・ワンドロワンライ
『正月くらいはこっちに帰ってきなさい!』
「あ~もう! 分かったよ!」
キョウヤが電話口でそんなやり取りをしているのを聞いたのは、十二月の頭くらいだっただろうか。相手からなにやらくどくど、長~く怒られた挙句に締めくくられた言葉にやけっぱちに言い返すと共に、キョウヤはがっくり肩を落として電話を切った。
「……親御さんか?」
「です……」
もう成人してるんだからほっといてよ~! と頭を抱えながら、キョウヤはソファに寝転ぶカラスバの上に覆い被さってきた。甘えるように抱き着いてくる恋人の頭をそっと撫でてやって、カラスバが口を開く。
「でもまぁ、オマエこっちに来てから一回も帰ってへんやろ? しかももともと旅行として来たんやし、そらまぁ心配してはるんちゃう」
「そうですけどぉ……やだやだカラスバさんと離れたくないぃ……」
「おーよしよし」
子供のようにやだやだと駄々を捏ねてカラスバの顔にすり寄ってくるのを、犬ポケモンにするようにわしわしと撫でてやる。それから覆い被さってきたままの背中をぽんぽん叩きながら、聞き分けのない子供を諭すように尋ねる。
「……でも今回は帰るんやろ?」
「ウン……分かったって言っちゃったし……確かに旅行に行ってくるって言って一年くらい帰ってないしなぁ……」
「あぁ、もうそんなに経つんか」
キョウヤに出会ってからの一年は、それはもう色々あった。突然現れたやけに強い旅行者に、彼を引き入れた若者の集団の調査、ランクアップ戦で彼にまみえた後はミアレの危機が待っていて、街の復興に走り回って、かと思えば異次元ミアレなんてものまで出てきて――そんな中でキョウヤとカラスバは心を通わせて、恋人なんて甘やかな関係になって。
本当に、目まぐるしい一年だったと思う。
「年越しは別々かぁ」
「せやな」
「……」
「ふはっ、むくれすぎやろ」
「だってぇ~」
まだ少し幼さが残る頬の丸みを撫でて、不満そうに突き出された唇にそっとキスを落としてやる。そうすると、未だ不満そうな顔をしながらも嬉しさが隠しきれずに口元をふにゃふにゃさせるのが可愛いのだ。だから止められない。
「ほら、帰るなら早めに航空券とか確保しといたほうがええんちゃうか」
「はぁ……ですね……すぐ帰ってきますから!」
「せっかく遠い地方まで帰るんやから、ゆっくりしてきよし」
「カラスバさんがいないなら意味ないもん……」
「なんや今日は甘えたやなぁ」
いつもは「子供扱いしないで」とか「俺も男なんですよ」とか、そんなことばっかり言うくせに。それでもこうやって甘えてくる年下の恋人は、可愛かった。
そんなやり取りをして、実際にキョウヤが旅立ったのが十二月も下旬に差し掛かったころだったろうか。
「気ぃつけてな」
「カラスバさんも無理しちゃダメですからね! ちゃんとあったかくして、お仕事もほどほどに!」
「はいはい」
そんな軽い言葉を交わして、この街に来た時と同じように一つの旅行鞄だけを持ったキョウヤをミアレ駅で見送った。顔には出さなかったけれど、なんだかその光景が恐ろしくて、心の奥底が凍り付くような……そんな心地がしたのを覚えている。それをぐっと堪えて、何事もなかったかのように踵を返してその日は事務所へ戻った。
地元に着きました、と連絡がきたのは見送った翌日。添付されていた写真には、ミアレとは全く異なる街並みと、こちらでは見かけないポケモンたちがいて。あぁ、ほんまにミアレにおらんのやな、なんて胸に冷たい風が吹いた気がした。
(……もう、戻って来ぉへんかもな)
それは、キョウヤに惹かれてからカラスバがずっと覚悟していたことだった。
キョウヤは、ミアレの住民ではない。ミアレを救った英雄で、ZAロワイヤルの初のAランク到達者で、エムゼット団のエースだけれど。本来キョウヤをこの街に縛りつけるものは何一つないのだ。
キョウヤは、自由に空を舞う鳥のようだと思う。大きく力強く羽ばたく羽を持っていて、今はきっと一時の止まり木としてミアレで翼を休めているだけ。いつか己の巣に帰るかもしれないし、もしかしたら次の土地に、もっと広い世界に羽ばたいていくのかもしれない。
無限の可能性を秘めた、眩しい太陽のような男。
それが、カラスバにとってのキョウヤだった。
日陰者の自分がキョウヤの隣にいていいのか、何度も何度も考えた。それでも欲深くなってしまった自分は、光に焦がれた自分は、差し出されたその手を取ってしまった。
――ならば、欲張った自分にできることは。キョウヤが旅立つその時、快く送り出してやることだろう。自分が枷にならないように。その翼を、折らないように。
カラスバはずっと、自分にそう言い聞かせて生きてきたのだ。
