◆薄明の暁星

 朝八時。今日も早くに目が覚めたのは、明るさのせいだけではなく、リラックスできていることが大きいのかもしれない。本当に静かな日が続くのは久しぶりで、魔界に帰った時が恐ろしいなと寝起きの頭で考える自分はもはや重病だ。目頭を押さえたところで視線を感じ、隣を見れば、くるりとした二つの眼が俺を見つめていて苦笑が漏れた。
「起きていたのか」
「うん」
「俺を待ってなくたって構わないのに。したいこともあるだろう」
「……ん。別に……」
 連れない返事を残して、もぞ、と布団を被り直した彼女に「今日の予定は」と尋ねるが、頑なに特にないから大丈夫と言う。初日に聞いた話では行きたい場所もやりたいこともありすぎて、とてもじゃないが十日じゃ終わらないと笑っていたのに、一体どういう風の吹き回しだ。もう少ししたら起きると残し、拗ねたようにベッドの中で丸まった彼女を布団の上からぽんぽんとあやして、それなら起き上がる頃に何か食べられるように作っておくかと俺はベッドを抜け出した。
 コーヒーを蒸らしつつ朝食の材料は何が残っていただろうかと冷蔵庫の中を覗けば、意外と食材がなくなっていることに気づく。彼女が起きたらまずはマーケットまで散歩だなと考え、そこで、二人きりだとやはり穏やかだと腹の辺りがむず痒くなった。
 ぱたん、と冷蔵庫の戸を閉じたとき、ふと、その側面に小さなカレンダーが貼り付けてあるのが目に止まる。彼女の視線のあたりにあるので、今まで俺の視界には入っていなかったようだ。そのカレンダーには二つの書き込みがあった。一つはもちろん、俺が到着した日にある「ルシファーが人間界に来てくれる日」という予定。そしてもう一つは。
「帰っちゃう日……っふ……こんな小さな文字では予定が見えないじゃないのか?」
 そう声に出して気づく。もしかして彼女の機嫌が急変したのはこのせいかと。カレンダーには律儀にも、一日ずつバツをつけていっているようだ。トン、と今日の日付を人差し指で叩く。
「あと、三日、か」
 寂しがってもらえることは素直に嬉しい。それだけ依存してくれているのだとわかるから。ただ、悲しませるために来たわけではないのが難しいところだなと思う。
 行きたい場所がない、というのはおそらく口から飛び出した言い訳だろう。どこにでも連れて行ってやりたい気持ちがないわけではないが、そういうことならこれ以上どこにも出かける必要もないんじゃないか。家にいたところで二人きりなのに違いはないわけだし、あとは引きこもっていてもいいかもしれない。
 そっと寝室を覗いたが、出てきたときとなんら変わらずベッドの真ん中がぽっこりと膨らんでいるだけだったので、声を掛けるのも野暮かと、一筆「買い出しに行ってくる。すぐ戻る」と書き残して一人外へと繰り出した。
 こちらに来てから、一人で出歩くことがなかったので、片手が手持ち無沙汰でポケットに突っ込む。その中に入っている数枚のコインを指先で弄びながらマーケットまで一直線。しかし、こんなに距離があったとは。彼女と並んで歩いているとあっという間の道のりなのにと驚くと同時、ねぇねぇルシファー、との声が耳の奥でリフレインした。
「最後まで笑っていてほしいものだが」
 そうもいかないんだろうと、わかっていても願ってしまうのは自惚れでもなんでもないただの事実だ。

 やっとのことでマーケットに着けば、リストアップしてきたもろもろの食材を買うことに意識を持っていかれる。マーケットは魔界と同じく賑やかだ。人間界のものの値段の相場はよくわからないが、美味ければ問題ないし、この国はほとんどのことがカードで事足りるのは大変助かる。あらかた買い物を終え、甘いものでも土産に持ち帰ろうとふらふらと見て回っていると、とあるペストリーショップのばあさんと目があった。
「あれ。おにーさん、この間も来てくれたね」
「よく覚えているな」
「そりゃぁね、おにーさんほどの色男、忘れろってほうが無理さ」
 ばあさんは見た目にそぐわず快活に笑った。悪魔は人間の目に魅惑的に映るものだから、こんなことはしょっちゅうだが、こういうのは話を合わせるに限る。
「俺もこのクロワッサンダマンドは見覚えがある。連れが美味い、また食べたいと言っていた。一つもらおうか」
