◆薄明の暁星
昨日は遠出をしたのでなんだかんだ二人ともグッスリ熟睡だった。
あんなに晴れていた空は、家に着く頃には私たちの疲れを代弁するかのように泣き始め夜通ししとしとと降り続けたようだ。起きたのは普段に比べたら遅めの十時ごろだったけどそのときはまだどんよりと曇っていた。湯船にお湯を溜めながら、ロンドンらしいなと窓の外を眺めていたら、いつのまにかルシファーまでもがバスルームに入ってきてなし崩しに一緒に湯に浸かることになったのは言うまでもない。
けれど、そんな長い長いバスタイムが終わりブランチを食べていたころにはダイニングの窓から明かりが差し込んできて、あまりのタイミングのよさに目を輝かせた。
「あーっ!陽が出てきた!」
「雲が切れたのか」
食事の途中でマナーがなっていないけど、つい立ち上がって窓を覗く。苦笑しながらもルシファーも後に続いて窓に近づいてくれた。
ぴちゃん、ぴちゃんと屋根から雨水が滴る音が心地よい。少し顔を覗かせると、道路の水溜りに陽が反射してキラキラと眩しかった。どことなく空気も爽やか。雨が降った後の世界は一段と美しい。
「ねぇ、せっかくだからお散歩しない?この辺り、公園もあるしちょっとした商店街もあって移動カフェみたいなのもたくさん出てるの。夏場だとアイスとかも売ってるんだけど……今はないか……。でもパウンドケーキくらいならあると思う!ちょうどおやつに」
「今食べたばかりなのにもうおやつの話か?」
「ちっ、違うよ!ちょっと歩いてもし小腹が空いたらの話!」
「くくっ……!冗談だ。そうだな、その時は食べたらいいさ」
いちいち子ども扱いされるのがちょっと悔しい。でも齢何千歳の悪魔からしたら私なんて赤子みたいなものなんだろうなとも思う。ぷく、と頬を膨らませるくらいしか抵抗ができずにいると、「ほら、さっさと食べ切れ。出かける時間がなくなるぞ」と急かされて、毒気を抜かれてしまった。なんだかんだ、ルシファーには一生敵いそうにない。
それから暫く、準備を終えた私たちは、ふらふらと街を歩いていた。
こうしていると、魔界も人間界もあまり変わりはないので不思議な感覚だ。違うのは太陽があるかないか、そのくらい。天界はさすがにちょっと空気感も違ったけど、もしかしたら私が出ていっていない場所に街のようなものもあるのかもしれないし、そう考えると殿下が思っているよりも三界を好きな時に好きなだけ行き来できるようになる日は遠くないのかな、という気もする。でもそれは素人の理想的見解ってやつなのかな。私にも何か、もっとできることがあればいいのに。私の指にはいつも光の指輪がはまっている訳だけど、これだって三界を壊しちゃうからつけてるってところもあるし、なんだか私ってなんなんだろうなぁ。むしろいない方が全然いいんじゃないか、なんてところまで行き着いてしまって、だめだ暗いことを考えるのはよそうとルシファーに話しかけようとしたら、そのルシファーはD.D.D.を見ながら眉間に皺を寄せていて、私よりも悩んでるようだ。
「どうしたの、そんな顔して。何かあった?」
「ん?ああ……少しトラブルがあったみたいでな。本当にどうしようもない」
「えっ、大丈夫なの?それ、帰った方がい」
「こら」
コツンと額に拳が当たって、「わっ」と反射で声を上げると、ルシファーはものすごい苦笑を浮かべた。
「せっかく時間を作ってきたのに、こんなに中途半端に魔界に戻ろうなんて思うわけないだろう」
「でも……だって、ルシファーが魔界のことより私を優先してくれるなんて」
「なんだその言い方は。失礼だぞ。俺だって自分を優先するときもある」
「……魔界にいた時はいつだって執行部のこと優先してたよ?自覚なかったの?」
「む……そうだったか?」
「そうだよ。だから……」
その先の言葉は言っていいのか悪いのかわからなかった。下手なことを言ったらただの我儘に聞こえそうだったし、そんな足枷を作りたいわけじゃなかったから。だけど、いつも、いつだって、その気持ちから視線を逸らして黙っていた。
「だから、寂しかった、か?」
「へ、」
