◆Dead Drop
【番外編2】
「誤解だ。待て!」
そんな言葉を投げかけられた気がしたが、私はそれを振り切って離れへと急いでいた。ここに来たばかりの時とは大違いの感情が渦巻いて、もう何が何だか自分でもわからない。
この旅館についてすぐ、部屋でちょっぴり甘い空気に当てられた。このままするのかな、と思ったが、そうはならず。ルシファーにも一応これが「旅行」という認識はあったようで、せっかくだからと外に連れ出された。観光地なのだろう、街は活気に溢れていて歩くだけでも十分楽しかった。隣にルシファーがいるのにミッションでなくただの休暇と言うのは、一般人みたいでおかしな感じだ。そんな風に「普通」を満喫している中でこんなことが起こるなど想像もしていなかったわけで、あの時ああしていたら、なんてことを思ってももう遅い。
ちょっとお土産の会計にもたついている間に店先がキャイキャイと黄色い声で騒がしくなっていた。嫌な予感がして、お会計が終わると同時に店の外に出ると、思った通り。キャピキャピした女性グループに囲まれていたのはルシファーで、露出度の高い服を纏う女性に腕を絡め取られて困った表情をしていた。ルシファーなら振り払うなど簡単だろうがそれをしないのは相手が一般人も一般人だからだろう。それだけだったらそれで済んだのだけれど、如何せん、その後の一瞬だ。私を絶望の淵に追いやったのは。
「おにーさん、かっこいいからチュー写メ撮らせて!」
「は、」
パシャ。
スマホのシャッター音が聞こえたと同時、ルシファーの腕に引っ付いていた一人の女性が背伸びをし、ルシファーの頬でチュッと音を立てたのだ。刹那、私の耳からは全ての音が消え、ルシファーの瞳がこちらを捉えたときには旅館へと走り出していた。
「待て!」
私を呼び止める声がした気もするけれど、その時は走ることで精一杯で振り返ることなんてできやしなかった。なにせ私は走るのが苦手なのだ。ルシファーが本気で追いかけてきたらものの数秒で捕まるだろう。できるだけ早くと人混みを選んで駆け抜ける。私はぐんぐん進めても彼は肩幅もあるからなかなか進んで来れないだろうと踏んでの作戦だ。
思惑通り。私のスピードについて来れなくなったのか、背後にルシファーの気配は無くなってほっと一息。少し足を緩めて、旅館の入り口ではなく離れへ直接繋がっているという小道へと歩を進めた。
「ふぁ……」
行きも思ったが、ここは街中とは大違いでとても静かだ。竹が生い茂り、その合間をキラキラと降り注ぐ陽が綺麗で、そよそよ髪を抜けていく風が気持ち良い。足を止め、目を閉じればサワサワと葉の擦れ合う音が心に沁みた。
「あんな事でいちいち乱されてちゃ、エージェント失格だ……」
今更ながらに逃げた自分を恥じた。何がドライな関係でいい、だ、と自嘲する。だってもうこんなに好きなのに。私だけを見てほしいのに。
デビルズに何も貢献できていないけど、もう辞めた方がいいのかもしれない。身の丈に合わなかったんだきっと。ミッションにも満足に出してもらえない、ノロマでトロくて役に立たない私なんて。そんなことを考えるとぐすんと鼻を啜りたい気持ちになって下を向く。カバンでは今しがた買ってもらったばかりのキーチェーンが揺れ、チリンと一つ可憐な音を鳴らした。
と、同時。ガサっと音がして道ではないところから突如人が現れて、唖然。
「っ、!?」
「ん? どこに出たんだ……近道じゃなかったのか?」
引っ込む涙と声。反対側を向いていた目が私の方にゆっくりと向き、視線がかちあう。キョトンとした表情があどけなく、しかし徐々に開かれた瞳が次の瞬間ゆるりと細まった。
「探した」
一言呟いて私の手を取ると、そのまま引き寄せられる。私はぽすりと彼の胸に収まった。
