・ワンドロワンライ
それは完全に想定外
「カントー・ジョウト流のバレンタイン、ですか?」
その日処理する最後の書類を己のボスに手渡したジプソは、書類と引き換えに返されたその単語を繰り返し、体格の割につぶらな瞳を瞬かせて首をひねった。一方、書類を受け取った上司――カラスバは、紙とパソコンの画面の文字とを見比べてキーボードをたたきながら言う。
「おん。ミアレやと、男が女に薔薇とか香水を贈るのがメジャーやろ?あっちでは女が男にチョコを渡すらしいわ」
「へぇ、そんな違いがあるのですか」
「やっぱジプソも知らんかったか。ほな、ありやなぁ」
「はい?」
タンッ。小気味良い音と共にエンターキーを押したカラスバが、ノートパソコンを閉じて大きな執務椅子の背もたれに背中を預けた。そしてひじ掛けに肩肘を置いて頬杖をつくと、ふむ、と何やら思考をめぐらせながら呟く。
「ここで知名度が低い文化なら、あいつも知らんやろ」
あいつ。カラスバが、いつものボス然とした威圧感のある振る舞いを忘れて年相応の表情で口に擦る人物は、ただ一人しかいない。ジプソは大きな体に見合った大きな両手を口元にあてて「はわ」と声を漏らした。カラスバは、「あいつ」にひそかに恋をしている。そしてそのことを知るのは唯一、腹心たるジプソだけだ。ジプソの反応に、正しく意味が伝わったことを悟ったカラスバは、どこかあきらめたような、少し寂し気な笑みを浮かべて、同意を求めるように長い付き合いの右腕を見上げた。
「…伝える気はないけど、バレんかったら自己満足で渡してもええよな?」
「…なるほど。そういうことでしたか」
ボスであり、かつてはただの年下の子供でもあった彼の幸せを願っているジプソは、その表情に心苦しいものを感じながらも穏やかに肯定する。頷かれたのを見て小さく息を吐いたカラスバは、安心したのか腕組みをしながら饒舌に計画を話し始める。
「どっかええとこのチョコ買ってきてもええんやけど、しれっと作って渡したろかなって思うねん。でもそれやと見た目とか包装とかでバレそうやろ?やから、どうしよかなーおもて」
気持ちは伝えたい。けれどバレたくない。そんな難しいオーダーに少し頭をひねる。自分たちを導くためにお天道様を務める男の、小さな幸せを掴むためにはどうしてやるべきか。真剣に思案した後、ジプソはふと思いついた。
「ふむ…でしたら、ケーキやブラウニーあたりのものを、事務所で切り分けて食べていただくのはどうでしょう。差し入れでもらったとか、そういう体で」
「…ありやな、形悪くても、今そこで切ったからとか、取引先の奥さんが作ったんやとか、色々言い訳ききそうやし。それでいくわ」
「何かお手伝いしましょうか?」
「あー…オマエ、料理作る方も行けんの?」
「それなりに」
「ほなちょっと頼みたいねんけど…――」
そんな話をしたのが1週間前。
そして14日、バレンタイン当日。
おやつ時の15時に、事務所玄関の防犯カメラに映った姿にカラスバは思わず手を止める。というより、今日はこの椅子に座ってから全く仕事は進んでおらず、そわそわと部屋の中を行ったり来たり、意味もなく資料やパソコンの画面を眺めているだけだったのだが、なんとか普段通りに振舞おうと再度慌ててパソコンの画面に視線を落とした。
正面のエレベーターが稼働する音が響く。そしてポーンという電子音と共に扉が開き、防犯カメラで見た人物が部屋に入って来てにこりと笑った。
「カラスバさん!おつかれさまです!」
「おーキョウヤ、いらっしゃい」
仕事をしているふりをしてなんとも無いように返事をしたものの、カラスバの目はパソコンの画面を無意味に滑るのみ。しかし動揺を悟られるわけにもいかず、ただ必死に視線を固定した。
