金魚の夢
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+10年後 夏祭りにて 雲雀夢
「ああ、よかった」
彼女の小さなつぶやきを僕は聞き逃さなかった。それは、彼女の手にした金魚すくいのぽいから、鮮やかな赤い金魚が元気よくはねて飛び出していったときのことだった。
彼女のぽいに張られた紙はすっかり破けて水中でたなびき、もう一匹も捕まえられない。無能な漁師をあざ笑うかのように、水槽では数多の小さな命が悠々と群れて泳いでいる。残念だったね、と大して感慨もなく店主の言葉がふってくる。
さっきから一匹も捕まえられていないくせに、彼女は性懲りもなく「もう一回やらせてください」などとのたまっている。
隣で見ている僕の胸は少しだけうんざりする方向へ重くなる。夏祭り特有の食べ物の焼ける匂いや煙、人々のはしゃぐ無数の声、夜でも太陽の残した気配をめいっぱいに浴びて、そろそろ蕁麻疹が出そうだ。
「きみ、まだやるの」
好きにやらせようとは思いつつも、口が出てしまった。たゆんだ浴衣の合わせからのびた首が、申し訳なさそうに傾く。
「すみません、金魚が逃げてるのを見るのが好きなんです」
もちろん自分のお金で払いますから、と彼女は付け足して、がま口から決して安くはない分の小銭を店主に手渡す。
金魚が逃げるのが好き。
どういうことかと尋ねようとしたとき、後ろから親子連れがやってきた。彼らのぶんのスペースを空けるために、僕らは浴衣が崩れないように細心の注意を払いながら身をよじり、水槽の端っこに移動する。
店主が、やってきた子供にぽいと器を渡している。子どもは金魚すくいにはいささか不要なまでに張り切っている。
「こうして、逃げてる姿が綺麗なんです、金魚」
彼女の声がすべての雑音を退けて、僕の鼓膜に響く。彼女はたいしたやる気もなくプラスチックでできた円形をそっと水面にすべらせる。
「それに捕まらなかったら、安心できますし」
「どういうこと」
彼女は水槽から視線をそらし、少しだけ微笑んだ。そのかんばせは金魚すくいの店のまぶしい電灯に照らされていた。
「だって捕まえちゃったら、色々大変でしょう? 金魚鉢を準備して、餌も与えて、病気にならないように見守って、」
彼女が、一匹の魚に狙いを定める。橙色に近い赤と白の混じり合った柄をしていた。
「それより、こうして、ああ綺麗って眺めてる方がずっと気が楽で」
「わざわざ金魚すくい屋でやる必要もないと思うけれど」
「自分に分からせなくちゃ」
そう彼女は断言した。
「ずっと眺めてるだけだったらきっと、欲しくなっちゃうから」
彼女の白い紙の膜が、金魚をそっとすくう。金魚はヒレと尾を動かして、薄い膜を破り、仲間の元へ帰っていく。
「手に入らないんだぞって、自分に分からせなくちゃ」
手に入らない。
分からせないと。
彼女のその、諦観が気に入らなかった。
僕は気づけば、逃げていく金魚を戯れにもう一度すくう真似をした彼女の腕を、反射的に掴んでいた。
「すみません、長く付き合わせちゃって」
「別に、」
僕は彼女の腕をつかんだまま、動けずにいた。
別に彼女の遊戯を無理やりやめさせたかったわけじゃない。
けれど。
夜にもしつこく残る暑さに、脳がやられたのだろうか。
今の自分の脳裏には、金魚鉢に囚われた金魚のように、一室に閉じ込められた彼女の姿が浮かんでいた。
洋室より、畳の敷いてある和室のほうが似合うだろう。
日のように、まさに金魚のように、朱い着物を羽織らせられた彼女が、部屋の中を真四角に泳いで彷徨うさまは、さぞ、艶めかしいことだろう。
水槽に大量に群れる金魚よりも。
「そろそろ行きましょうか。雲雀さん、行きたい屋台ってあります?」
何も知らない彼女は、着ている浴衣を整えながら立ち上がる。僕は掴んでいた彼女の腕から手を滑るように動かして、しっかりと手をつないだ。あいまいな返事をしつつ、ともなって歩き出す。
彼女の瞳が、祭りの明かりのようにきらきらとかがやいている。猛暑に見せつけられた夢想をいつ叶えようか、謀る僕のことなど露知らずに。
