スペア/Will.A.Spencer
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天井まで届く高い窓に、冬のオリオンがのぼる。
漆黒のビロードの空に点々と散りばめられた星の輝きは、彼方の地から何万年、何十万年も前に発せられた光だという。
途方もなく、遠く、暗く、孤独な旅路。
長い道のりを、何を思い、突き進んできたのか。
ただひたすら、まっすぐに。
深夜の控えめなノックの音に、「入れ」と小さく言い捨てた。
夜更けの訪問者は限られている。
扉の向こうの人物が誰かわかっての返答だ。
「起きていたのか、ウィル」
「……」
まさか、弟の寝顔でも見てから出ていこうと、この期に及んでセンチメンタルに駆られたわけでもあるまいに、兄スティーヴは悪びれもなく言った。
起きているに決まっているだろう。
スティーヴが王位を捨てて医者になると言い出したときから、俺の眠れぬ夜は続いている。
片手にキャリーバッグを引いているところをみると、今夜、スティーヴの計画は「決行」されるらしい。
小さな荷物にとどまっているのは、ずっと前から周到に住む場所や家財道具が準備されていた証だ。
俺に笑いかけていた陰で、俺の知らないうちに、スティーヴは裏切りのプロジェクトを進めていた。
なんの感情も持つまいと決めたはず心臓が、素手で強く握られたみたいにひどく苦しい。
「まるで夜逃げだな。一国の王子が」
「もう王子じゃないさ」
精一杯の皮肉の言葉にも、スティーヴの顔は曇らなかった。
晴れやかに澄んだ瞳には、すでに、王子でない未来の日々が映っているのだろう。
「セシルは……どうするつもりだ」
セシル=ジェルマンは、スティーヴの婚約者だ。
彼女は”王位は継承権第一位の者に嫁がせる”という家同士の政略結婚の契約でフィアンセの立場にあったが、セシルがスティーヴを愛していることを、俺は知っている。
そして、おそらくスティーヴも。
この件の騒動ではたったひとつスティーヴの弱点だったのか、淡々としていた兄の表情がわずかに曇った。
「国王も、ジェルマン家も、契約の破棄はしないそうだ。もともと王位継承権第一位の者と結婚するという約束だったからな。結婚する相手が俺からお前になっただけのことだ」
「セシルを諦められるのか? ……愛しているのに」
スティーヴは首を振った。
「すべてを手に入れるなんて、できっこない。彼女はお前の妻になる」
政略結婚で、親が決めた歳の離れた相手や結婚式で初対面になる相手と結ばれることは珍しくはなかった。
家の存亡をかけた結婚は、貴族社会では今でもごく普通に行われている。
貴族として生まれた人間は、恋愛感情を抜きにした結婚を少なからず覚悟しているものだ。
でも、スティーヴとセシルは惹かれあった。
それがどんなに奇跡的で、幸せなことか。
スティーヴは王になる道を捨てたが、セシルはたとえスティーヴが王でなくても、彼とともに生きる道を選ぶだろう。
スティーヴが王家の血筋の者であることに変わりはないのだから、ジェルマン家側もスティーヴの熱意次第で、鷹揚な対応をしてくれる可能性はある。
なのに、スティーヴは王家から逃げ、セシルからも逃げた。
何もしないままに。
「捨てるのか、セシルを。彼女は、モノじゃない」
言い募る俺に、スティーヴは肩をすくめた。
「未来の夫にそこまで思いやられて、セシルは幸せだな。きっと、温かい家庭を築ける」
「スティーヴ!」
思わず声を荒げた。
どこまで勝手なんだ。
「もう……兄とは呼んではくれないんだな」
「……」
俺は押し黙った。
……呼べるものか。呼ぶものか。もう、二度と。
視線を伏せるスティーヴには、俺の怒りも、それ以上の哀しみも届かない。
俺の命は、生まれた時からスティーヴのスペアだった。
スティーヴに万一のことがあった場合のみのために、望まれ、この世に生を受けた。
いわばスペンサー家の「血のスペア」だ。
物心ついたときから「スティーヴにもしものことがあれば、お前が王だ」と言い聞かされて育った。
けれど、それは俺にとってはあり得ない”IF”だった。
血のスペアであることも、卑屈に思っていなかった。
兄への絶対の信頼があったからだ。
俺たちは、よくフィリップの未来を語り合った。
伝統とマナーを重んじる国であっても、時代に合った柔軟性も必要なのではないか。
