■2022/4までの読み切りログ(ルシファー)

 その日、ベールに頼まれたボールペンを買いに文具店に行った私は、初めて見る魔界ならではの文具に目を奪われていた。
 私を取り分けひきつけたのは、インク棚である。赤、青、橙、緑、紫、桃、白、黒……それはもう数えきれない程たくさんのインクが陳列されているが、見る限り一つとして同じものはなさそうだ。

「へぇ……インクにそれぞれ名前がついてるんだ。『Deep in the Mountains』、んー山の奥の深緑、かな?ふふっ、こっちは『Poison Apple』だって。紫の毒リンゴってところかな。こっちは……えーっと……『Aphrodisiacs』?読み方もわかんないや。淡いピンクだから恋的なやつかな。うわ、こっちなんてショッキングピンクで『Erotica』ってそのものじゃん!」

 百面相しながら食い入るように棚を見ているうちに、『1+1』と書いてある小さいプライス表が見えて、あっもしかしてこれって『Buy one Get one Free』ってやつかな!?と気づく。せっかく文具店に来たんだしと、興味の赴くままにインクを購入するに至ったのである。

 おつかいしたボールペンをベールに渡して、私は自室に戻る。かさかさと袋を開けて、二つのインク瓶を並べた。私が購入したのは、よく使うであろう『Morion』、つまり黒水晶の黒。それから、もう一つ、無料で手に入れたのが、読むことができなかったけれど、インク瓶に『Aphrodisiacs』とラベリングされていた淡いピンク色だ。

「うんっ!どっちも綺麗!魔界文字じゃなくて助かっちゃった。えっと、そうだそうだ。それでこのピンクは一体なんて書いてあるんだろ?」

 文具店にいる間に調べておけば、こんなことにはならなかったのに。いかんせん、私は人目に弱いところがある。一般的なお店でD.D.D.を取り出すことに抵抗があったせいで調べることができなかったのだ。
 一文字ずつ確認しながら、D.D.D.に打ち込んでいく。間違いないともう一度見返し、Enterをタップしたところで、つんのめって机で頭を打ち付けてしまった。

「っ!?こ、これ、って、さ、催淫!?」

 表示された文章を見て顔を赤らめたのも許してほしい。『Aphrodisiacs』とは催淫効果という意味を持つらしく、いくらインクの名称だと言ってもこんなものを普通の顔をして購入したと思ったら、恥ずかしくてもうあの文具店には足を運べないなと思った。

「うっ……予想外だったけど、ま、まぁいいや……誰に見せるわけでもないし、色が気に入ったのは事実だしっ……」

 無知な自分を呪いながら言い訳をしつつインク瓶を開けると、かすかに甘い香りがするから不思議なものだ。色に合わせた香り付けでもされているのだろうか。洒落たインクだなぁと感心する。
 せっかくだから何か試し書きをしようとインクにペン先を浸し、さて、どうしようかと思案。けれど、そこは恋する乙女の考えること。試し書きとはいえ、ピンク色で書きたいことなんて一つしかない。

「ルシファー。Lucifer。るしふぁー。だいすき。はーと……っと。ふふっ!ピンク色で書くと可愛いな!」

 それから自分の名前も小さく書いてみれば、ふつふつと『何やってんだろ』と恥ずかしい気持ちが湧いて来てページを隠すように手帳を閉じた。

「勉強しよう勉強!」

 気持を切り替えて、今日の授業で習った箇所の復習を始めてしまえば、数時間過ぎるのなんてあっという間。難しいけど興味深くて面白い、魔界の授業は割と好きだ。教科書に載っている魔法陣や魔法具、それから魔獣などは見るだけでも心が躍る。買ったばかりの黒インクもいい塩梅にノートに滑ってくれて好調だ。
 そんな調子で復習に次いで予習も進めていると、コンコン、と部屋の扉をノックする音が聞こえてハッとなった。時計を見れば、もうすぐ夕飯の時間である。今日って私が当番だっけと急いで扉に向かう。

