◆薄明の暁星

 「ごめん、最後にどうしても行きたいところがあるの」と、そう申し出されたのは今朝のことだった。そんなに遠い場所じゃないからと前置きされずとも二つ返事で了承し、今いるのは地下鉄の中だ。しかし久しぶりにこのtubeとやらに乗り込んだわけだが、俺ですら頭に注意しなければならないとは。なかなか生きづらい。
「この国の乗り物は、住む人間の体格に比べて小さすぎやしないか」
「それは私も思う。狭いよねぇ。鉄道はさほどなのにね」
「バス路線が発達するのもわかるな」
「ふふっ。まぁそういう理屈でいっぱい走ってるわけでもなさそうだけどね?っわ!」
「おっと」
 ガタンガタンと大きく揺れる車内でバランスを取るのは難しいらしく、前に後ろにぐらぐらとする彼女が危なっかしくて見ていられないなと思っていたところで、がくんと俺の胸に飛び込んできた身体。最初からこうしていればよかったんだと、俺はそれを抱き留めた。
「っ!?わぁ!?ご、ごめ、」
「倒れるんじゃないかと思っていたからちょうどいい。このまま俺に掴まっていろ」
「へ!?いやそれはっ」
「こんな人目のある場所で転んで尻餅をつくほうがだいぶ恥ずかしいと思うが、どうだ?」
「っぐぅ!」
「くくっ……!おまえの話だとあと十分もせずにつくんだろう?大人しくしておけ」
 片手で彼女を引き寄せ、もう片方は天井に付ければ、もう揺れることはなくなった。負けを認めた彼女は大人しく俺に張り付いてくれて安心だ。それから少しして目的地に到着し、手を引かれて降りる間際に「perfect couple」と聞こえてきたのには面映ゆかった。
 地上に出るとただっぴろい芝生の向こうにいくつか建物が見えた。これは昔何かのガイドブックで見たことがあるなと記憶を遡っていると、ぽつりと彼女が声をあげる。
「ここ、グリニッジっていうの」
「グリニッジ……ああ、思い出した。昔ディアボロがこのあたりに八咫烏のリゾートホテルを建設したいとか言っていた。たしか経度0度線があると」
「さすが。よく知ってるね。ここがこの人間界の時間を決めてるんだよ」
「有名な場所と聞いていたんだが、あまり人がいないんだな」
「広いからそう見えるだけだよ、きっとね。さ、いこ」
 一直線に伸びるコンクリート上を歩いていると、前触れもなくぽつりと雫の感触を頬に感じた。空を見上げれば太陽が出ている一方で、雨粒が落ちてくるではないか。降り出した雨は周囲の音を呑み込んで地面に濃いシミを作った。
「えっ、雨?」
「結構降ってきたな」
「そんな悠長なこと言ってる場合!?濡れちゃうから早く!」
 のんびりとしているように見えた人々も、本降りになってきた雨脚に各々慌てて同じ方向を目指して走り出す。たしかに結構な人数の観光客がいたようで少し驚く。やっと辿り着いた博物館の入り口は、あっという間に人でいっぱいになった。
「太陽出てるから降るとは思わなかったね。大丈夫?」
「ああ、俺は問題ない。おまえは?」
「私も大丈夫。ちょっと濡れちゃったけどこのくらいならすぐ乾くよ」
「そうか。通り雨ならいいが」
「ルシファー、こういうのはね、通り雨じゃなくって狐の嫁入りっていうんだよ」
「きつね?」
「そ。昔は日が照ってるのに雨が降るのは怪奇現象だって思われてて、だから狐に化かされているんじゃないか、ってことだったらしいよ」
「ふむ。面白い考えだな」
「ね。でもいいよね、怪奇現象なのに嫁入りってさ。可愛いっていうかポジティブっていうか。私は好き」
 そこまで言うと、たぶんすぐ止むから中見てよ、と歩き出した背中。咄嗟にそれを引き留めると、ゆるりと振り返った彼女の首元には、珍しく俺が買ったネックレスが揺れていた。腰を取って隣に立つと、ふわりと笑ってみせる。
「嫁入り日は晴れるといいな」
「?だから狐の嫁入りは雨で」
「悪魔に嫁入りするときは晴れるさ」
「は……はあっんぐぅ!」
「博物館で大きな声を出すものじゃないぞ」
 大声を出そうとした口を覆ってやると、空気ごとそれを胃の中まで流し込んだ彼女は、そのせいも相まって顔を真っ赤にして唸った。

