わせる」

その言葉に、カエデは顔を上げた。

「でも、アレルの旅なのに……」

「お前も一緒に来るんだろう」

「……うん」

「なら、二人で進める速さを考える。それだけだ」

あまりにも当たり前のように言うものだから、カエデは返事に困った。

自分は、彼の足手まといになるかもしれない。

戦うこともできないし、魔法だって使えない。

それなのに、アレルは置いていこうとしない。

「……アレルって、優しいね」

「そうか?」

「うん」

「……そういうことを、簡単に言うな」

「えっ?」

アレルは荷物を整理するふりをして、顔を背けた。

カエデはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。

「……ふふっ」

「何だ?」

「ううん。なんでもない!」

きっと、まだ知らないことがたくさんある。

アレルのことも。

この世界のことも。

自分がこれからどうなっていくのかも。

それでも、今夜だけは。

知らない世界で、ひとりきりではなかった。

そのことが、カエデには嬉しかった。

* * *

夜。

宿屋の灯りが落ち着き、廊下から聞こえていた足音も、いつしか途絶えていた。

カエデはベッドの上に横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。

隣のベッドでは、アレルが明日の支度を終え、剣を手の届くところへ置いている。

「……ねえ、アレル」

「何だ?」

「アレルって、すぐ眠れるタイプ?」

「……急に何だ」

「いや、私、疲れてるのに、なんか逆に目が冴えちゃって」

本当は、違った。

疲れている。

身体はとっくに休みたがっている。

それなのに、目を閉じると、別の景色が浮かんでしまう。

自分の部屋。

いつもの机。

学校の教室。

友達の声。

何も変わらないと思っていた、昨日までの日常。

「……カエデ?」

「……ううん。なんでもない」

カエデは毛布を胸元まで引き上げた。

「アレルはさ。怖くないの?」

「何がだ?」

「旅。知らない場所に行って、魔物と戦って……。いつ何が起きるかわからないでしょ?」

アレルは少し黙った。

やがて、静かな声で答えた。

「怖くないわけじゃない」

カエデは目を瞬かせた。

「……そうなの?」

「ああ。危険なこともあるし、失敗することもある。俺が判断を間違えれば、誰かが傷つくかもしれない」

「…………」

「それでも、進まなければならないときがある」

その声は、落ち着いていた。

無理に強がっているようには聞こえなかった。

怖さを知ったうえで、それでも進む。

それが、アレルなのだろう。

「……そっか」

カエデは、そっと笑った。

「じゃあ、私も頑張らなきゃね」

「無理はするな」

「うん。でも、できることはしたい」

「……そうか」

アレルは、それ以上何も言わなかった。

けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。

カエデは目を閉じた。

――どうしたら、帰れるんだろう。

ふと、そんな考えが胸の奥から浮かび上がる。

自分は、どうしてここに来てしまったのだろう。

元の世界へ戻る方法はあるのだろうか。

もし、帰れなかったら?

もう二度と、家族にも、友達にも会えなかったら?

「…………」

喉の奥が、きゅっと締めつけられた。

ついさっきまで、旅が楽しみだと思っていた。

知らない世界を歩いて、魔物と戦って、勇者と一緒に冒険する。

そんな状況に、どこか浮かれていたのかもしれない。

でも、本当は。

怖い。

寂しい。

帰りたい。

家族の声が聞きたい。

いつもの部屋で眠りたい。

そんな気持ちが、胸の奥から溢れてくる。

……アレルは、もう眠ってしまったのだろうか。

カエデはそっと寝返りを打ち、毛布を握りしめた。

アレルは優しかった。

村の人たちも、怖い人ばかりではなかった。

旅だって、きっと楽しいことがたくさんある。

それなのに、どうして。

「……帰りたいな……」

ぽつりと呟いた言葉は、夜の静けさに溶けていった。

まぶたが重い。

今日一日歩き続けた身体は、もう限界だった。

頭の中で、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。

明日は、何時に起きるんだろう。

レーベでは、何をするんだろう。

ナジミの塔って、どんなところだったっけ。

考えがまとまらない。

やがて、カエデの呼吸はゆっくりと深くなっていった。

握りしめていた毛布から、少しずつ力が抜ける。

カエデは、寂しさを抱えたまま、旅の疲れに身を委ねるように眠りへ落ちていった。

窓の外では、レーベの夜風が静かに木々を揺らしていた。
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