だから、大丈夫。キョウヤはその心のままに羽ばたけばいい。本気でそう思っていた。
キョウヤから電話がかかってきたのは、今年もあと数日というタイミングだった。もしかして、なんて冷たい予感をねじ伏せながら、深呼吸をして応答ボタンを押す。
『カラスバさん!』
溌溂とした声にほっとしてしまう。現金な自分に少し嫌悪しながら、カラスバは穏やかで物分かりの良い大人の皮を被る。
「キョウヤ。ご家族は元気にしてはったか?」
『はい、元気通り越して鬱陶しいくらいで……』
「はは、久しぶりにオマエに会えて嬉しいんやろ」
『そんな可愛いもんじゃないですよ! カラスバさん、そっちはどうですか?』
「んー、こっちは変わらんで。年末に向けてちょっと街が浮ついとる感じはあるけどな」
『年末のミアレも見たかったなぁ』
「ふふ、そんな特別なもんは何もないで」
あまりにもいつも通りのやりとりに拍子抜けして、少しだけ安堵する。心に滲む寂しさに目を瞑って、カラスバは努めて穏やかに口を開いた。
「……そっちの年末年始は、どうやって過ごすん」
『んー、そうですね。帰省してくる人が多いので、昔からの友達で集まったり、忘年会したりが多いですかね。お正月は家族と過ごす人が多いかも。おせちっていう、縁起物の料理を食べたり、親戚に新年の挨拶をしに行ったり……』
「さよか。ほなキョウヤも、友達に会ったり家でご家族とゆっくりしたり?」
『ですね、なんか俺が帰ってくるっていうのを家族がご近所中に言い触らしていたみたいで、帰るなり駅で知り合いに取り囲まれたんですよ!? 酷いと思いません!?』
「はは、人望やなぁ」
あぁやはりキョウヤの居場所は、向こうにあるのだろう。旅行で立ち寄っただけでもこれだけ多くの人を惹きつけて、居場所を作ったのだ。それが故郷ともなれば、きっとこんな滞在地の比ではない。
自分には、そういう場所が分からない。けれどキョウヤの声を聞く限り、きっと温かくて何よりも捨てがたい、そういう尊いものなのだろう。
『……カラスバさん?』
キョウヤの声が割り込んできてはっと思考を中断する。
「ん、なんや?」
『や、なんか俺の話ばっかしてるなって』
「そら、こっちは変わったことなんてなぁんもあらへんもん。オマエの話聞いてる方がおもろいわ」
『なら、いいんですけど……あの、こんなの年末だけですから』
「ん?」
『年が明けたらそっちに戻りますし、こっちでわちゃわちゃしてるの今だけなんで!』
「そんな急がんでも」
それからまた二、三言交わしてキョウヤとの通話を終える。しんと静まり返った自室は、なんだかいつもより暗くて寒い気がした。
「まぁでも、いつかはそっちに帰るんやもんな」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、重く部屋に転がった気がした。
次にキョウヤから電話があったのは、十二月三十日。外を見回っていたカラスバは、白い息を吐きながら応答ボタンをタップする。
「もしもし」
『カラスバさん! 今大丈夫ですか?』
「おん」
そう答えた声に被せるように、電話の向こうからプシュー、と電車の扉が開くような音がした。
「なんやオマエ、外おるんか?」
『あ、そうなんです。ちょっと遠出してて』
確かに他にもいろんな雑音が入っている。人の話し声や、アナウンスらしい電子音、電車が再度動き出して線路と車輪が噛みあう音も。地元、と一口に言っても、ミアレのように一つの街に限った話とは限らない。
「せわしないやっちゃなあ」
『えへへ』
――こんな小さい街一つでなく、羽ばたく先はいくらでもあるのだ。
口では軽く返事をしながら、そんなことを考えて胸元を握りしめたその時。背後で止まった足音に気付く。
「『かーらすーばさん、後ろ見て!』」
「っ!?」
通話越しの声と、リアルの声が重なって、頭で理解する前に振り返る。そこには、まだ地元にいるはずのキョウヤがスマホ片手ににこにこと立っていた。カラスバは驚きと喜びでバクバクと高鳴る心臓を押さえながら、信じられない気持ちで目の前の恋人を凝視する。
ホロでも、ポケモンの悪戯でもない。本物だ。
「……っ、キョウヤ!? オマエ、なんで」
「えへへ……さて、カラスバさん。行きましょうか」
「は?」
カラスバが状況についていけていないのを良いことに、キョウヤがカラスバの手を取って歩き出す。
「行くってどこに」
「ん? 俺の実家」
「は」
思わず足を止めたカラスバを振り返って、キョウヤは「あぁ!」と思い出したかのようににこりと笑って続ける。
「あ、もうジプソさんに連絡して、お仕事のこととかパスポートの事とか確認してますからね! ほら行きましょう!」
「はぁ!? ジプソもグルかいな!」
