小噺色々

「それでは行ってきます。貴女と一分一秒でも離れるのが惜しいのですがこればかりは仕方ありま」
「もう!毎日そういうのいいですから!早く学校に行ってください!遅刻しますよ!」

メイドとジェイドが出会ったのは、もう五年も前のこと。あのときはこんなに近しい関係になるだなんて思ってもいなかった。
最初に顔を合わせたときなんて話しかけたら首を縦横に振りこそすれ、言葉を発することがほとんどなかったのに、と見送りを済ませると、なんだか昔のことが懐かしく思い出された。掃除、洗濯、夕食の下拵え…そんなことを一通り終えたあと、「少しだけ…」と、自室に戻ってアルバムを開くことにする。

「うわー!久しぶりに見ると感慨深いっ!このころの坊ちゃん、本当に小さかったなぁ」

よみがえってくる鮮やかな思い出にメイドが意識を飛ばした午前九時のことだった。



「…行って、きます…」
「はい。いってらっしゃいませ、ジェイド坊ちゃん。今日は雨なので、傘も持ってくださいね」
「ん…」

自分より二歳年下で、自分より少しだけ小さな背丈の男児と、大きな別邸に二人きり。
メイドがジェイドのお世話係になってから、一週間経ったある日。その日は、ジェイドが陸に来て初めて雨が降っていた。
手渡した傘の色はセルリアンブルー。
まだこの家に来る前に、写真で見たジェイドの髪色に似ているなと思ってプレゼントに買ったのだが、本物に会った瞬間、穴があったら入りたくなるくらいに恥ずかしくなったのは記憶に新しい。
その容貌の美しさには、思わず息をのむほどだったのだから。
セルリアンブルーだなんて、恐れ多い。南国の綺麗なビーチの浅瀬の、光を照り返す透き通った海の、その奥の深い色とでも言おうか。とても美しいブルーとグリーンの中間の…。その時のメイドは、その色を表現する言葉をもたなかったけれど、とにかく世界が普段よりも色鮮やかに輝いたことが記憶に焼き付いている。

ジェイドは、とても無口だった。
最低限の言葉は発するのでコミュニケーションに困ることはなかった。けれどメイドとしてはもう少し仲良くなりたいと思っていたので逐一声をかけるようにしていたが、異性だからだろうか、なかなか距離が縮まらないなと悩んでいた。
お菓子を作って「お茶にしませんか」と尋ねれば食堂に来てはくれる。
夕食の感想を聞けば「おいしいです」と一言返事があるし、お皿が空になってももじもじしているものだから「おかわりどうですか?」との言葉にパッと顔を明るくする。
けれどそれ以上も以下もなく。
つまるところメイドは寂しかったのだ。坊ちゃんのほうからも話しかけてほしかった。ただただ、それだけだった。

仕事をしながら窓の外に目をやれば、雨はどんどん激しくなる一方。
こんな日はお洗濯もできないわと、その分増えてしまう空き時間のことを考えて溜め息を一つ。しかしそうすれば案外いい案が浮かぶもので、今度はにっこり。

「うん!今日は少し寒いから、暖かいスープを作っておこうっ!」

坊ちゃんの小さな身体が冷えてしまわないようにたくさんつくらなくっちゃ!キャベツにオニオン、ニンジンとジャガイモ、ソーセージに、それからきのこ!ブイヨンで煮込んで、どのお野菜もとろとろのあつあつ。きっとまたおいしそうに頬張ってくれるに違いない。
そうと決まれば早速準備にかかろうと、キッチンに向かったメイドの表情は明るかった。

それから数時間後。カチャリと鳴った小さな音を耳にとらえたメイドは、エントランスに飛んでいく。

「おかえりなさいませぼっちゃ…ってええ!?なんでびしょ濡れなんですか!?」
「…ぼく、」
「や、そんなことよりも風邪ひいちゃう!」
「かぜ」
「そうですよ、病気!あらあらまぁまぁ、えーっと、タオル…よりもお風呂!」
「病気…?ぼく、濡れても平気です」
「平気なもんですか!いいですか?ヒトはびしょ濡れのまま居たら風邪を…あっ!?もしかして人魚は風邪引かないの!?えっ、そうなんですか坊ちゃん!」
「…いえ…わかりません。ぼくはただ、濡れてみたかったんです」