「もう片付くさかい、そっちで座って待っとき」
「はーい」
元気に返事をした彼――キョウヤは、なにやら紙袋を手にしたまま応接セットのソファへと向かう。
「キョウヤ様、今日もコーヒーでよろしいですか?」
「はい!お願いします!」
もうすっかり定例となったやり取りをこなしつつ、給湯器へ向かっていくジプソとカラスバは、ちらちらとアイコンタクトを取っていた。
(カラスバさま、いよいよですよ)
(お、おう、わかっとる)
(応援しておりますからね)
そんな感じのやり取りをしつつ、いつも通りの丁寧な仕草でコーヒーを用意したジプソは、そのままカラスバの後ろに控えるのではなく、エレベーターの方へと向かった。
「ではカラスバさま、後ほどご報告を」
「そうやな。おおきに」
仕事のやりとりのようだが、実際には「カラスバさま!頑張ってください!」「おう、あとで報告するからな…!」という、今から告白に向かう女子のような意図が込められているなんてキョウヤ走る由もない。ただ珍しい流れにぱちぱちとその大きな吊り目を瞬かせて、コーヒーを口に運んで首を傾げた。
「ジプソさんは別のお仕事ですか?」
「まぁそんなところやな」
カラスバは不自然にならないようにしながら、あたかもいま仕事を片付けたようパソコンを閉じて席を立つ。そしてキョウヤのいるソファへ向かう前に、あ、と声を上げて足を止めた。
「せや、今日はええもんあんねん。キョウヤにも出したるわ、ちょっと待っとき」
「え、なんですか?」
素直に不思議そうな顔をしたキョウヤに、カラスバは笑みをこぼすと給湯室に引っ込んだ。そして用意していたもの――ガトーショコラをじっと見つめる。ホールでは流石に形が歪ではあるが、粉砂糖をかけて切り分けたものはギリギリ「個人がやっている素朴な味の名店」的な雰囲気の1ピースに見えなくはない。ジプソ監修のもと、すでに綺麗に切り分けてセッティングしてあったそれを、少し時間をあけてからトレーに乗せた。そして軽く深呼吸をして、いかにも今切り分けました…みたいな顔をして、給湯室から持ってきたのだ。そうして運ばれてきたガトーショコラを見て、大人しくソファで待っていたキョウヤはなぜかひどく驚く。
「え!?チョコ!?」
意外な反応に少し面食らったカラスバは、内心で少し焦る。そういえば、キョウヤの好みを詳しくは知らない。甘いものは嫌いではないと思っていたが、地雷だっただろうか。そんなことを思いながらも、裏稼業で培ってきた鉄壁のポーカーフェイスを崩さずに涼しい顔で尋ねる。
「ガトーショコラ。嫌いか?」
「いえ!!!好きです!!!」
食い気味に返された勢いに少し驚きつつも、なんだか目を輝かせてそわそわとし始めた顔を見てホッとする。どうやら、本当に好きな部類らしい。安堵しつつ、キョウヤの目の前に皿に乗ったガトーショコラとフォークをサーブしてやって、自分は向かい側にどっかりと座った。出来るだけいつも通り、余裕があるように。
「ほなよかった。食べてええで」
「いいんですか!いただきます!!」
尻尾をぶんぶん振るワンパチのような勢いで、それでもお行儀よく両手を合わせてからキョウヤは手にフォークを持つ。それからどこか緊張した面持ちでその深いチョコレート色の表面に先端を突き立てると、そっと一口分を掬いとった。それからぱくり、大きく開いた口の中へそれを放りこむ。一連のその動きを、カラスバは内心でドキドキと固唾をのんで見守っていた。キョウヤの少し丸みのある頬が咀嚼に合わせてもごもごと動く。
それから数秒後、カッと目を見開いたキョウヤは、次いで感動したように頬に手を当てて呟いた。
「え、なにこれうっっっま…!」
「ほ、ほんま!?」
