・ワンドロワンライ
「お花見しませんか」
「はなみぃ?」
すっかりいつもの光景となった、サビ組事務所で英雄がくつろぐ姿。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音が途切れたタイミングを見計らって投げられた言葉に、カラスバは器用に片眉を上げた。
はなみ。あまり聞き馴染みのない言葉だ。花を見る、という意味だとは思う。ミアレにはフラベベやフラエッテが好んで住処にする花壇や植栽は随所にあるが、わざわざそれを意識して見に行ったことはない。急に何を言い出すのだろうか、と首を傾げる。
「花なんか見てどうするん」
「わ、情緒のない答え」
「オレにそんなもん求める方が間違っとるわ」
軽口を鼻で笑ってやると、彼は――キョウヤはむっと唇を尖らせた。それも短い間のことで、すっかりオレの手が止まっていることを確認すると、仕事が終わったと判断したのかソファから立ち上がってカラスバが座る執務椅子の傍に回った。
隣で膝立ちになって、ひじ掛けに腕と顔を乗せる。それから上目遣いにこちらを見上げてきた。キョウヤがこうやってあざとい年下のようにふるまうのは、何かカラスバにお願いがあるときだ。
「最近あったかくなってきて、桜も咲き始めたじゃないですか」
「桜…ああ、もうそんな時期か」
「…仕事もほどほどにしてもっと外に出たほうがいいですよ」
「忙しいねん」
きゅるり。甘えるパピモッチのような視線から逃れるようにカラスバは顎に手を当てて視線を横に逸らす。なんだかんだ、可愛がっているこの年下のトレーナーに弱いことを自覚しているからだ。
対策されてるな、と残念に思うとともに、対策がされるということはやはりこの人は自分のこの顔に弱いのだなと確信を得てキョウヤは内心でぐっとこぶしを握る。そう、キョウヤはこの年上の、少々おっかないお仕事をしている男に恋をしていた。今日はそんな彼にデートのお誘いをしに来たのだ。
自分に向けてもらえない金の瞳に焦れて、キョウヤは立ち上がると反対側に回り込んでカラスバの視界にずずいと入り込む。
「桜の花を眺めて、春の訪れを祝うっていうのがカントーとかジョウト古来の伝統的な風習なんですって。俺、ミアレに来て初めて春を迎えるんで、お花見したいなって」
ダメですかね、と少し困ったようにキョウヤが頬を掻く。カラスバはキョウヤの言葉にその切れ長の目を少し丸く見開いて、少しだけ驚いたような顔をする。
「初めて…そうか、オマエ来てからまだ1年経ってないんか、こわ」
「えへ」
「なんやもう3年くらいこの辺におる気ぃしとったわ」
「ですよねぇ」
なんせ、彼がミアレにやって来てからの日々はあまりにも濃いので。キョウヤ自身でさえ、あれ?そういえばミアレに来てからまだ四季回ってない?と最近気づいたところなのである。なんなら自分が旅行者であることを忘れがちな今日頃ごろだ。ちなみにキョウヤとしては、この想い人を落として将来を約束してからじゃないと地元に戻れないなと思っている。
そんな風に思考をめぐらせていると、はぁ、と小さく息を吐いた音が響く。それからふよん、と飛んできたのは、カラスバのスマホロトムだ。
「…いつにするん」
「へ?」
カラスバの視線が、スマホロトムからキョウヤへとちらりとだけ注がれる。それから、少し気恥ずかしそうに口元を隠しながらぶっきらぼうにこう言った。
「花見、するんやろ。いつがええねん」
「!」
その言葉にキョウヤはぱぁ、と顔を輝かせると、急いで己のスマホロトムを呼び出す。そうして日程を相談する間、キョウヤは飼い主にかまってもらってぶんぶん尻尾を振るワンパチのように嬉しそうに笑っていた。
『カラスバ様、申し訳ございません!』
そんな連絡が入ったのは、約束の時間の20分前だった。今まさに待ち合わせ場所に向かおうとしていたカラスバは、サッと表情を険しくして、けたたましく鳴り響いた着信を受け取った。
