・ワンドロワンライ
「あ~! オヤブンニンフィアとオヤブンピクシーの大喧嘩の最中に放たれたメロメロが、喧嘩を止めようと間に入ったカラスバさんに直撃してしまった~! 一体どうなっちゃうんだ~!」
状況のすべてを説明する的確な叫び声をあげながら、キョウヤは愛する男のもとへ駆けだした。
二十番ワイルドゾーンでたびたび発生する、オヤブンポケモン同士の大乱闘。レベルも高く、オヤブンが出現する頻度が多いそこは、主にキョウヤやカラスバが鎮圧に出向くことが多かった。今日もそんな中での大事件。ピンクのハートに塗れた技が直撃して怯んだ様子のカラスバのもとへ、文字通りすっ飛んでいったキョウヤは、カラスバが顔を上げるよりも早く自身のブルゾンでその頭を覆い、そのままオヤブンたちの視界から外れるように物陰へ連れ出した。
本で読んだことがある。
メロメロは、ポケモンがくらった場合は異性に対してのみ発動して、異性のポケモンに対してメロメロになってしまう。しかしそれが人間に当たってしまった場合、ポケモンよりももろい人間では効果が少し違う形で現れて、性別を問わず最初に見た相手にメロメロになってしまうという。それを知っていたので、キョウヤは真っ先にカラスバの視界を奪ったのだ。
「カラスバさん! 大丈夫ですか!?」
キョウヤは、カラスバに片思いをしている。そしてそれは公言しており、カラスバ本人にも何度も伝えていることだった。キョウヤの猛烈なアタックを、カラスバはのらりくらりと躱すばかり。未だにオーケーはもらえていない。突き放されてもいないけれど、キョウヤがカラスバに向ける圧倒的な愛の大きさを考えると報われなくて気の毒なくらいだ。
カラスバからキョウヤに向けられるものは、気に入ったトレーナーに向けるライクの意味では大きかったけれど、それ以上の気持ちが向いているのかと言われれば、少なくとも周りから見ている分には分からない。いや、どちらかというと脈なしなのではないか、というのが正直なところだろう。
しかしキョウヤはポジティブだ。カラスバはいつも「オレなんかやめとき」「もっとええ人おるで」「憧れてくれるんは嬉しいねんけどな」「大人をからかうもんちゃうで」と、そんな言葉を吐いてキョウヤの告白を躱す。好きじゃないとか、そういう目で見られないとか、好きな人がいるとか。そういう言い方をされたことがないのだ。だからキョウヤは本気の脈なしではないと思っている。
そんな中でのこのハプニングに、不謹慎にもキョウヤは少しドキドキしていた。いつもはクールで、自分の告白を躱し続けるつれないカラスバさんが、もしかしたら、もしかしたら。自分にメロメロになっている姿を見られるのではないかと。そんな風に思いながら恐る恐る己のトレードマークたるブルゾンの中を覗き込んだ。鮮やかな緑の生地を掻き分けると、中から澄んだ金色の目が現れる。
「キョウヤ」
「はい!」
その目が自分の方を向いて、キョウヤはドキドキと淡い期待で胸を高鳴らせながら、カラスバが動くのを待つ。カラスバの目がふわりと笑って――スンッ、とすぐに真顔に落ち着いた。なんなら眉間には皺が寄って、額には筋が浮いている。
「オマエ何してんねん、バトル終わったんか? あのまま放っとくわけにはいかんやろ」
キョウヤは肩透かしを食らった気分だった。カラスバはいそいそと頭に被せられたブルゾンを外すとそれをキョウヤに返して、物陰からオヤブンたちの方を盗み見る。キョウヤは一瞬ポカンとした後、動揺を隠せないまま尋ねた。
「あ、れ……? カラスバさん?」
「なんや」
「あの、なんともないんですか?」
間違いなくメロメロは直撃していた。しかし今のカラスバには普段と変わった部分は一切ない。そして本人も、キョウヤの問いに首を傾げてから頷く。
「あ? まぁ、せやな」
「うそ! 直撃してましたよね!?」
「そうやと思ってんけどなぁ、見ての通りなんともないわ」
「えぇ!?」
そう言うとカラスバは再びオヤブンたちの方を向き直ろうとするので、キョウヤは慌てて肩を掴んでそれを止めた。