がたっ、と思わず立ち上がりかけたのを何とか堪えたカラスバだったが、勢いを殺しきれず心なしか前のめりになる。しかし口の中に広がるチョコレートの味に舌鼓を打っていたキョウヤはギリギリそれに気づかなかったようだ。
「めちゃくちゃ美味しいです…!え、なにこれすご…!」
キラキラと目を輝かせて2口、3口と食べ進めるキョウヤを満足げに眺めつつ、半分腰を上げたままの己の姿にハッと気づいたカラスバは、慌てて再度ソファに体を沈めて鷹揚に笑って見せた。
「っ、と、まぁ、ジプソの、お墨付きやからな」
「そんなん美味しいに決まってるじゃないですか…!え、今まで食べた中で一番おいしいかも…!」
そんなことを言うキョウヤに満更でもなくにやけそうになる口元をどうにか堪えて、カラスバはキョウヤが最後の一口を食べきるのを見守った。
ごちそうさまでした、と再度両手を合わせたキョウヤにお粗末様でした、と返したカラスバ。そんな彼に、キョウヤはおずおずと、しかし期待を隠せない様子でもじもじと尋ねた。
「こ、これって…」
「あー、…取引先の人からもらってん」
用意していた答え。カラスバがなんてことないように返した言葉に、キョウヤはぽかんと口を開けた。
「え、あ、そういう…え?もらった?」
「そ、そうやけど」
「今日ですか?」
「お、ん。午前中に」
がくり。一度肩を落としたキョウヤだったが、その直後にゆらりと顔を上げて、どこか読めない表情でじとりとカラスバの顔を見上げた。さきほどまでは可愛いわんこの顔をしていたのに、今は何故か凄みのある顔をしている。端正な顔立ちだけに、余計な迫力があった。
「…取引先の人って、どんな人ですか」
「え?」
「男ですか」
「あ、そう、そう!男やで!」
「カラスバさん、その人と仲良いんですか?」
「っと…まぁ顔合わせる回数、多いしな…?」
ちなみにカラスバの脳裏には「頑張ってください、カラスバ様」とサムズアップするジプソの顔が思い浮かんでいる。しかしそんなことを知る由もないキョウヤは、カラスバの答えを聞くにつれてどんどん顔をしかめていき、ついには席を立ってカラスバの前に詰め寄った。突然の想い人の接近にカラスバは思わずのけぞるが、キョウヤは構わずにずい、とカラスバに顔を寄せる。
「…その人、絶対カラスバさんのこと好きですよ」
「はぁ?ないない」
なぜなら、カラスバにガトーショコラを渡した取引先の人なんて存在しないのだから。
しかしキョウヤは丸で怒っているような、どこか怖い顔をして、カラスバの肩を両手で掴んだ。
「絶対そうです。だって今日、わざわざカラスバさんにチョコ渡したってことでしょ」
「今日とチョコと、何の関係があんねん、」
なんだか嫌な予感がしつつ、苦し紛れにそういったカラスバ。しかしその時、キョウヤの高い鼻先がすん、と何かの匂いを嗅ぎ取る。
「…ん?」
「な、なに」
急に怪訝な顔をしたキョウヤにカラスバは固まったまま尋ねるが、彼はそのまますんすんと鼻を鳴らして、気になる匂いを辿るように少しずつ、その鼻先をカラスバへ――カラスバの首筋へと寄せていった。一方、カラスバは急激な接近に頭の処理が追い付かずに見事にフリーズして固まっていた。
「なんか…カラスバさん、めちゃくちゃ甘い匂いする」
「へ?」
すんすん。拒否されないのをいいことに、キョウヤはそのままカラスバから香る匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。
「この匂い、チョコ?」
「!!」
その言葉でカラスバはハッとした。ジプソもカラスバも朝からのチョコ作りで鼻が麻痺してたが、全身にガトーショコラの匂いが染み付いていたのだ。服は着替えていたが、まさか体にまで染みついているとは気づいていなかったのだ。
