◆薄明の暁星

 カチャカチャと、小さな音が耳に届いて意識が目覚める。
 ぼやける視界の向こうには、天井。そこに薄っすら射し込む光を見ると、どうやら今日も晴れているようだ。
「……るしふぁ……?」
 昨晩共に眠りについたルシファーの姿はベッドの上にはなく、サッと青ざめた。あれは幸せな夢だったのかと。しかし、身体を起こそうとしたところで腰が重くてへにゃりとベッドに逆戻りしてしまい、そこでやっと「あ、これは」と思い当たって今度はカッと耳が熱くなる。全く忙しい表情筋だ。
 そのタイミングを見計らったかのように、キッチンからルシファーが顔を覗かせた。
「お目覚めか?」
「おはよ……。う……起き上がれないなんて……そんな……」
「ははっ!久しぶりだったからな」
「っ……そんなに晴れやかな顔で言うことじゃないよぉ……。昨日食べられなかった分、朝くらい腕を振るうつもりでいたのにぃ……」
「気にするな。魔界でもやってることだ。それよりも、キッチンまで運んでやろうか?」
「いいっ!!も……!!これ以上恥ずかしがらせないで!」
「昨日も言ったが、誰もいないんだ。存分に甘えるといい」
「それはこっちのセリフだよ。せっかく魔界から出てるんだからゆっくりしてほしかった」
「あいつらがいないだけでもう十分すぎるほど平穏だ。ほら、冷める前に来い。それともまだ抱かれたりないか?」
「ッそんなわけないでしょっ!」
 目を逸らし、言い返した言葉に対して囁かれたのは、なんのことはない。今夜の予定だった。
「ゆっくり……というなら今夜はバスタイムで決まりだな」
 ベッドに腰掛けて私を引き寄せたルシファーは、頬にチュッとリップノイズを響かせて心底楽しそうに笑った。
 そんな朝のひと時の後、やっとダイニングテーブルに着き、いただきます、と手を合わせれば、「おまえのそれを聞くのも久しぶりだ」と言われ、恥ずかしくなってしまう。なんだか夫婦みたいだなぁとは口には出さなかったけど、何を考えているのかバレているような気もした。
 出来たての朝食を一緒に食べられる、その事実に頬が緩む。起き抜けのふにゃふにゃな顔がさらにどうしようもない状態になっているのか、緩みすぎだと、今度は苦笑された。
「それで、今日の予定は?」
 もごもごと口を動かす私の前で優雅にコーヒーを嗜みながら、ルシファーが訊ねる。手を止めて頭に思い描くのは十日間分のプランだ。
「んー、本当はね、ルシファー、来たばっかりだし、一日中家で休もうと思ってたんだけど……こんなにいい天気だとちょっともったいないなって」
「さっきも言ったが、俺はあいつらがいないだけで随分心も身体も休まっているから気にする必要はない」
「口ではそう言っても疲れは溜まってるよ絶対。ルシファー、ワーカーホリックじゃん?」
「ワーカーホリックな自覚はないな」
「えっそれで!?」
 自覚がないワーカーホリックほど怖いものはないと思うけど。たまーに魔界でもくたくたになってるのに。
 しかしながら、それはそれとして。そういうことであれば、せっかくの機会、色々と行きたい場所はあったので、あまり大変そうでないプランを脳内ではじき出す。
「……そこまで言うなら……じゃあドライブしよう!」
「ドライブか。それは構わないが、」
「運転は私がしまーすっ!」
「……………………できるのか、運転」
「ちょっと!何そのまなざし!何その間!できるよ運転くらい!免許だってちゃんと持ってる!」
「……不安だ……」
「っそういうルシファーは運転できるの!?」
「あたりまえだ」
「えっ、ほんと?」
「おまえは俺がおまえの何倍長く生きてるか知ってるだろう。そのくらいできなくてどうする。大体マモンの車も見たことがあるんじゃないか?あいつが乗れて俺が乗れないわけがない」
 そう言われると妙な納得感はあるけど、マモンが車に乗ってるのもちょっとびっくりしたんだもん。デモニオちゃん、だったか。あれを部屋にどうやって運び入れているのかはいまだにわからない。
