obm V!

 それは死刑宣告にも等しかった。
「差し支えなければ、鞄の中に大切に隠しているそちらも、ぜひ受け取りたいのですが」
 今しがた渡したばかりの、マダムスクリームのバレンタイン限定マカロンが入ったショッパーを手に持ったまま、バルバトスはにこりと笑ってそうのたまった。この魔界で最も豪奢な建築物――魔王城の中でも特に多くのレインボーローズが咲き乱れる一角に用意された、雪のように白いティーテーブルを挟んでの会話だった。
「な、何言ってるの?」
 動揺に思わず声が揺れる。
 まるで全てを知っていると言わんばかりに細められる深い緑から決して目を逸らすことなく、私は足元に置いたボルドーのショルダーバッグへと意識を向けた。バルバトスから遠ざけるように、そろりと足の位置を動かして鞄を隠す。
 きっとバルバトスは私の行動に気づいているだろう。ならばそれが意味するところも正しくお見通しに違いない。それでも私は、なけなしのプライドのために嘘を吐かざるを得なかった。
「今渡したので全部だよ」
「おや」
 形のよい眉が片方だけぴくりと上がり、深碧がくるりと丸くなる。
 目を見開くという行動は驚きを表すボディランゲージのはずなのに、しかしバルバトスの表情には驚きなど微塵も見受けられなかった。開かれた両目はすぐに細められる。まるで子供の突拍子もない発想を楽しんでいるような笑顔は、少なくとも恋人に対して向けるようなものではないと思うけれど。
「では、今はそういうことにしておきましょうか」
 テーブルに両手をついて、対面の椅子からバルバトスが立ち上がる。「いただいたマカロンに合うお茶を用意してまいりますので、少々お待ちください」と小さく一礼をして花園を辞す声は、どこか楽しそうな響きを含んでいた。

   ✿

 絶対に手作りにはしないと最初から決めていた。
 交換留学生として魔界へやってくる前から料理は時々していたが、お菓子作りはからっきしだった。
 お菓子作りの記憶といえば、年に数回、気まぐれのようにホットケーキを焼くくらい。果たしてホットケーキをお菓子に含めるかどうかは議論の余地があるだろうが、要はその程度ということだ。
 お菓子作りの経験値不足。レヴィアタン風に言えば圧倒的なレベリング不足。低レベルの主人公がいきなり最終マップに放り出されたら一瞬でゲームオーバーになってしまうのと同じように、バレンタインだからと色気づいたところで、一朝一夕にお菓子作りの腕が上がるわけでもない。
 誰に言われずとも、そんなことは自分が一番よく分かっていた。女の子ならば見た目にも美しく美味しく可愛いお菓子が誰でも作れるなんて、そんな幻想はまやかしなのである。
 そう思っていたからこそ、私の行動は早かった。手作りにしないのであれば市販品を買うしかない。ハッピーデビルデーの余韻がようやく抜けきった頃から魔界のバレンタイン情報の収集を始めていた私は、早々に恐ろしい事実を知ることになる。
「魔界のチョコレート、高すぎじゃない……?」
 ショーウインドウに展示されているサンプルに惹かれて入店しては、可愛くないお値段を目の当たりにしてすごすごと退店することを繰り返す。
 お菓子の類いに疎い私でも、チョコレートが非常に奥の深い、繊細なものであると聞いたことくらいはある。菓子作り専門のシェフをパティシエと呼ぶが、中でもチョコレート専門のパティシエはショコラティエと呼ばれて、特に区別されているそうだ。それを考慮すれば、きっと技術料まで含めたお値段設定だろうことは想像に難くない。
 私だって職人に敬意を払う気持ちがないわけではない。とはいえ用意する個数を考えると、慎ましい私のお財布では到底太刀打ちできそうにないのであった。それでも「これがいい」と思うものが目の前にあるのに、値段を理由に他のものへ変更するのも違う気がすると、自分の中で誰かが囁く。
 こういうのは気持ちが大切だとはよく言ったものだ。しかしそれは最低限の質を確保した上での話であると、私はこの魔界の片隅で痛いほどに感じている。たとえそれが普段からお世話になっているひとたちに対する、いわゆる友チョコのような感覚であるとしても、ひとり当たりプラリネ二粒で済ませようというのはさすがに私が許せない。
 すっかり意気消沈してしまった私は、止むに止まれぬそんな事情から、嘆きの館までの帰り道にあるスーパーで板チョコと生クリームをひっそりと買い込んで帰宅したのだった。