「ごめんっ!今日って夕食当番わたっわ!?」

 扉を開けた途端、私にのしかかるように倒れこんできた身体を抱き留められるはずもなく、二人一緒に床に倒れこむ。倒れてきたそれは、いつもは私を部屋に呼びつけるルシファーの身体だった。

「えっ!?ルシファー!?珍しい……っていうかどうしたの?倒れるくらいツライの?大丈夫……?!」
「っ、おまえっ……!」
「ん?」
「俺に何をしたんだっ」

 ありったけの力を込めたのか、バッと勢いよく起き上がったルシファーは、私を見下ろす。その顔は首から額まで真っ赤に染まっており、尋常ではない状況だと察せられた。
 けれどルシファーは今、私に向かって何と言ったか。『おまえは俺に何をした』と、そう言わなかったか。

「えっ……と、私が?ルシファーに?なにか……ってなに?」
「おまえ以外に考えられない!俺にこんなことをできるのはマスターであるおまえだけだろう!?」
「ちょ、ちょ、ちょっとまって、えっ、本当に申し訳ないんだけど、理解が追い付いてない!?何がどうしたの!?」
「俺に向けてっ……催淫の魔術を使っただろう……っはぁ、」
「催淫!?そんなもの私が使えるわけな……あ……ああ…っ…!?」
「っ、ほらみろ……心当たりがあるんだろうっ」

 この紅眼でぎろりと見つめられて嘘をつける者なんて、三界合わせても一人もいないと思う。
 逃げられないと悟り訥々と話すのは、今日文具店で買ったインクのこと。それから、ルシファーの名前をそのインクで書いてしまったこと。

「だから、それが原因、かも……ごめんなさい、まさかそんなことになるなんて思わなくって……」
「……それだけか?」
「え?」
「書いたのは、俺の名前だけか」
「あ……え、えっと、その……」
「他にも書いたんだな?」
「ちょ、ちょっと、だけ……」
「言うんだ」
「そ、そんな、他愛もないことだよ、そのっ」
「言え」

 辛そうに眉をひそめながらもこんな風に詰問されて、黙っていられるほど、私は強いマスターではなかった。
 意を決して口にしたのは、恥ずかしくてしかたない、書いた通りの言葉。

「……っ……す、すきって……」
「は?」
「ルシファーの隣に大好きって書きましたっ!!ごめんなさいっ!!」
「だい、すき……」
「それから更にその隣に自分の名前もっうわあああごめんなさいたぶんそのせい!?二人一緒に書いたからまずかったの!?好きって書いたのがまずかったの!?どっちにしろ本当にごめんなさい!!どうやったら治る!?消したらいい!?破って捨てたらいい!?ルシファーが楽になるならなんでもっンん!?」
「っん……はぁ、ン、」
「んんぅ……っ、ぁ、ふ」

 ルシファーから返ってきたのは、お怒りの言葉でも咎める視線でもなく、深いキス、だった。
 吐息を奪われ、思考を遮られ、ルシファーのことしか考えられなくなる。そんなキス。
 咥内を蠢く舌に弄ばれて、疼いたのは従順にされてしまった身体で、私が太ももをすり合わせたところでちゅぱっと解放された唇からは、どちらのものともつかない唾液が糸を引いた。

「ッハ……おまえが書いた本人なのに、どうしてそんなに欲しがっているんだろうな?」
「んはっ……ぁ、そ、れは、ルシファーがっ……ッ……!」
「俺が、どうした?」
「っい、いゃ、その……」
「俺のせいということであれば、そうだな。俺は今とても気分がいい。存分に善くしてやろう」
「!?だ、だめだよっ、今から夕食じゃっんむぅ!?」
「ンッ……ふ、はぁ、っんん」
「んぅーっ!?」

 私が犯した過ちは、なるほど、大変なものだったらしい。
 わからないことやものはきちんと自分で調べてから実施しましょう、なんて、小学生でも知っている教訓なのに。
 あの催淫効果ってどのくらい続くの!?てかどうやったら解けるの!?ということすら、今の私にはわからないのだから。

 あたりまえだが、夕飯を食べ逃すことは決定事項。もしかしたら明日は自分の足で立つことすらままならないかもしれない。
23/26ページ