◆薄明の暁星

 人間界入り八日目にして、始めて土砂降りの雨が降った。夜は明けたはずなのに光はほとんど差しておらず部屋の中は薄暗い。俺たちの生活にあまり天気は関係ないが、あの雲の向こうでは太陽が昇っているのかと考えると不思議だ。

 ……などと天気のせいにするわけじゃないのだが、二人してかなり遅い時間まで眠っていたようで、時計の針はもう昼近くを示している。今日は以前から頼まれていたがタイミングが合わずできていなかった、魔力放出の練習をすることになっていた。ブランチを腹に収めると、ベッドの上で胡坐をかいた俺は、その上に彼女を乗せて背中から抱きしめた。
「えっ、あの、このまま練習するの?」
「そうだ。何か問題でも?」
「問題ありすぎだよ!こんな、距離近いっていうか……もっと普通にっ」
「普通?それはいつ誰がどう決めたものだ」
「!」
「いいか、誰かが言う『普通』は、そいつの中にある常識だ。それは他人にとっては常識ではないことをよく覚えておけ」
「は……っ……それは確かにそうだね」
「だろう?なら練習再開だ」
「う……ん??えっ?」
「まずは集中しろ」
「っできるわけないよーっっ!!」
 うまいことを言って言いくるめようとしたがそうもいかなかった。とはいえ、悪魔に天使に魔術までを身の回りに置いて、今更「普通」を求めるとは、俺の女はなかなかの大物だと改めて思う。
「全く……仕方ない。わかった。ではこういうときのためのとっておきの魔術を教えてやろう」
「っほんと!?助かっんぅ!?」
 まずはその口を黙らせるところからのようだと、こちらを向かせて深く口付けた。
「んっ、ンン……は、ふぅ!」
「ン、ふ、」
 そのまま彼女の身体を支えながらゆっくりとベッドに沈めていく。俺がその上に覆いかぶされば、きゅぅっとシャツを握りしめられて一気に気分が昂った。
 暫く思うままに咥内を荒らす。ぴちゃ、くちゅ、と脳に直接響いてくる音で気持ちよくなるも、握られたり緩んだりする力加減に、息が苦しくなっているのを悟りそこから舌を抜いてやったが、もちろん唇は触れたまま。それでも次第に呼吸が整ってくる。すると睫毛がゆるりと開き、生理的な快楽からくるものだろうが、濡れた睫毛の向こうの潤んだ瞳が俺をとらえた。
「う、んぅ、ま、ンン」
「っん、はぁ、」
「れんしゅ、するって、ン、言っ、ん、ふ」
「ッハ……そう言うなら本気になれ」
「へ……?」
「おまえが本気でそう思っていれば、俺をとめるなんてこと余裕なはずだ」
「な!?っ、そんな、わたしがるしふぁーに敵うわけな」
「おまえは俺のマスターだ。つまり俺に一言、やめろと言い放つだけでいい」
「!」
「マスターになったものとしては一番簡単な魔術だ。そうだろう?」
「そ、それは、」
「それができないとなると、魔術師としては致命的だ。魔力だってほとんどないのかもしれない。さぁやってみろ」
「な、んで」
 うるりと、もう一度泣き出しそうに彼女の瞳が揺れる。俺は自分が今どんな顔をしているのかなんとなく分かっている。それはそれはいやらしい笑顔だろうな。でもこれは仕方のないことだ。本気かそうじゃないかが一目瞭然で読み取れるなんて、これ以上俺を悦ばせることがどこにあるというんだ。
「るしふぁの、いじわるっ……!」
「地獄の七大君主の中でも最強の俺に向かって『いじわる』とは随分かわいい物言いだな」
「からかわないでっ!」
「からかってなんていないさ。本当に可愛いよ」
「ま、またそういうこと、言うっンッ」
「んっ」
「も、もう!わたしがっ!嫌なんて言えると思うの!?」
「いや、思わない」
「は……」
「おまえは俺のことが大好きだからな。俺がすることに対して嫌だなんて言わないに決まっている」
 自信満々にそう返すと、ほんの一瞬ポカンとした彼女は、カァアアアッと音がするほど首から額までを赤く染め上げて口をぱくぱくと開閉している。そうして十秒ほど経ったろうか。無理、と一言呟いて、俺の首に腕を回した。
「傲慢のルシファーに、契約の元命ずる……もっとキスして」
「……!……ふ……それがマスターの望むことなら」
「でもそのあとにちゃんと付き合ってね?魔術の練習も。ソロモンに、毎日の積み重ねって言われてるのに、ルシファーがいる間そっちのけにしちゃったの」
「もちろんだ」
 全部叶えてやる。だから今は先に命の遂行をしようか。羞恥と歓喜で染まる頬をひと撫ですれば素直に閉じられた瞼には映らなかった俺は、笑顔を浮かべたまま彼女を快楽の淵まで案内したのだった。

