obm V!

 変な時間に目が覚めてしまった。今日と明日の境界線が目に見えたのなら、あと一歩踏み出せば明日に変わる、そんな時間。隣のベッドではベールが気持ちよさそうに寝息を立てている。目が冴えているぼくと、眠りこけるベール。ぼくたちの部屋の真ん中にも同じように目に見えない境界線があって、こちらとあちらで世界がひっくり返ったみたいだ。
 何時間寝たんだろう。RADから帰宅してすぐに眠ってしまったので夕飯も食べていない。食事よりも睡眠、なんてよくあることだからそれは良い。でも。
 ぼくは枕元に放り投げてあったD.D.D.に手を伸ばした。
 
「起きてる?」
 あいつに送信したメッセージにすぐに既読マークがついて嬉しくなる。
「起きてるよ。ベルフェはこんな時間に起きちゃったの?」
「うん、目が冴えちゃった」
 あんたがまだ起きててくれたから余計に。
「お夕飯も食べ損ねていたけど大丈夫? お腹すいたりしてない?」
 きっと心配してもらえる、気にかけてくれる事をわかっていて、メッセージを送るぼくはわがままで、狡い? あんたは本当にお人好しで優しいよね、誰にでも。
「食事は別に大丈夫。でも眠れそうにないや。ベールのイビキも煩いし」
 ベールがイビキをかいているっていうのは作り話。ごめんね、ベール。でもぼくがあいつに今から掛ける魔法に必要なんだ。
 ぼくが送信したメッセージの斜め左下。鉛筆のイラストが何か書こうとしては消えて、また現れては消えて。チャット画面の向こうであいつが「なんて言おうかな……」ってぼくの魔法にかからないように抵抗しているみたいでなんだか可笑しくなった。でもそんな抵抗意味ないよ。あんたはぼくに甘いから。
 
「早く落ちちゃいないよ」
 ディスプレイで揺れるあんたの鉛筆に、届かない言葉を口にする。
 
「なら私の部屋に来ますか?」
 ほらね。
 
 ぼくの魔法にまんまと掛かって、欲しい言葉をくれたがあんたが愛おしくなったのか。考えあぐねた末に語尾が固くなってるのが面白かったのか。口元が綻ぶのを自分自身どうしようもない。
 ぼくはお気に入りの枕と一緒に静かに部屋を出た。
 
 
 控えめにノックをしてみたけれど応答がない。もう一度……やはり何のリアクションもない。ついさっきのお誘いを忘れて先に寝てしまうはずもない。兄さん達に見つかったら厄介なので大きな声を出すのも気が引ける。考えながらふと視線を足元にやるとドア下に小さなメモが挟まっているのを見つけた。
【お茶を入れてくるので入って待ってて】
 宛名もなければ差出人だって書いていないそれが妙に嬉しくて、ポケットにしまってそいつのお言葉に甘えることにした。
 
 いつもはマモンやレヴィ達がなんやかんや理由をつけてやってくるあいつの部屋も、勿論あいつも、今はぼくだけのもの。ランタンと蝋燭の柔らかな明かりと、あいつの甘い匂いで満ちたこの部屋はとても温かい。
 きれいに整えられたベッドに並んでいる枕を少し移動させて、ぼくの枕を隣に置いた。先にベッドに入っていようかとも考えたが、せっかくメモで「待ってて」ってお願いしてくれたんだ。「いい子に待ってたよ」なんてわざとらしく言って真っ赤になるあいつを見るのも悪くないな。ちゃんと起きて待っていようとぼくは木製のチェアに腰かけた。
 テーブルの上に人間界の雑誌が置いてある。表紙にはクロスと花で飾られたテーブルの上に、ハートや丸やひし形のチョコレート、赤いリボンがかかった小さな箱。そして大きな文字で「バレンタイン特集」と書かれていた。よく見ると一部端が織り込まれているページがあるようだ。
 雑誌を手元に引き寄せて、テーブルに片肘を立て、頬杖をついてページを捲ってみる。
 
