◆Dead Drop

【第二話】

 オファーを受けてからほんの数日後。
 指定された日時。指定された場所に向かったアプリーリスは、本当にこんなところからお邪魔するのか? と崖を見上げていた。実のところ、アプリーリスの家も森の奥深くにあるので、ちょっとやそっとのことでは驚かない自信はあったのだが、それが何だと言わん様子のここ。言われた通りの道を通ってきたはずだったが、その道すがらもトラップがいくつも存在しており、とてもじゃないが歓迎されているとは言い難かった。
「なんなのよっ! 私じゃなかったら入り口まで辿り着けないわよ!?」
 キィッ! と声を荒げたアプリーリスが壁面を回り切ったところで進む先に人影があるのが見えて咄嗟に身を隠した。
(誰!? デビルズは男所帯って噂だったけど、今の、女……)
 噂は噂、とはいえ自分が持っていた情報との齟齬にアプリーリスが少し戸惑うその間に、人影はあろうことか彼女に向けて言葉を投げかけてきた。
「あなた、こちらにいらっしゃるということは、新人さんかしら」
 それは鈴が鳴るような可愛らしい声。でも、アプリーリスは伊達にエージェントをしているわけではない。その端々に不審な点を感じながら返事をした。
「女装が上手いのね! モーニングスターが言ってた、女装ができる唯一のエージェント?」
「おや。わたくしの変装もまだまだですね」
 そう言うと同時、瞬時に解かれた変装に内心でやるじゃないと称賛を送りつつ顔を覗かせると、そこにもう美女の姿はなく、代わりに緑色の髪に温厚な表情をたたえた一人の青年が立っていた。
「あなた……ここにいるってことは、」
「ええ。デビルズにお世話になっております」
 会話の間にも一瞬の隙も見せないその男に、にこにこと微笑み返すアプリーリスは、ここは不必要な手出しは無用だ、素直に中に入れてもらおう、と腹を括った。
「わたし、モーニングスターにここに呼ばれたんだけど、中に入れてもらえる?」
「すみません、わたくしにそのような権限はございませんので、どうかお許しを」
「あらそうなの? 困ったわね……」
「ですが、あなたのように可愛らしいレディーを一人、ここにこのまま置いていくのはわたくしのポリシーに反しますので……そうですね。少しお待ちください」
 その紳士的な物言いにポカンとなって、すぐに「この人、今わたしのことレディーって言った?」と言われたこともないような一言を思い出し、アプリーリスの脳はぐわんと揺れた。言葉の意味を理解した途端、ぽぽぽと染まった頬を一瞥して微笑む表情に囚われたなんて、口が裂けても言えない。そもそも彼の顔はアプリーリスのタイプそのものだったのも内緒だ。
「シャドウ、聞こえますか。カイロプタラです。ただいま戻りました」
 数秒としないうちに、どこからともなくプ・プ・プ・ピーと機械音が鳴る。
『照合完了。カイロプタラ、お帰り。今開け……っと、待って。そこに誰かいるよね?』
「ええ。わたくしもつい今しがた出会ったところなのですが、どうやらモーニングスターに呼ばれたようです。彼はそこにいらっしゃいますか」
『ルシ……じゃなかった。モーニングスターね。すぐ呼ぶ』
 プツ、と通信が途絶える音がして数秒。すぐにまた音が入り、シャドウと呼ばれた人物の声がした。
『モニター見せた。ここまで無事に来れたなら合格。連れてきていいって。カイロプタラ、よろしく』
「承知いたしました」
 言うが早いか、ガコンと音がすると、崖の壁面一部がへこみ、ポッカリと現れたのはこの場所に似合わない豪奢な扉。それを優雅な所作で開けると、カイロプタラは少し腰を折って「どうぞ」とアプリーリスをエスコートした。
「あら」
「……と、思いましたが、この場合はわたくしが先に入るほうが良いでしょうね。なんと言ってもデビルズのアジト。何もないことをわたくしが示しながら歩かなくては」
 そう宣言してニコリと一つ微笑みを。アプリーリスは少し頬を染めて、ありがとう、と返事をした。そうして二人、扉の中に入ればバタンと扉は閉まり、また大きな音が鳴ったところを見ると、恐らく外は崖の壁面に戻されたのだろう。それと同時、壁にポワッとオレンジ色の明かりが灯った。
「ここ、」
「裏口、ですね。デビルズに関わりがあるものはこちらから。一般のお客様は表から。そういうことです。わたくしの時も試験がてらこうして力量を測られました」
