序章
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ごくまれにだが、胎児の記憶を持つ人間がいるという。それは胎児の頃に聞いた言葉や音楽、母親の動き、そういう朧気なものについて。いったいそんなもの、どうやってその記憶を証明するんだと思うが、記憶を持った当事者からすれば、あるんだからしかたない。
先日、おそらく1日以上は経っているが、俺は生まれた。あんまり必死だったのでよく覚えていない。狭い肉壁の中を頭を死ぬんじゃないかってくらい押されながら(赤ん坊の頭はよく潰れる)、呼吸もしないで現世に出てきた。知ってるだろうけど、赤ん坊は母親の中じゃあ呼吸しない。出てきた瞬間は疲労がすごくて、まあなにせ、それまでは水の中にぷかぷか浮いて重力というすごく重い枷を持ってなかったから、ひと泣きしたあとで寝ようとしたのに、助産師が死んでるんじゃないかと心配して振り回すもんだから、彼らが満足するまで泣かなきゃいけなかった。そのあとも臍の尾を切られたり、乱暴に体を拭かれたり、乗り物にでも積まれたのか激しく揺れる状況に晒されたりしてちっとも落ち着けなかった。ようやく母親のハミングが聞こえてきた頃には、出産の苦しみも薄れていた。あんまり苦しいことは忘れる仕組みになってるらしい。やはり赤ん坊の頃の記憶を持ってるって嘘じゃあないか?
俺の言ってる記憶っていうのは、実の所、胎児のときに聞いた声や音、出産の思い出なんかじゃあない。それよりもずっと昔。所謂、前世というものだ。オカルトチックだが、この生まれたての赤ん坊がこんなふうに考えられること、小さな脳みそじゃあ入り切らない情報やイメージを持ってることからして違いない。
しかし、じゃあここは未来なんだろうか。だったらば、たいした未来じゃない。母親は無痛分娩をしてないし、出産状況は劣悪。乱暴な助産師に、雑な赤ん坊の扱い方。酷くガタガタいう乗り物と肌触りの悪い布。
さらに、どうやらここは英語圏らしい。全員英語で話している。多少の会話や読み書きはできても不安がいっぱいだ。こんな扱われ方じゃ良いとこの出ではなさそうだし。早く目を開けて周りを見たい。一応、この世での母親の顔も。
たっぷりと睡眠を取ったあと、瞼を開けてみるとそこはぼんやりとひかる世界。
赤ん坊の視覚は生まれてから数ヶ月はものを認識するレベルでは使えない。明暗程度だ。聴覚も同じく、これから成長していく予定だが、視覚よりは使える。これから数ヶ月は周りを認識できないまま生きなきゃいけない。それどころかこのあと数年はろくに体も動かせない。何でもかんでも他人に任せ切りってことだ。新手の拷問か?救いなのは、母親はよく俺を大事にしていて、美しい声の持ち主ってことくらいだ。
その間、俺は自分の記憶を整理することに努めた。自分自身の記憶は老人が子どもの頃を懐かしむ程度のものだ。たぶん遊んだ場所は行ったところにいけば、なんとなく思い出させるくらいの。家族や友人、恋人はもっと朧気だが、それはおそらく大切にしていなかったのだろう。より鮮明な記憶は、学習して得た知識、社会通念だったり、計算式、語学、歴史や経済学、愛すべき芸術についてだ。自分がどんな仕事をしていたかは分からないが、十分に食べていける芸はある。人とのコミュニケーションの取り方、集団に入る方法、権威の得方、そういったものは分かっている。本や映画、絵画だとか彫刻だとか、うるさい音楽、自分の愛した物たちも覚えている。