「今年はひと味違うバレンタイン」
 
 記事の森で迷子にならないように、あいつに印をつけられていたのはそんなページだった。
 バレンタインはチョコレートや贈り物と一緒に大切な人に愛を伝える日、そんな風にあいつが話していたことを思い出す。
「へぇ。パートナーと一緒に叶える、愛を祈り祝う日。か」
「私の国ではチョコレートが主役になりがち」だと聞いていたけれど、このページにはオススメの贈り物、食事やデートプランの写真が並んでいる。
「あいつもこういうのやりたいのかな……」
 でも相手は? あいつがパートナーと呼ぶのは誰?
「何も聞かなくったって、ぼくはあんたのこと、ちゃんとわかってる」
 いつかあんたに見せた自信。言うのは簡単。自信があるのも嘘ではない。でも、本当は聞いてしまいたくなる。あんたの一番は誰? ぼくの事どう思ってる?
 ぼくの事本当はまだ怒ってる?
 そんなことを考えていたら部屋の主が戻ってきた気配がして、雑誌を元あった位置へとそっと帰してやる。そして立ち上がって扉を開けてあげた。
「おかえり」
 扉の前にはティーカップを両手にひとつずつ持った彼女が立っていた。
「ありがとう。開けられなくて声かけようかと思ったけど助かっちゃった。さすがベルフェだね」
 あんたはいつもそうやって微笑んでぼくを甘やかしてくれるから。狙い通り部屋に誘わせたうぬぼれにも似た気持ちも、あんたの顔を真っ赤にしてやろうと考えていた悪戯心も全部どうでもよくなって。
 結局あんたには勝てないよね。
 ぼくは二つのココアを引き受けて、「まぁね」とだけ返した。
 二人並んでベッドに腰かけて、ココアに口を付ける。温かくて優しくて、身体の芯から染み渡っていくようだ。これがココアじゃなくホットチョコレートだったなら。より濃厚で豊かな気持ちになるんだろうか。ココアバターが多いか少ないか、あんたの本当の気持ちを知るか知らないか。
 
 ぼくは聞かない。
 
 
 
 朝とベールがぼくたちを迎えに来て、朝食の席でぼくはみんなに咎められた。
「そいつを困らせるな」ルシファーが眉を顰め、「なんでベルフェばっかり」レヴィに嫉妬され、「なんで一緒のベッドで寝てんだ」とマモンが騒いでいる。
「誘ったのは私だから」
 悪いのは私、とあんたが目を細めて首を傾げたものだから皆一斉に黙ってしまった。あんたにはぼくだけでなく、誰も勝てない。
「全く……おまえもあまりベルフェを甘やかすな」
 ルシファーのため息と一言でいつもと変わらない朝食と、日常が始まった。
 
 
 
「……とか可愛くない?」
「あいつはそれより……」
「どれも美味そうだ」
 リビングルームのソファに横になって目を閉じて、寄せては返す微睡みの波打ち際に身を任せていた。あと少しで眠りの波が攫ってくれそうだったのに、遠慮のない喧噪が横から入ってきて防波堤の役割をなした。諦めて体を起こし、瞼をこする。マモン、アスモ、ベールが部屋に入って来るところだった。
「ベルフェ! ちょうどよかった、どう思うか聞かせてよ」
 各々ソファに腰かけて、ぼくの向かいに座ったアスモが雑誌をこちらに差し出してきた。
「なに? またバレンタイン?」
 雑誌の表紙に書いてある「人間界のバレンタイン」という文言に思わずそうこぼしてしまう。
 話を聞くと、どんな贈り物が一番あいつを喜ばせられると思うか、という話題で盛り上がっていたらしい。
「ぼくはやっぱりこのチョコレートだと思うんだよね。あの子だってチョコレートは王道だって言ってたし」
 アスモがそう言って指さす写真はまるで宝石のような光沢のあるチョコレート菓子。人間界の味を完全再現、なんて一言がなんか胡散臭くてイミテーションジュエリーみたいだ。
「それよりもやっぱあいつが一番喜ぶのはクラシカルな大人のケーキだろ」
 マモンがドヤ顔で提案してきたのはマダムスクリームのチョコレートケーキだった。確かにそれは美味しいよね、無難って感じだけど。
「美味ければなんでもあいつは喜ぶ」
 それはベールでしょと三方向から突っ込みを入れられるが、その通りな気もする。
 ああでもないこうでもないと話しながら読み進めていく。ページを捲るアスモの指がぴたりと止まって、四人の視線が一様にある写真に注がれた。黒猫の描かれた箱に、黒猫のチョコレートと焼き菓子の詰め合わせ。一瞬の沈黙の後、
「これ喜ぶのはサタンだろ!」
 というマモンのツッコミで笑い合った。
 それからみんなは思い思いの贈り物を探しに出かけて行って、リビングルームにはぼくとあらかた読まれた雑誌と静けさが残される。漸く昼寝が出来そうだ等と、本当は少し寂しい気持ちに気づかないふりをして再びソファに横になった。そういえば写真のないページは読み飛ばされていたっけ。テーブルの上の雑誌に手を伸ばし、うつ伏せに体勢を変えて、未読のページに目を落とす。人間界の各国のバレンタインデーの習慣の違いが記事になっていた。そんな中でもぼくの興味がある一点に着地して、暖炉の薪が爆ぜる音と一緒に閃きのようなものに変わった。
「これ、いいかも」
 上体を起こしポケットに手を入れ、昨日の記憶の行方を探る。小さな紙切れがぼくの指に触れた。あいつの名前さえも書かれていないのに、彼女の優しさが詰まったそいつの存在を再認識したとたん、ポケットと胸の中が熱を持つ。暖かい室内に散々甘やかされた身体を、二月の冷たい外気に晒すのも怖くはなくなった。
 先の三人に遅れてぼくもプレゼントを探す為出かけることにした。
 
