・短編
キーンコーンカーンコーン…
部活の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、集合を告げるホイッスルと共に体育館の床をダムダム跳ねるボールの音と、シューズ裏の滑り止めが床と擦れてきゅ、きゅと鳴く音が止む。
弾む息を残しながら滴る汗をスポーツタオルで拭い、1年生に片づけを任せて更衣室に引っ込んだ。汗を吸って重くなったユニを脱いで、制汗剤を振って手早く制服に着替えると、再びタオルだけ首に引っかけて挨拶もそこそこに体育館を飛び出す。
「お疲れさまっした!」
煌々と照らされていた体育館とは異なり、廊下は少し薄暗かった。夏の終わり、少し日の入りが早くなった空は夕焼け色に染まり始めている。少し前までは下校時間になってもまだまだ明るかったのに。
同じ部活終わりの生徒たちの間を縫うように走っていると、背後から生活指導の先生から「廊下を走るな!」とお叱りの声が飛んできた。
「すみませーん!」なんて叫びながらも走る速度は緩めずに階段を駆け降りて、下駄箱の前へ。
お目当ての人物は、先に外履きに履き替えて出入り口の端にいた。開いた単語帳に視線を落としながら、ちらりと腕時計を確認するのを見て慌てて自分もスニーカーに履き替える。
そして体育館からここまでで再び滲んだ汗を、手の甲で拭いながら、彼の前にまろびでた。
「はぁ、あっっつぅ〜!」
ぱたぱたと顔を手で仰ぎながらそんな声を上げれば、手元の英単語を追っていた金色の目がふと上がって、目の前の俺を見つけて小さく和らぐ。
「おつかれさん」
「うん、カラスバさんも」
彼ーー1つ上の先輩のカラスバさんは、汗だくの俺にフッと笑いながら単語帳を鞄の中にしまい込んだ。2人で連れ立って歩き出す。
正門から入ってすぐにある駐輪場は、朝はギチギチに自転車が詰められているけれど、この時間は少し空きがある。見慣れた自転車の鍵をカシャンと外して駐輪場の前に引き摺り出した。
前のカゴに明らかにサイズオーバーのエナメルバッグを雑に突っ込んで、自転車を跨いでカラスバさんの前で待機する。するとすぐさま自転車の後ろ側が沈んで、汗ばんだ両肩に手のひらが乗った。
「ほな、今日もよろしゅう」
「はぁい」
乗せてもらうのが当然、みたいな顔をしながらも一応口ではそう言ってくれるので、間延びした返事をしながらオレは勢いよくペダルを踏み込んだ。
カラスバさんと一緒に下校するのは、仲良くなってからずっと続いている習慣だった。彼が自習する時間と俺の部活の時間が朝も放課後もほとんど一致するので、登下校時の足を務めさせていただいている。今ではもう慣れたもので、俺たちにとっての当たり前だった。
これまで何度も倒してぶつけて少しタイヤとカゴが曲がった自転車は、小さくガシャガシャと音を立てながらも前に進む。学校の近くの舗装された道を曲がると、否かだからすぐに畦道に入った。途端に砂とタイヤがジャリジャリ擦れる音が俺たちの会話の邪魔をする。
たまに小石を踏んで大きく車体が揺れるけれど、2人分の体重を頑張って運ぶ俺も、後ろに乗ったカラスバさんは慣れたものでもう気にも留めない。
ひぐらしの鳴く声が混ざる。湿度を孕んだ夏特有のじっとり暑い空気。夕暮れでもまだまだぬるい風を切って、俺の自転車は走る。
「試合いつやっけ?」
「来週!」
「オマエ出んの?」
「まぁね、レギュラーとりました!」
「へぇ、やるやん」
自転車の前後で会話をするには、前を向いている俺が少し声を張らなくてはならない。元気よく返す俺と、いつもより気持ち大きい声を出すカラスバさんの声が後ろから聞こえてくる。
「試合見にきてよ!」
「考えとくわ~」
とか言いながら、見に来てくれるんだよな。なんて思うけれど、へそを曲げられちゃうから口には出さない。
「カラスバさんは勉強どう?」
「まーぼちぼち」
「この前模試だったんだっけ」
「おん。ま、結果は来月やな」
「受験生みたい」
「受験生やねん」
「そうだった」
なんてバカみたいな会話をして、特に面白いわけでもないのにくすくす笑い合いながら、土と田んぼの匂いがする田舎道をひた走っていた、その時。不意に空が暗くなった。日暮れとはまた異なるそれに嫌な予感を抱いていると、いつの間にか空を覆っていた灰色の分厚い積乱雲がごろごろと低い音を鳴らす。
