静穏の祈り
その日は、視界すべてが灰色に塗りたくられたような色をしていた。空も、周りにある建物や植物、取り巻く空気、そして自分の体も内外ぜんぶ、全部が。だがそれは自分の錯覚であって、鈍色の雲に光が遮られて暗がりが広がっているだけだ。錆びたコンクリート壁の倉庫の中なら、なおさら。床には自分ともう一人を除いて、さっきまで生きていた人間たちの物言わぬ死体が転がっている。そいつらの血の匂いが、自分の頬のあたりから色濃く漂う。右手に持った剣先から血が滴り、足元に赤い水たまりができていた。
「なあ、頼むから教えてくれよ」
うずくまっている“もう一人”に、話しかけてみる。唯一まだ生きている彼が口を割ってくれれば、見逃すつもりだった。もちろん、彼らもまた、穏便に情報を渡してさえくれば、こちらを殺そうとしなければ、手にかけはしなかったのに。
「その……言いづらいのは、わかるんだけどさ。あんただって、家に帰りたいだろ?」
慣れないイタリア語で、言葉を続けてみる。発音は合っているのか、ちゃんと相手に意味が伝わっているのか──不安になりかけたとき、目の前の男は俯いたまま、浅い呼吸を繰り返し、そろそろとポケットに手を入れていた。それが何を意味しているのか、分かりきっている自分が嫌になる。ああ、結局こうなるのか。
「この……◯◯◯風情が」
差別用語を吐かれた。もう何度も、飽きるくらい聞かされた言葉だ。男のポケットから、黒々とした拳銃が覗いている。
「こっちはごっこじゃねえんだよ」
男がそう叫ぶ。鋭い眼光と声音が、迫ってくる。彼を見返す自分は今、どんな顔をしているのだろうと、ふと思った。
「ツナ、終わったぜ」
執務室のドアを開ける。奥のデスクに座る親友──兼、上司は、ぱっと顔を上げて微笑んだ。だがその笑みも、自分の出で立ちを視認した途端、曇ることになってしまった。
「……おつかれ、山本。首尾はどうだった?」
「わりい。最後まで聞けずじまいだった。だけどな、奴らの所有していたビルから証拠らしき書類は掴んだ。たぶんこれでいけるはずだ」
一応持ち帰った戦果を机の上に並べる。親友はそれらを眺めてしみじみ頷き、またこちらを見た。
「……ごめん、嫌な役をさせてしまって」
「いや、俺の力不足だ。ツナのせいじゃねえ」
親友は首を左右に振る。背中をそらし、ふう、と深いため息を吐く。
「……難しいね。もし、出来ることなら、」
言いかけて、はっと口をつぐんだ。申し訳無さそうにまた微笑む。
「任務、ありがとう。今日はもう上がっていいよ。ゆっくり休んでね」
「ああ。ツナも、根詰めんなよ」
たがいに手を振りあって、部屋をあとにした。扉を閉める直前、親友がデスクの引き出しを開けているのが見えた。前に見せてもらったことがある。おそらく、ロザリオのしまってある引き出しだ。ここ最近、親友は休日に近くの小さな教会に足を運んでいる。彼にとっての仲間やファミリーの安寧を祈るために。そして、ボンゴレファミリーと関わったことによって命を落としたすべての者のために。
もし出来ることなら。親友が言いかけた言葉の続きを、俺は当てることが出来る。
もし出来ることなら、全員無事で済ませてやりたかった。たとえ敵であっても。改心する可能性が少しでも残っているのなら。少しでも歩み寄れたのなら。
*
休日の昼下がり、私は公共バスに乗って山を下り、街まで買い物に行くことにした。アジトに駐在している業者用の車に乗せてもらうこともできたけれど、どうにもこのときは、ボンゴレファミリーに仕える女中としてではない、どこにも属さない、たった一人のちっぽけな人間として存在していたかったから。とはいえ、着るものはいつもの黒いワンピースだから、日頃の癖は抜けきれていないのだけれど。
無論、ボンゴレファミリーのアジトは人目を忍んだ森にある。その近くのバス停も過疎地で、バスもほぼ貸切状態だった。たまに一人、二人、乗車してくるか来ないかくらい。木漏れ日が、車窓の日なたに出ているスカートにくるまれた膝やおなか、腕のひじ辺りまでを何度もすべっていく。青緑色の影が包む静かな車内は、どこまでも落ち着いていた。