慌ててスマホロトムでジプソへ連絡を入れようとすれば、計ったように「組のことはご心配なく。カラスバ様はお休みも溜まっておりますので、年明け四日ごろまではごゆっくりお過ごしください」などとふざけたメッセージが飛んできて、カラスバは思わず額に青筋を浮かべながら「後で覚えとれよ」とだけ返した。ミアレの仕事始めは早いのに、四日まで休めとはどういう了見だ。
その前にまずはキョウヤだ。人が混乱している間にも手を引いてぐんぐん歩いていく。その手の温もりが嬉しい一方、戸惑いと後ろめたさのような気持ちが湧き上がる。
「なぁ、オレ、ミアレを離れるわけには、」
諦めずに抵抗を続けるカラスバに、キョウヤは一度足を止めると、いつの間にか自分よりも少し低い位置になったカラスバの小さい顔を両手で挟んだ。それから言い聞かせるように真っすぐ見つめて言う。
「ジプソさんや組員の皆さんがいるんだから、数日くらい大丈夫ですって! ちょっと遊びに行くだけ! いきますよ!」
有無を言わさぬその勢いに、カラスバは何を言っても無駄だと悟る。自身も頑固な方だとは思うが、キョウヤは柔和な顔をしておきながら一度決めたことは絶対に曲げない部分がある。
「ちょ、待っ……せめて一旦荷物取りに行かせてや!」
――そうしてカラスバは思いがけず、記憶にある中では初めてミアレを離れた。そしてキョウヤの実家がある地方へと降り立ったのだ。
「な、なぁキョウヤ、ほんまにオレをオマエの実家に連れていくつもりか?」
キョウヤの地元、実家の最寄り駅だというところに降り立ったタイミングで、さすがにカラスバもまずいと思い始めた。怖気づいたという部分もあるが、常識的に考えて自分がキョウヤのご家族に会うのはいろいろ良くないだろう。そう思って、まぁ適当に一人でホテルでも取ってタイミング見てミアレに帰ろうかなぁなんて算段を立てていたのに、カラスバを振り返ったキョウヤは心底不思議そうに首を傾げてから当然のように頷いた。
「? はい」
「はい、て……ご家族の皆さんびっくりしはるやろ、大事な息子さんがいきなりヤバそうな男連れて帰ってきたら……」
「大丈夫ですって! カラスバさん美人だし、むしろ俺の家族に気に入られすぎないか心配です」
「いやさすがにそれは……」
ないやろ、と言おうとしたその時、カラスバの手を引いて歩いていたキョウヤが唐突に足を止めて指差した。
「あ、あそこです」
そこには庭付きの立派な一軒家。と。
「あ! キョウヤ帰ってきた!」
「うっそほんとに超美人連れてるんだけど!」
「えっえっ待ってあたしも見たい!」
「ちょっと恥ずかしいから騒ぐのやめて! 大人しくして!」
「ほらびっくりさせてるじゃん!」
「こらこらお客様を外で待たせない! とりあえず全員家に入る!」
「あ。そうだ、キョウヤ」
『おかえり~!』
――玄関口と思われる場所から顔だけ出してこちらを興味津々に見つめている、キョウヤの面影を感じる老若男女の姿だった。
「いや多っ!」
思わず突っ込んだ自分は悪くない、とカラスバは思う。ご両親と、せいぜい兄弟・姉妹くらいかと思っていたら、子供も含めて軽く十を超える集団に出迎えられてカラスバは思わず後退りした。ギョッとしたその様子を見てキョウヤは苦笑して、少しだけ申し訳なさそうに頬を掻く。
「すみません、年末年始だから従兄弟とかも来てて……」
「え、これホンマにオレ来てよかったやつ?」
「当たり前です! ほら、行きましょう!」
そしてまたもや問答無用でキョウヤに腕を引かれ、カラスバはとうとう人生で初めての「恋人の実家」へと強制連行されたのであった。そしてキョウヤの家族と親戚が集まる広間へ通された挙句、全員の前でキョウヤはカラスバの腰を抱いてにこにこと言い放った。
「この人がカラスバさん。ミアレで出会った俺の一番大切な人!」
「ちょ、おまっ」
とんでもない紹介の仕方をされてカラスバは顔を赤くすればいいのか青くすればいいのか分からなかった。どちらにせよ、おそらくすごい顔色をしていたと思う。出来る限り目立たないように小さくなって端っこにいようと思っていたのにこれである。サビ組のボスが情けない、と思わないでもないが、ここにいるのはサビ組ボスのカラスバではなく、ただのキョウヤの恋人のカラスバなので仕方がない。
ああキョウヤのご両親、ご親戚の皆さんすんません、この子は悪くないんです、オレみたいな日陰者がこの男を誑かしたばっかりに……なんてキョウヤ本人が聞いたらブチギレて色々な事を理解らせられそうなことを心の中で呟きながら、腹を括ってどんな罵詈雑言も受け止めようと頭を垂れて目を閉じかけたのだが。その前にカラスバは、キョウヤの面影を感じる人々にわっと囲まれた。
「あらあらあら!」
