◆Dead Drop

【第十話】

 さて、見事デビルズ入りしたヴィーナスに初任務が下されたのは、彼女が組織に正式に加入してから数日もおかないある日のことだった。
 カイロプタラとアプリーリスとが手に入れてきた金庫の鍵と数字キーを持って、相手方の懐へ潜り込んだのはモーニングスターの名を持つデビルズのボス・ルシファーとヴィーナスの金星コンビ。名付けたのはもちろんアプリーリスだ。
 任務には身体能力が必要だったはずなのに、なぜか抜擢されてしまったヴィーナスは、当日も冷や汗だらだらで『本当に私でいいのか』とルシファーを問い詰めていた。
「私、本当に走るのだけはどうしようもなく苦手なんです。邸内に潜り込んでもしものことがあったらモーニングスターに迷惑をかけちゃうので、他の人のほうが」
「いや、君の能力を現場で測るためにも、今回は君に来てもらう。二度は言わないぞ。本日二十二時。裏口に来い。以上だ」
「わ、かりました……」
 しゅん、とした表情をしたヴィーナスを見て良心を痛めたのか、ふぅと溜め息を一つ吐いたルシファーは、ぽんと頭に手を置いた。
「誤解するな。君を辞めさせるためにこんなことを頼んでいるんじゃない。能力を測る意図もあるが、それよりも万が一、新たな暗号が仕掛けられていたら俺では対処が鈍る可能性があるからな」
「っ、あ、」
「それと、何のために二人で行動すると思っている? 互いに助け合うためだ。君が脚力に自信がないなら俺を頼ればいい。それだけだ」
「……!」
 その時のルシファーの表情を覗き見していたレヴィは、はやとちりでこう叫んだとか。
「昨日の今日でそういう関係 ———— ?!」