オフのカラスバに連絡が入るのは、よほどの時である。緊急時の連絡というだけで、カラスバの気を尖らせるに十分値する。着信はジプソからで、彼の方もどこかへ急行している途中なのか移動しながらの連絡だった。
要点だけをまとめた簡潔な報告によると、今日部下たちが締め上げる予定だったチンピラ集団が、厄介な別の組織と手を組んでいたようで、大きな抗争に発展したとのことだった。想定よりも相手の用意していた人員が多く、幹部まで出てきて手こずっているとのこと。聞けば怪我人も出ている上に、一般市民に被害が及びそうな規模になっており、その避難にも手を取られているようだった。
部下たちが体を張っているのに、そしてミアレに被害が出ているというのに、自分が呑気に遊んでいるわけにはいかない。
脳裏に一瞬、約束したときのキョウヤの眩しい笑顔が浮かんだけれど、カラスバは迷いなく急な仕事が入ったから行けなくなった、と短く連絡を入れる。それから手早くいつもの服に着替えると、家を出て待ち合わせ場所とは真逆の方向へ駆けだした。
美しい桜の花とは真逆の、真っ赤な鮮血すら舞う、血生臭い仕事。暴力、怒号が飛び交うその場をどうにか収めて、結局すべて片付いたのは、すっかり月が天に登った頃だった。疲労が溜まった体を引きずって何とか自宅に帰りつき、そのままシャワー室へ向かう。頭から湯をかぶりながらもぼんやり考えるのは、今日、己が約束を反故にした気に入りのトレーナーの顔だ。約束の時間の直前に、短くいけない旨を綴ったそっけないメッセージ。返事を確認する間もなく現場に急行したが、帰ってくる道中に見てみると「了解です。こちらは気にせず、気を付けて」となんとも理解のある優しい返事をもらっていた。
「…悪いことしてもうたなぁ」
汗と血と砂埃にまみれた体を洗い流して、それでもなんだか気分が上向かなくて。カラスバは湿った髪もそのままに、ふらりと街へ繰り出した。
バトルゾーンの赤いホロが、街並みの向こうにぼんやり浮かんで見える。夜でも変わらず賑やかなそこを避ければ、静謐な深夜の空気が街を包んでいた。ふらふらと当てもなく歩いているうちに足が向かったのは、昼間にキョウヤと待ち合わせていた広場だった。
開けた場所に凛と立ち、大きな枝と薄紅色の花を広げる立派な桜の木。春の間でも短い間しか咲かないその花は、見事に満開を迎えていた。それは確かに圧巻の光景で、――ぞっとするほどに美しい。
桜の木の下には死体が埋まっている、なんて都市伝説がある。その血を吸うから、桜は薄紅色に染まるのだと。くだらない妄言だが、そんな謂れがあるのなら、ある意味日陰者に似合いの花やな、なんて自嘲が漏れる。
くっと低く喉を鳴らしながら、別の木の幹に背中を預ける。そして家を出る前にポケットに突っ込んだ煙草とライターを取り出すと、口に咥えて火を点ける。深く、春の夜のまだ少し冷たい空気と共に重い煙を灰の中に吸い込んで、もやもやと胸にくすぶる罪悪感と共に吐き出した。白い煙が空気に溶けて、その向こうの桜をぼんやりと眺める。
その時、立派な木の幹の裏に見覚えのある帽子が見えた気がして目を見開いた。
「…キョウヤ?」
思わず口に出したその声は小さかったはずだが、静寂に包まれたそこでは十分に聞き取れるものだったようで。
「あれ、カラスバさん?」
ひょこり、顔を出したのは間違いなくキョウヤだった。まさか先客が、しかもそれがまさに頭をちらついていた人物だと思わなくてカラスバは心底驚いた。固まっている間に手に持った煙草がジリ、と音を立てて短くなり、そこでようやくハッとする。持たれていた木から背を離し、携帯灰皿に火種を押し付けながら、キョウヤがいる桜の木の方へと歩みを進めた。
「なんでおるねん。オレ、仕事で来れへん言うたやろ」
桜の木の根元に座り込んでいたキョウヤを見下ろす。いつもの格好で、地面に敷いたちいさなレジャーシートの上にお行儀よく三角座りしたキョウヤは、柔らかな表情をしてカラスバを見上げていた。
