22.世に桜のなかりせば
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目を覚ますと、まだ部屋はほの暗く、天井や壁、壁に掛けた時計、さまざまな輪郭が滲んでいた。
真琴は枕元の携帯を手に取り、時間を確認する。5:32の表示に早起きも考えものだと思いつつ、一度覚醒した脳は冴え冴えとしていて、寝床に居座る気は起きない。
のろのろと布団から這い出した。部屋の障子を明け、リビングを通り、キッチンへ。4人の住む家は2階に部屋が3つあり、鳴海としきみと沙良がそれぞれ使っている。一方真琴は、1階リビングに隣接された6畳の和室を自室にしていた。
冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを取り、コップに注いで飲み干した。
ふと2階へ続く階段が目にはいる。さすがに3人ともまだ眠っているだろう。6時半くらいになれば、沙良が起きてくるのだが。
手持ち無沙汰になり、真琴はダイニングテーブルに腰かける。体は眠いのに、頭はしっかり起きてしまっている状態だ。
またたく間に3学期は終わり、春休みに突入した。気候も暖かくなってきて行楽日和、卒業シーズンということで巷は遊び盛りの雰囲気が漂う。
だが、そんな浮ついた世間とは裏腹に、真琴はここ最近まったく眠れなかった。元から寝付きが良い方ではなかったが、それに輪をかけて眠れなくなっている。ひとつだけ、心当たりがあった。
沙良と獄寺のことだ。
ホワイトデーの後、沙良と獄寺を取り巻く雰囲気がほんの少し変わった。
どこかどう、とはっきり言葉にするのは難しいが、明らかに2人の間にだけ柔らかい空気が生まれている。何があったのか、我慢できなかったしきみがしきりに訊ねると、沙良は嬉しそうにはにかんで、
“私、彼のこと好きでいていいみたい”
とだけ教えてくれた。
両想いになったとか、付き合うことになったとか、そういったことではないらしい。
しかしながら沙良の今までにないほど嬉しそうな姿に、真琴の心はざわついた。
隼人くん、と呼ぶ声は本当に幸せそうで、獄寺もまんざらでもないらしい。
ちょうどそのときからだ。眠りが浅くなったのは。
真琴としては、あんなぶっきらぼうで無愛想な男のどこがいいんだという気持ちだった(獄寺に言えばお前がいうな、と激昂されただろう)。
時計を見る。5:45。
真琴は自分が来ている服を確認した。ジャージなら問題あるまい。玄関へ赴き、スニーカーをはいた。キーケースからひとつ鍵をとって、静かにドアを開ける。夜の冷たい名残が、肌をひんやりかすめる。
少しだけ、朝の散歩に行こう。
*
数十分後。真琴は激しく後悔していた。
己の空間認知能力の無さをなめていた。完全に迷子。ぼーっと住宅街をうろついていたら、いつの間にか見知らぬ町中にいた。引き返そうにも後ろには3つほど道が別れていて、つい今しがた自分がどこからやってきたのかさえ分からない。
「自分、馬鹿……」
ため息をつき、並木道の花壇に腰かける。悪いことは重なるものだ、腹の虫がぐうと鳴り、体から徐々に力が抜けていく。よりにもよって、常に携帯しているはずのスマホを家に置いてきてしまった。交番を頼ろうにも土地勘がないので分からない。
途方に暮れ、真琴の視線は自然と下を向く。
そのときだった。
付近からキキッ、と自転車の急ブレーキをかける音がした。
「おーい、君、大丈夫かい?」
重い頭をあげると、自転車に乗った40代ほどの男がこちらを見つめている。短く切り上げた髪に、白いTシャツとズボン、紺色のエプロン。Tシャツは着物のような合わせになっていて、板前のような格好をしている。
空腹で真琴は何も考えられず、ただ見つめ返した。気の良さそうな、優しそうな男性だ。
妙な既視感を覚える。誰かに、似ているような。
「あのー……」声を出すのもおっくうだ。
「なんだなんだ、並中の子か?」
真琴がうなずくと、男性は自転車から降りて、真琴に目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「見かけねえ顔だな。地元の子ならたいてい知ってるんだが……1年生かい?」
「次、2年です」
ぼんやり答えながら真琴はあることに気付く。
もうすぐこの世界に来て、1年が経とうとしている。
「そうか、名前は?」
「立花 真琴 、です」
名乗った途端、男性の両目がぱっと驚きで見開かれる。
「そうか、君が真琴ちゃんか」
嬉しそうに真琴の肩をぽんぽんたたいてくる。
一瞬、内心しまったと焦った。明確な理由は定かではないが、4人はマフィア界ではそれなりに有名で、注目を集めているらしい。現にフゥ太を狙っている連中にも絡まれたことがある。こんな簡単に素性を明かしてよかったんだろうか。だが、真琴のそんな心配は杞憂に終わった。
「オレはお嬢ちゃんと同じクラスの親父だよ。誰だか分かるかい?」
「?」さっぱりである。
「じゃ、あとでおしえてやる。ついてきな」
***
野球ボールとバットがぶつかり合う音が、心地よく響き渡る。ネットに囲まれた空に向かって、ボールがすうっとまるで宇宙へ向かうロケットのように進んでいき、ネットに阻まれ、ほんの少し身じろぎし、重力に従って落ちる。
中学生の軟式野球投手の球速は平均時速110km、全国レベルとなるとまれに120km代を出す者もおり、左打者なら高校の県大会に通用する。
しかしここに、時速130kmの設定されたピッチングマシンから飛び出すボールを、何度もバットに当てている少年がいる。
山本武。幼い頃から野球センスの良さは有名で、中学校へ進学し野球部に入ったとたん、あっという間に先輩達を差し置いてレギュラー入りを果たしてしまった。
彼の手がドアノブに届くか届かないかくらいまでの頃、このバッティングセンターで一人練習をしていたのを見守っていたのが、つい昨日のことのようだ。バッティングセンターの店主は身長の伸びた青年の背を感慨深く眺めていた。
早朝いちばん乗りを果たし、1時間ほど打った後、山本武はカウンターにやってきた。
「たいしたもんだな」
「全然そんなことねえって。変化しねえ球ぐらい、全部狙ったところに打てねえとさ」
「へっ、簡単に言ってのけやって」
こうやって若人と会話をするのが、店主の生きがいでもあった。
「おっちゃん、今日はこれくらいにしとくわ」
料金をカウンターに置き、帰るそぶりを見せ始める山本。大きくなればなるほど、子供は遠くに行ってしまうものだ。少し口惜しくなる。
「なんだよもっと打ってきゃいいじゃねえか、今春休みだろ?」
山本は首を横に振った。
「今日は店の手伝いするんだ。花見で客も増えるだろうしな」
「いいや、今日は特別なトレーニングをするぞ」
どこからか甲高い、幼子のような、それでいて貫禄も感じられる声が響いてきた。店主はカウンターから離れ、キョロキョロとあたりを見渡すと、ちょど自分がいたところから死角になっていた椅子に、野球ユニフォームと帽子を被った赤ん坊がいた。
「お、小僧じゃねえか」
山本が目線を合わせるようにしゃがむが、同時に小僧──リボーンの鼻からは鼻提灯が。
「ははは、無理して起きてたんだな」
山本が大きく笑う。店主は目を白黒させるばかりだった。
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