◆薄明の暁星
「ルシファー、いっちゃったな……」
最後まで優しかったルシファーに、別れ間際に涙を見せたくなくて寝たふりをした私はズルい女、なんだろう。でもそうすることしかできなかった。許してほしい。
ルシファーがいなくなってから、泣いても泣いても、ルシファーの面影を部屋の片隅に見つけてはまた涙が溢れてしまってどうしようもなく、バスルームでまた一頻り泣いて、瞼が腫れて一重になってしまったころ、漸くダイニングテーブルについてレモンウォーターを口にした。
何も食べる気が起きないけど、このままいるとルシファーに怒られてしまいそうだと、少しだけ口角が上がったのに、瞳にはまた膜が張ってきたので、ゴシゴシと目を擦って立ち上がる。たしかヨーグルトを買っておいたはず。そのくらいから始めようと冷蔵庫に近寄ったところでD.D.D.が目に留まり、そういえば全然みてなかったと電源ボタンを押したところで座り込んでしまったのは仕方ないでしょう?
「ずるいよっ……ッわたしのほうが、もっとあいたいっ……」
【ルシファー】
もうおまえに会いたくなった
空が赤から紫の美しいグラデーションに染まる薄明の頃、一人でいるとどうしてもただ涙に明け暮れてしまうことに気づいた私は、その後は魔術の練習に没頭することに決めた。それからなんだかんだ生きていくために働く場所もほしくて、でも言語能力がそのレベルに達していないということで語学学校に通いつつ、そこの購買で少し働かせてもらったり、ソロモンのお手伝いで少しお小遣いをもらったりもした。
忙しくすれば、悲しみは徐々に生活に溶け込み、そうして日常に紛れていく。それが良いことなのか悪いことなのかは私にはわからないけれど、ルシファーのことを忘れられる時間があるのは私の心の平穏のためには今は必要だったみたいだ。徐々に涙が出る日は少なくなって言った。
そうして暫く忙しない日々を過ごした結果、ソロモンにまでそろそろ休みをとった方がいいと心配されたある日。
家にいても仕方がないので一人、マーケットに足を運んだ際に、そういえばと例のパティスリーショップを覗いてみると、あのおばあちゃんがパッと目を輝かせ、しかし次の瞬間キッと目線が鋭くなった。
「お嬢ちゃん、また一人かい!」
「えっ」
「あんの色男!あれだけ言ったのに!お嬢ちゃん、あんたいつから満足に寝てないんだい?可愛い顔が台無しだよ」
私よりも一回りも背丈が低いおばあちゃんに頬を撫でられて、不覚にも視界が潤んでしまった。こんなにも気を張っていたのかと驚くと共に、こんな往来で泣くわけにもいかず、あははと力なく笑うに留める。
おばあちゃんは、これはサービスだよ!、と大きな声で言い残して奥へと消えていったけれど、代わりに隣のお店のお花屋さんからおじいさんが出てきて無言で一輪の花を差し出された。咄嗟に受け取ってしまってから、お代、とポケットを漁ろうとすると、いいから、と遮られてしばしの沈黙。どうしたらよいかわからず、花を見つめて、なんとか落ち着いてきた口から疑問を投げかけた。
「……これ……ガーベラ、ですか?」
「いんや、ディモルフォセカさ」
「ディモ……?」
「花言葉だよ、元気を出しなってね!ほれ、クロワッサンダマンド!それから店に出せなかったあまり物、詰めといたよ!」
「え……こ、こんなにいただけないです!お金っ、」
「お嬢ちゃんが気に入ってくれただけで満足さ!それからね、うちはお一人様はお断り!今度こそ!二人で!来るんだよ!」
「っ、」