「うっわキョウヤがこんな美人捕まえて帰ってくるとか羨ましい~!」
「カラスバさん、キョウヤがご迷惑かけてません? この子良くも悪くも行動力がありすぎるというか」
「あー……まぁ、それは否定しにくいですけど、」
「あんたやっぱりカラスバさんに迷惑かけてるでしょう!?」
「そもそも今回もやっと帰ってきたと思ったら『紹介したい人がいるから連れてくる』ってとんぼ返りして! ちゃんと説明して連れてきたの!?」
「いだだだだだ! 説明はしたよ! 多分!」
『あんたの多分は信用できないの!』
「ひぃん……」
(キョウヤが押されとる……)
そんなこんなでキョウヤの家族にさくっと受け入れられたカラスバは、その日からキョウヤの兄弟姉妹には根掘り葉掘りキョウヤとの話を聞かれ、子供たちにはじゃれつかれ、ご両親には話し相手にされ……と、キョウヤの家族に構い倒され、目が回るような日々を過ごすことになった。
そうしている間にあっという間に年末年始、そして三が日が過ぎて、ミアレに帰る日になった。最後は「また来てね~! なんならキョウヤはいなくてもいいから」「いやなんでだよ!」とこれまた賑やかに送り出されて、なにやら背中がむずむずするのを感じながら、キョウヤと共に手を振り返して帰路につく。
最寄駅から空港へ向かう車内で、カラスバは窓から馴染みのない景色を眺めながら、よく分からない疲労感と充実感を胸にして呟く。
「オマエの家族、全員オマエそっくりやな……」
「えぇ? そうですか?」
「肝が据わってんのと、人懐っこいのと、マイペースな辺りが」
「そうかなあ」
むむ、と首をひねるキョウヤにカラスバは小さく笑う。
――こんなに賑やかな正月を過ごすのは初めてだった。いや、こんなに誰かの「家族」
の中で過ごすのは初めてだった、という方が正しいだろうか。
孤児で、幼少期を路地裏で過ごした自分にとって、家族とは一番遠くて、縁のないはずのもの。自分は部外者のはずなのに、数日一緒に過ごして、まるでその一員のように扱ってもらっただけで……胸の奥が何だかぽかぽかするような、落ち着かない感覚がする。
決して不快じゃないけれど、なんだか居心地が悪くて、そわそわと体を揺らすカラスバを、キョウヤは優しく見つめた。まるでカラスバが何を考えているか分かっているかのような慈愛のこもったダークブラウン。向かい合って座っていた座席をひょいと移動してカラスバの隣に座り直したキョウヤは、彼の白い手を取って指を絡めた。それからその手を持ち上げて、ちゅ、と骨ばった手の甲へと口づける。
「カラスバさん。俺、カラスバさんから離れるつもりないですからね。今回地元に戻ってきたのは、ミアレに永住するための準備も含めてましたし」
「は? 永住?」
こんなところでやめろや、と言おうとしたカラスバは、キョウヤの形の良い唇が紡いだ言葉に耳を疑った。初耳だった。そして、考えたことがない言葉だった。カラスバの反応からそれを察したキョウヤは少し怒ったような顔をした。
「あ、やっぱり。カラスバさん、いつか俺がミアレを離れるって思ってたでしょ」
図星だったのとバツが悪いのとで、カラスバは押し黙る。それから気まずそうに視線をうろつかせながら、ぼそりと言った。
「……そりゃ、やってオマエは旅行者やんか」
「えぇ、それでミアレが大好きになって、俺の大好きな人もミアレを離れる気がなさそうなので、永住することにしました」
「そんなん、初耳や」
「あ、言ったのは初めてですね。今回のこれがなかったら、プロポーズするときに言おうと思ってたので」
「ぷ、プロポーズ!? おま、はぁ!?」
「あはは、カラスバさん顔真っ赤だ。かわいい」
なんだかさっきから想定外の単語ばかりが飛び出してくる。しかもカラスバの急所に当たる言葉ばかりだ。翻弄されるカラスバの様子にキョウヤは楽しそうに笑って、それから愛おし気にその目を細めてカラスバの赤い頬を撫でた。
「きっとまた帰省はしますけど、その時はまたカラスバさんも一緒に来てください。もちろん俺の家族として、ね?」
「かぞく」
「はい。あ、もうみんなに紹介しちゃったんで、逃げないでくださいよ」
くすり、キョウヤは冗談っぽく言って笑うと、自分のトレードマークになったハットを手に取った。それからカラスバと自分の顔を覆うようにハットを立てると、周囲の人の目線から隠されたその小さな空間の中でカラスバの唇に吸い付いた。もう言葉でも動作でもキャパがギリギリになって、ぱくぱくとその小さな口をコイキングのように開閉するしかなくなった恋人をじっと見つめて、キョウヤは囁いた。
「カラスバさん。離れてなんてあげませんので、腹括って俺と結婚してください」
答えは、イェスですか? ハイですか?