こんな穏やかな日は、何もかもが特別に見えた。手に持っていた買い物メモの、帳面から引きちぎられた一枚の紙の荒い端っこですら、美しい輪郭に思える。
そんな感覚は、森を抜けて市街地へ、バスから降りても続いた。
石畳の上に叩きつける靴の音、年季を重ねた建物の壁のしみ、噴水のやわらかいアーチ状の水の軌跡、天使の像の足元が少し欠けていたり、行き交う観光客らしき人の、陽に当たって反射する明るい髪の毛。長い時をかけて動いているガラス窓の垂れたさま、なにもかもの姿形が。
個人店をいくつか見て、欲しかったこまごまとした日用品、私が管理している『エウロパの館』で飾れそうな置物を購入し、最後にパン屋に入った。チャバッタのサンドウィッチを手に店を後にすると、ゆっくり来た道を引き返すことにした。
行きにも通った大きな公園。青々とした芝生が敷かれ、降り注ぐ陽光をあかるく跳ね返している。その上を、子どもたちが思い思いの遊び道具を持って駆け回っている。邪魔をするつもりなんて毛頭ないが、彼らのあまりにも無邪気で、無垢な存在がまぶしくなり、すっかり大人になってしまっていた私は、ここに居るのは場違いとばかりにそそくさと端のほうを早足で歩いていた。私にもあんな頃があったのだろうか、と考えながら。
公園内には、子どもたちの他に、暖かな休日の陽気に浸っている大人の姿もちらほら見受けられた。ベンチに座っていたり、花壇やちょっとした段差に腰を下ろしてラテやら新聞やらを手にしていたり。
ふと視界に、あたたかい暖色の混じった背景の中、ぱりっとした黒が飛び込んできた。
スーツ姿の男性が、子どもたちに混じって野球に興じているのだ。遠目から見てもかなり若く、まだ成人そこそこの若者のようだ。
つい立ち止まり、興味本位から逃れられず目を凝らすと、さらに驚いた。彼は、私のよく知る人物だったから。
山本武様。
私の仕えているマフィアボンゴレ10代目ファミリーの、雨の守護者。
古来相伝の剣術によって、あまたの抗争をくぐりぬけ、戦果を上げていると裏社会では専らの評判である彼が、今はまるで、その周囲の子どもたちと同じ顔をして、額に汗を少しかき、はしゃいでいた。キャッチボールをしたり、バットを持つ子供を背後から支えサポートしたりなど、野球を教えている。
私は戸惑い、しばらく彼をじっと見入ってしまった。そのかんばせのなんとあどけなく、なんと無邪気で、悪意など微塵もないことか。
子らの甲高い笑い声が、雲のない青空に響いて登っていく。
はっと我に返り、新たな悩みが私の中に生まれた。普通ならいくら非番のときといえど、主人に挨拶に行くべきだ。けれど、あまりにも裏の世界で生きている者とは思えないほどの山本武様の雰囲気が、私に二の足を踏ませた。ここで私が声をかければ、彼はきっと落胆する。確信はなかったが、なぜかそうはっきりと思えた。
血なまぐさい世界の片隅で生きる私が姿を現せば、彼の幸せな時間を邪魔してしまうに違いない。山本武様は今、武器ひとつ持っていない、ただ子どもたちと純粋に野球を楽しんでいる、一人の優しい青年なのだ。
私は気づかれないまま、かの方に向かって小さくお辞儀をして、その場を立ち去った。背中越しに伝わる子供らの歓声はいっそう高まり、それに混じった、山本武さまの穏やかな笑い声も、しばらく耳から離れてくれなかった。
それからも、日常は続いた。『エウロパの館』に寄り添う、私の日々が。
その日、私は二階の子供部屋に足を踏み入れた。積もる埃に目を細めながらカーテンを引き、明かりを取り込む。久しぶりに太陽の光が訪れた部屋の中は、子ども用ベッドがひとつ、洋服箪笥に長持、かわいらしい絵の描かれたクローゼット、書き物机、低い足の椅子、灰色に染まったカーペット、おもちゃ箱、そのそばにはピンク色の象のぬいぐるみ……歴代のボスか、はたまた守護者か、関係者の子どもが使っていた部屋なのだろう。