 それからまた数時間後。もうすっかり暗くなった部屋に、明かりはまだついていなかった。
 雨は、まだ止んでいない。
 彼女はもはや俺の足の間から逃げることを諦めたどころか、俺に全体重を預けるような形ですっぽりと身体を埋めて空中に掌を差し出した。
 先ほどまでの色気を帯びた手つきは、今や面影すら残さない。
 それをくるくると回転させて、彼女は言う。
「ルシファーが魔力を使うところが見たい」
「俺が使ってどうする。おまえの練習だろう」
「先にお手本を見せて」
 くるりと瞳を輝かせて首を擡げた彼女の期待を裏切れるわけもなく、はぁと態とらしい溜め息を吐いた俺を、くすくすと笑いながら見つめてくる彼女は確信犯だ。
「ソロモンは魔力を使う時に大事なことはなんだと言った?」
「イメージだって言ってた」
「そうだな。間違いない。だが、それよりも強いのは想いだ」
「おもい?」
「さっきも言ったが、命じるという気持ち。それが強いイメージを生む。そういう意味では、煩悩まみれの人間が魔力を持たなくてよかったな」
「たしかに。大変なことになっちゃうもんね」
 彼女は小難しい表情をして顎に手をやったが、果たしてどこまで理解しているのかは定かでない。
「だから、こうしたい、という強い想いをまずは持てるようにしろ。そうすることでより鮮明なイメージができあがる。例えば」
 つい、と俺が空中で指を動かすと、指先からは煌めく星屑が溢れ出し、そのまま天井を満たしていく。それは瞬く間に部屋の中を照らした。
「う、わぁ……っ!きれい……!」
「簡単なところからいこうか。これは俺のある想いをもとに描かれたイメージが魔力によって具現化したものだ。なんだかわかるか?」
「えっ……うーん、星……だから……天界の想い出の表現、とか?」
「ハズレだ」
「違う?うぅん……」
「じゃあ星からどんなインスピレーションをうける」
「星は……キラキラして、綺麗で」
「なるほど。他には」
「他?えぇ……?暗闇を照らす、見ていると胸が高鳴る」
「近くなってきた」
「本当!?」
「だが別にそれを当てるのが主旨じゃないからな」
「あっ、そうだね」
「おまえが魔術を使いこなせるようにサポートするだけだ。この星たちの合間に何か入れ込んでみろ」
「何かって?」
「具体的なことを言ったら意味がないだろう。一からイメージして想いを強めて具現化する練習だ」
 教師みたいな口振りをしてしまったが、本心は俺が創ったものに対して彼女が何を感じて何を創り上げるのか楽しみなだけだ。俺は、彼女が喜びそうなものを創っただけだから。
 だが、俺の意に反して彼女は「そういうことなら!」と何一つ迷うことなくパッと指を動かした。途端、俺が出した星屑たちよりも少しだけ大きい丸いものが宙に浮かぶ。「できたぁっ!」という口調から、彼女が創りたかったものは正しく出せたらしいが、いまいちなんなのかよくわからなかった。
「わかんないの?」
「……わからないな」
「こんなに上手くできたのに!もー明けの明星に決まってるでしょ。星空の中に探すのなんてルシファーのことだけだもん」
「…………俺を喜ばせてどうしたいんだ……」
「え?なにっ」
「こっちを向くな」
「わ!」
 咄嗟に視界を覆って前のめりに体重をかけたせいで、俺と彼女が創った星たちは全て消え去り再び暗い部屋に逆戻りしたが、かえって都合が良かった。想像の斜め上の行為に俺の表情筋は脆くも崩れたので取り繕うのに苦労する。
「ん〜っ……!も!何するの!あーー消えちゃったじゃん!」
「イメージの練習はもういい。おまえには簡単すぎたようだ。その様子だと初級は飛ばしても良いだろうから、今度は実際に存在するものを『今ここ』に取り出す魔術に移るぞ」
「ええ!?それ高度魔術って言ってたよ!?」
「どのみちそれができるようにならないと俺を喚ぶこともできないだろう。最終目標に近いところからやるべきだったんだ」
「スパルタ!!」
「基本は同じだ。イメージと、それから想い。いいか、次は」
「待って!まずはランプか電気だよ!話はそれから!」
「それもそうだな。いいぞ。やってみろ」
「オーケー!……っんーーーーーー!?」
 あの調子で行けばできるだろうと踏んだのだが、彼女が念じた直後、ポトリとベッドの上に落ちてきたのは電球一つで、二人してぽかんとしてしまう。
「……これは?」
「で、んき、です」
「俺が想像していたランプか電気、とは似ても似つかないが?」
「な、なんでぇ!?さっきと同じようにしたよ!?」
 もう一回やるから待って!!と汚名を返上しようと目を閉じた彼女だが、焦っている時に成功する確率はほぼ0に等しい。これは成功するのに時間がかかりそうだ。どうやら成功したのは俺が対象だったからかもな、なんて苦笑が漏れたのに、彼女が気づくことはなかった。
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