なんて、本職の自分のやり口みたいな選択肢を与えられて。とうとうカラスバは、耳まで顔を真っ赤にしてキョウヤのハットを奪い取ると、そこに顔を埋めて隠した。
「……やり方えぐいてオマエぇぇ……」
「まぁ反社の恋人がいるんで?」
「ほんま、敵わんなあ……」
顔を赤くしたまま恨めし気に見上げてくる琥珀色の目が可愛くて愛しくてたまらない。カラスバは、「あー」とか「うー」とか唸りながら悶絶して、それから感情の整理がついたのかゆっくり顔を上げる。そして先ほどキョウヤがしたようにハットで二人の顔を隠すと、もう片方の手でキョウヤの胸ぐらを掴んで噛みつくように口づけた。
先ほどの何倍も濃厚なキスの水音は、電車の雑音にかき消される。可愛らしいリップ音と共に、まさかの仕返しに真っ赤になった恋人の顔を見上げると、カラスバは満足げに笑って目を細めた。
「ほな、末永くよろしゅう。俺の旦那はん」
やり方えぐいのはどっちですか~! と、乙女のように両手で顔を覆ったキョウヤの悔しそうな叫びが、新年の寒空に響いた。
「あ~もう! 分かったよ!」
キョウヤが電話口でそんなやり取りをしているのを聞いたのは、十二月の頭くらいだっただろうか。相手からなにやらくどくど、長~く怒られた挙句に締めくくられた言葉にやけっぱちに言い返すと共に、キョウヤはがっくり肩を落として電話を切った。
「……親御さんか?」
「です……」
もう成人してるんだからほっといてよ~! と頭を抱えながら、キョウヤはソファに寝転ぶカラスバの上に覆い被さってきた。甘えるように抱き着いてくる恋人の頭をそっと撫でてやって、カラスバが口を開く。
「でもまぁ、オマエこっちに来てから一回も帰ってへんやろ? しかももともと旅行として来たんやし、そらまぁ心配してはるんちゃう」
「そうですけどぉ……やだやだカラスバさんと離れたくないぃ……」
「おーよしよし」
子供のようにやだやだと駄々を捏ねてカラスバの顔にすり寄ってくるのを、犬ポケモンにするようにわしわしと撫でてやる。それから覆い被さってきたままの背中をぽんぽん叩きながら、聞き分けのない子供を諭すように尋ねる。
「……でも今回は帰るんやろ?」
「ウン……分かったって言っちゃったし……確かに旅行に行ってくるって言って一年くらい帰ってないしなぁ……」
「あぁ、もうそんなに経つんか」
キョウヤに出会ってからの一年は、それはもう色々あった。突然現れたやけに強い旅行者に、彼を引き入れた若者の集団の調査、ランクアップ戦で彼にまみえた後はミアレの危機が待っていて、街の復興に走り回って、かと思えば異次元ミアレなんてものまで出てきて――そんな中でキョウヤとカラスバは心を通わせて、恋人なんて甘やかな関係になって。
本当に、目まぐるしい一年だったと思う。
「年越しは別々かぁ」
「せやな」
「……」
「ふはっ、むくれすぎやろ」
「だってぇ~」
まだ少し幼さが残る頬の丸みを撫でて、不満そうに突き出された唇にそっとキスを落としてやる。そうすると、未だ不満そうな顔をしながらも嬉しさが隠しきれずに口元をふにゃふにゃさせるのが可愛いのだ。だから止められない。
「ほら、帰るなら早めに航空券とか確保しといたほうがええんちゃうか」
「はぁ……ですね……すぐ帰ってきますから!」
「せっかく遠い地方まで帰るんやから、ゆっくりしてきよし」
「カラスバさんがいないなら意味ないもん……」
「なんや今日は甘えたやなぁ」
いつもは「子供扱いしないで」とか「俺も男なんですよ」とか、そんなことばっかり言うくせに。それでもこうやって甘えてくる年下の恋人は、可愛かった。
そんなやり取りをして、実際にキョウヤが旅立ったのが十二月も下旬に差し掛かったころだったろうか。
「気ぃつけてな」
「カラスバさんも無理しちゃダメですからね! ちゃんとあったかくして、お仕事もほどほどに!」
「はいはい」
そんな軽い言葉を交わして、この街に来た時と同じように一つの旅行鞄だけを持ったキョウヤをミアレ駅で見送った。顔には出さなかったけれど、なんだかその光景が恐ろしくて、心の奥底が凍り付くような……そんな心地がしたのを覚えている。それをぐっと堪えて、何事もなかったかのように踵を返してその日は事務所へ戻った。
地元に着きました、と連絡がきたのは見送った翌日。添付されていた写真には、ミアレとは全く異なる街並みと、こちらでは見かけないポケモンたちがいて。あぁ、ほんまにミアレにおらんのやな、なんて胸に冷たい風が吹いた気がした。
(……もう、戻って来ぉへんかもな)
それは、キョウヤに惹かれてからカラスバがずっと覚悟していたことだった。
キョウヤは、ミアレの住民ではない。ミアレを救った英雄で、ZAロワイヤルの初のAランク到達者で、エムゼット団のエースだけれど。本来キョウヤをこの街に縛りつけるものは何一つないのだ。
キョウヤは、自由に空を舞う鳥のようだと思う。大きく力強く羽ばたく羽を持っていて、今はきっと一時の止まり木としてミアレで翼を休めているだけ。いつか己の巣に帰るかもしれないし、もしかしたら次の土地に、もっと広い世界に羽ばたいていくのかもしれない。
無限の可能性を秘めた、眩しい太陽のような男。
それが、カラスバにとってのキョウヤだった。