なのに、まさに私が呑み込んだ台詞がルシファーの口から飛び出して、驚きで目を見開いてしまった。
「すまなかった。どうにも時間感覚には疎くてな」
「えっ、あっ、そ、んな、ルシファーが謝ることじゃ……だってそれは仕事だから」
「聞き分けがいいのは助かるが、良すぎるのも心配になる」
「で、でもほら、そんな、やらなきゃいけないことの邪魔なんてしたくないし」
「少しくらい、束縛してほしい」
「、は」
「なんて言ったら、呆れるか?」
困ったように眉を下げたルシファーは、そう言って笑う。
「ルシファーはみんなに頼られてるし、私だけがそんな……そんなこと、できないよ」
「俺のマスターは謙虚すぎる。いいと言ってもダメだと言うし」
「だって、」
「おまえが俺のものであるように、俺もおまえのものだ。契約とはそういうものだ。肝に銘じておけ」
そこまで言われては、私だって黙っちゃいられない。聞き分けがいい?謙虚?ああ馬鹿みたいだ。自分が思っている以上に、何も伝わっていなかった。私はとても欲深いし、ルシファーのことは誰よりも好きだという自信だってある。人間界にいる時くらいは、何もかもぶつけてみるのもいいかもしれない。
「ルシファーっ!」
歩き出したその背中を、名前を呼んで止める。ほんの一歩の距離を離れるのも嫌で、ずいっと詰め寄ってルシファーの腕を取った。
「人間界にいる間は、D.D.D.禁止!私のことだけ見てて。私のことだけ考えてて。私のために、ルシファーの時間を使って。……じゃないと、拗ねちゃうんだから」
本心を曝け出すというのは、なぜこうも恥ずかしくて泣きそうになるのか。こんなことすら素直に言えないなんて、逆に情けないからなんだろうか。む、と唇を突き出してちょっと潤む瞳を誤魔化すと、一瞬ポカンとしたルシファーはふはっと吹き出して破顔した。
「普段からそのくらいわかりやすくいてくれると助かるよ」
「……重くない?」
「なにが」
「ルシファーのこと、好きすぎるから」
「愛情の重さなら俺も負けるつもりはないな」
「っ……ずるい!そんなこと言われたらもっと好きになっちゃう!」
「ああ、そうしてくれ。俺がいないと生きれないくらいで丁度いい」
恥ずかしげもなくそんなことを言われて、白旗を上げたのは私のほうだった。何を言ったって勝てるわけないんだ。ルシファーになら一生負けたままでいいやと思ってしまう私は、マスターに向いてないのかもしれない。人ごみに紛れて歩く私たちが、普通のカップルに見えていたらいいのに。マスターとか悪魔とか、そういう肩書きよりも手に入れたいそれは、きっと生涯手に入らないものなんだろう。指にはまっている光の指輪はとても大事なものだけど、今はなんだか陳腐に感じて悲しくなった。ルシファーにとって大事なものをそんな風に思いたくないのにな。なにか、なにか私の気持ちを具現化したものもあればいいのに。形ないものももちろん大事なのだけどーーと、そんなことが頭を掠めた時だった。
「あっ」
「ん?」
「きれー……」
「……ネックレスか」
ショーウィンドウの向こう側できらりと光を反射したそれは、小さな石。立ち止まって詳細な説明に目を通すと、道理で一際光っているわけだ。たった一粒輝いていたのは稀少な宝石だった。
「へぇ……アレキサンドライト……あ、これ、六月の誕生石なんだって。ルシファーの石だ。光が当たると青から赤に変色しますって、ふふ、本当にルシファーみたい」
「そうか?俺はこういうものにはあまり興味がないから、俺みたいと言われても実感が湧かないな」
「魔界にはもっと綺麗なものもたくさんあったし、それも仕方ないかもね」
「……おまえは好きなのか」
「え?まぁ人並みに綺麗だとは思うよ、もちろん。でもさ、身の丈に合わないものはダメだよ。私なんかに身につけられたらこの石も可哀想」
さ、もう行こう、とルシファーの腕を引いたけれど、思いの外そこに留まろうとする力が強くて引き戻されてしまった。珍しいなと、そちらを見遣る。
「ルシファー?」
「おまえは魔界でもそうだったが」
「ん?」
「ものさしを変えた方がいい」
「……?ごめん、どういうこと……?」