「一般人相手だとどうも調子が狂う。すまなかった。君にそんな顔をさせたかったわけじゃない」
「、っ、そんなって、」
どんな、と聞こうとすると、少し離れた彼は身をかがめ、口付けを落とす。
「ン、」
「んっ、んぅ、は、ルシ、ン……フ、!」
一度くっ付いた唇はちゅっちゅっ、と何度も何度も繰り返され、ついには唇の隙間から舌が入り込んでくる始末。私を慰めるように、宥めるように、ゆっくりと歯列をなぞって上顎を撫で、舌を絡めて愛撫する。しばらくキスが続いたせいで苦しくなって、胸の辺りに縋っていた手にギュゥっと力を込めたら、私の様子に気付いたルシファーはやっと私を解放した。
「、は、はぁっ、ン、はぁ」
「ふ、こんなことでへばるなんて、まだ教え足りないか」
「っ……これも、訓練、っ?」
「ん?」
「私、もう、……デビルズをやめたい……」
「は? 何を、」
「ミッションにも出してもらえないし、出たところで役にも立たない。ただいるだけの人間はエージェントの端くれでもない……使えないならもういいからっ、面倒みてくれなくて大丈夫だからっ……」
勢いのままに考えていたことを口に出すと端正な眉が訝しげに潜められて、それから少し間があいたあと、はぁ……と深い溜息が吐き出される。やっぱり私はお役御免になるんだろうと次の言葉をビクビクしながら待ったが、聞こえてきたセリフはそれとは異なるものだった。
「計画倒れにも程がある」
「……?」
「抱いてるだけじゃダメだと、お小言を言われてな」
「へ……誰に?」
「…………知人だ」
「知人?」
「だから、そいつの言う普通になぞらえたかったんだが……俺は普通がよくわからない」
あれはちょっとした事故だったと言いながらバツの悪そうな顔をしてふぃと逸された目。少しだけ染まった頬が愛おしい。もしかしなくても、これは。私が勘違いしていただけなのではないか。過度な期待は良くないが、確かめてみる価値はある。そう思って、私の頬を固定していた彼の手に手を重ねて、問う。
「ルシファー、一つ教えて」
「なんだ」
「今まで訓練と言っていたあれこれは私を呼びつける口実だった?」
「……」
「私を抱くのは、どうして?」
「それは、」
「私のこと……すき?」
「好きじゃない」
はっきりと口に出された言葉は、私の心臓を抉った。どういう意図があれ、好意の上にあった行為でないなら、この先の話は聞く必要もない。悲しいけど、そういうことだったのだ。もしかしたら性欲を持て余しただけなのかもしれない。私だけが好きで、私だけが善がっていたのだと込み上げるものがあるが、今その感情を表に出してはいけないと必死で耐える。
「……そっか、ごめんね」
「いや、俺は」
「かんちがいだったみたい。全部忘れ、」
「愛してる」
「、え」
「俺は君を愛してる」
スッと私を見つめた紅は、私の視線を真正面から受け止め、きらりと揺れた。どこかすっきりとした顔でふわりと笑ったルシファーは、私にもう一度触れるだけのキスを落とすと、こう続ける。
「そうか、なるほど。こう言えばよかったのか。俺は、君を愛しているから抱きたい」
「あ、ぇ、」
「訓練じゃない。愛情だ。もう何度も伝えたつもりだったが、思い込みではいけないからな」
指でなぞられた唇が震えているのが自分でわかる。ルシファーはそんな私をクツリクツリと笑いながら見つめ、「君は?」と問いかけた。彼の目には私しか映っていない。
「その表情を見れば、俺の推測に誤りはないだろうが……俺も君の口から気持ちを聞きたいと言うのはわがままかな」
きゅうっと締め付けられたのは胸の奥の中心。はぐらかすなんてできるはずもなかった。たった二文字の言葉が音になったと同時、それはぱくりと飲み込まれた。