大慌てな自分と対照的に、至極冷静に、まるで、ただ研究してみたのだ、とでも言いたげに話すものだから、なんだか気が抜けてしまったメイドは、ついつい、クスッと笑った。
そんなメイドを、切長な瞳が不思議そうに見つめている。

「坊ちゃんは興味のあることに一生懸命で素晴らしいですけど、自分を蔑ろにしちゃダメですよ」
「なぜですか?ぼくのからだはぼくのものです。どう扱おうが貴女に影響はないでしょう?」
「ありますよ」
「どんなことが?」

ジェイドの手を引き、お風呂まで連れて行くと、まだ服に慣れないその身体から丁寧に服を脱がせたメイドがそのまま暖かいシャワーでジェイドの身体を濡らす。

「んんっ…熱いのは、嫌いです」
「それじゃもう少しだけぬるま湯にしましょうか。でも今日はあまり冷たいのはいけません!これ以上冷えたら風邪ひいちゃうもの」
「むぅ…」
「いいですか、坊ちゃん。さっき坊ちゃんは、自分をどう扱おうが私に影響はないと言いましたが、本当にそう思っているならそれは訂正します。私は、私のお仕えする、可愛くて大好きな坊ちゃんが苦しむ姿は見たくありませんから、そんなことをしていたら止めますし、場合によっては怒ります」
「!」

ついでに全身流してしまおうと、髪を洗い、背中も泡まみれにしたメイドがそう言い切ると、わかりましたか?、と覗きこむその顔を見て、ジェイドの頬がぽっと染まった。
きっとすぐにでも成長期が来て自分を追い越してしまうだろう柔らかくて脆いこの命を、もう少しだけ大切に見守らせてくださいと、そう願うメイドを他所に、ジェイドは。
陸にきてまだ一週間のジェイドは、自分の足の間の違和感を捉えてそこを見る。おや、なんだか、人魚のときにはなかったものが若干、ほんの若干だがその存在を主張しているなと。
(この現象はなんでしょうか。…たしか訓練校でもらった教科書に書かれていた気も…。あとで少しおさらいしなくては)
そんなことを考えながら、なんだか暖かくもむず痒い気持ちを初めて味わっていたのだった。



「はぁ…つい思い出にひたってしま」
「おや、懐かしいものを見ていらっしゃる」
「ったああああああああああ!?」
「ただいま帰りましたよ」

メイドを上からのぞき込むようにして立っていたジェイドは、いつの間に帰ってきたのかにこにこと微笑む。
えっ!何時間経ったの!?と、はちゃめちゃに驚いたのも束の間、その髪や衣服がしっとりと濡れているのに気づいたメイドが「もしかして雨降ってました?」とジェイドに問えば、「ええ、降ってきました、ついさっき」と言われて、洗濯物の存在を思い出す。

「ああ、洗濯なら僕がもう取り込んでおきました」
「えっ!?」
「貴女が褒めてくれると思って」
「っ…も、坊ちゃんは、本当に、」

こんなにも立派に、優しく、紳士に育った坊ちゃんは、今も変わらずこの屋敷にいてくれる。あと数年したらこの生活にも終止符が打たれるわけだけれど、それまでは。

「ありがとうございます。坊ちゃんはいい子ですね!」
「!!」

よしよしと、精一杯背伸びして撫でた髪は初めて会ったときと寸分も変わらず、綺麗な海の色をたたえている。
少しだけ染まる頬も。あの頃のまま。

「久しぶりに暖かいスープでも作ります!その間にお風呂に入ってきてください?濡れていると、」
「風邪を引きますからね。貴女のためにも、暖かくしてきましょう」
「!…っふふ!はい、そうですよ!」

今日も今日とて、この屋敷は愛でいっぱいに包まれている。
11/20ページ