意味がわからずクエスチョンマークを返すと、ルシファーは私の腕を引いてその店に足を踏み入れた。カランと乾いたベルの音が鳴ると店員がこちらににこやかな笑みを浮かべ、挨拶をしてくる。それに対して「これを試着したい」と告げたルシファーはわざわざネックレスをショーケースから取り出させ、そしてそれを、あろうことか私の首に着ける。買う気などさらさらなかった私はオロオロするばかり。さっきチラ見した値段は、さっと計算できない数字だったから困ってしまう。
「ちょっ……!ルシファー、私、こんなの買えないって……」
「見てみろ」
「え……」
鏡の中、私の首元できらりと光った一粒の青緑はとても綺麗だ。けど、やっぱり高貴すぎるというかなんというか、私には合わない気がして苦笑まじりにルシファーの方に視線を向ける。
「ルシファー、綺麗だけどこれは、」
「いいか。最初から決めつけるんじゃない」
もう一度鏡と向かい合うように顔の向きを戻されて、それと同時、私の顔の真横にルシファーの顔が並ぶ。人間離れした綺麗なその顔の横に自分がいるのが滑稽で、でもルシファーはそんな私にお構いなしに、鏡の中の私を見つめる。
「ほしいものややりたいことがあったら、身の丈に合わないと諦めるんじゃなく、努力しろ」
「!」
「どこぞの兄弟みたく強欲になれと言っているんじゃない。せっかく心を揺さぶられるものに出会えたんだとしたら、最初から諦めるのではなく、少しくらい貪欲になるのも悪くない、ということだ」
おまえが俺を手に入れたときみたいにな、と笑ったルシファーは、ぽん、と私の肩を優しく叩くと、私を残してどこかに行ってしまった。鏡の中の私はポカンとした阿呆面。そんな私には、お世辞にもこのアレキサンドライトは似合っていない。それでもなんだか、いつかの未来でこれが私の首元にしっくり収まっていたらいいなと願ってしまった。
そっと首元に指先を這わせた私を、店員さんが優しく見つめていてちょっと恥ずかしい。
「……手に入れた、か」
ルシファーとは確かに契約はしたけど、あんまりそういう意味だとは思っていなかったし、なんなら他の兄弟全員とも契約したときも手に入れたなんて微塵も考えていなかった。ベルフェに言われていたのもあったから余計かもしれない。そもそも悪魔とはいえ、命のあるものを「手に入れた」なんていうのもおかしな話だ。君が俺のものになるんだ、なんて言われるとも思っていなかったし。ていうか俺のものってなに。ソロモンは悪魔は使役するものだと言っていた。それとは何かズレのある表現だ。光の指輪の時もそうだったけど、なんだかその言い方は、主従とかではなくて共に在りたいと願うような……そう、結婚、みたいで。
「待たせたな」
「!」
物思いに耽っている間に戻ってきたルシファーに、行こうか、と背中を取られた。慌てて待ってと引き留める。
「これ、外さないと!」
「いい」
「は?」
「それはおまえのものだ」
「……ま、……え!?」
「そのままつけていろ」
「っ嘘でしょ!?買ったの!?」
「『俺みたいな』宝石らしいからな。おまえ以外の元に行かせるのは惜しいだろう?」
「〜〜……ッ!」
首元から額まで真っ赤にされてしまった私の口はパクパクとすることしかできない。そんな私を見て楽しそうに笑うルシファーは、ああ、とさらに追い打ちをかけてきた。
「ちなみにだが」
「ま、まだ何かあるの!?」
「おまえはそのままでも十分だからな」
「なッ」
「努力しろ、と言ったのは、おまえ自身が納得いっていない様子だったからで、俺からしたらおまえは少しやりすぎなくらいだ。手を抜くところは抜いてもいいんだ。もっと俺を頼れ。俺に甘えろ」
「は、ひ」
「さっきも言ったが、俺がいないと生きれないくらいで丁度いい」
私の中で雨が降ったって、ルシファーがすぐに雲一つない晴天に戻してくれる。
それはもう、ルシファーがいないと私がダメになっている証拠なのに。
「……大切にする」
「そうしてもらえると嬉しいよ。俺も、その宝石もな」
手始めに、まずは素直になるところから頑張ってみようかな。
彼の手を取って指を絡めて見せれば、それはそれは幸せそうに目を細めたルシファーに、満たされたのは私の心だった。
