・ワンドロワンライ
「俺、カラスバさんから教わってばかりですよね」
少し特別な日のディナー。初夏に差し掛かる前の、少し日が長くなった夕日が差し込むレストランでキョウヤとカラスバはテーブルを囲んでいた。
ドレスコードのあるレストランはカラスバのチョイスだ。昔なら委縮してしまったけれど、彼と付き合って既に数年が経った今ではそれなりに立ち振る舞いにも慣れてきた。そもそも、彼の立場もあるが、こういった店を選ぶ時はキョウヤが周りを気にしなくても済むように個室だったり、他の客の目が気にならないような場所にしてくれている。そういった気遣いも好きだなとキョウヤは思う。
運ばれてきたスパークリングワインのグラスを軽く合わせて乾杯し、それから穏やかに話をする恋人を見つめながら不意にキョウヤが漏らしたのが冒頭の言葉だった。
カラスバは切れ長の目を少し見開いて口元を拭ってから、「教わったこと?」と小首を傾げる。キョウヤはカトラリーを置いて、少し苦笑するように眉を下げた。
「テーブルマナーも、エスコートの仕方も、上等なスーツも小物も、お酒の飲み方も…こんな素敵なレストランだって、昔の俺じゃ知らなかった。全部、あなたに教わったことばかりじゃないですか」
「そんなんオレが勝手にやったことやん」
むしろ、恋人を自分好みに仕立て上げているのだからカラスバとしては役得である。実際、かつてはワンパチやらイワンコやらパピモッチやらの子犬ポケモンを彷彿させるような可愛らしい少年だったキョウヤは、今となってはどこか雄の色気の滲む落ち着いた大人の男に成長した。そんな男が、カラスバを甘く見つめて、けれどどこか悔しそうな、拗ねたような響きでこう漏らした。
「もう成人して少し経つのに。…早くあなたに相応しい男になりたいな」
カラスバが見立てたネイビーのスーツもそつなく着こなしているし、立ち振る舞いにも余裕がある。誰がどう見てももう立派な大人の男なのに、そんな卑屈なことを言うものだから。カラスバは、「オレに夢見すぎてるところは変わらんなぁ」と笑いを零してからキョウヤをじいと見つめ返す。
「オレも、オマエに教わることばっかりやで」
「ええ?」
昔と比べて凛々しさを増した目が丸く見開かれる。本気で驚いたらしい。それから形の良い眉をくっと器用に寄せ、顎に手をあてて思案した。
「俺がカラスバさんに教えられることありましたっけ。あ、色違いポケモンの探し方?」
「アホ、あれは常人が真似したらあかんやつやねん。てかあれはオマエもやるな」
「えへ」
「そうやなくて…そうやなぁ、たとえば」
言葉を切って、カラスバは再度カトラリーを持つ手を動かして食事を再開しながら謡うように口を開く
「疲れて腹減ってる時に、やっすいファストフード店で体に悪そうなハンバーガーに齧り付いた時の美味さやろ?」
「んぐ…でもあれがいいんですよ」
「ふふ、せやな。あれ、たまにやりたくなってまうねん。…休みの日に窓開けて二度寝すんのがめっちゃ気持ちええのも知らんかったし」
「お昼近くなって気温が上がって来て暑くて起きちゃうまでがいいんですよ」
「ほんまになあ。あぁそうそう、そういう日の前に意味もなく夜更かしするんもなんや悪くないのも知らんかった」
「普段は寝なきゃいけないんですけど、あとちょっと、明日その分多く寝ればいいしって思っちゃうんですよねぇ、あれがやめられなくて」
キョウヤに出会う前のカラスバは、良くも悪くも厳しくストイックで、淡々としていた。組のボスとしてオンもオフも変わらず背筋を伸ばして、肩肘張って生きてきたから。そんなカラスバがそういう、ちょっと怠惰で幸福感のあることを楽しむようになったのはキョウヤの影響だ。笑いながらそこまで言ったところで、キョウヤはハッと焦った顔をした。そして思わずと言った様子で前のめりにカラスバに迫った。
「え、もしかして俺そんな変な事ばっかり教えてます?」
「ふは!それだけちゃうよ」
あまりに必死な顔に思わず笑って、それからまたカラスバは謡い続ける。
「オマエが、オレより先に起きて朝ごはんの用意しとるとき。油の音とか、香ばしい匂いとか、キッチンから漂ってくる湯気とか。そういう生活の音に安心するのも知らんかったし」
