・ワンドロワンライ

「カラスバさんってどれくらい目が悪いんですか?」
いつものごとく気楽に事務所へ足運んだキョウヤは、恋人たるカラスバの仕事が一区切りつくのを待っている中で脈絡なくそう投げかけた。応接用のソファの背もたれに両腕を置いて、そこに顔を乗せるようにしながら執務椅子で作業をするカラスバを眺めていたらしいキョウヤを、カラスバはちらりと見やる。もう粗方仕事は片付いたタイミングだった。おそらくそれを見極めて声を掛けてきたのだろうけど。手元の資料を一つにまとめながら、カラスバは返す。
「そうやなあ…オマエは視力どんなもんなん」
「両目とも裸眼で2.0以上あるって言われてます」
「遊牧民やん」
「えへ」
まぁ、視力が悪いイメージもなかったけれど。視力2.0なんて、眼鏡をかけてもなお遠く及ばない世界だ。おそらく己とキョウヤでは文字通り見えている景色が違うのだろうな、と卑屈でも何でもなくカラスバは素直にそう考える。
「ほな見えへん人間の視界なんて想像もつかんやろなぁ…そうやな、俺は眼鏡が無かったら…」
集め終わった紙の資料の束をとん、と机の上で立てて端を整えると、引き出しの中にしまってから鍵をかける。次いでパソコンにもロックを掛ければ、本日も営業終了だ。
ふう、と小さく息を吐いてから、ぐるりと部屋の中を見回す。まず目についたのは、無駄にでかくて存在感のある大きな壺。そちらに視線を投げると、キョウヤもつられたようにそちらへ顔を向ける。
「まずあのそこにある壺がなんの模様かわからん パソコンの文字なんかもちろん見えへんし、なんとなくぼやーっと周りにあるもんの存在とか大体の色は分かる…って感じやな」
試しに自身の眼鏡のつるに手をかけて、少しだけレンズを下にずらして裸眼の世界を見渡す。水滴がついたカメラのレンズのようにぼやぁと輪郭を失う視界。無意識に目が焦点を合わせようとして失敗するので目に力が入ってしまい、やはりだめだなと眼鏡をかけ直す。
その様子を眺めていたキョウヤは、この巨大な壺の模様でさえ分からなくなるのかと驚いた様子で、想像しようとしているのかううんと唸って首をひねりつつも神妙な表情で頷いた。
「ぼやーっと…じゃあ眼鏡がないと結構危ないんですね」
「せやなあ、慣れてるところは大丈夫やけど外は歩けへんな」
例えば家の中や事務所…それもこの部屋の中くらいなら、眼鏡が無くても生活はできるだろう。おおよその物の配置は分かっているし、感覚的にも慣れている。ただ、それ以外の場所だとそうもいかない。距離感も掴みにくくなるので誰かとぶつかったり、足元の障害物に気づかなかったり、文字だって碌に読めないから飲食店どころか自動販売機でさえ険しい顔でにらめっこする羽目になるだろう。
無理やな、と一人ごちていると、キョウヤがおずおずとこう尋ねる。
「その、まあ荒事とかもあるじゃないですか。想像ですけど。眼鏡だと危なくないんです?」
キョウヤにはそういう後ろ暗い仕事をしている場面は見せたことないが、まぁドラマや漫画で多少の想像はできるのだろう。どこまで当たっているかはさておき。まあ少なくとも、多少の喧嘩くらいはあるのは確かなので、聞かない方がよかったかなと気まずそうにしているキョウヤに苦笑する。
「せやなぁ、一応そのためのグラスコードでもあるんやけど」
それに言いたいことは分からんでもない。もちろん裸眼やコンタクトの方が圧倒的に安全だろう。目元に何か衝撃があった時、レンズが割れて余計な怪我に繋がることはもちろん、そもそも眼鏡が機能しなくなったら曖昧な視界で過ごすしか無くなるのだから。このグラスコードは、サビ組ボスとしてのトレードマークであることはもちろん、そういう意味での役目もある。…まぁでも。
「見えんくても気配と感覚で喧嘩くらいならいけるで」
そもそも矯正器具なんて手に入らない頃から目はあまり良くなかった。その頃に培われた野性的な勘は、今でも十二分に役立っているのである。
にやぁ、とわざと悪い笑みを浮かべてやれば、キョウヤはわざとらしく引き攣った苦笑をした。
「ひぇ…」
まるで怖がっているような反応だが、その実は棒読みである。こいつほんま肝座ってるよなあ、と感心を通り越して半ば呆れながら、カラスバは執務椅子から立ち上がってキョウヤの隣に移動した。
「なんや、急に気になったん?」
