◆薄明の暁星

 カーテンの隙間から溢れた光で意識が覚醒した午前八時。やった!晴れた!と思ってそれを勢いよく開けると、雲間から一筋の光が差し込んでいるだけだったので項垂れてしまった。ここイギリスでは、晴天という日は大変珍しいのだ。気をとりなおして、またすぐ雲に隠れた太陽に、おはようと告げる。
 毎日カレンダーにチェックを入れながらずっとずっと待っていた時間がやっときたのだから、そのくらいで気分が悪くなるようなことは絶対にない。
 クローゼットを覗き込むと、昨日準備しておいたミモレ丈のワンピースが今すぐ身につけて!と訴えてくる。昨日はこれが最適だと思って準備したのだけど、今見てみると気合が入りすぎなような気もしてくる。細身のパンツにニットを合わせるくらいの方がいいんじゃないだろうか、なんて。
 着て、鏡でチェックして、脱いで、また着て、を繰り返し、疲れてきた頃に結局最初のワンピースに決めた。出て行く前からこんな調子じゃこの先大変なことになっちゃうかもと苦笑しつつ、クロワッサンをアップルジュースで流し込んでさっとお腹を満たしたら、お化粧に取り掛かる。
 私の人間界での部屋はごくごく小さいスタジオフラットの一室。だけど、寝室とキッチンが分かれていてバスルームまである間取りであることを考えたら素晴らしすぎる空間であることには間違いない。こんないい場所に住めるのは偏に祖母がこの部屋を遺してくれていたからだ。こんな場所に自費で住もうと思ったら、まず間違いなく破産だったろう。
 日本で就職したはいいけど色々な事情があってロンドンに移住してきた私だったのだが、それ以上に色々あって魔界に留学することになり、結局この家に住んだのも二週間ほどだけ。それでも戻ってきてみれば意外と「自分の家」である実感はあり、割と馴染んでいたことを知る。
「ま、もう魔界も実家みたいなものだけどね……よし!メイクもおっけー!」
 薄くグロスを塗った唇をんぱっと開けて準備は完了。メイク道具を片付けてバスルームを後にすれば、ちょうど出発の時刻になっていた。忘れ物はないか確認してから玄関に向かう。
「あれっ……晴れてる……」
 部屋の窓から覗いた時とは打って変わって、空には青みがかった雲がいくつか流れているだけで、とてもよく晴れていた。珍しいこともあるものだなぁ、と思いはせど、晴天で嬉しいことには変わりはない。願いが叶ったと吊るしておいたてるてる坊主にお礼を言いながら、ローヒールのパンプスに足をおさめ、青空の下に躍り出た。
 魔界から帰ってきてから代わる代わる遊びにきてくれていた兄弟たちのルーティンがついに一巡りして、ルシファーの番になったのが今日。珍しくも『時間が取れるから十日くらいはそっちにいられそうだ』なんて嬉しい申し出があったのを二つ返事で受け入れたのだけど、その「時間」が途方もない苦労のもとに成り立っていることを、私はちゃんと知っている。知っているからあえて口にしなかった。こっちでゆっくりしてもらうことが、一番のお返しだと思ったから。
 そんなことを考えていると自然と早くなる足取りにちょっとだけ息が上がってきて、そんな自分に恥ずかしさがこみあげる。このまま行ったらだいぶ早くついてしまうけど、待つ時間だって楽しいから別にいい。それに本当なら部屋に直接扉を繋いで貰えばよかったのを、恋人っぽいことがしたいから街中で待ち合わせしない?、なんてわがままを言ってこうしているのだ。ルシファーを待たせるだなんてもってのほか。三十分くらいなんのそのーーそういう気持ちでいたのだけど。その姿を目に捉えた私は思わず目を見張ってしまった。
「なんで、いるの……っ!」
 一体どのくらい前からそこにいるのか。駅前に広場があるからそこにいてね、と言ったのは私……なんだけど、ちょっと絵になりすぎるその立ち姿に思わず足を止めてしまった。が、こんなことをしている場合じゃない。どれだけ待たせているのかもわからないのだ。すぐに気を取り直して近づいていく。
 彼の視界に入るような場所からの登場になっていなくてよかった、とばかりにルシファーの背中に勢いよく抱きつけば、身体はびくともしなかったけれど、すぐにこちらに振り向いた。それを感じ取って背中からそっと視線を上げると、ルシファーの紅の瞳に私が映る。途端、自分のした行為があまりにも子どもっぽく思えてきて、かけるべき言葉が口から出てこなくなった。