ふと、近くにあった長持の取っ手に手をかけ、重い蓋を開けてみる。冬物のコートや毛布、季節ものの荷物と一緒に──思わず、はっとした。とても年季の入った、野球グローブがふたつと、ボールがあったから。革は全体的に黒ずんで、紐もよれて、どこかの野球チームのものらしきアイコンも、形が崩れかけている。
ちょうど数日前に見かけた、子どもたちと野球をする山本様の姿が思い出される。いや、もしかしたら、無意識に私はこれを探していたのかもしれない。
どんな人間も子供だった。他愛ないことで喜び、悪意とは無縁の時代があった。そんな当たり前のことを、公園で子どもたちと戯れる山本様を盗み見て以来、私は自分の中で強く強く噛みしめていた。
冷徹な空気と笑みを纏って、ボンゴレファミリーの屋敷を幾度も訪れる人々も、我らがボス・沢田綱吉さまが成敗してきた、口に出すことも憚れるような悪事を働いてきた人達も。また、綱吉様を支える、守護者の彼らにも、そして私自身にもきっとあったのだ。今よりも無力で、それでも見失いがちな喜びを零さず享受できていた、無垢なひとときが。
それなのに、警戒し、疑い、憎しみ合い、争い、または想い合って生きる人間というのは、なんと複雑で難しいものかと、意味もなく考えてしまう。幸せなことに、今の私を取り巻く環境はあまりにも静かで、誰かと衝突することがほとんどないのだけれど。
ホールから響いた呼び鈴の音に、我に返る。さっと長持ちの中にグローブとボールを戻した。
私はこの館を一人で任されているが、ごくごくたまに他のメイドやフットマンの仲間が様子を見に来たり、はたまた業者さんが届け物をしてくれることがある。ちょうどアンティークのホールスタンドの磨き粉を頼んだばかりなので、いずれかだろうと当たりをつけ、階下に降りて扉を開けた。すると、
「お、いたいた。悪いな、仕事中に」
自分の目が信じられなくて、激しく瞬きするのを感じた。
屋敷前の日なたを背に、どこか気恥ずかしそうにした青年が──まさに先程、思い出していた山本様がいた。
「なあ、頼むから教えてくれよ」
うずくまっている“もう一人”に、話しかけてみる。唯一まだ生きている彼が口を割ってくれれば、見逃すつもりだった。もちろん、彼らもまた、穏便に情報を渡してさえくれば、こちらを殺そうとしなければ、手にかけはしなかったのに。
「その……言いづらいのは、わかるんだけどさ。あんただって、家に帰りたいだろ?」
慣れないイタリア語で、言葉を続けてみる。発音は合っているのか、ちゃんと相手に意味が伝わっているのか──不安になりかけたとき、目の前の男は俯いたまま、浅い呼吸を繰り返し、そろそろとポケットに手を入れていた。それが何を意味しているのか、分かりきっている自分が嫌になる。ああ、結局こうなるのか。
「この……◯◯◯風情が」
差別用語を吐かれた。もう何度も、飽きるくらい聞かされた言葉だ。男のポケットから、黒々とした拳銃が覗いている。
「こっちはごっこじゃねえんだよ」
男がそう叫ぶ。鋭い眼光と声音が、迫ってくる。彼を見返す自分は今、どんな顔をしているのだろうと、ふと思った。
「ツナ、終わったぜ」
執務室のドアを開ける。奥のデスクに座る親友──兼、上司は、ぱっと顔を上げて微笑んだ。だがその笑みも、自分の出で立ちを視認した途端、曇ることになってしまった。
「……おつかれ、山本。首尾はどうだった?」
「わりい。最後まで聞けずじまいだった。だけどな、奴らの所有していたビルから証拠らしき書類は掴んだ。たぶんこれでいけるはずだ」
一応持ち帰った戦果を机の上に並べる。親友はそれらを眺めてしみじみ頷き、またこちらを見た。
「……ごめん、嫌な役をさせてしまって」
「いや、俺の力不足だ。ツナのせいじゃねえ」
親友は首を左右に振る。背中をそらし、ふう、と深いため息を吐く。