「そうなのね。えっと、カイロプタラって呼べばいい?」
「聴いておられましたか」
「まぁ。職業柄ってやつよ」
「改めまして。わたくし、コードネームをカイロプタラ。名をバルバトスと申します。あなたはアプリーリスですね」
「!」
「驚くことはありません。わたくしもエージェントの端くれですので」
「そっちじゃなくって! 名前、」
「ああ、そちらですか。すぐにまた自己紹介がありますよ。モーニングスターが直々にオファーに行ったのです。付き合いは長くなるでしょう」
 そこまで言うと立ち止まって、カイロプタラ、もといバルバトスは徐に手を差し出した。
「よろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ」
 名前を知っていた理由は何一つわからないままではあったがその手を握り返し、二人は固い握手を交わす。と、そこでまた指紋認証システムを解除し、現れたエレベーターに乗り込む。その先にやっと「ミーティングルーム」と書かれた部屋の扉が視界に映った。
「わかりやすいわね……」
「ここまで来られるのであれば内部の者と認めて差し支えないのでしょう。失礼します」
 アプリーリスが心の準備をする間も無くノックされた扉の先から「入ってこい」と威圧的な声がした。そうして開いた向こう側には、モーニングスター並びに、おそらくデビルズの一味であろう七人がいた。
「よくここまで来た。アプリーリス、デビルズのアジトへようこそ。俺たちは君を歓迎する」
「どの口が言うのよ!」
「この口だが?」
「そういうこと言ってんじゃないわよ! ど こ が 歓迎ムードなのか教えていただけますかって聞いてるの! カイロプタラがいなかったらどうなってたか!」
「そうか。カイロプタラが連れてきたんだったな」
「いえ。わたくしは入口を開いただけのこと。その他は彼女がお一人で」
 ね、とカイロプタラがアプリーリスに同意を求める。それを頷くことで肯定し、アプリーリスは続けた。
「あんたが私のことをどこまで知ってるのかはわからないけど、こっちも伊達にエージェントしてないのよ。頼まれたことをほっぽってトンズラなんてしない。だけどね、呼び出しておいてアジトの中に入れないのはちょっとどうかと思うわけ」
「信頼に値するか試すのは当然のことだろう。おまえの働きには期待しているが、それとこれとは話が別だ」
「期待ってねぇ……」
 見た目通りの高圧的な声でアプリーリスの言葉を遮って、モーニングスターが合図する。
「さぁ、こちらのメンバーの紹介だ。右からいこう。マモン」
「あー俺はマモンだ。ド新人が入ることがあったら俺が面倒見ることになってるけど、見たとこ、おまえは経験者みたいだから俺の手が必要なこたぁねーな」
「え……ってかルシファー、紹介ってコードネームじゃなくていいの?」
「問題ない。こいつとは長い付き合いになるからな」
「は? そんなこと聞いてな」
「なるほどね……んじゃあ次は僕ね。レヴィアタン。主にハッキングとか強固なシステム解除とかそのあたりを担当してる。現場に行くことはあんまりない。コードネームも一応言っとくと、シャドウっていうよ。よろしく」
「次は俺だな。サタンだ。情報収集系は俺の仕事と思ってもらっていい。足手まといにはならないでくれよ」
「はいはーい! それじゃ次は僕! 僕はアスモデウス。気軽にアスモちゃんって呼んでね! 女装を含めた変装は僕の十八番だよ。コードネームはアウラ。美しさで輝いてる僕にピッタリでしょ♪」
「俺はベルゼブブ。主に力仕事係をしてる」
「ぼく、ベルフェゴール。潜入捜査は割と得意。よろしくね。あ、コードネームはスリーパーだよ」
「最後は私だね。ディアボロだ。バルバトスと同じ時期にデビルズに入ったんだ。ここではまだ新人なんだが、シャドウのもとで勉強中で、今は主に動画の解析などを担っている」
 一思いに七人に名前を言われてこんがらがりそうになる脳内をなんなく整理し、顔と名前を一致させたアプリーリスは、最後にモーニングスターに視線を戻した。
「そして俺がこのデビルズの総まとめ役のモーニングスターことルシファーだ」
「ふーん。明けの明星か。……どれも長いのね」
「は?」
「決めた。私、あなたのことはボスって呼ぶわ」
「いや、だから」
「ボースボスボスボスボ、」
 ゴチン!
