🦊🌸


 まずい、と思った。特に最近の距離感では尚更まずいと思った。
 開放したままの部室のドアの向こうに、体育館から戻って来たらしい流川の気配がある。花道のルーティンである居残り練習も終えて水銀灯も蛍光灯も明かりを落としてしまった広い暗闇の中、体育館の屋根と窓に絶えず打ち付けている強い雨音がさらに居心地を悪くする。汗を拭いたらすぐ帰るからと面倒がって部室の照明を点けなかったことを、花道はとても後悔した。
「……ル、」
 バタン、と音を立てて雑に閉められたドアに恐怖すら覚える。明かりのない部室で流川と二人きりになると何が起こるか、花道は既に学習しているからだ。
 流川が一歩踏み出したので、花道は一歩下がる。キュ、キュ、と足音が交互に数回響いたところで、花道の背中が部室の壁に当たった。それを見逃さなかった流川の白い腕が勢い良く伸びてきて、逃げ道を塞ぐように花道の身体を閉じ込める。――もう逃げられない。
「ルカワ」
 伸びていた腕がゆっくり曲げられて、さらに距離が縮まった。ここまで近付いてようやく花道の瞳が流川の表情を捉える。てっきりツンとしたドライな表情でいるかと思いきや、感情を殺して何かを堪えているような複雑な色をその端正な顔に浮かべていた。
 きゅっと閉じていたはずの唇から、嘆息にも近い熱い吐息が抜けていくのが分かった。やがて鼻先が触れ合い、頭の隅で「ネコの挨拶みてー」と余計なことを考えているうちに、花道の唇にはほんの少し冷えた柔らかさが重ねられて、むにゅりと可愛く潰れたのだった。それきり外の雨音も忘れてしまった。

 欲しくてたまらないものがすぐ手の届くところにある。貪欲な流川にとってこれほど嬉しい状況はない。
 のそのそと部室に戻って来てからどれくらいの間こうしているか全く意識していなかったが、外では変わらず強い雨が降り続いていた。うるさくてたまらない。自分の耳を塞ぐ代わりに、まずは花道の首にそっと両手を這わせて、その親指を花道の耳に蓋をするように被せてしまった。残りの指は触り心地の良い後頭部にそろそろと伸ばす。魅力的な赤い髪がまた少し伸びていた。――それがすぐ分かってしまう程に、流川は花道に惹かれていた。
「んむっ」
 首に回されていた花道の手がそっと降りてきて、少し強い力で流川の胸をトンと打つ。衝撃に乗せられた言葉は流川に伝わりはしたものの、ようやく捕らえた愛しい熱を易々と手放す気は起こらず、その後花道の膝が腹に食い込んでくるまで離れようとはしなかった。
 ようやく緩く結びかけたリボンのように絡ませていた舌を解いて唇を離すと、遠くの街灯のほのかな灯りを受けた銀色の糸が短く伸びた。真ん中から指を入れて切る気は何故だか起こらなくて、一旦離した右手の親指の腹でぎゅっと唇を拭い、同じことを花道の唇にもした。その柔らかな感触と温度を確かめるように、ゆっくりと横に引きながら。
「テメー、なんのつもりだ……」
「……やわらけー」
「い……いい加減離しやがれっ」
 相変わらず花道の唇を指で弄ぶ流川にカチンと来て、ついに花道はその手を払いのけてしまった。そうして流川が一瞬狼狽えたのを見逃さず、一歩踏み出してさっさとこの暗闇から抜け出そうとする。
「おい」
 ――したのだが、失敗した。流川の足が壁を蹴りつけて花道の退路を塞いでいる。
「ま、まてっ」
「待たねー」
 花道のつれない態度に、流川もまたカチンときたらしい。またすぐに距離が縮まって体温が二乗されていく。髪の感触、頬の柔らかさ、ついでに花道の脚の間に差し込んだ膝に伝わってくる生理的な硬さ、不規則で扇情的に混ざり合う唾液の音と二人分の熱い呼吸。少し冷えた外の環境とは対照的だった。

 しかし、これ以上はいけない――と、まだ冷静さを保っていた流川の理性が不意に囁く。
「はなみち」
 変わらぬ至近距離で呼ばれた名前に花道の耳は蕩けてしまった。返事をするより前に腰が抜けてずるずると体が落ちていく。一緒に姿勢を低くして支えてやると、縋りつくように伸びてきた花道の両腕が流川の背中をしっかりと抱きしめて、険しい表情とは裏腹に甘えるような声を漏らした。
「……んだよ」
「お前んち行く」
「は……?」
「続きはお前んちでする」
 今度は首に歯を立てて嚙みついた。花道が再び悩ましい声を漏らしたので、流川はもはや何とか自我を保つことで頭がいっぱいだった。
「急なんだよ……いつもいつも……」
 こうして暗い部室で触れ合うのは初めてではないから、流川には分かる。この時の花道の挙動はいつも対照的だ――今だって不機嫌そうな声色で文句を言いながら、流川の体を抱きしめる腕の力は全く抜いていない。むしろさらに力を込めて密着しようとまでしている。
 肩に乗せられた可愛らしい坊主頭をゆっくり撫でながら「帰ろう」と囁くと、返事の代わりに花道の瞼がゆっくりと閉じられた。
 その瞼に衝動に任せてキスをするのは、熱に浮かされた後で囁く「おやすみ」の時まで取っておくことにした。

 雨はまだ降り止みそうにない。

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