あんなに晴れていた空は、家に着く頃には私たちの疲れを代弁するかのように泣き始め夜通ししとしとと降り続けたようだ。起きたのは普段に比べたら遅めの十時ごろだったけどそのときはまだどんよりと曇っていた。湯船にお湯を溜めながら、ロンドンらしいなと窓の外を眺めていたら、いつのまにかルシファーまでもがバスルームに入ってきてなし崩しに一緒に湯に浸かることになったのは言うまでもない。
けれど、そんな長い長いバスタイムが終わりブランチを食べていたころにはダイニングの窓から明かりが差し込んできて、あまりのタイミングのよさに目を輝かせた。
「あーっ!陽が出てきた!」
「雲が切れたのか」
食事の途中でマナーがなっていないけど、つい立ち上がって窓を覗く。苦笑しながらもルシファーも後に続いて窓に近づいてくれた。
ぴちゃん、ぴちゃんと屋根から雨水が滴る音が心地よい。少し顔を覗かせると、道路の水溜りに陽が反射してキラキラと眩しかった。どことなく空気も爽やか。雨が降った後の世界は一段と美しい。
「ねぇ、せっかくだからお散歩しない?この辺り、公園もあるしちょっとした商店街もあって移動カフェみたいなのもたくさん出てるの。夏場だとアイスとかも売ってるんだけど……今はないか……。でもパウンドケーキくらいならあると思う!ちょうどおやつに」
「今食べたばかりなのにもうおやつの話か?」
「ちっ、違うよ!ちょっと歩いてもし小腹が空いたらの話!」
「くくっ……!冗談だ。そうだな、その時は食べたらいいさ」
いちいち子ども扱いされるのがちょっと悔しい。でも齢何千歳の悪魔からしたら私なんて赤子みたいなものなんだろうなとも思う。ぷく、と頬を膨らませるくらいしか抵抗ができずにいると、「ほら、さっさと食べ切れ。出かける時間がなくなるぞ」と急かされて、毒気を抜かれてしまった。なんだかんだ、ルシファーには一生敵いそうにない。
それから暫く、準備を終えた私たちは、ふらふらと街を歩いていた。
こうしていると、魔界も人間界もあまり変わりはないので不思議な感覚だ。違うのは太陽があるかないか、そのくらい。天界はさすがにちょっと空気感も違ったけど、もしかしたら私が出ていっていない場所に街のようなものもあるのかもしれないし、そう考えると殿下が思っているよりも三界を好きな時に好きなだけ行き来できるようになる日は遠くないのかな、という気もする。でもそれは素人の理想的見解ってやつなのかな。私にも何か、もっとできることがあればいいのに。私の指にはいつも光の指輪がはまっている訳だけど、これだって三界を壊しちゃうからつけてるってところもあるし、なんだか私ってなんなんだろうなぁ。むしろいない方が全然いいんじゃないか、なんてところまで行き着いてしまって、だめだ暗いことを考えるのはよそうとルシファーに話しかけようとしたら、そのルシファーはD.D.D.を見ながら眉間に皺を寄せていて、私よりも悩んでるようだ。
「どうしたの、そんな顔して。何かあった?」
「ん?ああ……少しトラブルがあったみたいでな。本当にどうしようもない」
「えっ、大丈夫なの?それ、帰った方がい」
「こら」
コツンと額に拳が当たって、「わっ」と反射で声を上げると、ルシファーはものすごい苦笑を浮かべた。
「せっかく時間を作ってきたのに、こんなに中途半端に魔界に戻ろうなんて思うわけないだろう」
「でも……だって、ルシファーが魔界のことより私を優先してくれるなんて」
「なんだその言い方は。失礼だぞ。俺だって自分を優先するときもある」
「……魔界にいた時はいつだって執行部のこと優先してたよ?自覚なかったの?」
「む……そうだったか?」
「そうだよ。だから……」
その先の言葉は言っていいのか悪いのかわからなかった。下手なことを言ったらただの我儘に聞こえそうだったし、そんな足枷を作りたいわけじゃなかったから。だけど、いつも、いつだって、その気持ちから視線を逸らして黙っていた。
「だから、寂しかった、か?」
「へ、」
なのに、まさに私が呑み込んだ台詞がルシファーの口から飛び出して、驚きで目を見開いてしまった。