 少しの憎しみをこめて二文字を連呼したアプリーリスの頭に鉄槌が下されるのに時間はかからなかった。
「いったぁ〜いっ! 信じらんない! いたいけな乙女になんてことするのよ!」
「黙れ。余計なことをするな。紹介も済んだ。早速ミッションの話に移るが」
「早くない!?」
「おまえには会員制のナイトクラブに潜入し、とある奴から」
「待って? 会員制のナイトクラブぅ!? いつの時代の話よそれ! ていうかあの時はパーティーって言ってなかった!?」
「金持ちの間ではまだまだ顕在だ。それにこれもパーティーの一種で間違いない。おまえはまず第一フェーズとしてそこに潜り込み、必要な情報を集めてこい」
「……第一フェーズってなに」
「第一フェーズは第一フェーズだ」
「つまりルシファーが言いたいのは、このミッションは段階を踏んで進むということです」
「……わたしがもらったほうしゅうは」
「全てのミッション分含まれる」
「って、こと、は……」
「このミッション中はよろしく頼むぞ、アプリーリス」
 バルバトスとは正反対の嫌味な笑顔を浮かべたルシファーがアプリーリスに打撃を与えたところでお開きが言い渡され、このミッションに関わりのないものは皆、ばらばらと部屋を後にした。そして残ったのは、バルバトスとルシファーのみ。ぽかんとしながらアプリーリスは部屋を今一度見渡した。
「え……? たった二人?」
「そうだ。おまえたちはペアでナイトクラブに潜り込め。そして情報を掴んでくること。後ほど詳細な資料を渡す。近くのホテルに部屋を確保済みだ。資料以上の情報が欲しいならレヴィかサタンに直接聞いてくれ。以上」
「かしこまりました」
 二人のやり取りを見たアプリーリスは、発狂しそうになる自分をなんとか抑える。
 私もエージェントの端くれ、こんなことで慌てるなんてらしくないと、腹を括って踏ん反り返った。
「っもう! わかったわよ! 乗り掛かった舟だから最後まできっちり対応して、ささっとおさらばするわよっ!」
「よろしくお願いいたします、アプリーリス」
「ええ、こちらこそよろしくね! カイロプタラ」
 かくしてミッション第一フェーズが幕を開けるのであった。が。
「とはいったものの。この指示書、適当すぎない!?」
「そうですか? いつもこの程度ですよ」
 アプリーリスが見つめるのは、先刻渡されたばかりの指示書。それを見て愕然としたのも致し方なかった。ターゲットの顔と名前、それからミッション先の住所が載っているだけの一枚のぺら紙。手渡すほどの資料でもなく、アプリーリスは頬を膨らませてずっと文句を言っている。ミーティングルームの机にはどこから持ってきたのか大量のお菓子が並べられていた。
「まずは甘いものでも召し上がりませんか? せっかくの初対面なのです、できればもう少し打ち解けたいと思っておリます」
「……」
「安心してください。自分の作ったものに毒を入れる趣味はございません」
「別にそんなことっ……って、作った? あなたが? これ全部?」
「ええ。わたくしはデビルズに入る前、先ほど紹介のあったディアボロ……当時はとある会社の副社長でしたが、その秘書を務めておりまして、そこでさまざまなスキルを」
「待って待って、秘書とお菓子作りに関連なくない?」
「お茶の準備からスケジュール管理まで幅広くわたくしが対応しておりましたから」
「なるほど……? スーパー秘書だったってわけ。でもそんなあなたがどうしてエージェントなんて?」
「わたくしたちはある事件をきっかけにデビルズの存在を認知したのですが副社長がどうしてもデビルズにアポを取りたいと申されまして。わたくしとしては副社長のお傍から離れるわけにもまいりませんし。とは言ってもいつかは独り立ちされるお方ですから、今はこうして別行動をすることも増えましたが」
 『へぇ……』と応答しつつ、お菓子に手を伸ばしたアプリーリス。彼女は出自が出自なのであらゆる毒や薬物に耐性があったし、盛られたとしてもある程度はどんな効き目があるのか、どう対処すべきかがわかっている。そのため始めから出されたものに対してはさほど警戒していなかったのだが、口に入れた瞬間、別の意味で唸らされた。
「……っ美味しい!!」
「嬉しい反応をいただけて光栄です」
「んぐんぐ……っ本当に! アルケドの作ったスイーツに引けを取らないわよ!」
「……それはどなたのことでしょうか」
「知らないの? アングラ仕事の斡旋所、Seabedのマスター。ボスが来るくらいだからてっきり知ってるのかとおもっ!?」
 そこまで口にしてしまってから「しまった」と思ってももう遅かった。すでにカイロプタラの顔には暗い影が差しており、先程の柔和な微笑みのカケラすら見当たらない。ふふっと笑ってはいるものの全然笑えていないのだ。
「あ、その、」
「ぜひ、お会いしたいものです」
「え、っと……そ、そうね……お菓子作りとか、こ、紅茶にもこだわりあるみたいで、」
「紅茶にも造詣が深いのですか?」
「ひっ……!? た、しか、そ、そう、あは……あはは……趣味が、あう、の、かしらね」