政治、経済、文化……兄の治める世になったら、どうやって国を盛り立てようか。
兄が表舞台に立つ立場なら、俺は日陰に徹しようと決めていた。
もともと、人の前にでるより、静かに本を読んでいるほうを好むたちだ。
目立たなくとも、俺は兄にとって全幅の信頼をおける存在でありたかった。
すべて、兄がいて、兄を慕っていたからこそ、兄のスペアであることを受け入れられたのだ。
でも、スティーヴは俺を裏切った。
人は生まれを選べない。
スティーヴは、生まれながらの王だった。
それなのにスティーヴは、王家には血のスペアがあるのだからいいだろうと言わんばかりに、自分だけが自由の翼を手に入れて飛び立った。
生涯全力で兄を支え、ともに歩み、兄の治めるフィリップに尽くそうと誓った俺をひとり残して。
俺ははじめて、俺の身を駆ける血を恨んだ。
スティーヴのスペアにすぎない、この血を。
「じゃあ、行くよ。ウィル……あとを、頼む」
スティーヴが、つま先を扉に向けた。
「どの口が言う。もうあんたには関係ないんだろう? フィリップが栄えようと、滅びようと」
俺は顔をそむけた。
「別れを言いに来たんだ。ケンカを売らないでくれよ」
たしなめるように、スティーヴは声を落とした。
「……もう、戻るな。スティーヴ」
自分でも驚くほどの冷たい声音だった。
「ああ、わかっている。フィリップを治めるのはお前だ。邪魔はしない」
「……」
スティーヴが閉じた扉がカギを噛むと、俺の部屋はもとの静寂に包まれた。
窓際に寄れば、オリオンは天頂近くにまでのぼっていた。
こんな決別を望んだわけじゃない。
俺は孤独な王になる。
味方なんか誰一人としておらず、愛する誰かと暮らすことすら許されず。
見上げたあの星々の光は、永久の孤独な旅の中で何を思い、ひた、進んでいるのだろう。
果てしなく、遠く、長く、暗い旅路を、ひとりきりで歩むすべを、俺は知らない。
「兄さん……なぜだ……」
喉が震える。
まぶたの裏側が熱く膨らむのを感じて、俺は思わず、テーブルに両手をついた。
☆☆☆
「Princess様のお仕度が整いました」
腰を折ったクロードの背中から、彼女がおずおずと姿を見せた。
「驚いたな。俺よりも王族の風格がある」
からかうように笑ってみせると、彼女は顔の前で何度も手を振った。
「いえ、断然、、ウィルのほうがお似合いです。なんかもう、こんな立派なドレスを私が着てもいいのかっていう……」
「もちろん、キミが着てくれないと困る。今日からキミは王妃なのだから」
真珠や金銀の糸を使った手刺繍のドレスに、俺とそろいの長い深紅のローブを羽織り、胸元に代々伝わる100カラットのダイヤがあしらわれたペンダントを輝かせる彼女は、装いの豪華さに気後れしているのか、しきりに恐縮していた。
結婚して6年。
俺たちは、今日、晴れて戴冠式を迎える。
まだ先のはずだった俺の即位が早まったのは、世論に押されてのことだった。
次期王として俺が行った施策の数々が国民に高く評価されたこともあるが、何より俺が他国の、それも一般人のPrincessと結婚したことが、開かれた王室を印象付けて追い風になったのだ。
スティーヴが出て行ってから、俺は、俺であることを捨てた。
王家の血のスペアが俺の存在意義だというのなら、スペアとしての役割を果たすだけだ。
そこに個人の望みも、想いも要らない。
スティーヴが10年以上かけて学んだという帝王学も、2年で頭に叩き込んだ。すべては、フィリップ王国のために。
俺の運命が大きく変わったのは、25歳の時だった。
Princessに出会い、恋をして、心から彼女を欲しいと思った。
一度は諦めかけたけれど、この想いを捨てることなどできはしなかった。
決められた人生も、決められた婚約者も、すべては血のスペアとして生まれたがための宿命だと受けいれるとするなら、それはすなわち、彼女との永遠の別れを意味していた。
望むものが手に入らないなら、何も望むまいと思ってきた。
でも、望みを叶えるために、俺は何かをしてきただろうかと考えれば、否だ。
行動を起こすよりも先に思考を占めるのは、「どうせ」「しょせん」の言葉ばかり。
何かを変えることは、同じことをし続けるよりもずっと、エネルギーが要るものだ。
If you think you can, or you think you can’t, you’re right.