 
 バレンタインデー当日が明日へと迫り、館中が人間界の風習に浮足立っていた。あいつからの贈り物に期待したり、どのように改めて気持ちを伝えようか悩んだり。夕飯が済み、銘々そんな雰囲気にはあえて気がつかないようにして普段通りを装っているかのようだった。勿論ぼく自身例外ではない。屋根裏部屋へと向かういつもの螺旋階段が妙に長く静かに感じた。
 
 屋根裏部屋のベッド脇に隠しておいたあいつへ渡す手提げのギフトバッグ。持ち手を軽く広げ中身を確認する。
「プレゼントは大丈夫。あとはどうやって渡すか」
 そう、未だにどのようにしてあいつに贈ろうか、決まってはいなかった。その理由は中身と、ぼくがやりたい事にあった。
 プレゼントと一緒に用意したメッセージカードに秘密がある。内容はいたってシンプルだが、差出人、つまりぼくの名前は書いていなかった。
 雑誌で目にした記事の中に
 ――差出人を記載せずにメッセージカードを贈り、受け取った相手が「誰からだろう」と相手を想像しドキドキする――
 というものを見つけて、それに倣ってみることにした。あいつに、一味違うバレンタイン、をあげたかったから。
 直接渡したのでは意味がない。かといってあいつの部屋のドアノブに掛けておいたのでは味気ない。出来る事なら日付が変わるタイミングであいつに見つけてもらいたい。
「やっぱり受け取ってもらうのはあそこがいいな」
 
 
 夜しかない魔界の中の、星空を切り取った特別な部屋。プラネタリウムのソファに座って、右サイドのテーブルにギフトバッグを置く。ぼくたちの思い出と約束が天井いっぱいに瞬き輝くこの場所で、ぼくの気持ちとプレゼントがあいつに届くのが理想だった。とはいえチャットで呼び出しても意味がないし、どうしたものか。考えれば考えるほど、この部屋の星空とは違って、頭の中には雲がかかる。
 日付が変わるまであと二時間。
 