「ええとても。ですからお話ししてみたいものです」
 うふふ、あははとの暫くのやりとりの間、今後こういう話題は振らないようにと肝に銘じながら、アプリーリスはなんとか話題の方向転換を試みる。
「あのっ、」
「はい、なんでしょう」
「このターゲット、パーティーに客としてくるのよね?」
「ええ、そうだと思います。今回は特に潜入用の従業員IDもないようなので、わたくしたちもゲストを装って入ることになるかと」
「ふぅん? だから二人ペアでってことなのね」
 もぐもぐと口を動かしながら、アプリーリスは天井を見上げた。
「あれ? でも私、この案件に誘われたとき『あと一人女が必要』って言われたのよね。女装が得意な人ってカイロプタラのこと?」
「いいえ、わたくしは特にそのような認識を持たれてはおりません。それは恐らくアスモデウスのことではないでしょうか」
「そうなの? だとすると話がおかしいわ。この案件に新メンバーの女性はいらないじゃない」
「なぜです?」
「やだ、だってあなたの女装も完璧だったから。気づいてなかったの?」
「アプリーリスは一目でわたくしが男と見破ったでしょう」
「私はね。長年こういう仕事してるもの。けど普通の人からしたら女性にしか見えなかったと思うし」
 一体どういうことなのかしら……とぶつぶつ考えているアプリーリスの姿を見たカイロプタラが、今度こそにこやかに笑った。
「ふふっ……! アプリーリスは思考が飛びがちですか?」
「なっ!?」
「おそらく女装云々の話は口から出まかせでしょう。ルシファーが近々大きな案件が来るかもと匂わせていたので、その前段階の力量試しではないですか? それから、わたくしたちの相性がよさそうだったからお誘いがいったのかもしれませんね」
 くすくすと肩を震わせながらもミッションの詳細ですがと話を戻すカイロプタラは、有能秘書の片鱗を残していると言っても過言ではなさそうだ。こうして二人は打ち合わせという名の顔合わせお茶会を済ませた。が、しかし問題はそこからだった。片付けを終えてミーティングルームを後にしたアプリーリスが家に帰ると言って聞かず揉めているのが今である。
「だーかーらー! そんなに時間かからないから大丈夫なのよ!」
「明日、朝から共に出かける方が効率的だと申し上げております」
「効率も非効率も、私は自分の家でしか眠れないの! そういうふうに育てられたから無理!」
「ではわたくしがあなたの家に参ります」
「あーもー! 頭が堅いわね!」
「当然のことを申し上げているまでです」
「ぐぬ……」
「異論はもうないですね」
 聞いての通り、自宅へ帰るか帰らないか論争をしていたわけだが、あまりに意見を曲げないカイロプタラにアプリーリスが折れたところで、ではこちらへ、と指された通りに歩き出す。アプリーリスは、ここではきっとカイロプタラの言うことは絶対なのだと肩を落としたのだった。
「でもね、」
「まだなにか?」
「そんな訝しげにしないで、もう逆らったりしないから! このアジト、ゲストルームでもあるの? 昨日の今日でここまで呼ばれて、私用の部屋なんて」
「もちろん用意があります。と言っても、つい最近整えたばかりなのですが」
 カイロプタラが先に言った通り、このアジトは自分たちが入ってきた裏口側と、表から見た屋敷側とで半分に分かれている。しかし表側は普段誰も入るものがいないため、荒れ放題だったのだとか。それをカイロプタラたちがデビルズの一員になったときに誰がきても恥ずかしくないよう清掃して整えたそうだ。
「えっ……デビルズってズボラなのかしら」
「いえ、どうも持ち回りで清掃などをしていたらしいのですが、ここ最近皆出ずっぱりでその余裕がなかったそうで。わたくしたちはここでは下っ端の新人扱いですから」
「あなたレベルで新人だったらこの業界、ほとんど全員赤子のようなものだわ」
「ふふ、それはお褒めの言葉として受け取っておきましょう」
「デビルズ自体に信用がおけるかはまだよくわからないけど、ここに来てから今まであなたのこと見ていて、話してみて、あなたなら信用できると思った」
「それはなぜでしょうか」
「あなた、躊躇いがないもの。仕事には一番いらないものよ。躊躇したが最後、一瞬で全てダメになる。私はそんなエージェントを相方になんてしない。だからあなたとならミッションに出てもいいと思った。そんなところ」
「たった三時間程度で随分と分析されてしまったのですね、わたくしは」
「まだ底は見えないけれどね。プロ同士、ってそういうものでしょ」
「そうですね。正直、腹の探り合いというものは楽しいです」
 それをしていることを隠しもせずに小首を傾げるカイロプタラには、さすがのアプリーリスも苦笑いするしかなかった。
 こうしてアジトの夜は更けて行く。
 この出会いは必然か、それとも偶然か。それはまだまだ、わからない。
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