・ワンドロワンライ
「オレに毒は効かへんよ、耐性あんねん。ほら、こいつらとガキの頃から一緒に生活しとったし……オレに限らず、毒使いならある程度慣れとるんちゃうか。それにこんな仕事してると、嫌でもな?」
そんな話を聞いたのはいつだったか。俺がサビ組に出入りするようになってしばらくしてからだった気がする。
サビ組のボス、カラスバさんと俺は不思議な関係だった。友達、よりは仲がいいような、かといって仲間でもなくて、でも隣にいると心地が良くて。カラスバさんも、俺のことはずいぶん気に入ってくれている……と思う。最近は「サビ組のカラスバさん」じゃなくて、年相応な素の表情を見せてくれたり、どこか優しい目で俺を見つめてくれている気がするから。……二人でいるときになんとなく甘やかな雰囲気が漂っているのは、さすがに俺の思い込みではないと信じたい。憧憬と甘い何かが混ざったような、そんな名状しがたい感情を彼に抱きながら、でもその感情に名前を付けることを避けてきた。
ある日、いつものようにZAロワイヤルに繰り出した俺は、なんだかいつもよりトレーナーの数が少ない気がして、今日は早めに切り上げようかな、なんて思っていた。とりあえず二十人をノルマにして駆け回り、それを達成したので赤いホロゲートから外に出る。早めに切り上げたとはいえ、それでも時刻は深夜だ。徹夜でのZAロワイヤルに慣れているけれど、せっかくなので早く帰ってちゃんとベッドで睡眠を取ろう。そう思って、ホテルまでの道をショートカットするため、いつものように屋根から屋根へと飛び回り始めた直後だった。
「……ん?」
人気のない路地裏の、さらに奥。ヤブクロンたちがたむろする物陰に蹲る影を見つけた。それだけなら特に目に留まらなかっただろう。俺の目を引いたのは、その影に寄り添うように立つ緑色のポケモンが、何かを守るように立っていたからだ。嫌な予感がして、俺はスマホロトムを引っ掴んで屋上から真っすぐ飛び降りる。ずいぶん警戒した様子のその子を刺激しないため、俺は自分の存在を知らしめるようにわざと足音を立てながら名前を呼ぶ。
「……ロズレイド?」
「! ロズ!」
声を覚えてくれたからか、ロズレイドは警戒を解いて俺の方を見た。そう、声を覚えているということは、このロズレイドは俺と面識がある子で間違いない。そして、そのロズレイドに守られるように蹲っている姿は、やはり。
「カラスバさん?」
もうすっかり見慣れた、彼の姿だった。薄汚れた壁に背中をつけて座り込んだ彼は、俺の声に反応して顔を上げた。
「は、キョ……ヤ、」
白い月明かりに照らされてぼんやり浮かび上がったカラスバさんの顔を見て、俺はひゅ、と息をのんだ。いつもきれいに整えられた髪は乱れ、ただでさえ白い顔は青ざめている。唇も真っ青で、額には脂汗が滲んでいた。さらには肩で息をしている尋常じゃない姿に、俺は思わず傍らに膝をついてその肩に手を添えた。
――とんでもなく熱い。高熱だ。
「ど、どうしたんですか! 体調悪いんですか!?」
「ちょっと、な……う、ぐぅ……」
「カラスバさん!」
血相を変えた俺にカラスバさんは小さく笑おうとして、しかしどこかが痛むのか顔を歪めて低く呻いた。予想外の事態に動揺して、どうしたらいいか分からずただ慌てるしかない俺だったが、その時ふと何かの匂いを感じて固まった。傍らにいるロズレイドの薔薇の香りにかき消されて気付かなかったけれど、鉄臭い嫌なにおいがする。――それは、カラスバさんから漂ってくる血の匂いだった。思わず言葉を失う俺に、カラスバさんは苦しそうに口を開く。
「キョウヤ……ハブネークって、知っとるか」
「え? えっと、ホウエンかどっかの毒蛇ポケモンですよね? なんで急に…」
