Human Universe
館にはまともに動く電化製品が無かった。冷蔵庫も洗濯機もランプもない。キッチンの水道は通っていたが、電気はまだまだだった。しばらくの間、作業は昼間の明るさを頼りに、日没までに制限されそうだ。
館を上から探索してみる。長い年月をかけて沈殿している空気に、気が滅入るとはいかないまでも、凪いだ心持にさせられた。抗えない大きな力で、ゆっくりゆっくり水底に沈められていくようだ。ここで一人で過ごしていたら、私もあちこちに鎮座している家具たちと同じく、白布で体を覆いたくなるのかもしれない。この仕事を与えられたことは光栄なことだと理解している。だがこれからは静かで、孤独な日々になるのだろう。
最後に一階の温室に入った。部屋の半分がガラス張りのサンルームになっており、庭に面している。古ぼけてヒビや割れの入ったガラス窓に、ツタがはっている。その合間を縫うように差し込んだ光は、温室の真ん中に置かれた白い布の塊を浮かび上がらせるように照らしていた。好奇心のおもむくままに、ざらついた布の表面をつかみ、引きはがした。
はっと息をのむ。
現れたのは、黒いグランドピアノだった。
不思議なことに、廃墟に打ち捨てられていたにしては、そのピアノはあまりにも綺麗すぎていた。まるでついさっきまで弾き手が存在していたかのように、そこだけ別の空間のように、ぴかぴかに磨き上げられている。
思わず鍵盤に人差し指を運ぶ。建付けの悪い引き戸のような、がちゃん、という音と、ぽろん、とこぼれるような音が指先からはじけた。
現実的に考えれば、私以外の誰かがここを訪れ、ピアノを手入れしていたということになる。
しかしながら、私はそこに、神か仏か、妖精か天使か、なんでもいい、人ならざる存在を見出したのだ。
自分でも思いがけないことだった。私は特定の宗教に入信しているわけではないし、宗教観はとても曖昧だ。小さい頃は幼子らしくさまざまな空想や想像上の生き物をを信じていたこともあったが、今は科学的な観点から、存在自体にはうっすら疑問を抱いている。そんな私でも、このピアノが纏う空気には、触れてはいけない何かを感じた。俗世にまみれた私が、やすやすと触れるのは憚られた。
館は、どこから掃除したってかまわなかった。ここは私の持ち場なのだから。私はバケツとモップを握り直し、別室へ移動した。この館を美しくするのが私の新たな仕事。いつかはこのピアノのあるサンルームにも手を付けねばならない。それでも、できるだけ後回しにしようと考えていた。
そのピアノが歌うのを初めて聞いたのは、それから数日後のことだった。
二階の空き部屋でこまごましたものの整理をしていると、とつぜん、私の耳が厳かな音色をとらえた。
疲労ゆえの幻聴かと思ったが、違う。その音色はいくえにも重なり、手を取りあいながら私の傍らへ躍り出た。
音楽はつかめないまま消えては現れてを繰り返す。なんて曲だろうか。聞いたことのないメロディーだった。
私は動けなかった。階下へ向かって、ピアノを見に行くこともできたが、しなかった。
あのピアノを奏でている人物が、ボンゴレの人間でないのならば追い払わなければならない。ボンゴレの人間ならばご挨拶をして、私がなぜここにいるのか説明をしなければならない。頭ではわかっていても、出来なかった。私はこの時、弾き手を人間だとは思っていなかったので、私が現れたが最後、二度と聞けなくなるのではと危惧したのだ。
こんなに美しい演奏を私という存在が邪魔してしまうかもしれない事実に、耐えられなかった。ゆえに、私はそのまま自分の作業を続行することにした。
使用済みの絵葉書、錆びたブローチ、インクはないけれど立派な羽をたずさえた羽ペン、ボタン、何かを形作っていた部品。
使えるものとそうでないものを大量により分ける作業は、地味に気力を削られていたが、そばで流れる音色は、私の疲れた手や腕にふたたび力を与え、やがてふつりと途絶えた。
それからというもの、エウロパの館のサンルームから時折、ピアノの音が聞こえるようになった。そのたびに私は、己の存在を空気に溶かすように意識して、ひたすら聞き入った。
深い深い闇の底を手探りでゆっくり進むような旋律。もし私が深海に漂う魚だったなら、周囲の波やほかの生き物たちの声をこんな風に聞いているのではないかと感じた。私の意識は光の届かぬ海底から、陽の降り注ぐ地上に一度出て、空を舞い上がり、また続く深い星々の海へと浮き上がる。暗いところから明るいところへ、そしてまた暗い場所へ。
