obm V!

 俺はちょっと周りとずれたところがあるとは、兄弟に言われることも多かったから気にはしていた。だがまさか、こんなときに失敗するだなんて思いもよらなかったんだ。

「っ、ご、ごめんねベール」
「おい、待て、違うんだ、話を」
「ま、また!あとでいいかなっ、ごめんっ」

 たっとかけていく背中を咄嗟に追いかけられなかったのは、自分がどこで間違いを犯したのかわからなかったから。

甘い香りにご注意を

 今日がバレンタインデーというチョコレートをたくさん食える日だということはアスモから聞いて知っていた。殿下の施策のおかげで人間界の文化が魔界に流れ込み始めたせいか街中がチョコレートの香りで溢れていたから嫌でも気にはなったが。
 おかげでここ二週間くらいは商店街を歩くのが億劫だった。いつも以上に腹が減ってたまらなかったからだ。それでもある程度の我慢をしたのは、あいつから本命というものを貰えるかもという淡い期待があったから。兄弟たちからはここぞとばかりに『本命以外のチョコを食べたら死んじゃうんだよ!』と言われ、最初はそれ信じて絶対にチョコは食わないと言ったものの、それじゃあ俺たちみたいにファンクラブがある人間は一体どうやって生きているんだと疑問に思って聞いてみたら軒並み嘘を教えられていたとわかり、俺の怒りはハンバーガー100個なんていう謝罪では到底収まらなかった。

 そして迎えた当日。
 『ベールはたくさん食べたいと思って』、と、チョコレートフォンデュを用意してもらって感無量。いろんな食材にチョコを付けて食うのは新しいスタイルだなと二人で盛り上がって、あいつも終始笑顔でいてくれて、絶対に変な雰囲気ではなかったはず。なのに、最後の一口だからとフォークに刺してもらったチョコがけ苺を近づけられた瞬間、ブワッと別の、何か甘い香りが強く香ってその手を反射的に掴んでしまったのだ。その時の絶望したあいつの顔は俺の瞼の裏に焼き付いている。でも、どうしてそんな顔をされたのかがわからず、トボトボと廊下を歩いていた。
 すると、それと似た香りが廊下の向こうから漂ってくるのに気がついて、戻ってきてくれたのかと顔を上げたら、そこにいたのはアスモだった。

「あれっ、ベール一人なの?あの子は?」
「アスモ、それはなんだ」
「へ?それって?」
「その匂いだ。甘い、チョコみたいな」
「ああこれ?これは香水!いいでしょーっ……ってえっ、まさかその感じ、」
「……香水、だったのか……俺はなんてことを」
「あちゃー……もしかしてがっついちゃったの?」
「ちがう、食ってしまいそうだったから手で止めた。そしたら」
「なるほどねー……それで誤解されちゃったんだ?」
「みたいだ……」

今更悔やんでも遅いかもしれないが、一刻も早く謝らないと俺の気が済まない。

「アスモ、俺ちょっと」
「そうだね、誠心誠意謝ることからだよ。早く見つかるといいね。あの香り、結構強かったから、ベールなら辿っていけるんじゃない?」
「俺を犬みたいに言わないでくれ……」
「でも今日ばっかりはそうなるように祈ってるから」
「ああ、ありがとう」

 家の中はアスモの香りもあって探しにくかったかが、どうやら玄関から外に出たらしかったのと、強烈な甘い香りが鼻の奥にちゃんと残っていたので少し安心した。あいつの行きそうなところをいくつか頭に思い描き、あっちか、こっちか、それとも……と、残り香を辿っていくと、その香りがとある場所に続いているんじゃないかと憶測が立った。
(もしかして、これ、俺のトレーニングコースか?)
 一緒にトレーニングしたいというから一度だけ連れて行ったことがあったが、その日だけで筋肉痛が酷かったあいつは、もう少し鍛えてからまたご一緒させて、と弱々しく笑っていたっけ。
 そんなことを思い出しながら小高い丘の上に近づくにつれ、やっぱりあの香りが濃くなって、憶測が正しかったことを知るのと同時、心が暖かくなるのを感じる。食べ物を前にしたときのドキドキとはまた違う嬉しさ。これはあいつといる時にしか味わえない気持ち。
 丘の上までたどり着くと、思った通りベンチにあいつの背中を見つけて、やっとホッと息を吐くことができた。知らず呼吸が浅くなっていたらしい。
 ぽん、とその薄い肩を叩くと、俺が来たことに今気づいたのか、ビクンと大きく跳ねる身体。それを咄嗟に抑えて、『逃げないでくれ』と諭すと、困ったような顔をしたものの、コクリと小さく頷いてくれて安心した。

「突然いなくなるから驚いた」
「っ、ベール……あの、」
「ごめん。俺が悪かった」
「う、ううん、私も、その……嫌なことしちゃったみたいで、」
「違うんだ。おまえは何も悪くないから謝らないでくれ。さっきのこと、ちゃんと説明させてくれないか」
「……わかった……」

 スッと深呼吸を一つ。俺が言わないといけないのも、たった一つだけだ。

「俺は怖かったんだ。おまえがあんまりにも美味しそうだから」
「え……」

 その一言で下がっていた視線がやっと俺の方を向く。うん。やっぱりおまえに見つめられるのは、悪くない。

「おまえを食べてしまいそうで、怖かった。好きなやつを腹に収めたくなんかないけど、俺は暴食の悪魔だ。抑えられると言い切れない。だから、押しのけた。でも、ごめんな。そんなに傷つくなんて思わなかったんだ」
「そう、だったの……。ううん、それなら私が悪かったんだよ。司るってそういうことだもんね。考えなしにごめんなさい」
「何でもかんでも食べる癖をやめろって、兄弟みんなに言われてるんだが、こればっかりは止められない。辛い思いをさせる前に言えたらよかったんだが、チョコレートフォンデュがうますぎて、それをおまえが用意してくれたってことが嬉しくて、気づかなかった」
「ふ、ふふっ……!ベールらしいね。うん、もう大丈夫!理由がわかったなら。……っていうか、ごめんね?ここまで走ってきたからちょっとは薄らいだかもしれないけど、今もキツいよね。香水なんて買わなければよかった。チョコレートみたいって思ってもらえたら、なんて、馬鹿みたい」
「いや、俺のこと想ってくれてたんだろ?嬉しい。それに」
「?」

 俺を見上げてくる二つの瞳は純粋無垢で、俺みたいにそういうのに無頓着なやつでも気持ちが昂る。

「今はだいぶ香りが薄れたから大丈夫だと思う。……だから、おまえを食べてもいいか?」
「っ……う、ん、……もちろん」

 そうしてなるべくそっと引き寄せた身体からはやっぱり甘い香りが強く漂ってきて、今日は止められそうにないなとちょっとだけ笑いながら、俺はその魅惑の唇を食んだのだった。
 何もしなくても、こいつはとても甘かった。
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