スクールで習ったことがある。ハブネークの毒は、麻痺、高熱を引き起こす。
「……まさか」
「察しええなぁ、……やられてもたわ」
そう言って力無く笑うカラスバさんに、俺は目を見開いた。
「ミアレには生息してないし、そもそも持ち込みすら禁止されてますよね!?」
「あぁ、やから……密航というか、そういう裏ルートやろな……普通の毒がオレに効かんからって、ご苦労なことやで」
毒に耐性があると言っていたカラスバさん。その体質を分かったうえで、わざわざ、この人を害するために。ミアレにいるはずのない毒タイプのポケモンまで連れてきたのか。
そして、この人を、傷つけた。
その事実だけでカッと目の前が赤くなるような心地がしたけれど、それよりも目の前で苦しむカラスバさんの姿になんとか我に返る。
カラスバさんの手元には、空になった毒消しが握られている。それでも解毒できていないということは、効かなかったのだろう。人間用の毒消し――解毒剤は、地方によって成分が異なる。ミアレで売っている毒消しは、当然ミアレに生息するポケモンに合わせて作られている。だから、ハブネークの毒には効かなかったのだろう。この地域に生息しないポケモンの毒を解毒するには、病院に担ぎ込むのが一番確実だ。そう結論付けると同時に、俺は懐のスマホロトムに手を伸ばした。
「……ジプソさんに連絡を、」
「あかん」
「え」
間髪入れずに止めたのは、他でもないカラスバさんだった。彼は今にも死にそうな顔をしながら続ける。
「……通信、傍受されとるねん。居場所がバレたらこっちに来よるわ。それに、別の手段で信号は出したんや……あとはあいつが気付くのを待つしかあらへん」
「そんな……」
それはつまり、まだカラスバさんは敵に狙われたままだということだ。だからロズレイドがこうやって警戒していて――おそらく相棒のペンドラーや他の子たちは体躯が大きいから、隠れるのに向かなかったのだろう――身を隠していたのだ。
ならいったいどうすれば、と思考を巡らせ始めた俺にカラスバさんが声をかける。
「それより、すまん、ちょっと……手伝ぉてくれんか」
「! はい、俺にできる事ならなんでも」
間髪入れずにそう答えた俺に、カラスバさんはこう言った。
「……毒、吸い出してほしいねん」
「へ?」
想定していなかった言葉に間抜けな声が出た。カラスバさんが続ける。
「堪忍な、腕とかその辺なら……自分で、吸い出すん、やけど、傷口の位置が……ちょっと、な。――たぶん、このままやと間に合わへんねん……頼めるか」
このままだと、間に合わない。
その言葉にさぁっと血の気が引いて、俺はすっかり冷えたカラスバさんの体に縋りつくようにして言った。
「っ! 分かりました、それで助かるんですよね!?」
「はは、どうやろなぁ……ま、簡単にくたばるつもりはないで」
俺の必死な様子に、カラスバさんは小さく口角を上げて答える。顔色はさっきよりも悪い。急がなければ。
「それで、やられたのはどこですか。噛まれた……んですよね?」
「あぁ、そうや……その、この辺、なんやけど」
そう言って指差されたのは、真っ黒いスラックスに包まれた太もも。さらに言えば――内ももの上の方、足の付け根に近い辺りだった。どう考えても色々と際どいその位置に一瞬思考が固まりかけるが、そこには確かに滲む血液と何かが刺さったような痛々しい跡があって胸が痛む。
「堪忍な……見苦しいと思うけど、ちょお脱ぐから……頼むわ」
「っはい」