それぞれの家まではまだ遠い。俺の家の方が遠くて、その途中にカラスバさんの家があるのだけれど、カラスバさんの家でさえまだ半分折り返しといった所だ。うわあ、と思ったのは俺だけじゃないようで、背中のカラスバさんも声を上げる。
「これやばない?」
「ですよねぇ」
言ってる間に冷たい風が肌を撫でたかと思うと、次の瞬間にはぼた、ぼた、と雨粒が落ちてきて。そしてあっという間にザァっという音と共に大粒の雨が俺たちを襲った。
「やばい降ってきた!!」
「あかんこの辺なんもないで!」
「ぎゃー!!」
大声で叫ばないと声も聞こえないほどの、バケツをひっくり返したような土砂降り。俺たちは一瞬にして濡れ鼠になってしまった。辺りを見回しても本当に何もないし人気もない中、少し先に小さな建物が見えた。カラスバさんも同じタイミングで後ろからその方向を指さす。
「キョウヤ、あれや!バス停の待機所!」
「了解!」
もうすでにずぶ濡れだけど、このまま雨に打たれ続ける趣味はない。瞬く間に水たまりができ始めた道を、バシャバシャ音を立てながら必死に自転車を漕いで進んだ。
見事な夕立に降られてなんとか辿り着いた人気のないぼろいバス停。半ば乗り捨てるように自転車を目の前に置いて、慌てて屋根の下へと駆け込んだ。痛いくらいに叩きつける雨粒から逃れて、思わず二人で息をつく。
「っあーーさいあく」
「さっきまであんなに晴れとったのになぁ」
「ほんとにね。教科書大丈夫ですか?」
「あー…あ、全滅かと思ってたけど思ってたより生きてるわ」
「お、じゃあまだセーフだ」
「と思ったけど半分アウトやな」
「じゃあ…セウト」
「セウト」
「うん。…んふふ」
「自分でウケとるやん」
通学路にあるけれどあまり意識したことがなかったバス停。木製の壁と屋根で囲まれていて、3人掛けのベンチが1つあるだけの小さな待機所だ。壁には1時間に1本しか書かれていない時刻表が掛かっている。そんな2畳ほどの狭い空間だが、雨をしのぐには十分だった。
ぼたぼたと全身から滴る水滴に肩を落としながら、お互いの惨状を見て苦笑い。
「あーやば、服絞れそう」
「ほんまにな。オマエ首のタオルやばいで」
「うわ忘れてた!」
首に巻いていたタオルは確かにぐっしょり濡れている。彼の指摘で慌てて首から外すとそれを思いっきり絞って、それから無いよりはマシかとそのタオルで顔と髪をがしがし拭いた。そしてそのまま同じく濡れてしまってバス停の隅に投げ置いたエナメルバッグの上へくしゃくしゃと丸めておいておく。
「あー…通り雨やろうけど、もうちょいかかりそうやな」
ふと振り返ると、水滴のついたメガネのレンズを拭いながら、カラスバさんが空を見ていた。
あまり見ることのない眼鏡のない素顔。いつもはクールで冷たい、真面目な印象が先行する顔だけれど、こうして眼鏡を外すとなんだか幼く見えることに気づいた。金色の切れ長の目を縁取る睫毛は濡れて束になっていて、そこに水滴がついている。
睫毛、長いな。
こうして見ると綺麗な顔してるんだよな。
いつもはきちっと整えられた前髪は雨ですっかり落ちてしまっている。重そうなそれをかきあげながら彼は眼鏡をかけ直した。
けれどかきあげた前髪がすぐにもう一度垂れてきて、濡れた髪から雫がぽたりと落ちて地面に染みを作った。なんだかそれがやけに目について。
肌に張り付いたシャツ。インナーすらも透けて見えるその先の白い肌に、どうしてかひどく口の中が乾く気がして喉を鳴らす。
「…うん」
辛うじてそう返事をした。その声が、なんだか低くなってしまって。何か引っかかったらしいカラスバさんが、不意に俺の方に顔を向けた。
目が合う。交わる。
じとり、視線が絡んで、なぜだか離せない。
いつの間にか大きくなった心臓の音がばくばくと耳元で鳴り響いている。
何かに惑うように不意に伏せられた瞼。その下の金色の瞳はゆらゆらと揺れているように見えた。
雨はまだ止む気配がない。
綺麗だと、思った。
ずっと見ていたいな、とも。
でも来年には、いや、もう半年後には彼はいなくなってしまう。
このつながりは、この時間はもうなくなってしまう。それは必然だ。
――そう思った瞬間、自分の中で何かがぶわりと膨れ上がるのを自覚する。
この人に触れてみたい、近づきたい。
触れたら、どうなるんだろう。この人の内側に触れたら、この怜悧な表情に覆われた中が見てみたい。誰にも見せたことがない顔を見たい。
この気持ちは、衝動は、何?
