退屈した天才と
「事情はわかった」
京の説明を聞いた万里は話を聞く間ずっとしていた腕組みをやめて別段ずり落ちているわけでもない眼鏡の中心に指を当てて言った。
「……」
友一は何も返さずにポケットに手を突っ込んで横を向いて立って目だけ万里のほうに向けて反応を窺っていた。
「そういうことなんだよ! 万里兄ちゃん! よかったぁ!」
わかってもらえたとパッと顔を明るくする京が話した内容は、お互いの死生観の相違で話し合いになり、それが口論にまで発展してしまい、あげくには度胸試しをしようということになってしまったのだが、京が先に落ちようとしたところを友一が寸前で臆病風に吹かれて止めたという、多分に嘘を多く含んだものであった。
「だが、仮にたとえそうだとしても、到底許せることではない。片切友一、俺には貴様が京を唆したようにしか見えない、たとえ助けてくれたとしてもだ。俺の知る京は確かに自信過剰でなんでもできると思っているが必要もないのに軽率にそのようなことはしない。京がそう言うからには一応礼を言おう。ありがとうと」
うつむき加減だった万里が顔を上げて手を退けて鋭く射貫くような目で友一を見て低めた声で言う。
「しかし、どのみち京に危ないことをさせた事実は変わりないのだから、殴られる覚悟は当然できているだろうな」
『ハッ』と軽く笑って、友一はくるりと向き直り、ポケットに手を突っ込んだまま万里に近付いて寸前で止まる。
「……どうぞ。抵抗はしませんから。好きなだけ殴れよ」
しばしじっと友一を探るような目で見てから、ニヤニヤしている友一に万里は『いいだろう』と言ってひとつ大きくうなずくと、顔を上げて友一を見た。
「ここで殴らなければ男ではない」
万里が友一の胸倉をつかんだ。
……バキィッ!!
固く握りしめられた拳が勢いよく振り上げられて友一の顔に激しく当たる。
あらかじめ歯を食いしばっていた友一のあごの下らへんから頬にかけて強い衝撃を受けてわずかに体が揺れたものの友一はそれを耐えて受け止めて正面を向いたままでいた。
……ガツッ!!
第二弾の先ほどより早い拳が先ほど殴られたばかりの頬に来たが、それも黙ったまま受けて、友一は避ける素振りもなくおとなしく立っていた。
……ゴッ!!
第三弾が今度は微妙に位置を変えてすでに真っ赤になっている友一の頬よりも少し上のこめかみ辺りに当たる。
決して声を上げずに、目を閉じてそれを受けて、友一は抵抗もせずにされるがままになっていた。
「待って、万里兄ちゃん、もうやめて!!」
頬はもちろん口の中を切ったのか口の端から血を流している友一にさらに容赦なく拳を食らわそうとする万里に、傍で蒼白になって見ていた京が、耐え切れずに飛び出してふたりの間に割って入る。
「邪魔をするな、京、退いていろ」
怒りのあまりにか、普段温厚な万里に冷たく吐き捨てられてビクリとして身を強張らせた京だが、両手をバッと開いて友一の前に立って必死に訴えた。
「僕のせいなんだよ!! 僕が悪いんだ!! これ以上殴るなら僕にしてよ!!」
フーと息を吐きながら自身の熱を持って赤くなった震える拳をもう片方の手で包んで押さえながら万里が友一をにらみ据えたまま京に向けて冷静に問う。
「何故こんな奴を庇う? 京、お前、こいつに何を言われた? お前のせいとはどういうことなんだ?」
京はうつむいて唇を噛みしめて厳しく追及する万里の声を聞いて、少しの間は黙り込んでいたものの振り払うように激しく首を横に振って、顔を上げた。