 そうしてやってきた二十二時。
 エージェントスーツに身を包んだ二人は、専用エレベーターを使って裏口から走り出した。
 向かうは件の会社 —— ではなく、その傘下にある研究所だ。そこに本物の金庫があることは、事前にアプリーリスがターゲットから聞き出しているので間違いはない。研究所で最後の見回りがあるのが二十三時。その看守が出てきたと同時、入れ替わって中に入り込む予定だ。
 新月の夜は暗さが増すので動き回りやすいと、二人は先を急ぐ。
 片目を覆うゴーグルのサーモグラフィーでモーニングスターの位置は把握できるからこそなのだが、たまに自分を気遣うように後ろを振り向くところまでその所作を感じ取ってしまい、『いろんな噂が立ってたけど、デビルズって新人に優しいんだなぁ』なんてミッションに関係のないところに頭の一部分を任せていたら、インカムからお叱りの声が届いて驚いた。
「他所事を考える暇があるなんて、慣れたものだな」
「!」
「なんでわかったかって? そのくらい読み取れなくてどうする」
「そ、そう、ですよね……すみません、集中します」
「そうしてくれ。目的地も見えてきたことだしな」
 目の前には高い壁に鉄線が張られた柵が張り巡らされた研究所。なるほど、これは正攻法で門から入るのが適切だ。
「その看守室の陰で待とう」
「ラジャ」
 ヴィーナスが、ふぅ、と一息吐いたのは彼女が運動能力が低めなことによるに違いない。呼吸一つ乱さないモーニングスターの隣、自分だけが激しく深呼吸するわけにもいかず、なるべく静かに息を整えていたところ、突然腰に手が回ってきてぐっと引き寄せられ、びくりと肩を跳ねさせてしまった。同時にモーニングスターに視線をやるヴィーナス。
「悪いことは言わないからこうしていろ。もうあと五分ある。それまでに呼吸を整えるんだな」
「っ、すみ、ません……はぁっ……はぁ……」
 寄りかかれる存在があるというのはこんなにも安心するものかと驚きつつ、素直に身体を預けたヴィーナスは、耳に響いてくる鼓動を聞きながら束の間の休息を。
 それからきっかり五分後、潜入は難なく成功。しかし二人は今、研究所内をひたすらに駆けていた。
 目的のものは寸分違えることなく手にいれてはいたのだが、問題はそのあとにあった。思ったよりも早く目覚めた看守が、これまた思ったよりもしぶとく本社警備室に通報したらしく、館内にアラートが鳴り響いているのが今このときである。ダン! ダン! ダン! と大きな音を立てて防火扉が落ち始めたあたりから雲行きが怪しくなってきた。とにかく侵入者を閉じ込めてしまう作戦なのか、はたまた防火扉に巻き込まれて命を捉えられたら僥倖と思われているのか。この際、理由はいずれでも構わない。問題はヴィーナスに遅れが生じ始めているところにあった。
「っはぁっ、はぁっ……!」
 息遣いが隠せないほどに荒い。そのことに気づいたモーニングスターは足を止めてヴィーナスを振り返る。
「ヴィーナスっ!」
「っ、ご、めんなさい、私のことはいいから! それを持って先に行ってくださいっ!」
「この程度で見捨てるとでも思ったか」
 何一つ迷いなく踵を返したモーニングスターは、ヴィーナスを抱え上げるとタンッと大きく跳躍した。間一髪で分断されるのは避けられたが、二人の前後の扉が地に着いたところで四方八方を壁に囲まれたことを知る。カタカタと震えるのは、ヴィーナスの身体だが、それは防火扉に潰されなかった安堵からくるものではなさそうだ。
「助かったな……君に何もなくてよかった」
「ごめ、なさっ……」
「ん?」
「……っわ、たしのせいだっ……! わた、わたしがっ、モーニングスターと同じ速度で走れなかったからっ……!」
 ぐっと下唇を噛んで涙を滲ませたヴィーナスに、ふっと口の端を緩めたモーニングスターは『そんなことか』と呟いた。それに対して反射的に上を向いたヴィーナスの唇を掠め取ったのは、モーニングスターに他ならない。
「んっ、」
「!?」
「っハ……、これでチャラだ」
「へ、」
「言っただろう、二人で来るのには理由がある。互いに助け合うためだ」
 脚力に自信がないなら俺を頼ればいい。その言葉が、ヴィーナスの脳内に思い出された。
「でも、もう逃げ道が……」
「何を言っている。一つ、あるだろう。ここに」
「ここって……え、ここ?」
 ニヤ、と口角を上げたモーニングスターの視線の先には大きな窓が一つ。まさか、とヴィーナスが唇を動かしたと同時、聞こえてきたのは『掴まっていろ!』という言葉。ヴィーナスが『だってここ、三階』と抵抗しようとした瞬間、パリン、と音がし、飛び出したのは一つの影。それはもちろん、ヴィーナスを抱えたモーニングスターのものである。
「ひっ……ぁ……!?」
「っく!」
 ヴィーナスを抱えた腕とは別の手から屋上へと投げつけたのはワイヤーロープで、その先のフックは屋上に掛かり、シュルルと音を立てて二人を空中に連れ出す。タン、と軽い音が闇に溶けたところで、モーニングスターのジャケットの裾が地に着いた。
 パチクリ。ヴィーナスの瞳がくるりとモーニングスターを見つめ、それに対して返ってきたのは、自信に満ち溢れた言葉だった。
「デビルズは問題なく全ての任務を完遂する。そうだろう?」
「……ルシファー、かっこいい……」
「ん?」
「っは!? な、なんでも!! あ、あの、その、助けてくださってありがとうございました足手まといになってごめんなさいそれとっ」
「ふっ……その話はもうなしだ。終わりよければなんとやら、だ」
 近づいてくるサイレンの音に敏感に反応したモーニングスターが瞬間に駆けだしたので、それに対して言葉を返す間を貰う暇はなかった。
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