そう言ってカラスバさんがベルトを外そうとするも、麻痺が回ってきているのか手が震えてうまく外せないようだった。一刻を争う事態でもあるので、失礼を承知で代わりに俺がカラスバさんのベルトのバックルを外し、チャックを下げる。かちゃかちゃと鳴るベルトのバックルや、衣擦れの音が路地裏に小さく響く。そしてスラックスを下ろして現れたのは、黒い下着と、綺麗な生白い肌で……俺は思わず生唾を飲み込んだ。イケないことをしている気分になるけれど、これは人命救助、人命救助……と脳内で繰り返し唱えて余計な思考を振り払う。そもそも、現れた白い肌に浮かぶ痛々しい赤と紫色に心配が勝った。
「カラスバさん。痛いと思うので、これでも噛んでいてください」
そう言って俺は自分が羽織っていたブルゾンを脱いで、袖の部分をカラスバさんの口に押し付ける。返事はなかったが、小さい口が開いてジャケットの裾を噛んだのを確認した。それから俺は、カラスバさんの足をそっと割り開いた。少し開脚させて、その股座に顔を埋めるようなポーズになってしまうが、今は何も考えない。考えてはいけない。
「いきますよ、」
そう声をかけ、血が滲むそこを覆うように唇を押し付ける。そして、そのまま強く強く吸った。
「ふ、ぐぅ……!」
痛むのか、カラスバさんが苦しそうな声を上げて、屈んだ俺の肩を掴む。俺の咥内に鉄臭い血と、それに混ざって苦いようなピリピリするような、そんなものが流れ込んできた。口の中に溜まったそれを、そのまま脇に吐き捨てる。そして間髪入れずにもう一度、同じ場所へぢぅ、と吸い付いた。
「ん、っく……!」
ぴくり、カラスバさんの体が揺れた。それでも唇を離さずに、強く吸い続けているとじゅ、じゅる、と水音が響く。
「ぁ、う、っんぁ……!」
……頭上から、なんだかすごく、ものすごくいけないことをしているような、そんな声がする気がするが、これは人命救助。人命救助なのだ。
煩悩を振り払うように無心に毒を吸い出し、吐き捨てる作業を繰り返す。そのうちにピリピリする毒らしき液体が吸い出せなくなり、さらにどこからか足音が聞こえてきたので、俺は黙々とカラスバさんの足に止血を施して服を整えた。
「カラスバ様! ……キョウヤ様!?」
足音の主は、ジプソさんだった。聞き慣れた声に顔を上げたカラスバさんは、未だに青い顔色のままふっと笑う。
「やっと来よった……待ちくたびれたで」
「申し訳ございません、すぐ治療に参りましょう。主犯はすでに捕らえておりますのでご安心ください」
「さよか……キョウヤ、オマエもおいで。吐き出しとるとはいえ、オマエの体に影響がないとも言えんさかい、病院で診てもらい」
カラスバさんが冷静にそう言うのを、どこか放心状態のまま聞き届ける。ひとまずカラスバさんの危機は脱したようで、そう理解すると同時にずっと振り払っていた煩悩が襲い掛かってきた。
白く艶めかしい肢体、くぐもった苦悶の声、俺の肩をつかむ手の強さ――
「キョウヤ、大丈夫か?」
「は、はい!」
これ以上は考えてはいけない。それに怪我人相手だぞ、不謹慎だ! と、ぶんぶん首を振って、俺は慌ててジプソさんとカラスバさんの背を追って走り出した。
病院に駆け込んで適切な処置を受けたカラスバさんは、体内に残った毒は無事にすぐに解毒できたものの、怪我による高熱と、毒の影響による麻痺が消えるまでの間、一週間ほどの入院を余儀なくされた。ちなみに俺は、一時的にハブネークの毒を口に含んでいたものの、体内に入った量はごくごく僅かでほとんど影響はなく。もともとの頑丈さも相まって健康そのものだったので、診察したその日のうちにホテルへ帰された。
「キョウヤ、あの日はおおきに。命拾いしたわ」
退院の翌日、ホテルZにある俺の部屋へカラスバさんが訪ねてきた。
退院した直後、彼は「あの日の礼をさせてほしい」と律儀にも申し出て、アポイントを取り付けたのだ。退院初日はサビ組のこともありバタバタしていたようだが、そもそもある程度の仕事は入院中にもリモートで捌いていた(アウトローを謳っている割に、彼はそこらのリーマンよりもワーカホリックの気がある)とかで、さほど調整に時間はかからなかったのだそう。