「夏やし、すぐ乾くやろ」
じっと見つめたまま一人でぐるぐる考えていた俺の耳に、落ち着いたテノールが滑り込む。視線に気づいたのか、カラスバさんは肌に張り付いたシャツをつまんで浮かせて気恥ずかしそうに目を泳がせていた。その仕草がまた俺の視界を赤く染め上げて、余計に視線に熱がこもる。
「…なんや、どうしーーっ」
耐えかねて気まずさを拭うように開かれた唇に噛み付いたのは、半ば無意識だった。
外はすっかり豪雨だ。
大粒の雨が絶え間なく地面に叩きつけるそれは、まるで雨のカーテン。
雨はやまない。
ふたりぼっち、二人の世界だった。
「…ん、ぅ…」
「はっ、…っ」
初めてのキスだった。
人の唇の柔らかさを初めて知った。
濡れた唇は、思っていたよりもひやりと冷たい。
寒さからか触れる前は少し血色の悪かった唇は、俺の体温が移ったのか少しずつ赤く色づき始める。キスのやり方なんて知らない。ただ、口の端から漏れる吐息すら惜しいと思って、隙間を埋めるように必死に唇を合わせた。
雨音で世界から遮断された小さなバス停はまるで密室のようで、二人分の息遣いがやけに籠って響く。
水分を含んだ地面から舞い上がるペトリコールが鼻腔をくすぐるのに混ざって、知らない柔軟剤の匂いがした。それに混ざって仄かな汗と、どこか甘い匂いも。それが、目の前の先輩から香ってくることに気づくのに時間はかからなかった。
口付けた勢いで、そのまま彼を壁に追い詰める。なんて言っても狭い空間では、一歩踏み出すだけでトンと彼の背中が壁についた。その感覚で我に返ったのか、戸惑うように浮いた手が俺に触れる前に手首を掴んで止める。
それ以上の抵抗は、なかった。だから合わせた唇の隙間から、そっと舌先をねじ込んだ。びくり、触れているカラスバさんの体が驚いたように揺れる。こんなに体の表面は冷えているのに、咥内は発熱しているのかと錯覚するほどに熱かった。
口の中に滑り込ませた俺の舌先が、奥で縮こまっていた彼の舌を探り当てて、引き寄せるようにして根元から吸いあげた。んぅ、と鼻から抜けるような甘い音が聞こえて、熱に浮かされておかしくなった頭がまた一段と思考をぼやけさせる。
息が上がる。でも止められない。
は、は、と響く吐息は酷く間隔が短く、急いているようだった。
ザァザァと鳴る音に紛れて、くち、くちゅ、と粘度のある水音が響く。次第に呼吸を、唾液を奪い合うような激しさで、荒々しくお互いの咥内を荒らし合って。
ぽたり、彼の重たい前髪から落ちた雫が俺の頬に落ちて、自分の顔の熱さを自覚した。
あぁ、頭が茹る。
もっと。この人を暴いてしまいたい。
シャツの裾から手を入れて、汗ばんだ肌に手を沿わせる。表面が冷えた体は寒さからか微かに震えていて、触れるとぴくりと跳ねた。
はやく、はやく。その先へ。
よく分からない焦りが胸を焦がす。
ぐぐ、と体を近づけて、空いている方の手を背中に回して掻き抱けば、濡れそぼったシャツが胸元で触れ合ってぐしゅりと音を立てる。
本能が命じるままに背骨の窪みをなぞって、脇腹を辿って、そのままスラックスの境目に指先を滑らせて腰骨の形を確かめる。
それ以上は、まだ。
この先に進むともう戻れないような気がして、指先が止まる。
けれど熱を持て余した体は脳みその統制を外れてしまった。気付けばすっかり硬くなった下半身を押し付けあって、夢中で唇を貪り合う。ぐりぐりと敏感な部分が擦れ合うたびに息が止まるほど気持ちがいい。そしてそう思っていたのは俺だけじゃなかった。いつの間にかカラスバさんも俺の背中に手を回して、熱に浮かされたような顔をして腰を揺らしていた。
頭の奥が、脳の芯がじぃんと甘く痺れるのを感じながら、茹る頭の隅で冷静な自分が何かを喚く。
なんでこんなことしてるんだろう。
男同士なのに。
俺たち、友達なのに。
「は、ぁっ…」
「…っ…」