「ちょっとこっち見てください」
若干不純な動機もあるが、ポケモンの技が直撃したというのが本当に心配でカラスバの目を覗き込む。確かメロメロにかかっている時は、目を見れば分かるはず。カラスバの金の目を覗き込むと、確かにその中にハートマークが浮かんでいた。確実にメロメロに掛かってはいるのだ。なのになぜか、カラスバの様子は変わらない。
「なんでぇ!?」
「何を訳わからんこと言うてんねん、さっさと終わらすで」
嘆きに近い悲鳴をあげたキョウヤを呆れた顔で小突くと、カラスバはペンドラーを繰り出してオヤブンポケモンたちの仲裁に向かった。
その後、無事にオヤブンポケモンたちを鎮圧した後も、カラスバの目の中にはハートマークが浮かんだままだったので、念のために病院で検査をすることになった。
「うーん、確かにメロメロ状態なのは間違いなさそうですね。それ以外の異常はないです」
一通り検査をした医師がそう診断を下す。他の異常もないという言葉には安堵しつつも、知っているメロメロの症状とは異なる事態にキョウヤはなんとなく納得がいかない。
「えぇ? でもカラスバさん、完全にいつも通りですよ?」
「そうですねぇ……技にかかった後、最初にカラスバさんが見たのは、間違いなくキョウヤさんなんですよね?」
「たぶん」
「となると、体質的に耐性があるのか、本人の精神面の強さの問題、あるいは……」
ぶつぶつと思い当たる可能性を列挙しかけた医師は、どれも推測の域を出ないものだと首を振ってそこで言葉を切り上げる。
「いえ、まぁなんともないならそれに越したことはないですね。おおよそ数時間から一日で効果はなくなります。お大事に」
そんな言葉と共に診察を終えて、二人は揃って病院を出た。そして必要ないと言ったのに、キョウヤがカラスバを送ると言い張るので共に事務所に向かう。いつものオフィスまで戻ってきたが中は無人で、ジプソは席を外しているようだった。
「オレに異常がないって分かったのに、なんやえらい不服そうやな? キョウヤ」
帰ってくる道中、どことなく拗ねた様子でむっつり黙っていたキョウヤに、カラスバは片眉を上げて顔を覗き込む。
「うぇ!? や、もちろん異常がないのは何よりなんですけど! それは間違いないんですけど!」
急に目の前に片思い相手の顔が現れて飛び上がったキョウヤは、あわあわと顔を赤くしながら大袈裟なくらい手を横にぶんぶん振った。しかしその手はどんどん勢いを失って、ゆっくり下ろされていく。どことなくしょんぼりしたような、そんな子犬のような表情をしながら目線を落として、最後には項垂れた。
「……もしかしたら俺にメロメロになってるカラスバさんが見れるかなって、ちょっとだけ……期待したりして……たはは……」
力なく笑ったキョウヤは、それからすぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、不謹慎ですよね」
「……いや、そんな大層に思わんでええよ」
カラスバからは、それくらいの事しか言えなかった。そんな言葉でもキョウヤはほっとしたような顔をして。それが少し、カラスバの心を苛む。
「堪忍な、期待に添えんくて」
「いやいや! 俺が勝手にカラスバさんの事好きなだけですから! ……効果は長くても一日っていうことでしたし、ゆっくり休んでくださいね。お大事に」
キョウヤは最後にそう言ってからりと笑うと、いつものように明るくカラスバに手を振ってエレベーターへ入っていった。
――キョウヤが乗ったエレベーターが階下へ動き始めたのを見た瞬間、カラスバはその場に崩れ落ちた。全身の汗腺が開いたような感覚。どっと押し寄せる快楽にも近い衝動に、高速で鳴り響く心臓を押さえて蹲った。
「あ、のあほ……人の気も知らんと……!」
メロメロが効いていない? 半分当たりで半分外れだ。