ぎくり、固まったカラスバに対して、キョウヤは再び目を輝かせて至近距離でといるメル。
「もしかして、これ…カラスバさんが作ったんですか!?」
「え、ち、ちがっ」
「だって貰っただけじゃこんなに全身甘い匂いしませんよ!!チョコ作りましたって言ってるようなもんじゃないですか!!」
「…だったら何やねん」
流石にこれ以上は言い逃れができない。まぁ別に、手作りってバレたところで、菓子作りが実は趣味で…とか適当に言い訳すればええか、なんて思っていたところ、一番重要な単語がキョウヤの口から飛び出した。
「じゃあこれバレンタインのチョコってことですよね!?」
「は!?おま、なんで知ってんねん!」
完全に冷静さを欠いていたカラスバは、いつもなら絶対にしないミスを犯した。それはそれは綺麗な墓穴を掘ったのだ。案の定、その言葉を聞いたきょぅやの顔がみるみる晴れ渡り、それからにぱーっと満面の笑みを浮かべた。
「ってことはやっぱりそうなんだ!!じゃあ俺たち両思いじゃないですか!」
「これはそういう意味じゃ、…は?両思い?」
ぽかん。カラスバの優秀な脳みそは、思いもよらない言葉に再び深刻なエラーを起こした。そんな彼が正気に戻る前にと、強かなキョウヤは自分が座っていたソファの方へ手を伸ばし、紙袋から何かを取り出す。
「あの、今日は、絶対カラスバさんに会いたかったから、ちゃんと連絡入れてきたんです」
そして、固まったままのカラスバの前に跪く。中折れハットの鍔が、キョウヤの端正な顔に影を作り、いつもの快活な雰囲気とは異なる色気を生み出す。その様子にカラスバは視線を吸い寄せられて、目が離せなくなった。
「ミアレのバレンタインは、好きな人に薔薇を渡すんですよね?それと、カントーとかジョウトの方では、好きな人にチョコを渡す文化があるって聞きました。…カラスバさん。このガトーショコラ、カラスバさんが作ったんですよね?」
よおそんなこと知ってんなあ。そんな軽口を叩こうとしたけれど、こちらを見上げる想い人の、どこか懇願するような切実な色を見せるダークグレーの瞳を見てしまうと、そんなことは口にできなかった。そこまでバレているならと、観念しながらカラスバは小さくうなずく。
「…………おん」
「そっか」
圧倒されたままのカラスバにキョウヤはふっと大人びた笑みを浮かべる。
「カラスバさん」
優しく包み込むような、それでいてひどく甘い砂糖のような声音で名前を呼ぶと、キョウヤは恭しく何かを差し出した。
「これが、俺の気持ちです。受け取ってくれますよね?」
跪いたキョウヤがカラスバに差し出したのは――3本の白い薔薇。
それを見たカラスバは、切れ長の金の瞳を目いっぱいに見開いた。ミアレ育ちのカラスバは、嗜みとしてその意味を正確に知っている。もしかして。そんな淡い期待と共に、押さえつけていた心臓の音が早鐘打ち始める。勢い良く送り出された血液が全身に回って、カラスバの白い肌をあっという間に桜色に染め上げた。
「お、まえ、これ、意味わかってるん、」
緊張して張り付いた喉を無理やり動かして尋ねる。キョウヤはとうとう声だけでなく顔までどろどろに甘く蕩けさせて、カラスバを優しく溶かす毒のようなまなざしを向けてきた。「もちろんです。3本の薔薇の花は、愛の告白。白い薔薇は、深い尊敬と…」
そのままミアレの陽ざしで健康的に焼けた手でカラスバの手をつかみ、そっとその手の甲に唇を落とす。何ともきざったらしい仕草なのに、それが妙に様になっていて。あらゆる毒に耐性を持つカラスバでも成すすべがないくらいの、甘い猛毒となって、触れた先からカラスバの身も心も染め上げてしまう。
「"私はあなたに相応しい"ですよね?」
大人しく俺につかまってくれますか?