「僕が呼び出して……友一先輩は嫌々付き合ってくれて……僕が万里兄ちゃんが迎えに来るまで危ないから一緒にいてくれたし……。責任の一端がないとは言えないけど、でもそれだって、僕があれこれと聞いてヒドいこと言っちゃったせいだし……。先輩はそれでも一度も僕を責めなくて……」
黙って聞いていた万里が眼鏡に手を当てていまいましげにきっぱりと言う。
「だから、それがこいつの手なんだ、京に罪悪感を持たせようとしてのことだろう」
京の顔が悲壮に歪んだ。
「そんなわけない!! 僕が先輩を傷つけたせいなんだから!! 万里兄ちゃんは何も知らないからっ……!!」
京の言葉にピクンとして万里は片方の眉をわずかに動かしてうつむいて口元を微かな笑みに歪めている友一から視線を外して目の前にいる京に移す。
「『何も知らない』だと?」
不可解そうに京を生まれて初めて見た相手というようにまじまじと見て万里は言葉をゆっくりと繰り返してそれからほんの少し眉をひそめた。
「……何も知らなくはない。こいつがどんな人非人だか百太郎にしたことだけでじゅうぶんだ。こいつはとんでもない悪童で極悪非道な人でなし……だな。そんなことは京だってわかっているはずだ。なのに何故そんなことを言う?」
悄然としている京には背後の友一の顔が見えない。
「だって……先輩には優しいところもあるって……僕は……」
『はぁ』と短くため息を吐いた万里が、目を上げてチラと腹立たし気に友一を鋭く一瞥し、京の両肩をつかんで揺さぶった。
「京、俺が何も知らないだなんて、そんな悲しいことを言うな。俺は京のことをよく知っている。優しいからこんな奴に付け込まれるんだ。お前は騙されている。こいつに何を吹き込まれたか知らないが少し冷静になって考えてみろ」
京が目を見開いて万里を凝視して大きく両腕を振って万里の手を振り払う。
「違うよ!! 僕は冷静だ!! ちゃんと考えてのことだ!!」
怒りに顔を赤くして万里をにらみつけてむきになって怒鳴る京に、またひとつため息を吐いた万里は苦い顔をして、京の背後でうつむいていて見えにくいものの口元をニヤニヤさせている友一を切れ長の細い目で見据えた。
「よくもやってくれたな」
顔を上げて、ニコリと目を細めて笑い、友一は首を傾げてとぼける。
「なんのことッスか?」
怪訝そうにおそるおそる背後を振り向いた京はその妙な雰囲気に自分より背の高いふたりを不安そうに交互に見上げる。
「あんたに殴られたのは俺のほうッスよ?」
「そのことではない」
「さぁ、遠慮なく続きをやってくださいよ、まだ殴り足りないんでしょう!?」
挑発するように言ってから友一は京のほうに向けて妙に優し気に言う。
「京、止めるなよ、本当に……悪いのは俺なんだから」
眉をひそめてふたりの間でただ呆然と突っ立っている京を万里の手が強く横に押しのけた。
「安心しろ、京、もう殴りはしない」
一言言ってから、改めて友一と真正面から向き合い、不愉快そうにしかめ面で苦々しい口調で言う。
「それから貴様をこれ以上悪く言うこともしない。思う壺だからな。京が優しくするというなら俺も貴様には優しくしてやろう。同情ではない。京のためだ。ただし俺は貴様を絶対に許すことはない。限界などとうに超えている」
『そッスか』と笑顔で言う友一を鋭くにらみつけてから万里は京のほうを向いた。
「京」
「うんっ!」
……バシッ!!