「あ、ずっといたわけじゃないですよ?なんとなく桜を見たくなって、さっき来たところです。でもカラスバさんに会えるなんて、ラッキーだな」
大きな吊り目が細められて、柔らかく弧を描く。いつもの元気な笑顔とはまた種類の違う、どこか大人びた微笑にカラスバはなんとなく胸が落ち着かない気持ちを味わった。
「カラスバさんもここ、座りませんか。遅くなりましたけどお花見しましょう」
キョウヤが少しだけ腰を浮かせてシートの上で尻をずらすと、ちょうど一人分のスペースが生まれる。どこか期待のこもったその目を無下にできず、そして己が破った約束の罪悪感もあって、カラスバはふっと笑って頷いた。
「…ほな、寄せてもらおかな」
「どうぞ。あ、あとエネココアもありますよ!」
カイロ代わりに持っていたらしい未開封の缶を差し出されるが、首を横に振る。
「それオマエが飲むつもりで買ったんやろ?」
「じゃあもう一個買ってきます」
「ええよ、そこまでせんでも。ほなその代わり、一口だけもらうわ」
「あ、ハイ。どぞ…」
「なんで急に片言やねん」
差し出された缶を開けて一口だけ口を付けると、甘ったるい液体が口の中に広がる。普段は好んで飲まないけれど、疲れた体にはその甘さと温かさが心地よくて思わずホッと息をついた。おおきに、と小さく礼を言ってキョウヤへ返却すれば、彼はいえ、ダイジョブ、です、と再び何故か片言になっていたのでカラスバは思わず笑ってしまった。
男が二人、仲良く並んで桜を見上げるシュールな光景。夜の静寂の中ではやたらとおしゃべりをするような気分にはならず、そのまま静かに頭上に広がる桜を見上げていた。そんな中でふとカラスバがポツリと口を開く。
「…今日。ドタキャンして、すまんかったな」
「え?あぁ、仕方ないですよ。緊急のお仕事だったんですよね、大丈夫でした?怪我とかしてません?」
「何人かけが人は出てしもたけど、全員軽傷や。ごたごたも片付いたし」
「カラスバさんも怪我してないんですね?」
「まぁな」
「ならよかったです」
ふ、と微笑んだ気配がしたので、カラスバはもはや呆れすら滲ませてキョウヤの顔を見た。
「…オマエ、優しすぎるで」
「そうですか?」
「楽しみにしてたのにドタキャンされて、そのうえ相手の心配て。普通は怒るか不機嫌になるかやろ」
「うーん、でもなんだかんだこうやってカラスバさんとお花見できてるしなぁ」
「お人好し…騙されんように気ぃつけや」
「100万円の利息とか付けられないように?」
「100万円の利息とか付けられへんように」
揶揄うように言われた言葉にそう返してやると、一拍の呼吸を置いてから二人でくすくすとこらえきれない笑いを零した。
小さなレジャーシートだ。笑っていると体が揺れて、ちょんと肩先が触れあう。その体温が思いのほか心地よくて、気づけば肩を寄せ合っていた。
「夜桜でお花見なんて、なんだか粋ですね」
「せやなあ」
そんなことを言いながら、月を背にした桜の花に目を奪われる。
「しってます?夜桜の花言葉は精神美なんですって」
不意にそんなことをキョウヤが言うので、カラスバは首を傾げて隣を見た。想像よりもずっと近いところにキョウヤの顔があって、少しだけ息をのんだ。
「ミアレを守るあなたにピッタリですね」
月明かりに照らされた桜は発光しているみたいにその薄紅色が宵闇に浮かんでいて、まるで篝火のように見える。その下でこちらを見つめるキョウヤの目は、吸い込まれそうなほどに深い色をしていた。幼い、可愛い年下のトレーナーとばかり思っていたキョウヤの顔は、今やすっかり甘さをまとった青年のものだった。
いつの間に、こんな大人の男になっていたのだろう。
ダークブラウンが夜の色を吸い込んで、黒曜石のように輝いている。その目が再び桜を見上げて、ぼんやりと浮き上がる花を、そしてその淡い色を照らす月明かりに目を細めた。そして。
「月が綺麗ですね」
がん、と頭を殴られたような衝撃。カラスバは己の心臓が止まったのかと思った。一瞬動きを止めて、それからばくばくと早鐘打ち始めた心臓に、思わず胸のあたりを握りしめる。