そもそも――メロメロなんて必要ないくらい、カラスバはキョウヤにぞっこんなのである。それを、大人のプライドだとか、未来ある若者を日陰に引きずり込みたくないとか、そういう建前で何とか必死に押し留めているだけで。そこにメロメロなんて食らってしまったせいで、すぐにでも理性を飛ばしてキョウヤにしがみついて愛を乞うてしまいそうだった。
「くそ、あいつ動くん早すぎやろ……あのままジプソかペンドラーでも眺めとくつもりやったのに」
ぜぇぜぇと真っ赤な顔で息を吐きながらカラスバが唸る。技に抗い、神経を張り詰めて必死にキョウヤへの想いを堪えていたせいで、なんだか通常とは異なる場所までメロメロが作用している気がする。まるで発情期でも迎えているかのようだ。
ああでも、なんとか取り繕うことができてよかった。後は落ち着くまで待てばいい。そう思って息を吐いたカラスバの耳に、ポーンとエレベーターが到着した音が響く。タイミングよく腹心が戻ってきたようだ。ちょうどいいから残りの仕事の整理だけ頼んで、奥にでも引っ込んでいようかとカラスバはその場に蹲ったまま口を開いた。
「あぁジプ、」
「すみません、一つ用事があるの忘れて……カラスバさん!?」
カラスバは心臓が止まったかと思った。ぎぎぎ、とブリキ人形が音を立てて首を振るようにしてなんとか顔を上げると、そこには今しがた見送ったはずの男の姿。
「きょ、や……」
呆然と呟くカラスバに、キョウヤはその大きな吊り目を見開いてギョッとした。それからその尋常じゃない様子にサッと顔色を変えて、蹲るカラスバの隣へしゃがみ込む。
……それが逆効果だとも知らずに。
「え、え!? さっきまで大丈夫でしたよね!? 遅効性のメロメロ!? 聞いたことないけど……え、」
「きょ、や……オマエほんま……」
カラスバがぎり、と奥歯を噛み締める。
頭が、体が、心が、目の前の男を好きだ好きだと叫びまくる。
そんな本能を無理やり精神力で捻じ伏せているせいでずきずき痛む頭を押さえていると、間が悪いことにキョウヤがその体を支えたせいで、至近距離で視線が絡み合う。
――ああ、嗚呼。
「タイミング、最悪やねん……!」
頭のどこかで何かが焼き切れるような感覚を覚えながら、カラスバはキョウヤの胸倉を掴んで、その地面へと引き倒した。キョウヤが強かに背中を打ち付けたようだったが、それに気を配ってやる余裕はない。
「か、らすばさん……?」
「ほんま、せっかく逃がしたろうと思ったのに」
「え……?」
困惑した様子なのに、カラスバに触れられたことで緊張しているのか、キョウヤの顔は僅かに赤い。
「メロメロが効いてない? んなわけあるかいな。ずっと、捻じ伏せとっただけや……」
カラスバはそんなキョウヤの反応をもはや憎らしく思いながら、自身もキョウヤに見せたことがないほどの真っ赤な顔をしてキョウヤと額を突き合わせた。
「今までもずっとそうやったから、さっきまでなんとか取り繕っとった」
ドキドキと跳ねまわる心臓。上がる呼吸。カラスバは熱い息を吐きながらキョウヤの肩に頭を預けた。触れられたキョウヤの肩が大げさなくらいビクンと跳ねて、それには少し愉快な思いがした。
「え、え!?」
「くそ、なんで戻ってくるねん……!」
苛立ち交じりの声ではあるものの、その声には熱がこもっていて輪郭がほろほろと溶け始めてしまっている。それにカラスバは気付いているのか。いや、気付いていても、もう止められないのか。
キョウヤは信じられない気持ちで、ただただ想い人の姿を、声を、一つも漏らすまいと。カラスバに関するものを知覚している五感全てに神経を集中させて黙り込んでいた。
「も、むりや……なぁ、キョウヤぁ……」
キョウヤを見つめるカラスバの金の目が、とろり、蜂蜜のように蕩けだす。いつもクールな目元がふやけて、表情の全てからキョウヤのことを好きだ好きだと伝えてくる。白い頬を桜色に染め上げた美しい男が、息がかかるほどの距離でキョウヤに甘く囁いた。
「おれな、こんなわざにかかるまえから……。
ずっとまえから、オマエにメロメロやねん……♡」