おばあちゃんはとてもにこやかに笑って、有無を言わさず私を送り出した。「向かいのとこのカフェ・オ・レでも買って、一緒に食べなぁね」なんて声が聞こえてきたけど、何か喋ったら涙が溢れてしまいそうだったから立ち寄ることはできなかった。
ただ、それをトリガーにして、その夜、私はやっとのことでルシファーに連絡をする決意ができたのだった。
「よし……かける、かけるぞ……っ……ん、もしかしたらこんな時間はまだ殿下とデモナスでも飲んでるかも……?も、もう少しあとにしようかな……いやでももっと遅くなると寝ちゃうかな……電話じゃなくてチャットのがいい……?そうだよね、チャットのがいいか!」
言い訳は口から無限に溢れてきて、結局チャットだけにとどめた。それでも文章が長くなりすぎて、削除したり言い回しを変えたりウダウダしているうちに一時間ほどがすぎていた。やっと一つメッセージを送り終わったころには手が痺れてクタクタだ。へちょんとベッドにつんのめると、ミッションを果たしたように満たされる何かがあった。今日はスッキリ眠れそうだと、ころりと転がって天井を見つめて数秒。今ならもしかしたら、召喚もできるかもしれないと、何故だか、そう感じて、天井に向かって指を掲げた。
「……我、汝を求めるーー魔術師の名において、光の指輪の契約の元ーーーー出でよ、ルシファー……」
途端、指先から黒い光が天井に向かって飛び出す。いつもと違う光に驚く暇もなく、その光は天井に紫色の穴を開けーーそこから何かが落ちてきた。
「へぶっ!?」
顔面を直撃したものは全然重くもなかったが、突然のことに変な声を出してしまう。痛くもないのに鼻を擦りながら、落ちてきたものを手に取って確かめるとそれは。
「……グローブ?」
真っ黒なグローブ、だった。しかも片方だけ。
指先部分を持ち上げ、ぷらん、と顔の前で揺らす。なんだろ?と無意識に顔を近づけて気づいた事実に目を見開く。
「……!」
香ったそれは紛れもなくルシファーの香水で。次いで震えたD.D.D.のメッセージは、今度こそ私を笑顔にさせた。
【ルシファー】
俺のグローブだけを連れていくんじゃない。喚ぶなら俺ごと喚べ。
「っ……マジかぁっ……!」
画面の向こうでルシファーが苦笑しているその様がありありと思い描けて、思わずガッツポーズを一つ。
グローブを膝の上に乗せてカメラアプリでパシャリ。そのままルシファーに送ると、ムッとした顔のクログロのスタンプが送られてきて、それから、「早くそれを返しに来い」と、遠回しな応援メッセージが届いた。
そんなことがあってすぐ、久しぶりに練習に付き合ってくれたソロモンにベビーシッターのバイトを紹介されることになったのは、誰も予想し得ない未来のことなんだけど。
それはきっと別の場所で語られるお話だろうから。今はまだしまっておこう。
最後まで優しかったルシファーに、別れ間際に涙を見せたくなくて寝たふりをした私はズルい女、なんだろう。でもそうすることしかできなかった。許してほしい。
ルシファーがいなくなってから、泣いても泣いても、ルシファーの面影を部屋の片隅に見つけてはまた涙が溢れてしまってどうしようもなく、バスルームでまた一頻り泣いて、瞼が腫れて一重になってしまったころ、漸くダイニングテーブルについてレモンウォーターを口にした。
何も食べる気が起きないけど、このままいるとルシファーに怒られてしまいそうだと、少しだけ口角が上がったのに、瞳にはまた膜が張ってきたので、ゴシゴシと目を擦って立ち上がる。たしかヨーグルトを買っておいたはず。そのくらいから始めようと冷蔵庫に近寄ったところでD.D.D.が目に留まり、そういえば全然みてなかったと電源ボタンを押したところで座り込んでしまったのは仕方ないでしょう?