日陰者の自分がキョウヤの隣にいていいのか、何度も何度も考えた。それでも欲深くなってしまった自分は、光に焦がれた自分は、差し出されたその手を取ってしまった。
――ならば、欲張った自分にできることは。キョウヤが旅立つその時、快く送り出してやることだろう。自分が枷にならないように。その翼を、折らないように。
カラスバはずっと、自分にそう言い聞かせて生きてきたのだ。
だから、大丈夫。キョウヤはその心のままに羽ばたけばいい。本気でそう思っていた。
キョウヤから電話がかかってきたのは、今年もあと数日というタイミングだった。もしかして、なんて冷たい予感をねじ伏せながら、深呼吸をして応答ボタンを押す。
『カラスバさん!』
溌溂とした声にほっとしてしまう。現金な自分に少し嫌悪しながら、カラスバは穏やかで物分かりの良い大人の皮を被る。
「キョウヤ。ご家族は元気にしてはったか?」
『はい、元気通り越して鬱陶しいくらいで……』
「はは、久しぶりにオマエに会えて嬉しいんやろ」
『そんな可愛いもんじゃないですよ! カラスバさん、そっちはどうですか?』
「んー、こっちは変わらんで。年末に向けてちょっと街が浮ついとる感じはあるけどな」
『年末のミアレも見たかったなぁ』
「ふふ、そんな特別なもんは何もないで」
あまりにもいつも通りのやりとりに拍子抜けして、少しだけ安堵する。心に滲む寂しさに目を瞑って、カラスバは努めて穏やかに口を開いた。
「……そっちの年末年始は、どうやって過ごすん」
『んー、そうですね。帰省してくる人が多いので、昔からの友達で集まったり、忘年会したりが多いですかね。お正月は家族と過ごす人が多いかも。おせちっていう、縁起物の料理を食べたり、親戚に新年の挨拶をしに行ったり……』
「さよか。ほなキョウヤも、友達に会ったり家でご家族とゆっくりしたり?」
『ですね、なんか俺が帰ってくるっていうのを家族がご近所中に言い触らしていたみたいで、帰るなり駅で知り合いに取り囲まれたんですよ!? 酷いと思いません!?』
「はは、人望やなぁ」
あぁやはりキョウヤの居場所は、向こうにあるのだろう。旅行で立ち寄っただけでもこれだけ多くの人を惹きつけて、居場所を作ったのだ。それが故郷ともなれば、きっとこんな滞在地の比ではない。
自分には、そういう場所が分からない。けれどキョウヤの声を聞く限り、きっと温かくて何よりも捨てがたい、そういう尊いものなのだろう。
『……カラスバさん?』
キョウヤの声が割り込んできてはっと思考を中断する。
「ん、なんや?」
『や、なんか俺の話ばっかしてるなって』
「そら、こっちは変わったことなんてなぁんもあらへんもん。オマエの話聞いてる方がおもろいわ」
『なら、いいんですけど……あの、こんなの年末だけですから』
「ん?」
『年が明けたらそっちに戻りますし、こっちでわちゃわちゃしてるの今だけなんで!』
「そんな急がんでも」
それからまた二、三言交わしてキョウヤとの通話を終える。しんと静まり返った自室は、なんだかいつもより暗くて寒い気がした。
「まぁでも、いつかはそっちに帰るんやもんな」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、重く部屋に転がった気がした。
次にキョウヤから電話があったのは、十二月三十日。外を見回っていたカラスバは、白い息を吐きながら応答ボタンをタップする。
「もしもし」
『カラスバさん! 今大丈夫ですか?』
「おん」
そう答えた声に被せるように、電話の向こうからプシュー、と電車の扉が開くような音がした。
「なんやオマエ、外おるんか?」
『あ、そうなんです。ちょっと遠出してて』
確かに他にもいろんな雑音が入っている。人の話し声や、アナウンスらしい電子音、電車が再度動き出して線路と車輪が噛みあう音も。地元、と一口に言っても、ミアレのように一つの街に限った話とは限らない。
「せわしないやっちゃなあ」
『えへへ』
――こんな小さい街一つでなく、羽ばたく先はいくらでもあるのだ。
口では軽く返事をしながら、そんなことを考えて胸元を握りしめたその時。背後で止まった足音に気付く。
「『かーらすーばさん、後ろ見て!』」
「っ!?」
通話越しの声と、リアルの声が重なって、頭で理解する前に振り返る。そこには、まだ地元にいるはずのキョウヤがスマホ片手ににこにこと立っていた。カラスバは驚きと喜びでバクバクと高鳴る心臓を押さえながら、信じられない気持ちで目の前の恋人を凝視する。
ホロでも、ポケモンの悪戯でもない。本物だ。
「……っ、キョウヤ!? オマエ、なんで」
「えへへ……さて、カラスバさん。行きましょうか」
「は?」
カラスバが状況についていけていないのを良いことに、キョウヤがカラスバの手を取って歩き出す。
「行くってどこに」
「ん? 俺の実家」
「は」
思わず足を止めたカラスバを振り返って、キョウヤは「あぁ!」と思い出したかのようににこりと笑って続ける。
「あ、もうジプソさんに連絡して、お仕事のこととかパスポートの事とか確認してますからね! ほら行きましょう!」
「はぁ!? ジプソもグルかいな!」