仲間や部下はいても家族はいない。無償の愛や人の温もりを知らずに生きてきた。そんなカラスバにとって、キョウヤと過ごす日々は驚きの連続で。新鮮で、くすぐったくて、温かかった。昔はそれを素直に受け止められない時期もあったけれど、今となってはそんな日々すらも愛おしい。だってそんな葛藤、キョウヤがいないと生まれないものだから。
「忙しい一日の終わりに、温かい飲み物を飲んで一息ついて。…そういう時に意味なく人肌に引っ付いてるんが落ち着くってのも知らんかった」
カラスバの胸の内に秘めた可愛らしい隠し事の一つ。せっかくだからとそれを教えてやると、キョウヤはぐっと胸を押さえて、ほんのり顔を赤くした。
「なにそれかわい…なんかいっつも引っ付いてくれるなと思ってたらそんなこと思ってたんですか…?」
「おん。言うたら調子乗るかなって思って言わんかった」
「乗りますよぉ…」
「んはは。それと…いつやっけ、オマエが急に電話してくるから何事や思ったら、空見てって言うからな。外おったからそのまま空見上げて…そしたら空にまん丸で綺麗なお月さんあって、あぁオマエも同じ空の下で同じ光景見てるんやなって思ったら、なんやそういう何気ない風景見るのも悪ないなあって思うようになったんよ」
スパークリングの次に頼んだ赤ワインを揺らし、芳醇な香りを楽しんでからゆっくり窓の外へ目を向ける。外では太陽が地平線の向こうに沈み、美しい淡いピンクのグラデーションを描いていた。
「こういう季節が移ろう時期に、風の温度や空の色が少しずつ変わっていくのに気付くようになったんもオマエと過ごすようになってからや。オマエは、そういう小さい変化見つけるの上手やから」
太陽が姿を隠した反対側の東の空には見事なビーナスベルトがかかっており、その美しさを肴にまたグラスに口を付ける。
「こんな夕焼けの美しさなんて、今まで目も向けてこんかった」
「…カラスバさんのほうがきれいですよ」
「あほ、そういう話ちゃうやろ」
「本当の事なのに」
こんな風に空は日々違う表情を見せてくれるのだと教えてくれたのもキョウヤだ。淡々と過ごすだけの日々に色が付いた。ころころ表情を変える恋人の仕草だけでもいっぱいだったはずなのに、そこに世界の変化なんて情報量が加わったのだから大変だ。こんないい大人になったのに、カラスバの日々はますます目まぐるしい。
「そういう、なんてことない生活の楽しみ方を知らんと生きてきたオレに、そういうもんを教えてくれたんは…オマエやで、キョウヤ」
いまも、ほら。珍しく飾らないカラスバの言葉を聞いて真っ赤になったキョウヤは、夕日のせいにすればいいのに口元に手を当てて、狼狽えるように視線を意味もなく彷徨わせている。
「あの…なんか、すごい口説き文句言われてる気がするんですけど…」
「惚れ直したか?」
「もともと毎日惚れてます」
「ふ、かわええやつ」
こういうところは出会った頃のまま。変化していない部分を探すのも、新しいカラスバの楽しみになりつつあって。
「やからオマエは、そのままでええんよ。…ゆっくり大人になっといで」
「はい。待っててくださいね。…あ、でも」
太陽が沈み切った。空はピンクから紫へ染まり、そして夜の帳が降りてくる。
少し落とされた照明の中、不意に愛おしそうにカラスバを見つめるダークブラウンの瞳が、きゅう、と熱をもって細められた。グラスを置いてテーブルの上に置かれていたカラスバの手に指先を伸ばすと、キョウヤはその輪郭を確かめるように辿って、それからいつの間にか自分よりも一回り小さくなっていた年上の恋人の指を絡め取る。それからくん、とその手を引くようにして、きっちり着こまれたスーツの袖から覗く白い手首の内側にそっとキスを落とした。
「こういうのだけは…少し駆け足で上がってもいいですよね?大人の階段」
「…もう上り切っとるやろ、そっちに関しては」
終
手首へのキス…脈、命を感じる場所であることから、「相手の心を奪いたい」「もっと深く知りたい」という深い好意や独占欲、本気度の高さが込められていることが多い。