「いえいえそんな! っていうか、退院した直後にこんなところまで来なくても、呼んでくれたら俺から行きますよ」
「お礼する相手を呼びつけるんはおかしいやろ?」
もうすっかりいつも通りの様子のカラスバさんは、あの日最後に見た血の気のない真っ青な顔から比べると血色もよく、体調は良さそうに見えてほっとした。とはいえ、歩き方が少しぎこちないのは、やはり足の付け根の傷が痛むからだろうか。
そう素直に思った瞬間、俺の頭にあの日の夜の光景が頭をよぎる。吐息交じりの苦悶の声と、顔色は悪いはずなのに、熱で少し上気した白い肌と――
「なんかお礼させてくれへん?」
「! え、と」
他でもないカラスバさん自身の声で邪な思考を中断する。何も知らずに穏やかな顔でこちらを見ている金の瞳からさりげなく視線を外した。必死に意識を逸らすけれども、一度想像してしまったものを消すのは難しい。熱が走った頬は、彼に気付かれているだろうか。カラスバさんは首を傾げながら、俺の目にかかった前髪を手で払って顔を覗き込んでくる。
「欲しいもんとか、オレが渡せるもんならなんでもええで」
(今そういうことしないでほしいんですけど!)
内心でそう叫びながら、俺はぎゅっと口の中を噛んで、変な気分になりそうな自分を必死に抑えた。
――けれどその時、視界の端で、赤く染まった己の耳を見て薄く笑ったカラスバさんに気付いて。からかわれているのか、そこは判断がつかないけれど。
なんでもええ、なんて。あんなお仕事してる人がきっと簡単に言うはずない言葉を言ったんだから。……少しくらい俺から近付いたって、きっと怒られない。
俺は赤くなった顔のまま、近い位置にある整った顔を上目遣いに見つめた。この人が、存外年下に弱いことを知っているから。勝率は少しでも上げないと。
「あ、の……カラスバさん」
「ん?」
もじもじと言いにくさで口ごもる俺を、カラスバさんは愉快そうに目を細めて眺める。そして、まるで背中を押すようにゆったりとした動きで、近頃徐々に丸みが抜けてきた、日焼けした俺の頬を撫でる。言ってみ? と、優しく促されている気分になって、俺は熱に浮かされたような心地のまま口を開いた。
「俺……あの日から変なんです」
頬に滑らされていた白く、骨張った手を掴む。自分と違って少し冷やりとした手は、俺を決して振り払わない。手首から辿って、腕、肩、首、そして端正なかんばせを視線で撫でてゆく。手を触れただけではなんの反応も示さなかった彼が、そんな俺の熱っぽい視線にはぴくりと肩を揺らした。
――この手が、爪が食い込むほど強く俺の肩を掴んで、熱と痛みで涙が滲んだ金色の目が今にも溶けそうで、噛み殺された声は、低くて苦しそうなのに妙に艶があって――
「カラスバさんを助けなきゃって、必死だったのに、……あの時のカラスバさんの声とか、体温とか……肌の感触とか。忘れられなくて」
はぁ、と熱い息を吐いたのは、どちらの方だったか。分からないけれど、俺はあの日、口に含んだ、何よりも甘くて強い毒に侵されたままだ。彼の手に己の指を絡める。
「俺、カラスバさんの毒にやられちゃったみたいです。お願い、助けてください」
熱っぽく、縋るような言葉を吐いたくせに、俺はきっとぎらついた炎を宿した雄の目をしていたと思う。
カラスバさんの喉が、ゆっくり動いた気がした。それから彼は余裕を見せるようにふっと笑って、俺の赤く染まった耳に囁く。
「……そら責任取らな、あかんなあ。――ほら、おいで」