できると思えばできる。
できないと思えばできない。
俺は信じた。
王としての責務を果たすことも、キミを愛しぬくことも、必ず、できる。
――永遠に、キミとともに在るために。
「お母さま! 見て見て! 僕もお仕度できたよ」
金の髪を揺らしながら執務室に飛び込んできたジョージは、Princessに向かい合うと胸を張った。
王位継承権第1位を示す勲章が、ジョージの胸に輝いている。
「わ、ジョージ、あなたも素敵ね。でも、式典の間はいい子にしていないとだめよ」
Princessが、ジョージの目線の位置にまでかがんで人差し指を揺らした。
「わかってるよ、クロードに叱られるもん!」
肩をすくめるジョージの頬を、Princessがそっとなでた。
幸せな日々だった。
俺の血を継ぐ、幼き者がいる。
俺を唯一無二の存在だと、誰も俺の代わりにはなれないのだと笑うキミがいる。
俺はもう……スペアじゃない。
「ウィル様、そろそろご出発のお時間です」
クロードが懐中時計を確認して、腰をたたんだ。
戴冠式が行われる大聖堂までの5キロの道は、すでに俺たちを祝う国民で埋め尽くされているという。
「緊張、してる?」
「はい、とても。私が王妃さまになるなんて、なんだか実感がわかなくて」
胸に両手を当てたキミがうつむいた。
6年の歳月をプリンセスとして過ごしたPrincessは、もう十分に王妃の資質が育っているというのに、彼女はまだ、自分自身に厳しい。
「大丈夫。キミならできるよ」
俺はうなずいた。
信じれば、できないことなどないのだから。
「さあ、行こう」
右手にジョージを抱き、左手に彼女の手のひらをとった。
クロードが、扉を両開きにあける。
廊下に満ちていた冬の午後の陽差しは、柔らかくなごみ始めていた。
春はもう近い。
俺は、まっすぐに前を見据えた。
俺の治める国。
新しいフィリップも、今日この日に芽吹くのだ。
--fin
2020/2/8
漆黒のビロードの空に点々と散りばめられた星の輝きは、彼方の地から何万年、何十万年も前に発せられた光だという。
途方もなく、遠く、暗く、孤独な旅路。
長い道のりを、何を思い、突き進んできたのか。
ただひたすら、まっすぐに。
深夜の控えめなノックの音に、「入れ」と小さく言い捨てた。
夜更けの訪問者は限られている。
扉の向こうの人物が誰かわかっての返答だ。
「起きていたのか、ウィル」
「……」
まさか、弟の寝顔でも見てから出ていこうと、この期に及んでセンチメンタルに駆られたわけでもあるまいに、兄スティーヴは悪びれもなく言った。
起きているに決まっているだろう。
スティーヴが王位を捨てて医者になると言い出したときから、俺の眠れぬ夜は続いている。
片手にキャリーバッグを引いているところをみると、今夜、スティーヴの計画は「決行」されるらしい。
小さな荷物にとどまっているのは、ずっと前から周到に住む場所や家財道具が準備されていた証だ。
俺に笑いかけていた陰で、俺の知らないうちに、スティーヴは裏切りのプロジェクトを進めていた。
なんの感情も持つまいと決めたはず心臓が、素手で強く握られたみたいにひどく苦しい。
「まるで夜逃げだな。一国の王子が」
「もう王子じゃないさ」
精一杯の皮肉の言葉にも、スティーヴの顔は曇らなかった。
晴れやかに澄んだ瞳には、すでに、王子でない未来の日々が映っているのだろう。
「セシルは……どうするつもりだ」
セシル=ジェルマンは、スティーヴの婚約者だ。
彼女は”王位は継承権第一位の者に嫁がせる”という家同士の政略結婚の契約でフィアンセの立場にあったが、セシルがスティーヴを愛していることを、俺は知っている。
そして、おそらくスティーヴも。
この件の騒動ではたったひとつスティーヴの弱点だったのか、淡々としていた兄の表情がわずかに曇った。
「国王も、ジェルマン家も、契約の破棄はしないそうだ。もともと王位継承権第一位の者と結婚するという約束だったからな。結婚する相手が俺からお前になっただけのことだ」
「セシルを諦められるのか? ……愛しているのに」
スティーヴは首を振った。
「すべてを手に入れるなんて、できっこない。彼女はお前の妻になる」