その瞬間、愛くるしい子犬のような顔をした男の理性が音を立てて切れて、猛獣にも似た目をしてカラスバの体を掻き抱いたのだが――そのあと二人がどうなったのかは、誰も知らない。
状況のすべてを説明する的確な叫び声をあげながら、キョウヤは愛する男のもとへ駆けだした。
二十番ワイルドゾーンでたびたび発生する、オヤブンポケモン同士の大乱闘。レベルも高く、オヤブンが出現する頻度が多いそこは、主にキョウヤやカラスバが鎮圧に出向くことが多かった。今日もそんな中での大事件。ピンクのハートに塗れた技が直撃して怯んだ様子のカラスバのもとへ、文字通りすっ飛んでいったキョウヤは、カラスバが顔を上げるよりも早く自身のブルゾンでその頭を覆い、そのままオヤブンたちの視界から外れるように物陰へ連れ出した。
本で読んだことがある。
メロメロは、ポケモンがくらった場合は異性に対してのみ発動して、異性のポケモンに対してメロメロになってしまう。しかしそれが人間に当たってしまった場合、ポケモンよりももろい人間では効果が少し違う形で現れて、性別を問わず最初に見た相手にメロメロになってしまうという。それを知っていたので、キョウヤは真っ先にカラスバの視界を奪ったのだ。
「カラスバさん! 大丈夫ですか!?」
キョウヤは、カラスバに片思いをしている。そしてそれは公言しており、カラスバ本人にも何度も伝えていることだった。キョウヤの猛烈なアタックを、カラスバはのらりくらりと躱すばかり。未だにオーケーはもらえていない。突き放されてもいないけれど、キョウヤがカラスバに向ける圧倒的な愛の大きさを考えると報われなくて気の毒なくらいだ。
カラスバからキョウヤに向けられるものは、気に入ったトレーナーに向けるライクの意味では大きかったけれど、それ以上の気持ちが向いているのかと言われれば、少なくとも周りから見ている分には分からない。いや、どちらかというと脈なしなのではないか、というのが正直なところだろう。
しかしキョウヤはポジティブだ。カラスバはいつも「オレなんかやめとき」「もっとええ人おるで」「憧れてくれるんは嬉しいねんけどな」「大人をからかうもんちゃうで」と、そんな言葉を吐いてキョウヤの告白を躱す。好きじゃないとか、そういう目で見られないとか、好きな人がいるとか。そういう言い方をされたことがないのだ。だからキョウヤは本気の脈なしではないと思っている。
そんな中でのこのハプニングに、不謹慎にもキョウヤは少しドキドキしていた。いつもはクールで、自分の告白を躱し続けるつれないカラスバさんが、もしかしたら、もしかしたら。自分にメロメロになっている姿を見られるのではないかと。そんな風に思いながら恐る恐る己のトレードマークたるブルゾンの中を覗き込んだ。鮮やかな緑の生地を掻き分けると、中から澄んだ金色の目が現れる。
「キョウヤ」
「はい!」
その目が自分の方を向いて、キョウヤはドキドキと淡い期待で胸を高鳴らせながら、カラスバが動くのを待つ。カラスバの目がふわりと笑って――スンッ、とすぐに真顔に落ち着いた。なんなら眉間には皺が寄って、額には筋が浮いている。
「オマエ何してんねん、バトル終わったんか? あのまま放っとくわけにはいかんやろ」
キョウヤは肩透かしを食らった気分だった。カラスバはいそいそと頭に被せられたブルゾンを外すとそれをキョウヤに返して、物陰からオヤブンたちの方を盗み見る。キョウヤは一瞬ポカンとした後、動揺を隠せないまま尋ねた。
「あ、れ……? カラスバさん?」
「なんや」
「あの、なんともないんですか?」
間違いなくメロメロは直撃していた。しかし今のカラスバには普段と変わった部分は一切ない。そして本人も、キョウヤの問いに首を傾げてから頷く。
「あ? まぁ、せやな」
「うそ! 直撃してましたよね!?」
「そうやと思ってんけどなぁ、見ての通りなんともないわ」
「えぇ!?」
そう言うとカラスバは再びオヤブンたちの方を向き直ろうとするので、キョウヤは慌てて肩を掴んでそれを止めた。
「ちょっとこっち見てください」