静謐な冷たさがあるのに、悲しい気持ちにならない。ひたひたと心に満ちていくような音楽だった。
この曲に付けられた名前を知りたい。そんな思いに駆られた私は業務後、自分の携帯に備わっている、マイク部分でハミングすると似た音楽をネットから探してくれる機能を使ってみた。が、まったくヒットしなかった。それがまた、サンルームのピアノの神秘性をますます強めた。
あのメロディーは、廃墟を一人でよみがえらさんと奮闘する私への、神様からのごほうびに思えた。
その日たまたま、温室の隣にある部屋を掃除していた時だった。
ぎい、と特徴のある響きは、私が毎日玄関の扉を開くときによく耳にする音だ。床を踏みしめる気配。人の足が歩く布ずれの気配がした。それらは密やかに近づき、温室の、サンルームの中へと吸い込まれるように消えていく。
やがて、ピアノの音が静寂の中に落とされた。
私は息をのんでいた。身をよじって、後ろを向く。
ほんの数メートル。あの扉からのぞけば、ピアノの弾き手を見ることができる。
いつもは離れた場所だったから、私の自制心も効いた。だけど、こんなに近いとなると。
私はごくりと生唾を飲み込み、そっと立ち上がった。幼い頃に読んだ、「小人と靴屋」の物語を思い出していた。靴屋を営む貧しい老夫婦のもとに、夜だけ現れる小人たち。二人の妖精は小さな体を目いっぱい使って、美しい靴を作り出す。そして夫婦が起きる頃には、姿を見せなくなってしまう。
まさに今、ピアノを弾いている存在も、同じかもしれない。
私が存在を認識していると知られたら最後、その音色を奏でる小さな体を透明に変えてしまうかもしれない。そして二度と、あの重々しくもどこか儚い曲は聞けなくなってしまうかもしれない。けれども、私の孤独な仕事に寄り添ってくれた音を生み出す方を、忘れ去られたこの館に幸せを満たした方のお姿を、どうかこの目で見てみたい。
扉の枠に手を添え、そっと身を乗り出した。
そこにいたのは、愛らしい妖精でも、女神でも、天使でも、神様でもなかった。
黒いピアノの前にたたずむ、黒いシルエットが、私の視界にあざやかに飛び込んできた。美しい音階を紡いでいたのは、ぱりっとしたスーツを着こなした、銀髪の青年だった。
獄寺隼人様。
十代目ボンゴレファミリー嵐の守護者にして、ボス、沢田綱吉様の有能な右腕と称えられる、その人だった。
彼はかすかに体を揺らして弾き続けていた。私のいるところからは手元は見えなかったけれど、彼の手先が鍵盤の上をなめらかにすべっているのが容易に想像できた。そして区切りがついたときに顔を上げたとたん、私と目が合った。
翡翠色の双眸に驚きが走ったのと同時に、私は頭を下げた。
「あんたは、」
少しかすれたお声が、温室に鳴る。私は頭を垂れたまま、名乗った。
「──、と申します、ボンゴレアジトで女中をさせていただいている者です、獄寺隼人様。今はこの館を持ち場とさせていただいております」
恐る恐る、視線をあげた。彼は困惑していた。早くそれを取り払って差し上げたかった。
「お邪魔してしまい、申し訳ございません。どうぞ、お続けくださいませ」
「い、いや、いい……」
獄寺様はあわてて立ち上がろうとする。私はつい、制するように手を宙にかざしてしまった。獄寺様の動きがぴたりと止まる。私は言った。
「どうぞ、お続けくださいませ。私はすぐに立ち去りますので」
「……そういうわけにはいかねえだろ」
「いいえ」
嗚呼、声が震えそうになる。心臓がどくどくと強く脈打って、波紋が体中に広がっている。それでも、伝えねば。私の存在など、あの天上のごとき形のない作品の前に、なんの障壁でもないのだと。
「いいえ。ここもアジトの一部です。守護者の皆様が、お好きなように過ごされてかまわないのです。どうぞ、私のことはその辺の虫だと思ってくださいませ。これにて失礼させていただきます」
また一礼して、私はさっと身を翻して温室を出た。胸の高鳴りは、しばらくおさまりそうにない。
嗚呼、あの方の指から生まれ落ちていたのだ。私の心を幾度となく慰めてくれた音楽は。この場所に幸福をもたらしてくれていたのは。彼にとってはそんなつもりはなかったのだろうし、自分以外誰も訪れない廃墟をあえて演奏場所に選んでいたとしたら、触れられたくないものだったのかもしれない。
どうかお許しくださいませ。私は何度も心の中で謝罪した。
獄寺様の秘密が、私のせいで途切れてほしくなかった。いつまでも、いくらでも、心ゆくまで弾いていてほしかった。