その言葉を皮切りに、俺は目の前の小柄な体を掻き抱いて、ベッドの白いシーツの上に押し倒した。
そんな話を聞いたのはいつだったか。俺がサビ組に出入りするようになってしばらくしてからだった気がする。
サビ組のボス、カラスバさんと俺は不思議な関係だった。友達、よりは仲がいいような、かといって仲間でもなくて、でも隣にいると心地が良くて。カラスバさんも、俺のことはずいぶん気に入ってくれている……と思う。最近は「サビ組のカラスバさん」じゃなくて、年相応な素の表情を見せてくれたり、どこか優しい目で俺を見つめてくれている気がするから。……二人でいるときになんとなく甘やかな雰囲気が漂っているのは、さすがに俺の思い込みではないと信じたい。憧憬と甘い何かが混ざったような、そんな名状しがたい感情を彼に抱きながら、でもその感情に名前を付けることを避けてきた。
ある日、いつものようにZAロワイヤルに繰り出した俺は、なんだかいつもよりトレーナーの数が少ない気がして、今日は早めに切り上げようかな、なんて思っていた。とりあえず二十人をノルマにして駆け回り、それを達成したので赤いホロゲートから外に出る。早めに切り上げたとはいえ、それでも時刻は深夜だ。徹夜でのZAロワイヤルに慣れているけれど、せっかくなので早く帰ってちゃんとベッドで睡眠を取ろう。そう思って、ホテルまでの道をショートカットするため、いつものように屋根から屋根へと飛び回り始めた直後だった。
「……ん?」
人気のない路地裏の、さらに奥。ヤブクロンたちがたむろする物陰に蹲る影を見つけた。それだけなら特に目に留まらなかっただろう。俺の目を引いたのは、その影に寄り添うように立つ緑色のポケモンが、何かを守るように立っていたからだ。嫌な予感がして、俺はスマホロトムを引っ掴んで屋上から真っすぐ飛び降りる。ずいぶん警戒した様子のその子を刺激しないため、俺は自分の存在を知らしめるようにわざと足音を立てながら名前を呼ぶ。
「……ロズレイド?」
「! ロズ!」
声を覚えてくれたからか、ロズレイドは警戒を解いて俺の方を見た。そう、声を覚えているということは、このロズレイドは俺と面識がある子で間違いない。そして、そのロズレイドに守られるように蹲っている姿は、やはり。
「カラスバさん?」
もうすっかり見慣れた、彼の姿だった。薄汚れた壁に背中をつけて座り込んだ彼は、俺の声に反応して顔を上げた。
「は、キョ……ヤ、」
白い月明かりに照らされてぼんやり浮かび上がったカラスバさんの顔を見て、俺はひゅ、と息をのんだ。いつもきれいに整えられた髪は乱れ、ただでさえ白い顔は青ざめている。唇も真っ青で、額には脂汗が滲んでいた。さらには肩で息をしている尋常じゃない姿に、俺は思わず傍らに膝をついてその肩に手を添えた。
――とんでもなく熱い。高熱だ。
「ど、どうしたんですか! 体調悪いんですか!?」
「ちょっと、な……う、ぐぅ……」
「カラスバさん!」
血相を変えた俺にカラスバさんは小さく笑おうとして、しかしどこかが痛むのか顔を歪めて低く呻いた。予想外の事態に動揺して、どうしたらいいか分からずただ慌てるしかない俺だったが、その時ふと何かの匂いを感じて固まった。傍らにいるロズレイドの薔薇の香りにかき消されて気付かなかったけれど、鉄臭い嫌なにおいがする。――それは、カラスバさんから漂ってくる血の匂いだった。思わず言葉を失う俺に、カラスバさんは苦しそうに口を開く。
「キョウヤ……ハブネークって、知っとるか」
「え? えっと、ホウエンかどっかの毒蛇ポケモンですよね? なんで急に…」
スクールで習ったことがある。ハブネークの毒は、麻痺、高熱を引き起こす。
「……まさか」
「察しええなぁ、……やられてもたわ」