彼は、意味を知っているのか。その言葉の意味を。それとも偶然だろうか。分からない。
知らずに言ったのなら、それでいい。
でも、もし。もしもその意味を分かって口にしたのなら。
「…あぁ、ほんま。このまま時間が止まればええのにな」
この言葉を、捧げよう。本心には変わりないから。
まだ肌寒い風が頬を撫でる。少しばかり見上げる位置にある男の顔を見つめて、カラスバは金の眼を月明かりに輝かせて小さく笑った。
「でも今日はなんや、肌寒いな?」
果たして。
「…もしかして意味知ってました?」
そう言いながらこちらに向き直った男の顔は、桜の薄紅色なんて霞むくらいに真っ赤だった。
にやける口元を必死に堪えているらしい唇。少し悔しさが滲んでいるのは、意趣返しが成功したと思っていいのだろう。可愛らしいけれどどこか男らしさが滲むその顔に、カラスバは己の機嫌がぐっと上向くのを感じる。胸に広がる満たされたような心地は、もしかして幸福感、というものだろうか。大きな手で隠すように覆っているその顔を覗き込んで、カラスバは悪戯猫のように目を細めた。
「さぁ、どうやろ。で?キョウヤは、寒ないの」
「…寒いです」
くすくす笑ってやれば、キョウヤは恐る恐るといった様子でカラスバの白い頬に手を伸ばしてくる。カラスバは、己が自覚したばかりの好きな男の温かな指先に、そっと目を閉じた。
終
「カラスバさん、髪濡れてる」
「ん?あぁ、シャワー浴びて出てきたさかい」
「ってかめっちゃ薄着じゃないですか!風邪ひいちゃいますよ!…チルタリス!」
「ちる!」
「カラスバさんのことあっためたげて」
「くるるぅ」
「お、おお、手厚いな…」
なんだか急に良い雰囲気は霧散してしまったけれど、これはこれでキョウヤらしくてなんだかホッとする。そう思って極上の羽毛の中でくすくす笑っていたら、急に熱い体温に抱きしめられて、舞い散る花びらと共に熱い唇が降ってきた。
「はなみぃ?」
すっかりいつもの光景となった、サビ組事務所で英雄がくつろぐ姿。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音が途切れたタイミングを見計らって投げられた言葉に、カラスバは器用に片眉を上げた。
はなみ。あまり聞き馴染みのない言葉だ。花を見る、という意味だとは思う。ミアレにはフラベベやフラエッテが好んで住処にする花壇や植栽は随所にあるが、わざわざそれを意識して見に行ったことはない。急に何を言い出すのだろうか、と首を傾げる。
「花なんか見てどうするん」
「わ、情緒のない答え」
「オレにそんなもん求める方が間違っとるわ」
軽口を鼻で笑ってやると、彼は――キョウヤはむっと唇を尖らせた。それも短い間のことで、すっかりオレの手が止まっていることを確認すると、仕事が終わったと判断したのかソファから立ち上がってカラスバが座る執務椅子の傍に回った。
隣で膝立ちになって、ひじ掛けに腕と顔を乗せる。それから上目遣いにこちらを見上げてきた。キョウヤがこうやってあざとい年下のようにふるまうのは、何かカラスバにお願いがあるときだ。
「最近あったかくなってきて、桜も咲き始めたじゃないですか」
「桜…ああ、もうそんな時期か」
「…仕事もほどほどにしてもっと外に出たほうがいいですよ」
「忙しいねん」
きゅるり。甘えるパピモッチのような視線から逃れるようにカラスバは顎に手を当てて視線を横に逸らす。なんだかんだ、可愛がっているこの年下のトレーナーに弱いことを自覚しているからだ。
対策されてるな、と残念に思うとともに、対策がされるということはやはりこの人は自分のこの顔に弱いのだなと確信を得てキョウヤは内心でぐっとこぶしを握る。そう、キョウヤはこの年上の、少々おっかないお仕事をしている男に恋をしていた。今日はそんな彼にデートのお誘いをしに来たのだ。