ぷは、とどちらともなく唇を離すと、2人の間には獣のように荒い息が落ちた。カラスバさんの金色の目は生理的な涙が滲んで色が濃くなって、甘い蜂蜜のような輝きを湛えている。
視線は、合わない。
すっかり真っ赤になった顔を背けられるけれど、耳どころか首筋まで赤く染まり切っているのがよく見えた。触れたままの胸が呼吸に合わせて必死に上下するのが直接伝わってきて、なんだかそれが生々しい。
こんなことして友達に戻れるかな。
もうこれきりなのかな。
俺たち、友達、で、いいのかな。
彼に1番近い後輩である自覚はあった。怖いとかおっかないとか言われる彼が俺には穏やかな優しい目を向けてくれることに優越感を感じている自覚もあった。
でもただの先輩にこんなことしない。
したいなんて思わない。
こんなんじゃ、足りない。
黒くもやりとした感情がゆるりと頭を擡げる。
それに名前もつけられないまま、バス停のぼろい木の壁に自分とさして変わらない体格の先輩を抱きしめたまま、さらに強く壁に押し付ける。
拒まれないのは、なぜだろう。
わからない。
でももうすこし、もうすこし、近づきたい。
あぁ、このまま俺と彼を隔てる境界がなくなって溶けてしまえばいい。
湿った肌が触れ合う。
冷たい、けど、熱い。
蜂蜜色の目が、じぃと俺を見つめる。
ねぇ、なんで。
なんで、拒まないの。
激しい雨音は、熱に浮かされた少年たちの姿を外界から覆い隠すばかりだった。
終…?
部活の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、集合を告げるホイッスルと共に体育館の床をダムダム跳ねるボールの音と、シューズ裏の滑り止めが床と擦れてきゅ、きゅと鳴く音が止む。
弾む息を残しながら滴る汗をスポーツタオルで拭い、1年生に片づけを任せて更衣室に引っ込んだ。汗を吸って重くなったユニを脱いで、制汗剤を振って手早く制服に着替えると、再びタオルだけ首に引っかけて挨拶もそこそこに体育館を飛び出す。
「お疲れさまっした!」
煌々と照らされていた体育館とは異なり、廊下は少し薄暗かった。夏の終わり、少し日の入りが早くなった空は夕焼け色に染まり始めている。少し前までは下校時間になってもまだまだ明るかったのに。
同じ部活終わりの生徒たちの間を縫うように走っていると、背後から生活指導の先生から「廊下を走るな!」とお叱りの声が飛んできた。
「すみませーん!」なんて叫びながらも走る速度は緩めずに階段を駆け降りて、下駄箱の前へ。
お目当ての人物は、先に外履きに履き替えて出入り口の端にいた。開いた単語帳に視線を落としながら、ちらりと腕時計を確認するのを見て慌てて自分もスニーカーに履き替える。
そして体育館からここまでで再び滲んだ汗を、手の甲で拭いながら、彼の前にまろびでた。
「はぁ、あっっつぅ〜!」
ぱたぱたと顔を手で仰ぎながらそんな声を上げれば、手元の英単語を追っていた金色の目がふと上がって、目の前の俺を見つけて小さく和らぐ。
「おつかれさん」
「うん、カラスバさんも」
彼ーー1つ上の先輩のカラスバさんは、汗だくの俺にフッと笑いながら単語帳を鞄の中にしまい込んだ。2人で連れ立って歩き出す。
正門から入ってすぐにある駐輪場は、朝はギチギチに自転車が詰められているけれど、この時間は少し空きがある。見慣れた自転車の鍵をカシャンと外して駐輪場の前に引き摺り出した。
前のカゴに明らかにサイズオーバーのエナメルバッグを雑に突っ込んで、自転車を跨いでカラスバさんの前で待機する。するとすぐさま自転車の後ろ側が沈んで、汗ばんだ両肩に手のひらが乗った。
「ほな、今日もよろしゅう」
「はぁい」
乗せてもらうのが当然、みたいな顔をしながらも一応口ではそう言ってくれるので、間延びした返事をしながらオレは勢いよくペダルを踏み込んだ。