目を閉じて歯を食いしばっている京の横っ面を万里が大きな手のひらで派手な音を立つほど強く叩いた。
「あいったぁ~」
情けない声を上げてその場にうずくまり涙目で叩かれた頬を手で押さえている京に万里が冷静ではあるものの怒りを含んだ低い声で厳しく言い聞かせる。
「俺がどれだけ心配したと思っている。仲間のみんなも必死になって捜していたんだぞ。当然みんなも心配していた。千聖は胃に穴が開きそうだというし。百太郎などは泣きそうになっていた。反省するんだな」
京はしゃがみこんだまま、おそるおそる顔を上げて、無表情で腕組みをして威圧的に自分を見下ろしている万里にしょんぼりとしてボソボソと言う。
「うん。ごめんなさい……万里兄ちゃん。あとみんなにも謝っといて」
「自分できちんと謝罪を……」
言いながら京を抱き上げようとする万里の手から『あっ』と言って慌てて京はさっとその場から逃げ出して距離を取って手を前に出して万里を拒絶した。
「待って!! た、叩かれるのはいいけど……、万里兄ちゃん、僕を抱えて連れて帰る気でしょ、ちょっと待って!! 僕は一緒に帰れないから!!」
瞬間、顔を上向けた万里の眼鏡の奥の瞳が、不愉快そうに細められる。
「何だと?」
京は殴られて赤く腫れた頬を隠そうともせずにただ黙って突っ立ってふたりの様子をじっと窺っている友一のほうをビシッと指さす。
「この人、僕がいないと死んじゃうから、寂しくて!!」
友一が憮然として『俺はウサギかよ』とぼやく。
「友一先輩が無事に家に帰るまで僕が守りたいんだ。僕が万里兄ちゃんに会えるまで街で危険な目に遭わないようにって僕と一緒にいてくれたから。恩返しがしたいんだよ。僕がそうしたいんだ。してもらったことは返したほうがいいって万里兄ちゃんもそう思うでしょ?」
『ねっねっ』と焦った様子で笑顔で同意を求める京に万里は友一をチラと見て『無駄無駄……』とさらに続けようとしていったんピタリと口を閉じて改めてまた口を開いた。
「こいつに人間の情などない。こいつと出会った人間が危険で心配だからというのならまだわかるが。京、こいつは『可哀想な人間』などではない、お前ならそれくらいわかるだろう?」
京はバッと友一の前に飛び出して庇うように両手を広げて仁王立ちして必死の形相で言った。
「わかるよ!! 友一先輩は別に可哀想じゃないことも!! 僕を利用してるってことも!! 全部わかってるけどそんなことはどうでもいいんだ!! これは僕の問題なんだよ!! 一方的に守られてそれで何もせずに済ませるだなんてこの僕ができるわけないじゃん!!」
プライドを持ち出した京に背後で友一は『うわ……』と言って青ざめて苦虫を噛み潰したような顔をしてため息を吐いて万里に向けて言う。
「いやあの、気にせず連れて帰ってくださいよ、面倒臭いんで」
その言葉にいっそう険しい顔をする万里と慌ててバッと後ろを振り向いて何かわめこうとする京に先んじて友一が言う。
「飛び降りたりしねぇよ」
「嘘だ!!」
「いやもうその元気はないよ」
「そう言って先輩は誤って落ちただけみたいなことするんだ!!」
「京、お前、俺のことをどう思ってるんだよ!!」
「他人を痛めつけるためなら自分が痛いのも我慢できる人」
冷静に言う京の言葉にさすがに頭が痛むというように手で額を押さえて友一が苦笑する。
「いや……そう思われても仕方がないのかもしれないが……そういう奴についてくる京はどうなんだよ?」
おかしくなったようにくっくっと笑いながら友一は京の頬をつねる。
「痛いの好きなマゾなのか? それとも我慢できるからか? 痛い目に遭いたくなければおとなしくお家に帰るんだな!」
ぐにっと自分の頬をつねっている友一の手をバシッと手ではたき落として京はまた万里に訴える。
「友一先輩はこういう人だから!! そんなことちゃんとわかってるし!! まだ先輩と話が済んでないから!! だから僕は今日は帰らないんで万里兄ちゃん適当に親に言っておいて!! お願いだよ!!」