もしかして、幼い頃から天才児と持て囃されるかもしれない。成人の知識があるのだ。その分、自由に動けるようになるまでが過酷な試練であるが。俺は目を開けて耳が鮮明に聞こえるようになるまで、記憶を繰り返し整理し続けた。
しっかりと目が見えるようになったのは数ヶ月後だった。わざわざ数えてはいなかったからだいたいだ。視界がクリアになってくると、薄々気づいてはいたが、母が随分美しい人であることを知った。輝くような金髪と琥珀色の瞳。彼女の目は何を閉じこめているんだろう、きっと真っ直ぐな意思だ。白人でスッキリとした顔立ち、平均より少し高い身長でシルエットだと相当に整った身体をしている。俺の頬を撫でる手は赤切れやタコでいっぱいだし、体は傷や痣にまみれているが、それでも彼女は美しかった。俺がここ数ヶ月見た人間はほとんど彼女だけであったけれど、まれに父親も見る。だいたいは声だけで、母をどなりつける。背は高くないが、黒髪で同じく白人。何に怒っているのかいつも眉を寄せていた。母に何度か手を挙げているところも見たが、流石に赤ん坊には手を出さないようで、それどころか、ふたりっきりのときは頭を撫でることもあった。記憶の中で彼に世話をされたことはない。俺の親は母だけのようなものだ。鏡もそこに行くまでの力もない俺は、自分がどちらに似たかは分からない。できれば母に似て欲しい。父親も悪くは無い見た目だが、母の良き姿には遠く及ばない。これは見た目というより心根の問題だ。彼はDV夫だし、子どもへの虐待を躊躇しないだろうから。
ところで、このことは否定したかったがこの世界は俺の記憶の世界よりもかなり後退した世界だ。時間は不可逆であるというのは常識的な話だが、魂となると関係ないらしい。母が使う道具はあまりに時代遅れだし、来ている服も流行物とはいえない。未来の貧困層かとも思うが、それにしたって彼女の使う道具はむしろ年代物で価値がありそうだ。
それに、母が俺のおしめを処分するときに新聞を使ったことがあったが、その日付は恐ろしいことに1800年代のものだった……。
あと、これは、酷く珍しい偶然だとは思うが、父の名前はダリオ・ブランドーという。頭に昔読んでいた本が思い出された。父親はそのキャラクターのような見た目ではないし、彼の息子である俺の名前はセオだから、関係はないだろうが。ちなみに母はマリアだ。薄暗い部屋でその日暮らしをしている母が聖女の名前とは皮肉だ。
先日、おそらく1日以上は経っているが、俺は生まれた。あんまり必死だったのでよく覚えていない。狭い肉壁の中を頭を死ぬんじゃないかってくらい押されながら(赤ん坊の頭はよく潰れる)、呼吸もしないで現世に出てきた。知ってるだろうけど、赤ん坊は母親の中じゃあ呼吸しない。出てきた瞬間は疲労がすごくて、まあなにせ、それまでは水の中にぷかぷか浮いて重力というすごく重い枷を持ってなかったから、ひと泣きしたあとで寝ようとしたのに、助産師が死んでるんじゃないかと心配して振り回すもんだから、彼らが満足するまで泣かなきゃいけなかった。そのあとも臍の尾を切られたり、乱暴に体を拭かれたり、乗り物にでも積まれたのか激しく揺れる状況に晒されたりしてちっとも落ち着けなかった。ようやく母親のハミングが聞こえてきた頃には、出産の苦しみも薄れていた。あんまり苦しいことは忘れる仕組みになってるらしい。やはり赤ん坊の頃の記憶を持ってるって嘘じゃあないか?