カラスバさんと一緒に下校するのは、仲良くなってからずっと続いている習慣だった。彼が自習する時間と俺の部活の時間が朝も放課後もほとんど一致するので、登下校時の足を務めさせていただいている。今ではもう慣れたもので、俺たちにとっての当たり前だった。
これまで何度も倒してぶつけて少しタイヤとカゴが曲がった自転車は、小さくガシャガシャと音を立てながらも前に進む。学校の近くの舗装された道を曲がると、否かだからすぐに畦道に入った。途端に砂とタイヤがジャリジャリ擦れる音が俺たちの会話の邪魔をする。
たまに小石を踏んで大きく車体が揺れるけれど、2人分の体重を頑張って運ぶ俺も、後ろに乗ったカラスバさんは慣れたものでもう気にも留めない。
ひぐらしの鳴く声が混ざる。湿度を孕んだ夏特有のじっとり暑い空気。夕暮れでもまだまだぬるい風を切って、俺の自転車は走る。
「試合いつやっけ?」
「来週!」
「オマエ出んの?」
「まぁね、レギュラーとりました!」
「へぇ、やるやん」
自転車の前後で会話をするには、前を向いている俺が少し声を張らなくてはならない。元気よく返す俺と、いつもより気持ち大きい声を出すカラスバさんの声が後ろから聞こえてくる。
「試合見にきてよ!」
「考えとくわ~」
とか言いながら、見に来てくれるんだよな。なんて思うけれど、へそを曲げられちゃうから口には出さない。
「カラスバさんは勉強どう?」
「まーぼちぼち」
「この前模試だったんだっけ」
「おん。ま、結果は来月やな」
「受験生みたい」
「受験生やねん」
「そうだった」
なんてバカみたいな会話をして、特に面白いわけでもないのにくすくす笑い合いながら、土と田んぼの匂いがする田舎道をひた走っていた、その時。不意に空が暗くなった。日暮れとはまた異なるそれに嫌な予感を抱いていると、いつの間にか空を覆っていた灰色の分厚い積乱雲がごろごろと低い音を鳴らす。
それぞれの家まではまだ遠い。俺の家の方が遠くて、その途中にカラスバさんの家があるのだけれど、カラスバさんの家でさえまだ半分折り返しといった所だ。うわあ、と思ったのは俺だけじゃないようで、背中のカラスバさんも声を上げる。
「これやばない?」
「ですよねぇ」
言ってる間に冷たい風が肌を撫でたかと思うと、次の瞬間にはぼた、ぼた、と雨粒が落ちてきて。そしてあっという間にザァっという音と共に大粒の雨が俺たちを襲った。
「やばい降ってきた!!」
「あかんこの辺なんもないで!」
「ぎゃー!!」
大声で叫ばないと声も聞こえないほどの、バケツをひっくり返したような土砂降り。俺たちは一瞬にして濡れ鼠になってしまった。辺りを見回しても本当に何もないし人気もない中、少し先に小さな建物が見えた。カラスバさんも同じタイミングで後ろからその方向を指さす。
「キョウヤ、あれや!バス停の待機所!」
「了解!」
もうすでにずぶ濡れだけど、このまま雨に打たれ続ける趣味はない。瞬く間に水たまりができ始めた道を、バシャバシャ音を立てながら必死に自転車を漕いで進んだ。
見事な夕立に降られてなんとか辿り着いた人気のないぼろいバス停。半ば乗り捨てるように自転車を目の前に置いて、慌てて屋根の下へと駆け込んだ。痛いくらいに叩きつける雨粒から逃れて、思わず二人で息をつく。
「っあーーさいあく」
「さっきまであんなに晴れとったのになぁ」
「ほんとにね。教科書大丈夫ですか?」
「あー…あ、全滅かと思ってたけど思ってたより生きてるわ」
「お、じゃあまだセーフだ」
「と思ったけど半分アウトやな」
「じゃあ…セウト」
「セウト」
「うん。…んふふ」
「自分でウケとるやん」
通学路にあるけれどあまり意識したことがなかったバス停。木製の壁と屋根で囲まれていて、3人掛けのベンチが1つあるだけの小さな待機所だ。壁には1時間に1本しか書かれていない時刻表が掛かっている。そんな2畳ほどの狭い空間だが、雨をしのぐには十分だった。