「誤解だ。待て!」
そんな言葉を投げかけられた気がしたが、私はそれを振り切って離れへと急いでいた。ここに来たばかりの時とは大違いの感情が渦巻いて、もう何が何だか自分でもわからない。
この旅館についてすぐ、部屋でちょっぴり甘い空気に当てられた。このままするのかな、と思ったが、そうはならず。ルシファーにも一応これが「旅行」という認識はあったようで、せっかくだからと外に連れ出された。観光地なのだろう、街は活気に溢れていて歩くだけでも十分楽しかった。隣にルシファーがいるのにミッションでなくただの休暇と言うのは、一般人みたいでおかしな感じだ。そんな風に「普通」を満喫している中でこんなことが起こるなど想像もしていなかったわけで、あの時ああしていたら、なんてことを思ってももう遅い。
ちょっとお土産の会計にもたついている間に店先がキャイキャイと黄色い声で騒がしくなっていた。嫌な予感がして、お会計が終わると同時に店の外に出ると、思った通り。キャピキャピした女性グループに囲まれていたのはルシファーで、露出度の高い服を纏う女性に腕を絡め取られて困った表情をしていた。ルシファーなら振り払うなど簡単だろうがそれをしないのは相手が一般人も一般人だからだろう。それだけだったらそれで済んだのだけれど、如何せん、その後の一瞬だ。私を絶望の淵に追いやったのは。
「おにーさん、かっこいいからチュー写メ撮らせて!」
「は、」
パシャ。
スマホのシャッター音が聞こえたと同時、ルシファーの腕に引っ付いていた一人の女性が背伸びをし、ルシファーの頬でチュッと音を立てたのだ。刹那、私の耳からは全ての音が消え、ルシファーの瞳がこちらを捉えたときには旅館へと走り出していた。
「待て!」
私を呼び止める声がした気もするけれど、その時は走ることで精一杯で振り返ることなんてできやしなかった。なにせ私は走るのが苦手なのだ。ルシファーが本気で追いかけてきたらものの数秒で捕まるだろう。できるだけ早くと人混みを選んで駆け抜ける。私はぐんぐん進めても彼は肩幅もあるからなかなか進んで来れないだろうと踏んでの作戦だ。
思惑通り。私のスピードについて来れなくなったのか、背後にルシファーの気配は無くなってほっと一息。少し足を緩めて、旅館の入り口ではなく離れへ直接繋がっているという小道へと歩を進めた。
「ふぁ……」
行きも思ったが、ここは街中とは大違いでとても静かだ。竹が生い茂り、その合間をキラキラと降り注ぐ陽が綺麗で、そよそよ髪を抜けていく風が気持ち良い。足を止め、目を閉じればサワサワと葉の擦れ合う音が心に沁みた。
「あんな事でいちいち乱されてちゃ、エージェント失格だ……」
今更ながらに逃げた自分を恥じた。何がドライな関係でいい、だ、と自嘲する。だってもうこんなに好きなのに。私だけを見てほしいのに。
デビルズに何も貢献できていないけど、もう辞めた方がいいのかもしれない。身の丈に合わなかったんだきっと。ミッションにも満足に出してもらえない、ノロマでトロくて役に立たない私なんて。そんなことを考えるとぐすんと鼻を啜りたい気持ちになって下を向く。カバンでは今しがた買ってもらったばかりのキーチェーンが揺れ、チリンと一つ可憐な音を鳴らした。
と、同時。ガサっと音がして道ではないところから突如人が現れて、唖然。
「っ、!?」
「ん? どこに出たんだ……近道じゃなかったのか?」
引っ込む涙と声。反対側を向いていた目が私の方にゆっくりと向き、視線がかちあう。キョトンとした表情があどけなく、しかし徐々に開かれた瞳が次の瞬間ゆるりと細まった。
「探した」
一言呟いて私の手を取ると、そのまま引き寄せられる。私はぽすりと彼の胸に収まった。