 それから一時間は経ったろうか。彼女が言った通り、中を見ているうちに雨は止んだようだ。最後の部屋にあった土産屋を出たところで、フォトスポットに突き当たった。そこまできて、そう言えばと思い出す。
「おまえは何が見たくてここまで来たんだ?」
「一緒に出掛けたかったっていう理由じゃだめかな」
「いや、どうしても、と言っていただろう。何か別の理由があったんじゃないか?」
「……ルシファー物覚えよすぎ」
「?」
「忘れてたらよかったのに」
 フォトスポットーーそれは、子午線上に一本引かれたラインを跨いで写真を撮るというありふれたものだったのだが、その列に並びながら言うので、これを俺に見せたかっただけなのか?と不思議に思いつつ続く言葉を待つ。
「ここが子午線ってことは知ってると思うけど、この全く反対側に何があるか知ってる?」
「反対側?」
「地球の裏側ってことだよ」
 ちら、とこちらに視線をやって彼女は言う。
「この裏側にはね、日付変更線っていうのがあるんだ」
「……」
「それを西から東に通過すると同じ日を繰り返せるの。おもしろいよね。……魔界はさ……この世の、どこにあるんだろう」
 彼女が何を言いたいのかわかってしまったがために、うまい言葉が紡げなかった。
 せっかく俺たちの撮影順番が回ってきたというのに、彼女はそのラインをひょいと跨いで、それから俺を呼び寄せる。手招きに従って俺もそれを跨ぐと、後ろから「写真はいいのか?」と声がかかったが、それを手で制して、俺たちはそのままフォトスポットを後にした。
 空からは陽の光が降り注ぎ、地はだんだんと乾き始めていた。雨の雫が葉の先っぽで光を反射して、悪魔の俺には久しぶりのその煌めきが少し眩しい。
「……魔界はこの世のものではないからな、変更線を跨げたとしても日は、」
「分かってるよ。ちょっと言ってみただけ!」
 にこ、と作られた笑顔にはいつものような気力はなかった。ただ、それを今指摘するのは無粋かもしれない。
「魔界と天界は表裏一体だが、そのいずれもが人間界の裏側にあるものだ」
「ふぅん?」
「いつでもそこにある、と言っても正しいし、ここにない場所と言うのも正しいかもな。だいたい人間が魔界に来られることのほうが珍しいんだから、説明したところで誰もわからないだろう」
「ん……と……どういうこと?わざと難しい言い回しするんだから」
「それなら一番シンプルに言おう」
「シンプルに言えることなら最初からそう言っ」
「おまえは特別な人間だ。魔界にとっても天界にとっても、俺にとってもな。おまえならすぐにいつでも行き来できるようになるさ」
 一歩、大きく足を動かせば、すぐに彼女に並んだ。肩を取って、そろそろ帰るかと告げると、少し間があってからコクンと頭が揺れた。

 二人きりで人間界にいられる時間はもう残り二十四時間もない。
 時が過ぎることになど、もう長い間、微塵も興味がなかったはずなのにと、俺は人知れず自嘲した。
 彼女は、本当は泣き出したいのかもしれない。だがそれができるほど子どもでも素直でもない。些細なプライドでそれをどうにかやり過ごしているとしたなら、俺にできるのは黙って隣にいること、ただ、それだけ。
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