ぼたぼたと全身から滴る水滴に肩を落としながら、お互いの惨状を見て苦笑い。
「あーやば、服絞れそう」
「ほんまにな。オマエ首のタオルやばいで」
「うわ忘れてた!」
首に巻いていたタオルは確かにぐっしょり濡れている。彼の指摘で慌てて首から外すとそれを思いっきり絞って、それから無いよりはマシかとそのタオルで顔と髪をがしがし拭いた。そしてそのまま同じく濡れてしまってバス停の隅に投げ置いたエナメルバッグの上へくしゃくしゃと丸めておいておく。
「あー…通り雨やろうけど、もうちょいかかりそうやな」
ふと振り返ると、水滴のついたメガネのレンズを拭いながら、カラスバさんが空を見ていた。
あまり見ることのない眼鏡のない素顔。いつもはクールで冷たい、真面目な印象が先行する顔だけれど、こうして眼鏡を外すとなんだか幼く見えることに気づいた。金色の切れ長の目を縁取る睫毛は濡れて束になっていて、そこに水滴がついている。
睫毛、長いな。
こうして見ると綺麗な顔してるんだよな。
いつもはきちっと整えられた前髪は雨ですっかり落ちてしまっている。重そうなそれをかきあげながら彼は眼鏡をかけ直した。
けれどかきあげた前髪がすぐにもう一度垂れてきて、濡れた髪から雫がぽたりと落ちて地面に染みを作った。なんだかそれがやけに目について。
肌に張り付いたシャツ。インナーすらも透けて見えるその先の白い肌に、どうしてかひどく口の中が乾く気がして喉を鳴らす。
「…うん」
辛うじてそう返事をした。その声が、なんだか低くなってしまって。何か引っかかったらしいカラスバさんが、不意に俺の方に顔を向けた。
目が合う。交わる。
じとり、視線が絡んで、なぜだか離せない。
いつの間にか大きくなった心臓の音がばくばくと耳元で鳴り響いている。
何かに惑うように不意に伏せられた瞼。その下の金色の瞳はゆらゆらと揺れているように見えた。
雨はまだ止む気配がない。
綺麗だと、思った。
ずっと見ていたいな、とも。
でも来年には、いや、もう半年後には彼はいなくなってしまう。
このつながりは、この時間はもうなくなってしまう。それは必然だ。
――そう思った瞬間、自分の中で何かがぶわりと膨れ上がるのを自覚する。
この人に触れてみたい、近づきたい。
触れたら、どうなるんだろう。この人の内側に触れたら、この怜悧な表情に覆われた中が見てみたい。誰にも見せたことがない顔を見たい。
この気持ちは、衝動は、何?
「夏やし、すぐ乾くやろ」
じっと見つめたまま一人でぐるぐる考えていた俺の耳に、落ち着いたテノールが滑り込む。視線に気づいたのか、カラスバさんは肌に張り付いたシャツをつまんで浮かせて気恥ずかしそうに目を泳がせていた。その仕草がまた俺の視界を赤く染め上げて、余計に視線に熱がこもる。
「…なんや、どうしーーっ」
耐えかねて気まずさを拭うように開かれた唇に噛み付いたのは、半ば無意識だった。
外はすっかり豪雨だ。
大粒の雨が絶え間なく地面に叩きつけるそれは、まるで雨のカーテン。
雨はやまない。
ふたりぼっち、二人の世界だった。
「…ん、ぅ…」
「はっ、…っ」
初めてのキスだった。
人の唇の柔らかさを初めて知った。
濡れた唇は、思っていたよりもひやりと冷たい。
寒さからか触れる前は少し血色の悪かった唇は、俺の体温が移ったのか少しずつ赤く色づき始める。キスのやり方なんて知らない。ただ、口の端から漏れる吐息すら惜しいと思って、隙間を埋めるように必死に唇を合わせた。
雨音で世界から遮断された小さなバス停はまるで密室のようで、二人分の息遣いがやけに籠って響く。
水分を含んだ地面から舞い上がるペトリコールが鼻腔をくすぐるのに混ざって、知らない柔軟剤の匂いがした。それに混ざって仄かな汗と、どこか甘い匂いも。それが、目の前の先輩から香ってくることに気づくのに時間はかからなかった。