そんな、聞いたことのない自信に満ちた告白に、カラスバはとうとう白旗を上げた。
「は…オマエ、ほんまおもろいなぁ」
――降参や。
そう言って諦めたようにへにゃりと笑ったカラスバに、勝利を収めた英雄はそこまでの余裕をかなぐり捨てて、勢いよく抱き着いたのだった。
終
「カントー・ジョウト流のバレンタイン、ですか?」
その日処理する最後の書類を己のボスに手渡したジプソは、書類と引き換えに返されたその単語を繰り返し、体格の割につぶらな瞳を瞬かせて首をひねった。一方、書類を受け取った上司――カラスバは、紙とパソコンの画面の文字とを見比べてキーボードをたたきながら言う。
「おん。ミアレやと、男が女に薔薇とか香水を贈るのがメジャーやろ?あっちでは女が男にチョコを渡すらしいわ」
「へぇ、そんな違いがあるのですか」
「やっぱジプソも知らんかったか。ほな、ありやなぁ」
「はい?」
タンッ。小気味良い音と共にエンターキーを押したカラスバが、ノートパソコンを閉じて大きな執務椅子の背もたれに背中を預けた。そしてひじ掛けに肩肘を置いて頬杖をつくと、ふむ、と何やら思考をめぐらせながら呟く。
「ここで知名度が低い文化なら、あいつも知らんやろ」
あいつ。カラスバが、いつものボス然とした威圧感のある振る舞いを忘れて年相応の表情で口に擦る人物は、ただ一人しかいない。ジプソは大きな体に見合った大きな両手を口元にあてて「はわ」と声を漏らした。カラスバは、「あいつ」にひそかに恋をしている。そしてそのことを知るのは唯一、腹心たるジプソだけだ。ジプソの反応に、正しく意味が伝わったことを悟ったカラスバは、どこかあきらめたような、少し寂し気な笑みを浮かべて、同意を求めるように長い付き合いの右腕を見上げた。
「…伝える気はないけど、バレんかったら自己満足で渡してもええよな?」
「…なるほど。そういうことでしたか」
ボスであり、かつてはただの年下の子供でもあった彼の幸せを願っているジプソは、その表情に心苦しいものを感じながらも穏やかに肯定する。頷かれたのを見て小さく息を吐いたカラスバは、安心したのか腕組みをしながら饒舌に計画を話し始める。
「どっかええとこのチョコ買ってきてもええんやけど、しれっと作って渡したろかなって思うねん。でもそれやと見た目とか包装とかでバレそうやろ?やから、どうしよかなーおもて」
気持ちは伝えたい。けれどバレたくない。そんな難しいオーダーに少し頭をひねる。自分たちを導くためにお天道様を務める男の、小さな幸せを掴むためにはどうしてやるべきか。真剣に思案した後、ジプソはふと思いついた。
「ふむ…でしたら、ケーキやブラウニーあたりのものを、事務所で切り分けて食べていただくのはどうでしょう。差し入れでもらったとか、そういう体で」
「…ありやな、形悪くても、今そこで切ったからとか、取引先の奥さんが作ったんやとか、色々言い訳ききそうやし。それでいくわ」
「何かお手伝いしましょうか?」
「あー…オマエ、料理作る方も行けんの?」
「それなりに」
「ほなちょっと頼みたいねんけど…――」
そんな話をしたのが1週間前。
そして14日、バレンタイン当日。
おやつ時の15時に、事務所玄関の防犯カメラに映った姿にカラスバは思わず手を止める。というより、今日はこの椅子に座ってから全く仕事は進んでおらず、そわそわと部屋の中を行ったり来たり、意味もなく資料やパソコンの画面を眺めているだけだったのだが、なんとか普段通りに振舞おうと再度慌ててパソコンの画面に視線を落とした。
正面のエレベーターが稼働する音が響く。そしてポーンという電子音と共に扉が開き、防犯カメラで見た人物が部屋に入って来てにこりと笑った。
「カラスバさん!おつかれさまです!」
「おーキョウヤ、いらっしゃい」