少し特別な日のディナー。初夏に差し掛かる前の、少し日が長くなった夕日が差し込むレストランでキョウヤとカラスバはテーブルを囲んでいた。
ドレスコードのあるレストランはカラスバのチョイスだ。昔なら委縮してしまったけれど、彼と付き合って既に数年が経った今ではそれなりに立ち振る舞いにも慣れてきた。そもそも、彼の立場もあるが、こういった店を選ぶ時はキョウヤが周りを気にしなくても済むように個室だったり、他の客の目が気にならないような場所にしてくれている。そういった気遣いも好きだなとキョウヤは思う。
運ばれてきたスパークリングワインのグラスを軽く合わせて乾杯し、それから穏やかに話をする恋人を見つめながら不意にキョウヤが漏らしたのが冒頭の言葉だった。
カラスバは切れ長の目を少し見開いて口元を拭ってから、「教わったこと?」と小首を傾げる。キョウヤはカトラリーを置いて、少し苦笑するように眉を下げた。
「テーブルマナーも、エスコートの仕方も、上等なスーツも小物も、お酒の飲み方も…こんな素敵なレストランだって、昔の俺じゃ知らなかった。全部、あなたに教わったことばかりじゃないですか」
「そんなんオレが勝手にやったことやん」
むしろ、恋人を自分好みに仕立て上げているのだからカラスバとしては役得である。実際、かつてはワンパチやらイワンコやらパピモッチやらの子犬ポケモンを彷彿させるような可愛らしい少年だったキョウヤは、今となってはどこか雄の色気の滲む落ち着いた大人の男に成長した。そんな男が、カラスバを甘く見つめて、けれどどこか悔しそうな、拗ねたような響きでこう漏らした。
「もう成人して少し経つのに。…早くあなたに相応しい男になりたいな」
カラスバが見立てたネイビーのスーツもそつなく着こなしているし、立ち振る舞いにも余裕がある。誰がどう見てももう立派な大人の男なのに、そんな卑屈なことを言うものだから。カラスバは、「オレに夢見すぎてるところは変わらんなぁ」と笑いを零してからキョウヤをじいと見つめ返す。
「オレも、オマエに教わることばっかりやで」
「ええ?」
昔と比べて凛々しさを増した目が丸く見開かれる。本気で驚いたらしい。それから形の良い眉をくっと器用に寄せ、顎に手をあてて思案した。
「俺がカラスバさんに教えられることありましたっけ。あ、色違いポケモンの探し方?」
「アホ、あれは常人が真似したらあかんやつやねん。てかあれはオマエもやるな」
「えへ」
「そうやなくて…そうやなぁ、たとえば」
言葉を切って、カラスバは再度カトラリーを持つ手を動かして食事を再開しながら謡うように口を開く
「疲れて腹減ってる時に、やっすいファストフード店で体に悪そうなハンバーガーに齧り付いた時の美味さやろ?」
「んぐ…でもあれがいいんですよ」
「ふふ、せやな。あれ、たまにやりたくなってまうねん。…休みの日に窓開けて二度寝すんのがめっちゃ気持ちええのも知らんかったし」
「お昼近くなって気温が上がって来て暑くて起きちゃうまでがいいんですよ」
「ほんまになあ。あぁそうそう、そういう日の前に意味もなく夜更かしするんもなんや悪くないのも知らんかった」
「普段は寝なきゃいけないんですけど、あとちょっと、明日その分多く寝ればいいしって思っちゃうんですよねぇ、あれがやめられなくて」
キョウヤに出会う前のカラスバは、良くも悪くも厳しくストイックで、淡々としていた。組のボスとしてオンもオフも変わらず背筋を伸ばして、肩肘張って生きてきたから。そんなカラスバがそういう、ちょっと怠惰で幸福感のあることを楽しむようになったのはキョウヤの影響だ。笑いながらそこまで言ったところで、キョウヤはハッと焦った顔をした。そして思わずと言った様子で前のめりにカラスバに迫った。
「え、もしかして俺そんな変な事ばっかり教えてます?」
「ふは!それだけちゃうよ」
あまりに必死な顔に思わず笑って、それからまたカラスバは謡い続ける。
「オマエが、オレより先に起きて朝ごはんの用意しとるとき。油の音とか、香ばしい匂いとか、キッチンから漂ってくる湯気とか。そういう生活の音に安心するのも知らんかったし」