「すまなかった。どうにも時間感覚には疎くてな」
「えっ、あっ、そ、んな、ルシファーが謝ることじゃ……だってそれは仕事だから」
「聞き分けがいいのは助かるが、良すぎるのも心配になる」
「で、でもほら、そんな、やらなきゃいけないことの邪魔なんてしたくないし」
「少しくらい、束縛してほしい」
「、は」
「なんて言ったら、呆れるか?」
困ったように眉を下げたルシファーは、そう言って笑う。
「ルシファーはみんなに頼られてるし、私だけがそんな……そんなこと、できないよ」
「俺のマスターは謙虚すぎる。いいと言ってもダメだと言うし」
「だって、」
「おまえが俺のものであるように、俺もおまえのものだ。契約とはそういうものだ。肝に銘じておけ」
そこまで言われては、私だって黙っちゃいられない。聞き分けがいい?謙虚?ああ馬鹿みたいだ。自分が思っている以上に、何も伝わっていなかった。私はとても欲深いし、ルシファーのことは誰よりも好きだという自信だってある。人間界にいる時くらいは、何もかもぶつけてみるのもいいかもしれない。
「ルシファーっ!」
歩き出したその背中を、名前を呼んで止める。ほんの一歩の距離を離れるのも嫌で、ずいっと詰め寄ってルシファーの腕を取った。
「人間界にいる間は、D.D.D.禁止!私のことだけ見てて。私のことだけ考えてて。私のために、ルシファーの時間を使って。……じゃないと、拗ねちゃうんだから」
本心を曝け出すというのは、なぜこうも恥ずかしくて泣きそうになるのか。こんなことすら素直に言えないなんて、逆に情けないからなんだろうか。む、と唇を突き出してちょっと潤む瞳を誤魔化すと、一瞬ポカンとしたルシファーはふはっと吹き出して破顔した。
「普段からそのくらいわかりやすくいてくれると助かるよ」
「……重くない?」
「なにが」
「ルシファーのこと、好きすぎるから」
「愛情の重さなら俺も負けるつもりはないな」
「っ……ずるい!そんなこと言われたらもっと好きになっちゃう!」
「ああ、そうしてくれ。俺がいないと生きれないくらいで丁度いい」
恥ずかしげもなくそんなことを言われて、白旗を上げたのは私のほうだった。何を言ったって勝てるわけないんだ。ルシファーになら一生負けたままでいいやと思ってしまう私は、マスターに向いてないのかもしれない。人ごみに紛れて歩く私たちが、普通のカップルに見えていたらいいのに。マスターとか悪魔とか、そういう肩書きよりも手に入れたいそれは、きっと生涯手に入らないものなんだろう。指にはまっている光の指輪はとても大事なものだけど、今はなんだか陳腐に感じて悲しくなった。ルシファーにとって大事なものをそんな風に思いたくないのにな。なにか、なにか私の気持ちを具現化したものもあればいいのに。形ないものももちろん大事なのだけどーーと、そんなことが頭を掠めた時だった。
「あっ」
「ん?」
「きれー……」
「……ネックレスか」
ショーウィンドウの向こう側できらりと光を反射したそれは、小さな石。立ち止まって詳細な説明に目を通すと、道理で一際光っているわけだ。たった一粒輝いていたのは稀少な宝石だった。
「へぇ……アレキサンドライト……あ、これ、六月の誕生石なんだって。ルシファーの石だ。光が当たると青から赤に変色しますって、ふふ、本当にルシファーみたい」
「そうか?俺はこういうものにはあまり興味がないから、俺みたいと言われても実感が湧かないな」
「魔界にはもっと綺麗なものもたくさんあったし、それも仕方ないかもね」
「……おまえは好きなのか」
「え?まぁ人並みに綺麗だとは思うよ、もちろん。でもさ、身の丈に合わないものはダメだよ。私なんかに身につけられたらこの石も可哀想」
さ、もう行こう、とルシファーの腕を引いたけれど、思いの外そこに留まろうとする力が強くて引き戻されてしまった。珍しいなと、そちらを見遣る。
「ルシファー?」
「おまえは魔界でもそうだったが」
「ん?」
「ものさしを変えた方がいい」
「……?ごめん、どういうこと……?」