仕事をしているふりをしてなんとも無いように返事をしたものの、カラスバの目はパソコンの画面を無意味に滑るのみ。しかし動揺を悟られるわけにもいかず、ただ必死に視線を固定した。
「もう片付くさかい、そっちで座って待っとき」
「はーい」
元気に返事をした彼――キョウヤは、なにやら紙袋を手にしたまま応接セットのソファへと向かう。
「キョウヤ様、今日もコーヒーでよろしいですか?」
「はい!お願いします!」
もうすっかり定例となったやり取りをこなしつつ、給湯器へ向かっていくジプソとカラスバは、ちらちらとアイコンタクトを取っていた。
(カラスバさま、いよいよですよ)
(お、おう、わかっとる)
(応援しておりますからね)
そんな感じのやり取りをしつつ、いつも通りの丁寧な仕草でコーヒーを用意したジプソは、そのままカラスバの後ろに控えるのではなく、エレベーターの方へと向かった。
「ではカラスバさま、後ほどご報告を」
「そうやな。おおきに」
仕事のやりとりのようだが、実際には「カラスバさま!頑張ってください!」「おう、あとで報告するからな…!」という、今から告白に向かう女子のような意図が込められているなんてキョウヤ走る由もない。ただ珍しい流れにぱちぱちとその大きな吊り目を瞬かせて、コーヒーを口に運んで首を傾げた。
「ジプソさんは別のお仕事ですか?」
「まぁそんなところやな」
カラスバは不自然にならないようにしながら、あたかもいま仕事を片付けたようパソコンを閉じて席を立つ。そしてキョウヤのいるソファへ向かう前に、あ、と声を上げて足を止めた。
「せや、今日はええもんあんねん。キョウヤにも出したるわ、ちょっと待っとき」
「え、なんですか?」
素直に不思議そうな顔をしたキョウヤに、カラスバは笑みをこぼすと給湯室に引っ込んだ。そして用意していたもの――ガトーショコラをじっと見つめる。ホールでは流石に形が歪ではあるが、粉砂糖をかけて切り分けたものはギリギリ「個人がやっている素朴な味の名店」的な雰囲気の1ピースに見えなくはない。ジプソ監修のもと、すでに綺麗に切り分けてセッティングしてあったそれを、少し時間をあけてからトレーに乗せた。そして軽く深呼吸をして、いかにも今切り分けました…みたいな顔をして、給湯室から持ってきたのだ。そうして運ばれてきたガトーショコラを見て、大人しくソファで待っていたキョウヤはなぜかひどく驚く。
「え!?チョコ!?」
意外な反応に少し面食らったカラスバは、内心で少し焦る。そういえば、キョウヤの好みを詳しくは知らない。甘いものは嫌いではないと思っていたが、地雷だっただろうか。そんなことを思いながらも、裏稼業で培ってきた鉄壁のポーカーフェイスを崩さずに涼しい顔で尋ねる。
「ガトーショコラ。嫌いか?」
「いえ!!!好きです!!!」
食い気味に返された勢いに少し驚きつつも、なんだか目を輝かせてそわそわとし始めた顔を見てホッとする。どうやら、本当に好きな部類らしい。安堵しつつ、キョウヤの目の前に皿に乗ったガトーショコラとフォークをサーブしてやって、自分は向かい側にどっかりと座った。出来るだけいつも通り、余裕があるように。
「ほなよかった。食べてええで」
「いいんですか!いただきます!!」
尻尾をぶんぶん振るワンパチのような勢いで、それでもお行儀よく両手を合わせてからキョウヤは手にフォークを持つ。それからどこか緊張した面持ちでその深いチョコレート色の表面に先端を突き立てると、そっと一口分を掬いとった。それからぱくり、大きく開いた口の中へそれを放りこむ。一連のその動きを、カラスバは内心でドキドキと固唾をのんで見守っていた。キョウヤの少し丸みのある頬が咀嚼に合わせてもごもごと動く。
それから数秒後、カッと目を見開いたキョウヤは、次いで感動したように頬に手を当てて呟いた。
「え、なにこれうっっっま…!」
「ほ、ほんま!?」