「一般人相手だとどうも調子が狂う。すまなかった。君にそんな顔をさせたかったわけじゃない」
「、っ、そんなって、」
どんな、と聞こうとすると、少し離れた彼は身をかがめ、口付けを落とす。
「ン、」
「んっ、んぅ、は、ルシ、ン……フ、!」
一度くっ付いた唇はちゅっちゅっ、と何度も何度も繰り返され、ついには唇の隙間から舌が入り込んでくる始末。私を慰めるように、宥めるように、ゆっくりと歯列をなぞって上顎を撫で、舌を絡めて愛撫する。しばらくキスが続いたせいで苦しくなって、胸の辺りに縋っていた手にギュゥっと力を込めたら、私の様子に気付いたルシファーはやっと私を解放した。
「、は、はぁっ、ン、はぁ」
「ふ、こんなことでへばるなんて、まだ教え足りないか」
「っ……これも、訓練、っ?」
「ん?」
「私、もう、……デビルズをやめたい……」
「は? 何を、」
「ミッションにも出してもらえないし、出たところで役にも立たない。ただいるだけの人間はエージェントの端くれでもない……使えないならもういいからっ、面倒みてくれなくて大丈夫だからっ……」
勢いのままに考えていたことを口に出すと端正な眉が訝しげに潜められて、それから少し間があいたあと、はぁ……と深い溜息が吐き出される。やっぱり私はお役御免になるんだろうと次の言葉をビクビクしながら待ったが、聞こえてきたセリフはそれとは異なるものだった。
「計画倒れにも程がある」
「……?」
「抱いてるだけじゃダメだと、お小言を言われてな」
「へ……誰に?」
「…………知人だ」
「知人?」
「だから、そいつの言う普通になぞらえたかったんだが……俺は普通がよくわからない」
あれはちょっとした事故だったと言いながらバツの悪そうな顔をしてふぃと逸された目。少しだけ染まった頬が愛おしい。もしかしなくても、これは。私が勘違いしていただけなのではないか。過度な期待は良くないが、確かめてみる価値はある。そう思って、私の頬を固定していた彼の手に手を重ねて、問う。
「ルシファー、一つ教えて」
「なんだ」
「今まで訓練と言っていたあれこれは私を呼びつける口実だった?」
「……」
「私を抱くのは、どうして?」
「それは、」
「私のこと……すき?」
「好きじゃない」
はっきりと口に出された言葉は、私の心臓を抉った。どういう意図があれ、好意の上にあった行為でないなら、この先の話は聞く必要もない。悲しいけど、そういうことだったのだ。もしかしたら性欲を持て余しただけなのかもしれない。私だけが好きで、私だけが善がっていたのだと込み上げるものがあるが、今その感情を表に出してはいけないと必死で耐える。
「……そっか、ごめんね」
「いや、俺は」
「かんちがいだったみたい。全部忘れ、」
「愛してる」
「、え」
「俺は君を愛してる」
スッと私を見つめた紅は、私の視線を真正面から受け止め、きらりと揺れた。どこかすっきりとした顔でふわりと笑ったルシファーは、私にもう一度触れるだけのキスを落とすと、こう続ける。
「そうか、なるほど。こう言えばよかったのか。俺は、君を愛しているから抱きたい」
「あ、ぇ、」
「訓練じゃない。愛情だ。もう何度も伝えたつもりだったが、思い込みではいけないからな」
指でなぞられた唇が震えているのが自分でわかる。ルシファーはそんな私をクツリクツリと笑いながら見つめ、「君は?」と問いかけた。彼の目には私しか映っていない。
「その表情を見れば、俺の推測に誤りはないだろうが……俺も君の口から気持ちを聞きたいと言うのはわがままかな」
きゅうっと締め付けられたのは胸の奥の中心。はぐらかすなんてできるはずもなかった。たった二文字の言葉が音になったと同時、それはぱくりと飲み込まれた。