そう言って力無く笑うカラスバさんに、俺は目を見開いた。
「ミアレには生息してないし、そもそも持ち込みすら禁止されてますよね!?」
「あぁ、やから……密航というか、そういう裏ルートやろな……普通の毒がオレに効かんからって、ご苦労なことやで」
毒に耐性があると言っていたカラスバさん。その体質を分かったうえで、わざわざ、この人を害するために。ミアレにいるはずのない毒タイプのポケモンまで連れてきたのか。
そして、この人を、傷つけた。
その事実だけでカッと目の前が赤くなるような心地がしたけれど、それよりも目の前で苦しむカラスバさんの姿になんとか我に返る。
カラスバさんの手元には、空になった毒消しが握られている。それでも解毒できていないということは、効かなかったのだろう。人間用の毒消し――解毒剤は、地方によって成分が異なる。ミアレで売っている毒消しは、当然ミアレに生息するポケモンに合わせて作られている。だから、ハブネークの毒には効かなかったのだろう。この地域に生息しないポケモンの毒を解毒するには、病院に担ぎ込むのが一番確実だ。そう結論付けると同時に、俺は懐のスマホロトムに手を伸ばした。
「……ジプソさんに連絡を、」
「あかん」
「え」
間髪入れずに止めたのは、他でもないカラスバさんだった。彼は今にも死にそうな顔をしながら続ける。
「……通信、傍受されとるねん。居場所がバレたらこっちに来よるわ。それに、別の手段で信号は出したんや……あとはあいつが気付くのを待つしかあらへん」
「そんな……」
それはつまり、まだカラスバさんは敵に狙われたままだということだ。だからロズレイドがこうやって警戒していて――おそらく相棒のペンドラーや他の子たちは体躯が大きいから、隠れるのに向かなかったのだろう――身を隠していたのだ。
ならいったいどうすれば、と思考を巡らせ始めた俺にカラスバさんが声をかける。
「それより、すまん、ちょっと……手伝ぉてくれんか」
「! はい、俺にできる事ならなんでも」
間髪入れずにそう答えた俺に、カラスバさんはこう言った。
「……毒、吸い出してほしいねん」
「へ?」
想定していなかった言葉に間抜けな声が出た。カラスバさんが続ける。
「堪忍な、腕とかその辺なら……自分で、吸い出すん、やけど、傷口の位置が……ちょっと、な。――たぶん、このままやと間に合わへんねん……頼めるか」
このままだと、間に合わない。
その言葉にさぁっと血の気が引いて、俺はすっかり冷えたカラスバさんの体に縋りつくようにして言った。
「っ! 分かりました、それで助かるんですよね!?」
「はは、どうやろなぁ……ま、簡単にくたばるつもりはないで」
俺の必死な様子に、カラスバさんは小さく口角を上げて答える。顔色はさっきよりも悪い。急がなければ。
「それで、やられたのはどこですか。噛まれた……んですよね?」
「あぁ、そうや……その、この辺、なんやけど」
そう言って指差されたのは、真っ黒いスラックスに包まれた太もも。さらに言えば――内ももの上の方、足の付け根に近い辺りだった。どう考えても色々と際どいその位置に一瞬思考が固まりかけるが、そこには確かに滲む血液と何かが刺さったような痛々しい跡があって胸が痛む。
「堪忍な……見苦しいと思うけど、ちょお脱ぐから……頼むわ」
「っはい」
そう言ってカラスバさんがベルトを外そうとするも、麻痺が回ってきているのか手が震えてうまく外せないようだった。一刻を争う事態でもあるので、失礼を承知で代わりに俺がカラスバさんのベルトのバックルを外し、チャックを下げる。かちゃかちゃと鳴るベルトのバックルや、衣擦れの音が路地裏に小さく響く。そしてスラックスを下ろして現れたのは、黒い下着と、綺麗な生白い肌で……俺は思わず生唾を飲み込んだ。イケないことをしている気分になるけれど、これは人命救助、人命救助……と脳内で繰り返し唱えて余計な思考を振り払う。そもそも、現れた白い肌に浮かぶ痛々しい赤と紫色に心配が勝った。