 
「ベルフェ、風邪引いちゃうよ。起きて」
 身体が優しく揺すられて、眼をあけるとまだぼんやりした視界に大好きな人の輪郭が浅く映った。次第にそれがはっきり色づいてきて、ぼくが失敗したんだということを優しく教えてくれているように思えた。
「……今何時?」
 ぼくの問いかけに、後ろ手を組んでぼくの顔を覗き込んだあんたは眦を下げた。
「もう零時だよ。星空の下で眠るお姫様を起こしに来ました」
 なんだよそれ。
 大切なことを考えていたはずなのに、自分が怠惰を司っているという事にこの時ばかりは辟易して、これ以上あんたの顔が見られない。代わりに視線を横に逸らすと、テーブルに置いたギフトバッグ、その中心に小さく刻まれた「for you」の銀色の文字が、キャンドルの灯りで揺れるように光っている。価値が半減したそれがぼくの目には惨めに映った。
「お隣失礼しますよ」
 何も言わないぼくを少し強引に端に移動させ、あんたが隣に座る。あんたに少しだけ触れている左肩が温かい。
 盗み見たあんたの横顔は、頭上で瞬く光の粒に感謝でもしているかのように優しい表情だった。
「ここであげたいなって思ってたんだ」
 星空に語り掛けるかのように、天を仰いだ彼女は続ける。
「ここでベルフェとした約束、もらったもの絶対に忘れない。だから、ここに居てくれてよかった」
 あんたはそう言ってぼくの膝に、夜空のように藍色で、片手にギリギリ収まるくらいの小さな箱を乗せた。受け取ってくれるよね、なんて答えが分かりきっている質問と一緒に。
 開けて? と催促されるままに上蓋を持ち上げて、中を覗いてみる。箱の中には星空を丸めたみたいな球体のクリスタルが入っていた。全体を取り出してみると、上から覗いただけではわからなかったが、木製の台座の上にその球体は乗っていて、横にはゼンマイも付いていた。
「それねオルゴールなんだよ」
 それを持つぼくの手にあんたの片手が添えられて、もう一方の手でゼンマイを巻いていく。あんたの手がゼンマイから離れると、球体に淡い光が台座から昇ってきて、星空が瞬きだした。そして優しい音色がぼくたちを包む。
「私からもこの星と、いつでもぐっすり眠れる音楽をあげる。一人の時もずっとそばにいるって思ってもらいたくて。だから」
 これからは自分のベッドで寝るように。ルシファーの似ていないモノマネのおまけをつけて、微笑んで見せたあんたの顔は赤かった。
「大切にする」
 たくさんの言葉が無くても、駆け引きしなくても、あんたはぼくをここで見つけてくれた。ぼくと同じ気持ちだったから。それが嬉しくて胸が詰まって、今は気の利いた言葉が言えそうにない。
 
 あんたからのプレゼントを一度テーブルに預けて、代わりに自分が用意したそれを手元に運ぶ。
 ギフトバッグを手渡すと、まだ中を見ないうちからあんたは凄く嬉しそうで。その表情の続きを見たくてぼくの心が騒ぎ立つ。
 ぼくが用意したのは「ずっと一緒にいてください。チョコレート一緒に食べよう?」と書いた名前の無いメッセージカードと、銀紙に包まれた二粒のハート型のチョコレート、白いリボンで束ねたスターチスのミニブーケ。花言葉は聞かれたら教えてあげよう。そんな事を考えながら、嬉しそうに目を潤ませているあんたの横顔を静かに眺める。
 ふとあんたは何かに気がついたように顔を上げた。
「このリボンに入ってる刺繍、私のイニシャル?」
 光沢のある白地の端に刻まれた金糸の刺繍をあんたが指でなぞる。それはぼくが刻んだ魔法だった。
「そうだよ。そのリボンには魔法が掛かってるんだ。ぼくがあんたを想い続ける限り、その花は枯れないよ」
 ぼくの言葉にあんたは少し驚いた後、何か切ないような表情になって。
「嬉しい。けど少し怖いかも。ベルフェの気持ちが私から離れたら、って思ったら」
 困ったようにブーケから視線を上げて笑うあんたをそっと引き寄せる。こつんとぼくたちの額が触れ合って鼻先まで触れてしまいそうな、ぼくだけがあんたに許された距離。チョコレートの銀紙を解いて一つ彼女の口に運んでやると素直に従うのだから、欲に負けてあんたに溺れてしまいそうになる。
 今はまだその時ではない。もう少しこの時間を楽しみたくて。溺れないように、ブーケを握るあんたの手を包むと、小さな命が温かさから伝わってくるみたいで愛おしくてたまらない。
 
「あんたはそんなこと心配しなくていいの。ぼくの事信じてよ。ぼくもあんたの事信じるから。……愛してるよ」
 あんたが瞼を閉じたのを合図に唇を寄せて、二人が結んだ約束にキスで判を押す。
 
 今日はぼくたちが約束した永遠を祈る日にしようよ、ね? 
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