若干不純な動機もあるが、ポケモンの技が直撃したというのが本当に心配でカラスバの目を覗き込む。確かメロメロにかかっている時は、目を見れば分かるはず。カラスバの金の目を覗き込むと、確かにその中にハートマークが浮かんでいた。確実にメロメロに掛かってはいるのだ。なのになぜか、カラスバの様子は変わらない。
「なんでぇ!?」
「何を訳わからんこと言うてんねん、さっさと終わらすで」
嘆きに近い悲鳴をあげたキョウヤを呆れた顔で小突くと、カラスバはペンドラーを繰り出してオヤブンポケモンたちの仲裁に向かった。
その後、無事にオヤブンポケモンたちを鎮圧した後も、カラスバの目の中にはハートマークが浮かんだままだったので、念のために病院で検査をすることになった。
「うーん、確かにメロメロ状態なのは間違いなさそうですね。それ以外の異常はないです」
一通り検査をした医師がそう診断を下す。他の異常もないという言葉には安堵しつつも、知っているメロメロの症状とは異なる事態にキョウヤはなんとなく納得がいかない。
「えぇ? でもカラスバさん、完全にいつも通りですよ?」
「そうですねぇ……技にかかった後、最初にカラスバさんが見たのは、間違いなくキョウヤさんなんですよね?」
「たぶん」
「となると、体質的に耐性があるのか、本人の精神面の強さの問題、あるいは……」
ぶつぶつと思い当たる可能性を列挙しかけた医師は、どれも推測の域を出ないものだと首を振ってそこで言葉を切り上げる。
「いえ、まぁなんともないならそれに越したことはないですね。おおよそ数時間から一日で効果はなくなります。お大事に」
そんな言葉と共に診察を終えて、二人は揃って病院を出た。そして必要ないと言ったのに、キョウヤがカラスバを送ると言い張るので共に事務所に向かう。いつものオフィスまで戻ってきたが中は無人で、ジプソは席を外しているようだった。
「オレに異常がないって分かったのに、なんやえらい不服そうやな? キョウヤ」
帰ってくる道中、どことなく拗ねた様子でむっつり黙っていたキョウヤに、カラスバは片眉を上げて顔を覗き込む。
「うぇ!? や、もちろん異常がないのは何よりなんですけど! それは間違いないんですけど!」
急に目の前に片思い相手の顔が現れて飛び上がったキョウヤは、あわあわと顔を赤くしながら大袈裟なくらい手を横にぶんぶん振った。しかしその手はどんどん勢いを失って、ゆっくり下ろされていく。どことなくしょんぼりしたような、そんな子犬のような表情をしながら目線を落として、最後には項垂れた。
「……もしかしたら俺にメロメロになってるカラスバさんが見れるかなって、ちょっとだけ……期待したりして……たはは……」
力なく笑ったキョウヤは、それからすぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、不謹慎ですよね」
「……いや、そんな大層に思わんでええよ」
カラスバからは、それくらいの事しか言えなかった。そんな言葉でもキョウヤはほっとしたような顔をして。それが少し、カラスバの心を苛む。
「堪忍な、期待に添えんくて」
「いやいや! 俺が勝手にカラスバさんの事好きなだけですから! ……効果は長くても一日っていうことでしたし、ゆっくり休んでくださいね。お大事に」
キョウヤは最後にそう言ってからりと笑うと、いつものように明るくカラスバに手を振ってエレベーターへ入っていった。
――キョウヤが乗ったエレベーターが階下へ動き始めたのを見た瞬間、カラスバはその場に崩れ落ちた。全身の汗腺が開いたような感覚。どっと押し寄せる快楽にも近い衝動に、高速で鳴り響く心臓を押さえて蹲った。
「あ、のあほ……人の気も知らんと……!」
メロメロが効いていない? 半分当たりで半分外れだ。
そもそも――メロメロなんて必要ないくらい、カラスバはキョウヤにぞっこんなのである。それを、大人のプライドだとか、未来ある若者を日陰に引きずり込みたくないとか、そういう建前で何とか必死に押し留めているだけで。そこにメロメロなんて食らってしまったせいで、すぐにでも理性を飛ばしてキョウヤにしがみついて愛を乞うてしまいそうだった。