 みんなが寝静まった深夜にそろりとベッドを抜け出して、やや肌寒いキッチンに立つ。
 パジャマにエプロンという少々間抜けな格好はご愛嬌。こちとら人生初の手作り生チョコレートの練習を始めるのだ。手際の悪い自分がスムーズに進められるわけもないのだから、使える時間は有効に使いたい。要は着替える時間も惜しいのだ。
 自室として与えられた部屋がキッチンの目の前にあるのは僥倖だった。時間はもちろんのこと、こんな姿を誰かにうっかり見られるわけにもいかないのだ。移動距離が少なければ少ないほどいい。誰かに見つかる可能性もぐんと下がるのはありがたい。
 板チョコを包丁で細かく刻み、温めた生クリームに入れてはよく混ぜる。何度かに分けてそれを繰り返しチョコを溶かしきったら、あとは型に入れて冷蔵庫で冷やすだけの、お菓子作り初心者でも作れるような簡単チョコレートだ。
 もっと凝ったものが作れたらと思わないでもないが、自分の腕前を考えたらこれが限界だろう。誰が聞いているわけでもないのにそんな言い訳をして、明日の食事当番に見つからないよう型をハンカチで包み、食材の影に隠すようにして冷蔵庫の端にそっと仕舞った。

 結論から言えば、これがなかなか様になったのだ。さすがはお菓子作り初心者向けの王道レシピなだけはあって、溶かして混ぜて固めるだけでもそれらしい味と食感になったのが嬉しくて、思わず顔を綻ばせる。
 これなら手作りを配れるかもしれないと手応えを掴んだ私は、それから様々な生チョコのレシピを試した。使う板チョコの種類を変えたり、生クリームを変えてみたり、分量を変更していくつか試作し、口溶けのなめらかさを比べてみたり。
 その中でも特に気に入ったレシピが、隠し味にデビルハニーを入れるものだった。生クリームは脂肪分の多いものを使った方が味にコクが出るが、引き換えに分離しやすくなり、ざらつきが残って舌触りが悪くなる。この分離を防ぐのがデビルハニーで、チョコの甘さに蜂蜜の甘さも加わって、舌に乗せた途端にとろとろと溶け出すような味わいに仕上がった。
 これなら自信を持って配れると、私はほっと胸を撫で下ろす。練習に使った材料費とラッピング代を計算しても、全員分を市販で用意するよりは遥かに安上がりなことも助かった。薄い財布をぱかりと開いて、バルバトスの分だけはマダムスクリームで調達できる程度の残額があることも確認する。
 それだけはどうしても譲れなかった。いくらチョコレートが甘くても、付け焼き刃のレベリングで挑めるほどお菓子作りの魔王――彼は魔王ではなく執事だが――は甘くなく、そして恋する乙女心も複雑であった。他の誰に手作りを渡せても、バルバトスにだけは一向に渡せる自信が湧いてこない。
 渡す勇気など微塵もないくせに、同時に自己採点で一〇〇点満点中一二〇点を叩き出したこの生チョコをバルバトスに食べてほしい、という気持ちを抱えているのも厄介だった。「この会心の出来なら渡せるのではないか」と優しく囁く悪魔と「相手はあのバルバトスだぞ、冷静になれ」と諭す天使とに挟まれ、深夜のキッチンでひとりうんうんと唸った私は散々に悩んだ末、結局「渡すも渡さないも自分の自由なのだから」と言い訳をしながら、ラッピング資材を入れたビニール袋から箱をひとつ追加で取り出したのだった。

   ✿

 バルバトスの姿が見えなくなったことを確認して、私は足元のショルダーバッグに手を伸ばす。特に気合いを入れてラッピングした包みに指が触れ、一呼吸置いてそれを鞄から取り出した。
 濡羽色の包装紙に深緑のリボンをあしらったボックスは、誰がどう見てもバルバトス宛てにしか見えないだろうし、まさしくバルバトスに渡すことができればいいな、などと夢見る恋心が用意したチョコレートだ。
 バルバトス用に手作りを用意しているなんて恥ずかしくて誰にも言っていない。鞄に忍ばせるところを誰かに見られていたなんてこともあり得ない。それなのにバルバトスは知っていた。
 なぜ知っているのかはこの際もうどうでもいい。どうせあれだ、先に配り歩いてきたうちの誰かが「手作りのチョコをもらった」などとチャットを飛ばしているのだろう。俺もぼくもと返事が続けば、バルバトスとて察しもつこうというものだ。
 問題はそこじゃない。バルバトスに知られてしまっていることだ。
 気づかれている以上、しらを切り通したところで見逃してもらえるとも思えない。渡すように仕向けられるのも時間の問題である。そうなったら逃げおおせることなど到底不可能で、それを回避する方法はただひとつしかなかった。この場ですべて自分の胃に収めて、チョコレートの存在をこの世から抹消するしかないのである。
 そうと決まれば急がなければと、リボンの端を摘んでするりと解く。包装紙を外しボックスの蓋を開け、
パラフィン紙の上に添えたたまご色のピックを持ち、そっとパラフィンをめくり上げる。
 現れたのはそれぞれデスココアと粉糖と熱砂イチゴパウダーを纏った三色九切れの生チョコレート。三種も入っているのはもちろんバルバトスのみの特別仕様だ。あからさまな本命チョコに我ながら苦笑が漏れる。
 これを今からすべて平らげる。こんなことになるのなら特別仕様になどせずに、他のみんなと同じようにミルクチョコレート六切れにしておけばよかったと思っても、用意をしたのは昨夜の自分である。本当に、恋する乙女の深夜の気の迷いとは恐ろしい。
 どれから食べようかなど迷うこともなく、右上のミルクチョコレートに狙いを定めてピックを刺す。昨夜のうちにすべて味見は済ませているので、今更味わって食べるもへったくれもない。今はとにかく早く食べ尽くすことが先決だと、私は一切れを口に運んだ。