口付けた勢いで、そのまま彼を壁に追い詰める。なんて言っても狭い空間では、一歩踏み出すだけでトンと彼の背中が壁についた。その感覚で我に返ったのか、戸惑うように浮いた手が俺に触れる前に手首を掴んで止める。
それ以上の抵抗は、なかった。だから合わせた唇の隙間から、そっと舌先をねじ込んだ。びくり、触れているカラスバさんの体が驚いたように揺れる。こんなに体の表面は冷えているのに、咥内は発熱しているのかと錯覚するほどに熱かった。
口の中に滑り込ませた俺の舌先が、奥で縮こまっていた彼の舌を探り当てて、引き寄せるようにして根元から吸いあげた。んぅ、と鼻から抜けるような甘い音が聞こえて、熱に浮かされておかしくなった頭がまた一段と思考をぼやけさせる。
息が上がる。でも止められない。
は、は、と響く吐息は酷く間隔が短く、急いているようだった。
ザァザァと鳴る音に紛れて、くち、くちゅ、と粘度のある水音が響く。次第に呼吸を、唾液を奪い合うような激しさで、荒々しくお互いの咥内を荒らし合って。
ぽたり、彼の重たい前髪から落ちた雫が俺の頬に落ちて、自分の顔の熱さを自覚した。
あぁ、頭が茹る。
もっと。この人を暴いてしまいたい。
シャツの裾から手を入れて、汗ばんだ肌に手を沿わせる。表面が冷えた体は寒さからか微かに震えていて、触れるとぴくりと跳ねた。
はやく、はやく。その先へ。
よく分からない焦りが胸を焦がす。
ぐぐ、と体を近づけて、空いている方の手を背中に回して掻き抱けば、濡れそぼったシャツが胸元で触れ合ってぐしゅりと音を立てる。
本能が命じるままに背骨の窪みをなぞって、脇腹を辿って、そのままスラックスの境目に指先を滑らせて腰骨の形を確かめる。
それ以上は、まだ。
この先に進むともう戻れないような気がして、指先が止まる。
けれど熱を持て余した体は脳みその統制を外れてしまった。気付けばすっかり硬くなった下半身を押し付けあって、夢中で唇を貪り合う。ぐりぐりと敏感な部分が擦れ合うたびに息が止まるほど気持ちがいい。そしてそう思っていたのは俺だけじゃなかった。いつの間にかカラスバさんも俺の背中に手を回して、熱に浮かされたような顔をして腰を揺らしていた。
頭の奥が、脳の芯がじぃんと甘く痺れるのを感じながら、茹る頭の隅で冷静な自分が何かを喚く。
なんでこんなことしてるんだろう。
男同士なのに。
俺たち、友達なのに。
「は、ぁっ…」
「…っ…」
ぷは、とどちらともなく唇を離すと、2人の間には獣のように荒い息が落ちた。カラスバさんの金色の目は生理的な涙が滲んで色が濃くなって、甘い蜂蜜のような輝きを湛えている。
視線は、合わない。
すっかり真っ赤になった顔を背けられるけれど、耳どころか首筋まで赤く染まり切っているのがよく見えた。触れたままの胸が呼吸に合わせて必死に上下するのが直接伝わってきて、なんだかそれが生々しい。
こんなことして友達に戻れるかな。
もうこれきりなのかな。
俺たち、友達、で、いいのかな。
彼に1番近い後輩である自覚はあった。怖いとかおっかないとか言われる彼が俺には穏やかな優しい目を向けてくれることに優越感を感じている自覚もあった。
でもただの先輩にこんなことしない。
したいなんて思わない。
こんなんじゃ、足りない。
黒くもやりとした感情がゆるりと頭を擡げる。
それに名前もつけられないまま、バス停のぼろい木の壁に自分とさして変わらない体格の先輩を抱きしめたまま、さらに強く壁に押し付ける。
拒まれないのは、なぜだろう。
わからない。
でももうすこし、もうすこし、近づきたい。
あぁ、このまま俺と彼を隔てる境界がなくなって溶けてしまえばいい。
湿った肌が触れ合う。
冷たい、けど、熱い。
蜂蜜色の目が、じぃと俺を見つめる。
ねぇ、なんで。
なんで、拒まないの。
激しい雨音は、熱に浮かされた少年たちの姿を外界から覆い隠すばかりだった。
終…?