「……難しいね。もし、出来ることなら、」
言いかけて、はっと口をつぐんだ。申し訳無さそうにまた微笑む。
「任務、ありがとう。今日はもう上がっていいよ。ゆっくり休んでね」
「ああ。ツナも、根詰めんなよ」
たがいに手を振りあって、部屋をあとにした。扉を閉める直前、親友がデスクの引き出しを開けているのが見えた。前に見せてもらったことがある。おそらく、ロザリオのしまってある引き出しだ。ここ最近、親友は休日に近くの小さな教会に足を運んでいる。彼にとっての仲間やファミリーの安寧を祈るために。そして、ボンゴレファミリーと関わったことによって命を落としたすべての者のために。
もし出来ることなら。親友が言いかけた言葉の続きを、俺は当てることが出来る。
もし出来ることなら、全員無事で済ませてやりたかった。たとえ敵であっても。改心する可能性が少しでも残っているのなら。少しでも歩み寄れたのなら。
*
休日の昼下がり、私は公共バスに乗って山を下り、街まで買い物に行くことにした。アジトに駐在している業者用の車に乗せてもらうこともできたけれど、どうにもこのときは、ボンゴレファミリーに仕える女中としてではない、どこにも属さない、たった一人のちっぽけな人間として存在していたかったから。とはいえ、着るものはいつもの黒いワンピースだから、日頃の癖は抜けきれていないのだけれど。
無論、ボンゴレファミリーのアジトは人目を忍んだ森にある。その近くのバス停も過疎地で、バスもほぼ貸切状態だった。たまに一人、二人、乗車してくるか来ないかくらい。木漏れ日が、車窓の日なたに出ているスカートにくるまれた膝やおなか、腕のひじ辺りまでを何度もすべっていく。青緑色の影が包む静かな車内は、どこまでも落ち着いていた。
こんな穏やかな日は、何もかもが特別に見えた。手に持っていた買い物メモの、帳面から引きちぎられた一枚の紙の荒い端っこですら、美しい輪郭に思える。
そんな感覚は、森を抜けて市街地へ、バスから降りても続いた。
石畳の上に叩きつける靴の音、年季を重ねた建物の壁のしみ、噴水のやわらかいアーチ状の水の軌跡、天使の像の足元が少し欠けていたり、行き交う観光客らしき人の、陽に当たって反射する明るい髪の毛。長い時をかけて動いているガラス窓の垂れたさま、なにもかもの姿形が。
個人店をいくつか見て、欲しかったこまごまとした日用品、私が管理している『エウロパの館』で飾れそうな置物を購入し、最後にパン屋に入った。チャバッタのサンドウィッチを手に店を後にすると、ゆっくり来た道を引き返すことにした。
行きにも通った大きな公園。青々とした芝生が敷かれ、降り注ぐ陽光をあかるく跳ね返している。その上を、子どもたちが思い思いの遊び道具を持って駆け回っている。邪魔をするつもりなんて毛頭ないが、彼らのあまりにも無邪気で、無垢な存在がまぶしくなり、すっかり大人になってしまっていた私は、ここに居るのは場違いとばかりにそそくさと端のほうを早足で歩いていた。私にもあんな頃があったのだろうか、と考えながら。
公園内には、子どもたちの他に、暖かな休日の陽気に浸っている大人の姿もちらほら見受けられた。ベンチに座っていたり、花壇やちょっとした段差に腰を下ろしてラテやら新聞やらを手にしていたり。
ふと視界に、あたたかい暖色の混じった背景の中、ぱりっとした黒が飛び込んできた。
スーツ姿の男性が、子どもたちに混じって野球に興じているのだ。遠目から見てもかなり若く、まだ成人そこそこの若者のようだ。
つい立ち止まり、興味本位から逃れられず目を凝らすと、さらに驚いた。彼は、私のよく知る人物だったから。
山本武様。
私の仕えているマフィアボンゴレ10代目ファミリーの、雨の守護者。
古来相伝の剣術によって、あまたの抗争をくぐりぬけ、戦果を上げていると裏社会では専らの評判である彼が、今はまるで、その周囲の子どもたちと同じ顔をして、額に汗を少しかき、はしゃいでいた。キャッチボールをしたり、バットを持つ子供を背後から支えサポートしたりなど、野球を教えている。