意味がわからずクエスチョンマークを返すと、ルシファーは私の腕を引いてその店に足を踏み入れた。カランと乾いたベルの音が鳴ると店員がこちらににこやかな笑みを浮かべ、挨拶をしてくる。それに対して「これを試着したい」と告げたルシファーはわざわざネックレスをショーケースから取り出させ、そしてそれを、あろうことか私の首に着ける。買う気などさらさらなかった私はオロオロするばかり。さっきチラ見した値段は、さっと計算できない数字だったから困ってしまう。
「ちょっ……!ルシファー、私、こんなの買えないって……」
「見てみろ」
「え……」
鏡の中、私の首元できらりと光った一粒の青緑はとても綺麗だ。けど、やっぱり高貴すぎるというかなんというか、私には合わない気がして苦笑まじりにルシファーの方に視線を向ける。
「ルシファー、綺麗だけどこれは、」
「いいか。最初から決めつけるんじゃない」
もう一度鏡と向かい合うように顔の向きを戻されて、それと同時、私の顔の真横にルシファーの顔が並ぶ。人間離れした綺麗なその顔の横に自分がいるのが滑稽で、でもルシファーはそんな私にお構いなしに、鏡の中の私を見つめる。
「ほしいものややりたいことがあったら、身の丈に合わないと諦めるんじゃなく、努力しろ」
「!」
「どこぞの兄弟みたく強欲になれと言っているんじゃない。せっかく心を揺さぶられるものに出会えたんだとしたら、最初から諦めるのではなく、少しくらい貪欲になるのも悪くない、ということだ」
おまえが俺を手に入れたときみたいにな、と笑ったルシファーは、ぽん、と私の肩を優しく叩くと、私を残してどこかに行ってしまった。鏡の中の私はポカンとした阿呆面。そんな私には、お世辞にもこのアレキサンドライトは似合っていない。それでもなんだか、いつかの未来でこれが私の首元にしっくり収まっていたらいいなと願ってしまった。
そっと首元に指先を這わせた私を、店員さんが優しく見つめていてちょっと恥ずかしい。
「……手に入れた、か」
ルシファーとは確かに契約はしたけど、あんまりそういう意味だとは思っていなかったし、なんなら他の兄弟全員とも契約したときも手に入れたなんて微塵も考えていなかった。ベルフェに言われていたのもあったから余計かもしれない。そもそも悪魔とはいえ、命のあるものを「手に入れた」なんていうのもおかしな話だ。君が俺のものになるんだ、なんて言われるとも思っていなかったし。ていうか俺のものってなに。ソロモンは悪魔は使役するものだと言っていた。それとは何かズレのある表現だ。光の指輪の時もそうだったけど、なんだかその言い方は、主従とかではなくて共に在りたいと願うような……そう、結婚、みたいで。
「待たせたな」
「!」
物思いに耽っている間に戻ってきたルシファーに、行こうか、と背中を取られた。慌てて待ってと引き留める。
「これ、外さないと!」
「いい」
「は?」
「それはおまえのものだ」
「……ま、……え!?」
「そのままつけていろ」
「っ嘘でしょ!?買ったの!?」
「『俺みたいな』宝石らしいからな。おまえ以外の元に行かせるのは惜しいだろう?」
「〜〜……ッ!」
首元から額まで真っ赤にされてしまった私の口はパクパクとすることしかできない。そんな私を見て楽しそうに笑うルシファーは、ああ、とさらに追い打ちをかけてきた。
「ちなみにだが」
「ま、まだ何かあるの!?」
「おまえはそのままでも十分だからな」
「なッ」
「努力しろ、と言ったのは、おまえ自身が納得いっていない様子だったからで、俺からしたらおまえは少しやりすぎなくらいだ。手を抜くところは抜いてもいいんだ。もっと俺を頼れ。俺に甘えろ」
「は、ひ」
「さっきも言ったが、俺がいないと生きれないくらいで丁度いい」
私の中で雨が降ったって、ルシファーがすぐに雲一つない晴天に戻してくれる。
それはもう、ルシファーがいないと私がダメになっている証拠なのに。
「……大切にする」
「そうしてもらえると嬉しいよ。俺も、その宝石もな」
手始めに、まずは素直になるところから頑張ってみようかな。
彼の手を取って指を絡めて見せれば、それはそれは幸せそうに目を細めたルシファーに、満たされたのは私の心だった。