レモネード

 週末を控えた夜、『エウロパの館』の清掃を終え、アジトのお屋敷へ戻った私は、執事長からお小遣いをいただいた。たまには外で息抜きでもしなさい、と。
 恐れ多いけれど返すわけにもいかず、今夜はお言葉に甘えて外食に行くことにした。アジトから少し歩いた先にバス停がある。そこから街まで下り、どこかのトラットリアで食事をしよう、と。
 アジトの自室でエプロンだけ脱ぎ、黒の長いワンピースのまま廊下に出た。そうしてしばらく歩くと、潜めるような話し声が聞こえてくる。少し先に、沢田綱吉様、獄寺隼人様、山本武様が顔を突き合わせて、何やら困ったように話し込んでいた。
 使命感に駆られた私は、さっと御三方の下へ駆けつけた。何かあったのか、自分にできることはないかと申し出た私に、沢田綱吉様は困り笑顔を見せた。言うのをためらっている様子だった。あまり周囲に口外したくない様子が彼らの周りに漂っている。
 おおごとにはいたしません、と重ねてお伝えすると、沢田綱吉様はようやく教えてくれた。
 沢田綱吉様を守護する八名のうち、雷を司るランボ様が、夜の街へ一人で向かわれた、と。
 業務後の余暇を楽しむだけなら、彼らもこんなに心配しなかったことだろう。会話から察するに、本日、敵対するファミリーとの戦闘で、ランボ様は思うような戦果をあげられず、それどころか命が危うい状況に追い込まれてしまい、他の守護者様にフォローされたらしい。
 ランボ様はそのことをたいへん悔いておられるようで、沢田綱吉様が最後に姿を見たときは半ば自棄の状態だったらしく、そんな彼を一人にさせてしまったことに気をもんでいた。
「私、探しに行ってきましょうか」
 私の提案に、沢田綱吉様はあわてて首を横に振った。ふさふさした栗毛色の髪が揺れる。
「だ、大丈夫だよ! きみに、そこまでしてもらうわけには……」
「そうっスよ十代目。そこまで構う必要は無いです」
 獄寺隼人様もぴしゃりと言って、「あいつならちゃんと立ち直ります」と小さな声で付け加える。それでも、沢田綱吉様のお顔は一向に晴れそうになかった。
「ちょうど今夜は街に行こうと思っておりましたし、もしお見かけしたら、お声だけでも」
「ほ、本当?」
「ええ。私も心配ですし」
「じゃ、じゃあ、もし、もしもだけど、会ったら伝えておいてくれないかな。皆心配してるって」
「悪いな、仕事終わりに。あまり気負わないでくれな?」
 山本武様の苦笑いに、一日の疲れがふっとやわらいでいく。その隣で獄寺隼人様は甘い、と言わんばかりに眉根を寄せているものの、自分たち以外にもランボ様のことをお話できて少々肩の荷が降りたのか、ほっと小さな息を吐いていた。沢田綱吉様が何度も何度も私に礼を述べている。
 こういうとき、私はつくづく彼らが裏社会の人間とは思えないほど優しい方ばかりなのを痛感する。

 
 向かった先は小さな街だけれど観光地が近くにあり、夜でもそれなりに人が多く闊歩している。ランボ様を探して、いくつもある夜の店をすべて見て回るなんて不可能に近い。それでも何か力になりたい一心で、気負わないようにと山本武様に言われたものの、頭のすみでは彼に会えないものかなどと考えつつ歩いていると、ふと美術館前にある小さなバルが目に止まった。
 クリーム色の建物で、外に面してカウンターが置かれ、その上には真っ青なテント。こじんまりとした店内が、通りに面したカウンターに立つ店員さん越しに見え隠れしている。
 そのお店を見た途端、不思議な引力が働いた。自分でも説明がつかないけれど、何故かあの店が今夜の私の行くべき場所に思えた。吸い寄せられるように近づいてきた私に、男性の店員さんがにこやかな笑みで迎えてくれる。
 互いに挨拶を交わし、薦められるままに食前酒を注文した。目の前でふんわりと広がったドレスのような丸みのあるグラスに、氷と切ったオレンジ、夕焼け色の液体が注がれていく。軒先に下げられたランタンの光が、並んで吊られている空っぽのグラスの輪郭や、置かれているボトルやサーバー、そして照らされている私と夜の境界をやわらかく濁しているようだった。
 店員さんのなめらかな手つきに惚れ惚れしながら、ふと店内の方に目をやって、私はしばらく時が止まった。狭い店内には木製の棚と、小さなテーブルと椅子が一式あり、その周囲を埋めつくようにワインやカクテル、お酒のボトルが敷き詰められている。
 客は一人だった。