「おや、そういえば今日は奥さんは?」
「ん?」
 またクロワッサンダマンドでいいのかい?オマケするよ、なんて言いながら、ばあさんはワゴンの奥に入っていった。だが俺の方は、その一言に対して、「そうか、彼女と並んでいると夫婦に見えるのか」と柄にもなく頬が緩みそうになり、片手で口周りを押さえる始末。そんな様子を見もしなかったばあさんは、奥から出てくるとクロワッサンを入れた紙袋を俺に押し付けた。
「はい。お待たせ。二つで二ポンドにまけとくよ。で、随分と仲睦まじい様子だったからいつでも一緒なのかと思ったんだが、そうでもないのかい」
「……色々と事情があるんだ」
「事情、ねぇ」
「俺の一存ではどうにもならない」
 そう、どうにかしてやりたくてもどうにもならないことは山ほどある。俺はばあさんの手に、ちょうど二つ残っていた硬貨を乗せると、これ以上の長居は無用とばかりに礼を述べた。
「ありがとう。また来る」
「ああいやだねぇ!男はいつだってそうだよ!」
「は?」
「黙ってりゃいいってもんじゃないんだよ!うちの旦那もなんでもかんでも一人で考えてアタシにゃなんの相談もしないでねぇ」
 唐突に始まった世間話には耐性がなく、どうしたものかと焦る。しかし悩みは一瞬のことで、次の瞬間には隣の店ーーそれは花屋のワゴンだったのだが、そこにいたじいさんの首根っこを引っ捕えて俺の前に連れ出した。
「アタタタ!!なんだ鬼嫁!」
「あらまぁひどい!その鬼嫁を好きになったのはどこのだれだったかね!」
「い、いやそれは、」
「あのねぇ、この人も、私にプロポーズするためにわざわざ花屋になって」
「おまえそんな話っ!」
「それでねぇ、俺の育てたバラはおまえにだけしかやらないからって言うんだよ。だから結婚してくれってねぇ、トンチンカンにもほどがあるだろ?」
「え、あ、ああ」
 脈絡のない馴れ初め話に俺の頭はクエスチョンだらけだ。チラ見した時計は出発してからすでに二時間近く経過していることを示しており、正直一分一秒でも早く帰りたかったが、その話の続きは俺の興味を引いた。
「アタシが言いたいのはね、そんなことされなくても、アタシはこの人に惚れてたのにってことさね」
「え?」
「アタシはね、この人以外に何にもいらなかった。店を持つための時間も、バラを育てるだけの時間も使ってさ。何年待たされたことか。その時間分ももっとはやく、一緒に居られたかもしれないのに。もうこんなにも老いぼれて」
 まぁ、もうここまできたら最期まで一緒に居るんだからいいんだけどねぇ。と笑うばあさんは、若かりし頃を思い出すかのように頬を染めて幸せそうに笑う。隣ではじいさんがぼりぼりと頭を掻いていた。
「どんな事情も、相手にとったらそれ以上に重要なことがあるかもしれないよ。ただ一緒にいるだけでいい時もある。相手の顔を曇らせたとしたら、それはおまえさんの責任だ、色男」
「……肝に銘じておく」
「今度は二人揃ってきておくれ。美味しいクロワッサンを焼き上げて待ってるよ」
 袋を持ったほうの手を少し上げて帰ると意思表示すると、そう言って見送りしてくれたので踵を返した。すると背中に向かって今度はじいさんの方が声を掛けてくる。
「おい、一本持っていけ!」
「!」
「土産は多い方がいいだろうが」
 食材が入った大きな紙袋に一輪の赤いバラを突き刺されては断ることも支払うこともできず。ぽん、と叩かれた手に、今度こそ別れを告げて帰路につく。この先、二人の行く道は短いものかもしれないが、きっとそれに見合わないくらいにしあわせに満ちているんだろうと思う。
 昔誰かが言っていた。人の生命は永遠でないからこそ、今、そのときを力一杯に輝いて生きられるのだと。なるほどそれは、悪魔の俺にはどう足掻いてもわからない感覚だ。だからきっと、あの老夫婦のようには俺たちはなることはできない。一方で、彼女といる時間を大切にする気持ちは、人間同士のそれとなんら変わらないと思いたい。
 もらった一輪のバラは真っ先に彼女に差し出してやろうと密やかに笑った。

「ただいま」