「いけませんよ。それは私のチョコレートでしょう?」
「――ッ!」

 突然耳元で声がしたのと同時にピックを口へ運ぶ腕をぱしりと掴まれて、私は思わずびくりと肩を揺らした。声なき声で悲鳴を上げ、弾かれたように右へと顔を向ける。
 バルバトスの整った顔が肩のすぐ横にあって、今度はひくりと息を飲んだ。取られた腕はぐいと引かれ、開かれた口元へとピックが吸い寄せられていく。その様を私はひとつの瞬きもせずに見ていることしかできなかった。
 自己評価一二〇点のミルクチョコレートが薄い唇のあわいに消えていく。
 閉じた唇の間から静かにピックを引き抜いて、そこでようやく私の右腕は解放された。
 私の高さに合わせて腰を折っていたバルバトスが、深碧を瞼の裏に隠して立ち上がる。目を閉じているのは味を正確に感じ取るためだろうか。隠すように口元に手を当て、何かを確かめるようにチョコレートを口の中で転がしている。
 やがて満足したのだろう。一箇所ぽこりと骨の浮き出た喉がゆっくりと上下するのを呆然と眺めていると、ぱちりと持ち上がった瞼の下からこちらを見ていた碧と、見上げる私の視線が交わった。切れ長の目尻はとろりとどこかくすぐったそうに溶けている。
「ありがとうございます。甘くて、とても美味しい生チョコレートですね」
「う……」
「ふふ。もうひとつ、食べさせてくださいますか?」
 再び腰を曲げ、椅子に座る私の顔と高さを合わせたバルバトスにそう「お願い」をされる。
 驚きと緊張で思うように動かない腕をなんとか動かして今度はホワイトチョコを刺し、落とさないようにバルバトスの口元へと持っていく。開かれた唇と赤い舌が白いチョコレートを捕まえたのを確認して、私はぐっとピックを引き抜いた。
 目の前の穏やかな碧の鏡に、恥ずかしそうに頬を染めた私が写り込んでいる。そう認識した途端に、バルバトスにそっと両肩を掴まれた。え、と思う間もなく近づいてくるバルバトスの顔に、私は慌てて目を閉じる。
 ほんの一瞬、唇が触れたかどうかの軽いキス。
 すぐに離れて、止まって、もう一度。
 繰り返し触れては離れる子供騙しのようなキスなんかじゃもう足りなくて、自分からおずおずと舌を差し出せば、甘い塊が舌先でころりと押し込まれた。
 ふたりの吐息が混ざりあい、私の舌の上でチョコレートを溶かしていく。チョコを追って侵入したバルバトスの舌が、とろりと溶けたチョコレートを隅から隅まで舐め取っていった。チョコレートが跡形もなく溶け切っても、まだ甘さが口の中に残っているような気がして、互いに舌を絡めあうのをやめられない。
 やがてほんの少しの甘さもなくなったころになって、ようやくどちらからともなく唇を離す。ふたつの唇を繋いでいた細い銀糸がふつりと切れるのを視界の端に認めて、私は熱砂イチゴパウダーを纏った淡いピンクのチョコレートにピックを刺した。
「気合い入れて作っちゃったから、まだあと七つ、あるんだけど」
「はい」
「全部、受け取ってもらえる?」
 見上げる私の瞳にはきっと熱が籠もっていただろう。
「もちろんです。あなたからのチョコレートなら、すべて残さずいただきます」
 そう応えるバルバトスの瞳の奥にも、熱がゆらゆらと揺らめいているのだから。
7/12ページ
スキ