 ルシファーが電車に乗るって言っても不思議だけど。でも乗る対象が自転車になってももっと不思議だし。結局のところイメージできないだけなのか。自分の想像力が欠如しているのかもしれない。
「ちなみに箒も乗れる」
「わっ!そのイメージもなかった!でもルシファーさ、悪魔姿なら羽根で飛べるんじゃないの?必要なくない?」
「それでもだ」
「……暇だったの?」
「そういう言い方をするんじゃない」
 お咎めの視線がジトっと私に向けられたところで、ごめんごめんと謝った。
「頼ってばっかりになっちゃうけど、本当にいいの?」
「そのくらいなんてことない。おまえが運転する車に乗る方が気持ちが休まらないしな」
「言い方!っもー!」
「くくっ……!で?どうするんだ?」
「レンタカー予約する!ルシファーが運転してくれる?」
「最初から素直にそうすればよかったんだ」
 と、そんなやりとりの暫く後、街を抜けた私たちは、抜ける様な青の下、海岸沿いのドライブコースを走っていた。
 本人の言う通り、ルシファーの運転は完璧だった。様になりすぎて怖いくらい。制限速度ギリギリラインで車を走らせ、ブレーキを踏むこともほとんどないからか、人が運転する車に乗ると酔いやすい私でも全然苦にならなくて驚いた。もしかしなくても、これまでは運転手の腕があまり良くなかっただけかもしれない。
 時々横顔を盗み見していることに気づかれていないといいのだけど。遠くを見つめる紅眼に映っているのが、ただこの先の景色なのか、それとも私が見ることができない何かなのか、ちょっとだけ不安になったりしてしまうなんて、あまりにも馬鹿げている。
「実のところ、この国の言葉はあんまり得意じゃないの」
「ん?そうなのか」
 運転中に運転手に触れるなんてことはできなくて、だから唐突に会話を始めた。内容なんてなんでもよかった。ルシファーが、今ここにいてくれていることさえわかったら。私の声に耳を傾けてくれるのはルシファーだけ。会話を邪魔しない程度にかかっているラジオからは、知りもしないのにかっこよく聞こえる英語の歌詞が聞こえてくる。なんだか映画のワンシーンみたいで不思議な感覚だった。
「うん。そこそこはわかるんだけど、うまく意思疎通できない時もあって。そういうとき、言葉の壁って分厚いなって思うの。同じ国に生まれて、ずっと同じ文化で育ってきてても隣にいる人とまるで違う考えを持っていたりして分かり合えないって言うのに、文化圏も言葉も違うんだから仕方ないけど」
「それはそうだな。俺たちも七人で長い間生活しているが、いまだにわからないことだらけだ」
「ふはっ……!確かに!みんな個性ありすぎだもんね」
「そう言うことだ。だからそんなに気にするな」
 ルシファーについてもわからないことは多いけど、こうやって同じレベルで言葉を理解しあえる距離にいられてよかった。ソロモンに魔術を教わっている間は一人ではないし、みんなが入れ替わり遊びに来てくれていた間も一人じゃなかった。それでもやっぱり、多くの人に囲まれている環境に慣れすぎていてちょっと不安だったんだなと、何気ない会話の中で思い知る。今更ながらにホッと外に息を吐き出すと、少しだけ心が軽くなった気がした。
 開け放たれた窓の外、海に反射する眩しい太陽の光に思わず目を細める。絶えず風が吹き込んでくるのは爽やかなんだけど、それと同時にブルッと身体が震える。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、ちょっと冷えるなと腕をさすったら、いつの間にそれを見たのか、ウィインと音がして窓が閉められてしまった。
「あっ」
「閉めておけ。窓越しでも十分外は見えるだろう」
「風、気持ちよかったのに」
「ナビ通りならもうすぐ街に出る。そこで適当に車を停めて風にあたればいい」
「はぁい」
「なんだ。納得いかないようだな」
「え?全然そんなことないよ?ルシファーお父さんの言うことはちゃんと聞かなくっちゃね」
「ほぉ?」