自分に向けてもらえない金の瞳に焦れて、キョウヤは立ち上がると反対側に回り込んでカラスバの視界にずずいと入り込む。
「桜の花を眺めて、春の訪れを祝うっていうのがカントーとかジョウト古来の伝統的な風習なんですって。俺、ミアレに来て初めて春を迎えるんで、お花見したいなって」
ダメですかね、と少し困ったようにキョウヤが頬を掻く。カラスバはキョウヤの言葉にその切れ長の目を少し丸く見開いて、少しだけ驚いたような顔をする。
「初めて…そうか、オマエ来てからまだ1年経ってないんか、こわ」
「えへ」
「なんやもう3年くらいこの辺におる気ぃしとったわ」
「ですよねぇ」
なんせ、彼がミアレにやって来てからの日々はあまりにも濃いので。キョウヤ自身でさえ、あれ?そういえばミアレに来てからまだ四季回ってない?と最近気づいたところなのである。なんなら自分が旅行者であることを忘れがちな今日頃ごろだ。ちなみにキョウヤとしては、この想い人を落として将来を約束してからじゃないと地元に戻れないなと思っている。
そんな風に思考をめぐらせていると、はぁ、と小さく息を吐いた音が響く。それからふよん、と飛んできたのは、カラスバのスマホロトムだ。
「…いつにするん」
「へ?」
カラスバの視線が、スマホロトムからキョウヤへとちらりとだけ注がれる。それから、少し気恥ずかしそうに口元を隠しながらぶっきらぼうにこう言った。
「花見、するんやろ。いつがええねん」
「!」
その言葉にキョウヤはぱぁ、と顔を輝かせると、急いで己のスマホロトムを呼び出す。そうして日程を相談する間、キョウヤは飼い主にかまってもらってぶんぶん尻尾を振るワンパチのように嬉しそうに笑っていた。
『カラスバ様、申し訳ございません!』
そんな連絡が入ったのは、約束の時間の20分前だった。今まさに待ち合わせ場所に向かおうとしていたカラスバは、サッと表情を険しくして、けたたましく鳴り響いた着信を受け取った。
オフのカラスバに連絡が入るのは、よほどの時である。緊急時の連絡というだけで、カラスバの気を尖らせるに十分値する。着信はジプソからで、彼の方もどこかへ急行している途中なのか移動しながらの連絡だった。
要点だけをまとめた簡潔な報告によると、今日部下たちが締め上げる予定だったチンピラ集団が、厄介な別の組織と手を組んでいたようで、大きな抗争に発展したとのことだった。想定よりも相手の用意していた人員が多く、幹部まで出てきて手こずっているとのこと。聞けば怪我人も出ている上に、一般市民に被害が及びそうな規模になっており、その避難にも手を取られているようだった。
部下たちが体を張っているのに、そしてミアレに被害が出ているというのに、自分が呑気に遊んでいるわけにはいかない。
脳裏に一瞬、約束したときのキョウヤの眩しい笑顔が浮かんだけれど、カラスバは迷いなく急な仕事が入ったから行けなくなった、と短く連絡を入れる。それから手早くいつもの服に着替えると、家を出て待ち合わせ場所とは真逆の方向へ駆けだした。
美しい桜の花とは真逆の、真っ赤な鮮血すら舞う、血生臭い仕事。暴力、怒号が飛び交うその場をどうにか収めて、結局すべて片付いたのは、すっかり月が天に登った頃だった。疲労が溜まった体を引きずって何とか自宅に帰りつき、そのままシャワー室へ向かう。頭から湯をかぶりながらもぼんやり考えるのは、今日、己が約束を反故にした気に入りのトレーナーの顔だ。約束の時間の直前に、短くいけない旨を綴ったそっけないメッセージ。返事を確認する間もなく現場に急行したが、帰ってくる道中に見てみると「了解です。こちらは気にせず、気を付けて」となんとも理解のある優しい返事をもらっていた。
「…悪いことしてもうたなぁ」
汗と血と砂埃にまみれた体を洗い流して、それでもなんだか気分が上向かなくて。カラスバは湿った髪もそのままに、ふらりと街へ繰り出した。
