◆一番星に口付けを
「はぁ……やっぱり作る時間なかったなぁ」
自室でかくんと首を落としたのは他ならぬハーベスト、否、今はステージを降りたので春居か、である。人間界出身のアイドルともなれば、魔界の色々なバレンタイン番組に引っ張りだこになるのも仕方ない。実際アイドルがこの時期に自分の時間を取るなんて、土台無理な話ではあるのだが、地下アイドルをしていたころは来てくれる少しのお客さんにチョコレートを渡してお見送りするのが常だったので、なんだか物足りないものだ。
「今だったらお給料もあるから美味しいの買えたかもしれないのに……」
昨今の、というか、魔界のチョコレートの相場は知らないが、一つくらいは買えただろうと思う。でも一人で出歩くことも許されていなければ、マネージャーの目が外れることもないのだから、結局無理だったのかもしれないが。
「あっ!わかった!それなら今から作ればいいのよぉ!」
消灯時間はとっくに過ぎた。だからこそ、災害用の小さな懐中電灯を手に取って、そろりそろりと部屋の戸を開ける。キョロ、キョロ、と暗い廊下を見渡しても誰もいない。普段なら、こんなことをしようものならマネージャーが立ち塞がるのに。少し不思議に思うも、都合がいいのでそれ以上考えることなく部屋を抜け出した。
キシ、キシ、と小さく軋む廊下をなるべく静かに歩く。近いはずのキッチンが遠く感じる。冷蔵庫の中にはこの間残したパンケーキミックスが残っていたはず。それに部屋から持ち出したチョコレートを砕いて入れて、それで……と、考えていたのだけれど、目的の部屋に近づくにつれてサァァと血の気が引き、それどころではなくなった。
「だ、だれか、いるっ……!?」
キッチンから薄く、光が漏れている。この宿舎のセキュリティは完璧なはず。それなのに侵入者がいるとはなにごとか。どうしよう、マネージャーを起こしに行くべきだろうか。でもそんなことしていたら背後を取られるかもしれない。見つかったとして、走って逃げられるかな。いやむりだ。そういう方面の体力はないのだ。
なぜかわからないが、春居はそこでコマンド『逃げる』を選択せず『戦う』を選んだ。手にした武器は小さな懐中電灯のみだというのに。
いち、に、さん。
ちょうど三歩進んだら、そこはキッチンの前。すぅーはぁーと深呼吸を一つして、バン!と扉を開け放ち、懐中電灯の光で相手を追い詰めて……!
「逮捕しましゅっ!きゃん!かんだっ!」
「っ!!」
決め台詞を噛み噛みしつつ言い放った先にいたのは、笑いを噛み殺しながら鉄板を擡げるバルバトスだった。
「ふふ、やはり起きてしまいましたか」
「な、えっ?」
「おや、香りにつられたのではないのですか?」
言われてみれば、甘い匂いが部屋中を漂っている。今まで何も感じなかったのは緊張のせいで嗅覚が機能していなかったからのようだ。
「今、焼けたところです。本当は明日の朝食で出そうと思っていたのですが、せっかくなので焼き立てをいただきましょうか」
「えっと、あの、これっ、」
「ええ、遅くなってしまいましたが、日頃のがんばりをたたえて、ハッピーバレンタインですよ」
春居の常識ではバレンタインとは女性から男性にチョコレートを贈る日なのだが、広い世界ではこんな形もあるのかもしれない。
ぽかんと立ち尽くす春居に、甘いものはあなたの好物でしたよね?と言いながら灯りをつけてダイニングへの着席を促したバルバトス。あわあわとするも、春居はなんとか言うべきセリフを絞り出した。
「バルバトスさんっ!いつもありがとうございます!ほんとは、わたしもチョコを作りにきたんですけどっ、あの、」
「ふふ、あなたのその気持ちは、毎日毎日伝えてもらっています。わたくしの心の中にきちんとしまってありますから、大丈夫ですよ」
「でもっ!」
「ではこうしましょう」
出来立てのチョコレートシフォンケーキを切り分けて春居の前に置くと、次はポットから紅茶が注がれた。どうやらそれは抽出済みのロイヤルミルクティーらしく、二つが合わさって大変美味なハーモニーを生み出して、春居の鼻腔をくすぐる。
「ホワイトデーにはあなたがわたくしにお菓子を作ってくれせんか」
「!」
「デビラで配信もしましょう。そうすれば皆で楽しめるでしょう」
それならお互いさまですよね、ファンダムも盛り上がるでしょうし、と笑ったバルバトスだが、それが意図する真意は、「わたくしだけがあなたの作るお菓子を口にできる。みなは見ているだけです」だったとも知らず。
春居の顔はパァと一気に明るくなった。
「それなら、はいっ!そうします!」
「ええ、楽しみにしています。ですから今は、冷めないうちに」
「わぁい!いただきますっ!バルバトスさんの作るもの、わたし、だぁいすきですっ!」
「こんな時間に食べられるのは特別な日だけですから。存分に味わってくださいね」
二人だけの甘い時間は、ゆるりゆるりと、更けていく。
あまいものがからだをめぐっていく。
なんというつみづくり。