がたっ、と思わず立ち上がりかけたのを何とか堪えたカラスバだったが、勢いを殺しきれず心なしか前のめりになる。しかし口の中に広がるチョコレートの味に舌鼓を打っていたキョウヤはギリギリそれに気づかなかったようだ。
「めちゃくちゃ美味しいです…!え、なにこれすご…!」
キラキラと目を輝かせて2口、3口と食べ進めるキョウヤを満足げに眺めつつ、半分腰を上げたままの己の姿にハッと気づいたカラスバは、慌てて再度ソファに体を沈めて鷹揚に笑って見せた。
「っ、と、まぁ、ジプソの、お墨付きやからな」
「そんなん美味しいに決まってるじゃないですか…!え、今まで食べた中で一番おいしいかも…!」
そんなことを言うキョウヤに満更でもなくにやけそうになる口元をどうにか堪えて、カラスバはキョウヤが最後の一口を食べきるのを見守った。
ごちそうさまでした、と再度両手を合わせたキョウヤにお粗末様でした、と返したカラスバ。そんな彼に、キョウヤはおずおずと、しかし期待を隠せない様子でもじもじと尋ねた。
「こ、これって…」
「あー、…取引先の人からもらってん」
用意していた答え。カラスバがなんてことないように返した言葉に、キョウヤはぽかんと口を開けた。
「え、あ、そういう…え?もらった?」
「そ、そうやけど」
「今日ですか?」
「お、ん。午前中に」
がくり。一度肩を落としたキョウヤだったが、その直後にゆらりと顔を上げて、どこか読めない表情でじとりとカラスバの顔を見上げた。さきほどまでは可愛いわんこの顔をしていたのに、今は何故か凄みのある顔をしている。端正な顔立ちだけに、余計な迫力があった。
「…取引先の人って、どんな人ですか」
「え?」
「男ですか」
「あ、そう、そう!男やで!」
「カラスバさん、その人と仲良いんですか?」
「っと…まぁ顔合わせる回数、多いしな…?」
ちなみにカラスバの脳裏には「頑張ってください、カラスバ様」とサムズアップするジプソの顔が思い浮かんでいる。しかしそんなことを知る由もないキョウヤは、カラスバの答えを聞くにつれてどんどん顔をしかめていき、ついには席を立ってカラスバの前に詰め寄った。突然の想い人の接近にカラスバは思わずのけぞるが、キョウヤは構わずにずい、とカラスバに顔を寄せる。
「…その人、絶対カラスバさんのこと好きですよ」
「はぁ?ないない」
なぜなら、カラスバにガトーショコラを渡した取引先の人なんて存在しないのだから。
しかしキョウヤは丸で怒っているような、どこか怖い顔をして、カラスバの肩を両手で掴んだ。
「絶対そうです。だって今日、わざわざカラスバさんにチョコ渡したってことでしょ」
「今日とチョコと、何の関係があんねん、」
なんだか嫌な予感がしつつ、苦し紛れにそういったカラスバ。しかしその時、キョウヤの高い鼻先がすん、と何かの匂いを嗅ぎ取る。
「…ん?」
「な、なに」
急に怪訝な顔をしたキョウヤにカラスバは固まったまま尋ねるが、彼はそのまますんすんと鼻を鳴らして、気になる匂いを辿るように少しずつ、その鼻先をカラスバへ――カラスバの首筋へと寄せていった。一方、カラスバは急激な接近に頭の処理が追い付かずに見事にフリーズして固まっていた。
「なんか…カラスバさん、めちゃくちゃ甘い匂いする」
「へ?」
すんすん。拒否されないのをいいことに、キョウヤはそのままカラスバから香る匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。
「この匂い、チョコ?」
「!!」
その言葉でカラスバはハッとした。ジプソもカラスバも朝からのチョコ作りで鼻が麻痺してたが、全身にガトーショコラの匂いが染み付いていたのだ。服は着替えていたが、まさか体にまで染みついているとは気づいていなかったのだ。
ぎくり、固まったカラスバに対して、キョウヤは再び目を輝かせて至近距離でといるメル。
「もしかして、これ…カラスバさんが作ったんですか!?」