そう言いながらソファの隣に腰を下ろすと、キョウヤも背もたれから離れて、まるで当然のように腰を抱き寄せられた。妙に手慣れているような気障ったらしい仕草だが、顔の良さでカバーされてしまってカラスバは何も言えなくなる。
「んー、なんか最近カラスバさんが眼鏡外してるのよく見る気がして。もちろん外じゃなくて、事務所とか家にいるときですけど」
「そうか?」
意識していなかったから気付かんかったわ、と小さく呟けば、キョウヤはそうですよと頷く。言われてみれば、帰って来てシャワーを浴びた後とか、起きてから朝食までの間とか、ソファでだらだらと2人で過ごしている時とか。いちいち眼鏡を探すのもめんどくさくて、まあいいかとそのままにしている時間が長いかもしれない。別に、グラスコードがあるのだからずっと首に下げておいてもいいのだけど、ふとした時に邪魔になったりするものだから。
カラスバがそんなことをぼんやり思い起こしていると、キョウヤがこちらを見てなにやら含み笑いをする。
「んー、でもそうか。ふふ」
「なんやねん」
思わず怪訝な顔をして目を細めると、キョウヤは口元をにまにまと緩ませていて。なにやら嬉しそうに目元までゆるゆるの締まりのない顔をしている。
「いや、眼鏡外してる時間が長いのは、カラスバさんの信頼の証なのかなって思って」
「はぁ?」
またなにか突拍子もないことを言いだしたな、とカラスバが思っていると、それがキョウヤにもバレたのか、まだ笑みを含んだままの視線を向けられた。
「だって、俺の前では見えなくても問題ないと思ってくれてるんじゃないですか?それってすごいことだと思うんですけど」
キョウヤの言わんとしてることが伝わった。そして同時に、ドッと心臓が跳ねた。自覚していなかった部分を急に突き付けられて、急に妙な恥ずかしさが襲い掛かってくる。ぶわ、と目元に朱が走ったのを見られたくなくてカラスバは顔をそむけたが、キョウヤはお構いなしにずずいと顔を覗き込んでくる。
「…慣れてるところは大丈夫や言うたやんか」
苦し紛れにそう言ったのに、キョウヤはにやついた表情を隠しもしないままで。
「はい。でも間違いなく最初の頃より外してる時間長いですよ」
にやにや、でれでれ。脂下がった顔で、しかもなんだかその余裕そうな表情が癪に障る。カラスバはむっと眉根を寄せると眼鏡を一旦外して手に取った。
「…眼鏡もかけ続けてると疲れるねん。それに、」
そうしてそのまま、裸眼でも焦点が合うほど恋人の顔に顔を近づけて、その焦点距離をさらに超えて。再度ぼやけて見えなくなる、吐息が触れるほどの距離で囁いた。
「オマエとおると、眼鏡が邪魔になる事が多いさかい、しゃーないやろ?」
眼鏡をかけているといつも2人の間でかちゃりと音を立てる、レンズの隔たりが今はない。鼻先が触れ合って、睫毛が上下する動きすら触れあう。その感触を楽しんでから、そのままカラスバは固まったままのキョウヤの唇に軽く口付けてやった。わざと響かせるリップ音も忘れない。
ふっと笑うように息を漏らしてから顔を離して、手に持っていた眼鏡をかけ直したところで、今度はキョウヤの手がそれをグラスコードごと取り去った。
「おい、」
ことり、ローテーブルの上にカラスバの眼鏡がそっと置かれる。取り返そうとした手は、そっと熱い手の平に捕まえられた。
「確かにそうですね…じゃあ眼鏡が邪魔になっちゃうこと、しましょうか」
ぐっと手を引いて、ついでに腰を引き寄せられたまま、カラスバの体はそっとソファへと押し倒される。眼鏡のないカラスバの上に覆いかぶさるキョウヤの顔はぼやけて見えるけれども、どんな顔をしているかは簡単に想像がつく。ごちそうを前にした、捕食者の顔だ。ギラギラと輝くその光は裸眼でもしっかり捉えられて、カラスバは思わず息をのむが、それを感付かせないように口の端を上げて笑って見せた。
「…躾のなってないやっちゃなあ」
「ふふ、はい。我慢できないです。だから、カラスバさんが躾けてくれるんでしょ?」
こてん、と可愛らしく首を傾げた年下の恋人は、それでも目は獰猛な光を讃えたままで。そのアンバランスさに背中をぞわりと甘く震わせながら、カラスバは恋人の首裏にゆっくりと白い腕を回した。
「ほんましゃーないやつ。…ほな、おいで」
今日も二人を隔てるものは、何もない。

終 
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