あなたはもう。わたくしからにげられない。
自室でかくんと首を落としたのは他ならぬハーベスト、否、今はステージを降りたので春居か、である。人間界出身のアイドルともなれば、魔界の色々なバレンタイン番組に引っ張りだこになるのも仕方ない。実際アイドルがこの時期に自分の時間を取るなんて、土台無理な話ではあるのだが、地下アイドルをしていたころは来てくれる少しのお客さんにチョコレートを渡してお見送りするのが常だったので、なんだか物足りないものだ。
「今だったらお給料もあるから美味しいの買えたかもしれないのに……」
昨今の、というか、魔界のチョコレートの相場は知らないが、一つくらいは買えただろうと思う。でも一人で出歩くことも許されていなければ、マネージャーの目が外れることもないのだから、結局無理だったのかもしれないが。
「あっ!わかった!それなら今から作ればいいのよぉ!」
消灯時間はとっくに過ぎた。だからこそ、災害用の小さな懐中電灯を手に取って、そろりそろりと部屋の戸を開ける。キョロ、キョロ、と暗い廊下を見渡しても誰もいない。普段なら、こんなことをしようものならマネージャーが立ち塞がるのに。少し不思議に思うも、都合がいいのでそれ以上考えることなく部屋を抜け出した。
キシ、キシ、と小さく軋む廊下をなるべく静かに歩く。近いはずのキッチンが遠く感じる。冷蔵庫の中にはこの間残したパンケーキミックスが残っていたはず。それに部屋から持ち出したチョコレートを砕いて入れて、それで……と、考えていたのだけれど、目的の部屋に近づくにつれてサァァと血の気が引き、それどころではなくなった。
「だ、だれか、いるっ……!?」
キッチンから薄く、光が漏れている。この宿舎のセキュリティは完璧なはず。それなのに侵入者がいるとはなにごとか。どうしよう、マネージャーを起こしに行くべきだろうか。でもそんなことしていたら背後を取られるかもしれない。見つかったとして、走って逃げられるかな。いやむりだ。そういう方面の体力はないのだ。
なぜかわからないが、春居はそこでコマンド『逃げる』を選択せず『戦う』を選んだ。手にした武器は小さな懐中電灯のみだというのに。
いち、に、さん。
ちょうど三歩進んだら、そこはキッチンの前。すぅーはぁーと深呼吸を一つして、バン!と扉を開け放ち、懐中電灯の光で相手を追い詰めて……!
「逮捕しましゅっ!きゃん!かんだっ!」
「っ!!」
決め台詞を噛み噛みしつつ言い放った先にいたのは、笑いを噛み殺しながら鉄板を擡げるバルバトスだった。
「ふふ、やはり起きてしまいましたか」
「な、えっ?」
「おや、香りにつられたのではないのですか?」
言われてみれば、甘い匂いが部屋中を漂っている。今まで何も感じなかったのは緊張のせいで嗅覚が機能していなかったからのようだ。
「今、焼けたところです。本当は明日の朝食で出そうと思っていたのですが、せっかくなので焼き立てをいただきましょうか」
「えっと、あの、これっ、」
「ええ、遅くなってしまいましたが、日頃のがんばりをたたえて、ハッピーバレンタインですよ」
春居の常識ではバレンタインとは女性から男性にチョコレートを贈る日なのだが、広い世界ではこんな形もあるのかもしれない。
ぽかんと立ち尽くす春居に、甘いものはあなたの好物でしたよね?と言いながら灯りをつけてダイニングへの着席を促したバルバトス。あわあわとするも、春居はなんとか言うべきセリフを絞り出した。
「バルバトスさんっ!いつもありがとうございます!ほんとは、わたしもチョコを作りにきたんですけどっ、あの、」
「ふふ、あなたのその気持ちは、毎日毎日伝えてもらっています。わたくしの心の中にきちんとしまってありますから、大丈夫ですよ」
「でもっ!」
「ではこうしましょう」
出来立てのチョコレートシフォンケーキを切り分けて春居の前に置くと、次はポットから紅茶が注がれた。どうやらそれは抽出済みのロイヤルミルクティーらしく、二つが合わさって大変美味なハーモニーを生み出して、春居の鼻腔をくすぐる。
「ホワイトデーにはあなたがわたくしにお菓子を作ってくれせんか」
「!」
「デビラで配信もしましょう。そうすれば皆で楽しめるでしょう」
それならお互いさまですよね、ファンダムも盛り上がるでしょうし、と笑ったバルバトスだが、それが意図する真意は、「わたくしだけがあなたの作るお菓子を口にできる。みなは見ているだけです」だったとも知らず。
春居の顔はパァと一気に明るくなった。
「それなら、はいっ!そうします!」
「ええ、楽しみにしています。ですから今は、冷めないうちに」
「わぁい!いただきますっ!バルバトスさんの作るもの、わたし、だぁいすきですっ!」
「こんな時間に食べられるのは特別な日だけですから。存分に味わってくださいね」
二人だけの甘い時間は、ゆるりゆるりと、更けていく。
あまいものがからだをめぐっていく。
なんというつみづくり。
あなたはもう。わたくしからにげられない。