 彼女の機嫌は直っただろうかと、期待しつつアパートの玄関扉を開きながら声を投げかける。片手ではどうも動きにくいなと鍵を閉めるのに手間取っていると、寝室の方からバタンと扉が開く音がして、次の瞬間には横腹にギュゥっと何かがしがみつく感触がした。咄嗟に抱えていた袋を持ち上げたので、視界が遮られてしまったが、その「何か」は彼女以外には考えられない。
「……」
「ただいま」
「……帰ってこないかと思った……」
「そんなわけないだろう」
「だって、魔界で何かあったかもしれないし」
「帰らないよ。約束した」
 抱きしめ返せないのがもどかしく、とりあえず荷物を置かせてくれないかと頼むも、押し付けられた顔がイヤイヤと駄々をこねた、つい笑が込み上げる。
「笑い事じゃないよっ!」
「すまない。どうしておまえはそんなに可愛いんだと思ってな」
「話を逸らさないで」
「逸らしてないさ。遅くなったのは謝る。おまえのブランチは何がいいかとふらついていたんだ。そうしたらおまえが好きだと言っていたペストリーショップのばあさんに引きとめられてな」
 理由を説明をすると、渋々と言った様子で鼻の上までが俺の方に向けられた。
「俺とおまえのことを夫婦だと思っていたが、嬉しい誤解だったから特に訂正はしなかった」
「っ!?」
「それで、色々と説教されたんだ」
「せっきょう……?」
「相手の顔を曇らせたなら、一緒にいるおまえが悪い、とな。おまえ、今日朝から機嫌が悪かったろう」
「あ……それはルシファーのせいじゃな」
「いや、俺のせいだ。カレンダーに印までつけていて、そうじゃないとは言わせない」
「!」
 腕が緩んだのを感じてやっとのことで彼女と向き合うように身体を回転させた。床に袋を雑に置き、今度はこちらから、逃がさないと彼女を引き寄せ胸に抱く。
「魔術の習得の進捗はどの程度なんだ?」
「……?なに、突然」
「重要なことだ。いつごろ俺を喚び出せるようになる」
「え……わ、かんない……でも、ソロモンには習得は早いとは言われて、今は転移魔術の練習中だよ……」
「さすがだな。転移は魔術の中でもかなり上級向けだから、その分なら召喚も近いうちにできるようになる」
「ほんと!?」
 バッと擡げられた顔に、ああ、と笑いかけると、先ほどまでの機嫌が嘘のようにパァッと明るくなった表情にひとまず安堵する。
「そうなったらいつでも俺を喚んでくれるんだろう?」
「えっでも魔力が足りないかも、」
「俺を喚び出して消費した魔力は俺が補完してやれるんだ。なんの問題もない」
「!?……っでもそんなことしたらルシファーの魔力が」
「おまえにやった分おまえに癒してもらうから心配するな」
「そ、れは……っ……は、ハイ……」
 耳が真っ赤なところを見るだけで何を考えているかが伝わってきて気分がよくなる。ずっと一緒だと、死んでも魂は俺のものだと言ったところでおまえの不安がなくなることはないだろうが、少しずつ軽減してやれればそれでいい。
「さて、待たせた分の罰を俺に課せ」
「へ?」
「マスターを寂しがらせたんだ。そのくらいはして当然だ。なんでも言ってくれて構わないぞ」
「え、あ、いや、そんな、だって、買い物してきてくれたんでしょ……?それで十分、」
「いいや俺がそれでは足りないと思っているんだ」
「あっそれにお土産も買ってくれて」
「それはそれ、これはこれだ。ちなみにバラもおまえになんだが、ここには一輪挿しがなかったな。ああ失態だ。その分も求めてもらわないといけない」
「は、はぇ!?そんな……ってルシファー!?揶揄ってるでしょ!!」
「くくっ……!本当におまえは……!」
「っ〜〜!!じゃ、じゃあ命令!するんだからね!本当にするよ!?」
「ほぅ?言ってみろ」
「いいの!?取り消しできないんだよ」
「もとよりそのつもりだ。おまえのしたいことをしにここまで来た」
 その言葉に対してそれ以上は何も言い返せなくなったようで、彼女はむぅと唇を尖らせたが、俺が耳を寄せると、そこに小さく小さく願い事は放たれる。
「なにもいらないから、残りの間ずっとそばにいて」
 予想通りの言葉に満足した俺は軽いリップノイズを贈ると、残された時間でどう彼女を甘やかそうかと考えを巡らせた。

甘いクロワッサンダマンドが俺たちの胃に収まったのは、それからまた数時間後のことだった。
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