俺の言ってる記憶っていうのは、実の所、胎児のときに聞いた声や音、出産の思い出なんかじゃあない。それよりもずっと昔。所謂、前世というものだ。オカルトチックだが、この生まれたての赤ん坊がこんなふうに考えられること、小さな脳みそじゃあ入り切らない情報やイメージを持ってることからして違いない。
しかし、じゃあここは未来なんだろうか。だったらば、たいした未来じゃない。母親は無痛分娩をしてないし、出産状況は劣悪。乱暴な助産師に、雑な赤ん坊の扱い方。酷くガタガタいう乗り物と肌触りの悪い布。
さらに、どうやらここは英語圏らしい。全員英語で話している。多少の会話や読み書きはできても不安がいっぱいだ。こんな扱われ方じゃ良いとこの出ではなさそうだし。早く目を開けて周りを見たい。一応、この世での母親の顔も。
たっぷりと睡眠を取ったあと、瞼を開けてみるとそこはぼんやりとひかる世界。
赤ん坊の視覚は生まれてから数ヶ月はものを認識するレベルでは使えない。明暗程度だ。聴覚も同じく、これから成長していく予定だが、視覚よりは使える。これから数ヶ月は周りを認識できないまま生きなきゃいけない。それどころかこのあと数年はろくに体も動かせない。何でもかんでも他人に任せ切りってことだ。新手の拷問か?救いなのは、母親はよく俺を大事にしていて、美しい声の持ち主ってことくらいだ。
その間、俺は自分の記憶を整理することに努めた。自分自身の記憶は老人が子どもの頃を懐かしむ程度のものだ。たぶん遊んだ場所は行ったところにいけば、なんとなく思い出させるくらいの。家族や友人、恋人はもっと朧気だが、それはおそらく大切にしていなかったのだろう。より鮮明な記憶は、学習して得た知識、社会通念だったり、計算式、語学、歴史や経済学、愛すべき芸術についてだ。自分がどんな仕事をしていたかは分からないが、十分に食べていける芸はある。人とのコミュニケーションの取り方、集団に入る方法、権威の得方、そういったものは分かっている。本や映画、絵画だとか彫刻だとか、うるさい音楽、自分の愛した物たちも覚えている。
もしかして、幼い頃から天才児と持て囃されるかもしれない。成人の知識があるのだ。その分、自由に動けるようになるまでが過酷な試練であるが。俺は目を開けて耳が鮮明に聞こえるようになるまで、記憶を繰り返し整理し続けた。
しっかりと目が見えるようになったのは数ヶ月後だった。わざわざ数えてはいなかったからだいたいだ。視界がクリアになってくると、薄々気づいてはいたが、母が随分美しい人であることを知った。輝くような金髪と琥珀色の瞳。彼女の目は何を閉じこめているんだろう、きっと真っ直ぐな意思だ。白人でスッキリとした顔立ち、平均より少し高い身長でシルエットだと相当に整った身体をしている。俺の頬を撫でる手は赤切れやタコでいっぱいだし、体は傷や痣にまみれているが、それでも彼女は美しかった。俺がここ数ヶ月見た人間はほとんど彼女だけであったけれど、まれに父親も見る。だいたいは声だけで、母をどなりつける。背は高くないが、黒髪で同じく白人。何に怒っているのかいつも眉を寄せていた。母に何度か手を挙げているところも見たが、流石に赤ん坊には手を出さないようで、それどころか、ふたりっきりのときは頭を撫でることもあった。記憶の中で彼に世話をされたことはない。俺の親は母だけのようなものだ。鏡もそこに行くまでの力もない俺は、自分がどちらに似たかは分からない。できれば母に似て欲しい。父親も悪くは無い見た目だが、母の良き姿には遠く及ばない。これは見た目というより心根の問題だ。彼はDV夫だし、子どもへの虐待を躊躇しないだろうから。
ところで、このことは否定したかったがこの世界は俺の記憶の世界よりもかなり後退した世界だ。時間は不可逆であるというのは常識的な話だが、魂となると関係ないらしい。母が使う道具はあまりに時代遅れだし、来ている服も流行物とはいえない。未来の貧困層かとも思うが、それにしたって彼女の使う道具はむしろ年代物で価値がありそうだ。
それに、母が俺のおしめを処分するときに新聞を使ったことがあったが、その日付は恐ろしいことに1800年代のものだった……。
あと、これは、酷く珍しい偶然だとは思うが、父の名前はダリオ・ブランドーという。頭に昔読んでいた本が思い出された。父親はそのキャラクターのような見た目ではないし、彼の息子である俺の名前はセオだから、関係はないだろうが。ちなみに母はマリアだ。薄暗い部屋でその日暮らしをしている母が聖女の名前とは皮肉だ。