 なんていう予定だったんだっけ、私。久しぶり?元気だった?人間界に来るの大変だったでしょう?あ、いや、扉をくぐるだけなんだから大変ではないのか。えーっとえーっと……と頭がぐるぐる。
「……ま……待たせちゃっ、た、よね?」
「いや、今来たところだ」
「っ、ぁの、!」
「ははっ、なんだ、そんなに緊張して」
「き、緊張なんてっ」
「大衆の前で抱きついてきたのはおまえの方なんだが、それについては問題ないんだな」
「!?」
 声にならない声をあげてバッと腕を上にあげた私を見てまた楽しそうに笑ったルシファーは、ふわりふわりと私の頭を撫でてスッと目を細めた。その奥に滲む色は、愛おしいと告げてくる。
「久しぶりだな。元気そうでよかったよ」
「っ!」
「それから、会いたかったのが俺の方だけじゃなくてよかった」
「んなぁ!?」
「熱烈な出迎えに応えるにはキスの一つでもおくるべきかな、俺は」
「っちょ、だめだめだめ!いくらここが魔界じゃなくたってそういうのはだめぇっ!」
 久しぶりの甘い台詞の数々に、体温が急上昇するのは止められない。鼻から下を手で覆ってもだもだ足踏みをしてNOの意思表示。すると案外かんたんに「それは残念だ」と言ってくれたのでほっとした……のも束の間、なぜかルシファーの顔が近づいてきてビクッと身体が固まった。
 それをルシファーが見逃してくれるはずもなく。腰を取られて少しそちらに引き寄せられたと思ったら、耳に直接吹き込まれた言葉に、ノックアウトしたのは当然のことだった。
「この続きはおまえの家でやらせてもらうことにしよう」
「ひぅっ!」
「今は、そうだな。せっかくだからまずはランチでも。それからおまえの行きたいところに連れて行ってくれ」
 パッと離れたころには、私の手からハンドバッグが無くなっていて、さぁ行こうと促される。
「えっ、るしふぁ、それ私のっ」
「おまえに案内させるんだ。これくらいはさせてくれ」
「でもルシファーの荷物は!?」
「俺のことは心配するな。それとも俺と歩くのが嫌か?」
 思ってもいないことを口に出され、ぐっと喉が詰まる。そんなことがあるわけない。従う以外どうしようもなくなった。ここは開き直って今までのぶん、目一杯楽しもうと決意して、ルシファーの腕に自分の腕を絡めると、そのまま逆方向へ引っ張る。ちょっとくらい私の行動で戸惑うルシファーが見たいなんて天邪鬼かな。
「そっちじゃなくてこっち!」
「そうなのか」
「カフェに行ってから観劇するの!チケットも取ってあるから、行こ!」
「なるほど。わかった。……いや、その前に」
「なに?」
「今日の服、似合ってるな」
「は、」
「RADの制服やパーティードレスとも違って、いい」
「っ……もぉ〜!!ルシファーのばかぁ……恥ずかしい……」
「一生俺にだけ振り回されてくれ」
 にこやかな笑顔に敵うわけもなく、真っ赤にした顔のまま、私はルシファーと連れ立って街に繰り出したのだった。
 それから数時間。私とルシファーは普通のカップルのようにデートを楽しんだ。慣れない土地だからあまり詰め込み過ぎもよくないなと思って、今日は観劇と美術館を訪れる程度にし、夕飯の買い出しをすると早々に部屋へと戻る。
「ルシファーの部屋より小さいからね、あんまり期待しないでね?」
「俺をなんだと思ってるんだおまえは。独り暮らしの女性の部屋が豪華だなんて想像は元からしていない。それくらいの人間界の常識はわきまえてる」
「それはそうなんだけど……この前マモンが来た時ドアで頭ぶつけて『ちっせぇな!』って怒ってたから一応」
「俺とあいつを一緒にするな」
 注意喚起もそこそこに部屋に招き入れ、何か言われる前に、奥のドアの向こうが寝室になってるからそこに買った日用品を置いといてもらえる?、と声をかける。それから私は買ったばかりの食材を片付けてしまおうと冷蔵庫に向き合う。
「うーん……全部入るかなぁ」
 人間界で二人分の食材を一気に買い込むことなど皆無なので、冷蔵庫の大きさを見誤ったかもしれない。ここにこれを入れて……などと悩んでいると、ルシファーが「おい」と、何故かとても不機嫌そうな低い声をあげたので驚いてそちらに顔を向けたら、彼は寝室の扉を開け放ったままで固まっていた。