切実に訴える京に、うつむき加減で黙ってふたりのやりとりを見ていた万里が眼鏡を手で直し、顔を背けてゆっくりと口を開く。
「……昔から京は言い出したら他人の言うことなど効かないからな……」
諦めの口調で言って、京に慈しみの目を向けて、優しく微笑む。
「その代わり、何かあったら連絡を入れるんだぞ、電源を切るのもなしだ」
『やった!』と顔を明るくして『うん!』と嬉しそうにニコニコとする京とその後ろで『げっ』と言って嫌そうなしかめ面をする友一と。
「おい、ちょっと、こんなクソガキ押し付けないでくださいよ。俺困ってるって言ったじゃないッスか。ちゃんと聞いてました?」
弱ったと頭に手を置いてヘラヘラと愛想笑いをする友一を無視して万里は京の肩に手を置いて言う。
「尻は叩いてもいいんだな」
「あ……それは……先輩の前だし、男として、できれば顔のほうが……」
「殴っても蹴られてもお前は反省などしないし、恥辱をくわえられたほうが懲らしめられるということを、俺は知っている」
「あ……えっと……でも」
「さっき叩かれてもいいと言っていた」
「うっ」
真っ赤になってうつむき恥ずかしさを堪えるために拳を握る京に迫る万里との間に横からヘラヘラとした友一が『まぁまぁ』と割って入った。
「一発叩いたことですし、ここはよしましょうよ、俺は3発しか食らってないんだし。拳と平手打ちで差はありますけど。おしおきなら無事に家に帰ってからということで」
万里は考え込む様子を見せてから、京の肩から手を外し、地面のビニール袋を持ち上げた。
「鞄は千聖が拾っていたぞ」
謎のビニール袋の出番にビクッとしているふたりにお構いなしにマイペースに万里が言う。
「それでこれなんだが」
ズイッとふたつのパンパンになったビニール袋を友一のほうに差し出して胸に押し付けるようにする。
「お前は心が貧しいのだよ」
おそるおそる受け取った友一は用心しいしい片方のビニール袋の両端を広げて中を覗き込み、片方を腕にさげているために低い位置にあるそれを横から京も覗き込み、ふたり同時に安堵のため息を吐いてから不思議そうな顔をする。
「あの、何スか、これ?」
友一の問いに腰に手を当てて胸を張って立っていた万里が当然だというように平然として答える。
「開運グッズだ。そこらの店で買えるだけ買い込んできた。それを持っていればお前も少しは明るくなるだろう。心にも余裕というものが必要だ。本来は京の代わりにと思ったが、そういうことなら仕方がない、安心して受け取って帰るがいい」
頬に冷や汗を垂らして、中に入った招き猫などを見て真っ赤になって『うーんうーん』と難しい顔でうなっていた友一は、やがて目を開くと言った。
「あの~、激しくいらないんスけど、最悪もし売ってもいいってことならで」
「構わん」
「そッスか。じゃあ……。契約の品みたいな形で……」
横で『わぁっ、怪しげなブレスレットだ、この青い目玉はトルコのお守りのナザールボンジュウですよ!』とはしゃいでいる京を見て友一はガックリと肩を落とす。
「とりあえず京は明日きちんとお帰ししますんで」
『解放するって意味ですよ』とまた困ったように力なくヘラヘラとした笑みを浮かべて言う友一に腕組みをして答えを待っていた万里はこっくんと深くうなずく。
「お前がそういう男なら少しは安心だ」
『フッ』とニヒルに笑んで、万里はくるりと踵を返し、途中で振り向いて京に向けて言う。
「勝負はおあずけだ」
京は『望むところです』と無邪気そうに明るく笑って言って元気に『万里兄ちゃんまた明日ねーっ!』と公園を出ていく背中に向けてあげた手をぶんぶんと横に振る。
「……」
友一はビニール袋を手に唖然としてそれを見送った後に疲れ切ったようにうなだれて呆れ顔でぼやく。
「ところどころ意味がわからなかった、京もおかしいと思うけど、あの万里って奴も相当おかしいぞ……」
隣で『失礼ですね!』と憤慨する京を片目で見やってこれからのことを考えて友一は『どうするかな』と呟いた。
(おしまい)