「ああ、よかった」
彼女の小さなつぶやきを僕は聞き逃さなかった。それは、彼女の手にした金魚すくいのぽいから、鮮やかな赤い金魚が元気よくはねて飛び出していったときのことだった。
彼女のぽいに張られた紙はすっかり破けて水中でたなびき、もう一匹も捕まえられない。無能な漁師をあざ笑うかのように、水槽では数多の小さな命が悠々と群れて泳いでいる。残念だったね、と大して感慨もなく店主の言葉がふってくる。
さっきから一匹も捕まえられていないくせに、彼女は性懲りもなく「もう一回やらせてください」などとのたまっている。
隣で見ている僕の胸は少しだけうんざりする方向へ重くなる。夏祭り特有の食べ物の焼ける匂いや煙、人々のはしゃぐ無数の声、夜でも太陽の残した気配をめいっぱいに浴びて、そろそろ蕁麻疹が出そうだ。
「きみ、まだやるの」
好きにやらせようとは思いつつも、口が出てしまった。たゆんだ浴衣の合わせからのびた首が、申し訳なさそうに傾く。
「すみません、金魚が逃げてるのを見るのが好きなんです」
もちろん自分のお金で払いますから、と彼女は付け足して、がま口から決して安くはない分の小銭を店主に手渡す。
金魚が逃げるのが好き。
どういうことかと尋ねようとしたとき、後ろから親子連れがやってきた。彼らのぶんのスペースを空けるために、僕らは浴衣が崩れないように細心の注意を払いながら身をよじり、水槽の端っこに移動する。
店主が、やってきた子供にぽいと器を渡している。子どもは金魚すくいにはいささか不要なまでに張り切っている。
「こうして、逃げてる姿が綺麗なんです、金魚」
彼女の声がすべての雑音を退けて、僕の鼓膜に響く。彼女はたいしたやる気もなくプラスチックでできた円形をそっと水面にすべらせる。
「それに捕まらなかったら、安心できますし」
「どういうこと」
彼女は水槽から視線をそらし、少しだけ微笑んだ。そのかんばせは金魚すくいの店のまぶしい電灯に照らされていた。
「だって捕まえちゃったら、色々大変でしょう? 金魚鉢を準備して、餌も与えて、病気にならないように見守って、」
彼女が、一匹の魚に狙いを定める。橙色に近い赤と白の混じり合った柄をしていた。
「それより、こうして、ああ綺麗って眺めてる方がずっと気が楽で」
「わざわざ金魚すくい屋でやる必要もないと思うけれど」
「自分に分からせなくちゃ」
そう彼女は断言した。
「ずっと眺めてるだけだったらきっと、欲しくなっちゃうから」
彼女の白い紙の膜が、金魚をそっとすくう。金魚はヒレと尾を動かして、薄い膜を破り、仲間の元へ帰っていく。
「手に入らないんだぞって、自分に分からせなくちゃ」
手に入らない。
分からせないと。
彼女のその、諦観が気に入らなかった。
僕は気づけば、逃げていく金魚を戯れにもう一度すくう真似をした彼女の腕を、反射的に掴んでいた。
「すみません、長く付き合わせちゃって」
「別に、」
僕は彼女の腕をつかんだまま、動けずにいた。
別に彼女の遊戯を無理やりやめさせたかったわけじゃない。
けれど。
夜にもしつこく残る暑さに、脳がやられたのだろうか。
今の自分の脳裏には、金魚鉢に囚われた金魚のように、一室に閉じ込められた彼女の姿が浮かんでいた。
洋室より、畳の敷いてある和室のほうが似合うだろう。
日のように、まさに金魚のように、朱い着物を羽織らせられた彼女が、部屋の中を真四角に泳いで彷徨うさまは、さぞ、艶めかしいことだろう。
水槽に大量に群れる金魚よりも。
「そろそろ行きましょうか。雲雀さん、行きたい屋台ってあります?」
何も知らない彼女は、着ている浴衣を整えながら立ち上がる。僕は掴んでいた彼女の腕から手を滑るように動かして、しっかりと手をつないだ。あいまいな返事をしつつ、ともなって歩き出す。
彼女の瞳が、祭りの明かりのようにきらきらとかがやいている。猛暑に見せつけられた夢想をいつ叶えようか、謀る僕のことなど露知らずに。
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