仲間や部下はいても家族はいない。無償の愛や人の温もりを知らずに生きてきた。そんなカラスバにとって、キョウヤと過ごす日々は驚きの連続で。新鮮で、くすぐったくて、温かかった。昔はそれを素直に受け止められない時期もあったけれど、今となってはそんな日々すらも愛おしい。だってそんな葛藤、キョウヤがいないと生まれないものだから。
「忙しい一日の終わりに、温かい飲み物を飲んで一息ついて。…そういう時に意味なく人肌に引っ付いてるんが落ち着くってのも知らんかった」
カラスバの胸の内に秘めた可愛らしい隠し事の一つ。せっかくだからとそれを教えてやると、キョウヤはぐっと胸を押さえて、ほんのり顔を赤くした。
「なにそれかわい…なんかいっつも引っ付いてくれるなと思ってたらそんなこと思ってたんですか…?」
「おん。言うたら調子乗るかなって思って言わんかった」
「乗りますよぉ…」
「んはは。それと…いつやっけ、オマエが急に電話してくるから何事や思ったら、空見てって言うからな。外おったからそのまま空見上げて…そしたら空にまん丸で綺麗なお月さんあって、あぁオマエも同じ空の下で同じ光景見てるんやなって思ったら、なんやそういう何気ない風景見るのも悪ないなあって思うようになったんよ」
スパークリングの次に頼んだ赤ワインを揺らし、芳醇な香りを楽しんでからゆっくり窓の外へ目を向ける。外では太陽が地平線の向こうに沈み、美しい淡いピンクのグラデーションを描いていた。
「こういう季節が移ろう時期に、風の温度や空の色が少しずつ変わっていくのに気付くようになったんもオマエと過ごすようになってからや。オマエは、そういう小さい変化見つけるの上手やから」
太陽が姿を隠した反対側の東の空には見事なビーナスベルトがかかっており、その美しさを肴にまたグラスに口を付ける。
「こんな夕焼けの美しさなんて、今まで目も向けてこんかった」
「…カラスバさんのほうがきれいですよ」
「あほ、そういう話ちゃうやろ」
「本当の事なのに」
こんな風に空は日々違う表情を見せてくれるのだと教えてくれたのもキョウヤだ。淡々と過ごすだけの日々に色が付いた。ころころ表情を変える恋人の仕草だけでもいっぱいだったはずなのに、そこに世界の変化なんて情報量が加わったのだから大変だ。こんないい大人になったのに、カラスバの日々はますます目まぐるしい。
「そういう、なんてことない生活の楽しみ方を知らんと生きてきたオレに、そういうもんを教えてくれたんは…オマエやで、キョウヤ」
いまも、ほら。珍しく飾らないカラスバの言葉を聞いて真っ赤になったキョウヤは、夕日のせいにすればいいのに口元に手を当てて、狼狽えるように視線を意味もなく彷徨わせている。
「あの…なんか、すごい口説き文句言われてる気がするんですけど…」
「惚れ直したか?」
「もともと毎日惚れてます」
「ふ、かわええやつ」
こういうところは出会った頃のまま。変化していない部分を探すのも、新しいカラスバの楽しみになりつつあって。
「やからオマエは、そのままでええんよ。…ゆっくり大人になっといで」
「はい。待っててくださいね。…あ、でも」
太陽が沈み切った。空はピンクから紫へ染まり、そして夜の帳が降りてくる。
少し落とされた照明の中、不意に愛おしそうにカラスバを見つめるダークブラウンの瞳が、きゅう、と熱をもって細められた。グラスを置いてテーブルの上に置かれていたカラスバの手に指先を伸ばすと、キョウヤはその輪郭を確かめるように辿って、それからいつの間にか自分よりも一回り小さくなっていた年上の恋人の指を絡め取る。それからくん、とその手を引くようにして、きっちり着こまれたスーツの袖から覗く白い手首の内側にそっとキスを落とした。
「こういうのだけは…少し駆け足で上がってもいいですよね?大人の階段」
「…もう上り切っとるやろ、そっちに関しては」
終
手首へのキス…脈、命を感じる場所であることから、「相手の心を奪いたい」「もっと深く知りたい」という深い好意や独占欲、本気度の高さが込められていることが多い。