 小さなテーブルについている人物。
 まるで自分も、多くのボトルたちの一つであるかのようにひっそりとした佇まい。
 牛柄のシャツ、癖のある黒髪。
 ボンゴレ雷の守護者、ランボ様。
「……!」
 まさか、本当にお会いできるなんて。
 息を呑んだのと同時に、目の前には完成されたアペロール・スプリッツが、店員さんの手に支えられて躍り出た。それを受け取って、店員さんに断りを入れ、カウンターの隣の扉から店内に入る。ランボ様はこちらに背を向けた状態でグラスを傾けていた。ちょうど中身が空になったのか、からん、と氷が鳴る音がする。その音が、妙にさみしげだった。
「ランボ様」
「ん、……え?」
 優美な森の木々を思わせる、緑色の双眸と目が合った。私の存在を知って、ランボ様はあわてて己を覆っていた鬱屈としたものを、整った微笑により隠していった。私もあえて知らぬふりをして、静かに頭を下げる。ランボ様は、さん付けで私の名前を呼んでくれた。
「偶然ですね、こんなところで出くわすなんて」
「ええ。私も驚きました。よろしければ、ご一緒しても?」
「もちろん。断るわけ無いじゃないですか」
 彼の細い手が、空いた席をさっとすすめてくる。そこに腰を下ろし、私とランボ様は乾杯した。こんなところで会うなんて奇遇ですね、もう非番ですか、などといった他愛のない会話から始めていると、おつまみにタラッリが運ばれてきた。小さなドーナツ型のクラッカーで、水分の少ないぱさついた感触がお酒によく合うのだ。
 ついついつまむ手が早まる私に、ランボ様は少し驚いたように目を見開く。
「──さん、イケる口?」
「いえ、そんなには。ただこれ、美味しくてお酒が止まらなくなるんですよね」
「わかります」
 私達はワインやカクテル、おつまみを挟んで、色んな話をした。ランボ様は私の仕事に興味を持ってくださって、酔いも回ってきたのか、あれやこれやと質問を投げかけてくる。私の下手な説明を、ランボ様は肘をつきながら楽しげに聞いているようだった。
 でも、あまり自分の話はしようとはしない。彼が元から聞き上手であるのだろうが、楽しげな彼の奥底には、わだかまりを抱えているように思えてならなかった。
 タイミングを見失ってしまったが、沢田綱吉様との約束を守るためにも、私は意を決して切り込むことにした。
「でも、少し安心いたしました、こうして一緒に飲むことができて」
「なにがですか?」
「ここに来る前に、沢田様にお会いしたのです。ランボ様がお仕事を頑張りすぎていらっしゃるから、心配だとお聞きしておりまして」
 獄寺様や山本様のことは伏せて、言ってみる。ランボ様の空気に、一瞬、ひりつくような何かを感じ、恐怖とはいかないまでも、身構えそうになった。が、すぐにいつもの柔和な様子を漂わせる。
「やれやれ。あの人はいつまでたっても変わらない。ずっとずっと実の兄のようで」
 ランボ様は私から視線をそらし、虚空を見つめていた。口から、言葉が溢れます。
「いくら成長したところで、遠い。困ったものだ。あの人も、他の守護者達も──いくら、追いかけたところで──」
「ランボ様……」
 私が呼びかけると、ランボ様ははっと顔を上げた。
「おっと……すみません。貴方がお優しいばかりに、ついつまらないことを。いまのは、オフレコでお願いします」
 そして、追加で注文をしようとしたのを、私は衝動的に止めてしまった。失礼だと分かっていても、これ以上の酒は彼にとって毒だと分かっていたから。
「もうそろそろ、お戻りになりませんか。お屋敷に」
「今日は少し……遠慮したいところですね。夜もまだまだ長い」
 帰りたくない日もある。ランボ様の意思を尊重したい私は考えをめぐらせた。アジトのお屋敷以外で、彼を安全に、自暴自棄ではない方向で休ませることができないか。
 答えは、すぐに出た。ぴったりな場所を、私は任せられているではないか。
「もしよろしければ……私の管轄する離れに参りませんか。少し掃除も進みましたし、私と昼間にたまにいらっしゃる業者さん以外、ほとんどどなたもお使いになられないところですから」
「でも……」
「その、違う場所へ遊びに行く、つもりで」
 苦し紛れな言葉だったが、効果はあった。ランボ様は小さなため息ひとつ吐き出すと、小さく頭を振って、前のめりになりかけていた居住まいを正した。
「……それなら、お願いして、いいですか」
1/1ページ