「ずるいよっ……ッわたしのほうが、もっとあいたいっ……」
【ルシファー】
もうおまえに会いたくなった
空が赤から紫の美しいグラデーションに染まる薄明の頃、一人でいるとどうしてもただ涙に明け暮れてしまうことに気づいた私は、その後は魔術の練習に没頭することに決めた。それからなんだかんだ生きていくために働く場所もほしくて、でも言語能力がそのレベルに達していないということで語学学校に通いつつ、そこの購買で少し働かせてもらったり、ソロモンのお手伝いで少しお小遣いをもらったりもした。
忙しくすれば、悲しみは徐々に生活に溶け込み、そうして日常に紛れていく。それが良いことなのか悪いことなのかは私にはわからないけれど、ルシファーのことを忘れられる時間があるのは私の心の平穏のためには今は必要だったみたいだ。徐々に涙が出る日は少なくなって言った。
そうして暫く忙しない日々を過ごした結果、ソロモンにまでそろそろ休みをとった方がいいと心配されたある日。
家にいても仕方がないので一人、マーケットに足を運んだ際に、そういえばと例のパティスリーショップを覗いてみると、あのおばあちゃんがパッと目を輝かせ、しかし次の瞬間キッと目線が鋭くなった。
「お嬢ちゃん、また一人かい!」
「えっ」
「あんの色男!あれだけ言ったのに!お嬢ちゃん、あんたいつから満足に寝てないんだい?可愛い顔が台無しだよ」
私よりも一回りも背丈が低いおばあちゃんに頬を撫でられて、不覚にも視界が潤んでしまった。こんなにも気を張っていたのかと驚くと共に、こんな往来で泣くわけにもいかず、あははと力なく笑うに留める。
おばあちゃんは、これはサービスだよ!、と大きな声で言い残して奥へと消えていったけれど、代わりに隣のお店のお花屋さんからおじいさんが出てきて無言で一輪の花を差し出された。咄嗟に受け取ってしまってから、お代、とポケットを漁ろうとすると、いいから、と遮られてしばしの沈黙。どうしたらよいかわからず、花を見つめて、なんとか落ち着いてきた口から疑問を投げかけた。
「……これ……ガーベラ、ですか?」
「いんや、ディモルフォセカさ」
「ディモ……?」
「花言葉だよ、元気を出しなってね!ほれ、クロワッサンダマンド!それから店に出せなかったあまり物、詰めといたよ!」
「え……こ、こんなにいただけないです!お金っ、」
「お嬢ちゃんが気に入ってくれただけで満足さ!それからね、うちはお一人様はお断り!今度こそ!二人で!来るんだよ!」
「っ、」
おばあちゃんはとてもにこやかに笑って、有無を言わさず私を送り出した。「向かいのとこのカフェ・オ・レでも買って、一緒に食べなぁね」なんて声が聞こえてきたけど、何か喋ったら涙が溢れてしまいそうだったから立ち寄ることはできなかった。
ただ、それをトリガーにして、その夜、私はやっとのことでルシファーに連絡をする決意ができたのだった。
「よし……かける、かけるぞ……っ……ん、もしかしたらこんな時間はまだ殿下とデモナスでも飲んでるかも……?も、もう少しあとにしようかな……いやでももっと遅くなると寝ちゃうかな……電話じゃなくてチャットのがいい……?そうだよね、チャットのがいいか!」
言い訳は口から無限に溢れてきて、結局チャットだけにとどめた。それでも文章が長くなりすぎて、削除したり言い回しを変えたりウダウダしているうちに一時間ほどがすぎていた。やっと一つメッセージを送り終わったころには手が痺れてクタクタだ。へちょんとベッドにつんのめると、ミッションを果たしたように満たされる何かがあった。今日はスッキリ眠れそうだと、ころりと転がって天井を見つめて数秒。今ならもしかしたら、召喚もできるかもしれないと、何故だか、そう感じて、天井に向かって指を掲げた。
「……我、汝を求めるーー魔術師の名において、光の指輪の契約の元ーーーー出でよ、ルシファー……」
途端、指先から黒い光が天井に向かって飛び出す。いつもと違う光に驚く暇もなく、その光は天井に紫色の穴を開けーーそこから何かが落ちてきた。
「へぶっ!?」
顔面を直撃したものは全然重くもなかったが、突然のことに変な声を出してしまう。痛くもないのに鼻を擦りながら、落ちてきたものを手に取って確かめるとそれは。
「……グローブ?」
真っ黒なグローブ、だった。しかも片方だけ。
指先部分を持ち上げ、ぷらん、と顔の前で揺らす。なんだろ?と無意識に顔を近づけて気づいた事実に目を見開く。
「……!」
香ったそれは紛れもなくルシファーの香水で。次いで震えたD.D.D.のメッセージは、今度こそ私を笑顔にさせた。
【ルシファー】
俺のグローブだけを連れていくんじゃない。喚ぶなら俺ごと喚べ。
「っ……マジかぁっ……!」
画面の向こうでルシファーが苦笑しているその様がありありと思い描けて、思わずガッツポーズを一つ。
グローブを膝の上に乗せてカメラアプリでパシャリ。そのままルシファーに送ると、ムッとした顔のクログロのスタンプが送られてきて、それから、「早くそれを返しに来い」と、遠回しな応援メッセージが届いた。
そんなことがあってすぐ、久しぶりに練習に付き合ってくれたソロモンにベビーシッターのバイトを紹介されることになったのは、誰も予想し得ない未来のことなんだけど。
それはきっと別の場所で語られるお話だろうから。今はまだしまっておこう。