 実際その行動に対して私は何も思っていなかったし、むしろもう閉めようと考えていたところだったからさすがルシファーだなぁと感じた上での冗談だったのだけど、声のトーンが悪かったのか、ルシファーからの返事がちょっと怒ったような声だったのにはしまったと思わざるを得ない。沈黙が重くて居心地が一気に悪くなった。やっぱり同じ言語の会話でも、伝わらないことも多いみたい。
「……何か気に障った……?」
「……」
「えっと……あの、わあっ!?」
 スッと視線だけこちらに寄越されて言葉に詰まっていたら、グルリと車の進む向きが変わった。この車に乗って初めて身体が横揺れしてびっくりした刹那、それは音もなく止まる。何が起こったのかわからない。けれど、視界に入る景色を見る限り、どうやらさっき言っていたように、街の入り口に着いたようで。とすればここは駐車場なのかもしれなかった。
「ルシフっ」
 名前を呼ぶのと同じタイミングでグッとルシファーが助手席に身体を乗り出してくる。それを認識した瞬間、私の視界はルシファーでいっぱいになった。
「おまえには、もう随分教え込んだと思ったんだが」
「ッ、な、なにを……?」
「俺は、おまえにとってただの家族なのか?」
「え……家族……って、あっ!?」
 そこでやっとルシファーの気に障った言葉に合点がいった。
「あれはちょっとした冗談!!違うよ、だいたいルシファーは私の家族じゃないし!?」
「そうだな、おまえは当初から長い間、自分はリリスじゃない、と騒いでいたからな。それと同じだ。俺の、そろそろわかってもらわないと怒るぞ、という気持ちもわかるな?」
「わ、わかる!わかってます!ごめん!やっぱり伝わらないことも多いね!?同じ言葉使ってても、あ、あはは……生きてきた場所が違うから、かな……?」
「しらばっくれるなよ。さっきの話とこれは訳が違う」
「ウソウソ!?一緒だよ!本質は一緒!!」
 これ以上近づいたら唇がくっついちゃう!と二人の顔の間に入れようとした手は、事前に予想されていたのか簡単に絡め取られてシートに縫い付けられてしまった。
 触れるだけのキスをひとつ。
 それから、ごめんね、といえばもうひとつ。
「ンッ……るしふぁーは、お父さんなんかじゃないよ、私の、……こいびと、だよ」
「それなら二度と他の言葉で俺を表現しないことだな」
 最後に降ってきたのは唇を食むような、ちょっとだけ長いキスだった。ゆっくりと離れていく間に、ルシファーが自分の唇をペロリと舐める。それがとても大人っぽく見えて、私も大人なんだけど、生きた年数の差を見せつけられた気がした。
「そんな顔をして、俺を誘惑するつもりか?」
「え……」
「車の中で、なら、こんな場所では無理だぞ。俺はおまえの可愛いところを見せびらかす趣味はない」
「……ッ!?」
 暗に情事のことを仄めかされてブワッと身体が熱を持った。一旦降りよう、と車のドアに手をかけたルシファーに、このままやられっぱなしは癪だなとばかりに、背にもたれかかって彼を引き留める。
「どうした」
「……私だって、ルシファーの色っぽいとこ、他の誰にも見せたくない、もん」
「おまえは……」
 振り返って私を見下ろすルシファーの耳は少し赤く染まっていて、それを見た私の頬はもっと赤くなったに違いない。そんな私の顔をむにっと挟むと、ルシファーと額がコツンと合わさった。
「帰ったら覚えていろよ」
「っ!」
「明日、本当に立てなくなっても俺は知らないからな」
「それは、」
「だが今は、せっかくここまで来たんだ。デート、したかったんだろう。おまえのしたいことは俺のしたいことだ。しっかりエスコートさせてくれ」
 苦笑したルシファーは、私の頭をぽんぽんとしてサラリと車を降り、そのまま回り込むと助手席の扉を開ける。
「ほら、お手をどうぞ」
 そんなエスコート、王子様みたいだ。ああもう敵わないなと、私は満面の笑みを浮かべて、その手を取った。
 今日は、長い長い一日になりそうだ。
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