そのために、私は空気に徹しようと決意した。彼の美しい時間に、何一つわだかまりが、暗い影が落ちないようにと。
館を上から探索してみる。長い年月をかけて沈殿している空気に、気が滅入るとはいかないまでも、凪いだ心持にさせられた。抗えない大きな力で、ゆっくりゆっくり水底に沈められていくようだ。ここで一人で過ごしていたら、私もあちこちに鎮座している家具たちと同じく、白布で体を覆いたくなるのかもしれない。この仕事を与えられたことは光栄なことだと理解している。だがこれからは静かで、孤独な日々になるのだろう。
最後に一階の温室に入った。部屋の半分がガラス張りのサンルームになっており、庭に面している。古ぼけてヒビや割れの入ったガラス窓に、ツタがはっている。その合間を縫うように差し込んだ光は、温室の真ん中に置かれた白い布の塊を浮かび上がらせるように照らしていた。好奇心のおもむくままに、ざらついた布の表面をつかみ、引きはがした。
はっと息をのむ。
現れたのは、黒いグランドピアノだった。
不思議なことに、廃墟に打ち捨てられていたにしては、そのピアノはあまりにも綺麗すぎていた。まるでついさっきまで弾き手が存在していたかのように、そこだけ別の空間のように、ぴかぴかに磨き上げられている。
思わず鍵盤に人差し指を運ぶ。建付けの悪い引き戸のような、がちゃん、という音と、ぽろん、とこぼれるような音が指先からはじけた。
現実的に考えれば、私以外の誰かがここを訪れ、ピアノを手入れしていたということになる。
しかしながら、私はそこに、神か仏か、妖精か天使か、なんでもいい、人ならざる存在を見出したのだ。
自分でも思いがけないことだった。私は特定の宗教に入信しているわけではないし、宗教観はとても曖昧だ。小さい頃は幼子らしくさまざまな空想や想像上の生き物をを信じていたこともあったが、今は科学的な観点から、存在自体にはうっすら疑問を抱いている。そんな私でも、このピアノが纏う空気には、触れてはいけない何かを感じた。俗世にまみれた私が、やすやすと触れるのは憚られた。
館は、どこから掃除したってかまわなかった。ここは私の持ち場なのだから。私はバケツとモップを握り直し、別室へ移動した。この館を美しくするのが私の新たな仕事。いつかはこのピアノのあるサンルームにも手を付けねばならない。それでも、できるだけ後回しにしようと考えていた。
そのピアノが歌うのを初めて聞いたのは、それから数日後のことだった。
二階の空き部屋でこまごましたものの整理をしていると、とつぜん、私の耳が厳かな音色をとらえた。
疲労ゆえの幻聴かと思ったが、違う。その音色はいくえにも重なり、手を取りあいながら私の傍らへ躍り出た。
音楽はつかめないまま消えては現れてを繰り返す。なんて曲だろうか。聞いたことのないメロディーだった。
私は動けなかった。階下へ向かって、ピアノを見に行くこともできたが、しなかった。
あのピアノを奏でている人物が、ボンゴレの人間でないのならば追い払わなければならない。ボンゴレの人間ならばご挨拶をして、私がなぜここにいるのか説明をしなければならない。頭ではわかっていても、出来なかった。私はこの時、弾き手を人間だとは思っていなかったので、私が現れたが最後、二度と聞けなくなるのではと危惧したのだ。
こんなに美しい演奏を私という存在が邪魔してしまうかもしれない事実に、耐えられなかった。ゆえに、私はそのまま自分の作業を続行することにした。
使用済みの絵葉書、錆びたブローチ、インクはないけれど立派な羽をたずさえた羽ペン、ボタン、何かを形作っていた部品。
使えるものとそうでないものを大量により分ける作業は、地味に気力を削られていたが、そばで流れる音色は、私の疲れた手や腕にふたたび力を与え、やがてふつりと途絶えた。
それからというもの、エウロパの館のサンルームから時折、ピアノの音が聞こえるようになった。そのたびに私は、己の存在を空気に溶かすように意識して、ひたすら聞き入った。
深い深い闇の底を手探りでゆっくり進むような旋律。もし私が深海に漂う魚だったなら、周囲の波やほかの生き物たちの声をこんな風に聞いているのではないかと感じた。私の意識は光の届かぬ海底から、陽の降り注ぐ地上に一度出て、空を舞い上がり、また続く深い星々の海へと浮き上がる。暗いところから明るいところへ、そしてまた暗い場所へ。
静謐な冷たさがあるのに、悲しい気持ちにならない。ひたひたと心に満ちていくような音楽だった。