バトルゾーンの赤いホロが、街並みの向こうにぼんやり浮かんで見える。夜でも変わらず賑やかなそこを避ければ、静謐な深夜の空気が街を包んでいた。ふらふらと当てもなく歩いているうちに足が向かったのは、昼間にキョウヤと待ち合わせていた広場だった。
開けた場所に凛と立ち、大きな枝と薄紅色の花を広げる立派な桜の木。春の間でも短い間しか咲かないその花は、見事に満開を迎えていた。それは確かに圧巻の光景で、――ぞっとするほどに美しい。
桜の木の下には死体が埋まっている、なんて都市伝説がある。その血を吸うから、桜は薄紅色に染まるのだと。くだらない妄言だが、そんな謂れがあるのなら、ある意味日陰者に似合いの花やな、なんて自嘲が漏れる。
くっと低く喉を鳴らしながら、別の木の幹に背中を預ける。そして家を出る前にポケットに突っ込んだ煙草とライターを取り出すと、口に咥えて火を点ける。深く、春の夜のまだ少し冷たい空気と共に重い煙を灰の中に吸い込んで、もやもやと胸にくすぶる罪悪感と共に吐き出した。白い煙が空気に溶けて、その向こうの桜をぼんやりと眺める。
その時、立派な木の幹の裏に見覚えのある帽子が見えた気がして目を見開いた。
「…キョウヤ?」
思わず口に出したその声は小さかったはずだが、静寂に包まれたそこでは十分に聞き取れるものだったようで。
「あれ、カラスバさん?」
ひょこり、顔を出したのは間違いなくキョウヤだった。まさか先客が、しかもそれがまさに頭をちらついていた人物だと思わなくてカラスバは心底驚いた。固まっている間に手に持った煙草がジリ、と音を立てて短くなり、そこでようやくハッとする。持たれていた木から背を離し、携帯灰皿に火種を押し付けながら、キョウヤがいる桜の木の方へと歩みを進めた。
「なんでおるねん。オレ、仕事で来れへん言うたやろ」
桜の木の根元に座り込んでいたキョウヤを見下ろす。いつもの格好で、地面に敷いたちいさなレジャーシートの上にお行儀よく三角座りしたキョウヤは、柔らかな表情をしてカラスバを見上げていた。
「あ、ずっといたわけじゃないですよ?なんとなく桜を見たくなって、さっき来たところです。でもカラスバさんに会えるなんて、ラッキーだな」
大きな吊り目が細められて、柔らかく弧を描く。いつもの元気な笑顔とはまた種類の違う、どこか大人びた微笑にカラスバはなんとなく胸が落ち着かない気持ちを味わった。
「カラスバさんもここ、座りませんか。遅くなりましたけどお花見しましょう」
キョウヤが少しだけ腰を浮かせてシートの上で尻をずらすと、ちょうど一人分のスペースが生まれる。どこか期待のこもったその目を無下にできず、そして己が破った約束の罪悪感もあって、カラスバはふっと笑って頷いた。
「…ほな、寄せてもらおかな」
「どうぞ。あ、あとエネココアもありますよ!」
カイロ代わりに持っていたらしい未開封の缶を差し出されるが、首を横に振る。
「それオマエが飲むつもりで買ったんやろ?」
「じゃあもう一個買ってきます」
「ええよ、そこまでせんでも。ほなその代わり、一口だけもらうわ」
「あ、ハイ。どぞ…」
「なんで急に片言やねん」
差し出された缶を開けて一口だけ口を付けると、甘ったるい液体が口の中に広がる。普段は好んで飲まないけれど、疲れた体にはその甘さと温かさが心地よくて思わずホッと息をついた。おおきに、と小さく礼を言ってキョウヤへ返却すれば、彼はいえ、ダイジョブ、です、と再び何故か片言になっていたのでカラスバは思わず笑ってしまった。
男が二人、仲良く並んで桜を見上げるシュールな光景。夜の静寂の中ではやたらとおしゃべりをするような気分にはならず、そのまま静かに頭上に広がる桜を見上げていた。そんな中でふとカラスバがポツリと口を開く。
「…今日。ドタキャンして、すまんかったな」
「え?あぁ、仕方ないですよ。緊急のお仕事だったんですよね、大丈夫でした?怪我とかしてません?」
「何人かけが人は出てしもたけど、全員軽傷や。ごたごたも片付いたし」
「カラスバさんも怪我してないんですね?」
「まぁな」
「ならよかったです」