私は戸惑い、しばらく彼をじっと見入ってしまった。そのかんばせのなんとあどけなく、なんと無邪気で、悪意など微塵もないことか。
子らの甲高い笑い声が、雲のない青空に響いて登っていく。
はっと我に返り、新たな悩みが私の中に生まれた。普通ならいくら非番のときといえど、主人に挨拶に行くべきだ。けれど、あまりにも裏の世界で生きている者とは思えないほどの山本武様の雰囲気が、私に二の足を踏ませた。ここで私が声をかければ、彼はきっと落胆する。確信はなかったが、なぜかそうはっきりと思えた。
血なまぐさい世界の片隅で生きる私が姿を現せば、彼の幸せな時間を邪魔してしまうに違いない。山本武様は今、武器ひとつ持っていない、ただ子どもたちと純粋に野球を楽しんでいる、一人の優しい青年なのだ。
私は気づかれないまま、かの方に向かって小さくお辞儀をして、その場を立ち去った。背中越しに伝わる子供らの歓声はいっそう高まり、それに混じった、山本武さまの穏やかな笑い声も、しばらく耳から離れてくれなかった。
それからも、日常は続いた。『エウロパの館』に寄り添う、私の日々が。
その日、私は二階の子供部屋に足を踏み入れた。積もる埃に目を細めながらカーテンを引き、明かりを取り込む。久しぶりに太陽の光が訪れた部屋の中は、子ども用ベッドがひとつ、洋服箪笥に長持、かわいらしい絵の描かれたクローゼット、書き物机、低い足の椅子、灰色に染まったカーペット、おもちゃ箱、そのそばにはピンク色の象のぬいぐるみ……歴代のボスか、はたまた守護者か、関係者の子どもが使っていた部屋なのだろう。
ふと、近くにあった長持の取っ手に手をかけ、重い蓋を開けてみる。冬物のコートや毛布、季節ものの荷物と一緒に──思わず、はっとした。とても年季の入った、野球グローブがふたつと、ボールがあったから。革は全体的に黒ずんで、紐もよれて、どこかの野球チームのものらしきアイコンも、形が崩れかけている。
ちょうど数日前に見かけた、子どもたちと野球をする山本様の姿が思い出される。いや、もしかしたら、無意識に私はこれを探していたのかもしれない。
どんな人間も子供だった。他愛ないことで喜び、悪意とは無縁の時代があった。そんな当たり前のことを、公園で子どもたちと戯れる山本様を盗み見て以来、私は自分の中で強く強く噛みしめていた。
冷徹な空気と笑みを纏って、ボンゴレファミリーの屋敷を幾度も訪れる人々も、我らがボス・沢田綱吉さまが成敗してきた、口に出すことも憚れるような悪事を働いてきた人達も。また、綱吉様を支える、守護者の彼らにも、そして私自身にもきっとあったのだ。今よりも無力で、それでも見失いがちな喜びを零さず享受できていた、無垢なひとときが。
それなのに、警戒し、疑い、憎しみ合い、争い、または想い合って生きる人間というのは、なんと複雑で難しいものかと、意味もなく考えてしまう。幸せなことに、今の私を取り巻く環境はあまりにも静かで、誰かと衝突することがほとんどないのだけれど。
ホールから響いた呼び鈴の音に、我に返る。さっと長持ちの中にグローブとボールを戻した。
私はこの館を一人で任されているが、ごくごくたまに他のメイドやフットマンの仲間が様子を見に来たり、はたまた業者さんが届け物をしてくれることがある。ちょうどアンティークのホールスタンドの磨き粉を頼んだばかりなので、いずれかだろうと当たりをつけ、階下に降りて扉を開けた。すると、
「お、いたいた。悪いな、仕事中に」
自分の目が信じられなくて、激しく瞬きするのを感じた。
屋敷前の日なたを背に、どこか気恥ずかしそうにした青年が──まさに先程、思い出していた山本様がいた。
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