◆Dead Drop

【第一話】

 コツコツコツ。狭い路地に響くヒールの音。
 時刻はまださほど遅くはないが、ぴっちりとしたパンツスーツに身を包んだ小柄の女はわざと暗い場所を選んで歩いているようにも見える。暫くして、カツン! とこれまでよりも高い音を立てた細い脚。女が立ち止まる。目的地に着いたのか。彼女の目の前にあるのはただの壁だったが、ツ……と指をレンガの目地に辿らせたと思えば、カコンッと小さな溝を引っ張った。女はそこに現れたパネルを操作する。すると、ピピピとごくごく小さな音がして、プシュ、とそこにドアが現れた。躊躇いなくそのドアを開け、女は中にいた長身の男に声をかける。
「アルケド、今日の報告に来たわ」
「おや、早かったですね」
「そう? んー、確かに今日のオジサマは拍子抜けするほどあっけなかったかも」
「あ〜小リスちゃんじゃん! ちょうどいーや、パフェ食う?」
「パフェ! ルキオラ、ぜひ!」
「パフェもいいですが、アプリーリス、まずは」
「ああ、そうよね。はいこれ。種族間の戦争をも引き起こしかねない重要文書、だっけ?」
「ええ。ありがとうございます。確かに」
 アプリーリスと呼ばれた女は、カウンター席に座ると出されたパフェに目を輝かせる。渡したばかりの重要文書のことはすでに頭から抜け落ちたかと思われるほどだ。サッと封筒の中身に目を通した男・アルケドは、満足気に頷いて、小切手を切るとアプリーリスに手渡した。
「報酬です」
「たしかにっ」
 小切手は一瞥するに留めるも、パフェはじいっと見つめた上、さらに写真まで撮るあたり、こういう時に限ってはただの女の子でしかないのだろう。
 アプリーリス。彼女は裏世界 —— それはスパイとかマフィアとかそういう類の世界のエージェントであった。彼女の家系は先祖代々エージェントを務めており、そのせいでなんの疑問もなく彼女も一流のエージェントに育てられた。業界では一目置かれるほど活躍している。彼女はどこの組織に所属していおらず、このパブ「Seabed」で案件を紹介してもらい、報酬を受け取って生活していた。
 ここは所謂闇取引を行うパブだが、表から見ればごく普通の店である。その証拠に店先にはテーブルと椅子が並べられており、そこで酒を嗜んだりつまみをいただくこともできた。けれど店内となると話は別で、入り口に嵌め込まれた特殊なパネルに正しいパスワードを入力できる者だけが歩を進めることができる仕組みだった。
 ちなみに、この世界には人間だけでなく、人ならざるもの —— 魔力を持つ妖精や人魚などの獣人 —— そんな、特殊な力を持ちながら人間界に紛れ込んで生活しているものたちも多く生存しているのだが、そのような種族のものたちと人との交差点の役割もここが果たしていたりする。彼ら、彼女らはいくら力を隠して人間界に混じっても、時折いざこざを起こしてしまうものであり、そういった問題を解決するための相談を受ける場所でもあった。
 こんなことをしているこの二人も実は本来の姿は人魚であり、魔法薬にて人の形をとっているだけだった。いつかアプリーリスが「そこまでして人の世界にいたい理由って何?」と聞いたこともあったが、答えは「予想外のことがたくさん起こって楽しいから」ということで、彼らの世界に地上だ水中だの括りはなく、楽しいか退屈か、の二択であるらしい。
 話を戻すと、そんなわけもあって店内に来る者が求めるのは酒でも休息でもない。ここで手に入るものは、上質な情報とそれから協力者に仕事だ。アプリーリスはここの常連で、かつ、仕事の請負人として高評価を受けていた。アルケドとルキオラは、このパブのマスターを務める双子の兄弟。顔はそっくりなのだが、話し方や立ち振る舞いがまるで違うので、見分けるのはさほど難しいことではない。アプリーリスのことを小リスと呼ぶ、食えない笑顔のルキオラ。いつでも礼儀正しくにこやかな微笑みを浮かべるのがアルケド。見分け方はそんな感じだ。もちろんこの名前はコードネームなので、二人と一人は本名すら知らない、ただの仕事仲間だった。
 さて、そんな三人が雑談に興じて暫く、また店の入り口でカランカランと乾いたベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ」
 流れるように自然にアルケドが接客に応じに行ったので、じゃあ私はこの辺でと腰を上げたアプリーリスをルキオラが「もうちょっと暇つぶしに付き合ってよ〜」と、甘いミルクティーで引き止めようとした、その時である。アプリーリス、とアルケドからご指名が入ったのは。
「ん? 私?」
「そうです。潜入捜査のお誘いですよ。お話は直接なさりたいそうです」
「おっけー!」
 アルケドの隣には、これまた長身の男が一人。彼は明るい髪色のアルケド、ルキオラとは打って変わって、漆黒の髪を左右に分けて真面目で厳しい印象を醸し出していた。そこから覗くのは真っ赤な瞳。キッと細まったそれはアプリーリスに高圧的な視線を向けた。
「おまえがアプリーリスか?」
「ええそうよ。はじめまして、モーニングスター」
「……!」
「なぜわかった、って? あなた、デビルズのボスでしょう? デビルズって言ったら界隈でも有名だもの。知らない方がもぐりじゃない」
「……そうか。それもそうだな。俺たちの組織は大きくなりすぎた」
「紅の瞳に上から目線の態度。噂通りね。で、私に何の用? 潜入とか言ってたけど」
「そうだ。とある会員制のパーティーに潜入したいんだが、人数が足りない。うちで女装が得意なのは一人しかいなくてな。あと一人、女性が必要で探しにきた。そこにちょうどお誂のおまえがいたわけだ」
「ふぅん」
「アルケドの推薦なら信用できるだろう。どうだ、頼まれてくれるな」
 その申し出に腕を組んで応対するアプリーリスは、にこりと笑って掌を差し出した。
「なんだ」
「ほ・う・しゅ・う」
「は?」
「報酬よぉ! いかほど?」
「……」
「何よその顔。報酬第一なのはあたりまえでしょう? 私、そんなに安くないわ。暇でもないしね」
「相場は」
「そうねぇ。この間アルケドからもらった案件は、一日でこのくらいだったわ」
 さっき手にしたばかりの小切手をピラリと見せると、モーニングスターは片方の眉をピクリと上げた。
「なるほど、安くはないな」
「嫌なら諦めて。私、ここ最近休暇ないのよ。デビルズからのお誘いも、休暇には勝てない」
「仕方ない。これだけ出す。それなら異論はないな」
 スーツから取り出したメモ帳に、サラサラとペンを走らせたモーニングスターが提示した額は、本日の仕事の十倍。わぁぉ、と小さく呟いたアプリーリスは、乗ったと一言で了承したのだが、実際のところ額に釣り合わないだけ働かされることになろうとは、この時は予想しえなかった。
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