ふ、と微笑んだ気配がしたので、カラスバはもはや呆れすら滲ませてキョウヤの顔を見た。
「…オマエ、優しすぎるで」
「そうですか?」
「楽しみにしてたのにドタキャンされて、そのうえ相手の心配て。普通は怒るか不機嫌になるかやろ」
「うーん、でもなんだかんだこうやってカラスバさんとお花見できてるしなぁ」
「お人好し…騙されんように気ぃつけや」
「100万円の利息とか付けられないように?」
「100万円の利息とか付けられへんように」
揶揄うように言われた言葉にそう返してやると、一拍の呼吸を置いてから二人でくすくすとこらえきれない笑いを零した。
小さなレジャーシートだ。笑っていると体が揺れて、ちょんと肩先が触れあう。その体温が思いのほか心地よくて、気づけば肩を寄せ合っていた。
「夜桜でお花見なんて、なんだか粋ですね」
「せやなあ」
そんなことを言いながら、月を背にした桜の花に目を奪われる。
「しってます?夜桜の花言葉は精神美なんですって」
不意にそんなことをキョウヤが言うので、カラスバは首を傾げて隣を見た。想像よりもずっと近いところにキョウヤの顔があって、少しだけ息をのんだ。
「ミアレを守るあなたにピッタリですね」
月明かりに照らされた桜は発光しているみたいにその薄紅色が宵闇に浮かんでいて、まるで篝火のように見える。その下でこちらを見つめるキョウヤの目は、吸い込まれそうなほどに深い色をしていた。幼い、可愛い年下のトレーナーとばかり思っていたキョウヤの顔は、今やすっかり甘さをまとった青年のものだった。
いつの間に、こんな大人の男になっていたのだろう。
ダークブラウンが夜の色を吸い込んで、黒曜石のように輝いている。その目が再び桜を見上げて、ぼんやりと浮き上がる花を、そしてその淡い色を照らす月明かりに目を細めた。そして。
「月が綺麗ですね」
がん、と頭を殴られたような衝撃。カラスバは己の心臓が止まったのかと思った。一瞬動きを止めて、それからばくばくと早鐘打ち始めた心臓に、思わず胸のあたりを握りしめる。
彼は、意味を知っているのか。その言葉の意味を。それとも偶然だろうか。分からない。
知らずに言ったのなら、それでいい。
でも、もし。もしもその意味を分かって口にしたのなら。
「…あぁ、ほんま。このまま時間が止まればええのにな」
この言葉を、捧げよう。本心には変わりないから。
まだ肌寒い風が頬を撫でる。少しばかり見上げる位置にある男の顔を見つめて、カラスバは金の眼を月明かりに輝かせて小さく笑った。
「でも今日はなんや、肌寒いな?」
果たして。
「…もしかして意味知ってました?」
そう言いながらこちらに向き直った男の顔は、桜の薄紅色なんて霞むくらいに真っ赤だった。
にやける口元を必死に堪えているらしい唇。少し悔しさが滲んでいるのは、意趣返しが成功したと思っていいのだろう。可愛らしいけれどどこか男らしさが滲むその顔に、カラスバは己の機嫌がぐっと上向くのを感じる。胸に広がる満たされたような心地は、もしかして幸福感、というものだろうか。大きな手で隠すように覆っているその顔を覗き込んで、カラスバは悪戯猫のように目を細めた。
「さぁ、どうやろ。で?キョウヤは、寒ないの」
「…寒いです」
くすくす笑ってやれば、キョウヤは恐る恐るといった様子でカラスバの白い頬に手を伸ばしてくる。カラスバは、己が自覚したばかりの好きな男の温かな指先に、そっと目を閉じた。
終
「カラスバさん、髪濡れてる」
「ん?あぁ、シャワー浴びて出てきたさかい」
「ってかめっちゃ薄着じゃないですか!風邪ひいちゃいますよ!…チルタリス!」
「ちる!」
「カラスバさんのことあっためたげて」
「くるるぅ」
「お、おお、手厚いな…」
なんだか急に良い雰囲気は霧散してしまったけれど、これはこれでキョウヤらしくてなんだかホッとする。そう思って極上の羽毛の中でくすくす笑っていたら、急に熱い体温に抱きしめられて、舞い散る花びらと共に熱い唇が降ってきた。