「くそ、あいつ動くん早すぎやろ……あのままジプソかペンドラーでも眺めとくつもりやったのに」
ぜぇぜぇと真っ赤な顔で息を吐きながらカラスバが唸る。技に抗い、神経を張り詰めて必死にキョウヤへの想いを堪えていたせいで、なんだか通常とは異なる場所までメロメロが作用している気がする。まるで発情期でも迎えているかのようだ。
ああでも、なんとか取り繕うことができてよかった。後は落ち着くまで待てばいい。そう思って息を吐いたカラスバの耳に、ポーンとエレベーターが到着した音が響く。タイミングよく腹心が戻ってきたようだ。ちょうどいいから残りの仕事の整理だけ頼んで、奥にでも引っ込んでいようかとカラスバはその場に蹲ったまま口を開いた。
「あぁジプ、」
「すみません、一つ用事があるの忘れて……カラスバさん!?」
カラスバは心臓が止まったかと思った。ぎぎぎ、とブリキ人形が音を立てて首を振るようにしてなんとか顔を上げると、そこには今しがた見送ったはずの男の姿。
「きょ、や……」
呆然と呟くカラスバに、キョウヤはその大きな吊り目を見開いてギョッとした。それからその尋常じゃない様子にサッと顔色を変えて、蹲るカラスバの隣へしゃがみ込む。
……それが逆効果だとも知らずに。
「え、え!? さっきまで大丈夫でしたよね!? 遅効性のメロメロ!? 聞いたことないけど……え、」
「きょ、や……オマエほんま……」
カラスバがぎり、と奥歯を噛み締める。
頭が、体が、心が、目の前の男を好きだ好きだと叫びまくる。
そんな本能を無理やり精神力で捻じ伏せているせいでずきずき痛む頭を押さえていると、間が悪いことにキョウヤがその体を支えたせいで、至近距離で視線が絡み合う。
――ああ、嗚呼。
「タイミング、最悪やねん……!」
頭のどこかで何かが焼き切れるような感覚を覚えながら、カラスバはキョウヤの胸倉を掴んで、その地面へと引き倒した。キョウヤが強かに背中を打ち付けたようだったが、それに気を配ってやる余裕はない。
「か、らすばさん……?」
「ほんま、せっかく逃がしたろうと思ったのに」
「え……?」
困惑した様子なのに、カラスバに触れられたことで緊張しているのか、キョウヤの顔は僅かに赤い。
「メロメロが効いてない? んなわけあるかいな。ずっと、捻じ伏せとっただけや……」
カラスバはそんなキョウヤの反応をもはや憎らしく思いながら、自身もキョウヤに見せたことがないほどの真っ赤な顔をしてキョウヤと額を突き合わせた。
「今までもずっとそうやったから、さっきまでなんとか取り繕っとった」
ドキドキと跳ねまわる心臓。上がる呼吸。カラスバは熱い息を吐きながらキョウヤの肩に頭を預けた。触れられたキョウヤの肩が大げさなくらいビクンと跳ねて、それには少し愉快な思いがした。
「え、え!?」
「くそ、なんで戻ってくるねん……!」
苛立ち交じりの声ではあるものの、その声には熱がこもっていて輪郭がほろほろと溶け始めてしまっている。それにカラスバは気付いているのか。いや、気付いていても、もう止められないのか。
キョウヤは信じられない気持ちで、ただただ想い人の姿を、声を、一つも漏らすまいと。カラスバに関するものを知覚している五感全てに神経を集中させて黙り込んでいた。
「も、むりや……なぁ、キョウヤぁ……」
キョウヤを見つめるカラスバの金の目が、とろり、蜂蜜のように蕩けだす。いつもクールな目元がふやけて、表情の全てからキョウヤのことを好きだ好きだと伝えてくる。白い頬を桜色に染め上げた美しい男が、息がかかるほどの距離でキョウヤに甘く囁いた。
「おれな、こんなわざにかかるまえから……。
ずっとまえから、オマエにメロメロやねん……♡」
その瞬間、愛くるしい子犬のような顔をした男の理性が音を立てて切れて、猛獣にも似た目をしてカラスバの体を掻き抱いたのだが――そのあと二人がどうなったのかは、誰も知らない。