この曲に付けられた名前を知りたい。そんな思いに駆られた私は業務後、自分の携帯に備わっている、マイク部分でハミングすると似た音楽をネットから探してくれる機能を使ってみた。が、まったくヒットしなかった。それがまた、サンルームのピアノの神秘性をますます強めた。
あのメロディーは、廃墟を一人でよみがえらさんと奮闘する私への、神様からのごほうびに思えた。
その日たまたま、温室の隣にある部屋を掃除していた時だった。
ぎい、と特徴のある響きは、私が毎日玄関の扉を開くときによく耳にする音だ。床を踏みしめる気配。人の足が歩く布ずれの気配がした。それらは密やかに近づき、温室の、サンルームの中へと吸い込まれるように消えていく。
やがて、ピアノの音が静寂の中に落とされた。
私は息をのんでいた。身をよじって、後ろを向く。
ほんの数メートル。あの扉からのぞけば、ピアノの弾き手を見ることができる。
いつもは離れた場所だったから、私の自制心も効いた。だけど、こんなに近いとなると。
私はごくりと生唾を飲み込み、そっと立ち上がった。幼い頃に読んだ、「小人と靴屋」の物語を思い出していた。靴屋を営む貧しい老夫婦のもとに、夜だけ現れる小人たち。二人の妖精は小さな体を目いっぱい使って、美しい靴を作り出す。そして夫婦が起きる頃には、姿を見せなくなってしまう。
まさに今、ピアノを弾いている存在も、同じかもしれない。
私が存在を認識していると知られたら最後、その音色を奏でる小さな体を透明に変えてしまうかもしれない。そして二度と、あの重々しくもどこか儚い曲は聞けなくなってしまうかもしれない。けれども、私の孤独な仕事に寄り添ってくれた音を生み出す方を、忘れ去られたこの館に幸せを満たした方のお姿を、どうかこの目で見てみたい。
扉の枠に手を添え、そっと身を乗り出した。
そこにいたのは、愛らしい妖精でも、女神でも、天使でも、神様でもなかった。
黒いピアノの前にたたずむ、黒いシルエットが、私の視界にあざやかに飛び込んできた。美しい音階を紡いでいたのは、ぱりっとしたスーツを着こなした、銀髪の青年だった。
獄寺隼人様。
十代目ボンゴレファミリー嵐の守護者にして、ボス、沢田綱吉様の有能な右腕と称えられる、その人だった。
彼はかすかに体を揺らして弾き続けていた。私のいるところからは手元は見えなかったけれど、彼の手先が鍵盤の上をなめらかにすべっているのが容易に想像できた。そして区切りがついたときに顔を上げたとたん、私と目が合った。
翡翠色の双眸に驚きが走ったのと同時に、私は頭を下げた。
「あんたは、」
少しかすれたお声が、温室に鳴る。私は頭を垂れたまま、名乗った。
「──、と申します、ボンゴレアジトで女中をさせていただいている者です、獄寺隼人様。今はこの館を持ち場とさせていただいております」
恐る恐る、視線をあげた。彼は困惑していた。早くそれを取り払って差し上げたかった。
「お邪魔してしまい、申し訳ございません。どうぞ、お続けくださいませ」
「い、いや、いい……」
獄寺様はあわてて立ち上がろうとする。私はつい、制するように手を宙にかざしてしまった。獄寺様の動きがぴたりと止まる。私は言った。
「どうぞ、お続けくださいませ。私はすぐに立ち去りますので」
「……そういうわけにはいかねえだろ」
「いいえ」
嗚呼、声が震えそうになる。心臓がどくどくと強く脈打って、波紋が体中に広がっている。それでも、伝えねば。私の存在など、あの天上のごとき形のない作品の前に、なんの障壁でもないのだと。
「いいえ。ここもアジトの一部です。守護者の皆様が、お好きなように過ごされてかまわないのです。どうぞ、私のことはその辺の虫だと思ってくださいませ。これにて失礼させていただきます」
また一礼して、私はさっと身を翻して温室を出た。胸の高鳴りは、しばらくおさまりそうにない。
嗚呼、あの方の指から生まれ落ちていたのだ。私の心を幾度となく慰めてくれた音楽は。この場所に幸福をもたらしてくれていたのは。彼にとってはそんなつもりはなかったのだろうし、自分以外誰も訪れない廃墟をあえて演奏場所に選んでいたとしたら、触れられたくないものだったのかもしれない。
どうかお許しくださいませ。私は何度も心の中で謝罪した。
獄寺様の秘密が、私のせいで途切れてほしくなかった。いつまでも、いくらでも、心ゆくまで弾いていてほしかった。
そのために、私は空気に徹しようと決意した。彼の美しい時間に、何一つわだかまりが、暗い影が落ちないようにと。
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