政略結婚で、親が決めた歳の離れた相手や結婚式で初対面になる相手と結ばれることは珍しくはなかった。
家の存亡をかけた結婚は、貴族社会では今でもごく普通に行われている。
貴族として生まれた人間は、恋愛感情を抜きにした結婚を少なからず覚悟しているものだ。
でも、スティーヴとセシルは惹かれあった。
それがどんなに奇跡的で、幸せなことか。
スティーヴは王になる道を捨てたが、セシルはたとえスティーヴが王でなくても、彼とともに生きる道を選ぶだろう。
スティーヴが王家の血筋の者であることに変わりはないのだから、ジェルマン家側もスティーヴの熱意次第で、鷹揚な対応をしてくれる可能性はある。
なのに、スティーヴは王家から逃げ、セシルからも逃げた。
何もしないままに。
「捨てるのか、セシルを。彼女は、モノじゃない」
言い募る俺に、スティーヴは肩をすくめた。
「未来の夫にそこまで思いやられて、セシルは幸せだな。きっと、温かい家庭を築ける」
「スティーヴ!」
思わず声を荒げた。
どこまで勝手なんだ。
「もう……兄とは呼んではくれないんだな」
「……」
俺は押し黙った。
……呼べるものか。呼ぶものか。もう、二度と。
視線を伏せるスティーヴには、俺の怒りも、それ以上の哀しみも届かない。
俺の命は、生まれた時からスティーヴのスペアだった。
スティーヴに万一のことがあった場合のみのために、望まれ、この世に生を受けた。
いわばスペンサー家の「血のスペア」だ。
物心ついたときから「スティーヴにもしものことがあれば、お前が王だ」と言い聞かされて育った。
けれど、それは俺にとってはあり得ない”IF”だった。
血のスペアであることも、卑屈に思っていなかった。
兄への絶対の信頼があったからだ。
俺たちは、よくフィリップの未来を語り合った。
伝統とマナーを重んじる国であっても、時代に合った柔軟性も必要なのではないか。
政治、経済、文化……兄の治める世になったら、どうやって国を盛り立てようか。
兄が表舞台に立つ立場なら、俺は日陰に徹しようと決めていた。
もともと、人の前にでるより、静かに本を読んでいるほうを好むたちだ。
目立たなくとも、俺は兄にとって全幅の信頼をおける存在でありたかった。
すべて、兄がいて、兄を慕っていたからこそ、兄のスペアであることを受け入れられたのだ。
でも、スティーヴは俺を裏切った。
人は生まれを選べない。
スティーヴは、生まれながらの王だった。
それなのにスティーヴは、王家には血のスペアがあるのだからいいだろうと言わんばかりに、自分だけが自由の翼を手に入れて飛び立った。
生涯全力で兄を支え、ともに歩み、兄の治めるフィリップに尽くそうと誓った俺をひとり残して。
俺ははじめて、俺の身を駆ける血を恨んだ。
スティーヴのスペアにすぎない、この血を。
「じゃあ、行くよ。ウィル……あとを、頼む」
スティーヴが、つま先を扉に向けた。
「どの口が言う。もうあんたには関係ないんだろう? フィリップが栄えようと、滅びようと」
俺は顔をそむけた。
「別れを言いに来たんだ。ケンカを売らないでくれよ」
たしなめるように、スティーヴは声を落とした。
「……もう、戻るな。スティーヴ」
自分でも驚くほどの冷たい声音だった。
「ああ、わかっている。フィリップを治めるのはお前だ。邪魔はしない」
「……」
スティーヴが閉じた扉がカギを噛むと、俺の部屋はもとの静寂に包まれた。
窓際に寄れば、オリオンは天頂近くにまでのぼっていた。
こんな決別を望んだわけじゃない。
俺は孤独な王になる。
味方なんか誰一人としておらず、愛する誰かと暮らすことすら許されず。
見上げたあの星々の光は、永久の孤独な旅の中で何を思い、ひた、進んでいるのだろう。
果てしなく、遠く、長く、暗い旅路を、ひとりきりで歩むすべを、俺は知らない。
「兄さん……なぜだ……」
喉が震える。
まぶたの裏側が熱く膨らむのを感じて、俺は思わず、テーブルに両手をついた。
☆☆☆
「Princess様のお仕度が整いました」
腰を折ったクロードの背中から、彼女がおずおずと姿を見せた。
「驚いたな。俺よりも王族の風格がある」
からかうように笑ってみせると、彼女は顔の前で何度も手を振った。