慌ててスマホロトムでジプソへ連絡を入れようとすれば、計ったように「組のことはご心配なく。カラスバ様はお休みも溜まっておりますので、年明け四日ごろまではごゆっくりお過ごしください」などとふざけたメッセージが飛んできて、カラスバは思わず額に青筋を浮かべながら「後で覚えとれよ」とだけ返した。ミアレの仕事始めは早いのに、四日まで休めとはどういう了見だ。
その前にまずはキョウヤだ。人が混乱している間にも手を引いてぐんぐん歩いていく。その手の温もりが嬉しい一方、戸惑いと後ろめたさのような気持ちが湧き上がる。
「なぁ、オレ、ミアレを離れるわけには、」
諦めずに抵抗を続けるカラスバに、キョウヤは一度足を止めると、いつの間にか自分よりも少し低い位置になったカラスバの小さい顔を両手で挟んだ。それから言い聞かせるように真っすぐ見つめて言う。
「ジプソさんや組員の皆さんがいるんだから、数日くらい大丈夫ですって! ちょっと遊びに行くだけ! いきますよ!」
有無を言わさぬその勢いに、カラスバは何を言っても無駄だと悟る。自身も頑固な方だとは思うが、キョウヤは柔和な顔をしておきながら一度決めたことは絶対に曲げない部分がある。
「ちょ、待っ……せめて一旦荷物取りに行かせてや!」
――そうしてカラスバは思いがけず、記憶にある中では初めてミアレを離れた。そしてキョウヤの実家がある地方へと降り立ったのだ。
「な、なぁキョウヤ、ほんまにオレをオマエの実家に連れていくつもりか?」
キョウヤの地元、実家の最寄り駅だというところに降り立ったタイミングで、さすがにカラスバもまずいと思い始めた。怖気づいたという部分もあるが、常識的に考えて自分がキョウヤのご家族に会うのはいろいろ良くないだろう。そう思って、まぁ適当に一人でホテルでも取ってタイミング見てミアレに帰ろうかなぁなんて算段を立てていたのに、カラスバを振り返ったキョウヤは心底不思議そうに首を傾げてから当然のように頷いた。
「? はい」
「はい、て……ご家族の皆さんびっくりしはるやろ、大事な息子さんがいきなりヤバそうな男連れて帰ってきたら……」
「大丈夫ですって! カラスバさん美人だし、むしろ俺の家族に気に入られすぎないか心配です」
「いやさすがにそれは……」
ないやろ、と言おうとしたその時、カラスバの手を引いて歩いていたキョウヤが唐突に足を止めて指差した。
「あ、あそこです」
そこには庭付きの立派な一軒家。と。
「あ! キョウヤ帰ってきた!」
「うっそほんとに超美人連れてるんだけど!」
「えっえっ待ってあたしも見たい!」
「ちょっと恥ずかしいから騒ぐのやめて! 大人しくして!」
「ほらびっくりさせてるじゃん!」
「こらこらお客様を外で待たせない! とりあえず全員家に入る!」
「あ。そうだ、キョウヤ」
『おかえり~!』
――玄関口と思われる場所から顔だけ出してこちらを興味津々に見つめている、キョウヤの面影を感じる老若男女の姿だった。
「いや多っ!」
思わず突っ込んだ自分は悪くない、とカラスバは思う。ご両親と、せいぜい兄弟・姉妹くらいかと思っていたら、子供も含めて軽く十を超える集団に出迎えられてカラスバは思わず後退りした。ギョッとしたその様子を見てキョウヤは苦笑して、少しだけ申し訳なさそうに頬を掻く。
「すみません、年末年始だから従兄弟とかも来てて……」
「え、これホンマにオレ来てよかったやつ?」
「当たり前です! ほら、行きましょう!」
そしてまたもや問答無用でキョウヤに腕を引かれ、カラスバはとうとう人生で初めての「恋人の実家」へと強制連行されたのであった。そしてキョウヤの家族と親戚が集まる広間へ通された挙句、全員の前でキョウヤはカラスバの腰を抱いてにこにこと言い放った。
「この人がカラスバさん。ミアレで出会った俺の一番大切な人!」
「ちょ、おまっ」
とんでもない紹介の仕方をされてカラスバは顔を赤くすればいいのか青くすればいいのか分からなかった。どちらにせよ、おそらくすごい顔色をしていたと思う。出来る限り目立たないように小さくなって端っこにいようと思っていたのにこれである。サビ組のボスが情けない、と思わないでもないが、ここにいるのはサビ組ボスのカラスバではなく、ただのキョウヤの恋人のカラスバなので仕方がない。
ああキョウヤのご両親、ご親戚の皆さんすんません、この子は悪くないんです、オレみたいな日陰者がこの男を誑かしたばっかりに……なんてキョウヤ本人が聞いたらブチギレて色々な事を理解らせられそうなことを心の中で呟きながら、腹を括ってどんな罵詈雑言も受け止めようと頭を垂れて目を閉じかけたのだが。その前にカラスバは、キョウヤの面影を感じる人々にわっと囲まれた。
「あらあらあら!」
「うっわキョウヤがこんな美人捕まえて帰ってくるとか羨ましい~!」
「カラスバさん、キョウヤがご迷惑かけてません? この子良くも悪くも行動力がありすぎるというか」
「あー……まぁ、それは否定しにくいですけど、」
「あんたやっぱりカラスバさんに迷惑かけてるでしょう!?」
「そもそも今回もやっと帰ってきたと思ったら『紹介したい人がいるから連れてくる』ってとんぼ返りして! ちゃんと説明して連れてきたの!?」
「いだだだだだ! 説明はしたよ! 多分!」