「?何してるの」
「おまえの部屋はここだけか」
「え?だからそう言ったでしょ……っあー!やっぱり小さいって思ったんでしょ。常識があるんじゃなかったの?」
「違う。俺が言いたいのは広さのことじゃない」
「じゃあ何が気になるの?」
 何かそんな変なものがあったかと心配になってきた私は、手を止めてルシファーの方に歩み寄り、ドアを支えたままになっている彼の腕の下から自分の部屋を覗き込んだ。くるりと見渡すも、出発した時と特に変わった様子はない。
「別に何もないじゃない?」
「あるだろう」
「ええ……?ご、ごめん、あの、わかんない、デス……」
「おまえの部屋にベッドは一つなのか」
「ベッド?……あ、うん、独り暮らしだし二つもいらないからね……?」
「この小さいベッド一つか?」
「ルシファーの部屋にあるようなベッドがこんなとこに置けるわけないでしょ!?」
 ルシファーが何が言いたいのかわからずちょっとムクれ始めた私に対し、咎めるような視線が私を射抜いた。
「っ……な、なん……でしょう……?」
「あいつらと寝たのか」
「は…………はぁ!?なんて事聞くの!?そんなわ……あっ、えっ……ええ……そういうこと……?」
「そうなんだな?」
「ちょっちょちょちょ、落ち着いて!?」
 狭い室内だ。数歩後ろに下がればキッチンに置いているテーブルに背中があたり、それ以上逃げられないことを悟る。ルシファーの手が私を囲い、テーブルにつけられたら逃げられない。
「待って!誤解!誤解だから!寝たってそういうことじゃないし、えっとえっと、マモンはソファーで寝るからいいって言って聞かなかったしレヴィとはゲームしてたからそもそも眠ってないし、サタンも買った本を一日中読んでて朝になってたし、ベールの体格じゃこのベッド小さすぎたからベールもソファーで寝てたから本当に」
「アスモとベルフェは」
「っ、」
「言えないのか?」
「あ〜……あの二人は……ベッド、使ってくれたけど……っでもだからって何かやましいことがあるわけじゃないったら!」
 目と鼻の先で黒い笑みを浮かべたと思えば、ルシファーはとんでもないことを口走った。
「あいつらには今後、人間界に宿泊する権利は与えないようにしよう」
「ええっ!?理不尽すぎじゃない!?」
「何を言っているんだ。このベッドで寝ていいのは、俺だけだ。そうだろう?」
「っ〜……!!」
 ルシファーにとってもこのベッドは小さいよ、とは口に出せなかった。だってそうしたかったのは私も一緒なんだもの。こういうやりとりにだって、実のところ嬉しいやら愛おしいやらで胸が煩くて身体が熱くなってくるのを止められないのに。
 精一杯の抵抗で目を逸らしたけどそんなことが許されるはずもなく、赤いマニキュアで彩られた指が頬に伸びてきた。たいして強い力でもないのに、つつつ、と肌を滑っていくその感覚に抗うことができず視線が絡み合う。
「それはそれとして。半日以上も我慢してたんだ。キスの一つくらいさせてほしいんだが」
「でも、その、ゆうごはん、が」
「そんなものはいつだっていい。それに俺を満たせるのはおまえだけだしな」
「ッ、るしふぁ」
「それとも、そうしたいのは俺だけか?」
 ずるい。そんな風に哀愁を漂わせてそんなセリフを吐くなんて。私が嘘でも否定の言葉を音にできないのを知っていて、そんなことを言う。降参、の二文字も、今この状況で口に出すのは少々難易度が高いので、胸の前でモジモジさせていた手を伸ばしてルシファーの首筋に触れると、キョトンとしたルシファーが次第に口元を綻ばせた。
「くくっ……おまえは変なところで恥ずかしがるんだな。ここには俺とおまえしかいないのに」
「……っそういうのは、関係ないのっ!」
「もう少し素直になれ」
 そうして優しく囁かれてしまえば、本音を言う以外の選択肢は取れなくなった。小さく、会いたかった、と呟くや否や唇を塞がれ、あとは気の向くまま甘い唇を貪り合う。
 今日からたった十日だけど、二人きりでいられる時間が楽しい時間になりますようにとの願いは、人知れず空を滑ったお星様だけが知っていればそれでいい。
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