「え、ち、ちがっ」
「だって貰っただけじゃこんなに全身甘い匂いしませんよ!!チョコ作りましたって言ってるようなもんじゃないですか!!」
「…だったら何やねん」
流石にこれ以上は言い逃れができない。まぁ別に、手作りってバレたところで、菓子作りが実は趣味で…とか適当に言い訳すればええか、なんて思っていたところ、一番重要な単語がキョウヤの口から飛び出した。
「じゃあこれバレンタインのチョコってことですよね!?」
「は!?おま、なんで知ってんねん!」
完全に冷静さを欠いていたカラスバは、いつもなら絶対にしないミスを犯した。それはそれは綺麗な墓穴を掘ったのだ。案の定、その言葉を聞いたきょぅやの顔がみるみる晴れ渡り、それからにぱーっと満面の笑みを浮かべた。
「ってことはやっぱりそうなんだ!!じゃあ俺たち両思いじゃないですか!」
「これはそういう意味じゃ、…は?両思い?」
ぽかん。カラスバの優秀な脳みそは、思いもよらない言葉に再び深刻なエラーを起こした。そんな彼が正気に戻る前にと、強かなキョウヤは自分が座っていたソファの方へ手を伸ばし、紙袋から何かを取り出す。
「あの、今日は、絶対カラスバさんに会いたかったから、ちゃんと連絡入れてきたんです」
そして、固まったままのカラスバの前に跪く。中折れハットの鍔が、キョウヤの端正な顔に影を作り、いつもの快活な雰囲気とは異なる色気を生み出す。その様子にカラスバは視線を吸い寄せられて、目が離せなくなった。
「ミアレのバレンタインは、好きな人に薔薇を渡すんですよね?それと、カントーとかジョウトの方では、好きな人にチョコを渡す文化があるって聞きました。…カラスバさん。このガトーショコラ、カラスバさんが作ったんですよね?」
よおそんなこと知ってんなあ。そんな軽口を叩こうとしたけれど、こちらを見上げる想い人の、どこか懇願するような切実な色を見せるダークグレーの瞳を見てしまうと、そんなことは口にできなかった。そこまでバレているならと、観念しながらカラスバは小さくうなずく。
「…………おん」
「そっか」
圧倒されたままのカラスバにキョウヤはふっと大人びた笑みを浮かべる。
「カラスバさん」
優しく包み込むような、それでいてひどく甘い砂糖のような声音で名前を呼ぶと、キョウヤは恭しく何かを差し出した。
「これが、俺の気持ちです。受け取ってくれますよね?」
跪いたキョウヤがカラスバに差し出したのは――3本の白い薔薇。
それを見たカラスバは、切れ長の金の瞳を目いっぱいに見開いた。ミアレ育ちのカラスバは、嗜みとしてその意味を正確に知っている。もしかして。そんな淡い期待と共に、押さえつけていた心臓の音が早鐘打ち始める。勢い良く送り出された血液が全身に回って、カラスバの白い肌をあっという間に桜色に染め上げた。
「お、まえ、これ、意味わかってるん、」
緊張して張り付いた喉を無理やり動かして尋ねる。キョウヤはとうとう声だけでなく顔までどろどろに甘く蕩けさせて、カラスバを優しく溶かす毒のようなまなざしを向けてきた。「もちろんです。3本の薔薇の花は、愛の告白。白い薔薇は、深い尊敬と…」
そのままミアレの陽ざしで健康的に焼けた手でカラスバの手をつかみ、そっとその手の甲に唇を落とす。何ともきざったらしい仕草なのに、それが妙に様になっていて。あらゆる毒に耐性を持つカラスバでも成すすべがないくらいの、甘い猛毒となって、触れた先からカラスバの身も心も染め上げてしまう。
「"私はあなたに相応しい"ですよね?」
大人しく俺につかまってくれますか?
そんな、聞いたことのない自信に満ちた告白に、カラスバはとうとう白旗を上げた。
「は…オマエ、ほんまおもろいなぁ」
――降参や。
そう言って諦めたようにへにゃりと笑ったカラスバに、勝利を収めた英雄はそこまでの余裕をかなぐり捨てて、勢いよく抱き着いたのだった。
終