「カラスバさん。痛いと思うので、これでも噛んでいてください」
そう言って俺は自分が羽織っていたブルゾンを脱いで、袖の部分をカラスバさんの口に押し付ける。返事はなかったが、小さい口が開いてジャケットの裾を噛んだのを確認した。それから俺は、カラスバさんの足をそっと割り開いた。少し開脚させて、その股座に顔を埋めるようなポーズになってしまうが、今は何も考えない。考えてはいけない。
「いきますよ、」
そう声をかけ、血が滲むそこを覆うように唇を押し付ける。そして、そのまま強く強く吸った。
「ふ、ぐぅ……!」
痛むのか、カラスバさんが苦しそうな声を上げて、屈んだ俺の肩を掴む。俺の咥内に鉄臭い血と、それに混ざって苦いようなピリピリするような、そんなものが流れ込んできた。口の中に溜まったそれを、そのまま脇に吐き捨てる。そして間髪入れずにもう一度、同じ場所へぢぅ、と吸い付いた。
「ん、っく……!」
ぴくり、カラスバさんの体が揺れた。それでも唇を離さずに、強く吸い続けているとじゅ、じゅる、と水音が響く。
「ぁ、う、っんぁ……!」
……頭上から、なんだかすごく、ものすごくいけないことをしているような、そんな声がする気がするが、これは人命救助。人命救助なのだ。
煩悩を振り払うように無心に毒を吸い出し、吐き捨てる作業を繰り返す。そのうちにピリピリする毒らしき液体が吸い出せなくなり、さらにどこからか足音が聞こえてきたので、俺は黙々とカラスバさんの足に止血を施して服を整えた。
「カラスバ様! ……キョウヤ様!?」
足音の主は、ジプソさんだった。聞き慣れた声に顔を上げたカラスバさんは、未だに青い顔色のままふっと笑う。
「やっと来よった……待ちくたびれたで」
「申し訳ございません、すぐ治療に参りましょう。主犯はすでに捕らえておりますのでご安心ください」
「さよか……キョウヤ、オマエもおいで。吐き出しとるとはいえ、オマエの体に影響がないとも言えんさかい、病院で診てもらい」
カラスバさんが冷静にそう言うのを、どこか放心状態のまま聞き届ける。ひとまずカラスバさんの危機は脱したようで、そう理解すると同時にずっと振り払っていた煩悩が襲い掛かってきた。
白く艶めかしい肢体、くぐもった苦悶の声、俺の肩をつかむ手の強さ――
「キョウヤ、大丈夫か?」
「は、はい!」
これ以上は考えてはいけない。それに怪我人相手だぞ、不謹慎だ! と、ぶんぶん首を振って、俺は慌ててジプソさんとカラスバさんの背を追って走り出した。
病院に駆け込んで適切な処置を受けたカラスバさんは、体内に残った毒は無事にすぐに解毒できたものの、怪我による高熱と、毒の影響による麻痺が消えるまでの間、一週間ほどの入院を余儀なくされた。ちなみに俺は、一時的にハブネークの毒を口に含んでいたものの、体内に入った量はごくごく僅かでほとんど影響はなく。もともとの頑丈さも相まって健康そのものだったので、診察したその日のうちにホテルへ帰された。
「キョウヤ、あの日はおおきに。命拾いしたわ」
退院の翌日、ホテルZにある俺の部屋へカラスバさんが訪ねてきた。
退院した直後、彼は「あの日の礼をさせてほしい」と律儀にも申し出て、アポイントを取り付けたのだ。退院初日はサビ組のこともありバタバタしていたようだが、そもそもある程度の仕事は入院中にもリモートで捌いていた(アウトローを謳っている割に、彼はそこらのリーマンよりもワーカホリックの気がある)とかで、さほど調整に時間はかからなかったのだそう。