「いえ、断然、、ウィルのほうがお似合いです。なんかもう、こんな立派なドレスを私が着てもいいのかっていう……」
「もちろん、キミが着てくれないと困る。今日からキミは王妃なのだから」
真珠や金銀の糸を使った手刺繍のドレスに、俺とそろいの長い深紅のローブを羽織り、胸元に代々伝わる100カラットのダイヤがあしらわれたペンダントを輝かせる彼女は、装いの豪華さに気後れしているのか、しきりに恐縮していた。
結婚して6年。
俺たちは、今日、晴れて戴冠式を迎える。
まだ先のはずだった俺の即位が早まったのは、世論に押されてのことだった。
次期王として俺が行った施策の数々が国民に高く評価されたこともあるが、何より俺が他国の、それも一般人のPrincessと結婚したことが、開かれた王室を印象付けて追い風になったのだ。
スティーヴが出て行ってから、俺は、俺であることを捨てた。
王家の血のスペアが俺の存在意義だというのなら、スペアとしての役割を果たすだけだ。
そこに個人の望みも、想いも要らない。
スティーヴが10年以上かけて学んだという帝王学も、2年で頭に叩き込んだ。すべては、フィリップ王国のために。
俺の運命が大きく変わったのは、25歳の時だった。
Princessに出会い、恋をして、心から彼女を欲しいと思った。
一度は諦めかけたけれど、この想いを捨てることなどできはしなかった。
決められた人生も、決められた婚約者も、すべては血のスペアとして生まれたがための宿命だと受けいれるとするなら、それはすなわち、彼女との永遠の別れを意味していた。
望むものが手に入らないなら、何も望むまいと思ってきた。
でも、望みを叶えるために、俺は何かをしてきただろうかと考えれば、否だ。
行動を起こすよりも先に思考を占めるのは、「どうせ」「しょせん」の言葉ばかり。
何かを変えることは、同じことをし続けるよりもずっと、エネルギーが要るものだ。
If you think you can, or you think you can’t, you’re right.
できると思えばできる。
できないと思えばできない。
俺は信じた。
王としての責務を果たすことも、キミを愛しぬくことも、必ず、できる。
――永遠に、キミとともに在るために。
「お母さま! 見て見て! 僕もお仕度できたよ」
金の髪を揺らしながら執務室に飛び込んできたジョージは、Princessに向かい合うと胸を張った。
王位継承権第1位を示す勲章が、ジョージの胸に輝いている。
「わ、ジョージ、あなたも素敵ね。でも、式典の間はいい子にしていないとだめよ」
Princessが、ジョージの目線の位置にまでかがんで人差し指を揺らした。
「わかってるよ、クロードに叱られるもん!」
肩をすくめるジョージの頬を、Princessがそっとなでた。
幸せな日々だった。
俺の血を継ぐ、幼き者がいる。
俺を唯一無二の存在だと、誰も俺の代わりにはなれないのだと笑うキミがいる。
俺はもう……スペアじゃない。
「ウィル様、そろそろご出発のお時間です」
クロードが懐中時計を確認して、腰をたたんだ。
戴冠式が行われる大聖堂までの5キロの道は、すでに俺たちを祝う国民で埋め尽くされているという。
「緊張、してる?」
「はい、とても。私が王妃さまになるなんて、なんだか実感がわかなくて」
胸に両手を当てたキミがうつむいた。
6年の歳月をプリンセスとして過ごしたPrincessは、もう十分に王妃の資質が育っているというのに、彼女はまだ、自分自身に厳しい。
「大丈夫。キミならできるよ」
俺はうなずいた。
信じれば、できないことなどないのだから。
「さあ、行こう」
右手にジョージを抱き、左手に彼女の手のひらをとった。
クロードが、扉を両開きにあける。
廊下に満ちていた冬の午後の陽差しは、柔らかくなごみ始めていた。
春はもう近い。
俺は、まっすぐに前を見据えた。
俺の治める国。
新しいフィリップも、今日この日に芽吹くのだ。
--fin
2020/2/8
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