『あんたの多分は信用できないの!』
「ひぃん……」
(キョウヤが押されとる……)
そんなこんなでキョウヤの家族にさくっと受け入れられたカラスバは、その日からキョウヤの兄弟姉妹には根掘り葉掘りキョウヤとの話を聞かれ、子供たちにはじゃれつかれ、ご両親には話し相手にされ……と、キョウヤの家族に構い倒され、目が回るような日々を過ごすことになった。
そうしている間にあっという間に年末年始、そして三が日が過ぎて、ミアレに帰る日になった。最後は「また来てね~! なんならキョウヤはいなくてもいいから」「いやなんでだよ!」とこれまた賑やかに送り出されて、なにやら背中がむずむずするのを感じながら、キョウヤと共に手を振り返して帰路につく。
最寄駅から空港へ向かう車内で、カラスバは窓から馴染みのない景色を眺めながら、よく分からない疲労感と充実感を胸にして呟く。
「オマエの家族、全員オマエそっくりやな……」
「えぇ? そうですか?」
「肝が据わってんのと、人懐っこいのと、マイペースな辺りが」
「そうかなあ」
むむ、と首をひねるキョウヤにカラスバは小さく笑う。
――こんなに賑やかな正月を過ごすのは初めてだった。いや、こんなに誰かの「家族」
の中で過ごすのは初めてだった、という方が正しいだろうか。
孤児で、幼少期を路地裏で過ごした自分にとって、家族とは一番遠くて、縁のないはずのもの。自分は部外者のはずなのに、数日一緒に過ごして、まるでその一員のように扱ってもらっただけで……胸の奥が何だかぽかぽかするような、落ち着かない感覚がする。
決して不快じゃないけれど、なんだか居心地が悪くて、そわそわと体を揺らすカラスバを、キョウヤは優しく見つめた。まるでカラスバが何を考えているか分かっているかのような慈愛のこもったダークブラウン。向かい合って座っていた座席をひょいと移動してカラスバの隣に座り直したキョウヤは、彼の白い手を取って指を絡めた。それからその手を持ち上げて、ちゅ、と骨ばった手の甲へと口づける。
「カラスバさん。俺、カラスバさんから離れるつもりないですからね。今回地元に戻ってきたのは、ミアレに永住するための準備も含めてましたし」
「は? 永住?」
こんなところでやめろや、と言おうとしたカラスバは、キョウヤの形の良い唇が紡いだ言葉に耳を疑った。初耳だった。そして、考えたことがない言葉だった。カラスバの反応からそれを察したキョウヤは少し怒ったような顔をした。
「あ、やっぱり。カラスバさん、いつか俺がミアレを離れるって思ってたでしょ」
図星だったのとバツが悪いのとで、カラスバは押し黙る。それから気まずそうに視線をうろつかせながら、ぼそりと言った。
「……そりゃ、やってオマエは旅行者やんか」
「えぇ、それでミアレが大好きになって、俺の大好きな人もミアレを離れる気がなさそうなので、永住することにしました」
「そんなん、初耳や」
「あ、言ったのは初めてですね。今回のこれがなかったら、プロポーズするときに言おうと思ってたので」
「ぷ、プロポーズ!? おま、はぁ!?」
「あはは、カラスバさん顔真っ赤だ。かわいい」
なんだかさっきから想定外の単語ばかりが飛び出してくる。しかもカラスバの急所に当たる言葉ばかりだ。翻弄されるカラスバの様子にキョウヤは楽しそうに笑って、それから愛おし気にその目を細めてカラスバの赤い頬を撫でた。
「きっとまた帰省はしますけど、その時はまたカラスバさんも一緒に来てください。もちろん俺の家族として、ね?」
「かぞく」
「はい。あ、もうみんなに紹介しちゃったんで、逃げないでくださいよ」
くすり、キョウヤは冗談っぽく言って笑うと、自分のトレードマークになったハットを手に取った。それからカラスバと自分の顔を覆うようにハットを立てると、周囲の人の目線から隠されたその小さな空間の中でカラスバの唇に吸い付いた。もう言葉でも動作でもキャパがギリギリになって、ぱくぱくとその小さな口をコイキングのように開閉するしかなくなった恋人をじっと見つめて、キョウヤは囁いた。
「カラスバさん。離れてなんてあげませんので、腹括って俺と結婚してください」
答えは、イェスですか? ハイですか?
なんて、本職の自分のやり口みたいな選択肢を与えられて。とうとうカラスバは、耳まで顔を真っ赤にしてキョウヤのハットを奪い取ると、そこに顔を埋めて隠した。
「……やり方えぐいてオマエぇぇ……」
「まぁ反社の恋人がいるんで?」
「ほんま、敵わんなあ……」
顔を赤くしたまま恨めし気に見上げてくる琥珀色の目が可愛くて愛しくてたまらない。カラスバは、「あー」とか「うー」とか唸りながら悶絶して、それから感情の整理がついたのかゆっくり顔を上げる。そして先ほどキョウヤがしたようにハットで二人の顔を隠すと、もう片方の手でキョウヤの胸ぐらを掴んで噛みつくように口づけた。
先ほどの何倍も濃厚なキスの水音は、電車の雑音にかき消される。可愛らしいリップ音と共に、まさかの仕返しに真っ赤になった恋人の顔を見上げると、カラスバは満足げに笑って目を細めた。
「ほな、末永くよろしゅう。俺の旦那はん」
やり方えぐいのはどっちですか~! と、乙女のように両手で顔を覆ったキョウヤの悔しそうな叫びが、新年の寒空に響いた。