「いえいえそんな! っていうか、退院した直後にこんなところまで来なくても、呼んでくれたら俺から行きますよ」
「お礼する相手を呼びつけるんはおかしいやろ?」
もうすっかりいつも通りの様子のカラスバさんは、あの日最後に見た血の気のない真っ青な顔から比べると血色もよく、体調は良さそうに見えてほっとした。とはいえ、歩き方が少しぎこちないのは、やはり足の付け根の傷が痛むからだろうか。
そう素直に思った瞬間、俺の頭にあの日の夜の光景が頭をよぎる。吐息交じりの苦悶の声と、顔色は悪いはずなのに、熱で少し上気した白い肌と――
「なんかお礼させてくれへん?」
「! え、と」
他でもないカラスバさん自身の声で邪な思考を中断する。何も知らずに穏やかな顔でこちらを見ている金の瞳からさりげなく視線を外した。必死に意識を逸らすけれども、一度想像してしまったものを消すのは難しい。熱が走った頬は、彼に気付かれているだろうか。カラスバさんは首を傾げながら、俺の目にかかった前髪を手で払って顔を覗き込んでくる。
「欲しいもんとか、オレが渡せるもんならなんでもええで」
(今そういうことしないでほしいんですけど!)
内心でそう叫びながら、俺はぎゅっと口の中を噛んで、変な気分になりそうな自分を必死に抑えた。
――けれどその時、視界の端で、赤く染まった己の耳を見て薄く笑ったカラスバさんに気付いて。からかわれているのか、そこは判断がつかないけれど。
なんでもええ、なんて。あんなお仕事してる人がきっと簡単に言うはずない言葉を言ったんだから。……少しくらい俺から近付いたって、きっと怒られない。
俺は赤くなった顔のまま、近い位置にある整った顔を上目遣いに見つめた。この人が、存外年下に弱いことを知っているから。勝率は少しでも上げないと。
「あ、の……カラスバさん」
「ん?」
もじもじと言いにくさで口ごもる俺を、カラスバさんは愉快そうに目を細めて眺める。そして、まるで背中を押すようにゆったりとした動きで、近頃徐々に丸みが抜けてきた、日焼けした俺の頬を撫でる。言ってみ? と、優しく促されている気分になって、俺は熱に浮かされたような心地のまま口を開いた。
「俺……あの日から変なんです」
頬に滑らされていた白く、骨張った手を掴む。自分と違って少し冷やりとした手は、俺を決して振り払わない。手首から辿って、腕、肩、首、そして端正なかんばせを視線で撫でてゆく。手を触れただけではなんの反応も示さなかった彼が、そんな俺の熱っぽい視線にはぴくりと肩を揺らした。
――この手が、爪が食い込むほど強く俺の肩を掴んで、熱と痛みで涙が滲んだ金色の目が今にも溶けそうで、噛み殺された声は、低くて苦しそうなのに妙に艶があって――
「カラスバさんを助けなきゃって、必死だったのに、……あの時のカラスバさんの声とか、体温とか……肌の感触とか。忘れられなくて」
はぁ、と熱い息を吐いたのは、どちらの方だったか。分からないけれど、俺はあの日、口に含んだ、何よりも甘くて強い毒に侵されたままだ。彼の手に己の指を絡める。
「俺、カラスバさんの毒にやられちゃったみたいです。お願い、助けてください」
熱っぽく、縋るような言葉を吐いたくせに、俺はきっとぎらついた炎を宿した雄の目をしていたと思う。
カラスバさんの喉が、ゆっくり動いた気がした。それから彼は余裕を見せるようにふっと笑って、俺の赤く染まった耳に囁く。
「……そら責任取らな、あかんなあ。――ほら、おいで」
その言葉を皮切りに、俺は目の前の小柄な体を掻き抱いて、ベッドの白いシーツの上に押し倒した。
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